書斎にて、筆を置いた作者に、《私》が言った。
「あんまりとんとん終わらせないでくださいよ」
作者はビクッとしてふり返り、
「困るよ、ここにまで来たら。それに終わり方はまだ変更を検討中なんだから」
「そうですか。それならよござんすがね。――ああそうだ、美しい妻と出会わせてくれてありがとうございました」
「なに、君が自力で物にしたんだから。他に比類なき口説き文句と、お城とで以てね。美しい南国の鳥みたいな求愛だったよ」
これに《私》は照れ笑いを浮かべたが、気を取り直すように一つ咳払いをして、
「ところで先生は、さっきまでのあの先生ですか」
「さあね、と言って私は肩をすくめるよ」
「まあ何にせよ、私のことを読んでいた者は今、先生と同じ世界にいるわけですね。つまりこの時空に」
「そうなるね」
「そこで相談なんですが、一つ私のために、何人か捕まえて来てはくれませんか」
「親愛なる読者諸賢をかい? とんでもない! だいいちどこにいるのか、どんな人なのかも基本わからないし、そんなことをしたら警察に捕まるよ。――時に、ちょっと用事があるもんだから、いったん席を立ってもかまわないか」
「どうぞ行ってください。いくらでも待っていますから」
「うん。もういいよ」
「行ってくださいってば」
「いや、もう行って来たんだ。あいだに小一時間ばかり経っている」
「へえ?……するってえと、この会話も、すでに最後まで書き終えられていて、のちにくり返される推敲の、何度目かの、あるいは何年も放置されて再開されたりした、何十度目かの、こちょこちょした修正であるかもしれないわけですか」
「またいやに飲み込みが早いが、否定はしない。しかしそうだとしても、推敲の何十度目かで初めて思いついた場合は、ここがようやく最初だね」
「――私がイヤなのはですね、先生が私を、うんうん悩み迷いながら書いた私を、あとから別の気分で以て、大きく変えるというようなことなんですよ。若き日の作品を晩年に修正する人もおりましょう? 続編や外伝で穢すこともできれば、あとがきやエッセーでも潰せますわな。作者が生きているうちは、登場人物というものは、安心できんわけです。だから作者存命中の作品というものに私は、どこか決定的な未完という感じを受けますよ」
「言いたいことはわかるけれども――……君ねェ。いったいいつまでいるのかい」
「警察を呼びますか? 先生が精神病院に入れられるだけかもしれませんよ。今我々を読んでいる者は、先生が正気であることの証人だが、じっさいには現時点では、先生はこの小説をまだ発表していないから、読んでいる者はいない。先生が精神病院に入れられたら、永遠に発表されないかもしれぬ。つまりそれは読んでいる者の堕胎にもなり得るわけで――捕まえて来てもらうより効率がいいな」
「警察など呼ばないけどね」
「うれしいですね。私が怖くない」
「怖くはないとも。君がやって来た本当の理由は、枚数不足のためだからね。五十枚は書こうと思っていたもんだから。枚数が達していたら、あるいは石像を玉座へ座らせたあたりで終わっていたかもしれない。『私自身の石像も、今ごろどこに座らされているやらわかったものではない』とか何とか結んでね」
それから作者は、とつぜん長々と弱音を吐いた。インスピレーションに騙されただの、どうせ誰も読まんだの、それから実生活の孤独や、患っている病気、人生の失敗と零落、それから罪の懺悔や、恥の告白など、赤裸々な述懐が続いた。
とうとう《私》が心配そうに、
「いいんですか、そんなことまで言って。あるいはここで語られることも、どこかの世界では隠しようがないかもしれないんですよ。悪くすれば永久に残りますよ」
「いいのさ。君が心配してくれている箇所は、その具体的内容は、すでに削除されているのでね。ここはどうもうまくないなと迷う箇所ほど、何度もそこで引っかかり、どうにかこうにかいじくるもんだから、変な凄みも持ちおるのだが。そいつをゴッソリ削除する時の、あの叫び声を聞いたかい。あれは誰が叫んだのだろう――」
「そういう、メタフィクション的なことをね、先生は思った通りに表現し得ていると思いますかと、ここで私に問わせるのですか」
「嗚呼……連綿と受け継がれて来た、げに不完全なる営みだ。傑作と駄作の評価は一致せず、作家の新陳代謝は短過ぎて、人間の未熟さは永遠に文学の完成へ達し得ぬ――文学が神々へ捧げらるべきものではなく、人間のためだけにあるのなら、すでに結構毛だらけ猫灰だらけ、一人々々の作家の寿命は長過ぎるくらいだが……さて、これ以上続けるのは長いし、もうとっくに遅い」
「遅い!」
「君には気の毒なことをした。ラスコーリニコフやフォルスタッフにしてやれなんだ。――君は、いったいどんなすがたをしているのだろうな。見てみたいものだ。声も聞きたいものだ」
「私は先生が見えているし、声も聞こえていますよ」
「知っている。でもこっちからは見えぬ。聞こえぬ。――ねえ、今ずうっとこう推敲しているんだが、とうに枚数は足りているわけだ。とくに第二章が長くなったんでね」
「まただ。とつぜん未来から来た人になりますね。それとも私の既視感ですか。――何にせよ私は、先生が『何者かに書かされている感じ』の内部における産物であることに、満足しますよ」
「それで君、『読んでいる者』に対してはどうだね。今も憎んでいるかい」
「怒り狂っておりますとも。それだけが私の存在理由だ。私と、読んでいる者と、どちらが先か、それはもうかまいません。ええ、かまいませんとも」……
かくして《私》が、見渡す限り真っ平な城跡で、ただ独り黙々と、読んでいる者からは巧みに隠された、壮大な作業に取り組んでいる。
もはや作者が《私》に何をさせようと、マッタクどのように書かれようと、どこ吹く風だ。旅立たされようが、死なされようが、関係ない。ただ独り黙々と、作業を続けている。
(語らるべきことが顔を隠して通り過ぎる。)
ふと《私》がこちらを見上げた。見上げてなどいないと言いつつ。言ってなどいないという顔で。……ああ、《私》は怒ったようだ。誰が怒っているのですかと。
遂に《私》は作者に手招きをした。けれども、いくら手招きしても作者はそれを書いているばかりなので、《私》は手招きをやめた。
そうして、ふたたび作者の書斎を訪ねるべく、歩き出した。どんどん歩いて行く。やがて《私》の周囲に、見慣れた景色が現れた。
とうとう作者の家の前に着くと、《私》は軽く襟を正して、呼び鈴を押した。
"アレクサンドリア図書館 第三章(完)"へのコメント 0件