一時間目の終わりごろ、知明は校内放送で担任に呼ばれて、職員室へ向かった。
途中の廊下では、授業に参加していない生徒たちと、あるいは敵意をむき出しにして肩をぶつけ合い、あるいは笑顔を浮かべてねんごろに握手を交わし、歩いて行った。
ノックして入り、担任の前に立った。担当教科であったけれども授業に来なかった担任は、飲み口の所が茶渋に汚れたマグカップで油の浮いたコーヒーを飲んでいた。
担任の前には一人の、背の高い青年が立っていた。知明はその青年を知っていた。以前近所に住んでいた。白谷啓弥という名前だった。
知明と白谷啓弥は、お互いの乳母が学生時分に同窓だったという間柄から、学年は四つ違ったけれども幼少期より昵懇だった。そういう事情をどこかから聞き知って担任は自分を呼んだのだなと知明は思った。
「御足労かけたね学級長」と担任が言った。「クラスのほうはつつがなく?」
「ええ。つつがなく」
「結構。ボイコットたちの当てつけ登校や、ヒト牧場も?」
「万事つつがなく」
「結構々々! ところでね、」
白谷啓弥を指し示し、
「こちらの青年は白谷啓弥君といって、我が太刀坑中学校への編入生だ。大瓦斯天大学で学んでおられた秀才だけれど、なんでもあまりに難解な定理を発見したもので、ものすごく飛び級なされて、こうなったとかいうことだ。君のクラスに入ってもらうことになったから、よろしく頼む」
「わかりました」
知明は白谷啓弥を見つめた。担任は二人の間柄を知っていたわけではなく、知明にはただ学級長として頼んだのに過ぎないらしかった。
「それでは行きましょうか」
白谷啓弥はうなずいてあとに従い、二人は職員室を出た。
教室に戻る道々は、謎の存在な白谷啓弥のために肩のぶつけ合いがなく、握手を数回交わしただけだった。握手の際、朋友たちは白谷啓弥について軽く質問し、知明が答えて、了解すると、白谷啓弥にも握手の手を差し出した。白谷啓弥は愛想よく応じた。
教室の前に傷だらけな机が一つ出され、瓢藤と小橋がカード賭博をしていた。この二人が歌っている流行歌がちょうど終わりのところだったので、知明は最後のところだけ加わり、
〽それがァ……宇宙のォ……分母ォ…………とビブラートをきかせて長くのばして、歌い終わると瓢藤が知明の腰をばんばん叩いた。腕を上げた拍子に瓢藤の体臭がにおうのを、小橋が窓のほうへ手で扇ぎつつ、
「それは誰だい」と聞くから知明は瓢藤と小橋をとりあえず教室に入れた。
教卓に並んで立って、知明が白谷啓弥を紹介した。白谷啓弥がクラスで三番目に大きかった。それなので二番目に大きな賀谷が決闘を申し込んだ。一番大きな生徒は入学式以来一度も登校していなかったが、式の時から縮んでさえいなければ今も一番大きいはずである。しかしこの時期、とくに大きな生徒が縮むことはよくあった。
決闘は賀谷の圧勝で終わった。それから白谷啓弥は取り囲まれて質問攻めにあった。賀谷も大いに質問した。
二時間目・保健体育の授業に、賠償宇宙人(別号贖罪未来人乃至堕先祖)の少女が一人連れて来られた。保体の先生が彼女の年齢と発見地を説明すると、瓢藤が挙手して経路を聞いた。
先生が答えるのにいわく、中央の教育委員会から送り出されて太刀坑中学へ来るまで、三校通り過ぎたまでだということだった。これに対して瓢藤は「ひでえ中古だ」という意味の隠語をつぶやいたけれど、隠語の響きがきらきらしていたのでお咎めなしだった。
賠償宇宙人の少女は、こちらでいうところの、少し年上くらいな勘定だということだったけれども、それにしては大人びた体つきをしていた。透けて見えるほど真っ白で、信じられないような美貌で、一切を見透かしているような表情は謎めいていて神々しかった。
このクラス三年・肩組は、男子生徒十八人、女子生徒十九人だった。まず男子生徒たちが順繰りに、賠償宇宙人の少女で保健体育をした。そののち女子生徒たちが順繰りに、あるいは複数で、あるいは器具を使って保健体育をした。
白谷啓弥が保健体育をする際には、クラスの全員が集まって、白谷啓弥の、いわゆる白谷啓弥をつぶさに観察し、全員が称賛した。
保体の授業は意想外に長引いて、翌々日まで続いた。合計十回、とりわけ消耗の激しい男子生徒の食事を調達する必要が生じて、知明はいく人かの朋友たちと買い出しに行ったり、家族が食物を提供してくれるお宅へうかがったりして回った。
白谷啓弥も同行し、幼少時代の思い出話に花を咲かせて、二人は昔のように打ち解けた。
延長授業二日目の深夜、教室のテレビで地方長の演説が流れた。そのあいだはみんな居住まいを正してブラウン管に注目していたけれど、小橋だけは教材(賠償宇宙人の少女)を隅に持って行って、保健体育し続けた。小橋はこっそりポケットから妙なる粉末を取り出すと、教材へ丹念に塗り込んで、ゆっくりと保健体育した。粉末のために教材は一気に脱水症状を呈したけれど、小橋は自分が飲ませるものしか飲ませなかった。
他の生徒たちと先生は放送に括目していた。演説にいわく、我が地方の開発・生産する秀でた***が外部へばかり流出し、我が地方に行き渡らないことの原因は、誰かが暴利を貪っているのではなく、我が地方民における***の使用技術の劣等性に起因するのである。云々。そうして***使用技術の鍛錬不足がくり返し強調されて放送は終わった。
このたび映った地方長は誰も見たことがなかったし、その後に始まった地方主の演説では一切の***の鍛錬を自粛するよう呼びかけられ、続く地方頭の演説では鍛錬もクソも***なぞどこにもない現状がしみじみと嘆かれた。
その時、「じっさい***ってほんとにあんの?」とつぶやいた一人の男子生徒は、先生にどこかへ連れて行かれて、二度と帰って来なかった。
小橋による教材の独占に気づいた男子生徒たちが小橋に対する厳正な処罰を要求したけれど、粉末の使用を察した一部の女子生徒たちの熱烈なとりなしにより、小橋は処罰を免れた。
その女子生徒たちは教材を小橋から取り上げると、まず水を飲ませた。教材はむさぼるように飲んだ。それから女子生徒たちが奇抜な方法で保健体育し始めるのを、男子生徒たちは遠巻きに眺めていた。中には青ざめて十字や大の字を切っている男子生徒もいた。
重なって保体の授業が始まった三年・首組へ視察に行っていた沢島という男子生徒が向こうの教材に賛辞を述べたので、肩組の男子生徒の半数が確認しに行った。黒江という男子生徒だけが戻って来て、向こうの賠償宇宙人は青肌で、例に漏れず怖いくらいの美貌と悟達だと報告した。
こちらから半数が行った代わりに首組の男子生徒の半数が現れたけれど、賀谷が一人も入れなかった。険悪な雰囲気になったけれど、先生が咳ばらいしたので帰って行った。
いたずらに長々しい保健体育のせいで大なる倦怠に襲われた知明は白谷啓弥を伴っていったん教室を出、校内を案内した。在校生も足を踏み入れることの許されない箇所が多かったけれど、ヒト牧場などは知明の管轄下であり、教師が知らないこともかなりある。
広大な野原にヒトが点在していた。ここのヒトどもは昔々、ヒコーキだのシンカンセンだのという高速移動手段に人間が耐え得るのかという実験――高速で移動させることによって魂と肉体を卵黄と卵白のごとく分離させる実験――を被り、そうなってしまったものの末裔であった。
回復途上にあるヒトどもは今、全裸で走り回ったり、逆立ちしながら泣いたりしていた。
ずいぶん長引いた保健体育の授業もようやく終わり、十四回分溜まっていた休み時間が訪れたので全員帰宅した。
小橋が、次の中学校へ送られて行く教材の行方を追跡できるよう取り計らってくださいと保体の先生に頼んだ。先生はこころよく了承した。
先生はきっと約束を守ってくれるだろうと、帰宅の道々小橋は言った。これに対して瓢藤と賀谷が期待するなと言った。瓢藤と賀谷はこの手の依頼をしたことがあった。
「で、福祉地域に回る前に送ってもらったんだけどな、届いたのはぜんぜん違う賠償宇宙人だったよ。ちょっとだけ自習して送り返した。先生を問い詰めたら『あれでも精一杯やったんだ』って言ってたけど、本当は頼まれたことも忘れてたんだ。だからあの教材は誰が送って寄越したのか、いまだにわからん」
「だからお前もそういう隙を見せてるとな、どこかの無関係な手違いをしょい込むことになるぜ」
しかし小橋は、そんなこたァないと言い張った。先生は、生徒に頼られたことが嬉しかったらしく、任せなさい任せなさいと言いながら上機嫌で小橋の背中を叩いたのだった。
おととい食料の提供を願い出た際に乳母から頼まれていたので、知明は白谷啓弥を連れて帰った。すると白谷啓弥の乳母も知明の家で待っていた。
二人の乳母は、白谷啓弥の凱旋パーティーをしたかったのに二晩も待たされたことと、連絡なしにいきなり帰って来たことに、ぷりぷり憤っていた。ともかく御馳走を作るから妹を探しておいでと言われて、知明と白谷啓弥は、知明の妹の花菜を探しに出かけた。
住宅街の長い坂を下りながら
「ハナナは元気かい」
と白谷啓弥が尋ねた。知明は笑って、
「元気だけど、ハナナとはもう誰も呼ばないよ」
すり鉢状な一丁目の底は石造りな公園であった。ひじょうに古い、その意味が今ではもうわからない《癒国記念》と彫られた石碑にのぼって見渡すと、ある一本の坂の上から数人の少女がきゃあきゃあ笑いながら駆け下りて来るのが見えた。
知明に気づいて一人仲間を離れ、まっすぐ駆けて来る花菜の頬は上気して薔薇色だった。後ろをふり返りふり返り、楽しいのか怖いのかわからない叫び声を上げつつ駆けて来る。賀谷の兄さんに追われているのだった。
花菜が一人狙われて難を逃れた他の少女たちは、そのままどこかの路地に消えた。賀谷の兄さんは賀谷よりも大柄だったけれど、後天性小頭症で一昨年から眉の上より頭がなかった。花菜は激しく息を切らしながら知明の後ろに隠れた。知明が頼むと、賀谷の兄さんは追うのをやめてくれた。
それでもどうしても確認したいと言って、花菜をじっくり見つめた。二、三か所触った。匂いを嗅ぎ、こすって舐めた。やがてハッとすると、申し訳なさそうに頭を下げた。違う女性と間違えたらしかった。花菜はキヒヒと笑っていた。
間違えた女性というのは文山文三という男子生徒の姉さんに違いなかった。花菜とはチットモ似ていないけれども。そういう悪戯が年々歳々、小さな女の子に流行るのだった。
文山文三の姉さん――知明と文山文三は廊下で顔を合わせれば剣呑に肩をぶつけ合う仲だったが、姉の文子と知明は昵懇だった。
文子はかわいい男子生徒を見れば見境なく馬乗りになり、リズミカルな音楽に合わせて延々と跳ねるのが癖だった。ある手術の名残で彼女の昇降口の長さは一般よりも短く、梯子の長い男子生徒はいく人かへし折られた。へし折れると内出血のためにかえって強く掛かるので、文子は泣き叫ぶ男子生徒の上で延々と跳ね続けるのだった。
知明はへし折れる危険とはことさら無縁だったから、いまだに昵懇なのである。
がっくりうなだれた賀谷の兄さんが上り坂を帰って行くのを見送っている花菜に、
「ハナナ」
と白谷啓弥が声をかけた。懐かしい呼び名で呼ばれて花菜は白谷啓弥に初めて気がついた。真っ赤になってほほ笑んだ。三人はぶらぶらと家に帰った。
どこか遠くで新番組の放送が流れている。
――大きなため息をついたら、二時間前に吸った煙草の煙がようやく出た。昨日食べたアイスクリームのせいで大便が冷たいこと冷たいこと。さてそれでは……青くて、座っていて、てくてく頭で、痩せている、老人とも少年ともつかない猿が、森の洞窟の入り口で、半分は陰になり、半分は日にあたり、しきりになぞなぞを出している。
――この「理性崇拝抑止放送」は、そのなぞなぞのうちから数十篇を我輩が書き取ったものである。書き取るばかりでなぞなぞに答えなかったため、我輩はひじょうに長いあいだ、猿の前にいることが許された。
――猿が洞窟の奥に秘めて守っているものについては、我輩の知る限り、誰も興味を持ってはいなかった。人々は猿の出すなぞなぞをこそ聞きに行ったのであり、正解を言い当てようとは誰も考えていなかった。あそこでは人々は、みんな青い猿だった。むろん我輩もそうだったし、その時は、体はもっと軽くて、もっとラクで、頭はスッキリしていたし、心にはいつも張りがあった。
――人が死ななくなったら時間が患うということを、あそこではみんな知っていた。じっさいにそういう事例がなくもなかった。けれどもそのことは、当事者がまだ多く存命であるから、くわしくは語るまい。のちのさらなる赤裸々な時代に、いずれ暴露されることだとしても……
家に帰ると異変があった。それは白谷啓弥の帰郷というかたちで始まった現象の連鎖の一環であると、知明は後日に明け方の夢の中で直覚し、起きると同時に忘れた。
三人の帰宅に乳母二人は胸をなで下ろした。乳母二人のとなりには賠償宇宙人の移民が数人立っていた。家の中に長年住み着いていたのが、今しがた発覚したということであった。
知明が並ぶよう命じると無言で応じた。小さな童子が二人と、老人が一人と、年増の女が一人だった。童子たちはたいそう可愛らしく、老人と年増も怖いくらい美しかった。
知明の乳母が出て行くよう命令すると移民たちは無言で応じた。彼らがわずかな荷物を持って出て行く際、知明は、独りきりの時に営む極めて私的な行為をじつは彼らに目撃されていて、それを暴露されるかもしれないと脳裏によぎった。
けれども移民たちはなにも言わずに出て行った。通り過ぎる際のかぐわしい匂いを嗅いだ瞬間、やっぱり秘密を知っている年増がふり返り、艶やかな視線を寄越す幻を知明は胸中に見た。
じっさいにはふり返らず、二丁目へ向かって行った。二丁目の西端の森に入ってすぐのグラウンドが賠償宇宙人の移民たちの非合法キャンプになっている。そこへ行くのだろうと察しられた。
長年移民の隠れ住んでいた壁の隙間へ、志願者の花菜が調べに入った。壁から天井へ行き、くまなく見て戻って来て、忘れ物はなかった、秘密の出入り口があったけれど簡単にふさげる、と言った。
なにかこっちの部屋を覗けるような穴はなかったかと知明が聞くと、いくつもあったと答えた。
ところで、泥酔なのか持病の発作なのか、終始うつぶせに倒れていた家長は、花菜を探しに出かける前から少しも動いていなかった。花菜が水を入れて来て飲ませようとすると、亡くなっているのがわかった。
乳母たちも家長の死亡をこの時に初めて知った。この家長が生きていたらその豊富な学識で、以降立て続けに起こる特異な出来事について講釈してくれたかもしれないのにと、知明は後日に明け方の夢の中で残念に思い、起きると同時に忘れた。
新しい家長が送られて来て古い家長が引き取られるまで食事をするのは待った。
知明と白谷啓弥は、乳母たちが腕によりをかけた肉料理や魚料理には目もくれず、持った指が油でぴかぴかになるクロワッサンばかり大いに食べた。途中から大食いの競争になったけれど、やがてこれはよそうと言い合い、勝敗を決さずに競技を終える縁起の悪さをかき消すために手締めを打った。新しい家長は到着早々「食べていてよろしい」と言い置いて出かけていた。
食べ終わると知明と白谷啓弥と花菜は、暗くなるまでには帰ると約束して――近ごろは山向こうに移動型工場地帯が居座っていたためほとんど白夜に近かったけれども――海へ出かけた。
花菜がどこかへ行ってしまって、男二人で海岸を歩きながら話していると、なにか沖を漂っているらしいものが、明らかにこちらへ向かって来ている。
とうとう突堤に上がって来たそれは美しい婦人だった。たいそう話し好きで、知明とは花やかに盛り上がったが、白谷啓弥がやけに話したがらなかった。
美しい婦人は謎めいたほほ笑みを浮かべて、コンクリートにいつまでも滴をしたたらせつつ、白谷啓弥にとりわけたくさん話しかけた。けれども彼は不愛想に相槌を打つばかりだった。
亀の手をたくさん集めて戻って来た花菜も加わり、ぺちゃくちゃ話していると、白谷啓弥が立ち上がり、ぶらぶらと行ってしまいそうになったので知明が追った。
知明が追って来たとわかるとすぐに立ち止まった。どうかしたのかと聞くと、どうもこうもないと答えた。それから告白するのにいわく、白谷啓弥と美しい婦人とはワケアリで、幼児期のことだけれども、駆け落ちまがいの真似までしたことのある仲なのだった。
知明が、それではひじょうに気まずいかと聞くと、じつはそうでもない、君たち兄妹には気をつかわせて申し訳なかったと言うので、とにかく連れ帰り、防波堤に腰を下ろした。
そこへ賀谷が大量のビールを持ってやって来た。兄さんのことで花菜に謝るために探し回っていたらしい。御詫びの品(ビール)の銘柄は花菜の家の家長の好みに合わせたものだったので、亡くなったことを伝えると、賀谷はビールの入った袋を見下ろし、肩をすくめた。
とにかく知明に袋を渡すと、別の所へも謝りに行かなくてはならないからと言って、白谷啓弥に友愛の軽い殴打をしてから帰って行った。
四人でビールを飲み始めてようやく白谷啓弥は美しい婦人と話すようになった。美しい婦人はよく飲んだ。彼女のむき出しの二の腕に堅そうなしわしわが寄っているのを花菜が興味深そうにさすっていると、「これはぜいごというのよ」と教えてくれた。「アジとかのケツッペタにもあるから、今度注意して見てごらんなさいね」
美しい婦人と花菜が少し離れて岩場を歩いている時に、白谷啓弥は知明に打ち明けた。けっきょく彼女は俺に頼み事があって現れたのだ。その内容もわかっている。
「――やっぱり駄目?」
と、兄妹に隠すつもりもないらしく、美しい婦人はふり返って白谷啓弥に尋ねた。白谷啓弥は、
「いいや、いいよ。どこへでも行くよ」と答えた。
婦人はそれから白谷啓弥にもたれかかって、こしょこしょ声で思い出話をし始めた。白谷啓弥はどこか寂しそうにほほ笑みながら、ぽつぽつ答えていた。
花菜がビールをたいそう飲むので、あとで吐くかどうか賭けようと知明が持ちかけると、花菜は自分が吐くほうに賭けたので、知明は賭けをおりた。
その晩、同じベッドに寝ながら、白谷啓弥は知明に、長時間美女と密着していたから二つとも鶏卵みたいに充血しちまって痛くて寝られないとこぼした。
「頼み事ってなんだったんだ」
「……うまく説明できないな。とにかく明日、行って来るよ。しかしまあ――巻き添えにして悪かった」
「なんの巻き添え?」
「そりゃァ、うまく説明できないけど。これから色々、今までと違う事が起こったら、きっと俺が最初だからさ。だって俺は、別になににも巻き込まれていなかったからな」
白谷啓弥の家は、現在の家長が彼のことを知らないので、あいさつしなければいけないのだったけれど、後回しにして、白谷啓弥の乳母も今夜は知明の家に泊まっていた。
知明の家の新しい家長は、帰宅すると神経質そうに手を洗い、知明の乳母と花菜を別々に書斎へ呼んで、入念に検査した。住み着いていた移民の話にはたいそう怯えて、壁と天井の隙間をすぐに埋めると宣言した。
前の家長は学問のある人だったけれども平凡な会社員だった。新しい家長はキノコを栽培する工場に勤めているらしい。手を洗うのはそうした理由からですかと聞くと、家長は知明をびっくりしたように見つめて、ただの性格であると答えた。
新しい家長は今、花菜だけを伴って寝室にこもっていた。
翌朝、知明と白谷啓弥は、花菜をガード下の小学校に送り届けると、住宅街で二番目に標高の高い太刀坑中学校へ向かって長い坂を上って行った。
住宅街の最北端の頭上を走っている高速道路から自動車が転げ落ちたと朝食時のニュースでやっていたけれど、それらしい気配はどこにもなかった。朝陽が中学校の背後に昇り、校舎を黒く小さくしていた。長い太い上り坂の左半分が校舎の影になっていて気温が違う。歩いて行くうち一人また一人と朋友たちが路地から出て来て加わった。
ふと大勢の怒鳴り声がするので覗くと、屋田さん宅の広い庭で出勤前の大人たちが闘鶏遊びに興じていた。みんな戦況を見定めては延々と賭け金を変更していた。泥だらけになって闘っているのは二人の壮年の賠償宇宙人だった。
当人は賭博も興行もせずに離れて煙草を吸っている屋田さんの言うことには、高速道路から今朝早く、北の谷にある貯水池に二人投げ捨てられて浮かんでいたのを拾って来て闘わせている闘鶏なのだそうな。ニュースはこれの誤報であったかと、知明と白谷啓弥は得心した。近ごろのニュースは、人工衛星の正面衝突や、水源池に強い毒性のある隕石が落ちたことなど、悲惨な事実ばかり流すために信用を失っていたので、信頼回復のため微妙に曲げて放送していた。
やにわに大人たちのいく人かが白谷啓弥へ拍手を送った。それは彼が名門大瓦斯天大学へ入学した際、お祝いをまだしていなかった人たちだった。
遠く谷のほうから理性崇拝抑止放送が流れていた。
――そのビスケットは、一度に口へ入れる枚数を、多く重ねるほどおいしくなる。階級徒刑者は十回生まれ変わって一枚買えたらせいぜいのお値段。一度に口へ入れられるのは、よほど顎のやわらかい人でも、たかだか十枚くらい。ああ、そのモザイクを燻製にしておいて、ふむ……それで、海老の尻尾の棘よ。平均的な大人がビスケットを一度に五百枚重ねて食べることのできる曜日は偶数か奇数か?……
教室に着くと、知明はまず教卓の上に置かれた数枚のメモを束ねて、クラスメイトたちの昼食の宅配弁当の注文をしに行った。職員室に入り、その旨を伝えると、担任はカビの生えた葉巻をふかしながら電話機を指さした。
電話に出た古野さんは寝起きのかすれ声だった。知明だとわかると、ひどい二日酔いなのだと言った。
古野さんは駅前の居酒屋のシェフをしている。二十代いっぱいを留学して――どこに留学したのかについては諸説あり、本人はそのどれをも否定していた――本場で特訓した腕前だったが、都市の下町の老舗ばかりな地域に店を出して失敗し、ほうぼう摩耗しながら転がり続けて、けっきょく故郷の居酒屋のシェフになったのだと、古野さんと幼友達だった、前の家長が教えてくれた。
居酒屋の料理はおいしいと評判だったし宅配弁当も人気だった。知明はメモを見ながら、生徒の名前と注文するメニューを告げて行った。古野さんはかすれた声で復唱し、了解したと言うと電話を切った。
教室に戻ると、瓢藤が、奇妙にきっぱりした口調で数人の名を読み上げていた。小橋、賀谷、知明、それから女子生徒に移って八代井、穂野、向坂。以上六名とわたくし(瓢藤)は、常日ごろから昵懇であるから――一部は近ごろの昵懇ではないけれど、幼少期の昵懇であったから――自分を加えたこの七名をとりわけ重要な友人とみなす。
いきなりどうしたと尋ねられて、答えるのにいわく、昨晩瓢藤がラジオの数学番組で、午睡の夢に出た通りの難問を夢に見たまま解き、繰り越され続けて増えまくっていた賞金一千万円を手にしたために、これを右の七名で分け合って、窮屈な学生生活と縁を切り、気ままな旅がらすの生活に入るので発表したということだった。
なぜなら午睡の正夢には続きがあって、賞金をそのように使っていたので。
知明が、夢の続きがそうなら旅に出るのは仕方がないとして、七人のうちへ新たに白谷啓弥の編入を頼んでみたけれど、断固許されなかった。これには白谷啓弥も、どのみち自分は例の沖から泳いで来た美しい婦人――ツボネという名前だった――からの頼まれごとで、今夕出かけなければならないからと言って断った。
学級長の地位とヒト牧場の管理権の引き継ぎをして、知明は友人たちと太刀坑中学校を出た。
一緒に出た白谷啓弥は、一行の旅の足が西の山々に向かうと決まると、彼は海に向かって南へ行くので、最初の十字路で別れることになった。
知明と白谷啓弥は抱擁を交わし、再会を約束した。知明は白谷啓弥に、花菜の将来のことについて色々と話したかったのだが、諦めて。白谷啓弥は、知明以外の六人とも握手を交わすと、軽やかに手を振りながら歩き去った。
カッチリした学生服に通学カバンを持った格好の七人は、二人・二人・二人・一人に分かれて、それぞれの家へ別れの手紙を投函しに行った。知明は穂野と近所だったので一緒に行った。
先に知明の家へ寄り、乳母と花菜へは再会の約束を、新しい家長へは健康のお祈りを書いた手紙をポストに入れた。それから穂野の家へ向かう途中、穂野がおずおずと、
「ひさしぶり」
「うん。――毎日会ってるけどな」
それからしばらくして、
「ハナナは元気?」
「元気だよ。新しい家長にも気に入られた」
「前の家長さん、いい人だったね」
「うん」
ノートを破いて書いた知明と違い、穂野はきちんと便箋に書いていた。投函前にもう一度ひらいて読み返しているから肩越しに覗くと、綺麗な字でぎっしりと綴られたあとに、いくつか緻密な花の絵があった。知明の記憶の中で穂野が好んで描いていた花とは違ったけれど、面影はあった。
それからページの余白に「これつぶらな気泡のごとき……には大なる現象の濁流に転ぜしめらるるの本懐あればなり、云々云々……」途中から和製楔形文字になっていて読めなかった。
投函した時、穂野の乳母が庭木に水をやっているのと目が合ったけれど、穂野と知明がそのまま行ってしまうので、乳母も水やりを続けた。
穂野の家は乳母の交代が激しかった。知明は穂野と長らく接していなかったから、噂を聞いてひそかに胸を痛めるばかりだった。
朋友たちがあちこちから少しずつ断片的に運び入れて来る噂では、穂野は新しい乳母のためにまた性格の変わった家長から、またぞんざいにされているらしかったが、それはまったく毎度のことであった。
穂野には二人の善良な兄がいたけれど、二人ともとうに太刀坑の校区から出て行っていた。ある朋友が授業中に二人の兄の消息に関する噂を書いて寄越した、そのノートの切れ端に書かれていたのは意味における回文のようなことで、その逆さから読んで成立する変な散文の、半分も覚えていなかったけれども、
「風習の花は壁外からは……にあらず芳香を放つことあたわず、いわんや種子を飛ばすことをや……を継続せしむる妙なる野辺にあらず、ひっきょう去る者は日々に疎し」云々。
そしてそれ以降はまた読めない和製楔形文字による、わかる人だけに守られた暗号のやり取りで、穂野とその朋友はある民間思弁団体の児童会員だったから、そこの事情だろうと察しられた。
その民間思弁団体は、活動内容が外部にはまったく不明で、色々と憶測は飛び交うが、知明にはとにかく、和製楔形文字のやり取りだけが、むやみな嫉妬の対象であった。
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