近頃ひんぱんに磐井を連れ出していた。余のドタマをかち割る丸太の彫刻もずいぶんはかどって、最低限のラインはとうに越し、あとは余白に磐井創作の幻獣や裸婦なんぞあしらうくらいのことだそうで、先方もゆとりがあったので。もっとも彼の家業に彫るのはドタマ丸太ばかりでなく、何の板なのか詳細は聞いておらなんだが誰それから預かって来て、依頼の図(七福神だの阿弥陀だの)を彫ってはどこか他県に運送したりなんかもしている身の上、田畑や鯉の養殖は言うに及ばず、無花果の果樹園も然りで忙しくないわけではなかろうに、よく付き合ってくれていた。
それにつけても返す返すで。取り巻きに残っているのは、国乱れて忠臣あらわる、つくづく磐井だけである。それはまあ奉祀の丸太の彫刻を代々担って来た彼の一族としての性質でなくもなかろうが、彼本人の優しさと、幼少期は余がいくらか乱暴者から守ってやったような貸し借りであったから――その内容は守ってやった側につき覚えておらぬけれども、磐井がそう言うのであった。もしこれが優しいウソなら、守ってやったという事実は冥界にのみ存する。そのほうがかえって余にはありがたいが――義務的のことばかりではなかろうと信ずる。
考えてみれば、磐井が供物になっていたら、丸太の彫刻は跡取りを他家から取って来んけりゃならぬところであった。自分の脳天に落とす分は、最後に自分で彫ったであろうが。彼は昔から体格もよかったし、充分その可能性もあった。しかしだからと言ってわざと負けた道理になろうか、いまだ余に付き合い続ける裏づけになろうか、左様な低級の惑いに乗る余ではない。
際限なくくり返されて来た思い出話を、今またあらためてくり返しつつ、昔みんなで遊んだ場所をめぐっていた。漫画図書館のようになっている林の中の防空壕に長逗留したのち、みんなでニホンイシガメを飼っていた廃用水路に行くと、気品あるおんすがたが今も元気に生きていた。美土里が独りでかかさず餌をやり続けていることを余も磐井も知っていた。
嗚呼しかし磐井と歩いていても大した気晴らしにもならぬ。こんな退屈な男は。図体のでかいのもしゃくにさわって仕方がない。とはいえ余はもはや涙が出るほどの大笑いでもすれば動悸の不調を大きに呈する病身で、笑いはもう余には毒であるから、こんな安全な連れもいないわけではあるけれども。
ほかの連中も残っていたらもっと楽しかったであろうか。取り巻きの中には金持ちのボンボンもいたけれど、余から食い物やおもちゃを賜るしもべであった。勉強もできて物のわかったカシコもいたけれど、余から事々しい訓戒を賜る弟子であった。
半ば以上が郷に残っているけれど、今では滅多に会うこともない。みんな余を避けているのである。余が暇に飽かして歩き回っていて、不意討ちをかけ、ばったり出くわせばオオと応じ、あたかも旧懐を喜び、短からず話しもする。こいつめと小突き合い、ハハハハと笑い合い、余のことを兄貴分のようにまだ扱ってもくれる。しかし仕事も家庭も持つ彼ら彼女らと、無為徒食の余はもう話も合わぬ。仕事も家庭もなく引きこもっておるのが一人いるけれど、暇つぶしにたびたび訪ねた余に、とうとう心を開かなんだ。ああいう輩は前世で勤労や社交のたぐいをぎゅうぎゅうやり終えたのであろうから、もしくは来世に繁忙を極める待機中なのであろうから、せめて現世は休ませてやることだ。
この退屈な磐井の奴も、うどの大木然としておるけれどもなかなか隅に置けないもので、余が去るまで入籍・挙式を差し控えている相手を持っていることくらい余も知っている。すでに子どもすらいるのである。隠しおおせるとは彼も思っていなかろうが、断乎話題には出さない。余も突っ込まない。
ただ余は磐井の婚約者と子どもに出会えば話しかけるし、鼻や口元なんぞ彼の幼少期を彷彿させる女児に飴なんかくれてやる。向こうも余を霊界の英雄としての畏怖だけでなく、磐井の心友としての親しみを以て、物をもらう恥辱に耐える。
ある日、磐井が言った。ただでさえ厳めしいつらをいっそう険しゅうして、平生の通りもごもごとしばらく要領を得なんだが要約すれば、こんな郷を造ったのはいったいどういう人やろか。
そう言う彼はどういう心境であるのだろう。余を絶命せしむる丸太に勝手気ままな仙女だの聖母だの彫りながらしばしば余と歩き回るを余儀なくされたる彼の底意の真相がどうであれ、いや言われてみれば郷を造りしは何者ぞ、現代的な、あまりに現代的な賢しら疑問ではあるけれど、愉快な発足感に気分も晴れた。
余と磐井は、磐井家の蔵を掃除すると言って磐井の祖父から許可を得ると、存分に漁った。しかしさて探し物をするにも掃除のせめて痕跡を残すにも、余の神経質も磐井の怪力も帯に短し襷に長しで、いい大人が二人そろってぐずぐず這い回るうちに時間ばかり過ぎて成果なく、しょっちゅう中断しては煙草ばかり吸っていた。
それでもやがて重々しい長持から磐井の先祖が何か書き連ねた冊子のようなものが出て来た。栄華を極めた紙魚も死に果てて久しい古紙に、墨で書かれたぐねぐねの達筆に漢文なんぞ混ざって読めなかったから、磐井の祖父に読んでもらおうと決まったけれど、念のためケータイにいくらか撮影しておいた。あんのじょうざっと目を走らせた磐井の祖父は朗読してくれず、二度と触るなと言い置いて、冊子を持って蔵に消えた。
さんざん散らかした分をせめて戻しておかねば済まない旨伝えたけれど、磐井の祖母はにこにこしつつも断乎として、もう掃除は結構どうもご苦労様でした。
相談のすえ雉子の旦那に画像を見せると、内心欣喜雀躍であろうにおくびにも出さぬ涼しさで、画面に触れた指をくいくい広げて拡大しスクロールし、早くも老眼の気配を示して顎なんぞ引いておると思えば、さすがは知識人くずれで、当て字、異体字、変体仮名、合字、崩し字まみれに書かれた和漢混交文をすらすら読んだ。
いわく、郷を造った人物の孫の手になる手記らしい。郷を造ったのは都から落ち延びて来たインテリで、地上の楽園を造ろうとした。孫は祖父に嫌悪感を抱いていたように思われる節が行間に嗅がれる。書き記した動機のようなものの弁明くさい箇所がずいぶん占めて、肝心のところを押しのけているのがもったいない。(もしくは旦那が、我々には読めないのをいいことに何か隠していることのありやなしや。まあ強いて疑うのも面倒だし、あるまいと信ずる。)
いわく彼(郷の造り主)は、いわゆる新興宗教の開祖であった。その狂的な幽冥論が受け入れられず、逮捕・暗殺の噂がいよいよ現実味を帯びて来たところで各地から信者らの声明読み上げられて申さく、開祖処刑されし場合は信者の追い腹熾烈を極めるであろう、また加担せし直接的処刑者・間接的煽動者どもへ親類縁者・子々孫々含め甚大なる天誅が下さるるであろう云々、騒ぎが長引けばかえって新たなる信者の増加も懸念され、じっさい焚書坑儒の噂から経典の流布増刷は凄まじく、一刻も猶予ならずと早々に追放せられたが、当人は蛙のつらにしょんべん、材大なれば用為し難し、大廈の倒れんとするは一木の支うるところにあらずとキッパリ諦め、この地へ至ったとあるが真偽は如何。
当時の客観的な記録をあたって裏を取ってみるという旦那の口約束も如何。
彼(造り主)はそののち、この辺鄙な土地で邪宗を完成させようと尽力していたようである。簡単な経典の抜粋がかろうじて載っていた。
旦那が端折り端折り朗読するのにいわく、吾人が今しも生命を投影せられているこの覚束なき現世における観念・空想のたぐいは、半ばは経験からの連想、半ばは純粋世界なる幽冥界からの想起なり、その識別法は、現世にあるものの直接的発展は経験からの連想、現世にないものの間接的発展は幽冥界からの想起、すなわち地獄のたぐいは現世に材料が充満し、ありありと描き得るが、極楽のたぐいは現世に材料がないために、直接的には首肯すべからざる代替物を用いて、蓮だの大量の仏菩薩だの、それ自体では幸福と結びつかぬものでがんばっている、すなわち極楽の概念は幽冥界の不十分なる想起にほかならぬと知るべし。
どうすれば極楽を、地獄図における火や血や釜や刃物のごとく、現世にあるもので以てありありと描き得るか、美味なる御馳走のたぐいは如何、しかし食い物は殺生から成り、腐るものにして、美味であるほど消化に悪く、排泄せられて不浄に片づく、また満腹の幸福は飢えの前提がなければ成り立たず、やがて過ぎ去る、酒酔い然り、安眠然り、淫楽然り、床払い然り、幸福物は不幸物の反作用としてのみ現じ、泡沫に消ゆ、然るに飢えは満腹を前提とせず、限度を越しても翻らず、時が経っても消え去らず、眠け然り、凍え然り、無聊然り、痛痒然り、孤独然り。地獄を表現する材料としての不幸物は現世に蔓延るのに対し、極楽を表現する幸福物は甚だ模糊とせり、然るが故に、極楽は経験からの連想にあらず、幽冥界からの想起なり、斯くも現世における幸福物に実体なき所以は、幽冥界に厳存する幸福物の影に過ぎぬ故なり、因って以て幽冥界の様相は、純粋なる極楽の直接的材料のみで構築せらるるものと知るべし。
吾人は幽冥界において老病衰悩を持たず、然るが故に神仏も持たず。生前の業にかかわらず、死ぬるのち必ず赴くなり。現世に生まれて来ると謂うは、あたかも悪夢を見るがごときものにして、覚めてのち幽冥界に起く、起きてのちはまったき極楽が還って来。
問う。そもそも現世における観念・空想のたぐいを連想と想起との二種に分けたる所以は如何、また幽冥界を純粋世界と断ずる所以は如何。答う。そのそもそもは、現世大自然の畜生には見受けられぬ思考にして、然るが故に幽冥界から来るものなり、すなわち叡智は幽冥界にこそ充満し、幽冥界に無明はあらざるなり。然れば幽冥界を純粋世界と断ずるなり。
――……云々。それから先は、右の「問う」「答う」の部分が循環論法だという論敵の指摘から、循環論法も現世大自然にはない、すなわち幽冥界における純循環性、完結した循環=無始無終、人間の無始無終なる純粋存在=不死が明らめられ、また続々と論敵が現れて問答体となり、たとえば現世における悪夢が必ずしも経験からの連想に限らぬ上は、幽冥界からの想起ではないか、然らば幽冥界に不幸物なしとどうして断ぜられようかなどの論駁があれば、論駁そのものをふたたび二種に分けて、対立自体は現世の不幸物、思考における誤謬の発見は幽冥界から来た叡智とし、幽冥界における万人悟入が明らめられる。
孫の綴りぶりから推察するに、この抜粋は膨大なる経典の要点というよりはむしろ弱点となる箇所を抄出したものと察しられるとか。経典は入門から奥義・秘義に向かってさまざまに展開するらしく推察されるが、経典そのものが蔵に残っているかわからぬし、よし残っていてももう磐井の祖父の手によって厳重に隠されているに違いなかった。
冊子の続きは孫の身辺雑記のたぐいに埋もれているらしいが、重要な箇所は知り得た。すなわち彼(郷の造り主)は経典の注釈を書き終えると同時に発狂し、最期は自ら滝に打たれつつ、丸太を頭に落とさせて死んだそうな。
どこにも十年に一度の奉祀だの、三十歳の供物だの、相撲好きの鬼による先祖代々の霊魂の人質だのにつながる文脈は見当たらない。後代の発展であろうと察しられた。
ひっきょう我らが奉祀は滝行による禊のイメージをベースに、諸地方・諸外国・諸時代の信仰文化の残滓を乱雑に集めたごたまぜ祭儀で、卑しきは俄か迷信商売の流れまで汲み尽くし、無茶苦茶に混ぜ込んだマーブル柄の泥団子であった――まさに純日本的とは言うべき! まさに純正統的とは言うべき!――ここまで来ればもう奇しくもあらず、奉祀が行われるのは十二月二十四日から二十五日の日またぎである。美土里が余に賛美歌を歌わす意図も推して知るべし。
ひそひそ声を交わしつつ頭を寄せている余と磐井と雉子と旦那のよったり、これはここだけの秘密にしなければならなかった。村議会の爺婆連にバレたらどんな目に遭うやら。まあ強いて誰かに漏らす必要もないが。雉子はもはやそのたぐいへの義憤や弟の救済に関しては腑抜けになっていて冷静沈着、旦那は静かに画像データを自分のケータイへ転送していた。
手洗いに立ったところをタクジタクジ。雉子が追いかけて来てこしょこしょと耳打ちするのにいわく、旦那はふだんからしばしば何かメモを取っているとのこと。そう言う雉子の様子はことさら不審がってあやしむでもなく、軽やかな姉弟の四方山話に過ぎなかった。こちらもその情報今さら新展開にもあらず、前々から思うていた通りで。いつか本にして雉子を捨て、都市へ帰るのであろう、そしてこの郷は科学とオカルトの減塩的ごった煮を飽食する無智(=飽和した俗智・体験から来る錯覚・逆さ迷信)にまみれた現代人の遠距離攻撃にさらされて滅びるのであろう、と、ここまでの飛躍は話さず、ただ姉ちゃんそんなん気にせんとき。
しかし飛躍といえども信じざるにあらず。我らが醜怪なる郷の没落は近い将来だ。守田もあるいは逃げられるやもしれぬ。
逃げたところで郷の外に精神的安全があるであろうか。肉体的健全があるであろうか。しかしそれは余のあずかり知るところではない。旦那はメモの完成を以て消えるであろうが、余の供物の完遂は見届けるはずである。そこだけ邪魔せぬのであれば、あとはどうでも結構である。
明け方の夢にて、先日のよったり頭を寄せ合い、じっさいには読んでいなかった箇所を読む。或仙境之里俗と題されたそれにいわく、造り主は諸国行脚し信者を募って喜児流姿村なる集落を造った。
そうすると我が郷の人々は全国から寄せ集められた狂信者たちの末裔か。雉子の名も喜児流姿村より何ぞ隔世的・潜在的のものが漏出しているのではないか……しかし読み進むうちに、狂信者ばかりであったところが時代とともによそ者も混在し、その性質はだんだん薄まって狂癲・頑鈍の血統は涸渇せり――それでも時おりはアヤシイのが生まれ来るかと疑うても、精神異常者が生まれるならば何かしらの天才も生まれ得る道理が、誰も彼も極めて凡庸なるを以て、真の狂信者の血は完全に途絶えりと見るべし――とのこと。
さらに雉子が旦那のメモを首尾よく盗み出して来て余に開示する。読むに、喜児流姿村の奉祀は、具体的な死の目撃と、消極的・間接的にもせよ加担の自覚を用いた、個人という肥大し過ぎた近代的概念の矮小化の意図はある程度成功しているように思われるものの、その(冬における)死の儀式ののち、次ぐ(春における)復活祭にあたる儀式がなく、生への回帰が閑却せられているという欠陥が認められる。永遠に倦み疲れ続ける生活苦と現代の情報過多・真理分裂・精神摩耗・霊魂希釈への強引な浄化作用のみに終始して、四季との共生という意義が慮られていない点に、返す返すも甚大なる欠陥が云々云々……。
美土里と二人、数年前にとうとう廃校となった小学校の中庭にいる。煉瓦造りの四角な池には鯉がまだ泳いでいる。これも美土里が痛々しいほど律儀に餌をやり続けているのだった。余が餌やりに付き合ってやることを彼女は無邪気に感謝していた。
郷の学童たちは、今は山を越えた隣町の学校にバスや自転車で通っているが、あらためて我が郷の奉祀は外部に一般のレヴェルで知られているのやらいないのやら。知られているけれど禁忌に秘められ、固く黙されているのであろうか。あんがいもう誰も知らないかもしれぬ。余の学童時分は、サッカーだかバスケだかの親善試合の折、隣町の生徒であった。あえて触るるいたずらごころに言挙げする男児のにやにや顔と、その後向こうの先生に非常な剣幕で黙れと叱責された際の青ざめたつらと、水を打ったように静まり返る児童らの窒息感、醜悪なる残像の一幕。
ちかぢか赴任し立ての若い女教師などが郷へ乗り込んで来たりすることのありやなしや。その激しい情熱と正義がどこから来たものであるのか吟味もせず、それだからこそ迷いなく、我が身なげうちたる激烈の義憤のまにまに、悪習根絶の使命を帯びて――
これをなだめるのは骨であろう。こういう悪鬼羅刹に侵略せられたら最後だ。いざ行動に乗り出した時の女の怖さ、未来と生者のことしか念頭にない者の残酷さ。もっと過去と死者のことをも考えてくれろと頼むのみ、そんな未来と生者をと。
美土里が現れると鯉たちはあさましいパクパクを始めるが、ほかの人間が現れてもそうであろうか、美土里をちゃんと識別しているのであろうか。
美土里は、余が彼女の結婚をことごとく邪魔した事実を知っていた。知らせたのは誰あろう余であった。彼女が怒ったとしても余から離れぬであろうこと、悲しんでも余によって慰められるであろうことをわかって、そのつど打ち明けたのであった。それは何故かいつもこの中庭だった。
美土里の反応は余の思っていた通りだった。「たっくん、何でそんなことするん」「たっくんひどいよ。またやんか」「もうせえへんって言うたのに。あたしもうおばさんで、あとあらへんのに」しかし翌日には機嫌を直した。予想に反したのはむしろ余の心であった。美土里は思った以上に激しく余を許し、余から慰められ、離れなかった。それが思いのほか重くのしかかった。これほど息苦しいとはつゆ思わなんだ。
根こそぎに捨ててしまいたくさえなるほどであった。
季節がギコギコと進んでゆく。悪化回復一進一退の重病人のようである。
盛り返して異様に暑くなったり、とつぜん寒くなりまた暑くなったりで、草花があちこち狂い咲きの様子など、どうして余が原因でないはずがあろうか、申しわけないことだ。余を見送りに現れているのなら、花なんぞ大して愛でもせなんだのにいじらしいことよ、そんなことしとったら来春にあんじょう咲けんぞと思っていたら、じきに落ち着きを取り戻して、いよいよ秋も深まった。
この落ち着きと関係がないようにもまた思われぬ、沙魚川の祖母が亡くなった。物干し台の床が抜け落ちた事故だそうな。通夜に沙魚川が帰郷した。郷を出た組であった。酔いつぶれた生臭坊主の代わりに離住が読経のつもりのうなり声を上げるばかりな法要が済むと、磐井と美土里、それからほかの居残り連も伴って、あるにはある繁華街の居酒屋にて久しぶりに大勢で飲んだ。美土里と磐井が周囲と旧交をあたためているさまを見ていて、何だふだんは会うておらんのかと意外に思われた。美土里など今も番台に座っているから顔を合わせることはなくもなかろうに。それほどまで余の取り巻きを継続せんの選択は世間との断絶を余儀なくせられるものであったか。
過ぎし日の諸々の可笑しきことかわゆきこと馬鹿らしきこと話し合い、ひとしきり笑うたあとは歓楽極まりて哀情多し、誰も彼も沈黙しがちとなって、憂いすら漂い、それでも解散しかねてぐずぐず残っていた。店を出て、何某の家の裏手の原っぱにある昔日の秘密基地――トラックの廃車を礎にポールや板を出鱈目に組み立てた夢の城――にて、火の粉の舞い昇る焚火の明かりの中に飲み直した。
酔い心地にあらためて眺めれば、郷を捨てし沙魚川と思っていたけれども、やっぱり心は郷里にあって、ほかのみんなも本質的には愛すべき取り巻きどもじゃと、河海は細流を択ばず、既往は咎めずの心に休らいでいたところが、祖母の死を悼む沙魚川、どうも先刻から思い内にあれば色外に現るの観弱からぬ様子と思うていたら、酒が悪く回ったものか、赤い顔がだんだん青くなり、遂にぼそりと宣わく、
「同じ死ぬことやのに、タクヤンのとは違うな、比べたらえらい軽いな。祖母ちゃんのんは、何の役割でもないことやからな。……世間じゃ毎日人が死んどる。ほんまにぎょうさん死んどる。そやけどそれぜんぶ合わせたってある意味、タクヤン一人に敵わんな――。まあええ、もうすぐ奉祀やけども、みんな、やっぱり帰ったろか言うとるんや。可哀相や言うて。俺ら村出た組、最近けっこう連絡とっとんや。なるたけ帰って来るわ。な、」
そして、どんな心情の排泄せられたものか、「へッ、」と不可解なる一笑い。
――沙魚川の胸奥も酌んでやらんけりゃならぬ。清濁併せ呑むの度量がカンジン。君子は同ぜずとも和す、和を以て貴しとなす、超然々々、と思って黙っていると、
「……帰って来んでもええ」と磐井が言った。座の白けるのをものともせずに、巨漢の体躯をぶるぶる震わせて、「帰って来んな。一人も帰らんでええから、そない言うとけ」
見れば居残り連は誰しも磐井に同調の面持ちであった。だからとそれ以降、昔のように余の取り巻きの義務に戻るわけでもなかったけれど、彼ら彼女らは純粋に、奉祀に来てくれることは確実であった。この顔どもを見渡しながら丸太に打たれ、大いなる梵鐘を務むる最期の視野には、うるわしき幼年時代の幻影が映ぜられよう。
心強きかな。ありがたきかな。
磐井が忙しくて、余は独りぽっちであった。美土里の仕事の終わるのを待っていた。
美土里は小学生高学年のころ、学校に行かれない時期があった。担任の教師が怖かったのである。強い内斜視な男の先生で、授業はやさしく話は面白く、よい先生であったが、彼女は顔が怖かったのである。画竜点睛を欠きたる憂き世、いくら中身がよくっても顔の造作に生理的恐怖を感ずるのだからどうしようもないことであった。
先生は美土里の家に根気強く訪ねて行って、遂にふたたび登校させることに成功したが、ともあれ、美土里は不登校の時分にはよく余の家に来ていた。余は、上級生はもとより先生すら恐れることなく、しばしばズル休みしてはごろごろしていたので。父に叱られたら雉子が味方についた。雉子が出ればもう余の勝ちで、過ぎた折檻を深く悔いていた父は翳りを帯びて、もう知らん勝手にせえ。
余は恐竜が好きであった。形相恐ろしく、巨大で強く、そしてきちんと滅びたから。狡猾でだらしない人間とは違う、潔い文化を持っていた先人として憧れていた。余一人でも恐竜として生き、時すでに遅しといえども、醜悪なる人類の死に損ないを、独り滅びるを以て雪ぐ救済を夢見ていた。
美土里と余は恐竜図鑑をめくりつつ、一緒に絵を描いていた。何枚も描いていながらまだトリケラトプスとステゴサウルスさえ混同する美土里が余は許せなかった。しかし母も姉もこの区別はよくつかぬのだ、どうして女という性は現実や肉体に直結しておらぬものにはかくも冷淡であるか。
余が美土里の部屋へ遊びに行くこともあった。ぬいぐるみを乱暴に戦わしたり、手足の回るお人形に間抜けなポーズを取らして遊んでいたのだけれど、美土里も一緒になって笑いころげていた。
中学時代にも時おり訪ねて来た。余が休む日を聞いておいて、それに合わせて休んで来た。もう恐竜の絵を描くでもなかったけれど、あの頃は何をしていたのであろう。おそらく黙って漫画だの雑誌だの読んでいたばかりだ。まだ体を触ろうとはしなかった頃だ。肌や髪や粘膜の匂いは他の女体たちにいやというほど嗅がされて、肉欲はすっかり疲憊していた頃だ。能動的に欲し出したのはようやく順応してからしばらくのちであった。触ったのは、女子高から帰って来て、異国情緒おびただしき成熟を遂げたる美土里であった。
ともあれあの頃は、いつでも美土里のほうがこちらに来ていた。今は余のほうが待ちぼうけである。
視野の端に銭湯を据えて、通りの角で煙草を喫みながら待ち続けるうちに、降りて来る記憶も移り変わり、思えば美土里は少女時代、不当な目にさんざん遭っていたものだ。
どのような目に遭っていたかを強いて思い返すのも何だか美土里の魂をわざわざ重ねて痛めつけるような気がせぬでもないが。美土里は余の体験し得ぬ痛手をたくさん負うている魂の資産家であった。おっとりした彼女の発作的なたびたびの不登校、加害者どもは集団でやったのだから誰にも責任なく、ただちに忘れ、罪の意識のないために冥府においても加害者ではなくなる天理、いわんや人界においてをや。
どうせ事の真相は閻魔法王が御案内だからいいと、以前はそう思っていた。今は、閻魔法王も瑣末の加害者なんぞいちいち見はせぬ、というよりか、動的な現世における賞罰の根本的に成り立たざることを、ぼんやり悟らしめられる虚しさに煙草をもう一本。
しかしこの通りも三日見ぬ間の桜かな。昔とはずいぶん変わった。
ようやくそろそろ美土里が出て来そうに思われて、何だか、今日は帰る。
昼日中に独りで歩いていると、買い物帰りの雉子に会った。空き家の石垣に並んで腰かけた。
出しぬけに、子どもが欲しいと言う。それは軽やかな姉弟の四方山話というよりか、余が供物であるので、生き仏のような、妖怪のようなものであるので、そうした相談をするのに適当な没人格的の半存在につきというふうな、どこか敬虔な余所々々しさであったけれども、余にはえらく出しぬけであった。
雉子は余よりも割り切るのが上手で、神父・牧師のたぐいに懺悔・告白するごとく、そのままじゃぶじゃぶ話しているけれど、まあ日頃心のうち腹の底を話し合う相手に不自由しているのでもあろう、ことに女性にそれは拷問であろうとも察しられた。いわく、旦那は必ず避妊するのだそうな。そういう話が堰を切り、色々と微妙なことまで微に入り細を穿ってスッカリ知ってしまうような仕儀となった。
避妊する旦那の心を想像すれば、いずれ雉子を捨ててメモの山と壮大な構想を秘めつつ逃走する時、後ろ髪を引かれる何物をも残したくないのであろう。
話の要所や転換点などでふと雉子がこちらを覗き込み、醜怪なる傷跡が見えると、彼女の心も氷解する。遺伝がいかに宿命を定め、環境がいかに自由意志を支配しようと、少なくとも生まれて来る子どもの顔には確実に傷はないのである。その我が子を抱きたいのであろう。折檻の歪みとは断絶した清らかな乳を飲ませ、ものやわらかに育てて、自己の寿命の先にも円満具足した生命をば延長せしめたいのであろう。個を超越した自我の継続を見るのであろう。おのが個体に充溢する、原初から一瞬も途切れたことのない長大なる系譜を途絶えさせたくないのであろう。そしてはるか未来の何ものか達の大宴会に細胞の末端として参席していたいのであろう。あるいは今まさに我々を衝き動かしている奥部の操縦席の中央で鳥瞰していたいのであろう。短い生涯少しがんばればあとは子々孫々が引き継いで続けてくれる大いなる作業、不死の夢――生殖。これひっきょう純個人主義的の唯物盲信者ですら最終的には肯んぜざるを得ぬ全人間の大本懐であろう。
ただこの時の余は何しろじっくり言葉を選ぶ時間もないような気持ちだったので、不用意にした返事にふさわしくないことを言ってしまったかもしれなかった。生まれて来る子どもの幸福の疑わしきとか何とか。もっと普遍的の意味で言ったのだけれど。雉子は目に見えては反応を示さず、姉らしく許して黙っていたが、こちとらは口にしてすぐ後悔した。いつか埋め合わせをしよう。間に合うかしら。これが余の最期の悲しみであろうか。
余と雉子と、こう人間二人が肌のくっつくくらい近く並んでいて、ぬくもりであろうか匂いであろうか、相撲大会以前の幼い頃には母よりも母性を感じていた姉である。一緒に風呂に入れてもらえば、八つも上の姉の女体は、もう霊肉両面において純粋なる守護者であった。その頃の匂いやぬくもりは、そのこころよさは、もはや思春期を通過した今からは正確に遡られぬものであろうか。面影が観念界には漂うておる気がするけれど、生身の雉子はすでにその媒介物ではないようだ。
ただ今でもとことん味方で、何をしても驚かず、顔をかくまで変形させながらも隣へ腰かけているのであった。余はもうふさわしくないことを言わないように沈黙して、雉子のとめどなく話すやるせない愚痴の、軽やかな羅列を聞いていた。
ぼんやり聞き流しながら、そういえばこの場所は昔々、まだ余が雉子を憎んでいた頃のこと、何の事情であったか、独りで行けるのに彼女が心配してあとからついて来ていて、余は忌々しくすたすた歩いていたというような場所であったが、ちょうどこのあたりだ、悲鳴でもないけれども何か聞こえて、ふり返ると雉子が変に静止して動かぬのであった。
余は苛立ちながらも内心大いに不安になって駆け戻り、ぶっきらぼうをよそおいつつ、どうしたと聞くに、足が熱くて動けないと言う。冗談ではないらしい。その表情の平静なことがかえって異様に思われて非常に狼狽した。まだ生々しい傷痕にひきつれたる目元のみが困惑のきょろきょろ、そんな姉のすがたに途方に暮れて、助けを求める心となったが、ふと気配を感じて見やれば、近くの茂みから真緑色の蛇が鎌首をもたげ、雉子を見つめているのであった。
恐竜に憧れる余は末裔たる爬虫類を好いていたけれど、蛇だけはどうしても駄目だった。蛇のほうでも心得ていて、そこいらの子どもが蛇や蛇や捕まえろ捕まえろと駆け寄れば大きな毒蛇であっても逃げ出すが、余が通る時には、たとい無毒の子蛇であっても、白い口の中をいっぱいに見せて道を塞ぎ、余は詮方なしに迂回を余儀なくされるような天敵であった。
けれどもこの時は瞬間的の怒りに駆られ、殺してやる、口から尻の穴までぶっ裂いたるの気概で以て駆け寄ろうと思うた刹那、殺気の電波でも飛んだのであろう、さっと逃げ消えて雉子の金縛りも解けた。
時が経ち、その姉弟が同じ場所にいるわけであるが、あの蛇は今頃どこにいるかしら、と独り感慨に耽っていた、そこへイキハジが近づいて来て、何をかいわんや馴れ馴れしゅうに話しかけて来おった。
君たち姉弟のことはこんな小さい時分から知っとる云々……そして途中から遠回しに奉祀のことを話し出したとわかって、余は立ち上がり、雉子と別れてイキハジと二人になった。
イキハジはへりくだった腐り笑顔で、僕はたいへんな過ちを犯したが、時を戻せるなら今度は必ず逃げない、何を捨ててでも時を戻したい……それで考えたんや、今年の奉祀には僕も一緒に滝へ立たせてくれへんか。供物をやり直させてくれへんか……そう言ってすがりついて来るから、放せむさ苦しい、姉ちゃんが一緒におったから来たんやろ、姉ちゃんの同情を当てにしたんやろ、殴られとうなかったら消えろ、二度と近づくな、姉ちゃんにもやぞ、その時は殺すからな。
うなだれて、しかしその場を動かぬイキハジにあわれをもよおす余の精神の腐蝕も如何ともしがたく、彼の肩にかけた手のひらに湿り気の気持ちわろきを我慢して、あんたの宿命も、きっとわけがあったんやろう。四の五の言わんと、なるたけ早う死んでみせえな。
イキハジはかぶりを振りながら去って行った。何か発狂したようにふるまおうとでも思うけれどしょせんできないのであろう、せめてかぶりだけは中途半端に、見えなくなるまで振っていた。
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