梅雨のあいだに三十歳の誕生日を迎えて生涯最後の夏であった。この冬には奉祀の供物として死ぬる身の上であった。十年に一度の奉祀であった。三十歳になった供物が死ぬる奉祀であった。
昔々に鬼と先祖たちとのあいだで談判があり、さんざんすったもんだしたすえにようやく定まったとやら。その起源の真相を余は知らぬ。真相なんぞ何であるか。近代的事実崇拝の、ハナから蔑視的の粗探し、科学や理性への妄信によって代々の純朴なる心に守られて来た精神的建築を問答無用で凌駕したと信じて疑わぬ芋優越感、そのニヤニヤ顔と、正気を以て激昂する猿義憤は余にはない。「代々続く慣習」の「代々」に求められる長さは、せいぜい曽祖父くらいにまで遡れば余には立派な伝統である。ゆめゆめ個人が立ち向かうこと能わざる巨大の人類史である。
供物がきちんと奉祀に死ねばその魂は鬼の住む冥界へ到達し、そこで慰み物として十年間鬼と相撲を取る。それによって鬼に監禁せられている先祖代々の霊魂は責め苦を免れるというわけであるから供物がきちんと死ぬるか否かは天下分け目の関ヶ原。山奥の、霊験あらたかな滝に打たれているところへ、古今東西ごたまぜな神仏魑魅魍魎のたぐいぎっしり彫り込んだ丸太を落とし、頭に激突させて供物を死なせる奉祀である。
奉祀年の夏、十歳の児童を集めて行われる相撲大会に優勝した者が二十年後の供物となる。相撲大会に出られる星の下に生まれ合わせた余のおさなごころはワクワクし通しであった。稽古に余念なく暮らした。そして畏れ多くもおん賜るものをかたじけなくして、あたかも鬼神の憑依のごとしと讃えらるる活躍に優勝した。万物が善意のかたまりとなって余をつつんだ、我が生涯最良の日であった。
爾来余は幼いながら我が郷の貴族となって、ろくろく学ぶことも働くこともせず、たらふく食うて来、ぬくぬく寝て来、その他欲望だの生き甲斐だののくだらぬ方面も行き届いて何不自由なかった。
鬼が相撲を好むため、供物は児童期から相撲の強い人物が選ばれて、身体の盛衰と精神の盛衰の相交わった一種妥協的頂点なる三十歳に冥界へ送られ、そこで十年間の慰み物になる――……冥界の十年間は非常に短いと言い伝えられる。まだ相撲大会に出ぬ頃、がんぜない時分、冥界の十年はじつは永遠のように長いとどこかで聞いたことがあったが、誰が言ったのかどこで聞いたのか遂に不明であった。夢の中でのことであったかもしれぬ。ともあれ、左様な低級の惑いに乗る余ではない。
余がいよいよ相撲大会に臨む時、母よりも祖母よりも余を慈しみ、愛してくれていた姉が、こっそり「負けるんやで」と耳打ちした。この大不敬に対する余の憤慨は凄まじく、悔し涙に掻き暮れながら父へ告げ口した。姉は手ひどい折檻を受け、今でも顔に醜い傷痕が残っている。小さな女児の頃から器量よしと言われていた称賛はおもに目元へ贈られたものであったが、髪の生え際から皮膚が激しくひきつれて、左目だけひどい吊り目となった。目は心の鏡とやら。彼女の優しくおだやかなほんとうの気質を知らない者には一見してどのように映ずるであろう。これが初見と想像してみるに、あるいはたいそう二面性の強い、いや単に審美上の好悪において、妖怪のごとしと映るやるせなさ。
のちに調べてみたところ、遂に誰もはっきりとは打ち明けなんだが、おそらく、我が姉のような手弱女ごころは珍しくもなかった。然らば余の優勝も、誰それのこっそりした手抜きがあったればこそか、いや、左様な低級の惑いに乗る余ではない。
表を歩けば坊っちゃん坊っちゃんと呼びかけられて、しょっちゅう菓子・果物などもらっていた。善に従うこと流るるが如し、取り巻きの友人どもにも分けてやる、心優しき余であった。
さとおさのいない我が郷の政治的の権威は村議会の老人らにあるが、形而上的の権威は供物にある。村民たちは自ら供物に統べられる。嗚呼おれは三十の冬に死ぬけれど、先祖累代の救世主、そうでない百歳に万倍まさる、それに三十歳なんぞ永久に来ぬと思って暮らして来た。
歳月は、幼少期には一瞬々々が一々永遠であり、思春期には輪をかけて時間を超越していた。斯様な記憶今となってはすべてが他人くさいが、ただぼんやりと、三十歳を確かに待ち焦がれていたはずで、そしてやはりどこかで、三十歳は永久に来ぬと信じていた。
相撲大会優勝以降どっと増えた取り巻きで今もねんごろに残っているのは磐井だけであった。我が労働の最たる一つである散歩の道々、行く手にその巨大な後ろすがたを見つけ、声をかければ、もうふり返り方から嬉しげに、おうタクヤンと応ずる、少年期の名残漂う爽やかさ。
彼は祖父を手伝って、奉祀で供物のドタマに落とす丸太へ神仏魑魅魍魎を彫るのがなりわいの男であった。(まあ郷に一般の半農で、田畑や食用鯉の養殖なんぞもやっていたけれど、そんなものは彼でなくともできることであり、彼がやらなんだらほかの誰かがやることであるからして、なりわいとは言えぬ。)えらい大食漢で、今では彼のほうが遥かに大柄であり、相撲もだんぜん強いに違いなかったけれど、生来が気の優しいタチなため勝ち負けのたぐいに向かず、厳めしい顔面をいつもにこにこと笑み崩し、わがまま放題の余に逆らうことはなかった。
対する余は、急ぎ過ぎた成長に息切れのした諸細胞の疲弊の直撃を受け、成人しても小柄で、童顔で、声は甲高く、麒麟も老いぬれば駑馬に劣りて、十歳の頃の逞しさはどこへやら、今では一般に比べて何もかも小さく、隅々まで子どもっぽかった。
磐井のほかで昵懇であった友人どもは、進学やら就職やら結婚やらを口実に、鼬の道切りを決め込んで、郷をすら出て行ってしまった者も少なくなかった。残っている者もいるにはいたけれど、もはやそれぞれの人生に引き上げていた。
古色蒼然たる我が郷も近代化の波を防ぎ切れず、漸進的の態度にもせよ外部との同調に踏み切ったのは村議会苦渋の決断であった。これ以上延び延びにすれば、何といっても国家怒涛の大腐敗、抜きん出てしまって隠し切ること能わず、あまりに仙境めいて逆に広く世人の知るところとなり、奉祀の露顕、その残酷さに仰天した芋世論からの人道的糾弾は避けがたく、一病息災の天理を理解し得ぬ一文惜しみの百失いなる石頭どもに猿改革を強いられて、青柿が熟柿弔う最後の大文明も遂に廃れ、郷愁あふるる霊界との断絶を余儀なくされたに相違ない。
けれどもいったん踏み切れば漸進的の叶わざるが近代化の本性、鉈を貸して山を伐らるるが開化の本然。それが余の生涯のあいだに訪れたことは返す返すも残念であった。
今では郷の人々にとって、奉祀なんぞはその時になったら否応なしに気持ちを切り替え、ボンヤリと演技的の心でやればよいのであって、平生は禁忌とすらするべき暗黙の了解となり果てた。
とりわけここ数年のうちに恐るべき速さで流布浸透した村民の心境の激変であった。
このまま行けば廃止必定の観弱からず、今はまだ十年に一度くらいのことに口角泡を飛ばすこともあるまいの余裕も、心境激変以来最初の供物たる余の血しぶきを目の当たりにすれば、電子レンジに加熱せられた餅のごとく、きつね色なる焦げ目の醍醐味も知らずして、一気呵成の膨張を呈し、急転直下の雪崩が起きぬか、取り返しのつかぬ自壊に走らぬか、嗚呼居ても立ってもおられぬそわそわした心地、憂国愁嘆の三昧境にしばし耽って、不出来なるおつむりがほどよく疲れると、おのが無力を呪うて自暴自棄なる大欠伸。
余はまったき余であってほかの何者でもない。余は他者を尊重する。畏怖さえする。ほかの誰でもない余がそれをするのである。余は豊かな見聞を望まぬ。郷から出ることさえ不要である。余は環境の産物にして時代の産物である。朝題目に宵念仏のごたまぜ概念といえども神仏を信じ、よく知りもせぬ国家をたっとび、確かにあるとも思われぬ宿命を重んずる者である。
余のちっぽけな個人は肉体の終了にともなって全宇宙を失うけれど、宇宙は何らの喪失をも覚えぬ。ささやかな新陳代謝の一環に過ぎぬ。この事実を余は伏し拝んで受け入れる。世界がそうであることを余が容認するのである。
余の意見は必ずしもとくと吟味せられたるものにあらず、ましてや独創にあらず。どこか外部からやって来て余にひっかかり、漫然と混ざり合っているものを意見と信ずるだけである。しょせんその程度のものである。そのやるせない事実を余が許可するのである。
左様の諸々にあらがわんとする一切の思想は余の肌に合わぬ。現代を席巻する個我礼讃のごとき新興宗教、人間の精神の深み暗みに耐えかねて唯物(しかし唯物とはそもそも不可解なる一切事物の隠れ蓑ではあるまいか。妙なる天啓・神来を深層心理学に匿うのたぐい。)に逃げ込んだ、現実への逃避者たち、現実の表面にのみ張りつく根無し草どもの、浅瀬にあだ波なる、音高き空樽読経がうるさいうるさい。
嗚呼思弁の塵芥にまみれて心持ちのわろきぞかし。けれども左様な生厭世・芋虚無こそ、目まぐるしく四季折々を呈する自意識における春光、遮断と継続の混在する覚束なき自意識における正気の朝ぼらけでなくもない。といえどもそんなおつむりを首に乗っけたる当人にはつらし。つらいので銭湯に行った。家に風呂はあるけれど、幼い頃から銭湯が好きだった。
中学の頃にいっとき、取り巻きたちのあいだにも銭湯通いが流行した。
番台に座っている女は美土里という。銭湯通いの流行の本懐はこれにあった。余と幼馴染である彼女は、小さな頃からよく家を手伝って番台に座っていた。
余と取り巻きたちは幼少期から思春期を通過して成人するまでの素っ裸を彼女につぶさに知られていた。彼女はとりわけ何の反応も示さなかった。見慣れている風物に過ぎなかった。思春期のあいだもまるでそうであった。
魚を得て筌を忘れ、供物への取り巻きの義務を現代的に放棄してそれぞれの人生に引き上げている同級生どもの中に、余と現在も秘密を持つ女人が数人。供物となった栄誉ある余の優秀なる超現実的なる胤をひそかに欲しがる女人たちであった。しばしば夜這いに来ては胤を摘んで帰る。既婚者もいたけれど、余は半ば以上霊界に住する生き仏であるから不義の念も生ぜぬものと察しられる。
時には前の女人が残した空気も入れ替わらぬうちに次の女人が来て、着たばかりの余をふたたび裸にし、いい子いい子を始めんとするや同性のただならぬ残り香を見つけ、これは誰の臭いぞとつねられる。これは誰の味ぞと噛まれる。しかし不定期に連絡もなくやって来る夜這いの相手を余はおぼろにしか認識しておらなんだ。その時間に余が泥酔しておらぬことはないし、特定できぬように工夫して来るので。こしょこしょと来訪の合図を聞くと、すっかり闇にしてしまって待機し、事済めば去るに任せるだけであった。だいたい見当がついているつもりだけれども、果たしてしんじつその当人たちであるかどうか、ひっきょう不明であった。
もう十年近く断続的に続いていることであった。胤は確実に土壌へ撒かれているのであるから、今頃いくらかは野辺に余の血脈が芽吹いていることもあり得る。その女人たちは、全人類史の母たる子宮を以て怒涛の近代化に反逆しているのだ。仰いで天に恥じず伏して地に恥じぬ無言の抵抗であった。
この手の悪徳に対して余は何のためらいも持たなかった。けれども美土里を相手には連想するのも嫌だ。いつからか美土里と名を呼ぶのさえどことなく気恥ずかしゅうて「おい」とか「なあ」とか呼んでいる。向こうは平然と、何たっくん、どうしたん。いや何でもないと答えれば、何やの、と不機嫌に小突いて来るような仲である。靴を隔てて痒きを云々……こんな独白はおのが脳内にさえしとうない。
供物となる大栄誉をおん賜りながら奉祀ののちも諸事情あって死に損なっておるのが郷に現在二匹生きている。一人は丸太の頭部への激突でパアになった、今年七十歳の爺さん、これは供物が正しく奉納されなかったからもう一度となるはずのところが、魂は確かにあちらへ行ったという村議会の判断によって抜け殻の生存を許されていた。寺に引き取られ、離住という法名をもらっていた。
郷の子どもたちとよく遊んでいる。無理に花輪をかぶせられたり、甘いぞ甘いぞと騙されて渋い葉っぱを食わされたりしては頬をふくらまして怒っている。余は、供物になる前から、彼にはいたずらをしなかった。悪童であったのに不思議なことだが今では明白で。要するに余が供物となったことは偶然にあらず、その宿命をすでに知っていたのだ、生まれる際に忘れるが、どこかで知悉し続けている本能のような器官で以て。それで離住へ早くも先達の親近感を見たか、離住が肉体は残せりといえども魂は冥界で鬼と相撲を取ったの後光を見たか。とまれいじめる相手でないことは生得的に悟っておった。
彼に法名を与えたのは、数十年荒れ寺であったところへよそからやって来て狸のように住み着いた住職であった。南無何と言っているのやらわからぬ、大きな宗派のくくりも謎の生臭坊主で、たいそうな酒乱であった。葬儀で羽化登仙酔っ払ってがなり声に、離住の剃髪した頭の、昔日に丸太がめり込んだ窪みへ水を溜め、落語の『頭山』なんぞ高座にかける奇行、これをやられた遺族の憤慨は言わずもがなだが、蓼食う虫も何とやらで、どうしてなかなか檀家はあった。
もう一匹の死に損ない供物は、直前で逃亡した、五十歳のイキハジというおっさん、むろんあだ名であったが、もう呼ばれ尽くしてまことの名前も失せ果てた。言い得て妙のイキハジ、尾羽打ち枯らし、老い木に花咲くの気色寸毫もない萎れた不愉快のかたまりであった。ちやほやされて三十まで育ったごくつぶしは逃げ方も軽薄短小で、今さら郷の外で生きる能力も気概もあらばこそ、けっきょく天にせぐくまり地にぬきあししてしおしおと帰って来たのだけれども時すでに遅かった。
当人としてはおそらく、外でどのような目に遭ったか知らねど、大なる疲労と絶望の勢いを借りた不浄の覚悟で以て我こそは供物なり、さあ死なん死なんと帰って来たのだろうけれども、頑として身代わりを買って出た彼の祖母が代替供物に散ったあとであった。
相撲大会に出場すらしていない、冥界で鬼を楽しませられるはずがないイキハジの祖母は村民たちから資格がないと非難されたが、孫の恥辱を雪ぐため老体に鞭打って一週間の断食断眠、常軌を逸した護摩行に顔はほとんど焼けただれ、視覚嗅覚聴覚を潰し、あまりの気迫に周囲を黙らせて強行したのであった。
イキハジはそれから汲み取り業をして働き、三十になるまで養ってもらったあいまいの金を十余年かけて方々にどうにか返し終えたものと認められたが、それはもう汲み取りですら関わってくれるなの意にほかならず、今でもすべての村民から忌避の無視、見るも汚らわしいとそっぽを向かれ、風下を避けられ、親族すら固く門戸を閉ざし、汲み取り業も締め出されて、畝に捨てられた菜っ葉・根菜をひそひそ食ろうて生きていた。まだ動いている虫をそのまま食っているところを見たという目撃談もあったが、あながち嘘とも思われぬ。今さらにもせよ勝てば官軍、何がどうでもいかようなかたちでもとにかく死にゃ雪がれるものを、いまだに郷のどこかで死に損なっておる。
余が最も恐れるのはイキハジになることである。それに余の場合、彼より危険が多い。余の胤の子を産んだかもしれない女人たちの亭主らからなぶり殺しの目に遭うこと火を見るより明らかで。たとい殺されなかったとしてもイヤだ。咎められなくとも。供物は幼少期からの憧れにして代々の誉れ、それをみごと現実に勝ち取ったのに、奪われることはいかなる事情であってもイヤだ。この理由から余は母を憎む。
母は、息子を誇り高き供物だからといって特別扱いにせず、厳しく育てた賢母であったのに外部の殊遇に放蕩堕落する自然の摂理を曲げ得なかった悲しみの親――そのように見られておるけれど、じっさいには余が相撲大会に優勝してから一気に太り、人に隠れて我流の四股なんぞ踏み、股割りをし、摺り足で歩き回り、余が逃げた場合の身代わりを準備し続けて来たという不浄の母性が彼女の正体であった。
体重計に乗っているところを何度か盗み見たが、来年には還暦を迎える母は、百五十センチそこそこと小柄でいながら八十余キロにも達していた。その図体で一段飛ばしに階段をのぼり、逃げ回る油虫を楽々仕留める。雑巾を絞るにも米をとぐにも布団を叩くにも、隠し切れぬ怪力がみなぎっている。
余は以前の華奢で内気で声が小さくて少々病気がちだった母を強く覚えている。まぶたの母。いつか冥府で再会する母はその母に願う。
冬に行われる奉祀に先立って、相撲大会は夏に行われる。今年優勝した十歳の新供物は咲枝という少女であった。もともと児童たちのリーダー格だった大柄な子であったが、優勝以降輪をかけて顔つきも立ち居振る舞いも逞しく堂々とし、おのが階級を自負している上気した頬からは以前の乱暴さが消え失せて、そこはかとないやんごとなさを漂わせ、ただの友人から取り巻きに昇格した児童らを引き連れて盛んに郷を練り歩いていた。
これが余と鉢合わせになり、ハッと見上げる目は暗く沈む。その雄々しい瞳に映ずる余のすがたの哀れなこと、今やれば彼女のほうが強いに違いなかった。余は痩せ細った、血色の悪い、いかにも何かの末路めいた、成れの果て然とした――……。会釈して通り過ぎる咲枝のこの先二十年に余のごとき堕落衰弱のなきことを願うて念仏三遍。
今年二十歳になる余の次の供物は守田という端正なつらをした男であったが、こいつもこの十年間にすっかり陰気くさくなって、ここ一年ばかり飽きもせずオートバイを乗り回していた。道の悪いところでずいぶん飛ばしている。あわよくば事故で、我知らず、逃走としての自殺ではないかたちで以て即死に散りたいのであろうと察しられた。余も似たことをずいぶんやったけれど、生老病死は天の軌道の管轄下、寿命の支配するところであって、なかなか自由に死なれるものではない。
かつて、三十歳になるまでに、狂死だの病死だので世を去った供物はいたそうな。その場合は親兄弟が身代わりになった。凄絶な相撲の特訓をさんざん受けた上に、百日坐禅、百品写経、それからこれは真偽のほどが定かでないが背中一面に金太郎の刺青を彫られただの、あちこち吉祥文を焼印されただの、去勢されただの、考え得る限りの精進苦行ゲン担ぎ余すところなくやってから丸太の下へ運ばれた。
これらは磐井の祖父から聞いたことであった。裏口で入ったものの郷を出るのがイヤさにけっきょく一度も登校せぬまま終わった高校時分、無沙汰になりがちだった磐井から泊まりに来いと誘われてのこのこ出向き、大酒盛りのさなか、剃髪の厳めしい老丸太職人がやって来て、話して行ったことだった。
先祖代々の霊魂が鬼の人質になっているのだから逃げられぬ。おのが霊魂もいずれ悲惨なる人質の中に加わるのだから逃げられぬ。逃げた供物はいたそうな。その場合、むろん身代わりが親族から、いなければ最も近しかった人物から選ばれて、精進苦行ゲン担ぎ、ぴかぴかに磨き上げられたのち実行されたが、逃亡の罪はそれで済むのではない。老若男女の拙なる手に位牌・卒塔婆のたぐいしこたま作られ、神社――かつて寺が廃れたにつき、そちらの分も受け持った神社――にまつられて、今も代々の罪びとの霊魂は村民たちより手を合され、無間地獄から浮かんで来ぬよう、最も重い罰を受け続けるよう祈り倒され、呪われ続けているのである。
イキハジの位牌・卒塔婆ももちろんあるが、これは誰も真剣に作らない、冗談のような木屑ばかりであった。当人がまだ生きているからということももちろんあろうが、きっと死後にもちゃんと作ってもらえず、ちゃんと呪ってすらもらえないに違いない。これまでの逃亡者たちと違って、彼は村民たちの目に触れるところで、あまりに長く生き過ぎたために。
現代という魔物、時代の疾病のために、余の取り巻きは村議会から派遣せられた年長者ばかりとなって――ほんらいならば同級生どもが、我が三十年生涯を仕舞いまで付き従うはずであったのに――甘いものや脂っこいものをたんと食わされ、酒をうんと飲まされ、女人をどさどさあてがわれ、一時はたいそう太ったり、艶めかしいお土産を頂戴したりと、まことに花やかであったが、ある時から食うても上げ下げし、寝ても立たず、しだいに痩せ細って、すっかり難儀になった粘膜の雅遊をばようよう貫徹しても垂れ出る雅液は水洟ばかりの閑古鳥となった。もうそうしたことには大した感興もなくなって、今では芋の煮えたも御存じない聖処女のごとき美土里とのどかに散歩するのがゆいいつの楽しみであった。
用事もないのに歩き回る散歩という贅沢は、我が郷では昔から供物の特権であった。無為や怠惰を忌む風習というほどでもないけれど、用もないのにぶらついておったら鬼にさらわれますだの、鬼に間違われますだの、鬼に憑かれますだの、家によってまちまちな迷信で、ここに言うところの鬼とは余が相撲を取る鬼にあらず、世間一般のむやみやたらの鬼である。十年前に天の土俵へ昇って行った先代供物の因幡さん(彼は最後まで堂々たる体躯を保ち、奉祀の日にも粛々と臨んだ。)の闊歩するすがたを目で追うては、おさなごころに後光の射した高雅な行楽と感ぜられていたが、確かに鬼すら倒しそうであった因幡さんとは違って我が病身のめまい・息苦しさ・離人感をともなうふらふら歩きでは、高雅な行楽の実態も開けて悔しき玉手箱。
美土里は中学を卒業すると三年間郷を出て耶蘇系の女子高に通っていた。今でも賛美歌を歌う。こんな美しい節のついた読経があるとはさすが世界の覇者たる西洋で、恐れ入谷の鬼子母神、遠水は近火を救わずで我が国を救済すること遂に能わなんだが、儒仏・神道にもこういうセンスがあれば花やかであったろうに、こちとらのものは単調だわ、しちむずかしいわ、死の歎き病の苦しみ別れの悲しみも諸法実相の裏張りに捨て置かれ、簡素で冷淡で無気力で、これは華美かなと思えば何だかごてごてと悪趣味で、御宗旨の分派も過多にして、教義は諸説に引き裂かれ、無害無益がだるいだるい。現代の科学崇拝も、ただ聞きかじりの優越感を以てしょせん猿の尻笑いに明け暮れしている不機嫌な享楽に過ぎず、我らが郷の因習の醜怪なることあたかも現代の逆さ因習から出た無理の濃縮せられたしわ寄せのごとし。
美土里は106番『荒野の果てに』をとりわけ御寵愛で、少し塩辛声な弱々しい声帯で以てひょろひょろ歌うに際し、「たっくんハモってな」「たっくんハモり担当な」と頼まれて、くり返し練習させられたハーモニーを付き合いながら、人けのない道をさくらんぼのように並んで歩く。
歌の途切れた幕間の、美土里独特の脈絡のない話に、女子高時代の知り合いがもうすぐ子どもを産みそうなのだが、少し早いかもしれぬ、三十七週が要なのだ、三十七週を乗り越えれば万事シッカリして、健康な胎児として望ましいものがつつがなく整うのだと博識めいて言うから、人は色々個体差も甚だしいのに三十七週は絶対か、たとい四千グラム超えていても三十七週に満たねば早産かと聞けば、そんなん知らん。満月だか大潮だかが生まれやすいとやらも、やはり地上の生物はなすすべなく月の運行に左右せらるるのであろうか、人の個性なんぞはしょせん太刀打ちすること能わざるものかとつぶやけば、知らんぷりののんきな鼻歌。
美土里は何度か結婚しかけたけれど、すべて破談になっていた。そこに余の工作がないわけがなかった。あらぬ噂を流すなり、直接脅しをかけるなり。暗に仄めかすだけでも、余の意図を理解すればみな即座に引き下がった。
郷の美少女たちは代々、年頃になると年上の連中にまず摘まれるのだったけれど、美土里も童女の頃から番台に座り、あらゆる男の裸に親しい女として奇妙な人気がないでもなかった。
少女の美土里に上の連中は、周囲に叱る大人がいなければ、色々と見せつけた。見せつけるだけでなく何らかの行為にも及んだであろうか、また及ばせたであろうか、美土里は言わぬし、余も聞かなかった。
思春期になった我々もまた美土里に群がり、美土里そのものよりもほかの女子たちの裸の様子をつぶさに聞いた。しかし彼女は「そんなん聞くもんとちゃう」の一点張りで教えてくれなかった。
近頃散歩はもっぱら滝へ向かう。二人並んで余の死ぬる滝を眺めた。到着したらまず滝壺に野花を投げたり手を合わせたりする。それから美土里は何であろう畏敬というよりも親近感のようなものを纏うてしんみりと見つめる。
子どもは来てはいけなかった。だから少年期には取り巻きどもとしばしば忍び込み、岩壁から飛び込んで遊んだ。時々は美土里も混じっていた。そういう思い出の滝壺である。先祖代々・供物累代の象徴というよりも竹馬の友の滝壺である。余は取り巻きどもの誰よりも高いところから飛べた。今ではへなへなだけれども、余の魂のほんらい勇敢なること、克明に記憶している証人としての滝壺である。人間おしなべて母が卵子に到達せし父が精子かと思えば、ここへ血気盛んに飛び込んだというのは、あるいはおのが受胎時に大変身した宇宙的の瞬間を無意識的に想起せしめられていた滝壺である。ここに死ぬるというのは、大いなる帰郷にして、次なる宇宙的の大変身を約束する滝壺である。
最も高いところから飛ぶに際して、ぎざぎざな岩肌に削られぬためには助走が要ったが、崖上に助走の幅はほぼなく、とにかく力いっぱい宙に躍り出るのほかはなかった。着水の衝撃に一瞬放心し、正気に返る頃には思いのほか深くまで沈んでいて底が間近に見えるのだったが、深みの暗闇のあたり、怨念の人影みたような気配を感じたことは一度ならずあった。
しかしそれはこれまでの供物たちの英霊ではないと信ぜられた。この我心超克・自他一如の大徳行の累積する場の功徳にあやかりたいと、ここで自殺する凡骨が少なくなかった、そのちんけな霊魂であろうと観ぜられ、少年の余は恐れもしなかった。神聖なる滝壺を穢す弱者の残像を、ただ軽蔑しながら、硬い水面に打撲した体に鞭打って太陽の揺れる水面へ浮かび上がった。足を引っ張られるようなことも、のちに体調を崩すようなこともなかった。取り巻き連も余の豪胆を頼みにし、虎の威を借る狐でざぶざぶ飛び込んでおったが、一度の水難もなかった。これひとえに余人をも守る供物の功徳に相違なかった。
美土里は家同士ががんらい昵懇であった由につき、乳児期からの付き合いで、だんだん時に経たれて色々の事情が変わっても、しっかりと取り巻きに加わるでもなし、また遠慮するでもなし、一種特別のところにいた。余が供物になってからも彼女の態度はべつだん変わらず、今の余の零落に対してもまた貴き供物の客観的認識を変えず、天から恵まれた階級を自分のことのように喜び続けていた。
「あたしもたっくんのあと追うたるからね」小さな頃に言っていたことだ。「怖ァて、すぐにはようできひんかもしれんけど。待っとってね」
「あかんぞ。そんなことしたら滝壺の底にごねとる負け犬らの地獄に混ざるわい」
「絶対たっくんについて行くから大丈夫や。あたしたっくんのおるとこわかるから」
そう言って鼻をとんとんする。確かに美土里は鼻が異常によかった。幼い頃、家の中で遊んでいると、やにわに眉をひそめてイボが来たと言う。庭を見に行くと、じじつ添水のふちに一匹のいぼ蛙が迷い込んでいた。甘柿と渋柿も匂いで当てる。消しゴムを隠し持った手も当てる。そんなことはいくらでもあった。余のいるところを嗅ぎ当てられると豪語するのも決して戯れ言ではないのである。
家の中で遊ぶうちに、お互い大きくなって、彼女の体を触るようになって、ある時ふっつり来なくなった。それからも会いはしたし、一緒にいるのは嬉しいらしかった。ただどこか寂しげであった。今は彼女に絶対触れない。歩いていてひょんなはずみに肩が触れるのさえ申しわけなくて恐ろしかった。
足場の悪い山道を歩くのに手を貸したり、銭湯で小銭をやり取りする際に当たるくらいはある。その際美土里から手を引っ込めることの絶対ないのが、依然として余に科せられたる罰であった。
「ついて来たっておれは冥界で十年鬼と相撲取るんやぞ。お前そのあいだどうしとくねん」
「あたし行司やったる」
「やったる言うたってそんなもん、さしてもらえんに決まっとうやろ」
「あかんかなァやっぱり。……それか、物憑きとかやったら、さしてもらえるかもしれへんのにね。あっ、そうやわ。物憑きになるためにはどうすればええか、ちょっとあたし研究しょう」
「やめとけそんなもん。アホ」
まったくすべては子どもの頃の会話であった。
――しかし今でも、ぼんやりとでも、そのような考えであろうか。美土里は自分の曾祖母のことも祖母のことも母のこともたいへん愛していた。博愛ではなく、親族の、それも直系の女性にほぼ限るようであったが、それらの霊魂を救う余は彼女には英雄なのである。
一緒に死に、物憑きにまでなってくれると聞いた時は、じっさいしみじみと嬉しかった。いやまったく、この上ない幸福であった。しかしだくだくと月日は経って、もはや余の心は鈍麻した。
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