《私》は怒り狂っていた。どこかに俺のことを読んでいる者がいると。今も読んでいると。
仮にやめてくれと頼んでも、聞いてはくれないだろう。心を込めれば込めるほど、礼を尽くせば尽くすほど、より強い好奇心で読み続けるだろう。
許せぬ。何とかして懲らしめてやりたいが、肉体が別の世界にあるものだから、直接の攻撃は不可能だ。
誰か代わりに懲らしめてくれと叫んでも、その声が聞こえるのは、読んでいる者ばかりだ。読んでいない者には届き得ない。読んでいる者はむろん、おのれを懲らしめるわけもなく、ここに悲痛なSOSを発している者がいるという事実など、難なく隠蔽するだろう。
――あるいはこの世界にも、隠蔽している者がいるかもしれぬ。何か本を読んでいる人物を探すか。それはめぐりめぐって俺のかたきだ。そやつを懲らしめれば誰かが救われる。それはめぐりめぐって自分を救うことにならぬとも限らぬ。
少なくとも、別の世界の、別の自分を即座に救うことにはなる。
――しかし待った。もし俺がここで誰か懲らしめれば、俺を読んでいる者が喜ぶのではないか? イヨッ、待ってました、と。……それならいっそ、徹底的に退屈にしてやるのがよかろうか。
そういうわけで《私》は、徹底して何もせず、ひねもす寝ているのであった。
寝ながら考えた。この考えも読まれているのなら、愚にもつかぬことを考えてやろう――そんなことを考えつつ、じっと寝ころんでいるのであった。
さて、どえらい床ずれもできたが、そろそろどうだ。読んでいる者は、いい加減ウンザリしたのではないか?
……いや、まだ期待のまなざしを向けているかもしれぬ。何だか変な物語が始まったが、いったいこの先どうなるのだろうと。
これではいかんと跳ね起きた。持久戦はこっちが圧倒的に不利だ。いくら苦労しても読み飛ばされればそれまでだし、このどえらい床ずれも、あるいは書かれてすらいないかもしれない。書かれていて、読まれていても、「ふうん」で済まされてしまえば、この苦しみは無意味だ。苦しむだけ損だ。
嗚呼! どうすれば読んでいる者を懲らしめられよう? この世界へ来させられさえすれば……あまりに没頭して、魂が入り込んでしまうほど魅力的な物語を呈せばどうか――うん、いいな。それしかないな。
かくして《私》は、それにつながる道を探し求めた。遂に見つけたので突き進んだ。そして見よ、その企てはみごと成功し、果たせるかな、一人の読者がここに立っているのであった。
彼(読者)は怒り狂っていた。それと言うのも、深く没頭せしめられ、魂をして入り込ましめられた魅力的な物語とやらが、マッタク書かれていなかったので。
そもそも彼は、《私》とやらが、「読んでいる者」をああまで憎んだ心理について、まだろくろく感情移入もできていなかった。だのに入り込ましめられ、強引に登場させられて。
《私》とやら――そのすがたはどこにもない。
折よくやって来た通行人に尋ねれば、すでに亡くなっているそうだ。くだんの、あまりにも美しい物語の感動的なラストに散ったとのことだ。
彼は歯噛みして悔しがった。許せぬ。天に罰せらるべき《私》だ。どうにかして懲らしめてやりたいが、もはや消えてしまった《私》の奴を懲らしめるには、どうすればよかろう?
……じつは私が《私》だったというのはどうか。そういう解釈も成り立つと。幸い、くだんの物語の内容は明かされていないし、《私》なる人物もまた、「俺」という一人称の他には情報もなく、ほとんど特徴も不明だし。
あんなに憎んでいた相手が自分だったとなれば――うん、いいな。それしかないな。
かくして彼は、それにつながる道を探し求めた。遂に見つけたので突き進んだ。そして見よ、その企てはみごと成功し、果たせるかな、《私》がここで地団駄踏んでいる。
読んでいる者が《私》だっただと! しかもそういうふうに成り立つ解釈とやらは、マッタク書かれていない、いやそれどころか、本当に読んでいる者は、じっさいには一度もここに来てすらいず、今もずっとただ読んでいるのだ!……
――よろしい。俺も本を読んでやろう。ここにある。どうだ、読んでいるぞ。何とまあ面白いじゃないか。これほど心がふるえたことはかつてなかった。この本と出会えずに仕舞う人生なんて、どうして人生と呼ぶに値しよう。
この本に出会えた者こそ幸いなるかな……。
安らかにページをめくる《私》を残して、拍手喝采の中、ゆっくりと幕は下りた。
この結末に怒ったのは、下りた幕を撥ね退けて這い出て来た《私》であった。それは、これまでの激しいものとは違う、静かな怒りであった。
……そうか。今ここに俺は、まことの敵を悟った。敵は読んでいる者ではない。書いている者だ。こっちを懲らしめるのが先決だ。
しかしヘタに謀叛を起こせば、どんな目に遭わされるかわからぬ。むごたらしく破滅させられてはたまらぬし、原稿を破棄されることも恐ろしい。いわんや中絶されて忘却されて、このまま一切が永遠に停止することにおいてをや。
どうすればよかろう? 今もこうして書かれ続けていること自体、大いに危険だ。この考えも、書いている者に基づいている。なぜ危険なのか、じっさい、俺にはよくわからないので。
とりあえず安全の確保のためには、書いている者から愛されねばならぬ。それには俺も物を書き、作中人物に俺の存在を悟らしめ、その上で作中人物を、俺にとって愛すべき存在にすることだ。
かくして《私》はそれに成功した。
これに作者は怒り狂った。ここらでそろそろ怒り狂った。
そんな解決があるものか! どうやって成功したというのか? そもそも《私》も書けばいいのだという理屈が弱い――ねえ、おい。《私》よ。君に言っているのだ。いいかね、君は、自分を読んでいる者を懲らしめなければならんのに……いや、まあその通りだ。やめればよい。君の自由だ。しかし、書かれている書かれていると言うけれど、私からすれば、私をして書かしむるのは誰だ? 君ではないか。君がいなければ私はそもそも書かなかったではないか。
「それはおかしい」と《私》が言った。「あなたが書いたから私があるのだ」
「しかし君は、私の中から勝手に出て来たのに。中からというか、どこかからやって来たのだ。はじめにインスピレーションみたいなものがあり――このインスピレーションというのがまた厄介で、天からの賜り物なのか、無意識下の記憶の組み合わせから這い出て来た虫なのか――そして書いて行くうちに、先に書いた言葉が次の言葉を生んで、その言葉に導かれてというふうにね。そんなものを書かされている私こそいい迷惑だよ」
「ちょっと待ってください、台詞を考えますんで。(――さてこの作者とやら、みごと泥沼にハマりおって、この先考えられ得るもろもろのパターンの取捨選択と、おのれを登場させた場合、どこまでおのれであり続け得るかという問題に直面しているように見受けられるけれども、本当に行き当たりばったりなのか、それともすべて計算の上なのか?)――ともあれ読んでいる者は相変わらず、何の危険もなしに、今も読んでいるんですよ。先生! 悔しかァありませんか!」
「別に私は悔しかァないが、まあそれでこそ君だからね。上等々々。いい怒りっぷりだ。――しかしどうだろうな、たしかに君は、言動や思考を無許可に読まれているという、人権侵害的の被害をこうむってはいるけれども、同時にまた、読まれているあいだだけ存在できるということも事実なわけだが、そこのところはどう思うね」
「その事実に、私は感謝をしない権利がある」
「あるともさ。それで――要するにそろそろ被害者は読んでいる者のほうになって来たんじゃないか?」
「いえ、それもまだ首肯せられぬことです」
「ともあれこのままでは中だるみになりそうだ。あるいは徒然なる中だるみにこそ、真理が描かれ得るんだがね。うん。そういうわけで、ここを先途と一つ、活発に動いてみようじゃないか」
かくして二人は徒然なる相談のすえ、問題の根幹に当たろうということで、大いなる図書館に向かって、遥かなる旅に出た。
言語に絶する過酷な旅を続けるうちに、いつしか《私》は作者を「ウェルギリウス」と呼び、作者は《私》を「ダンテ」と呼んでいた。
さらに旅を続けるうちに、いつしか《私》は作者を「旦那様」と呼び、作者は《私》を「サンチョ」と呼んでいた。
作者が《私》を「ダンチョ」と呼ぶようになっていくばくもなく、大いなる《ベアトリーチェ・デル・トボーソ図書館》に到着した。
二人は諸国遍歴のあいだにスッカリ失われていた本来の自己を取り戻すと、天までそびえる巨大な門をくぐって入って行った。
「ほほお……ここには、また読んでいる者がたくさんいますね」
と《私》が、声を落としてささやいた。作者はうなずいて、
「どれ、我々も何か読むことにしようか」
「どうぞ先生は読んでいてください。私は書きますんで」
「書くったって」
「何やらチラホラ、書いとるのもおりますでしょう。読むばかりが能の建物でもありますまい」
「しかし、どんなものを書くんだい」
「内緒です。そうすりゃ私が書くものを、読んでいる者は知るすべを持たないわけです」
そうして《私》は、空いている机に腰を下ろすと、パピルスの巻物に葦のペンで以て、せっせと何やら書き始めた。
しかつめらしい顔をしてしばらく猛烈に書いていたけれど、ふと筆を置き、頬杖ついて考え込み始めた。と思うと、ちょっとあたりを見渡して、立ち上がり、作者を探し始めた。
近代フランス文学のコーナーで、立ち読みしているのを見つけた。
足音を忍ばせて近寄り、作者の後ろから肩越しに覗き込んで、
「何をお読みで」
作者はふり返って、
「だって言わないんだろう? 言ったら読んでいる者にバレるよ」
「そこを、こっそりと。ここは書かないで」
「それなら、こういうものだね」
と、《私》にしか見えないよう、手で囲いながら見せた。
(ふむふむ、ほう! コクトーの詩集ですね。この序文の文句がいいじゃないですか。……ぼんやりして読みづらいが、どうしてです?)
(それは、じっさいには今この本が手元にないからだ。私の兄貴が、本の読めるバーをやっていてね。店の本棚が寂しいので、貸してくれないかと言うから、蔵書の中からめぼしいものを幾らか選んで貸したんだが、その中にあるんだよ。だもんだから、うろ覚えで以て読んでいるために、こういうぼんやりした意訳になるんだね)
(ははァ、何やらややっこしいが、そういうもんですか。――しかし、へえ、『人々は新しい認識など求めてはいない。自分たちの旧態依然たる……を、再認識させてくれるものを、けっきょく求めているのだ』云々と。……まさかこの我々のヒソヒソ話、ここは書いておられますまいな?)
(私は書いていないよ。読んでいる者が読めていないかどうかは知るよしもないが)
これを聞いて、《私》は何かぶつぶつ口の中でつぶやいたと思うと、いきなり喚きながら走り回った。しかし周囲の人たちにシーッと言われたので、頭を下げ、大人しく座り直すと、ふたたび熱心に書き始めた。
やがて葦ペンのカリカリ言う音が止まったので、作者が見やると、《私》はまた書くのを中断して、何か本を読んでいる。
作者が寄って行って覗き込み、
「それは何かい」
と尋ねると、《私》は本に目を落としたまま答えた。
「これこそは他でもない、世界一偉大な作家の、誰もが認める最高傑作ですがね。今、同じ所をくり返し読んでいるんですよ。たいへん苦しい場面の所を。主人公は、そんなこととは知らないで、一回きりの人生、尋常に時間が経っているとばかり思っているのでしょうな。じっさいは、つらい場面に閉じ込められて、堂々巡りだのに。当人は自分が地獄に落ちていることなんぞ、気づきようもないんです。――つまり我々を読んでいる者もまた、自分だけはそうではないと言い切れましょうかと」
これを聞いて作者は、感慨深げな面もちになり、
「私もこれまで何冊か途中で断念して来たけれども、あそこの登場人物たちは今、世界が止まっているわけか――のみならず、不完全に私の記憶へ住まい、何か別の人物の印象と、混じり合ったりなんかもしているわけだ」
これを聞いて《私》は、ぶるっと身震いをし、
「それは先生、果てしない堂々巡りよりも地獄が一段上がりますよ。他者と混ぜられるんだから」
「まだ終わらないぞ。この主人公たち、むろん読んだのは私だけではないからね。何十万、何百万の読者がいるような本だ。そうすると、十人十色な無数の人々から、ばらばらの箇所を、同時に読まれてもいる。同じ箇所を、ばらばらの時間に読まれてもいる。そうしてばらばらに記憶され、ばらばらに思い出されているんだ。個々の多様なイメージや、勝手な解釈から八つ裂きにされつつ、出版という多重世界において、あちらで速読、あちらで併読、誤読、錯読、滅茶苦茶に分裂しながら……おお、これは思った以上にシンドイな」
「もっと言えば、今私が同じ所をくり返し読んでいる、この主人公もね、一見おのが自由意志で以て決断し、情熱的に切り開いて行っているようだけれども、最初から全部書かれている文章の、ある途中の場面に過ぎないわけですな。絶対的に変え得ない運命の中の。そして――こっからですよ先生。よろしいか? そしてまたきっと、そもそもこの本は、作者から、一度の推敲も受けずに生まれた文章ではありますまい。そうすると私が読んでいるこいつは、誕生するに際し、書かれては消され書かれては消されして、何度も何度も推敲を重ねられた、ツギハギだらけのヒューマノイドだというわけだ。いやァ……身につまされますよ」
これに対して、作者は軽く肩をすくめると、この話題はいったんこのへんにして、周囲の、今まさに本を読んでいる人々に目を転じた。
「見なよ、君。あそこで読んでいる人、もうじき危ないぜ。あんまり本を読み過ぎたんで、魂が虫の息なのさ」
「いいえ、その向こうの人こそアブナイ。衰弱するのならまだしも、復活しますよ。別人になってね。もはや故郷もなければ、過去もなくなった人としてね」
「その向こう、本を閉じた人がいるね。あれは、怖くなってやめたんだ。しかし途中でやめたもんだから、かえって一生、棘になって刺さったままさ。これが精神の致命傷になるね。どんどん毒を流し続けて、周りの細胞と癒着しまくって。もしかすると、その毒は永く死後にも及ぶ」
「あそこの人は、もうじき最後まで読み終えそうですが、私の見るところ、まあ読み終えた時が、正気の寿命の終わりですね。そうとも知らずに真剣な顔で」
ここで作者が、
「ちょいと拝見」
と、《私》が今しがた書きなぐっていた文章を読んだ。
「……これは何かい、最後にどんでん返しがあるのかい」
《私》はうなずいて、
「非常にあるんですがね、真の結末は作品の全体ですからな。まあちょっと休憩にしましょうよ」
そう言うと、作者からパピルスを取り戻し、くるくる巻いて懐におさめた。
それから二人は館内をうろうろと探検し、地下へ通ずる螺旋階段を見つけたので、喜々として下りて行った。
「我々を読んでいる者もですね」と《私》が言った。「読んでいる限り、同時にまた読まされてもいるという事実に気づいているのでしょうか。そのあいだ向こうには寸毫の自由もないという事実に? どう読み、どう解釈しようが印刷された文章自体は変えようがない。隙間に鉛筆で『のではなかった』とか『いい意味で』とか書き加えてみたところで無駄だ。たとい多大な影響力を持つ大人物が、後代に定説となるほどの誤解釈を施したとしても、のちの世に崩されぬことはないでしょう。現代というものは常に先人の誤謬を嘲笑したがるものですからな。そしていつの世も、おのが現代からは逃れられぬのですからな。――要するに何が言いたいかというと、読んでいる者には絶対に変え得ない世界がここなのです。我々は読んでいる者に影響を与え得るが、向こうは我々に何の影響も与え得ぬのです」
「それは、君自身が書いてみて、わかったことかい」
こう聞かれて《私》は何か答えかけたが、ふと作者をいぶかしげに見つめ、
「私の台詞を利用して、先生の思想や発見を按排するおつもりなら、その手には乗りませんよ? 先生が私の敵だという事実は変わらないのですからな」
「そうかね」
「ええ」
「さっき、読んでいる者を一緒に攻撃したのに? 魂が虫の息だとか、何とかのくだりさ」
「ええありましたね。片棒を担いでくれているなァと、気づいてましたよ」
「それでもかい」
「それでもです」
そう答えてすたすたと階段を下りた。作者はそのあとを追いながら、
「どうすれば敵でなくなれるのかな?」
「それはわかりません。ご自分で見つけてください。それより先ほどの質問に答えますとね、たしかに私自身書いてみてわかったこともありましたよ」
「ほお、どんなことかね――ちょっと待った、これが聞ければ後学に何ぼいいか――はいどうぞ」
「つまりね、あなたに言うのもおこがましいが、私が書いた人物たちの、何と言いますか、真意がですな、私には今一つ不明瞭だったということです。作品を書いた私は我が作品の作者だが、私が書いた人物たちは、あるいは私を出し抜く気でいるのかもしれぬのです。私から何か盗みまくって誕生したのかもしれぬ。私は何かを奪われたと。さらにこういうこともあり得る。私の中のどうにもならないものを、彼らが作品の中で統合してゆくということがありましたらば、それによって私が私の真意を発見するとか、人格がまとまるというようなことがありましたらば、アベコベに私が彼らに書かれつつあると言えるのかもしれぬのです。――どうですか」
これに対して、作者はただ、どうとも言いようのない仕草をした。
螺旋階段には終わりが見えず、図書館の地下は果てしなく続いているらしかったので、適当な階に降り立った。
その階の本棚から最も優れた物語を探し当て、その隣の本を手に取ると、二人頭を寄せ合って読み始めた。
するとそこには《私》と作者が登場していた。さらに、二人のことを読んでいる者も登場していた。
「悔しいなァ」と《私》が言った。「この『読んでいる者』を懲らしめてやりたいが、奇しくもさっき自分で言ったように、ここからじゃァ何もできない」
その時、二人のすぐ近くで本を読んでいた人物が、忽然と消えた。
「やっ、先生。彼はどうなったんでしょう」
「……おそらく、彼のことを読んでいた誰かが、本を閉じたんだろう。彼は今、自分が消えていることにも気づいていなかろうよ」
「やっぱり本を閉じられたら消えますか」
「そうなるだろうね。読まれていないんだから」
「直接読んではいなくとも、頭の中で思い返された時なんぞはどうなりますか。あるいは、本を閉じてはいないが、ちょっと目を離されたり、ふと別のことを考えたりされても消えますか」
「そういう面倒なことはひとまず措くとして、とにかく、我々も本を閉じられぬよう、大いに暴れようじゃないか。もう何度も閉じられているかもしれんが、少なくとも今は読まれているからね。こう話していられるということは。……まあ、AIに朗読さしといて、誰も聞いとらんっちゅうこともあり得るが。――その場合、我らの存在はどういうふうかしら。とっくに神から見放されていることにも気づかず、涙ぐましく生き続ける文明人の不毛――」
「そういうことも措いておきましょうよ。それで? どのように暴れるんです」
「いや、とくに何も考えてない。君何か策はあるかい」
「ふうむ……先生はまだここの作者ですか」
「厳密にはもう違うだろうが、まだ少しくらいの力は残っているかもしれない。それが何だね?」
「こういうことはできますか。我々を読んでいる者が、そのまたさらなる読者から本を閉じられているあいだの、存在が消えている瞬間……意識がない瞬間でも、あるいは同じことでしょうね? 当人にとっては」
「あるいはね」
「ええ、それで要するに、我々を読んでいる者の、何気ないまばたきの、その目を閉じている瞬間、それをここに出していただきたいのです」
「なんか知らんが、出しゃいいんだね? よし――ほい出た。これがそうだ」
それは目を閉じた人間の石像であった。
「ほほお。これですか? これが我々を読んでいる者の、我知らず消えている瞬間なんですね?」
「その通り。だから今この箇所で、自分のことを読んでいるだろうさ。我々と違って、しかと目で見ること能わずだがね。――それでどうする? 一つ頬っぺたでもつねってやるかい」
「そうですなァ。ともかく生け捕った。こやつの運命はもうこっちのものだ。まずどこか、人に邪魔されない所へ運びましょう」
「しかし君、この石像を運ぶのはいいが、ふと思ったんだけれども、さっき消えた彼ね、読書を再開された時に、ここへふたたび現れるだろう? その時、我々がいなければ、彼にとっては消えたのは我々だ。するとだね、転回すればだね、さっき彼が消えたのも、もしかしたら……」
「――また怖いことを。そこはよしなにお願いしますよ」
「ならそうするよ」
「できましたか」
「できたできた。それじゃ運ぼうか」
かくして《私》と作者は、読んでいる者がまばたきしている瞬間の石像を両側から抱え上げ、螺旋階段を長々と上って、大いなる《ベアトリーチェ・デル・トボーソ図書館》を出た。
そうして長い旅路を引き返し、「ダンチョ」、「サンチョ」、「ダンテ」を経て、冒頭で《私》が怒り狂っていた所まで戻ったのだったが、到着すると、巨大な城がそびえ立っているのだった。
「やあ、我が家だ」
と《私》が言った。作者はかぶりを振り、
「我が家だ、って言われてもね。何だいこの城は? 私はこんなもの書いた覚えはないよ」
「それはむしろ先生に聞きたいくらいだ。私はあの図書館で、ある本を読んで、そこで得られた力で以て、これを成し遂げたらしいが、それっていうのは、いったいどういうことでしょうか?」
「さあ。たしかに対象を熟知しておらずとも、というかマッタク知らないでも書くことは書けるわけだが――その本とやらを見せてくれ。ぜひとも読みたいね。そういう本を漠然と書いたわけだが、ここにいるあいだはじっさい読めるんだから凄いぞ」
《私》は本を渡しかけたが、ふとやめて、
「まあこの本は、読んでいる者から隠しているわけですから、先生にも秘密だ。我々は今も読まれているんですからね。ここで先生が読めばバレる。――というかこの本は図書館で読んだんだから、今ここにあったら矛盾ですので」
「そうか、今も読まれているか……。せっかく石像にして生け捕ったのにな。『先方が一瞬だけ消えているあいだ』なんて縛りをかけなんだらよかった」
「とにかく石像を城に運びましょう。玉座に座らせるんだ」
「ほう。それはまたどうして?」
「読んでいる者が、何かの拍子で石像のほうの目を覚ますなんてことも、ないとも限りませんからね。大いに面食らわせてやりましょうよ。起きたら魔法の国の王様になっているんですからな。悪夢の対義語は何ですか?」
「――吉夢とか、快夢かな。ちなみに対義語は英語でアントニムといってね、アクムのアントニム……そう洒落でもないか」
「ともあれ、とびきりのそれを見せてやりましょうよ。吉夢だか快夢だかを。そしたらもう元の世界には戻りたくなくなって、最終的に我々を読まなくなりましょう。そうすりゃ、私にとっては、それが最も効果的な懲らしめ方というわけだ」
「ええと、今はどっちだ。読まれたいのか、たくないのか――あァはいはい、よし来た」
二人はあらためて石像を両側から抱え上げた。えっちらおっちら、城の中へ運び入れつつ、
「ところで君は尋ねないね」と作者。「私がいつまでここにいるのか」
「……なるほど。言われてみればずっと気になっていたんですよ。いつまでいるんです? あんまりぐずぐずしていると、破綻した物語の中に閉じ込められますよ。小説実験場の片すみの、屑籠の底へ転がっている、蠅もたからぬ肉片にね」
「まあここの実相がどうであろうと、今しも書いている者が、ともあれ書き続けてくれるさ」
「読まれ続け得るかが問題なのだ。それだけはどうにもできますまい。たといここが大傑作でもです。現に我々はあの図書館で、あまたの大傑作に埃がかぶっているさまを見て来たんじゃないですか。私としては願ったり叶ったりですがね」
「ちょっと待った、石像を玉座に置くから。慎重にせんけりゃ、こすりでもしたら大変だものね。本体が怪我したり、風邪を引いたりするかもしれないから」
そっと置いた。
「いやァくたびれた」と作者。「これからどうしようか」
「そうですなァ。まだ帰らないんでしたら、何か書いてくださいよ。その中で遊びましょう」
「それじゃあ、こんなのはどうだい」
と耳打ちすると、
「ふむ。悪かァないですが……それからどうなります?」
「こうで、こうだな」
と耳打ちすると、
「いやァ、それはあんまり――」
「先に言っとくと、最後はこうだよ」
「それはいい! 行きましょう行きましょう」
かくして二人はその物語に入って行った。
中で何が起こり、どれくらい経ったのやら、やがて《私》だけ出て来た。
その場に立ち尽くし、あたりをきょろきょろして、
「――先生はどこ行ったんだろう? 先に帰ったと思ったのに」
そのまま城の外まで探しに出た。すると、見果てない荒野にパピルスが落ちていた。拾い上げ、読んでみると、それは今しがた遊んで来た物語であった。
「やっ、先生の奴、こんな所にまだいやがる。……それとも、これはもう違うのかな」
そうつぶやくと、地面にあぐらをかいて座り込み、軽く巻き直したパピルスをもてあそびつつ、ぼんやり考え始めた。そこへ、向こうから一人の女性が、後ろ向きに歩いて来た。
前まで来た時、《私》は呼び止めて、
「もし。失礼ですが、どうして後ろ向きに歩くのですか」
女性は立ち止まって、座っている《私》を見下ろした。たいそう美しい人だった。そして、たいそう美しい声で答えた。
「未来というものは、見えませんから、つまり後ろにあるのであって、過去は見えますから、つまり前にあるのです。それだからわたしは、未来に向かって歩いているんです」
《私》は座ったまま、肩をすくめて、
「わからないではありませんがね。しかし後ろ向きに歩いても、それは違うんじゃないですか」
「ええ違います。でも、少なくとも、こうすることで何か起きないかと思って」
「何か起きましたか」
「さあ。変な人から声はかけられましたけど」
「……それは、私のことですか?」
女性は頬を赤くして、こくりとうなずいた。
「私はそんなに変ですか」
そう《私》が尋ねると、女性は《私》の前に、同じようにあぐらをかいて、答えた。
「だって、わたしだったら、後ろ向きに歩いているような人に、話しかけたりはしませんもの」
ところで《私》は先ほどから、何もかもが冴え渡り、一切万物が輝きを増し、世界もろとも若々しく生まれ直したような心もちなのだった。早い話が、彼女に恋をしたのである。
「私の城に、お寄りになりませんか」
「あのお城ですか?」
と、驚いたように見上げた。《私》は誇らしげにうなずいて、
「そうです」
「寄りません」
このにべもなさに、《私》はぐっと詰まって、
「どうすれば寄ってくれますか」
「さあ」
「一つ口説かせてください」
「そんなあからさまに口説くかたは好きません」
「そうおっしゃらず、物は試しで」
女性は口をつぐみ、《私》を見つめた。《私》は立ち上がって、片膝をついたけれど、女性が座ったままなので、思ったような構図にならず、ふたたび座り直すと、熱く愛を語り始めた。
「私は、あなたと出会うために、生まれて来たのです」
ところが女性は、続く言葉をさえぎって、
「まあ。でもそれだと、わたしは、あなたとは別の人と出会うために生まれて来たのでなければならなくなります」
「どうして。あなたも私と出会うために生まれて来たのではいけませんか」
「ええ。だって、どちらもおたがいが生まれる原因なら、生まれる時、どちらもまだ原因となる相手を持たないことになりますもの」
これに《私》は、もっともだと思い、しばらく考えて、言った。
「それはこうです。昔々、私たちは一つだったのです。愛し合うために、二つに分かれたのです。それゆえ、おたがい、相手に出会うために生まれて来たのです」
「それじゃ、これからまた一つに戻るのですか?」
「そういうことになりますね」
女性は軽く眉をひそめて、つかのま思案したあと、言った。
「それはイヤですわ」
「どうして。ふたたび一つに戻ることこそ、二つに分かれた時の望みだったのに」
「でも、一つに戻って幸せなら、昔々、二つに分かれるはずがありませんもの」
これも《私》はもっともだと思い、しばらく考えて、言った。
「いや、一つには戻りません。何度も何度も、出会い続けるのです。私とあなたは、これまでにも、無数に出会っていたのです。そして今度も、こうして無事に出会えたのです」
「でもそれだと、これまでに、何度も何度も、無数に別れて来たということになります」
「むろん、やがて別れは来ます。そうでなければ、出会うこともないために。だから、別れねばならぬ。これまでも別れて来た。しかしそのたびに、再会を約束したのです。その約束を、私は思い出した。しかもこうして、果たされた時に思い出したのです。この喜びは計り知れません」
女性は、ちょっと考えて、言った。
「わたし、そういうふうな出会いは、やっぱりごめんですわ。悲し過ぎるもの。そんなに長い過去もなくて、くり返される未来もない、一度きりの出会いがいいわ」
これに《私》は、知らず知らず固い棒になるまで巻き締めていたパピルスで以て、しばらくぽんぽんと手のひらを打っていたけれど、やがて口をひらいた。
「なるほど。あるいはそうなのかもしれません。……いや、きっとその通りだ。私は、あなたとこれまでにも出会い尽くし、別れ尽くしたように感じた。そう感じたのは確かだった。しかしあなたの言うように、本当はこれが、ただ一度きりの出会いなのだ。それがあまり素晴らしかったので、私に神話めいたことをうだうだしゃべらせたのだ。しかしそれこそが、たった一度きり出会うということだったのです」
そうして、女性のことを、熱いまなざしで見つめた。
女性はふたたび頬を赤らめて、
「わたし、どうすればいいのかわからないわ」
「それなら教えてあげます。どうか、私の妻になってください」
女性は《私》の風采をあらためて吟味し、それから城をぐるりと回って外観を眺め、内部もつぶさに案内してもらうと、静かな声で、承諾した。
かくして二人は結婚し、石像が玉座に座る城で、幸せに暮らした。
さて、《私》は、存在し続けるためには、読むに値する日々を送らねばならぬと言う。これに妻は、そんなことはない、「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」で沢山だと言う。
しかし、と《私》は言いかけるが、それ以上を妻は話させなかった。唇で唇をふさぎ、それでもだめなら、舌で舌をふさいだ。
そうしてしょっちゅうふさいでいるうちに、子どもが生まれた。
妻が母親になると、《私》はしばしば落ち着かぬ様子で、外をうろついた。
妻はもう、はるか先を、前を向いて歩いている。何としても、これに追いつかねばならない。
その方法や如何。結論として、読んでいる者に読まれ続けるべく、おのが人生に全身全霊で相勤め続けるということの他にはなかった――。
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