引きこもりの元同級生の家へビデオカセットを返しに行く道々、あたかも天の好意を賜って、通り過ぎる家々には幸せなエピソードが充満しているように感ぜられた。エピソードたちはのどかに安らいながら、住人たちに思い出される時を待っているかのようだった。
家々に暗い事件が充満しているかのような日は天から疎んぜられていた。今日は大丈夫らしかった。
ビデオは十六、七年ほど昔に毎週録画されていたお笑い番組だった。コマーシャルが懐かしかった。映像が意想外にきれいだった。トラッキングを最良に合わせても少しブレたけれども、人類が滅んだのちもカセットテープだけはつくのではないかと思われた。
十階建てのマンションの七階だった。脱いだ靴をそろえつつ、これで褒められていた友人がいたのを思い出した。人の靴をもそろえるのだった。躾というより性癖のようだった。
脱ぎ散らかされているたくさんの靴というのはにぎやかでいいと思うけれども。また人の靴を触りまくるのは清潔な癖ではないと思うけれども、まあ褒められていたのでよかった。ある日とつぜんやめた。あァやめたなと思った。
座布団を出してもらって座る。借りたお笑い番組に出て来た台詞や仕草を真似た。二人の掛け合いだった。それは十六、七年ぶりのことだった。
彼とは水泳教室で一緒だった。半田といった。
お互いの友人の輪は別だった。水泳教室だけの仲だった。
幼年クラスが終わるのを待っているあいだ、よく話した。くだんのお笑い番組の話題がとりわけ盛り上がって、私が何か場面を再現すれば、半田があとを続けた。世間話が途切れて、ある程度の沈黙があれば再現し合った。それなので沈黙が始まると内心笑けた。
幼年クラスのあとはプールの水が小便だらけだろうと思われてイヤだった。一度大便まで沈んで揺れていた。先生が大きな注射器みたようなものを持って潜り、吸い取っているのを、隣のレーンを泳ぎながら見ていた。
プールサイドに座って、海パン越しのお尻に不快な水とザラザラした硬さを感じつつ、順番を待っている時、ふと真正面に女の子が顔を出した。鼻血が出ていた。きついゴーグルに眉間の肉が盛り上がって鬼のようだった。違う学校の、年下の女の子だった。目が合ったので、
「鼻血出たんか」
と私が聞くと、指で確かめた女の子は、うなずいたが、どうしようもなくふたたび水に顔をつけ、そのまま続きを泳いで行った。私はなぜか申しわけないことをしたと思った。
けっきょく水泳教室はけっこう短めでやめた。三つはやった習い事は、すべて短めでやめていた。事情はその時々でまちまちだったけれど、不熱心は共通していた。
当時やっていたテレビアニメの話は、当時はしなかったけれど、今すれば、やっぱり半田も見ていたのだった。中には少女向けのアニメもあった。けれども、これは私の友人たちも、じつはみんな見ていたのである。
高校生の頃、刺青の目立つガラの悪い海水浴場で、仲間を一人ずつ、無意味に胴上げしながら、最後は海へ放り投げるという遊びをしていた。その時、誰だったのかもうわからないけれど、ある少女向けアニメの主題歌を歌い始めた。するとみんな歌えたのである。声をそろえて歌いながら胴上げしては放り投げていた。
この騒ぎを気に入ったおじさんがビールをごちそうしてくれた。スキンヘッドの固太りなおじさんだった。あとで向こうに救急車のサイレンが止まったと思っていると、このおじさんが逃げて来て、
「女の子に飲まし過ぎた」と言って去って行った。
私が行けなくなったあとも、友人たちはこの海水浴場にしばらく行っていた。ナンパしていてコチンピラにからまれ、手ひどく殴られたりしていた。ビッグスクーターから音楽を流し、ウーファーの利いたシャコタンの底を光らし、コンビニの駐車場やボウリング場で、あたりを吸い殻だらけにする友人たちだったけれども、いわゆるヤンキーではなかった。ちょっと違った。武勇伝より笑い話に貪欲だった。ガッツリ人目のある海水浴場でしっかり目に殴られたことなどは宝物の部類だった。
今、半田と、その主題歌を歌うでもなかった。アニメの話はすぐにしぼんだ。
半田は、中学生になってすぐの頃、引きこもりになり、そのまま今に至るまで時に経たれていた。いったんかなり太ったあとにこれだけ痩せたらしかった。どこか悪いのかもしれなかった。
半田のお母さんが夕食を作ってくれた。子どもの頃にはなかったことだった。
小さな頃に手料理をごちそうになったことのある親たちは、かなり親しみ深く思い出される。車で送ってもらったり、褒められたり、ちゃんと叱られたりしたことも重宝だったけれど、やっぱり食べ物の恩である。軽い潔癖のケを持ちながら、両親共働きで風呂をきちんと教えてもらっておらず、たぶん小学校高学年あたりまで耳の裏に垢をつけていた私は、この専業主婦を基調とした住宅街でどのように見られていたのだろうか。
半田の部屋に持って来てくれた。ノックされて料理の盛られたお盆を渡されるのは楽しいことだった。何かしら奮発させたのに違いないお肉料理を図々しくいただいた。
昨年退職したという半田のお父さんは、奥から現れなかったけれど、タバコのにおいが廊下に流れていた。半田は、シッカリ大人になった自分はもう居候なので、部屋では吸わないのだと言った。それなのでマンションの中庭まで下りて遊具に座り、一つの火を分かち合って一服した。
白い街灯がにじんでいた。よく友人たちと鬼ごっこをしては住人に怒られたマンションであった。そのメンバーに半田はいなかった。
今は、鬼ごっこをする子どもはいないらしかった。
私は、何の仕事も続かなかった。精神安定剤を多飲して、ただでくの坊が立っていた。どこでも何だか微妙に他者であった。しかし問題はそこではなかった。それが問題だった。
友人たちとも滅多に会えず、常不断体調優れず、定期的にマッタク外へ出られず、その期間のほうがダンゼン長く、せいぜい来年には治っておるか死んどるか、どちらにせよちかぢか終わるに違いないと流しているまま十年経っていた。
そのままさらに何年経たれるやらわからなかった。それが、二十九歳の声を聞くや、急に何か漠然と最後のチャンスめいて、何でもいいから動かんけりゃならぬと急き立てられて、山あいの住宅街の空き家を借りて、独り帰って来たのであった。
二階建て、庭と駐車場のついた空き家であった。黙って保証人になってくれた母の胸奥は当て推量に穢すまい。
八歳からのふるさとに過ぎないが、私の郷愁はこの住宅街から始まっていた。それ以前の家々への郷愁はもっと年を取ってから出て来るのだろうけれども、それらがようやく懐かしくなるまで生きていられるかどうかは神のみぞ知る。
この住宅街の、当時住んでいた家には今、別の家族が住んでいた。ここを売った時は高校生だった。買ったのは幼稚園くらいのボクのいるご夫婦で、内見の際、私の部屋と兄の部屋の壁にいくつかあいていた穴に奥さんが寛容な笑みを浮かべていらっしゃった。
それで今、見に行くとガレージにボコボコの原付が置いてあった。あの小さなボクが成長してグレているのだろうか。この住宅街の子どもは、ちょこちょこグレた。もっと都会か、もっと田舎であればグレられない小者でも安心してグレられたという事情もあって。
とにかく警官がゆるかった。私のようながしんたれでも、外界との緩慢な摩擦で自然に消沈するまで、ここの警官からだけは何の衝撃も受けなんだ。
鬱屈した若々しさが物の砕け散るさまや燃え上がる炎への陶酔に憑かれていた時も、やがて神罰への恐怖に何もかも萎縮していたあいだも、警官が家に来るのではないかという心配だけはなかった。
ほかの部署からナマクラばかりが流れついて来るという噂だった。緩慢にパトカーで追って来るだけで、撒かれたら平然と帰って行くところを何ぼ見たか知れなかった。どしどし放置せられて不感症的にかさばった大小の悪事も遂に罰せられずに仕舞った。
その代わり肥大した罪悪感からいつまでも尾を引く罰を受けたようなわけだった。それで逆恨みがないでもなかった。今から当時の警官たちの面構えを思い返せば、多少改竄されてしまっているかもしれないけれど、みんな浮浪者のようなツラだった。
そういう土地の性格に従って、たぶん中途半端にグレているのだろうボクも、しかしもうその中途半端さもまた全然事情が違うのだろう。私が越して来た時には新興だったステキな住宅街も、二十年で異様に古かった。
生まれて初めて一戸建て庭つきの家に住んで、しかも新築で、トンデモナク幸せだったけれど、転校に別れて来たトモダチたちが寂しかった。とりわけ保育所も赤ちゃんホームも一緒だった女の子が悲しかった。小学二年生だった。
山あいの、ほぼすべてが坂の住宅街で、何年も空き地――あとは家を建てるばかりなサラピンの空き地――のほうが多く、空が広かった。十年も経てば流行違いの家々で埋まり、新しい人々が移り住んで来て、どっと赤ん坊が多かった。
阪神淡路大震災の復興支援の一環として自己資金なしで住宅ローンが組めたとか何とか、そういうふうな事情であった。震災当時我が家は神戸市兵庫区馬場町にあった。自衛隊から水をもらいつつ半壊の借家に過ごしていた。家が全壊して車に寝起きしていた○○さん一家がちょっとだけ二階に住んでいた。一帯でそこだけトイレを何か按排していて、その家だけ水が流れたお宅がご近所の公衆便所になっていた――しかし震災のエピソードは今私のとりわけ思い出すところではない。借家からは夜逃げのように出た。ともあれそういう分不相応のローンを組んで湧いて来たのも混じっている、雑多な人種の混在した初期の人々は、時を経て、やっぱり分不相応だった人は出て行き、庭つきの空き家は古く安くなっていた。
そのような空き家の一つに、全財産を――断続的に、社会の邪魔になるだけのアルバイトで施されて来た雀の涙の溜まり水を――はたいて、独り戻って来たのだった。
こういう帰還は、このアンバランスな住宅街の、世代もまちまちな住人たちの種々雑多な事情の中でも異例のほうであろう。こういうのが来たことで、遂に滅び終えるものがあるのであれば、その緩慢な火災の、私が火種だ。
あの頃、全国に何百万人といた学童たちのうち、いわゆる引きこもりは何人いたのであろうか。子どもに引きこもられるようなダラシナイ世界から、決然と引きこもっていた先達は? 自分も含めて四人が今も住宅街に残っていると半田は言った。
会ってはいないらしかった。今どんなふうであろうと思えば、その上に過ぎた歳月が耳をつんざく。もうサナギになれない老けた幼虫が葉裏に静止している。ホルマリンに漬け込まれて成長することも腐ることもできなくなった少年少女が瞑目している。
――集めよう。誰かうちに住んでもいい。一戸建てを選んだ奇行には別の理由があったのだけれど、いや、このためだったのではないかと思ってみれば無意識の全能性や衝動の神意性が何ぼでもこじつけてくれよう。
半田のほかの三人も、よく覚えていた。
たいへんゴンタで乱暴だったのに、何か思春期のホルモンバランスに重篤な追突事故を起こしたかのごとく、いきなり去った庄原。
むしろかなりモテていたと思うけれども、閉鎖的な女子の世界で何があったやら、来なくなってしまった貴崎さん。
確か妹もいたはずだったが、何せお兄さんがいて、漫画にしろゲームにしろ、そこいらの男子より話が合うくらいだったのに、これも何があったやら急に閉じてしまった川野さん。この三人。
みんな集めて、サナギになれるかやってみよう。駄目だったら、すっ飛ばして羽化できるかどうか。羽化の実態がどのようであるかは、倫理・道徳からの解放を待とう。
今年は初めにたいへん雪が降った。だから清潔な一年になるに違いなかった。
二十年前にもたいへん降った。この坂ばかりの住宅街の、家の前の道路で、私は姉と一つの橇に座って滑った。
あれから一度も積もらなかった。少なくともあのレヴェルでは一度もなかった。私が離れていた十年のあいだのことは知らぬ。半田にも聞かなんだ。
めまい、耳鳴り、寒気、頭痛、息苦しさ、だるさ、腹部不快感、口中異物感、離人感、不眠、切迫感、不整脈、視野の歪み、微熱、頭の凝り、下痢、排尿困難、地面の不確かさ、重力への不信、それ自体で存在する突発的な恐怖、意識の薄く遠くなり続ける感覚、落ちてゆく感覚等々に、見舞われているけれども、長年ずっと続いているものを今、何だか瞬間的に無視し切れなくなっただけのことで、あらためて襲いかかられたのではない。
この自覚症状のあるほうを母国として受け入れてからは、しょせん受け入れられようもないこれらの自覚症状は、ともあれいつでもそばにいてくれるfriendであった。
friendになるまで七、八年かかった。
どだい不可能なこととわきまえつつ、執着せず、せざるにもあらずというふうに、背中を丸めて、如何ともしがたく翻弄されていたfriendだった。friendだからケンカもしたし、どこか疎遠にもなった。それがこのたび一気に和睦し切ったかのようだ。けっきょく外的要因だ。内的の準備を整えていたからこそなら嬉しいが。ともあれその瞬間は見逃した。あとから思い出して「知らぬ間に」と気づくようなことだった。それが永続的であるかどうかはどうでもいいような、それは幸いな瞬間だった。
このfriendが、我が臨終の席にはたくさんで送り出しに来てくれるのだろうと思えば、それは小さくない慰みであった。まったく違う顔して来られたら困るけれども、これらがまあせいぜいそれなりの巨大化だけして来るのであれば、その程度で手打ちにしてくれるのであれば得難き幸福であった。
こういう幸福を、半田も身にこたえて知っているような気がしてならなかった。
このたび越して来るに際しては色んなものを捨てて来た。二十代の健康に任せて馬鹿みたいに飲んでいた精神安定剤や抗鬱剤や抗精神病薬も置いて来た。
薬の慈愛が忽然と消えた最初の晩は、際限なく頭が凝り、地獄のように、まとまりないものが渦巻いていたけれど、ハタから見る自分の目には、ただ虫けらのように丸まっているだけだった。血も出ていなかったし、うめいてすらいなかった。
朝になって、やがて眠り、何度か飛び起きたには違いなかったが、どうやら歩いたらしくもあったが、外へは出て行かなかったようだし、現実感があり過ぎる奇怪な夢は、こちらの受け取り方のために悪夢にもならず、覚醒とのはざまで幻覚が見えていたけれども、ほんもののオバケがいただけかもしれず、昼過ぎにちゃんと目覚めると、かなり気分がよかった。頭がスッとしていた。この一発で長年のツケを払い切ったかのようだった。
それが既に一週間続いて、一週間もやったとは我ながら信じられないが、少なくとも正気は保たれ、事件も事故も起こしていない。いまだ強烈な不安感は、大量の手汗や期外収縮を伴って、呼吸困難感と無限閉塞感の中で時々電気のようにひっくり返る。その瞬間の安らかなことは驚くばかりだった。
終わったあとにも、時には泣いたあとのようにスッキリしていることもあり、連続しては起こりづらいことを考えれば、発作というものは、あるいは、抜いているのかもしれない。何ぞ強引に整頓しているのかもしれない。然らば今後、起きたら即座に喜べ。
想像力の病気だという。確かそう聞いたか読んだかした。アホかと思いつつ思い当たる節もある。どんな自覚症状も経済状況もそれについて考え、どん詰まりまで考え進めば誰でも死ぬところまで行き着くわけだが、死後(霊魂、天国地獄、流転輪廻etc.)や遺族という迷宮もあるわけだが、いったん考え進めたところに通路を作ってしまうのだ。後日そのことを考えかけると一気に前回挟んだ栞まで飛ぶ。ふと頭によぎるたびにそこまで飛ばされる。そしてキャパオーバーが重なり、半廃人が出来上がる。
この思考の通路の魔を、「発作=抜き」にも適用せしめよ!「嗚呼来た来た来たヤバいヤバいヤバい」が、今後は即座に「やったやったやった治る治る治る」とは相成れ!……
緑豊かな公園の、昔は卑猥な落書きがあったあずまやに、半田と二人で腰かけている。
誰から誘いに行くか。とりあえず庄原はいったんイヤやと半田が言った。
それなら貴崎さんか川野さんだけれど、いざ誘いに行こうとなると二人とも怖気づいた。当たり前のことだ。ハナから実行に移す話ではなかったので。与太話だったので。
しかしもう我々を置いて行った人生は軽いと言い合った。こっちが怖気づいても、向こうは怖気づかれとりゃせん。もう行ってしもた。遠ォォくに、離れてしもた。
そう話していると、なるほどむなしいほど軽い。怖気づくこちらが軽い。
いざ歩き始めると鼓動などは高まったが、何もかもが他人事であった。
他人事の頭な相談に、川野さんのほうがとっつきやすかった。
家は知っていた。いつ知ったのかは思い出せないが、同級生の家はいくらかはわかった。やがてあまりに記憶通りの、植木の多い、角のお宅であった。我々は覚悟の合図もなく、話す内容も、そもそもの目的もまとまらぬまま、とりあえずインターホンを押した。
押した瞬間、甚大な後悔が直撃しはした。何という非常識。犯罪。家族の怒声は。通報は。しかし逃げ出すほうが非現実であった。その、単純に、走るという真剣な行為は。老人でも病人でも走る時は走るだろうが、我々はもはや走らなかった。
それもしょせんは吹けば飛ぼうが、既にとうから飛び去られていた。
そういう印象が一気に脳内を駆けめぐり、けっきょく、逃げ出さなかったというよりか、我々はただその場に突っ立っていた。
川野さんの髪がどえらい短かった。
昔も長めの男子ぐらい短かったが、年が伸びたからか、より短く感じた。見知っているのか見知らないのかわからない、大人の川野さんだった。
我々の訪問は気味悪いに違いないとわかり切っていたところが、嬉しそうに見えた。驚いているのだった。驚くという自分の現象が嬉しいのではないかしら。感情の蘇生が。向こうの気分に憑依されたように、そう感じた。
あたかも我々は瞬間的に同盟していた。驚くべきことだった。
しかしお邪魔するのは論外で、このまま立ち話でもよかったけれど、川野さんは誰かに見られることを恐れていた。就職して経済的に自立し得ながらまだ実家に住んでいる人――元同級生のみならず先輩なり後輩なり――もいるし、時々帰って来るのもいるので。
私の友人たちは、思えばもうじつに三年以上連絡が途絶えているけれど、誰も住宅街にはいないはずだった。私が戻っていることも知らせていなかった。
誰かのおっちゃんおばちゃんが目撃したら連絡するだろう。ほとんどの親が残っているはずである。そうしたら即座にアクションがあるだろう。
けれども、少なくともまだ、今のところは何の気配もなかった。
けっきょく私の家に招待した。川野さんだけ少し遅れて歩いた。我々はとにかくさっさと移動した。
男二人女一人になるけれど、危険も感じぬらしかった。我々も機会を感じなかった。
「何もないねェ」
確かに、座布団も椅子もない室内に、川野さんが突っ立っていた。
服などはちゃんと買っているらしかった。半田も買っているのだろうが、こっちのは、まァまァまァというような恰好であった。
「でももう、あっちゃこっちゃ埃がな」
と答えた。川野さんはまだ私の口ひげが可笑しいらしかった。けれども女性らしく許していて何も言わなかった。時々目線がそこへ下がるだけだった。
「あたし掃除したろか」
と言った。最前、ここ借りたんスゴイね、そうやろと言いながら門扉から玄関までの階段に鳥の糞が落ちていたのが情けなかったのだったが、それがあらためてこびりついた。
「掃除するもんもないわ」
床に座った。川野さんは何だか正座だった。細いジーンズの膝が固そうだった。
「前にここ住んどった人のこと何か知っとう?」
と聞いたけれど、二人とも知らなかった。
友人たちと夜中に、ムダに歩き回っていた時や、ひそかに二人で――組み合わせはまちまちだった――ランニングなどしていた時、この家にいわゆる「ピン逃げ」をよくやった。住人は見たことがなかった。ただ変に気にかかる苗字だったので。音で読むべきところを訓で読むと、変な響きになったというだけのことで。
この家が空いていたのをどうしてか、さもありなんと思った。
事故物件でもあるまいが、たいへん安かった。交通の不便だけは物凄いものの、築二十年の一戸建てが、そこここリフォーム済みで月々九万五千円――事故物件なのであろうか。
無収入で丸二年は暮らせる計算だった。そのあとは知らぬ。そのあいだにどうなり得るかは見当もつかぬ。応無所住而生基心。意味は忘れた。港湾荷役、焼き肉店、倉庫内作業、ホームセンター、ポーター、スーパーの食料品売り場、山中の肥料運び、温泉宿の雑用、使い道のなさだけに守られて来た異形の貯金がここで犬死にする。
(――じっさいには、以上の仕事は半ば以上三日坊主で終わったのである。世の中の「仕事」というものが、最初が特にシンドイもので、慣れてゆくもの――堆積してゆくものよりも、最初のシンドさを考慮すれば、やはり軽くなってゆくもの――であったとすれば、私はその境地を知らぬまま終わった。私には世間の労働者が全員異常な精神力に見える。
このたびの奇行を可能ならしめたゼニの出どころは大半が新骨董とも呼ばるべきものなのであった。早い話が、遊戯王カードが高額で売れたのである。中学時分ある先輩から買わされた裏ビデオを、誰にも内緒で譲ってくれと言って、ある金持ちのブタがどさどさくれた中に青い目をした白い竜や赤い目をした黒い竜が一匹ならずいたのである。
私はこの半分も稼げなかった。さすがのドラゴンや魔法使いや昆虫の化け物たちであった。さすがは高度文明社会であった。五万、六万に達するものだけでも十枚、二十枚はあったのである。もう少し置いておいたら価値が上がるかもしれないとも言われたけれど、たとえば五年後などは来世よりも遠いのが私の「今後」なのであった。)
(――また十三、四年間全く使わずに置いておいたお駄賃・お年玉のたぐい――二十代を終えんとする今も、母方の祖母はくれ続けていた――の総計が、本棚の奥から三十万ほど。ケッタクソの問題でこんなカネいらんわいと突っ込んで忘れていたのが思いのほかぎょうさんで。自分で稼げもしないくせにナマイキな阿呆の手に可哀相な紙幣たちであった。)
宅配ピザを取ろうと半田が言った。マンションへ迎えに行った時、出しなに一階の郵便受けを覗いていた、その時何かチラシを折りたたんでポケットに入れていた。それを今出して、やや神経質に折り目を伸ばす。我々は頭を寄せ合って選んだ。
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