ストローベリーマリアージュ

植物奇譚(第2話)

望月鬼灯

小説

11,014文字

私の居場所ってどこの何なの。22歳の椿は今日も思い悩む……。織田作之助青春賞四次落選作。

「なにしてんの」

飲み会から帰ってきた椿は、座ってちまちま手を動かしてる早希の背中に声をかけた。
「おかえり。楽しかった?」

振り向いた早希の手には、輪になったワイヤーのようなものが握られていた。
「うん……てかなにそれ、首吊りするん?」

早希は首をぶんぶんと横に振った。顎のところで切り揃えた髪がふわっと揺れる。
「花冠作ってるの」

花冠て。椿は着ていた黒のレザージャケットをハンガーにかけ早希に続きを促した。
「そう、花冠。わかる?」
「わかる。でもなんで急にそんなもんを」

椿は早希の方を見ずに脱衣所に向かう。その背中に向かって早希はゆっくりと歩み寄りながら言葉を続けていく。
「いとこが結婚するの」

そうなん、と言って椿は服を脱ぎ終わりシャワーを浴びる。また脱ぎっぱなしにして、なんて小言が扉の向こう側から椿の耳には聞こえた気がしていたが、いつものことなので彼女は気にしなかった。

化粧をクレンジングは使わずに石鹸で手早く落とし、そのまま髪をシャンプーで泡立てて素早く洗い、身体も軽く洗ったあとにお湯で流した。椿はいつも家を出る前にちゃんと入浴するようにしていたので、夜にシャワーを浴びるときは軽くすませていた。

水滴のついた長い髪を軽く絞ったあと浴室を出た椿に、早希がタオルを手渡してくる。それを受け取りながら椿は、ありがとう、と返事をして身体を拭き始めた。
「いとこって、どういう繋がりなん?」
「えっとね、父の弟の娘ってかんじかな。妹みたいな子だよ」

ふーん、と返事をして椿は髪についている水を濡れたタオルで軽く払う。
「小さい時からずっと、約束してたんだ」

そう言いながら早希は左手を伸ばして椿の裸の胸を揉み始めた。
「約束ってなにを」
「結婚するときに花冠作ってあげるって」

なんかいいなそれ、と自分の下に妹も弟もいない椿はそう思いながら、湿りきったタオルを洗濯機に入れる。
「やっぱいつ揉んでもデカい乳だなあ」
「それシリコンやけどな」

早希はふふっ、と笑って手を放し、脱衣所を出て行った。

椿が寝巻きを着て新しいタオルで髪を巻いたあと、リビングでは早希がワイヤーをくるくると回して弄んでいた。
「そういうのって、どうやって作んの?」
「まずワイヤーで型を作るでしょ。で、切った造花を巻きつけて、最後にテープで補強っていうかぐるぐる巻きにする感じかな」

差し出されたスマホの画面を眺めながら椿は、自分の恋人はかなりの不器用で手芸になんてとても向いてないという二人の間に共有された事実にようやく思い至った。
「材料とかどこで買うん?」
「なんかそういうショップで」

仕事帰りに買ってきたの、と言って紙袋をかかげ、中に入った苺の造花を見せながら早希が笑った。大きな瞳が細くなる。

苺の花冠だよ、かわいいでしょ。なんて言いながら子どものように無邪気に笑う歳上の恋人の顔を眺め、失敗したら私が代わりに作ろう、と椿は思った。

 

 

 

四階建ての校舎の教室で椿はあくびをしながら五限目の授業を受けていた。椿は大学の二回生だ。だが年齢的には四回生の代にあたる。椿はお金を稼ぐため二年間休学していたのだ。一回生を優秀な成績で終えたあと、椿は家族と壮絶な喧嘩の末に絶縁をして、大学を休学したあとニューハーフヘルスの寮に潜り込んだ。アイドルのなんとかに似てふわふわしてお嬢様っぽいし可愛い、と言う太い客(丸々としたお腹で髭を生やした色黒の中年で、名前を堀川といった)が現れ、結果として約一年半の勤務で大金を稼ぎ、性別変更手術と豊胸をして、色々あって早希という歳上の恋人が出来てそこに転がり込んでいる。

椿は北欧諸国の言語の授業を受けていた。単位取得が大変容易なことで有名な授業で、出席している学生の九割は携帯を触るか寝ているか友達と話していた。教授もそんなことは承知で、残りの話をきいている一割の学生にだけ解説をしていた。
椿は昨日の夜の早希との会話を思い出し、苺の花冠、と検索してみた。

ブラウザはすぐに幾つかのサイトを提示する。一番上のハンドメイドと謳うものは、栗色のウイッグをつけたマネキンの頭の上に、白く可愛らしい花と大粒の苺の実が輪を形作っている。かわいいな、と思ったのと同時に椿は結婚という言葉を反芻し、すぐに違うサイトを見始めた。

携帯をいじくり倒すのにも結局飽きて、椿は窓の外を眺める。陽が傾いて黒と緋色が混ざり合った晩秋の空は、葉を落とした細い木々の様子とも相まって、椿に異国情緒を感じさせるには十分だった。北欧ってどんな感じのところなんだろ、行ってみたいな、そんなことを椿が考えているうちに、講義が終わった。その日の授業はスウェーデン語に関してだったが、彼女はなにも話を聞いていなかった。この講義は最後から二番目の回に試験のネタバレと解き方を教えてくれるのである。

地下鉄と私鉄を乗り継いで早希の家に帰る前に、椿は学内の喫煙所へ煙草を吸いに向かった。トレンチコートを着ていても少し肌寒い。たむろする学生たちも心もち寒そうにしているのを眺めながら、椿は青いジッポーでアークロイヤルに火をつける。

早希の従妹ってどんな人なんだろ、てかサイズとか大丈夫なのかな、と考えつつ電子画面に映る可愛らしい花冠を改めて見つめていると、椿は突然、昔の友人であった松宮芽衣子のことを思い出した。芽衣子は富山出身の短大生で、椿がかつてバイトしていた居酒屋の同僚だった。芽衣子は掛け持ちでキャバ嬢もやっていた。椿のバイト先は皆仲が良く、一緒に遊びに行ったりしていたが、椿と芽衣子はそれ中でも仲が良い方だった。彼氏と別れて突然地元の元カレとデキ婚したあと、今一体どうしているか知らない。同じ時期にバイトを辞めたきり連絡が途絶えてしまった。

幸せでいてくれたらいいな、芽衣子は冠似合いそう、と感慨に耽りつつ当時の友人のギャルギャルしい格好を網膜に浮かべ、紅茶の香りの煙を鼻から吐き出していると、爽やかな男と目が合った。あ、と言って男が近づいてくる。椿も、お疲れ様です、と会釈した。

男は椿が今学期から籍を置かせてもらっている大学の文芸部の部長だった。サークルではなく部である。元々知り合いで、復学した椿を文芸部に誘ったのが彼だった。セットした茶髪に読者モデルのような服装の綺麗な顔立ちをした青年だが、彼も休学して学費を稼ぎだしていた時期があった苦労人である。
「今日例会くる?おいでよ」

昨日の飲み会楽しかったねー、なんて話をしていたら部長が誘ってきた。文芸部では週に一回、例会という、小説や誌に関する会議とは異なる集まりをやっていた。会議はともかく、例会にはなんとなく行きにくくて椿は参加したことがなかった。だが、こうして誘われたから断るわけにもいかなかったので、椿は部長の後ろをついて部室に向かった。
「椿ちゃんきたよ」

ごみごみとモノに溢れた部室には十数人の部員がいて、茶を飲みながら漫画の話で盛り上がってる集団、黙って本を読んでる集団、相手を場外に吹き飛ばす格闘ゲームをしている集団に別れていた。椿は居心地の悪さを感じてとても出て行きたくなったけれど、ゲームをしていたリスみたいな小柄な女の子が振り向いて椿に声をかけた。
「こっちおいで、ゲームしようや」

昨日の飲み会で話が盛り上がった子が手を振っていた。それを見たとき椿は、私はこれからもここにいてもいいのかもしれない、とちょっとだけ思えた。

 

 

 

「ねえみて!完成した!」

うん出来たね、と返事をすると、早希は飛び上がらんばかりに喜んだ。七歳年上の不器用な恋人が、失敗せずにちゃんと完成させるとは椿は全く思っていなかった。作り始めて約一週間、毎晩夕食後のわずかな時間にちまちまと、ときおりぶつぶつ言いながら手を動かしていた早希の姿を、いつも洗い物をしながら椿は見つめていたのだが、あえて口も手も出さなかった。それは早希の猫背気味の後ろ姿から察するに、余りにも無粋すぎて躊躇われたからだ。

「じゃあ、はい」

早希が椅子に座った椿に花冠を渡す。白色のテープで保護された輪は、ところどころに苺の赤い果実と白く小さな花が散らばっていて可愛かった。椿はそっと頭に載せる。
「うん、似合ってる」

早希はスマホを手に取った。冠をつけた写真を撮らせろ、そう言われて断る理由もなかった椿は気軽に、いいよ、と言ったものの、暖房がついているとはいえ、もう年末に差し掛かろうとする秋の終わりの夜に、夏物の白いワンピースを着て、割合しっかりめにメイクをして、長い赤茶色の髪を巻かないといけないとは、彼女は想定していなかった。しかし椿は不満ひとつ漏らさず、そして疑問すら持たずに早希の言うことに従った。椿と早希の一年間の同居生活はだいたいいつもこのような感じで進んでいた。

にまにました早希が、かわいいを連呼しながらシャッターを切るうちに、ふと椿は疑問を思い出した。
「なあ、早希」
「ん?」
「従妹さんって、サイズどうなんこれ」
「私と身長も体型も同じだし、問題ないよ」

そっか、と返事をすると、もうだいたいいいだろ、と思って椿は立ち上がって花冠を早希に渡し、手早くシャワーを浴びた。

浴室を出て髪にタオルを巻き椅子に座ると後ろから早希が抱きついてきた。
「さっきはありがとう」
「うん」
「超可愛かったよ、椿ちゃん」

耳元で囁かれながらタオルが外される。椿はある種の喜びの感情が込み上げつつも努めて冷静に返事をした。
「よかったね、綺麗にできて」

うんうん、と言いながら早希はドライヤーで椿の髪を乾かし始めた。いつも通りなんとなく感情を読み取られてるだろうなと思いながら、椿は黙って熱風とそっと触れてくる指に身を任せることにした。早希は椿の心の動きを読むのが上手いのだ。
髪が乾ききったら並んで歯を磨き、順番に口をゆすいだ後、二人は寝室のクイーンサイズのベッドの上に並んで横になった。

早希は花冠を作るとき自分がいかに苦労したか、小さい時の従妹(名前は美香らしい)とどんな約束をしていたか、ひとりでぺらぺら喋った。その間椿は相槌と合いの手を入れていた。喋るだけ喋って早希は眠った。

暗い寝室には早希の寝息が聞こえる。椿は寝返りをうちながら、結婚、という言葉が頭の中をゆっくりとぐるぐる回るのを感じていた。早希も結婚したいのかな。早希はそもそもバイだしな。私と別れて男をみつければ法的に結婚できるな。すべてのひとがそうじゃないけれど結婚すると子供持つことが多いよな。早希の従妹はどうなんかな。子供産むのかな。そうなったら早希はどう思うんかな。早希は私のことなんか言ってんのかな。てか早希の従妹ってどんな人なんだろう。早希も顔がいいし従妹も可愛いよな。早希は高給取りだし見た目もいいし男にモテるしな。なら早希は子供産めるな。来年三十路だしな。

なんだか考えが悪い方にいきそうになったのが分かった椿はもう一度寝返る。暗闇の中でぼんやりと浮かぶ早希の寝顔を少し見つめて、音をたてないように立ち上がった。白のしっとりと重い遮光カーテンを持ち上げ、煙草を持ってベランダに出る。地上九階から下界をみつめる。目を凝らした先にもまだ大都会の光は続いていて、幹線道路沿い特有の車の音と、都会特有のざわめきとが、土曜の夜中に響いていた。椿は煙草を咥えて火をつける。心の中に広がる居場所がないような寂寥感を、椿は静かに吸い込んでいた。

結局椿はその日、明け方を通り越しても眠れず、有明の淡い光をカーテンの隙間から感じ始めた時に微睡み始め、日が昇りきっても眠り続けていて、正午を過ぎた頃になってようやく目が覚めた。携帯で時間を確認して、久々にこんな時間まで寝た、と思った椿は、早希からラインが来てることに気づいた。
『五時半にいつものところで!』

早希は友達と遊びに行っていて、夕方から椿と映画を観る約束をしていた。
『りょ』

返信を入れたあと、椿はどうしてようかなと考える。復学するまでの冬の間、椿はニートのような生活をしていて、その頃はだいたいいつもこの時間に起きだして近所の喫茶店でブランチを食べてから一日を始めていた。

久々に通りに面したボックス席に身を埋めて本を読みながら時間を潰そうか、と毛布にくるまって考えていた時に、椿は、今日は日曜日で店は休みということに気づいた。

椿は一時間ほどだらだら携帯をいじくったあと、もそもそと布団から這い出て、買い置きのパンを齧ってから、のんびりと準備をしてかなり早く待ち合わせの場所に向かった。
地下鉄に乗って二駅先で地下鉄を降りる。入り口が連結している商業施設の中の本屋に入ってなにかめぼしいものがないか物色し、好きな作家の知らない短編集があったのでそれを買った。通りを一本渡ったところにある雑居ビルの一階のチェーンのコーヒー店に空き席があるのをみつけたので、カフェオレを注文してそこに滑り込んだ。

本を半分ほど読んだところでトイレに立った椿が席に戻った時、誰も座っていなかった隣に若い女が座っていた。その、ベビーカーを傍のスペースに置いた女の顔をみたとき、椿は思わず、あっ、と呟いた。
「芽衣子」

隣にいた女は寸分違わずかつての友人である松宮芽衣子だった。少し顔が痩せたような気がするけれど、長い栗色の髪のツヤも、気合の入った目元も、ハリのある頬も、伸びた鼻筋も、かつての記憶のままだった。誰かわかってない表情の芽衣子に、わからないか、と思って椿は名乗った。
「前に同じバイトやった、つーちゃん」

えっ、と言うと芽衣子は一瞬固まった。
「えー、めっちゃ久しぶりやんつーちゃん」
「そうやね、久しぶり」
「ていうか」

芽衣子は椿の上から下までを眺めた。
「聞いてはいたけどつーちゃん変わりすぎやん。アイドル?モデル?やばいめっちゃかわいい。ていうか胸デカない?手術した?絶対手術したろ、それ」
「うん、上も下も手術したよ。今は、翼じゃなくて、椿って名前」

へえ、と言うと芽衣子は笑みを浮かべて、よかったやん、本当におめでとー、と昔のように語尾を伸ばしながらゆっくりと言った。
「芽衣子こそ、おめでとう」

椿はベビーカーを指差した。
「息子、幾つ?」
「んーと、冬になー、二歳になる」

芽衣子の息子は大人しく眠っていた。
「今どうしてんの?」
「旦那の勤め先が京都でな、そこで主婦してん。隼人ちっちゃいしなー、もうちょい大きくなったら保育園いれて働きたいけどなー」

それを聞いたとき椿はなんだかとても安心した。そしてそれと同時に、ずっと考えていたことを言うなら今しかないとも思った。
「芽衣子」

なにー、と芽衣子が首を傾げる。
「あのとき、気づけなくてごめんな。何も言えなくて、ごめん」

芽衣子は黙って椿の黒いコンタクトに包まれた眼を見つめた。椿も芽衣子の薄灰色のレンズに覆われた眼をみた。ほんの一瞬のことだったが、芽衣子はふっ、と淡く笑った。
「ありがと。でも芽衣子のほうこそごめん。大変やったろうに、何もしてやれんで」

ううん、と言って椿も首を振って笑った。お互い、気持ちだけで十分、というのは、言葉に出さなくても気持ちで伝えあえてる、そんな気がしていた。
「つーちゃん今どうしてん?」
「まだ学生してる」

そうなん、という返事を聞きながら、椿は携帯で時間をみる。早希との待ち合わせはもうすぐだった。

待ち合わせ?、と立ち上がった椿に、芽衣子がまた声をかける。
「うん、彼女」
「あ、いまは彼女なん。彼氏じゃないんや」

芽衣子が、あはは、と声をあげて笑う。
「じゃあね、芽衣子。また」
「うん、つーちゃん。またなー」

それだけ言うとお互い軽く手を振って、椿は一度も振り返らず店を出て、早希のところへ向かった。

 

 

 

椿は生まれた時から椿という名前だったわけではなく、生まれた時に椿は翼という名前をつけられた。そして、椿の戸籍上の名前は一年前まで翼だった。

まだ椿が翼だった大学一回生の冬休み、翼は当時バイトをしていた居酒屋での労働に馴染みきってすっかり昼夜逆転してしまっていた。二月の始め頃のその日も太陽が沈みかけてから目覚めると、そのまま雪国が舞台のファンタジーゲームをやっていた。

日付が変わった頃、空腹になった翼は、パスタを作ろうとお湯を沸かしていた。小さなフライパンに入れた水が沸騰しだした瞬間、部屋のインターホンが鳴った。普段用がないときは絶対に取らないが、その日の翼は何故か取ってしまった。
「あー、つーちゃん?あーけーてー」

芽衣子だった。何の用だろうか。エントランスの自動ドアを解除してやり、部屋の鍵を開けると、翼はパスタを真ん中で折ってフライパンに入れた。

にこにこした芽衣子が、やっほーと、いいつつ玄関の扉を開けた。ストレートの長い髪は肩のところで結ばれていて、キャメル色のダッフルコートの生地に水滴がついていた。
「雨宿りさせて」

見ると芽衣子の後ろでは雨が降っている。そこそこ雨脚も強い。夜の冷気が部屋に侵入してくる。
「上がんなよ」
「ありがと。あ、何作ってん?パスタ?」
「うん」

ふーん、とだけ言うと、芽衣子は部屋に入ってきた。翼は茹でたパスタにベーコンとシメジを市販のパスタソースに絡めて炒めたものを作ってボウルに入れた。その間芽衣子はソファーベッドに座ってテレビのチャンネルを回しバラエティ番組をみていた。
「食べる?」
「ちょっとだけ」

翼は芽衣子にボウルとフォークを渡す。
「あ、おいしいやん」

ありがと、と答え、翼は長く伸ばした前髪を耳にかけたあと、パスタを食べ始めた。味はまあまあだった。芽衣子は時折笑いながらずっとテレビをみていた。
「芽衣子」

食器を洗いつつ翼は芽衣子に声をかける。
「さっきベランダで煙草吸った時にみたんだけど、雨弱くなってる」
「もうちょいおらしてや」

芽衣子は翼の方を見ず返事をした。翼は、まあいいか、と思い、それと同時に、他の友達と来るときは頻繁にあっても芽衣子が一人で来るって珍しいな、と思いもした。
「なあなあつーちゃん、映画持ってきてんけどみーひん?」
「なんの」
「ハリーポッター」
「ええよ」

翼はハリーポッターに興味がなかったけれど、その頃にはもう薄々気づいていた。
「なあ芽衣子」

最初部屋に来たときは知らなかったプレステの電源操作も芽衣子はもう慣れていた。
「芽衣子」

翼はもう一度声をかける。なに?と翼の方を見ずに芽衣子はディスクを入れ替えた。
「なんかあったん?」

芽衣子が一瞬だけ動きを止めた気がした。
「別になにもないよ。ただ雨宿りさせてもらっとるだけ」

どこか毅然として言うと芽衣子は電源を入れ、しばらくして映画が始まった。

それから三十分も経たないうちに、なんか寒い、と言いだした芽衣子に翼は毛布と薄手の掛け布団をかけてやった。ついでにソファーベッドの背もたれも倒してやる。
「寝るなら自分の家で寝ろよ」
「ええやん別に少しくらい」

やがて芽衣子は寝息を立て始め、翼は映画を止めてゲームを起動し、芽衣子がどうしてうちに来たのかわからないまま(かといって詮索する気にはならなかった)ドラゴンを退治して、眠気を感じはじめた日が昇る少し前くらいに、ロフトベッドの上に倒れこんだ。

しばらくして翼は、足元でごそごそという音を聞いて目を覚ました。やがて芽衣子が起き上がりカーテンの外を眺めだす。それから芽衣子は鼻歌を小声で歌いながら静かに布団を畳み、音を立てないようそっと部屋を出て行った。その背中に翼は声をかけなかった。靄がかかって薄れていく意識の中、翼は、芽衣子の顔がいつもより少し翳っていたことを思い出していた。

冬が明けて春になった時、芽衣子は妊娠していることがわかってバイトも短大も辞めて主婦になった。翼もまた、大学を休学してニューハーフヘルスに勤務することになった。二人はお互いがそんなことになってるとは知らないで、あとから人伝にそれを聞いた。

 

 

 

椿は目を覚まして、寝起きのぼんやりとした頭のままで顔をこすった。ノートパソコンには書きかけの中間レポートが、よくわからない文字列を表示して点滅している。
どこか気分の悪さを感じながら、椿は時間をかけて顔を洗って口をゆすぎ、そのあと煙草を切らしていたことを思い出し、リビングでテレビを観ていた早希に声をかけたあと、上着を羽織って家を出た。

エレベーターで地上九階から一気に下界に降りる。月が変わり街は冬が始まっていた。冷える夜の中、椿はゆっくりと歩き出す。数日前に芽衣子と偶然再会して、言いたかったことを伝えられてすっきりしたのも束の間、椿は心のバランスが崩れていることを分かっていた。考えないようにしていても、それらの思考は竜巻のように突然渦を巻いて、椿の心を時折滅茶滅茶にかき乱していく。

寒いと本当に心細い。椿はダウンジャケットのファスナーを首元まで上げる。首に圧迫感があると気分が悪くなるのはいつからか。客を取っていた頃、一度だけ私は首締めプレイを要求されたことがある。客の言う通り気持ち良くはならず、ただ苦しいだけだった。

路地の裏から変な臭いがする。たまにこんな臭いを店で嗅いでいたけれど正体はまるで掴めない。あの店にいた頃、私は本当に居場所がなかった。先輩たちはお互いにいがみ合うというか憎み合っていたし、入ってすぐ太い客もつき、人気が出た私はやたらと恨まれていた。嫌がらせの類も沢山あったし、だから、私はそういうことは絶対しない。苛立ったりもしない。どんな頭の悪い学生が目の前にいたとしても。なんで学生が嫌いかやっとわかった。彼らは広がって歩いて道を塞いだり、マンションの出入り口に楽器を並べて大勢で話をしてるからだ。要は彼らが徒党を組むことでかける迷惑に対して無神経であるのが私を逆撫でするのだ。ともかく私には居場所がなかったし、というかそもそも彼らが跋扈する学校という空間は馴染めなかった。

横断歩道の信号が赤に変わったので椿は歩みを止めた。ここを渡れば煙草屋はすぐそこにある。小学生の頃から人と上手く接することが出来なかった。彼らの要求はいつだって破綻していて無茶苦茶で、そして私の言うことを何ひとつ分かってくれなかった。だから私は浮いて虐められたけどその度にやり返して居場所をなくした。どこでもそうだ。それは家の中も同じで、家族はお互いに分かり合おうとしなくて、だからバラバラになった。それは私のせいじゃない。

信号が青になるのと同時に、椿の目の前を横一列に並んだ三台の車が凄まじい音を立てながら爆走していった。信号が変わって、椿はのんびりと歩き出す。こうして自分のペースで歩めることがどれだけいいか。私は最近自分でも現状に満足している。今の私には居場所がある。部活の子たち。上手くやれそうな気がする。だからこそ怖い。現状が崩れ去っていくことが。椿は不安を消すように、けれど抑え気味に、煙草屋の窓を軽く叩いた。
「アークロイヤル二箱」

千円を渡し、残りのお釣りを全て隣にある自動販売機に入れ椿はジュースを買った。紅茶の香りの巻紙を口にくわえて火をつける。軽くふかし、口直しに桃のジュースを飲む。そのまま暗い思考の海へ椿は沈んでいく。

例えば、あの子たちは私の過去を知ったらなんて思うだろうか。溝が出来るかもしれない、別に言う必要はないけどそれが怖い。私は獲得しかけた足場をまたひとつ、どうでもいいことでボロを出して失うかもしれない。早希だってそうだ。私は早希のことが本当に好きだ。結婚。早希の従妹が結婚するということ。早希は実際どう考えてるんだろうか。

気がつくと煙草はフィルターぎりぎりまで燃えていて、椿は灰を切るとほんの少しだけ煙を吸い込んで火を消し、また歩き出す。横をキャバ嬢風の女が足早に通り過ぎていく。椿の鼻腔に甘い香水の香りが広がる。この匂いを嗅ぐと芽衣子のことを思い出す。幸せそうでよかった。若いから苦労もあるだろうけど。たしか芽衣子はお母さんしかいなくて、だから寂しかったろうし、自分の家庭で幸せになってほしい。早希だってそうだ。

そこで椿は歩みを止めかけ、目に入ったコンビニの喫煙所に近づく。もう一本、アークロイヤルに火をつける。早希のことを疑うわけではないけど、時々早希は私と別れたほうが絶対に幸せになれるような気がしてならない。早希は私との関係と未来をどう考えてるんだろう。仮に私は早希と別れたとして、お金は頑張ればなんとかなると思うし、この先私は男と付き合ったとしても妊娠は出来ないし、てかそういう男を探すのは面倒だし、やっぱり私は孤独なのかもしれない。私も妊娠っていうのをしてみたかった。憎い。どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ。どこまでいっても私ははぐれ者の孤独な人間だ。

椿は飲み干した缶に煙草の吸殻を入れてゴミ箱に捨てた。たまに小さい時、まだ家族の仲が良くて幸せだった頃のことを思い出す。どうしてこうなったんだろう。何が間違っていたのかわからない。椿は泣きそうになりながらなんとかマンションのエントランスまで辿り着き、さながら処刑を待つ罪人のような気分でエレベーターに乗り込んだ。早希とはっきり話し合わないといけない。ゆっくりと昇っていくその感覚に窒息しかけながら耐えていると九階につく。深呼吸をしたあと、椿は家の玄関の扉を開けた。

リビングのダイニングテーブルに頬杖をつきながら早希はまだテレビを観ていた。目の前に座るよう指示され椿は黙って椅子に腰掛けた。早希はテレビを観ながら話し始める。
「従妹の美香は小さい頃から苺が好きだったんだ。だから苺の花冠を作ってって言ってきて、その話はずっとしてて、こうして作ったんだけど」

そこで早希は椿のほうに視線を移した。
「苺の結婚……ううん、ストローベリーマリアージュ、なんて言葉思いついたんだけど、結構素敵じゃないこれ?」

身を乗り出しにこにこしながら早希はそう言う。椿はちょっとだけ考えて、言葉を押し込んだり引っ張ったりしながらこう言った。
「ストロベリーと、マリアージュやったら、混じり合わんやろ」

首を傾げる早希に、椿は説明する。
「ストローベリーは英語でマリアージュはフランス語やん」

早希の発音を真似しながらそう言うと、早希は、ああ、と言って頷いた。
「でも英語にも、マリアージュってあるよ。rがひとつ多いの」

マリアージュって読みではないけどね。早希はテーブルの上の椿の手を握った。

七つのアルファベットにもう一個アルファベットがくっつけば全ては混じり合う。たったそれだけの差でしかないんだ。読みが違うとかそんなものは些末なことでしかなくて。全ては杞憂と考えすぎで、私はこれからもこのままでここにいていいんだ。そう思いながら椿は、そっと早希の手を握り返した。

2016年12月10日公開

作品集『植物奇譚』第2話 (全3話)

© 2016 望月鬼灯

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