ホルマリン・チルドレン 8

ホルマリン・チルドレン(第8話)

尼子猩庵

小説

9,325文字

 神経症歴十年を数える二十九歳の「私」は、降って湧いたようなあぶく銭をはたいて一戸建てを借り、少年期を過ごした山あいの住宅街に戻った。そうして、小中学生時分に引きこもりになったまま今も住宅街に残っている元同級生たちを、集め始める。

※第四十二回(2018)すばる文学賞三次予選落選

熱が出た。四十度まで上がって、三日で治った。頭の中の塊も心臓の瘤も取れないが、これは以前の状態に戻っただけのことだ。菌だとか免疫力だとかいうよりも、安定剤を急にやめた副作用による熱であると、四十度へ達した時に観ぜられた。

病院には行かなかった。かぜ薬も飲まなかった。十代の終わり頃タミフルでおかしくなって以来、かぜ薬のたぐいがイヤだった。正座してわけのわからぬことを姉にまくし立てたらしいのは覚えていないが、その手前までは覚えている。まず口の中に物を詰め込まれたような感覚があり、次いで頭の中が父親の怒鳴り声から始まって世界中の叫び声で充満し、胸のざわつきが際限なくふくらんで激しく肉体を動かさずにはいられない、だいたいそういうことだった。

この錯乱、じつはがんらい持病めいたものであったのが、タミフルで大きに誘発せられて、しかしそれ以来かえって治まってはいるのである。劇薬として退治したかのように。

あるいは心理的の問題で、あの症状は無意識下にタミフルと接着せられ、飲まなければ出て来ないと思い込んでいるだけかもしれぬけれども――嗚呼しかし、これはそんなふうに見破ってしまったらば、逆さまの精神分析に、かえって錯乱を戻すかもしれぬ。

そもそも想起というものはそれ自体が怖い。幼少期の記憶は、古いものでは二、三歳頃か、父親が炊飯器を叩きつけているものだとか、廊下に置いたビー玉が勢いよく転がるマンションの傾き、六歳阪神淡路大震災の悲鳴、いや何よりも十歳交通事故の瞬間の、どうしても思い出せない記憶というものが地雷のように眠っているのだ。ヘタに歩き回って踏んづければ、どれくらい吹き飛ばされるかわかったものではないのである。

うつるから来ないほうがいいと言ったけれど、みんなうちにずっといた。おもにリビングで静かにしていた。私は部屋で寝ていて、一度も降りて行かなかった。

何だかやたら掃除機をかけなければと思った。じっさい実家にいた頃よりもよほどかけていた。おもに、床に落ちている長い髪が気になって。貴崎さんのだったら、よいというわけではないけれども、まあよかったところが、庄原の可能性もあったので。庄原がイヤというわけではなかったけれども、貴崎さんではない庄原というのは耐えがたくて。

布団も干したかった。布団を干すという文化がないらしく、女性二人の布団も私が干していた。あんたが潔癖過ぎるだけよとなじられたけれど、取り込んだ布団に二人は顔をうずめてくんくん嗅ぎ、「お日さまの匂いがするわァ」と言っていた。

食事は、川野さんが作ってくれていたようだが、なぜか必ず庄原が持って来た。どのようなやり取りがあったのか知れないけれど、来るのは彼だけだった。

「きつないか」と言った。

「あァ大丈夫。むしろ四十度超えてから、めっちゃラクでな」

「それヤバいんとちゃうんか」

そう言って笑っていた。

「何かふっとマシになってな、治りよったわと思ったら四十度超えとった。――まあいわゆる神経不安がどっか行って、それでラクやねんわ」

庄原はわかると言った。やはり彼も同じクチなのだった。その話をした。庄原は薬を一度も飲んでいなかった。病院なんか行ったら病人になる。それに病院なんか、治ったら毎日でも行ったる。行かれへんから病人なんや。そう言った。私もよく考えることだが、私のは通院し続けるための逆説の呪文のようなものだった。庄原は有言実行で、言ったのは今が初めてだから不言実行で、つまりは言霊のさきわう国の人だった。

私も本当は庄原のようだった。医学への不信ではない。診察はありがたい。しかしいわゆる心の病を治すというのは、人格の改造かもしれぬ。それは準殺人かもしれぬ。魂のことを考えるならあるいは殺人より恐ろしい。そんなことを任せるのはお医者さまに気の毒だ。恋人だとか、そういう存在にしか任せようがない。もしくは自分だ。自分だったらどういう結果になっても人のせいにできない笑いがある。決して可笑しくはないけれど、それだからこそ笑いにすがるのほかはないものがある。

最初の強烈な印象がだんだん失墜していた庄原にもふたたび上昇して来るものがあった。

つまるところ私と庄原は一勝一敗である。世間からの敗北の中での引き分けである。

私の理屈では世間と我々も引き分けにできるが――無為徒食は世人には純粋の苦痛でしかない事実を以て――この理屈の所有を以てただちに庄原からもう一勝を積めるかもしれぬ。

嗚呼こんな戯れ言もひとえに熱の賜物であるが、こうした自嘲も熱の賜物だから言うまい。この分別。これ熱への一勝である。

庄原に見つめられていると、大型の飼い猫にでも見つめられている気がした。これの前では病気になってはならぬのだと思われた。弱っているところを見せたら噛み殺されてしまう。いくら懐かれていても。犬とは違う。

「――……お前は疲れとんや」

庄原はそう言って、じっと座っていた。優しかった。壁に飾ってある絵など見ても、何も言わなかったが。半田の絵だったのだが。飾ってくれと言われて、ほんまに飾ったんかと言われた、画用紙にシャーペンの抽象的細密画で、よくもまあこんなに細かく描くと思う秀作なのだが。

それから思い出話であった。小学五年の頃、担任の暴力女教師と対決した。私は反抗と挑発をくり返して頭を叩かれ喉を突かれ髪を引っ張られ、ちょうど足首を剥離骨折していたギプスを蹴って回られる、なるたけ多く打たせるノーガード戦法であった。

ゴンタの友人も廊下に引っ張り出されてタイマンで叱られると、いくらゴンタでも泣いたけれど、私は何をしても泣かなかったためにことさら許せないらしかった。「何やその目は」。これはこの女教師に限らず、小中高とほかの先生たちにも、または兄にもバイト先のコチンピラにもしばしば言われたが、どんな目なのか自分ではいまだにわからぬ。ともあれ打たせるだけ打たせる戦法は少々功を奏し過ぎ、ほかの生徒が学校に行けなくなって体罰が発覚、どこかへ飛ばされて行った。

暴力女教師は追放された。あの暴力はしかし私が過剰に引き出し過ぎたものでもあった。あまりに容易く人の職を奪える人道的権力、被害者のシンボルとして結果的に扇動した後味の悪さ。

そしてチョロさに幻滅を感じた。金を盗んでいないと言い張り、強面の先生の目を見つめ返し続けていて言われた「嘘をついとる人間は目を逸らすもんや」という言葉も、じつはわかっていての、最後通牒だったかもしれない。「もうこれ以上は疑い切れんが、ロクな大人にならんぞ。ええんか」と言っていたのではないか。それでもけっきょく暴けなんだことに幻滅した。

学習塾の塾長に読解力のなかったことに幻滅した。空手の師範のコスさに幻滅した。我が十二歳の鼓膜を破った十六歳の茶帯も含め、カンフー映画なら悪役の部類であった。

しかし庄原との思い出話は、暴力女教師が休んだ日に、私が時の親友と諷刺漫才をやって、たいそうウケた場面へ連れ戻してくれた。クラス一丸となった、あれは政治的興奮であった。

庄原は庄原で女教師に対し、友人たちと授業をエスケープして問題を起こした。小五のチビ助どもが学校の授業中に、近くの公園で笑っていた。私がその集団エスケープに入っていなかったことは、やっぱり今でもうそ寂しかった。

ふと身の上話に移って、庄原が父方の祖父のもとへちょくちょく通うということが発覚する。軽く掃除したり入用の物を出したり仕舞ったり、してやるのだとか。親族でゆいいつの理解者につき。一人きり通って。わりと昔から。

「庄原のお祖父ちゃんって、聞いたことなかったわ。――昔からおった?」

「当たり前じゃ。お祖父ちゃん途中からできるか」と笑う。

思い出話はいつまでも楽しく、けれどもやがて……ということの起こる前に、庄原は戻って行った。

川野さんと貴崎さんがそれぞれ本を貸してくれていたけれど、彼女らが独りで読んだそれらの本は、何だかひらけなかった。なまめかしく思えばいいやら、痛ましく思えばいいやら悩みながら、ただ置いておいた。

本は捨てて来たけれど、独学の猿学問をしていた頃に使っていた電子辞書は何だか持って来ていた。高熱の凪の中でそれを見ていた。

辞書にもある種の偏りがみられた。いくらか版の古い辞書ではあるが天下の辞書が偏っていた。志賀直哉や手塚治虫など編纂者の好意が厚い。やれ散文の到達点だの、やれ漫画を芸術の域に高めただの。大いに賛成だけれども、対して何人かの思想家や哲学者や小説家や映画監督や画家は人物の重量に比してえらくたんぱくで、いく人かは載ってもいなかった。

載っていない人がしばらく続くうち、スペルの類似に引っかかったり、ある人物や事柄の説明文中に登場した語を次々とディクショナリーサーフィンするなりして、古今東西の知らない人が次々出現する。当人の行動や作品そのものよりも他者の評価や後代の普及というものがいかに絶対であるかを思いつつ、しばらく人物や事件など見ていた。

さらに百年も経てば歴史なんぞもまったく変わって、見も知らぬ偉人が学童たちに暗記されているかもしれぬ、言葉自体の意味も変わっているかもしれぬと思うと、この辞書というもの、暫定的の短命な最新事実の宝庫をなでてやりたい心持ちであった。

色々多機能な電子辞書だったけれど、なかんずく《家庭の医学》は妄想癖の神経症者には悪魔のバイブルであるからして誘惑も強かった。使い古したためにボタンの感度がたいそうにぶっていて、次のページに行かないかと思えば二つ跳ぶし、《食の医学》なども体格・体質の違う西洋の流行に甘く乗じている気配がするし、そういうことに強いて反応するのも疲れるしで見るのをやめた。

この電子辞書もそろそろだ。MDウォークマンやビデオデッキと同じように、遠からず壊れたらそれまでであろう。川野さんのコピー機も、廃インク吸収パッド交換を報せる表示が出て、電気屋さんに持って行ったら、もう何年も前に製造中止で部品もないため修理できず、買い替えしかなかった。やがて骨董というものも存在しなくなるであろうか。

それとも電化製品にも魂が宿るか。そこに一つだけ宿るにはつくりが人間過ぎるけれども。そうなると電化製品はノイローゼしかおらぬ道理だ。大いに好かれ得る骨董だ。

子ども時分にはたくさんの物を壊したけれど、あの二度と戻らぬすがたへ破壊する瞬間の爆発力は、むしろ物の側の、内部でいかに大なる嫌悪が飽和していたか、壊れたくてならぬタナトスを物もいかに持っていたか。あの一瞬で不要物に帰する瞬間の、ため息、それに憑依される重苦しさ、ちょっと気が変になる感覚を、爽快と呼ぶのは早計だ。

――けっきょく何の熱であったのか、治ったし、誰にもうつらなかった。

全快祝いに何だかあれこれ雑然ともてなしてもらったが、気恥ずかしいやら、ほかの四人もこの三日のあいだに何ぞ考えるところがあったくさいが、めいめいの中でどう展開したものか知らないけれども今はその浅からぬ鬱積を一切合切捨て去るらしい清々しさが見て取れた。

深夜を過ぎておかしな高揚感が頂点に達し、庄原の車で誰もいない坂下の広やかなグラウンドへ赴いて、きれいに均されてはいるもののぐるりを木々に隠された薄暗い電灯の明かりの中、気づけば男三人裸で走り回っていたら、途中から遠くで女二人も同様にしていたことなども、まったく童子の遊びであった。

 

気ままに泊まったり帰ったりしていたけれど、全体として、みんな我が家に住んでいた。

それでもしばしば帰って行った。あるいはその努力によってすべてが守られていた。みんな実家ではどのようなのであろうか。もう口答えしたり閉じこもったりする気力もなかろうか。常識人かのように、健常者かのように、何の問題もないかのように過ごしているのであろうか。社会不適合者かのように、病人かのように?

半田と庄原が帰って、男が私だけの時も増えた。多少構えたけれど、結託していじめられるようなこともなかったし、何か重苦しいものをしょわされるようなこともなかった。時おり手持ち無沙汰の変顔を見せて来た。静かに為さんとしたげっぷが大きく詰まったり、おなかがきゅるきゅる鳴ってももはや平然としていた。ソファであられもないうたた寝さえしていた。

(もっとも悪酔いしたオバンに少々からまれたことはある。貴崎さん「ぶっちゃけ、わたしたちが夢に出たりすることある?」。私「そらあるんちゃうの」。貴崎さん「それってやっぱりえっちな夢?」。私「言えるかい」。貴崎さん「言うてるやん」。と言ってのけぞって笑う。川野さんも「言うたやん」。と笑っている。貴崎さん「夢精した?」。川野さん「ええ加減にしい、もう」。たぶん私がイヤな顔をしたのであろう、貴崎さんも沈黙した。しかし川野さんもあるいは魔界を知っているようであった。文学なんぞやっているからか、それとも実際上にもか。そうならどのように。そこに貴崎さんとの直接・間接の協力はあったであろうか。じっさい私が見た淫夢はそういうもので、私自身は登場していなかった。したがって夢精に至りようのないものだった。いわんや起きているあいだをや。私は既に十代から精力減退に悩む現代人であった。

――ところで半田の、起きているあいだの云々は、少なくとも私と貴崎さんに目撃されていた。言わないけれど川野さんや庄原にも目撃されているのかもしれなかった。――……そういうことよりも何よりも私の気になるのは、貴崎さんの作品は川野さんが大部分直しているのではないかということであったが、これは口が裂けても聞かない。)

今いない人に対しての、内緒話だの陰口だのは起こらなかった。

私が家に独りでいる時、みんなはどこかで会っていて、私について悪く言っているかもしれないなどとよぎりはする。けれども、そういうものが近頃だんだん、問題は川野さんだった。川野さんという問題だった。問題になっている時には、大いに問題だった。

その南国的な夢想は否応なしに来るものだった。それは異様に望ましいとも思われ、血のつながったきょうだいよりも生々しく生理的の障壁を感ずるもあり、どこが精力減退に悩む現代人か、ともあれ地熱は湯気の濛々たる温泉を湧かすので、こればっかりは肉体を持つことの代償として避けられず、のぼせて茹で上がってしまいそうなので、消去したような気もする電話帳にいまだ登録されていたある人に、軽い電波を飛ばしたのである。

先方のアドレスよ変わっておれ、受信しないでくれと思いつつ。けっきょく返信は来たし、近況の報告もし合ったけれど、ここで留めておいてくれと願いつつ。問題の部位だけを預けて、あくまで精神的の上だけで、この人との思い出に癒着せしめて、ただ地熱の冷めるところまで持ち込めたらと願いつつ。

けれども相手も生きている人間だからこちらの一方的に望まれる距離には留められなかった。久々の連絡は即座に立ち入ったものになり、思った以上にはやばやと踏み込んで来られた。

その日、みんなぽつぽつ帰って行って、川野さんだけが残った。後片づけの手伝いだった。相変わらずみんなだらしなく飲んでいた。私も川野さんも酔っていた。

アルコールで人生をじっさいつぶせそうなのはしかし私と貴崎さんだけだった。あとの人たちは体の様子を見ながら青い顔をして飲んでいる。ことに川野さんのアルコールは付き合い程度の優しさであった。

協力して片づけた。それから、ごく自然に、泊まって行くと言う。

「こんなけ遅なったらもう、帰ったほうが不良やわ」

そうして、どうしようもなくそういうことになるのかと思った。双方の、そういう周期が、反対向きにぐるぐる回る大きさの違う歯車が、たまたま噛み合うようなことに?

そこで私は、助けを呼ぶように連絡した。向こうの平然としたフットワークの軽さは風のようだった。外部からこじ開けられた寒風が隅々の埃を巻き上げて目も開けられぬ。じつはもう、ちかぢか全員が帰る日があればと思わないではいられないようなことになっていた。とっくに、川野さんという問題ではなくなっていた。

二つ年上、ホームセンターでアルバイトしていたごく短い期間に同僚だった。私は行く先々で、毎度尋常だと思われていた。のみならずデキるほうとまで思われていた。この時はしかし初見で脆弱性を見破って来た彼女が、何くれとなく気にかけてくれていた。初日と二日目と、たいへん優しく、根本的に見下した感じで。

それが三日目、何だか今日は顔色が優れないなと思っていたら、逆に大丈夫? 相談乗るよと、車で送ってくれたのだった。

ところが蓋を開けてみれば、先輩たちも彼女のことはいく人か知悉していたのであった。後日にやにやしながら聞かされた通称がダイオウイカ。最初はマグロならぬカツオ、転じてサメ、最終的にダイオウイカとなったとやら。

彼女も自分が何と呼ばれているか知っていて、私のことはマンボウくんと言っていた。

チリメンジャコと呼ばれていた先輩がいた。

ダイオウイカはもう家の前に車を停めていた。彼女は既に事情をかなりつまびらかに知っていて、今うちには人がおると言うと、中を見たいと言っていたのをアッサリ諦めた。

「――ちょっとツレが来たから、話して来るわ」

と私は川野さんに言った。

「そうなん」と、具体的に誰なのかも聞かず、どれくらい行くのかも聞かず、さらっと答える川野さんはえらく包容力のあるような、そもそも私によぎった二つの歯車なんて元からなかったような、落ち着いたふうに思えたが、「――あたしが帰らんでええの? 上がってもらわんでええの?」

と言う口調の、あいまいさ。ふだんの川野さんならあたしが帰るわと言って、断乎すぐ帰るだろうけれども動かないのは、もはや前に停まったエンジン音がわかっているから、逃げ場がないからなのか。あるいはたいへんな恐怖を覚えさせているのかもしれなかった。

「ええねんええねん。ユックリしとって。ちょっと行って来るから」

「――わかった。いってらっしゃい」

と言う声の弱さも、ちょっと驚く「いってらっしゃい」も(ただいまは何度も聞いていたが、いってらっしゃいは思えば初めて聞いた)、その目の問い――ツレとやらにあたしのことは話題に出すのか、だって一人で借りている二階建てに入れない理由を言わないわけには行かないだろうから――も、不安――盛り上がり方次第ではどやどやと入って来やしないか――も、雪崩れ込んで来るその一切を私は振り切って出た。

再会は初めてではなかった。先方いわく前から四年ぶりだそうな。もっと経つと思ったけれども。ダイオウイカの車は前と変わっていた。しかし四年なら四年で、目元と口元が何だか三倍速くらいで老けていた。

独身だとは聞いていた。どこに勤めているかは知らないが、何だかもう若者たちから知悉されていない気がした。しかし何かしら間に合っているような余裕も感ぜられた。

あまりに近いからかえって知り合いはいなかろうと信ずるモーテルに入った。四年ぶりにダイオウイカとマンボウになりながら、私は終始、心臓は跳び跳びするし、大きに血流も悪かった。

そして全身の脳裏にはこの人と過ごした時代よりも以前のものが飛来していた。十六歳の頃原付で登った深夜の六甲山の展望台で、常連客と夜景を見ていたキャバ嬢と話した折、わけあってその時期「テンツ」と友人から呼ばれていた私の頭をなでながら、緊張しとうからよ、一人エッチの時は大丈夫なんやろ、それなら心配ない心配ないと慰められた。

あのキャバ嬢には仏性が現じていた。そうでないならば仏性なんぞどうでもよいと思えるほどであった。

川野さんは今頃どうしているのだろうか。もう帰ったろうか。正体不明の私のツレとやらの目がないことをきょろきょろ探りつつ、夜道を歩いて帰ったのだろうか。

それともそんなことをしたら両親からどのような判断が下され、あいまいに保留せられているものへのどんな揺らぎが来るか、その怖さから動けないでいるであろうか。

どうかビールでも何でも好きなだけ飲んで、YouTubeでもビデオでも見ていてくれたらと願われた。

ダイオウイカのただただ辛抱強く丁寧なこと、私に対する激しい同情の念から来る献身も、おのが人生を鎮痛せしめんがための、おのが汚濁を濾過せんがための好機をとらえた触手と思えば気がラクだ。自分勝手の点では向こうのほうが上らしいことが救済だ。お互いを神仏混淆しながら決して共棲のできるものではないことが解放だ。そこにそんなものが寸毫もないから愛や母性や「守ってやりたい」を激しく求め得た。

しかしダイオウイカも何かトラブっていて、それで来たんだったらどうしよう、このまま頼られたら、居着かれたらと思い、その場合の人間関係の増築を思えば、とりわけ半田につらそうな変化であった。

心臓がとことん乱れるのをもぎ取って睡魔にさらわれた。完全にキャパオーバーだった。

揺り起こされた。二十分ほど眠っただけで鼓動はどうやら平常だった。家の前まで送ってもらって、どうなるのかと思っていたら、

「ほんならまたね。がんばれよ」

と言うとダイオウイカは、ウー……マンボウ。とつぶやきつつ私の肩を軽く殴り、呆気なく帰って行った。何か忘れてやしないかと思われたけれど、何が忘れられ得るのかわからなかった。

だいぶと手が震えていた。門扉を開けて階段をのぼりつつ、二階の電気はついている。川野さんの部屋だ。どんな顔で迎えるだろう。きっと車の音で帰って来たことを悟っているだろうけれど、まず階段に座って一服した。タバコを持つと暗闇に白い棒の震えは凄かった。明日の朝、ふつうにこのまま死んでいるかもしれなかった。死因は明らかに心臓だった。

「ただいま」

するともうリビングに降りて来ていた川野さんが

「おかえり」

と言いつつ、尋ねたそうにしている。楽しかったのかどうか。ツレはみんなどういうふうで、今の我々の生活をどういうふうに言ったか。それに対してどう感じたか。大丈夫か。そんなふうな顔だった。

時間的にコーヒーのほうがアルコールよりもやんちゃだったので、淹れてもらった。ツレの話はしなかった。川野さんが軽やかに話す家族の話を聞いていた。何となく彼女も全力で「それ以前」へ引き戻すらしかった。私がツレ(?)と出かける前の世界へ。

私も激しく望んだ。ここから出る根っこであろうと胞子であろうと、この家のどことも癒着させてはならなかった。

体は疲れ切っていた。シャワーを浴びた匂いがしていないはずはないけれど何も言われなかった。ソファにもたれかかって、心臓が弱まっている気がし、何かに殺されるような気がし始める頃、「ほんならね」と言うから、一瞬帰るのかと思ったけれど、川野さんは自分の部屋に戻った。「ちゃんと布団で寝なあかんよ」と言い置いて。

翌朝には何事もなかったように、寝癖をつけて起きて来た。

私はけっきょくソファで気を失うように寝たのだった。そのことについて、

「こら。また熱出るよ」と叱られた。

 

2025年5月1日公開

作品集『ホルマリン・チルドレン』第8話 (全12話)

© 2025 尼子猩庵

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