――それで終わった。その後もあるらしかったが、確かに最後の一冊ではあったし、朗読は二人に任されていたので、終わりであった。
何よりも、読み飛ばされた分量が相当なものだった。中には、おっと言うような花が咲いているところもあるに違いない。けれども陽が当たらなかった。
土橋さんのお宅にお邪魔した時の印象を思い返すに、電気ガス水道が止まっているとか、そんな気配は感ぜられなかった。我々五人のほうが卑屈で、向こうが毅然としていたが、そんなに殺伐とした感じも受けなかった。確かに電気はつけていなかったし、飲み物も出されなかったけれど、いきなり押しかけたこちらの無礼にかなった空気だった。
決まっていると言われていたラストが書かれているのかどうかも、判然としない。あれでそういう終わり方だったのか。我々の闖入が意想外に中絶させたのは確かであるが。いやしばらく前にやめていたのだろうか。日記が、その性格上、こういう終わり方しかなかったのも確かであった。我々がちょうど終わったところにタイミングよく現れるような救世主でないことも確かであった。何でもかんでも確かであった。
土橋さんの日記をどうすべきか話し合った。
「燃やしたるんがええ」と庄原。
「あかん」と半田。
「でも、持っとくのも悪いやろ」
「うん……」
「返すんか」
「みんなで読んだあとに返すんもあかん」と貴崎さん。
「何でや」
「何でかは、よう言わんけど。よくわからんけど」
「正直、土橋さんのとこに戻るの怖い」と川野さん。
「何で怖いんな」
「そんなん……」
友だちが颯爽と救い出しに来ることを夢見ていた箇所があったはずだった。これはSOSであり得るか。それにしては長大過ぎる。あの箇所を掘り出してもらえるとは限らぬ。それにあの、もう来ないでくれというじっさいの言葉、背後に隠れた訴えがあったとしても、面と向かって言われた我々はもはや立ち向かわれなかった。
今頃待たれているのであろうか。そんな大事に巻き込まれてはならない。ここまで大きなことになるとは思いもしなかった。何にも思ってなんかいなかったのである。
けっきょく、燃やすべきだと一致したが、いくら一致しても、行為として、そこまではできなかった。後部座席の隅に置いておいた。
車を動かした。ややして、廃墟の残骸が残る空き地があった。周囲からなかなか見えない空き地だった。最前遠くに見えていた大きなショッピングモールまで行ってスコップを買った。シャベルが欲しかったけれど、それを買うのは危険だと思われた。
駅前にあるショッピングモールだった。こんな遠くまで来て、なかなか僻地に入り込んでいるはずだったが、線路に先回りされていた。しょせんいつでも誰かが迎えに現れ得るところにいるのだった。もっと奥地に行くのも人目が減る代わりに視線は濃厚になろう。しょせん遠からず近からずのところに隠れるしかないのだった。
これから土橋さんの家に押しかけて、代わりに支払うものを支払って住み着いて、みんなでサナギになるか。男女三人ずつで平らにもなるが。そう話し合いながら空き地に戻り、長いこと土を掘って、石ばかりになってそれ以上掘れなくなると、日記の詰まった段ボールを置いた。ふたたび長々と、元通りかぶせた土の真ん中に、近くに咲いていた名も知らぬ花を植えて、ペットボトルの水をかけた。供養であった。
我々の中の誰一人、日記は書かなかった。女流作家は二人いるが、彼女たちの書いたのは創作だった。ここの甲乙はわからぬが、日記を書いたか書かなかったかの甲乙は我々に明らかであった。
しかも彼女は独りでやっていた。しかも我々に捨ててみせた。
思えばあまりに思い切った奇行だ。とつぜんの事態にわけもわからず手近な物を投げつけて追い返しただけのことであったなら、今頃後悔しているかしら。
わけもわからず埋めた我々は気も狂わんばかりに後悔しているが。あとで工事でも始まれば、掘り返される。日記の作者は――しかし特定され得ぬか。さすがに。何ぼ何でも。隣人の山城さんという名と、マンションという手がかりだけで、そうシッカリ動きはすまい。事件ではなかろうと見れば、さっさと処分するだろう。社会人たちの忙しさは。
土橋さんは、癌細胞を見事に引っこ抜いて、捨て得たのに違いなかった。再発率や余命は知らぬ。
我々はそれと自らにも悟られぬよう注意しいしい、本物の同類から全力で逃げた。
大量の文章にあてられた川野さんと貴崎さんは、見るも無惨に疲弊していた。
半田は穏やかそうだった。そのまま死んでしまっても不思議ではないほど、とめどなく鎮静しているように見えた。
後部座席の隅の、泥だらけの湿った段ボールは、一度土葬せられて成仏したかのごとく、もはや怨念を発してはいなかった。
我々は悪党にならねばならなかった。そうでなければ生きられぬ。なお悪くすればこのまま生かしめられ続ける。悪党は行為によってのみなられるものであろうか。思考だけでなられないものだろうか。もはや洒落や冗談では済まない、真剣な問題なのだが。
我々の体臭は、言ってもまだ若いものなのだろう。重なり合うように眠っていて、こう充満しているものは。
「霊界においては既に作家」という発言の咎で訴えられた二人の女流作家による弁明――わたくしたちは無為でありながら、あたたかいごはんをいただき、ぬくぬく眠り、まったく罪びとでありますが、それでも、わたくしたちは、息をしているだけで一種の労働なのです。一日々々が服役なのです。何もわたくしたちに限った話ではない。誰もが苦しい。苦しみの点において誰を上回るのだともゆめゆめ思わない。
しかし常時目が回り、物との距離もあやふやで、記憶は嘘くさく、世界は遠く、頭の中で他人がしゃべり――すみやかな自然死か、自殺が罪でなくなるほどの絶望が欲しいが、福祉と善意が死なせてくれぬ。わたくしたちは、こういうことに対して沈黙していたいのです。沈黙させてくれなくしたものは、いったい何でありましょう。
確かに、わたくしたちの呻き声や、流す血は、麻痺や離人に薄められているかもしれません。ですけれど、そんなに薄いですか。本当に、そこまで軽いと言えますか……。
――わからない。けれども、私しか知らぬ庄原のギター(我流でアルハンブラを弾く)、あるいは半田の絵、女流作家たちの小説、すべて穴蔵の奇人だけあって、私には上々だった。しかしそれらは、何らかの罪であったろうか。越権行為で、身分違いの、わいせつ物であったろうか。
『もし不幸にして時に会わず、人に知られず、世に埋れて一生を終るようなことがあっても、別段不平を云うのでもなく、或はその方が気楽でよいと思ったりする』(谷崎潤一郎)――然り。
『もっとも、こういうこともある。つまり、ぼくらのような地下室の住人は、しっかりと抑えつけておく必要があるということだ。彼は、たしかに四十年間も無言で地下室に閉じこもっていられるが、いったん世のなかへとび出したが最後、それこそ堰が切れたように、しゃべって、しゃべって、しゃべりまくるものなのだ』(ドストエフスキー)――知らん。
朦朧とした私の頭はアラスカの鮭のことを考えていた。あるいはこれは車内の誰かが見ている夢なのかもしれぬ。以前にみんなでテレビを見ていて、やっていた。
一度海に出ていた個体は巨大に育ち、海に出なかった個体の三倍もあって、鼻も長くひん曲がり、同じ生き物とは思われなかった。
苛酷な海で生き残った屈強なものの中でも、川に帰って来て、上流までさかのぼり、メスを奪い合う死闘に勝ち抜いたオスだけが、ようやく交尾するのだった。
しかし、最後の瞬間になって、戦わずに隠れていた三下たちが、さっと割り込んでいた。
雌雄そろって口を開け、卵を産みつけ、精子をかけるあいだは、割り込みを追い出すことのできない、忘我の間隙だった。そうしてけっきょく誰の子どもかわからない稚魚がたくさん産まれた。
不正だ。罪悪だ。しかし鮭は絶滅したろうか? こういうことが世界をかえって安定させているのなら、私も色んなことに消耗するのはやめよう。自然がそうなんだから、私のちっぽけな尺度や感情じゃあ、とても太刀打ちできぬから。
強者と弱者の微妙な均衡、そんな半端な経営でなければ、我々のような劣等者は生まれようがなく――次々と弱者を殺す強者こそは強靭なる子々孫々における神々――こうまで育ちようもなく、今頃こんなところで、生まれなかったよりもマシであるかどうかなぞ考えずに済んだろうものを。天への忘恩も呈さずに済んだろうものを。
逃げることにも逃げられて、最後の立ち泳ぎも寝転んだ。
主役はいずれにせよ海に出たことのある鮭だ。さっと割り込む三下も海に出ていた個体の話だ。この狡猾も生き残る強さだ。けっきょく誰の子かわからぬ云々も、川に残っていた凡骨はオスもメスも最初から除外せられた話だ。
主役の連中が正統の系譜を全うして死に、流れて行って熊や狐に食われているあいだも、我々は石の隙間に生きている。やがてはカワセミなんぞに空へ運ばれ、たたきつけられ、飲み込まれて吸収されて美しい羽毛になるであろう。正統の系譜は永遠に海と川とを往復し、循環していればよろしい。我々は空の上から美しき糞として自らを引っかけてやる。
我々を襲う不安が、とことんまで高まれば問題はないのだ。錯乱は、過ぎ去れば透き通った正気がやって来る。内部にあっても非常に懐かしい瞬間々々がある。
しかしずっと緩慢に、揺らされ、握られては放され、膜をかけられ、蓋をずらされているばかりであった。正気が言うアバヨに待ってくれとすがりつき、それによってアバヨは高まり、アバヨはなおさら正気を追い出し、気づけば自ら存在するアバヨにすがりついている我々はもう正気が完全に見えぬ。
正気はどこにあるか。確かな正気は。
それは我が家だ。正気とは何の関係もないが、我々には我が家だけが残っていた。
我々は我が家に向かって車を飛ばした。
半田がぎらつく目を開けていた。
しかし誰もがそうだった。
運転する庄原だけが、危険なほど安定しているように見えた。
とうとう懐かしの住宅街に入ると、夜なのに馬鹿に明るい。ある空き家が火事なのだった。我々の帰還に対するこれはどういうリアクションなのであろうか。また一人変な奴が空き家を借りて、出戻って来たということなのであろうか。それがつまりはこの厳然たる火事なのであろうか。まだ現れていない消防車が通れるように配慮して駐車し、ゆっくりと降りた。そうして人だかりにまぎれた。
空き家に忍び込んで遊んでいた中学生たちの火の不始末が原因だと、一人のおばさんが言っていた。誰かの親じゃないかと思ったが、思い出せなかった。向こうもこちらに反応しなかった。
中学生たちの起こした火事は、我々が起こすはずだった何かの身代わりであったろうか。我が家は幾筋か向こうで、まだ見えていなかった。あるいは我が家なんぞ、何日も前に燃え尽きているのかもしれなかった。
人々が炎を見上げていた。と、とつぜん庄原が、中に人がおるかもしれんと言った。すると知らないおじさんが、もう中にはおらんと答えた。こんな時は知らない人ともしゃべる。嵐の夜にあらゆる生き物が仲良く洞窟へ避難しているような。そのような世界は美しいやら醜いやら。
私は、庄原がおじさんの言葉に納得せず、
「おるかもしれん!」
と言って飛び込んで行くのを想像していた。まだ中にいるかもしれない人を救えるのは、今、世界中で庄原だけだった。周囲からああ! という声が上がるのまで聞こえた。
川野さんが即座に追いかけて行った。庄原が開けて消えて行った玄関扉に飛び込んで消えた。
一瞬の確信で、半田と貴崎さんは逆方向へ逃げると思った。その映像まで見えた。しかし世の中へ遂に役立ち得る今、二人は手をつないで庄原と川野さんのあとに続いた。最後まで悠然と歩いていた。
私も今すぐ続かなければ扉が閉じる。きょうだいたちがこじ開けた天界への通路が激しく燃えていた。そばにいたおじさんが察して私の服をにぎっている。咄嗟の人道的衝動だ。こういう行為は善であろう。私は激しく振りほどいた。
飛び込んですぐのところにみんないた。世界中の叫び声が聞こえていた。我々は新しい恒星の上に降り立っていた。
丸まって燃えている四人はけっきょく私から強引に帝王切開された未熟児であった。その四つで一つの胎内に、私はもぐり込みたかったのに。そこで生まれ直したかったのに。
ヤドリバチが飛び去って行く。もういたずらに卵など産みはしないことを願う。
どちらが現実であるかわからない。火事が鎮まればわかるだろう。
その時まで生きていたくなかった。
文明の火が鎮まるまで生きられるのなら話は別であった。
"ホルマリン・チルドレン 12(完)"へのコメント 0件