繁華街の居酒屋で磐井とぐずぐず飲んで別れて帰りの道々、守田がいくらか年上の連中に取り囲まれているのと出くわした。やりとりを聞くに、バイクがうるさいの、つらが気に食わんの、いい気になるなの、言っておる。守田の絶望した顔よ。事故死を厭わぬのと悪漢が怖くないのとは問題が違うらしい。こちらが手を出さなければやられぬという現代的な守田の信仰はたやすく崩れ、遂に小突き回されておった。
悪漢らは、供物になりたくともなられぬ、相撲大会の勝ち負け云々どころか十年に一度云々にすら引っかからなかった星の生まれの能無しどもであった。これが濁世末法であるか、いやしくも供物たる男への、こんなあからさまな迫害が現実に起ころうとは、目の当たりにして世も末の観を逞しゅうさせられるが、ひっきょう供物にあるまじき守田の凡骨ぶりが原因なのでもあろう。今も、平生厭うている余を見て、地獄で仏を見たような安堵の泣き顔、こんな情けない供物もかつていなかったであろう。
斯様な凡骨には供物の栄誉も大吉凶に還りて仕舞いか。こいつが優勝したのは最も強かった児童が相手の髪の毛をつかんだり拳で殴ったりの反則で負けになり、すでに取り巻きぶっておったほかの腕っぷしたちもふざけ始めて大荒れに荒れた年であった。守田はハナからケチのついた供物であった。
またこの迫害しておる連中も、天界の英雄たる我々の階級を疎ましがってはいるが、羨んではいないのである。どうあれ攻撃する権利をただ有するのである。現代だ。強者・賢者を滅ぼさんというのが人類目下の大情熱だ。世界が滅びるのも時間の問題であろう。それともまた性懲りもなく堂々巡りをするか。貝殻で海を量る科学は崇拝者の有象無象を引き連れて狂死し尽くし、ふたたび神仏を見られるほどの分別を再生するであろうか。そうなれば今大きなつらをしておる近視の輩は、みんな冥府で盲目の奴隷になれかし。冥府なんぞないのだから文句はなかろう。
仮に滅びも堂々巡りもせず、高次の人類の時代が来るのだとして、そこに現在と継続した大なる寿命のありやなしや。あるなら余は未来楽園における自我の復活、ひらに御免こうむる。
それにしても守田は宿命と折り合いが悪い。せっかく産み落とされた上、しょい込まされて、なすりつけられて、狭く暗く閉じ込められたによって、かえって駆け回られる幅を誰よりも知悉し、誰よりも光を感ぜられる身空であるというのに。
しかしけっきょくこういう生き下手が死に上手になって、快刀乱麻をぶっ断ち、花々しく供物に散って、その迫力に村民はっと息を飲み、唯物・忘恩に曇りたる精神のまなこを晴らし、彼、衰弱しゆく奉祀の発展復興に貢献して大なる中興の祖に化けるというような未来もあるやもしれぬ。
そんな中興の祖を尻目に、余は風馬牛を決め込んで、助けもせずに通り過ぎた。余と守田なんぞは今さら関わり合ってどう転ぼうが善し悪しももはやあるまい。そもそも供物同士は馴れ合わぬべきなのだ。新供物の咲枝だって、弱冠十歳にしてもう立派に精神的の自立を遂げ、零落の余にも大なる寛容の軽会釈、誰をも頼まぬ女傑の風格ぞ。
だいいち守田を余は好かん。噂では彼、犬や猫を殺したりしていたそうである。それは余も虫をいたずらに殺したことはあるが、供物になってからはよぎりもしなかった。守田なんぞはしょせん犬猫なぶり殺しの形状をした魂だから、その時々で加害にも被害にも回るのであろう。然らばこのたびの加害者どもも巻き込まれたかたちだ。
小学校の出席番号が永久欠番にならなんだ供物というのもこいつくらいか。イキハジでさえなったのに。こんなゴクツブシが供物とは、大なる恥辱とは言うべき、大なる悪徳とは言うべき。親父がこいつをお袋へ孕ますよりも前に、もう一度余計にマスをかいておればこんなゴクツブシは生まれなんだろうに。
悪漢らは、通り過ぎる余には手出しをしなかった。文句あるかの顔つきで見つめて来おったが、見つめ返し続けておっても激昂する気配はなかった。単に余が年上だからであろう。いわんや本番間近の悪臭芬々たるおぞましき馬鹿らしきサクリファイスにおいてをや。
触らぬ神に祟りなしとや。
廃校の中庭の池の鯉には一尾、たいへん大きな大正三色(錦鯉)がいた。あんまり狭そうだったので今は森の中の貯水池に移されているけれど、一時は学童たちに荒々しくも大きに愛でられていた。もとは離住の生家に飼われていたものが寄贈されたのだそうな。さらにもともとはその生家へもどこかから流れて来たのであって、真偽のほどは定かならねど、離住が生まれた頃にはもう立派な成魚であったというから百歳を超えているやもしれぬ。
磐井とともに貯水池へ見に行った。そういえば昔ここで竹筒をくわえて水に潜り、水遁の術を練習していたら結膜炎になった。だから目の充血した魚ばかり泳いでおるやもしれぬ、投網でも用いて確かめよかと話しているうち、人声に反応して浮かび上がるすがたはまごうかたなきあの大魚だ、あの色模様だ、この声を覚えておるのか可愛い奴めと思ったら、警戒してそのまま静止している、可愛げのない奴である。
あらためて見るに、やはり記憶の印象の誇張ではなかったと知れて、たいへん大きい。あるいは一メートル半くらいあろうかしら。もっとか。見つめるうちに何かひたひたと悟らしめられる心地あって、この怪物、じつはもっと大きいところまで育っていたのが、あまり年老いたために、今は年々縮みながら死を免れているのではあるまいか。
そうして縮み切ったら稚魚のような顔をして、折り返し、ふたたび飄々と成長して行くのである。片目であったと言い伝えられるのにまだ存命の当人はちゃんと両目あるのだし。別人が入れ替わっているのではという疑いは模様の一致が一蹴する。やはり折り返したのやもしれぬ。そのように伸び縮みしながら郷の盛衰を見続けて来たのやもしれぬ。
郷をひらいたあの名前も定かではない奇人物が持ち込んだ大正三色であるやもしれぬ。もしくは彼本人やもしれぬ。供物の一番槍として風狂に散って大正三色に生まれ変わり、おのが生前排泄した汚物を吸収して生長してゆくものの行く末を見続けさせられるというぬるい地獄に泳いでいるのやもしれぬ。
滝を登った鯉は龍になるとやら。すでに前世において龍であった大正三色やもしれぬ。その龍の見ている夢こそ、現世における丸太やもしれぬ。それこそが滅んだ恐竜たちのまことの化石やもしれぬ。
捕まえたろか、と磐井の戯れ言。いつかはじっさいにそんなことをする村民も出るであろう。そう遠くないことであろう。または御神体にでもなるであろうか。そうなれば過去をすべて貫いて、久遠の昔からの応身の一となるわけだからして、今から拝んでおかねばなるまい、南無大正三色大権現。
我が郷の遂に滅んだあとも国破れて山河ありを決め込んで、あるいは泳いでいる大正三色であった。
確かに浮かび上がっては来たが、この寂として動かぬすがた、ひょっとしてもはや死んでいるのかもしれなかったが、いかにも生死を超越した大正三色であった。
磐井は軽トラックに乗ってどこぞの誰ぞへ何ぞの配達、美土里は銭湯の準備、余は独り酒瓶を隣に座らせて川に釣り糸を垂れていた。
よく外来種が捨てられて生態系を狂わすとか何とか聞くけれど、日本にずっといた小魚なんぞが食われ、追いやられ、のさばられ、混じって区別もつかなくなるかと考えれば胸も痛む。
ただ日本固有と言っても、列島が独立してから一七〇〇万年、いくらかはどこかから来た奴であろうと思えば、いつからだったら固有なのかなんぞの境界に、しかし興味はない。おおむね一般に承認せられているかどうかでも、どうやらあらず。心の実相を訪ねれば、だいたい在来種と言われ、そこに何となく美醜の感じが美しいにせよ醜いにせよすんなりと感ぜられれば余には固有である。この審美感覚が先天・不変のものか後天・可変のものかという問題もどうでもよい。
しかし今は退屈であるからして、外来種の生物が泳いでいたら楽しかったろうにと天邪鬼なる歯噛み。それもなるたけ醜怪で獰猛で巨大でおぞましいやつが。ちんけな在来固有種をもりもり食ろうてくれんかしらん。
ほれ水中に何ぞ大きな影でもうごめけと、その出現を念ずるも甲斐なし。
何かそれらしい一片を又聞きするだけでたちまち手のひらを返してこれまでと真逆をすぐ信ずるような、時流の奴隷に過ぎぬ通俗科学の芋信者たちが、津々浦々の幽霊や狐狸妖怪の言い伝えを一笑し、もしくは嫌に拝してこじつけ回し、古人の心情を我々の想起から断絶せしめてゆく現象にはつくづく生理的嫌悪を覚えるも、またこのような解釈的嫌悪はすでに我が精神敵の手中にありと反省されるも、この郷にはホラ吹きがいたらしいと見えて、吹かれたホラにいわくこの川には河童がいたそうな。
神話おとぎ話のたぐいが、人間のつまらぬ人生を、まあ生きられたものにしないでもない文化の錦と昇るか、戯れ言と堕するか、のっぴきならぬ生活上の悲哀からにじみ出た分娩と昇るか、だらしない脱糞と堕するか、その境界は如何。この現代的な、あまりに現代的な類別的思弁のうざったいことよ、ともあれ河童の噂は現代人たる余には早い話が文化にあらず、戯れ言なり。大自然を前に嘘はつけぬ。
しかし河童といえば相撲が好きと相場が決まっている。この川に今もいるなら稽古をつけてもらえんだろうか。ちかぢか鬼とやらんけりゃならぬ身の上なのだ、先に河童と取っておいたらいくらか心丈夫であるが。
河童の噂を流した人をホラ吹きと断ずるのも頑迷で、いたと言うのだからじっさいにいようがいまいがこれは河童のいた川なのだと思おうとしてみても、戯れ言なり。うむ。この世がそもそも戯れ言でないのならば、話は違って来るけれども。すなわち河童がいたもいなかったもないほど、いた川なのでしかあり得ないわけだけれども。
――しかし何だ、もういないからこそ厳然といたのだなあと思えば、ちょうど酒も無うなったし、けっきょく魚も釣れなんだ。
生臭坊主が余を訪ねて来た。先日離住を送ってくれたお礼だと言って。あの日、夜中にいないので探し回っていたのだとか。離住は薪の山へよく行くと言っていたが、あの日は例外で、ふだんは昼間のことだったのか。それとも、しばしば夜中にも行っているのに生臭坊主は知らず、あの日たまたま気づいたというだけのことなら、ちゃんと面倒見ておるのかこやつとも思い、しかしわざわざこうしてお礼に現れるなんぞは、あんがい離住を大切にしてくれているのかとも思われた。
この僧侶は名を耕川といった。彼が余をどう思っているのか不明であった。因幡さんの奉祀の頃にはすでに郷へ住み着いていたけれど、たぶん参加していなかった。おおかた寺でお経でも読んでいたのであろう。別の真理のうちに迷い暮らす者として、かなしげに、冥福を祈っていたのであろう。
酒乱の半ら阿羅漢と尻目にかけていたけれど、じっさい相対すればとても敵いそうにない静けさだ。大なる怪力を秘めたような静けさだ。余についてどう思っているのだろう。根本的のよそ者として、しかし葬儀の采配を重ねるによってすでに我が郷の精神的の年輪へ弱からず食い込んでいながら?
向こうからは何も言わないけれど、いかにもお坊さんらしく開かれているものがあった。何でも聞くがよろしいと言っているわけですねと決めつけても、強いて否定しないであろうやわらかさがあった。
思い切って余は尋ねた。
「一たびでも重罪とはこれいかに」
耕川和尚は少し驚いたような顔をしたあと、目を閉じた。おだやかに見えるが、怒ったのかしら? 余はそうふざけているわけでもないのだが――あるいは極めて真剣に、文明の陰部にひっかかり続けて来た、この先もひっかかり続ける、言語化し得ないものの始末を、けっきょくズレた表現を取ってにもせよ、ひとつこの僧侶につぎ込んだのであるが――ふざけていると受け取られても尋常だ。怒れ。
けれども耕川和尚は、げじげじ眉毛の大きな目をぐりっと開くと、答えた。
「十服でも秘薬というがごとし」
――どういうつもりなのかは、もはや知りたくもない。余は耕川和尚が持って来た酒を注いですすめた。耕川和尚は合掌して受け取ると、膝を崩して聞こし召し始めた。差しつ差されつしながら、しかし余はまだあれくらいで救われはしない。もういっちょ尋ねた。
「百人でも船頭とはこれいかに」
香の物をぽりぽり言わせていた耕川和尚は、むっと目を閉じて動かなくなった。やがて続きをくちゃくちゃ言わせつつ、ぐりっと目を開けて、
「千幅でも曼陀羅というがごとし」
余はペシリとひたいを叩いて、お酌した。それからこちらも目を閉じてしばし考え、普遍的の問いというよりも、耕川和尚の答えからおのずと生じて来る問いをば尋ねた。
「万通りでも奥の手とはこれいかに」
耕川和尚はまたむっと目を閉じ、濡れて光る下唇をわずかに突き出してつかのま静止したのち、大きな目をぐりっと開いて
「億たびでも帳消しというがごとし」
余は大きくのけぞって、戻るとお酌した。そして余も受けたものを干した、次の瞬間、罠にはまった小鳥を発見したような電撃に打たれ、尋ねた。
「一たびでも重罪にして、億たびでも帳消しとはこれいかに」
耕川和尚はまたむっと目を閉じたが、このたびの静止は長かった。あぐらをかいて頬杖をついているすがたが、ある厳粛なひとつの、然るべきかたちに見えて来る頃、大きな目を静かに開けると、答えた。
たびにては重き軽きはなかりけり
たびたびも旅まれまれも旅
――……これで終わりだ。余はひれ伏して、
「おほん尊答、拝謝し奉るぅぅぅ……」
耕川和尚は座り直すと、合掌してこうべを垂れた。そして相変わらず宗派も謎の、南無何たらかんたらを唱えた。
中学の卒業を目前に控えた頃のこと、ある欅の木の下に、取り巻きどもとタイムカプセルなるものを埋めた。掘るのは六十になってからにしようと言って。六十といえば、余はその頃には三十年も死んでいるわけであるが、それでもよいと言って。多感な時期でもあり、迫り来る卒業への悲壮な興奮も相まって、取り巻きどもは涙ながらに感激していた。
それを独りで掘りに行った。
欅が見えた瞬間、きっと誰かが一度は掘ったに違いないととつぜん直観した。たとえば出て行った連中なんぞが出て行く前に。なぜだか強くそう思われた。しかしたどり着いてみるとそういう形跡は全然なくて、余の直観の乱れは嫌な翳りを引いた。
スコップを突き立て、長々と掘って、泥に汚れたアルミの箱を開けた。勝手に開封して片っぱしから読んだ。みんな思い思いに自分勝手な未来への手紙を書いているに過ぎなかった。どの文章にも余のことは出て来なかった。示し合わせたに違いなかった。そうでなければなおさらひどい。いっそ六十になった我らよ、あいつの手紙は読むな、封を切らずに燃やそうではないか、呪われた死者は忘れよ云々と書いたものでもあればずっとよかったが、まったくのほったらかしで、余の手紙はただ一人だけ精一杯の美文汲々、往々間違いかと思しき箇所散見せらるるにわか擬古文、雅俗折衷でがんばる思弁と独白、聞きかじりのことわざなんかごてごて盛りつけたるさまあたかも蕨を湯がくのに屋久杉をくべるがごとし。
ほかの連中との相違の何たるサムさ。もはや身に覚えのない古家蛸骨なる雅号恥ずかしく、蛸骨山人なる署名痛ましきかな、姓と名に挿みたる現世守なる官名厭わしきかな。
誰が入れたものであるか小さな桐箱を開ければ、臍の緒であろうかと思うたがヤモリであった。生きたまま閉じ込めたのに相違ない。醜く萎んでいるけれど、すっかり枯れ切るほどの湿気の逃げ場もあらばこそ、きれいに分解されるほどの微生物の生きられる隙間もあらばこそ、不完全なる腐蝕、その怨念、瞬間おぼろげなる冥土の道の幻視生じて、黄泉の不浄の異臭は鼻に重く、住人たちの蛆は目にやかましく、このぐったり死せるふよふよのヤモリ、我らが魂の澄みし青春時代の墓にもあたるタイムカプセルに何たる霊界の案内人ぞ、余はぜんぶの手紙と宝物とを抜き去り、代わりに青大将を捕まえて生きたままアルミの箱へ押し込めて埋め直した。
手紙と宝物はすべてうちの焼却炉で焼いた。六十になった同級生どもはタイムカプセルを開けて、三十年前に死んだ余の怨念を青大将の不完全な腐蝕に見るであろう。もしかしたら蛇はまだ生きておるかもしれぬ。そうなら三十年ぶりの空気をひと吸いし、内部に充満した腐乱ガスを発火せしめ、破裂してジジババどもに猛毒を浴びせかけてくれろ。大なる疫病の発端となれかし。
きっと誰も掘りには行くまい。人知れず欅の下に埋もれ続ける蛇がとうとう水になるはるか未来まで、この天体が遂に火となって無限自転の重刑から解放されるまで、掘りに行く者はおるまい。激昂の沈静した曇りなき心眼に強くそう観ぜられた。
それよりも、蛇の苦手を克服した誇らしさが清々しかった。まさに不要の皮を脱ぎ捨てたがごとき軽やかさ。我が身中の深遠なる何ごとかが巨大になりゆく予感の爽やかさ……
供物代々の墓はない。滝壺から引き上げられた遺体は、お召し替えののち、大地にお返し(土葬のこと。棺桶のごときコンドームははめずに生で埋められる。奉祀で死に切らず生き埋めとなった例もあるとやら。)されるのだったが、その場所は村議会の老人たちしか知らなかった。未来の村議会員たる磐井なら知っているだろうと問い詰めたこともあったけれど、若輩ゆえまだ教わらぬそうな。散歩がてらにちょっと探してみたこともあったけれど、わからぬ上は、どこにもその可能性のあることであるから、そのへんに供養の酒を撒いて帰った。
供物となってから、次第々々に老人が嫌いであった。ああまで長く生きていられただけで過当な幸せであるにもかかわらず、肉体の老衰あたかもそれ自体が不平不満の主張という印象を受け、余が神経衰弱の高じて庭にすら出られなかったあいだにも、日光の下を元気いっぱいうろつき回っておるのが勘弁ならなかった。
けれども知らず知らず老人たちの印象から醜悪なる部位が抜け落ちて、今や郷の人々はみんなきれいなものであった。このへつらい心の正体が何か自己防衛のための自己欺瞞であったとしても、それでもいいからみんなひっくるめて救われて然るべきものだと固く思われた。
もうずいぶん冷え込んで来た。季節は、我が頭と心の整頓が虚仮の一心、緩慢に喚き散らし、ほざき回り、下手な迂回・段階を経て、ともあれ終盤に臨むまで待っていたのだ。それがようやくというようにシッカリ寒い。死との折り合い、今からはもう間に合わぬ、いやそんなものは五百万歳人類の古今東西に一度たりともあらざりけるなるべし、どだい不可能であるから投げ出して、大山鳴動して鼠一匹これ世の習いなり、いわんや死をや。
どうでも覚悟を決めるよりほかはなし、凝っては思案に余るとやら、何も為されていないけれども、それでこそ、そうであればこそ、あとは野となれ山となれだ、細工は流々仕上げを御覧じろだ、それらの空結論を事あるごとに胸中へ唱うるうち、だんだん確かにそんな心持ちであった。
ところが、我ながらいとよく諦めたり、べっちょなしべっちょなしと安らいでいると、好調のゆるみを衝かれて奥部(=外界)から手のひら返しを食らう。
二人の散歩はまた滝壺へ向かっていた。到着すると、もうすぐやねェと言って、美土里はそのまま何ぞ図らんざぶざぶと滝壺に入ったのである。非常にゆっくりとそうしたのだったが、止める間もない出来事であった。余はただただ奇異なる光景に呆けていた。原子炉の冷却水にも等しい、地獄と通ずる血の池を、平気の平左でざぶざぶ突き進み、あれよあれよという間にとうとう滝の中にまで突っ込んだ。
間断ない水の足蹴の乱暴さ、骨の髄まで刺す冷たさをものともせず、滝に打たれている美土里の目を閉じた神々しき尊顔、しかし激しく乱れた髪がへばりついていて美醜ももうわからぬ。甚だしき苦行だのに、その静謐の閉眼不動は形而上的の安らいをやかましいほど示顕していた。余の最期を体験しているのであろうか。彼女の上に、十年前因幡さんの頭をかち割った、無意味のかたまりなる、呪わるべき丸太が落ちる幻が見えるかと思って、そういうふうに心を向ければ、おう見えるわ見えるわ、美土里をかち割りはせぬも、延々と落ち続けておるわ、余はたまらず滝壺へ飛び込み、掻き泳いで美土里の腰にしがみつくと、河童のごとく水の中へ引きずり込み、ぐいぐい泳いで陸へ引っ張り上げ、ぼたぼた雫を滴らせながら急ぎ足にそのまま郷から逃げた。
息を切らして足早に歩きつつ、この勢いで肉体を捨てられればこの上なし、どこか深山幽谷なる無何有の里なるところにて、樹上なり洞穴なりに巣を構え、二匹の猿に変じて暮らされればこの上なし。美土里は何度もたっくん、たっくん帰ろうよ、逃げたらあかんよ。けれども強いて力を込めてまでは抵抗しなかった。つないだ手をそれなりに握り返して来、従順に歩調を合わせていた。
目撃者はいなかったわけではない。しかしまたぞろ再発した余の狂態に過ぎぬと思うたろう。奉祀直前の供物が監禁されていた時代もあったと聞く。余は郷に、どんなに醜怪なる生物であったろう、嗚呼あの娘も可哀相にあんな小鬼に振り回されて、しかしその苦労ももうすぐ終わりだ、目撃者はそんなふうに思うておったに違いない、ともあれまさか逃げ出したとだけは思わなんだに違いなかった。
これまで世間知らずの高枕とことん決め込み、周囲の援助によって食うにも自尊するにも事欠かなかったけれど、まとまった金銭を持たせてもらったことは一度もなく、余のことを知らぬ人と会話したこともなく、郷を出るにはまったくの無力であった。余に比べれば多少は世間を知っている美土里も、金はすべて親に渡していたのでどうにもならぬ。けっきょく磐井の宅を訪ね、驚く彼から無理矢理借りた。
いったん金を取りに消えた磐井は濡れ鼠な余と美土里に服まで持って戻って来た。丈が二人ともにぴったり合うている不思議は如何。いいや彼の苦渋に満ちた優しい心の葛藤は、余のとろけた脳髄の憶測に穢すまい。彼の行く末も案じまい。あの、厳めしい祖父に聞かされた、逃げた供物の親族知人がこうむるおぞましき精進苦行ゲン担ぎの話など、おそらくはかなり誇張された、あるいはまったくホラの、つまり丸太職人に留まらず若き供物をおどしつける語り部としての役割をも担わされ、喜児流姿村という嘘歴史の管理もて郷を統べたる黒幕的家柄に生まれながら友情の贄に供せられた磐井がこれからこうむる災厄、そしてまた彼の婚約者と子どもの末路も考えまい。
全身全霊傾注して世界の果てまで逃げた余と美土里は隣町の旅館にいた。
村境を一歩踏み出すとたん、きっとこれまで何とも思わなんだ郷里の山河に愛執は噴出し、眼前の大世界に打ちのめされ、めまい冷や汗のたぐい壮烈に襲い来るであろうが腹はくくれり、いざ尋常に勝負々々と臍下丹田勇ましく力んで歩けど歩けど覚悟していた自覚症状はいつまで経ってもなしのつぶてで、それ自体あいまいなる肩すかし食ろうて、反発物のない道に力み続けることの難儀一通りならず、一足ごとが暖簾に腕押し、ずるずるとすり抜けられているうちにとうとう脊椎も失い、蛸のごとくへたり込んでいるあいだに美土里はてきぱきと宿泊名簿へ記帳していた。
我が郷のほかにも世間に知られない忌まわしき因習の残留する土地がどこかにあるであろうか。あるならばそここそ、よんどころなく滅びに向かう人間の最後の大地であれかし。我が郷は明日ありと思う心の徒桜、もはや長うないからあとは任せた。
そう考えながら余は美土里に触れた。しかしその後はむしろ彼女のほうから激しく導かれた。彼女がこれまで破談になった男たち――今は家庭を持つ男たち――と不義密通に明け暮れしていることくらい知っていた。しかしそれはすべて諦めの喜びであったろう。こんな希望の悲しみではなかったろう。
美土里はその道にかけての古強者と成り果て、また体質的の天稟にも恵まれて次から次とほとんど休みなく昇り詰めたりした、そのつど死ぬ死ぬ言うたが余も男の身でありながら、初めてはっきりと死ぬかもしれぬを感じた。交尾しながら雌に食わるる虫や、雌に吸収せらるる深海魚が我が染色体の記憶のどこかに嗅がれた。お互いの頃合いは噛み合わず、余の臨死時に平然たる美土里は聖母のように余を抱きしめ、おさなごにするように余が頭をなでていた。一度だけ、連絡せられた水脈の不随意的収縮が遂にまったく同時に起きたかと思われた、その瞬間は崇高なる原始生物がそこで一匹だけ存在していたのに、余が理性は神隠しに遭い、しかと認識すること能わず、人類を何ごとかへと突進せしむる何ものかとの対談は遂に為されずに仕舞った。
とうとう艶なる水源の涸渇して、添い寝する顔をぼんやり眺むるに、やや遅咲きながら、蕎麦の花もひと盛りとやら。今後の相談をしかけては接吻に口を閉ざされる。苦心惨憺幾年月費やしてようやく俎上の鯉となりおおせた我が感受性よ快癒すな快癒すなの祈念も虚しく、大なる愛おしみの底に沈む。
五感はにわかに冴え渡り、窓の隙間から入り来る草木の匂いと再会していた。天地の水平と再会していた。重力の垂直と再会していた。布団の肌触りと再会していた。
おのが臓腑は病むによって可視的となり、初めて自覚の対象となる。余の諸臓腑は長年非常にやかましかった。しかしそれらすべてが悟入に至り、重篤のまま沈黙した。肉体のままで魂と和睦した。心も意識にのぼらなくなった。対象を探しても見当たらぬ。鏡に映して見ようにも、余が鏡そのものであった。
ひとたび円満具足してしまったら呆気ないもので、これまでの人生がことごとく素晴らしいものに変ずる。生は幸なるものであった。世界は美しかった。これは他人に伝達すること能わざるものだ、叡智、哀愁、諧謔すべて同様にして、すなわち人類の同時全体的の成熟はあり得ぬこと言うを俟たぬ……嗚呼この若年のほむら、余にくどくどと野狐禅題目しゃべらせて魂の資源をいたずらに浪費させようとしておるな、その腹はお見通しだ、これがためにどれほど多くの傑物が俗物に還ったであろう、しかしここは言わしめられてやる、何もかもふやかし尽くすまでしゃべりまくらすがよろしい。爛熟の門前から締め出すがよろしい。そうして余を裏手からいざなえ。賄賂はたしかに納めた。
裸の美土里が、青い静脈の透ける重たげな乳房ごとこちらに向き、何かあげたいと言う。それなら余は美土里の鼻が欲しい。あの嗅覚があれば余はどこからでも美土里を見つけられるだろうから。あげると言う。どうやってと聞かんとすれば、ただ接吻に口を閉ざされる。
翌朝余と美土里は郷へ戻った。磐井のほかには誰も逃走に気づいていなかった。
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