生贄物語 4

生贄物語(第4話)

尼子猩庵

小説

12,110文字

閉鎖的な土地の因習により、三十歳になったら死なねばならない男の、三十歳の時の話。
   
南無金輪際末毘羅経。南無大正三色大権現。
   
※第125回文學界新人賞(2020)第四次予選落選

いずれ雉子に子どもが生まれるなら一目会っておきたかったかどうか、おのが心を探ってみるに、あの旦那の胤が強く出るか雉子の大地が強く出るか不明なる上は、どちらとも言えず、べつに旦那が嫌なわけでは更々ないが、まああの両親の子なら男女どちらにせよ美形のほうだろうくらいにぼんやり思うた。

その未来に余は何の霊力も贈ること能わず。我らが奉祀は、もっぱら閉鎖的の、幻の鎮魂にのみ向けられたるもので。まあ現実の人生のための信仰は陛下が今もおつとめであり、無数の神社仏閣にて高僧たちが一切衆生の追善供養いとなみ、神官たちが国家安寧を祈願し、あまたの本物の力士たちが四股を踏んでは荒ぶる大地を鎮めておるのに何を危惧することもないけれど。要らぬ心遣いはやめて、余はただ鬼とやらに人質に取られている先祖代々とやらを救うためとやらに死ねばよいばかりだ。

夜中に母がこっそりと庭木の幹で鉄砲稽古をする響きと息遣いがかすかに聞こえる。大量の鼻息を馬のように吐きながら木を突きまくっているすがたが目に浮かぶが、父はああも屈強になり果てた妻をどう思っているのであろうか。べつに不満もなかろうか。父の関心はおのが息子をつつがなき供物にすることだけなのだ。(時に古今、生粋の下剋上な成り上がりかと思えばけっきょく祖先から優れた血を引いていたという人がぞんがい多いが、我が父も奉祀年の生まれなのだった。ひ弱で相撲大会には出場もできなんだが、のちに余を産ましめたによって勝ったのだった。)

眠られなくて要らぬことを考えておった。もう考え尽くしたことだけれども、とことんまで考え切るということは遂にできず、賑やかな展開ばかり器用になり果てた考えであった。すなわち死ぬる瞬間、確かに認識せられる劇痛のありやなしや。表面的・部位的の劇痛のみならず――即死に際する魂の衝撃の様相や如何。魂が心臓発作など起こしはせぬか。

重い硬い丸太の激突を確かに自覚するであろうか、意識は時間停止したごとく、その瞬間の個室に永住しはすまいか。霊魂の旅立ちとは別に分裂して現世へ残留する自意識の永劫の悲愴のありやなしや。

気絶の間際のあの気持ちよさは脳髄ぶち砕かるる即死に際しても訪れるか、そうであればいかに心乱れようと絶対安穏なる極楽往生・大往生であるけれども?

斬首刑の死にざまはどのようであったろう、頸部を担当する痛覚が灼熱に燃え、大なる窒息を感ずるであろうか。何を見、何を嗅ぎ、何を聞くか、どんな味がしているか。肢体の全神経が遮断せられた大解放のかろさのまにまに、どのくらいの時間? 伸縮自在なる主観において?

首吊りは如何。大なる圧迫と窒息の苦しみを通り過ぎて、すべてを許しにかかって来るあの大いなる快楽――あれは丸太の下にも訪れるか(窒息や気絶は、はばかりながら余には昵懇であるが)。

拳銃で撃ち抜く脳髄は最期に視野を黄色く眩しく染めるか。記憶の走馬燈を回す器官も破壊せられて、どのような主観を呈したであろう。

飛び降りは、落ちているあいだの快楽はあるか、股ぐらの寒けはあるか、激突の瞬間に認識は働くか、そこによんどころない終了の迎えがあるか、残留や時間の遡りに幽閉されはすまいか。死して完全に消滅することが叶うのならば飛び降りも理想的なれど、消滅すること能わぬならばつらし。不明なる上は理想的も糞もなし。

身投げは如何。水の冷たさに炸裂する心臓の痛みや咳き込むたびに水が流入する肺の痛みや水中で突起物に削られ続ける肉の痛みを超越する羊水の優しさはあるか。

ガスで死ぬのは麻酔薬の強制的な昏睡と似るか、意識を保たしめられたまま先に体だけが動かぬ暫時無窮の地獄か、それでもやがて気絶の快楽はあるか、薬物の悪酔いによる卒倒間際の悪夢のごとき無限にくり返さるる落下やぐるぐるめまいの地獄はないか。

電気椅子にせよガス室にせよ手足を縛りつけられるのはつらかったろう。群衆からの緩慢なる嬲り殺しもつらかったろう。群衆の目は至福であったか無心であったか。

おのが本能を鎮圧して真一文字に引き斬る切腹ののち介錯の刃のために首を前へ差し出す際、眼前の地面に映るおのが影には何が泳いでいただろう。

大なる爆風に一瞬で絶命し、黒焦げの微塵となって大気に舞い散る際には同時に死んだ大量の霊魂たちとどんな顔を見合わせ、たくさん連なった馬鈴薯を引っこ抜いたあの世の産婆にどんな顔をされたであろう。

死ぬる時はどうなる、今は特にその瞬間のことに限って、いややっぱり包括的に。わかり得る範囲においては全知全能なるこの盲目の理性に語らしめよ。幽霊は磁気の見せる幻覚なりと見破っても見えなくなるわけではない上は、ロボットにおける別の視野を持って来たに過ぎないものを不可思議の解明と信じて粋がっておるボンクラ理性に語らしめよ。しょせん語るすべを持たぬか、しかしすべを持とうが持たなかろうが語られ得てしまうのが言葉だ。ひっきょう命じずともおのずから語るものに思う存分語らしめよ。

死が蛇に呑まるる鳥なら、余の死は、一般の自然死が飛べなくなった老鳥の嫌々呑まるるのと違い、籠に閉じ込められた今が盛りの美しい歌鳥が柵を通過すること能わざる肉体を遂に捨てらるる恩沢に嬉々として自ら吞まる。呑ましめられた蛇は腹がつかえて、入って来られた柵を出られず、余は身をていして蛇のすがたを籠の中へ遂に捕まえ、世人の鑑賞し得るものと成すであろう。

死が酔いの醒めることなら、余の死は、一般の自然死が奥部においては安堵しつつも嗚呼もったいないと惜しがるのと違い、もう金輪際御免被る、こんりんざいまっぴら、金輪際末毘羅経、南無金輪際末毘羅経と唱え忍ぶ苦行がようやく成就する最後の迎え酒、もはや二度と飲まずに済む永劫しらふの死後恒久に仄かな酌の思い出を偲ぶ夢を見ながら土に返るであろう。

死が生前には遂に添い遂げられなんだ居所不明の伴侶との邂逅なら、余の死は、一般の自然死が面食らいながらも笑みほころぶ一切からの解放であるのと違い、もはや尊ばれもせぬものを独り頑なに守って暗い部屋で寂しく茶漬けをすする無精ひげであろう。

死が一本の大樹の枯れ葉のひとひらなら、余の死は、一般の自然死が季節に即して腐葉に移りゆく有益な散りざまを呈するのと違い、虫や獣に食われもせず子どもに千切られもせぬ新芽のままで、自ら笹舟と変じて海ではない下流へ流れ去るであろう。

死が数百万年の巨塔の煉瓦の一片なら、余の死は、一般の自然死が確かな建築に我知らず参加するのと違い、何かしらまっとうせざる空虚として窓辺を飛び回り、外壁に虚しく吹きつける風であろう。

死がモドキをホンモノに還すことなら、余の死は、一般の自然死が秩序に返る刹那に文明のオブラートの代償である過度な恐怖をさんざん浴びるのと違い、かえってケダモノらよりも赤裸々に包まざるを強いられた紊乱の羞恥をようやく隠してもらわれる安心であろう。

死が荒波に沈められる船なら――

死が――

死が泡沫の夢からの目覚めなら、現世においても夢の中ではたいがい痛みを感じぬ、左様然らば死して目覚めたのちには覚醒の冴えた喜びのみならず、クッキリしたさらなる痛みをともなうか。確たる悩みを思い出し、安楽な夢の中にふたたび戻ることを願うか。

けだし全弾不命中なり。ボンクラ理性に黙さしめよ。接近してゆくのはよそう。いたずらに接近して離れ過ぎてはよろしゅうない。もともとそばにあったものを。背中合わせにくっついていて、そもそも近づくも離れるもないものを。

 

いや違う。確かに死の認識は死の現象とは何の関係もないけれど、そういうことではない。予行演習の裏張りだ。認識の反復によりじわじわと観念の細胞を炎症せしめ、果ては壊死せしむることこそ肝要、生きている事実を生の内部において自壊せしめれば勝利だ、真偽を超越した勝利だ、この反復作業の重点はただ累積のみだ。

余亡きあと、愛する人々はどうであろう。余の死に何らかの影響は受けるだろうが、そのまま人生は継続してゆく。その人々は余のことを覚えている。そこにのみ余の死後がある。この死後は非常にラクだ。勝手に思い出してもらい、最後には忘れてもらえるであろう。

ずっと余の最良のトモダチであった「死んでもいい」、彼をもっとよく知らねばならぬ。知るとは途方もなく遠ざかることであるとしても、現代人とはそれしかできぬ猿ゆえに。さて彼はいったい何だ、「死んでもいい」とは。呪わるべき分析的・解剖的の思弁によれば、ざっと数えてそれは十六に分けられる。低劣なほうから並べれば、

一、大病も大怪我も経験せぬ、どこかでおのが不死身を信じて疑わぬ若人の戯れ言。

二、劣悪な気分の圧力による一過性の憑き物。

三、他者の死を見聞きしたことによる無意識的の感染反応。

四、病気になれば快癒を願うが、快癒すればまた死ぬるにやぶさかではないという心境――死が病苦の類縁ではなく、何か永遠の健康と関連するという希望。

五、四よりもう少し具体性・積極性を帯びた死後の生への漠然とした羨慕。

六、長年溜まった恥や罪や負債を消滅せしむる逃避的思考停止。

七、じわじわと患うてすでに治ること能わず、もはやゆいいつ残された釈放を願う思考停止。

八、活力の度を越した過剰による衝動。

九、愛する人やペットに先立たれた空白を埋めるピースと頼むパズルの一片。

十、邪教の妄信あるいは正法の狂信。

十一、他者や文化を保存するための能動的自己洗脳あるいは思考放棄による感情滅却。

十二、十一の滅私作業の内部に長大なる集合的感情との邂逅を得る錯覚。

十三、先天的な機能障害による恐怖心の不在。

十四、生滅流転の彼岸にまします何ものかに焦点の合った瞬間。

十五、人智の及ばぬ態様すなわち余の数え漏らし。

十六、以上の諸形態のさまざまな組み合わせ。

――以上を十六知音ちいんあるいは十六陀知講だちこうとして金輪際末毘羅経こんりんざいまっぴらきょうにおける重要な観法と成す。奥義においては十六法のどの行き方から実践しても一つに帰すると説いて十六一如いちにょと定む。

かくのごとき創造の妙味に酔いしれるうちに、余の最良のトモダチは別の形態を纏うて再来す。すなわち余みたような奇異の宿命を持たざる普通人にも不意の死の訪るる尋常の場合を検め、通常人の無常を観ずるによって奇異を奇異ならざるものと成す思弁。

こちらは飛来するまにまに優劣貴賤の順番もなく、

一、ガス漏れ、寝たばこ、無差別連続放火……火に関するもの。

二、船の転覆や鉄砲水、用水路や貯水池に足を滑らせ……水に関するもの。

三、山中で滑落あるいは地上で転倒して頭部を強打し……打撃に関するもの。

四、家屋の倒壊、土石流、強風に倒れて来たものの下敷き……圧迫に関するもの。

五、落雷、不注意による感電……電気に関するもの。

六、雪山で遭難あるいは地上で猛吹雪の中を……寒さに関するもの。

七、屋外における日射病あるいは睡眠中における熱中症……暑さに関するもの。

八、食中毒、アレルギー、薬の飲み合わせ……毒に関するもの。

九、通り魔、居眠り運転、酒気帯び運転……出来心に関するもの。

十、猪や熊や野犬に……食物連鎖に関するもの。

十一、玉突き衝突、正面衝突、飛行機の墜落、脱線事故……怪力に関するもの。

十二、痴情のもつれ、暴漢、逆怨み……悪感情に関するもの。

十三、衝動的自殺、ウイルス感染……憑き物に関するもの。

十四、脳出血、心筋梗塞、大動脈解離……故障に関するもの。

十五、誤嚥あるいは食い物を喉に詰まらせ……空気に関するもの。

十六、毒虫、急性アルコール中毒、医療ミス……ふたたび毒に関するもの。

――それらの苦しみをおのが体感のうちへ執拗に描いて遂に観ずること。

以上を十六観行として十六陀知講の対なる奥義とす。

南無金輪際末毘羅経。読誦の途中で欠伸が出れば、欠伸に溜められた息で続きを唱えるのは御不敬につき、そのまま読誦には戻らず怠惰な息は吐き切る。

南無金輪際末毘羅経。途中で痰がからめば強いて咳払いをこらえ、自然に痰が切れるまで読誦し続ける。つばきを飲み込みたい生理的反応をも我慢し、読誦だけで遂に痰が切れた時、罪業も一つ断ち切らるべし。これ「痰切れ功徳」とは称せらるべき教義なり。

――……余を救済し得るドグマがいまだ地球上になかったがゆえの創造だったけれども、どうも郷の造り主の著した紛失経典がここに飛来しおるくさいと思えば、じつは霊体もてずっと近くに居ったのかもしれず、受胎され直す時を待っていたのかもしれず、ずいぶん長いこと隠り世におざったのだなと思えば、三十六計逃げるに如かず、今しがた体系立てられた一切合財を投げ捨てておんもへ飛び出す。

いつか奉祀を、供物の好きなタイミングでやってもよい時代が来るなら、そこに生まれたかった。もういっそ今やってくれろと願うても、自殺すれば身代わりを立てられ、余の霊魂も神社の卒塔婆・位牌に加えられて村民どもから間断なく呪われれば地獄落ち必定、すなわち確実に今よりも苦しくなるのであるから、この懊悩による頭重と手足指先の氷結、めまい耳鳴り呼吸困難不整脈等、諸々の苦痛はそのまま即座に無間地獄を避け得た即身成仏か。

嗚呼けれどもしょせんすべては淡い。荒淫・乱酒に閉じ込められ、予行演習をさせられ続けて、滲み、擦り切れ、溶け落ちて、ただただぼんやりしてしもうた。もう何をも真面目にとらえることができぬ。こんな人間には天罰のたぐいも下らず人の呪詛も効かぬであろう。だからと、いくら不感症々々々とうそぶいて、確かに霧が垂れ込め、膜がかぶせられ、世界は嘘くさくとも、神経発作もまた消えはしない。前後不覚の錯乱の内部にも、のちに思いめぐらせばまた俯瞰している興醒めの自分が居、その自分もまた輪郭のぼやけた他人だ、もう魂なんぞなくなっているのであろう。よし奉祀を免除せられて生き延びても、早晩狂死するか、委縮した脳細胞がいとまを乞うてボケるのに違いなかった。

じっさいずいぶん花々しい自覚症状だ。これを放置して、養生も摂生もせずに来たのは、たとい何らかの病気が進行して重篤になっても三十までは死ななかろうという心からであった。死を望みさえするようになられるであろうと期待されていたからであった。これは成功したと言える。ここいらで死ねなかったら、その後の人生なんぞ怖ろしゅうて敵わぬ。

夜には肺が焼けるようで、絞るように咳をすれば際限なく痰が出る。血が混じったこともあったが、喉粘膜の出血に過ぎぬと素人診断。心臓は膨らんでかさかさ動いている。時おり肋骨にへばりついて剥がれぬ痛みや鼓動の賑やかな痙攣は、このところ少々平穏だけれども、鼻は遂に腐ったようで、くさいばかりか煙が立って、防衛本能の誤作動に肺腑が吸いこまさぬとがんばる息苦しさ。肝腎臓はしなび果ててまぶたのむくみは指でこじ開けんけりゃ見えぬほどだし、時おりのアセロラジュースみたような血尿は血液の濁りを如実に示す。日ごと出づらい大便には筋が入り血がにじみ、下腹部のぐにぐにしたシコリの圧迫感の頼もしさ。朝目覚めた時のファンタスティックな幻視なんぞもすっかり慣れてしもうて、矍鑠たる日中にもふと大便が目を閉じて動かぬ鳥の雛に見えることにも慣れてしもうて、脳髄ももうあちこち閉塞・炎症の慢性化を呈しているに相違ない。リウマチかしらん少なからぬ関節も弱からず奇形になって、常にどこかしら痛い痛い。

前以ての準備において、心構えの云々なんぞという心許ないものでなく、確実な経験的技術の用意としては、能動的な気絶の反復よりほかにあろうか。しばしば発作的な弱気に襲われて、絶望的な孤軍奮闘、ハタから見ればただ時間に経たれて自然鎮火的に克服せしめられただけの、ただくたびれて安心した心で以て、磐井に手伝ってもらってよくやったのは、壁を背にしゃがみ込み、交差させた両腕を胸に抱き、しばらく深呼吸して息を止め、急に立ち上がった瞬間の胸部を思い切り圧迫してもらうというもの。これで十中八九気絶する。執拗にくり返し、充分に感覚をつかんで今では独りでも、酒が悪く回った晩など、しばらく横になり、急に座り込んで瞑想よろしく一気に脳内を弛緩さす。甚大なるめまい耳鳴りの不快感を耐え抜くと、五分々々くらいで気絶する。

かくて平生からおのれを仮死せしむる努力に相勤めるうち、我が内奥にとぐろを巻く万物・外界も徐々に仮死を喜びつつある。これ意志の永遠を肉体の有限へ平和的に明け渡す無血開城なり。先祖代々には恥ずべき、子々孫々からは誉れ高き無血開城、最後まで流血もて抗さんと抜刀する内なる三河武士よ安らかなれ。

意志と肉体は左様に分かたれ得るものか? 然り。我が祖父の思い出にしばしば病める心臓をさすっていた手の虚しさは、意志と肉体の異質を明らめていた、余は家伝の真理もて、おのが荷造りに余念なく暮らすのみ。

余の人並外れた泰然自若を内観すれば何のことはない、これまでに飲んだ精神安定剤の分量たるや水に浮いた桶を沈めるほどであった。薬のたぐいは父が市街まで足を延ばして買って来てくれる。奉祀に役立つことなら何でもしてくれた。たといそれでまことの英霊とはいえぬ正体に成り下がろうとも、父は英霊なんぞ求めてはおらぬのであった。

トランキライザーの陶酔境に没溺しつつ、心の水位・明度を調節しいしい、重ね重ね余が恐れるのは奉祀が流れることである。そうなれば余は確実に四十までは生きていなかろうし、緩慢に崩れながらの野垂れ死にの短からぬ苦痛が想像の及ばぬこと想像に難くなし、もはや回復の見込まれる心身ではないのである。よし回復し得たにしても、老衰がじっくりと時間をかけて営む魂の苦行的浄化作用のはるかな果てにある自然死を考えれば丸太の一瞬がいかにありがたいか。

余の胤を吸い取って行った女人たちはきっとひ弱な精神病者を産むであろう。もうそこらを這いずり回っているかもしれぬ。出会っているかもしれぬ……いいやけっきょくは避妊薬なんぞ飲んでいたのかもしれぬ。あれは余を用いた彼女らの遊びだったのかもしれぬ。

然らば余の血脈は絶たれるわけであって、それこそは無上の救いであった。いずれ来る人類終了時の惨劇と、それまでの生殺しに、余の直接の遺伝子は欠片も残っておらぬわけだと思えば、それは天にも昇るほどに喜ばしいことであった。

人間が絶対に逃れ得ぬ悲哀の触手から遂に逃げおおせた心地であった。

 

磐井は磐井で彼の予行演習があった。深夜、本番と同じ時刻に、彫刻の練習に用いた同型同大の丸太を落として落下地点等確認するというものであった。川上には瞬間的の水量を調節するダムみたようなものが腫瘍のごとく流れに付着しているそうであるが、その詳細は不明である。こればかりは見に行かなかった。べつに禁忌でもなかったが。よしなにやってくれさえすれば裏方に興味はなかった。逃避の心理であろうか。たといそうだとしても、それも敬虔に含まるると信ずる。

仮の丸太を落とす、これはこれで一つの独立した儀式であって、この物質世界の一元的の内部だけで片づく空気中の先祖累代の供養でもあり、その大衝撃を以て諸々の魔を祓う意図もあるそうな。代々磐井の一族しかたずさわらぬことであり、ここにおいても何らかの作法や、奉祀からさらに独立した独自の秘教的解釈のたぐいもあるものであろうか、まったく謎であった。

余はその決行日を磐井に頼み込んで打ち明けさせ、滝壺のそばの草むらに待ち伏せした。村議会の婆さん連が縫うてくれた本番用の白装束が線香臭く、嗅覚の刺激におつむりは発奮し、妙に在りし日の気絶――自ら訓練した能動的の気絶ではなく、父に引きずり回されてくり返した受動的の気絶――が想起せられ、能動と受動との二つの相違に、気絶と死の絶対的相違の予感、能動的な気絶の訓練の無意味の予感は忍び寄れども、最期の惑いと見極めて、踏ん張りながら息を殺す。

直前にこっそり滝へ立ち、ひそかに本番通りの手順を踏んで仮の丸太に頭を割らす目論見であった。できるかどうかわからぬけれど、こうしてじっさいに忍んでおれば耐え切れずに諸々の事情は吹っ飛び、勝手に飛び出すだろうことを願うての待機であった。緊張し切っての、もう何もかも余所事な精神の為すことは、純粋衝動にすべての責任があり、すなわち天の罪なり、人格のほうは情状酌量、何をしているのかもハッキリ認識せぬまま自分でも気づかぬうちに決行し、ケリがついてしまうという計画なのであるから、これで我が遺族がしんじつ代替を免れ得るか否か等々ももはや考えないでおく。この行為の意図は、おのれにだけは気づかれてはならぬのである。これはただの無意味な行為だ。これも空疎な予行演習なのである。たといそこですぱっと終わり、すべてが解放せられてしまうものであろうと、余にそんな気はゆめゆめなかったのである。

奉祀の当日でなくともきちんと同じようにするのだからして鬼も許すであろう。すなわち村議会と民心は許すであろう。我が母も身代わりを強行せぬであろう。こうした煩悶を為さしむるそのおおもとの根本がきれいに消えるであろう。余を超えた客観的事実がきれいに消えるであろう。宇宙が消滅するのであるから母も救われ、我が郷なんぞも最初からなくなり、第一創造主の大いなる不出来な失敗がきれいに洗われるであろう。

水音に混じって岩壁の上からかすかな人声。いよいよ丸太が流されるらしいから早く出動せねばならぬ。磐井はどのような心持ちであろうか、下に余が潜んでいる可能性は承知のはずであるが。

時が底意地わるく非常にのろのろと流れた。時は無慈悲にはやばやと駆け抜けた。

青暗い星明かりの中、巨大な亀頭が滝の上にぬっと現れ出た。どんどん伸びると思うととつぜん根元をば激しゅう勃起させ、おのが怒張により自ら去勢した大陰茎はゆっくりと落ちた。

余が立つことになっている水中の岩にぶち当たり、地球がしびれたのを足裏に感じた。

余は草むらから出ていなかった。磐井一族に見つからぬよう、茂みの中を獣のように家目ざして駆けたが、闇の中を疾走する白装束のまばゆさが強く自覚せられた。しかし誰にも見られなんだと信ずる。台所に駆け込み、乱れながら早鐘を打つ心臓なんぞ無頓着に焼酎をでぐびぐびあおって布団に潜り込んだ。

脳裏に映像のこびりつく。川へ放たれた丸太が(じっさいには縄や棒やで軌道修正されながらであろうが)威風堂々流れ来て、滝に達し、垂直になる時、非常に太い幹のかすかなたわみの下で、ゴリリという音が鳴っていた。

あの音か。余が最期に聞く音は。その後の頭蓋への激突音は痛覚よりも先に届くであろうか、いいや激突音よりも痛覚よりも速い閃光が先に余の脳天を焼き切るに相違ない。すなわち余の最期に耳にする音はあのゴリリのあとには続かざる道理だ。

眠り薬に頼んで強制的にまどろみ、気を失う直前の寒さに大慌てで身悶えするも、なすすべなく眠れば久しぶりの、たいへん濃厚なる悪夢であった。神聖なる鈍麻が立ち去りかけているのかもしれぬ。それだけは御勘弁願いたてまつる。この鈍麻だけは手放してはならぬものでありまする――命を手放しても。魂を手放しても。

翌日も翌々日も悪夢であった。あまりにあっけなく悪夢の癖が舞い戻った。舞い戻ってそういう癖のかつてあったことを思い出すのはやはり記憶の継続のあいまいなること、人格の統合とはしょせんあとから常に更新されているものであり、遮断と変質にまみれたるものか。眠り薬の修行を怠っていた余が悪いのであるが、非常な不具合を呈した。鈍麻にも多種類あって、このたびあらためて現れつつある鈍麻のほうへ速やかなる移行が叶うのであればよいけれど、内部で対立しているようである。そのため双方が機能を満足に発揮できずにおるようである。

憂わしげな母の証言によれば近頃余は眠りながらあちこちさまよっているそうな。ぱっちり起きていても幻覚を見聞きしたけれど、そんなものは生ぬるい。おのれが他人となって、眠りながら歩き回り、気がつけばわけのわからぬところに立っている。徘徊時の余はハタから見てどういう人間であるか、どうして正気に戻ったか! そのまま最後まで逃げ切ればよかったものを!

知人どもが余を見る目はどうであろう。余がパアになっているあいだに何か会話なんぞ交わしていたのかどうか。変なことを言わなんだか。出会っていないかもしれぬから、こちらから問うわけにも行かんし……そのさまを録画しておいてくれれば、それを見た余はどうなるであろう。宇宙に大なる矛盾が生じて空が裂けるであろうか。それともただ余が独りほほ笑みを浮かべ、二度とふたたび呼びかけに応じぬ清冷な草花となり、妙なる即身成仏を得るであろうか……

 

鈍麻による折り合いの失せられた静心無さを如何せん。

生物が死を逃れん逃れんとして足掻く激しさは凄い。危機を感じた時のあののたくり、ギャンギャン言う絶叫、しかし往々いざ死ぬる段に臨めば一転して静かになってしまうのは何だ。最期まで、力尽きるまでのたくればよいのに然にあらず。それなら初めから平らかに迎えればよいのに然にあらず。ここへ何か大なる秘密がどうしてなかろう。その時に至って何かを知る。そして静まる。初めから知っていたからこそ暴れた。暴れたのは忘れていたわけであるが、それがすなわち知っていたということであった。

いざその段に臨んで死ぬることをいきなり厭わぬ畜生どもの態度を本尊に拝んで観行し、失せられた折り合いをば復活せしめん、順番をじっくり体系立てるゆとりもあらばこそ、

一、逃げ疲れて倒れたガゼルが息荒く腹を上下させつつ、生きたまま下腹部あたりから食さる。あのチーターは、獲物の首を噛み砕いて動きを止めたが、意識・痛覚までは奪わずに食らうのであった。(もしくはあの静かになった時に、ガゼルはおのが痛覚を遮断したのであろうか? 人間が全力で思い出すべき技術がそこにあるのであろうか、もしくはおぞましき痛覚こそが臨終に際して女神と変ずるのであろうか?)

二、羽をばたつかせ喚き散らしながら籠の小鳥が侵入して来た蛇に呑まるる苦しみをおのが体感のうちへ執拗に描いて遂に観ずること。

三、生まれてすぐ本能に従い藻に潜んでじっとしている稚魚を、悠々と近づいて吸い込んで食らう大魚。(おのが死の呆気なさではなく、ここは大自然の無慈悲の映像を現ぜしめ、利他の真理、相互扶助の真理、滅私の真理、天体的個我の真理を唱う。)

四、虚しくも逃げよう逃げようとする虫けらが人間の子どもに脚をもがれてうごうごともがく。子どもは飽きるか嫌悪を催して去る。やがてこの虫は捕食せられようか、こんな不自然なモノは誰も食ろうてくれず、長時間かけて日干しに果てるか。

五、夜の道路を横断していた猫がとつぜんの音と光に立ち止まり、さらりと車に轢かるる苦しみをおのが体感のうちへ執拗に描いて遂に観ずること。

六、飢えに敗けた鼠が警戒心を失い、とうとうネズミ捕りのなまくらギロチンにかかって、生半可に切断せらるる苦しみをおのが体感のうちへ執拗に描いて遂に観ずること。

七、子どもに狩りを教えんとするシャチの群れに包囲せられ、何度もまるで逃げ切れるかのような猶予を与えられて、陸へ戻らん戻らんとしては沖へ投げ帰され、けっきょく取り分けられて食わるるオタリア。

八、屠殺所へ運ばれると悟って涙を流しながら従順に荷台へ乗る馬。

九、もう考え疲れた。けっきょく死に臨んで静かになるものもあまり浮かばず、十六を立てようと思ったが、何が十六か。どこから持って来た十六ぞ。何かあったはずだが忘れた。嗚呼しょうもない。嗚呼けったくそわるい。

我が国の誇る大偽経仏説地蔵菩薩発心因縁十王経ぶっせつじぞうぼさつほっしんいんねんじゅうおうきょう、そして郷の造り主の紛失経典、そして我が金輪際末毘羅経こんりんざいまっぴらきょうの三経をにっぽんの三大所依しょえと成さしめ給え!(生まれ変わっても自分でありたければ、今の自己を前世の他者に明け渡さねばならぬ!)嗚呼けったくそわるい!

夜中に悪夢から覚めて、脳味噌が耳から溶け出る感覚と胸中吹き荒れる雑音の引いて行くのを待ち、いくらかラクになったので、御神酒上がらぬ神もなしと焼酎を飲みに立ったところが、気づけば林の中の薪の山の前に立っていた。

丸太は奉祀のあとに細かく砕かれて郷の人々の生活のための薪になって来た。人々は供物を殺した丸太の薪で食物を煮炊きし、風呂を沸かし、冬の暖をとって来た。けれども電気の普及でだんだん薪の消費が追いつかなくなり、いまだ薪を使う人もここのは使いたがらず、もはや完全に林の中へ積まれたままになっている。この薪の山という現象は我が郷が初めて直面する事態であった。

昔、この薪を然るべきかたちに削って、夜な夜な自ら用い、神童受胎の夢に耽る女性がいたそうな。しかし鑢での仕上げが行き届かず、中に棘が刺さってしまって熱を出し、羞恥心から医者にもかかられずそのままとうとう死んでしまった。その霊魂は神社で供養されている。その仏像を見たこともあった。にこにこした身重のお地蔵さまだった。みごとな彫刻で、彫ったのは磐井の曽祖父だとかそのまた祖父だとか。

薪の山を去ろうとしたら誰か来る。もう足を運ぶ人もないと思っていたが、いまだひそかにこの薪を使う人もいて、しかし取りに来るのは人目を忍んで夜中なのであろう、と勝手に合点していたら現れたのは離住であった。

よく来はるんですかと尋ねると、嬉しそうにうなずいた。

離住は薪の山の前に膝をつき、しばらく瞑目合掌したのち手近な一本を取り上げると頬に押しつけて、そのまま動かなくなった。長い時間であった。よく来ると答えたのだから置いて帰ってもよかったが、隣にしゃがんで余も一本手に取った。

離住は余の目を見つめると、優しくうなずき、それから手振りで余にも頬ずりをうながした。余は頬ずりはせずに薪をそっと戻して、離住の背中をさすった。それから寺まで送って行った。

 

 

 

2025年5月9日公開

作品集『生贄物語』第4話 (全9話)

© 2025 尼子猩庵

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