美食家たちの夕べ

素描、あるいはエスキース(第2話)

宮崎まひろ

小説

2,613文字

使用した単語:ごちそうさま、着る 、あなた

″獣は服を着ない。服を着るのは人間だけだ。ヒトは、進化の過程で分厚い毛皮を手放したからだ。暑ければ脱ぎ。寒ければ着る。そうやって我々は暮らしている。いつの間にか服は所属や階級を表す機能を持つようになった。最近では自他の境界線の合間にある身体───”しんたい”の延長であると唱えた者もいる。何?最近の定義についてだと?いいじゃないか、そんなことは″

父は先程から私の隣に座る大学院生風の眼鏡をかけた涼やかな若い男性───他人行儀はよしましょう、釜田さんと、そんな話をしていました。そっと彼の横顔を覗き見ると、彫りの深い目元から突き出る長いまつ毛が目を引きます。スっと伸びた美しい鼻筋。白い首と、意外に厚い胸板。節が目立たないしなやかな指は、何かロープのようなものを弄んでいます。私たちは五人で回転テーブルを囲んでおり、木製の台の上には所狭しと中華料理が並べられていました。

この古い、しかし由緒ある中華料理店は1世紀ほど前に建てられた洋館を改修していて、個室にもシノワズリというか上海租界風というか、ある種の雰囲気があります。川沿いに佇んでいるので、古い木枠の窓からは、薄らと橙の光が漂う夏の納涼床が見えました。掲げられた提灯の下で、清涼を求め杯を交わす人々の姿。冷房の効いた個室からでも分かる、夕の街はもう九月も半ばにもなろうかというのにまるで盛夏のような様相です。

″他の部族に輿入れするのは近親婚による遺伝子の交配を避けるためだって研究結果があっただろ?何?全然違うって?細部が違うだなんて、そんな、どうだっていいじゃないか。私が言いたいのはだね、仮に人間の本能に───遺伝子?まあなんだっていいさ、そのような習性が染み付いているのは、それは我々の倫理なのか?それとも、獣もまた同じなのか?例えばだ、犬は自分の子と親、兄弟姉妹は分かるはずだが、祖父母や孫は分からないだろう?であればだ、交合うことも有り得るのではないか?いや、可能性の話だ。少し脱線した。私が言いたいのはだな、このような禁忌というのは、どの種にも共通した本能として成立するのかという話で───″

今度は父は、隣に座る柔らかい物腰で品のある女性にそう熱弁しています。彼女は困ったように苦笑いを浮かべ、その横の禿頭の老人はやれやれと言った仕草。父の手元を見ると、ジョッキの中のビールは随分と減っていました。顔を布で隠したチャイナドレスの給仕の女性が新しいグラスを無言で差し出します。

お父様、飲み過ぎですよ、そう声をかけると、ああ幸子、すまないすまない、私としたことが、ついはしゃいでしまったよ、と父は一瞬間を置いて、とても楽しそうな赤ら顔で答えました。禿頭の老人と中年の女性もくっく、と笑います。釜田さんの顔は様子は見れませんでした。

私は今、父が月に一度参加している食事会に招待して貰ってました。仕事の同僚である賽河教授と三鬼准教授、そして父の研究室の教え子で私の家庭教師でもあった釜田さん。この五人に加え、今日参加していないメンバーと併せて十人ほどの定例会。いつも父が楽しそうに話をするので、一度参加させてもらいたかったのです。快諾していただいてとてもありがたく思います。

しかし幸子さんももう大学生でしたっけ、いまはお幾つになられたのですか。微笑みを絶やさない女性、三鬼准教授は私にそう問いかけました。ええ、来月で十八になります、まだ高校生です。そう答えると、彼女の隣に座る賽河教授が嘆息しました。へえ、もうそんなお歳で。そりゃ私も歳をとりますわなあ、と言いつつ、彼は自身の髪のない頭頂に手を当てます。しかししっかりしておりますなあ、お父様の教育が良かったんですなあ、と茶目っ気たっぷりに言うと父は大きな声で笑いました。

“小さい時から、食事をする時は戴きます、食べ終わったらご馳走様を言うように躾てきたよ。私は食べ物には敬意を払うべきだと思っているからね。ところで、話は変わるんだが、たしかネズミは共食いをするよね。鳥の中には例えばカッコウのように違う種の巣に托卵をするものが居る。もしも肉食する獣の中でカッコウの托卵のようなことが起きた場合、彼らは兄弟姉妹を食べるのかな?”

また意味のわからない話が長く続きそうだと思っていると、横から、幸子さん、幸子さん。と私を呼ぶ声がしました。釜田さんでした。良かったら館の中を見て回りませんか。なかなか洒落てていいですよ。私は胸が跳ねるような気がしました。美しい顔を見れませんでしたので、私は彼の手元を見つめました。彼はまだロープを弄んでいました。

二人して席を中座し、この国で最も古いことで有名なエレベーターや、隠し扉でもありそうな古い廊下を見学したりしました。建築を学ぶ釜田さんは私の半歩後ろで様々なことを解説してくれました。しかし妙なのが、他のお客さんを一人も見ないことです。そして、ここの従業員の方は誰もが顔を隠していて、一言も声を発さないですし、その点は不思議でしたが気にしないことにしました。

中華風の灯が吊るされた階段を降りようとした時、ふと彼が立ち止まった気がして、私も足を止めました。その時、私の意識は断絶しました。一瞬、目の前に節の目立たない指と、ロープが見えた気がしました。

 

気がつくと、外はすっかり夜でした。どうも飲みすぎてしまったようでスリ古い木枠の窓の外、涼風が吹き込む屋外の酒席では、赤い提灯が揺れています。あそこで杯を交わし合ううちのどれほどがヒトで、どれほどがヒト在らざる獣でしょうか。私たちは少なくとも、今夜も楽しい酒宴を過ごしていました。そろそろ宴も終わりに近づいています。ここら辺で主菜を頂きましょうか。

禿頭の老人が手を叩くと、ローストされた肉塊が運ばれてきます。顔を隠した給仕たちが肉を皿に盛り付け、恭しく差し出します。
「今日の主菜を食べる前に、一言宜しいでしょうか」

私は手を挙げ、皆に声をかけます。
「苦労してカッコウの雛鳥を育てた甲斐がありました。毎度、これに勝る喜びはありません。万感の思いです」

私は賽河さん、三鬼さん、釜田さんを順番に見つめました。
「今日この日の喜びを皆様と分かち合えること、そして命を食することを共に感謝しましょう。食べる時は頂きます、食べ終わったらご馳走様でしたと、気持ちを込めて彼女にお伝えください」

私たちは箸を握りました。
「それでは、いただきます」

2023年8月29日公開

作品集『素描、あるいはエスキース』最新話 (全2話)

© 2023 宮崎まひろ

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