家に帰り、脱衣所にあるクリーニング用の袋にスーツを突っ込んだ。すぐさまシャワーを浴び、寝間着に着替えて、気持ちを落ち着けようと煙草に手を伸ばしたが、空だった。俺はベッドに腰を下ろし、深い溜息をついた。コンビニは歩いて三十秒の距離にあるが、外出する気はなかった。今夜、世界が終わっても不思議ではない。そう、あれは世界が終わるような出来事だった。人が殺されるところを見たのがはじめてとか、そういう問題じゃなかった。あの割烹着の男は、確実に自殺しようとして首を切った。しかし、死ななかったのだ。絶対に、あの映画や漫画で繰り返し見たゾンビに違いなかった。この後には、必ず世界滅亡のシナリオが展開されるだろう。
いてもたってもいられず、俺はクローゼットを開けて登山用具を取り出した。二年ほど前、大学の同級生に誘われて揃えたものだ。テントはなかったが、避難用ツェルトや非常食、コッヘルにボンベはあった。十徳ナイフやカラビナ、携帯用ライトなんかも役に立つだろう。小さいソーラー充電パネルもあったから、スマホも充電できるはずだ。下着の替えは三組もあれば十分だ。一番近い駐車場にはレンタカーがあるから、いざとなったらそれで逃げよう。俺は他にも考えうる色々なものをザックにつめていった。明日の朝に目が覚めたら世界が終わっているのだから。
そんな感じで夢中になって避難用具を用意していたら、結構な時間が経っていた。もう二十三時だ。俺はパンパンに膨れ上がったザックを見て満足感を覚えた。雨蓋にあるberghausのロゴがパンパンになるほど詰まっている。朝目覚めたら世界は終わっているかもしれないが、俺はこれだけ準備をしたのだ、きっと生き残れるだろう。そうだ、スーパーマーケットの場所を抑えておかないといけない。ゾンビ映画の定番だ。終わってしまった世界では食料や水の確保が第一で、うってつけの場所はスーパーマーケットだった。大田区に大きなスーパーは幾つかあるはずで、なるべく人口が密集しなそうな――その結果、ゾンビが増えなさそうな――エリアに絞りこまなければならない。あと、幹線道路沿いはどうなのだろう。人が集まるから、かえって危険な気がする。できれば、安全そうな地域まで徒歩でいけるようなルートを確保しておかなくてはならない。俺はシミュレーションを明確にするため、ちゃぶ台に置いてあるMacに手を伸ばした。
起動すると、画面の右端にずらーっと通知メッセージが並んだ。すべてチャットの未読通知だ。差出人はみな山本さんである。未読メッセージの数は二十七件、ぞっとしない数だ。
――さっきの人 死んじゃったかな?
――警察とかいったほうが良くない?
――いちよう捜査協力したほうがいいよ
――別に藤くんと関係あるわけじゃないよね?
――ニュースだとまだ犯人は逃走中だって
――NHKつけてみなよ
――藤くんと関係ないなら警察に行こうよ
山本さんが送ったメッセージの最後三件は「おーい、藤くん?」という呼びかけが連続で入っていた。どうやら、山本さんの中では俺が事件の重要参考人ということになっているらしい。これは誤解を解く必要があるだろう。俺はすぐさまスマホを取って山本さんに電話をかけた。
電話口の山本さんに説明したのは次の通りだ。まず、俺はあの事件についてなんら関わりがないということ。そして、すぐさま店を出たのは、状況がよくわからなかったので長居したら危ないと判断したからである。チャットに返事をしなかったのは、風呂に入って気持ちを落ち着けていたから。警察に捜査協力をするのはなんら問題がない。なんなら、明日の朝一で警察に行ってみましょう……。山本さんは俺が警察への捜査協力に同意したことが心底嬉しかったらしく、電話口で泣いていた。
明朝に警察に出頭することを約束してから電話を切ると、LINEの通知が来ていた。カズからだ。
――なんかまた品川で事件あった? だいじょぶ?
俺は一言、「だいじょぶ」とだけ返した。笑顔+サングラスの絵文字を添えて。ほんとうはあの割烹着について話をしたかったのだが、しょせんはガキだ。友達なんかにペラペラ喋って俺にあらぬ疑いがかかっては困る。俺はメッセージに「既読」がついたのを確認すると、スマホをベッドの枕元に投げた。
翌朝、世界は別に終わっておらず、俺と山本さんは駅前の交番に行った。巡査は不在だったので、入り口に書いてある高輪警察署に電話をかけた。担当の斎藤という人に代わり、すぐ来て欲しいということになった。
品川プリンスの脇の道路をテクテクと歩き、高輪署まで向かう。タクシーでもワンメーターといった距離だが、山本さんは業務時間の移動でタクシーを使わないポリシーだった。
「藤くんの、その靴、どうしたの?」
高輪署が目の前というところで、山本さんが話しかけてきた。俺が履いているニューバランスのスニーカーに目を止めたのだ。俺はソフトウェア・エンジニアなのだが、小さい会社ということもあって、客先に行くことがしょっちゅうあり、普段はスーツに革靴だ。
「ああ、昨日ので血が付いたっぽくて気持ち悪かったから、洗って干してるんですよ」
「そうか、いや、おしゃれだなと思ってさ。アメリカ人とかスーツにスニーカーでしょ」
山本さんは自分の言い方に剣があったのではないかと恐れておだてたらしい。が、俺は俺で嘘をついていた。パニックに備えていたのだ。この後、東京が大パニックにならない恐れはどこにもない。革靴でゾンビに追いかけられたら死ぬだろう。
そうこうしているうちに、古びたレンガ張りの高輪署についた。中に入り、受付で名前を告げると、斎藤という刑事ともう一人が出てきて、応接室に通された。俺はてっきりパイプ椅子や机の上の電気スタンドといった取り調べ室を想定していたので、この待遇は少し意外だった。革張りのソファは五月だと若干暑苦しく俺の背中を包み込んだ。
「私、高輪警察署刑事第一課の斎藤と申します」
斎藤がそう言って警察手帳を見せると、山本さんはよく訓練された犬さながら「ビーアウェア株式会社の代表をしております山本です」と名刺を差し出した。俺もそれにならい、名刺を差し出した。はたして、ソフトウェア・エンジニアであることを伝えることになにか意味があるのかわからないのだが。
「それでは早速なのですが、昨日の『とりはま』の事件について伺いたいのですが……」
「それについてはこちらの山本から説明させていただきます」
「え、俺ですか?」と、俺は思わず答えた。普段の顧客折衝でも、山本さんはこういうことをよくやる。技術的にわからないので、不安になると急に俺に話を振るのだ。「まあ、いいですけど」
俺は斎藤に昨日の事件について話した。トイレから出てきたら割烹着の男が背広の男にのしかかって包丁を振っていたこと。その後、店から逃げていったこと。俺たちは事件に巻き込まれたら困るというので、すぐに店を出てタクシーで家に帰ったこと。もちろん、会計を済ませていないことについては伝えなかった。斎藤は割烹着が包丁を刺している様子がどんなだったかを詳しく聞きたがった。俺は山本さんと二人でその様子を再現すると、さっきからほとんどしゃべらないもう一人の男が熱心に調書を取っていた。
「それは明確に殺意があるような感じでしたか?」と、斎藤が尋ねた。
「どうですかね。他人の気持ちまではわからないですけど……たぶんアレだけ包丁刺してたから、殺意があったんじゃないですか」
俺がそう答えると、斎藤は満足気に頷いた。おそらく、こいつら警察業界では、殺人事件かどうかでやることが色々と変わるんだろう。その業界慣習についてはとやかく言わないが、俺はこの取り調べに少しずつ苛立ち始めていた。もうすぐ世界は終わるかもしれないのだ。映画や漫画ではたいてい役立たずな警察も、初動捜査がしっかりしていれば、現実ではゾンビの拡大を防げるかもしれない。だいたい、こいつら公務員は仕事に対する重みがちっともわかっていない。そんなことを考えているうちに、俺は言わないでいたことをポロッと言ってしまった。
「あの犯人って、死んでないんですか?」
斎藤は不思議そうに「はい?」と尋ね返した。俺はそのまま続けた。
「俺の見間違いかもしれないんですけど、あの犯人、刺した後に立ち上がって、首を切ったんですよ。自分で」
「それは、どのような感じにですか?」
斎藤は興味を持ったようだった。俺はその様子を実演した。
「二、三回ぐらい、こうやってザックーって切ったんですよ。でも血とかあんまり出なくて。けっこう切れてたんですけどね」
「はあ」
それまで快調に調書を取っていた男は少し戸惑っているようだった。おそらく、あまり書いたことがない出来事だったからだろう。ボールペンが調書の上で落ち着きどころを失い、くるくると回されているさまを見て、俺は少し良い気分になった。
「ほら、頸動脈とか切ると、天井に届くぐらい血が噴き出るとかいうじゃないですか」と、俺は続けた。「黒澤明の映画とかもそうだったし、だからちょっとアレっと思ったんですよ。犯人もなんかアレって感じで。で、一瞬間が空いて、それから外に逃げてったんです。だから、俺はてっきり犯人が死んでると思ったんです」
若干ドヤァという気持ちになっていた俺だが、斎藤の反応は俺を少し落胆させた。もしかしたら、俺のことをキチガイだと思っているのかもしれない。俺はすぐさま「見間違いかもしれないんですが、捜査に役立つかもしれないと思って」と付け加えたが、斎藤はどんな風に首を切ったかを尋ねるだけだった。俺は何度か再現したが、くりかえし確認されているうちに面倒くさくなってきた。だいたい、俺だって包丁で自分の首を切る奴を何度も見たことがあるわけじゃない。「包丁による正しい首の切り方」とかを知っているわけじゃないのだ。俺は馬鹿な顧客にソフトウェアの開発費内訳を説明しているような気分になってきて、今日は言うまいと決めていた情報まで打ち明けてしまった。
「あと、これも俺の気のせいかもしれないんですけど、あの割烹着の男って、一昨日の品川駅のパニックの時に、人刺してませんでした?」
斎藤は再び「はあ?」と聞き返した。
「いや、なんかね、あの日駅に閉じ込められてた時、真っ黒い肌のオッサンが暴れてて、割烹着のヤツが頭に竹籤グサグサ刺してたんですよ。五本とか。絶対死んだと思ったんですけど、そのオッサン死ななくて。で、そうこうしてるうちに警察が来てオッサンを取り押さえたんですけど、そのときの割烹着のヤツ、たぶん『とりはま』のヤツと同じだと思うんですよね」
斎藤はやはり「はあ」と応えるだけだった。調書を取っている奴も、明らかに適当につけ始めている。俺は少し絶望した。警察という組織には、危機に対処するだけの能力がない。自分たちの描いた筋書き通りの事件じゃないと解決できないのだ。
結局、捜査協力は一時間を経たずに終わった。犯人がどこへ逃げたとか、すでに死んでいるとか、そういう情報は教えてもらえなかった。俺は山本さんと二人でトボトボと歩きながら、駅の反対側にあるオフィスへと歩いていった。
「さっき言ってたことさ、本当?」
取り調べでほとんど話すことなかった山本さんが話しかけてきた。
「本当ですよ。でも、言ったら頭おかしいと思われるから言わないほうがいいかな、と」
「でもさ、本当だったらヤバくない?」
「ヤバイですよ。俺はいつでも逃げられる準備してますよ。あれゾンビですよ。死なないんだから」
俺が明確に「ゾンビ」という言葉を口にしたことで、山本さんを怯えさせたらしかった。
「ゾンビかな?」
「だって、死なないんだからそうでしょ」
「じゃあ、東京ヤバイなあ」
「そうですね。人多いですし」
そんなことを話しながら、俺たちはオフィスについた。そして、いつも通りエルゴ・ヒューマンに腰をかけてつまらないプログラミングを終えた夜八時ごろ、山本さんからチャットが届いた。
――来週オフィスを千葉に引っ越します
その返答として俺を含む社員達からはウンコを示すpoop絵文字が届きまくったが、山本さんはそれを実行した。翌週、ビーアウェア株式会社は品川にある本社はそのままに、千葉県は海浜幕張駅のほど近く、IBMのでかいビルの隣にサテライトオフィスを開設した。どう考えても一千万ぐらいは損をするはずなのだが、超心配性である山本さんのこうした行動力が案外馬鹿にならないものだと知ることになるのは、もう少しあとのことだ。
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