若い神の丸襤褸と湾渇婦が、天の小山に腰かけて、時おり近づいて来る星々を吹き吹きしつつ、語らっている。ふと丸襤褸が言った。「どうだい最前ひとつこんなものをこしらえてみたんだがね」
湾渇婦が尋ねた。「何だいそれは? 象かい、蛸かい」
丸襤褸が答えた。「まあ、象でも蛸でもいいよ。要はだね、こいつがあそこの壁を乗り越えられるかどうかで、賭けをしないか」
湾渇婦は丸襤褸の指さす先を見て、いつだったか二人でこしらえた、茫漠たる空間に建っている無意味な壁を認めた。「――あれをかい? それがかい?」
「そうとも。乗り越えられるかどうかで、賭けだ」
「それなら私は、乗り越えられないほうに賭けたいね。その図体じゃァ、あの壁は乗り越えられまいよ」
「ふむ。君は乗り越えられないと」
「然り」
「それなら僕は乗り越えられるほうに賭けるわけだな。――何を?」
「それは君のご随意に」
丸襤褸は眉間にしわを寄せて考えて、「勝負が決まって、負けたほうが決めるというのはどうだ」
これに湾渇婦は頷いて、「そういうことなら乗ろうじゃないか」
それで丸襤褸は、最前こしらえたものに対し、壁に向かって進むよう促した。《こしらえられたもの》は壁に向かって歩き出した。けれどもいよいよ壁の手前まで至ると困惑したように立ち止まった。更に促されても動かない。そのままずっと判断不能に陥っているので、
「このままではらちがあかんね」
湾渇婦はそう言うと、《説得するもの》を呼び寄せた。そうして、役目を果たしてもらった。かくして《こしらえられたもの》は壁を登ろうとし始めた。
ところで壁にはたくさんの生物が住んでいたのである。原初は単純なものだったが、今やずいぶん高尚な文明を持つ生物であった。
その生物たちは、壁を登ろうとし始めたものについて、阻止すべきなのか、早く行き過ぎるよう手助けすべきなのか議論した。けれど、こうも事態が差し迫っていては、悠長なことは言っていられず、そのため議論はいつまでも終わらなかった。
その間に《こしらえられたもの》は呆気なく壁を乗り越えた。
乗り越えた先でどのようになったのかは、ようとして知れなかった。そのまま歩き去ったのか、次の命令を待っているのか、その場で朽ち果てたのか――ともあれ賭けは丸襤褸の勝利で終わった。
丸襤褸は満足げに、ごろりと横になった。湾渇婦は負けたことが面白くなかったので、壁に住んでいる生物たちを滅ぼした。それを以て負けの支払いとし、こちらもごろりと横になった。
滅ぼされた中には生き残りがいたけれど、今度は前回と違う進歩の仕方を試み、しかし同じようなところへと行き着いて、最後の場面も見られずに、けっきょく次々と死んで行った。
その時、大昔に行われた賭博の際、今回と真逆の目に遭って滅んだ世界の生き残りから、強力な戦士たちが誕生した。戦士たちは湾渇婦の前に隊列を組み、復讐の口上を述べると、激しく襲いかかったのである。
かくして湾渇婦は、針のない大量の蚊に、足へ取りつかれたわけであるが、それについて丸襤褸に尋ねた。「この戦士どもは、いったいどういうわけでここまで、おのれを高めることが出来たのだろう?」
丸襤褸は答えた。「偶然だろう」
「また奴か。……本当に? 君、ちょっと確かめて来てくれないか」
「了解した」
それで丸襤褸はどこかへ行った。しばらくして遠くから受話器を置くような音がしたと思うと、帰って来て、「どうも偶然ではないらしいな」
これを聞くと湾渇婦は、足元を舞いながら半分ほど餓死してしまった戦士たちを見下ろして、「それでは、誰かの差し金かい」
「そんなに気になるなら、ちょっと見て進ぜようか」
丸襤褸はそう言うと、空間に鏡を開いた。水平に落ちる雫を垂らすと、誰かがどこかをじっと見ている姿が映し出された。
「こいつは豚下血かい」と湾渇婦。丸襤褸が答えて、
「そうだな。やっこさん、視力を高めてこちらを見ているらしい」
「つまりこいつがこの戦士どもを作って、寄越したわけかしら」
「わからないが、見られてるのも癪だから、ひとつこらしめてやろうか」
そう言うと、丸襤褸は鏡の中に小石を投げ入れた。小石は豚下血のこめかみに当たった。豚下血は痛そうにこめかみをさすり、どこから飛んで来たのだろうと、あたりをキョロキョロした。やがてどこへともなく、何か怒鳴って去って行った。
湾渇婦が戦士たちを見下ろすと、もはや一人しか残っていなかった。「どうしようか」
「そうだな――その戦士には好い目を見せてやろうじゃないか。この間こしらえた星があってね。たいへん平和なんだが」
「また短命なんじゃなかろうね」
「今度は大丈夫だ。そこへ放り込んで、そいつを暴君の祖にしようじゃないか」
それで、そうした。湾渇婦はしばらくその星の成り行きを眺めていたが、ふと、「それじゃあ私はこれからこの星の中で、ひとつこいつに退治されて来るよ」
それで湾渇婦はいなくなった。一切を忘れて星の中に生まれ、何も思い出さずに育ち、何も知らないまま虐げられて、全てを呪いながら死んで行った。
戻って来た湾渇婦が言った。「死んだ時にね、不思議な所へ一瞬飛ばされたよ」
「そんなことより、あれを見たまえ」
そう言って丸襤褸が指さす先、遥か向こうの山脈の上、千の車輪を一つのペダルで漕いでいる巨人が見えた。巨人は何度も同じ道をたどり続けているうちに、未来の自分へ、じき追いつくように思われた。
その瞬間を見ようと、丸襤褸と湾渇婦が熱心に見つめていると、豚下血の父親が現れて、後ろから丸襤褸を呼び、そのまま連れて行った。別れの挨拶をする間もなく去ってしまった丸襤褸を見送って、湾渇婦が振り返ると、もはや巨人の姿はなく、山脈は閑散として陽に照らされているばかりだった。
湾渇婦が独りごちた。「よもやこんな目に遭うとは。退屈で大ごとだ」
それから湾渇婦は独りで、たいへん長いこと座っていたが、やがて言った。「私を好いてくれる、優しい人が現れたらよかろうがなァ」
するとそこへ燗汽船が現れた。燗汽船は湾渇婦を男とみなしたところの女であった。そのため湾渇婦は男となった。
そのため湾渇婦は湾渇婦でなくなる必要に迫られ、そのため燗汽船は最初から燗汽船などではなかった。
そのため湾渇婦が《名付け親》を呼んだのだったけれど、どのような手違いがあったものか《名付け親の出来損ない》が現れた。《名付け親の出来損ない》は湾渇婦を次のように名付けた。「未流奇異宇泳」
それから燗汽船を次のように名付けた。「戯夜楽思惟」
かくして湾渇婦は未流奇異宇泳という男神となり、燗汽船は戯夜楽思惟という女神となった。《名付け親の出来損ない》は役目を終えると消えた。
戯夜楽思惟が木陰な草の上になまめかしく寝そべり、未流奇異宇泳の膝に頭を乗せた姿勢のままで千年が過ぎた。ようやく日が暮れると、大いなる襖を閉め切り、行燈の薄明かりの中で互いの体を労わり合った。
その際未流奇異宇泳は、戯夜楽思惟の体の一部にたくさんの細菌が住み着いていることを認めた。細菌たちは太古の記憶を持ち、たいそう発達した自意識を持っていた。
未流奇異宇泳は戯夜楽思惟の体の一部に住む細菌たちに非常な嫉妬を覚えて、これをことごとく滅ぼした。
戯夜楽思惟もまた、未流奇異宇泳の体の一部に住む細菌たちに激しい嫉妬を起こし、これをことごとく滅ぼした。
細菌がいなくなったとたんに、二人はたいそう衰弱した。それまで通りの生活が出来なくなった。それで二人は鄙びた湖畔の古びた小屋に住み着いて体力の回復を待った。しかしそこでも二人は行燈の薄明かりの中で労わり合い続けたために、どんどん衰弱して行くばかりだった。
ある時粘膜の快楽の絶頂の電気がいつまでも去らず、二人の体を駆けめぐり続けた。
それで次のようなことになった。
*
登場人物
咲綾 未流奇異宇泳と戯夜楽思惟が合わさった人物
航大 咲綾の婚約者
一星 咲綾の下男
アンドレイ 庭師
セシリア 咲綾の母親
イジャスラフ セシリアの恋人
ヴィッサリオン セシリアの父親
イェフゲニー ヴィッサリオンの下男
リリヤ セシリアの母親
グレートヒェン 革命軍の隊長
ダンクマール 革命軍の隊員
アエティオス 舞台に乱入する観客
パラスケヴァス 舞台に乱入する観客
ニコラオス 舞台に乱入する観客
メトロファネス 舞台に乱入する観客
デメトリオ 「継続線が二度と循環しない時」に出現する観客
第一幕
第一場
暗い部屋。ベッドに咲綾が横たわっている。傍には一星が立っている。
咲綾 航大はまだ帰らない?
一星 まだお帰りになりません。
咲綾 そう。
咲綾は目を閉じる。臨終の鐘が鳴る。一星はうなだれる。そこへ航大が入って来る。
航大は咲綾を見つめ、ベッドに駆け寄ると、身を投げ出す。
航大 すまない。君のお母さんは、見つからなかった。君の言うお屋敷に行ってみたんだ。確かに、そういう女性は働いていた。けれども、全然違う人だった。もう三十年前に、誰か別人と入れ替わってしまったんだ。
一星 航大さま。お声が漏れております。
航大 ああ、そうだったね。
航大がすすり泣いている。咲綾が立ち上がり、退場する。
航大はすすり泣いたまま。一星もうなだれたまま。
第二場
糸杉の一本立つ庭に咲綾が登場。向こうの館を見上げる。
アンドレイが糸杉を剪定している。
咲綾 アンドレイ。お母さまはおいでですか。
アンドレイ セシリアさまは、お屋敷で横になっておいでです。
咲綾 私のこと、怒っているでしょうね?
アンドレイ いいえ、もう何も覚えておられません。
アンドレイは剪定を続ける。咲綾は退場する。
第三場
斜めに陽の射し込んだ部屋。ベッドにセシリアが寝ている。咲綾が登場。
咲綾 お母さま。やっぱり私、戻ってまいりました。
セシリア それで、航大さんは、何と言っているのですか。
咲綾 航大は死んでしまいました。これからは、私、お母さまのお傍にいようと思います。
セシリア お前の思う通りにおし。私は少し、眠るから……。
セシリアは目を閉じる。咲綾はベッドに腰かけ、セシリアを見つめる。
セシリアが起き上がり、退場する。咲綾は枕のあたりを見つめたまま。
第四場
町角。セシリアとイジャスラフが立っている。
話している途中でイェフゲニーが登場。
イジャスラフ お互いに最後の確認をしようか。
セシリア ええ。
イジャスラフ 僕とここに残るんだね、永久に。
セシリア あなたとここに残ります、永久に。
イジャスラフ ヴィッサリオンは悲しむだろう。君を王妃にすることだけが、彼の生き甲斐だったのだから。全てをそのためになげうった人だった。
セシリア お父さまのことは忘れさせて。清々しい気持ちで、大きな義務を果たしましょうよ。
イェフゲニー お嬢さま。
セシリア イェフゲニー。あなたも残ってくれるのね。
イェフゲニー いいえお嬢さま。そうしたいのは山々ですが。私は将来、旦那様の死に水を取ったからこそ、誕生したのです。旦那様の御傍を離れるわけには参りません。
セシリア 一緒に残ってくれるのではなかったの。
イェフゲニー 旦那さまから御手紙を言付かって来たのです。
セシリア 読んでちょうだい。
イェフゲニー 私のような者が読むのは畏れ多うございます。
イジャスラフ 僕が読もう。イェフゲニー、それでもいいかい。
イェフゲニー お願いいたします。(手紙を差し出す)
イジャスラフ (手紙を受け取り、読み上げる)可愛いセシリア。お前の幸福のことだけを思って、私は本当に何もかもを犠牲にして来た。まことの幸福をお前に与えてやりたかった。だから、今日が私にとって、生涯で最高の日だ。(セシリア、泣き崩れる)リリヤは悲しんでいるが、心配はいらない。彼女のことは、私が誰よりもよく知っているからね。本人よりもずっと。
イェフゲニー それでは、私はこれで。御二方に大地の御加護がありますことを。
イェフゲニー退場。
第五場
玉座にヴィッサリオンが座っている。隣でリリヤが泣いている。
イェフゲニーがこうべを垂れて、跪いている。
ヴィッサリオン (イェフゲニーに向かって宙に手を差し伸べ)ご苦労だった。そなたもさぞかし、セシリアのことが心痛だろう。あれのことを一番知っているのは、お前だからな。
イェフゲニー (こうべを垂れたまま)私はただのまやかしにございます。
ヴィッサリオン あの二人のことなら大丈夫だ。時の流れに逆行する者は円満な未来に到着する。太古の昔からそう決まっている。我々は全て、時の流れに逆行した者たちの延長線に生きているのだから。ねえ、リリヤ。
リリヤはハンカチを目に当てたまま、答えない。ヴィッサリオンは話しかけ続ける。
ヴィッサリオン あらゆる郷愁を、あの二人が背負ってくれたのだ。だから、こうなった上はもう(ここでリリヤが立ち上がり、退場する。ヴィッサリオンは話し続ける)あの子たちのことを考えるのはやめて、私たちはことごとくが滅び果てるまで、進歩の川を下ろうではないか。ねえ、リリヤ。
第六場
田園地帯。同じ服を着た、幼いリリヤが立っている。
学生たちが通り過ぎてゆく。一人、ダンクマールが立ち止まって、声をかける。
ダンクマール やい、よそ者。お前なんか引っ越して来たって、どこにも居場所はないぜ。
そこへグレートヒェンが登場。ダンクマールはそそくさと逃げてゆく。
グレートヒェン こんにちは。
リリヤ 私と話していたら、あなたもつまはじきに遭うわよ。
グレートヒェン 構わないわ。あんまりひどいようなら、私出て行くから。ねえ、その時はあんたも一緒に行かない? こんな所に来たかったわけではないんでしょ?
リリヤ そんなのまだわからないわ。
グレートヒェン あんたにはね。でも私にはわかるわ。私はいわばあんたの未来みたいなもんなのよ。
リリヤ ……一緒に出て行くって、ほんとに言ってるの?
グレートヒェン ほんとよ。
リリヤ けれど、次はいい所に行かれるって保証はないでしょう?
グレートヒェン 保証がないどころか、たいがい悪くなって行くもんよ。逃げて行くとね。だけども、もっと仕様がない所が見つかるまで、ずっと追いかけてゆくのも悪くないと思うの。
リリヤ 私は、そんな気分にはまだなれないわ。
グレートヒェン それは当然ね。あんたが残るなら、私も残ってもいいか。仕様がないもんね。
リリヤ 私、どこかに行くとか残るとかなんて一人で勝手に決められないわ。お母さまのお考えをあおがなくては。
グレートヒェン そう。なら、とにかくここにいましょうか。私はグレートヒェン。
リリヤ 私はリリヤ。
グレートヒェン リリヤ。これから本部にこない?
リリヤ 何の本部?
グレートヒェン 革命軍の本部よ。(ダンクマールが帰って来る。照れくさそうにしている)こいつはダンクマール。こう見えてめっぽう予言するの。あんたも予言されちゃってたのよ。
リリヤ 私が来ること、わかっていたのね。恥ずかしいわ。
グレートヒェン 恥ずかしいことなんてあるもんですか。何のためにダンクマールが馬鹿を演じてるのか察してやってよ。
リリヤ そうか。ごめんね、ダンクマール。
ダンクマール いいってことさ。
グレートヒェン さ、行きましょう。みんなに紹介するわ。
三人退場。
第二幕
第七場
役者のはけた舞台に観客がなだれ込む。口々に台詞を言い始める。
アエティオス 自己の遮断や変質や終了が自己にとってもはや問題ではないと観じた自己を見たかい。
パラスケヴァス 見たとも。あれが自己なら大した自己だったね。
ニコラオス こりゃ。お前は発狂していなきゃァならん手筈じゃないか。
メトロファネス 誰のことだい。
アエティオス パラスケヴァスだよ。そうだよなァ君?
パラスケヴァス そうとも。右腕が二本になっていた朝から、人間には腕などないということを思いついたんだ。それで牛から取れたまぐろを食った。嗚呼、懐かしゅう御座る。懐かしゅう御座るよ。
ニコラオス それで君もねえアエティオス、君から台詞を始めてはならなかったんだぜ。
メトロファネス 何にせよ僕で終わればおんなじことさ。
全員、観客席に退場。
第八場
一つの大きな旗を全員で持って敬礼する学生たち。敬礼の形はばらばら。
学生服を着たリリヤとダンクマールが並んで立っている。
グレートヒェンは馬車の中から顔を出している。
ダンクマール 革命軍隊長・グレートヒェン同志の幸福を祈って、万歳三唱!
全員 万歳! 万歳! 万歳!
グレートヒェンが身を乗り出してリリヤに紙切れを差し出す。リリヤが受け取る。
馬車が退場。リリヤが紙切れを広げる。学生たちが集まって覗き込む。
第九場
森の中。同じ服を着た老婆のグレートヒェンが登場。眩しそうに頭上を見上げる。
道化の服を着た咲綾が登場。後ろからグレートヒェンの背中をつつき、振り返ったグレートヒェンにお辞儀する。
咲綾 あなたは流れ着いたの? それとも何か別のことでいらしたの?
グレートヒェンは言葉がわからないように、ほほ笑みながら、首をかしげる。
咲綾 死んだのね。ねえ、一つ話してあげましょうか。さあそこへお座りなさい。
グレートヒェンが切り株に座る。咲綾はその前にあぐらをかく。
咲綾 私が本を読んでいた時、すっかり夢中になってしまっていて、私は一つの無限な輪廻を生きていたわ。その外で根源的な私は、いくつもの尾を噛んだ蛇を、くるくる回しながら遊んでいたし、世界は馬鹿の一つ覚えのように自分の尻尾を食べ続けていた。とっくに、自分の尻尾ではなくなったものをね。
グレートヒェンがくすくすと笑う。
咲綾はグレートヒェンの隣にぴったりと座って、グレートヒェンの肩を抱く。
咲綾 今の私もまた、せいぜい数行の文字の中で永遠に流転しているのよ。そして全ては突然終わるの。はっとして、本から目を逸らすの。お客様でも来たのか、おトイレに行きたくなったのか、赤ちゃんが泣き出したのか、猫が膝に乗って来たのか、目が疲れちゃったのか、まちまちだけど。それから、色々と仕事をしている合間々々に、少しは思い返して、楽しむこともあるわね。(グレートヒェンの顔を覗き込んで)今の私は、あるいはそんなふうにして今まさに、思い返されているのよ。思い返していない時の私は、存在しないの。根源的な私からしたら、こちらのほうが、存在しないのだけど。思い返さない間はね。あなたはこれから、存在しなくなるけれど、また現れるわ。ずっといたことになってね。それに、もうすぐあなた自身、本から目を逸らすのよ。そうしたら、私のことを思い返してね。時々でいいから。そうしたら私には、自分がずっといたことになるのだから。
グレートヒェンが頷く。咲綾はグレートヒェンの頬に接吻する。
第三幕
第十場
花畑。アエティオス、パラスケヴァス、ニコラオス、メトロファネスが立っている。
途中からデメトリオが登場。
アエティオス (逆様に持った台本を読み上げて)私の見る世界は全て私に関わっている。腐っても私だ。白髪だって抜けば痛いのだからには、どこまで行っても私なのだ。
パラスケヴァス (台本を書きながら)この世は全額前払いだ。支払いはとうに済んでいる。あとはただ、契約期間が終わるまで、お楽しみさ。期限が過ぎても貸主は、すぐにはやって来ないかもしれない。向こうさんも何か返済し終わった借り物で楽しむのに夢中になっていたりしてね。しかしそうしたらば、延滞料金を支払う義務が発生する。貸主が、我々にだ。遅れた責任は貸主にあるのだから。だから我々はただ、どこまで行ってもお楽しみさ。
ニコラオス (台本を点字書物であるかのように指でなぞり目を閉じて)あの少女がこの世界を作った理由は、とてもそれが出来そうになかったからだった。
メトロファネス (台本をいくつも重ねて)否定するか盲信するかしか出来ない我々に語られるような真理は馬鹿だ。
アエティオス 堤防の下の波に立っている浮子の無言こそ次の言語だ。
パラスケヴァス おっと、たった今、もう二度と循環しない時が通過した。循環なぞ一度もしなかったことも知らずにだ。誰か消えてやしないかね?(デメトリオが登場。四人の中に加わる)もっとも、消えていたって誰も気がつかないわけだがね。
五人はお互いを見渡す。
ニコラオス 誰も消えていないと思うがな。
パラスケヴァス 私もそう思う。ずっと五人だったよ。
デメトリオ しかし何か、胸の奥底で、もの悲しい気がする。もしかしたら我々は、とても大事な友人を失ったのかも知れない。
五人はお互いを見渡す。
デメトリオ (台本を後ろからめくって)ヤハウェと威音王如来とヴィシュヴァカルマンが現れるほどまでに人間が進歩するなぞということは、あの三人にとっては意想外であった。
第四幕
第十一場
男装したリリヤと咲綾が登場。
リリヤ あなたはだあれ?
咲綾 (答えずにすすり泣く)
リリヤ 誰か大切な人をなくしたのね?
咲綾 (頷いて、すすり泣きを続ける)
リリヤ ねえ、僕の曾祖母も、僕と同じ名前だったんだよ。
咲綾 (頷いて、すすり泣きをやめる)
男装したリリヤが咲綾を抱きしめる。
閉幕
*
労わり合いによる未流奇異宇泳の消耗は、女である戯夜楽思惟よりも著しく、しばらく生死の境をさまよったけれど、かつて湾渇婦であった時分にある星の中で死んだ経験があったため、ギリギリで一命をとりとめた。
二人がようやく鄙びた湖畔の古びた小屋を出る頃には、湖は幾度も都市を持った形跡を地下に秘めて森になり、小屋は一つの巨大な宝石の一枚岩の時代を経て、レトロモダンな城になっていた。
かくて王妃になった戯夜楽思惟は、未流奇異宇泳よりも他に労わり合う相手が欲しいと思い、未流奇異宇泳よりも更に高次な王を一人で産んで、それとの労わり合いに耽った。
未流奇異宇泳もまた、戯夜楽思惟よりも高次な王妃を一人で産ませ、それと共に城を抜け出した。
未流奇異宇泳が呼んでも《名付け親の出来損ない》が来なかったので、未流奇異宇泳は高次の王妃を美具具晩と自ら名付け、共に世界中を遍歴した。そうして諸国の盛衰を見届けた。繁栄に際しては浮かれ過ごし、衰退に臨んでは歎き暮らした。
未流奇異宇泳はやがておのが嫉妬心の不足に悩み始めて、螺旋林檎という放浪者を創造し、美具具晩を寝取らせた。美具具晩は姦通の耽美な風に乗り、高く高く舞い上がって見えなくなった。
寝取られ男に成り果てた未流奇異宇泳は、美具具晩を探し続けたけれど、遂に見つからなかった。螺旋林檎を殺害するため、巨大な組織を作り上げて暗殺を謀ったけれど、螺旋林檎は更に強大な組織を作り上げて未流奇異宇泳の組員を巧みに滅ぼした。未流奇異宇泳は敗北に気づかず、いつまでも報告を待ち続けた。
ある朝、螺旋林檎が自ら未流奇異宇泳の前に現れた。美具具晩の姿はない。いわく、美具具晩は螺旋林檎の内部に入って消えてしまったのだと言う。
抽出することが可能であるか占ってもらうため、未流奇異宇泳と螺旋林檎は天の森をさまよった。しかし誰を見つけるでもなかった。やがて目的を忘れ果てた二人は、生まれながらの友人として、軽やかな時を過ごした。
ある日螺旋林檎が女の伴侶を創って欲しいと未流奇異宇泳に頼んだ。それで未流奇異宇泳はそうした。螺旋林檎が女と労わり合って眠りにつくのを、未流奇異宇泳は満足そうに眺めていた。
ある時眠っている螺旋林檎が、眠ったまま女を絞め殺した。
「どうしてそんなことをするのだ」
そう未流奇異宇泳が尋ねると、螺旋林檎はうつろな目で答えた。「だって悔しいんですもの。それに他の女の息が、私には臭くってたまりませんの」
その声は美具具晩のものだった。それで未流奇異宇泳は、いにしえに天の森を歩いていた本当の理由を思い出したと同時に、今の記憶の誤りを悟った。自分は天の森に生じて、一人の自立出来ない息子を抱え、悲嘆に暮れている哀れな男だとばかり思っていたが。
未流奇異宇泳は眠りたがらない美具具晩を押しのけて螺旋林檎を揺り起こし、事の顛末を話した。螺旋林檎はかぶりを振りながら、「乱心されたのですか父上」
しかし未流奇異宇泳は聞く耳を持たず、決闘を申し込んだ。それで二人は決闘をした。
螺旋林檎は巨大な怪物の姿に変じた。未流奇異宇泳が透かし見るところ、螺旋林檎には心臓が八つあった。その全てを貫かなければならぬと悟り、未流奇異宇泳は剣を抜いて、切り崩し始めた。
まず一つの動脈を破ろうと、躍起になっている際、一つの弁を貫いた。するとそれだけで八つの心臓は働きを鈍らせて行き、遂に止まった。
弁を貫く他にも道があったろうかと、未流奇異宇泳は気になって、螺旋林檎を蘇らせると、ふたたび決闘を申し込んだ。そうして巨大な怪物の姿に変じた螺旋林檎の八つの心臓を、今度は一つずつ貫いて行った。
けれども五つ目、六つ目の心臓を貫く頃には、最初の心臓が復活した。弁を斬らぬよう気をつけつつ、いつ果てるともない心臓を貫いていると、頭上遥かに鐘の音が鳴り響いた。
未流奇異宇泳は天を仰ぐと、何もかもをそのままにして、一筋の光線になり、そこを立ち去った。未流奇異宇泳に捨てられた全てのものは、天の鐘が鳴り終わると、二人の童子になり、大いなる賭博を始めた。
*
未流奇異宇泳は戯夜楽思惟を探し始めた。その旅路は無数の叙事詩を生んだけれども、戯夜楽思惟は見つからなかった。そのまま千年が、いくつも生えては枯れた。
ある時古い土地の地面を割って大いなる森が現れた。森には巨大な獅子が住んでいて、未流奇異宇泳のごとき存在を既に、たらふく食って来たらしかった。
未流奇異宇泳が獅子から身を隠していると、猿の古老が木の上から声をかけ、樹上の草庵に招待した。猿の古老は言った。「どうだね、ひとつ手を組んで、あの獅子をやっつけようじゃないか」
未流奇異宇泳はふうむと考え、「あなたはずっとこの森に住んでおられるのですか」
「然様。あの獅子よりも長い」
「それでは、あの獅子は私のような存在をたらふく食べたようですけれど、食われた仲間たちは、あなたの作戦が失敗に終わったので、食われたのではありませんか」
猿の古老は頷いたが、「しかしそのたびに、私の仲間も一緒に食われたのだ。それで私は最後の一人だからして、今度こそ成功するのだ」
「どうしてわかりますか」
「予言の奴が、そのような寝言を言っていたのでね」
それで、そうした。百年の死闘のすえ、獅子の腹の中で、未流奇異宇泳は猿の古老に言った。「次はどうしましょう」
「さあ。聞いてばかりいないで、君は何かないのか、妙案は」
「ふむ――あそこで溶け損じている、あれは使えませんか」
「どれどれ……ああ、ありゃァ予言じゃないか。しばらく見ないと思ったらこんな所に。しかもあの野郎、寝言とはいえ騙しゃァがって」
そうして猿の古老は予言をむんずとつかみ、ぐるぐる回しながら数を数え始めた。すると予言もむにゃむにゃと数を数え始めたので、猿の古老はわざと違う数を、横槍に数えて邪魔をした。
予言がとうとう数を数え間違うと、獅子の腹の中が時化の様相を呈し、未流奇異宇泳と猿の古老は吐き出された。予言はそのままどこかへ飛んで行った。
前回の頭脳的戦略では敵わなかったので、未流奇異宇泳と猿の古老は、このたび獅子へ力任せに飛びかかった。獅子は百年の間抵抗したけれど、やがて息絶えた。
息絶えた獅子の睾丸がまばゆい光を放ち、比類なき宝玉になったのを、恐ろしげな部族が現れて、切り取って行った。未流奇異宇泳と猿の古老は部族から気づかれないよう、遥か頭上の星座のふりをしてやり過ごした。
やがて獅子は息を吹き返し、睾丸も再生した。驚いた未流奇異宇泳が猿の古老を見やると、猿の古老はメスの獅子になっていた。
未流奇異宇泳が尋ねた。「何ですそれは」
メスの獅子は答えた。「いえね、この姿に戻るために、君を用立てたんだけれども、悪く思わないでちょうだいね。予言の奴の言う通りにしたまでなんだから」
それから獅子の夫婦が平和に暮らすのを、未流奇異宇泳は陰ながら見守った。夫婦の最期を看取ったあとも、子々孫々の繁栄を陰ながら助けた。
一族がメスだけになって種が枯渇した時には、未流奇異宇泳が提供して繋いだ。一族がオスだけになって腹が枯渇した時には、未流奇異宇泳が提供して繋いだ。
やがて一族はオスもメスもなくなり、遂に手の施しようがなくなると、最後の一頭が死ぬのを見届けて、未流奇異宇泳は大いなる森を出た。
*
未流奇異宇泳は瓶を拾った。それは知識を詰めて、美しいものを育てる瓶だった。
未流奇異宇泳は慎重に育てて行った。たいへん骨の折れる仕事だった。
瓶の中に育つものは、美しくなりまた醜くなった。そうしてやがて枯れた。枯れたのちに肥やしに返り、また芽吹いたけれど、以前を凌駕しなかった。土を入れ替えても、肥料を混ぜ込んでも、流転を重ねるたびに劣化して行くようだった。
とうとう堆肥にさえ戻らない枯れ木が一本残った。それで未流奇異宇泳は瓶を奉納しに行った。なかなか奉納先が見当たらず、世界を遍歴した。
行く先々で瓶の蒐集家から声をかけられた。ある蒐集家は空っぽの瓶を陳列して見せびらかしていた。見事な花を咲かせた瞬間を撮影した写真を自宅の壁にべたべた貼り付け、その自宅を持ち歩いている者もあった。
遂に奉納先が見当たらなかったので、未流奇異宇泳は瓶を、身近にいた蒐集家に渡した。
蒐集家は瓶を受け取り、ぐるりと眺めて、「これのことは知っている」
そう言うと中身を捨て、陳列棚に加えた。
捨てられたものを拾う人があった。その人は美しい心を持っているために、虐げられている人だった。美しくあり続けるために、虐げられ続けなければならない人だった。それなので未流奇異宇泳は涙を流しながら、その人を踏みにじった。
*
未流奇異宇泳を迎えに来る車があった。
「いつまで遊んでいるのです」そう言う女の声がした。
それで未流奇異宇泳は車に乗った。
「いつまで馬鹿なことを続けるのです」そう言われたことで、未流奇異宇泳は未流奇異宇泳であることを剥奪された。
それからは本来の名前で呼ばれた。
車が家に着くと、《本来の名前》は厳しく躾けられた。厳格な行儀作法を刻み込まれ、あらゆる理不尽をひたすら耐え忍ぶ意志を植えつけられた。それらが本能に変ずるまで、その生活を強いられた。
時間に上澄みが生じ、煮凝りが溶け落ち、霧散していたものが集合する頃、《本来の名前》は深々と頭を下げて家を出た。そうして歩いていると、《本来の名前》を迎えに来る車があった。
「いつまで遊んでいる気だい」そう同僚の声で言われた。
同僚は《本来の名前》を別の名前で呼んだ。
「部長が探している。百万の先方が倒産してね。そして新しい先方が二百万現れたんだ。これを切り抜けるためには、何かの書類がいるんだってさ。君が持っていると言うんだよ」
「これかい」
「それだ。おそらくね。違っていても部長に渡しさえすれば大丈夫だ」
「それじゃァ戻ろうか」
「しかしね、部長は本当は、その書類を渡されたくないのだ」
これを聞いて、《別の名前》はふうむと考え、「つまり、僕の意志で、行方をくらましたことにして欲しいと、そういうわけかね」
「そうだと頷くわけには行かないんだがね」
「よろしい。それなら僕は、君の制止を振り切って、逃亡するとしようじゃないか」
「それは駄目だ。君、よしたまえ!」
「聞く耳持たん!」そうして逃げ出した。
同僚を乗せた車は安心して会社へ引き返して行った。
そのまま歩いていると、《別の名前》を迎えに来る車があった。《別の名前》は、その先も迎えに来る車の現象が何層も連なる未来を見た。
それで《別の名前》は下を見た。一つ下には《本来の名前》があり、その一つ下には未流奇異宇泳があった。
《別の名前》は未流奇異宇泳まで下降した。
かくして記入を終えた未流奇異宇泳は窓口の職員に書類を渡して表へ出た。そこへ狂人パラスケヴァスと幕引きメトロファネスが現れた。
未流奇異宇泳は二人に対し、「もう少し待ちたまえ。君たちの出番はまだだ。私の息子の代になってからだ」
そう耳打ちした。恥をかかされた二人は、お茶を濁す軽業を披露して、去って行った。
未流奇異宇泳は職員から教えられた通り、母親を探す旅に出た。
*
未流奇異宇泳は五十の宇宙を遍歴したけれど、母親は見当たらなかった。
すると、その見当たらなさの、あまりの大きさから、一人の女性が生まれた。
未流奇異宇泳が、「あなたは私の母親ではありませんか」
そう尋ねると、女性は美しく光り輝き、清々しく若やぎ、喜ばしい香りを放ち、耳に心地よい美声で答えた。「そうですよ」
「私は確かにあなたから生まれたのですね?」
母親は愛おしそうにほほ笑み、頷いた。そのため未流奇異宇泳は童子の姿になった。そうして母親の膝の上に座り、ぬくもりと匂いを感じながら安らいだ。
「私はあなたを、たいへん長く探し求めたけれど、それによってスッカリ目が曇ってしまいました。けれども今、ようやく本当のことがわかりました」
母親はほほ笑みを返すと、ゆっくりと揺れながら、未流奇異宇泳を抱いた。やがて未流奇異宇泳が乳児の姿にまで戻り、乳を求めてよじ登ると、母親は胸の衣をはだけ、我が子の口に含ませた。
未流奇異宇泳はゆったりと吸い込み、そうして、長々と煙を吐いた。
しばらくぷかぷか吸っていたが、母親はやがてスッカリ灰になり、風に飛び散って消えた。我に返った未流奇異宇泳は深く悲しみ、母親との再会を願って禁煙した。
時が経ち、元の年齢まで成長した未流奇異宇泳の肩に、一匹の小動物が乗っていた。
その小動物は富裸熱都と名付けられた。
(※数行欠落。)
甚だしく消耗した未流奇異宇泳は、盛大に血を吐いた。その美味さに感激し、しばらく吐き続けた。やがて未流奇異宇泳の吐いた血で一帯は埋め尽くされ、波が打ち寄せ、天上の呼吸に合わせて寄せたり引いたりし始めた。
未流奇異宇泳が漂流していると、舟が近づいて来た。「大丈夫かね」
そう尋ねられたので、「私は大丈夫ですけれども、あなたがたに申し訳がなくて」
「何とな?」それからふうむと言って、「もしかしてあんたは、海坊主じゃないかね」
これを聞くと未流奇異宇泳は、遥か昔に忘れたことを思い出すような気分になった。それで舟に引き上げてもらった。そうして尋ねた。「海坊主とは、どういうものですか」
「そうさな。わしらの生活を脅かすものよ。わしの爺さんもそのまた爺さんも、海坊主と戦って来た――」
船頭はまだ話していたけれど、未流奇異宇泳は富裸熱都がいなくなっていることに気づいた。それで海の中に飛び込んで探した。
深くもぐるうちに空へ出た。空を飛ぶ巨大な帆船が落下する未流奇異宇泳を受け止めた。巨人の船頭は七十万オクターブのヨーデルを歌いながら帆船を走らせていた。
見渡すと、彼方まで澄み渡った空には、たくさんの帆船が浮かび、みんなひと方向へ突き進んでいる。その先に目を凝らすと、空に浮く巨大な唇があった。
唇は突撃して来る帆船を片っぱしから飲み込んでいた。
「天上のおかた」巨人の船頭が未流奇異宇泳に懇願した。「どうかあの悪魔を滅ぼしてくだせえまし」
それで未流奇異宇泳は天に手をかざした。《本来の名前》は聞き届けてくれなかったけれど、《別の名前》が聞き届けてくれた。そうして知らぬ間に手に握っていた槍を、未流奇異宇泳は巨大な唇めがけて投げつけた。
槍に貫かれた唇は非常な速度で落ちて行った。吸い込まれる途中だった巨人たちもゆっくり落下し始めた。
「天上のおかた」巨人の船頭が懇願した。「あの落っこちている野郎どもをお助けくだせえまし」
未流奇異宇泳がふたたび天に手をかざすと、
(――こいつは不燃ごみでいいのかい、おっかあ)
(どれ。……そりゃァおめえ、そのへんにコッソリ捨てちまいな)
(いいのかい? そんなら、えいっ!――)
未流奇異宇泳が知らぬ間に手に握っていた扇子をひと扇ぎすると、落下していた巨人たちが宙にとどまった。あちこちの帆船がそれらを拾いに向かった。
「天上のおかた」
何か言い始めた船頭を残して、未流奇異宇泳は帆船から飛び降り、非常に速く落下してゆく唇を追いかけた。
「待ってくれ、富裸熱都!」そう叫ぶと、唇は何か答えるらしかったが、聞き取れなかった。「私だ、未流奇異宇泳だ!」唇はまた何か答えた。聞こえなかったが、未流奇異宇泳が追いつくことを望んでいるらしいことはわかった。
それからいつまでも追いかけていたけれど、とうとう追いつくことなく、未流奇異宇泳の生涯は閉じた。
*
生涯を終えた未流奇異宇泳は、しばらく然るべき列に並んでいたけれど、ふいに前後不覚の感覚に襲われて、夢遊病者よろしく列を抜け出し、引き続き富裸熱都を探しに出かけた。
ボロボロの車を運転し、数々の町を訪ねたけれど、芳しくなかった。ある時、海の見えるホテルに泊まった折、またしても前後不覚の感覚に襲われて、誰を探していたのかを忘れた。必死になって考えて、ようやく思い出すと、改めて戯夜楽思惟を探しに出かけた。
(※数行欠落。)
戯夜楽思惟は別の存在形態でそこにいた。あるいは死んでいたとも言えるし、別人になり果てているとも言えた。(※数欠。)
未流奇異宇泳がたどり着くと、戯夜楽思惟は、一人で産んだ夫から捨てられ、夫との間に出来た子どもたちから一切合財を奪われ、何もかもを忘れているのだった。
未流奇異宇泳が涙を飲ませると、戯夜楽思惟は全てを思い出した。それから二人は鄙びた湖畔の古びた小屋に閉じこもり、時の流れから抜け出して、お互いの体を労わり合った。
(登場人物――
(中略)
――男装したリリヤが咲綾を抱きしめて閉幕。)
労わり合いによる未流奇異宇泳の消耗は、女である戯夜楽思惟よりも著しく、この上なお労わり合いを続けるためには、激しい嫉妬心が入用になった。それで戯夜楽思惟は、未流奇異宇泳よりも他に労わり合う相手が欲しいと思い、しかし夫を産むのはもうコリゴリ、適任者を探してあたりを見渡した。
やがておあつらえ向きなのを見つけ出し、丸襤褸を呼び寄せた。戯夜楽思惟と丸襤褸は手に手を取って逃げた。
嫉妬に駆られた未流奇異宇泳が追いつくと、戯夜楽思惟は世界を手に入れたように笑っていた。ところが、丸襤褸はニヤリと不敵な笑みを浮かべるや、姿を消してしまった。
その後も戯夜楽思惟は未流奇異宇泳から逃げ続けたが、丸襤褸の種を宿していることを悟ると、未流奇異宇泳を受け入れた。そうして鄙びた湖畔の古びた小屋に戻ると、形ばかり労わり合って、未流奇異宇泳の子として丸襤褸の子を産んだ。
子どもは個巣母巣と名付けられた。
*
個巣母巣がすくすくと成長し、両親よりも年老いて、両親よりもその存在を先んずるようになる頃、一家が住んでいた土地の所有者が変わり、出て行かざるを得なくなった。
両親が遥かな旅に出かけるらしいので、個巣母巣は両親を祝福すると、独り別の道を行った。それは大いなる郷里を求める歩みであった。
個巣母巣が見果てないプラットフォームのベンチに座り、どこかに着くであろう列車を待っていると、狂人パラスケヴァスと幕引きメトロファネスが現れた。
パラスケヴァスが個巣母巣の肩に腕を回して言った。「プラットフォームなんぞで待ってる限り、列車なんぞ来ねえだよ」
個巣母巣は肩に腕を回されて、少年らしくはにかみながら、「それではどうやって列車に乗るのでしょう」
「それはね、目的地に着いた時に、列車から降りるんでがす。乗るちうことはねえですな」
個巣母巣がその言葉の意味を考えていると、幕引きメトロファネスが笛を吹いた。すると向こうから列車が、銀河一杯の蒸気を噴き上げながら現れた。
メトロファネスは笛を仕舞って、「とにかく考えるのは乗ってからにしましょう」
パラスケヴァスは個巣母巣を立たせて、「それがようがす。坊っちゃんが考え始めたおかげで、違う列車が来ましたし、考えるんならこれに乗らないわけにはいかねえだからね」
それで個巣母巣はパラスケヴァスとメトロファネスを従えて、列車に乗り込んだ。
車掌が飛んで来て頭を下げるので、「切符を買いたいのですが」
「滅相もございません。あなた様から金銭を受け取るわけにはまいりません」
「しかし……」
躊躇する個巣母巣にパラスケヴァスが言った。「車掌さんがこう言ってるんだから、従わないといけねえだよ。権力そのものである坊っちゃんには、いかなる権利もないんでがすからな」
個巣母巣がメトロファネスを見ると、
「まあ、とにかくうまく運んでいるんだから、従いましょう。何たって、まだまだ始まったばかりなんですから」
それで三人は一等客室へ案内された。御馳走を食べ、良酒を飲み、葉巻をくゆらしている二人に、個巣母巣が尋ねた。「僕はいったい何者と思われたんでしょうか」
「きっと、利益も害もないので早く通過させたい、大いなる無目的とでも思われたんでがしょうよ」そうパラスケヴァスが言った。
「どう思われたのか知りませんが、うまく運んだことを感謝しなければいけない」そうメトロファネスが言った。
「しかし、何かとんでもない過失があったらどうしましょう。もしかしたら、僕たちは処刑場に送られているのかもしれませんよ」
「処刑場!」パラスケヴァスが目を閉じて、「それは永遠の夢が叶う所。――我輩にはちいとばかり大地に誓って約束したスケがありましてな。死にゃァ会えるんでさ。しかし死に方に問題があるんで。グズグズ逝ったらまたグズグズ会えねえし、ヘタに思い切ったらどんな所に出るやらわからねえだからね。そこへ持って来て、無理に殺されたとあっちゃあ、無理にでも会えるってもんでがす」
「処刑場……」メトロファネスがかぶりを振って、「その時は、ベルを鳴らしますよ。火災警報器のベルをね。世界観客は我先に外へ出て行きますから、その間にずらかりましょう」
それで安心した個巣母巣は、二人の食い散らかした中からいくつか拾って食べ、車窓から遥かな時空の七色を眺めた。
やがて列車の速度が速まり、三人の着いているテーブルが十倍ほどにも大きくなる頃、窓の外の景色はほとんど停止していた。たいへん近くに見える遥か彼方で、様々な時間の一群が一堂に会し、受話器を耳に当てて時報を聞いては時計を合わせていた。
個巣母巣が眠気に襲われて、それでも眠らずに頑張っていると、列車が停まった。
「何だ、えれえ早く着いちまったね」パラスケヴァスが新しい葉巻を噛みちぎって、「坊っちゃん、もしかして眠るのを我慢したりしたんじゃァねえでがしょうな」
「我慢しました」個巣母巣が目をこすりながら、「降りる駅を通り越してしまってはいけませんから」
「何とまあ、坊っちゃんの殊勝な賢明さのおかげで、世界の欠陥が証明されたってもんでがす!」
「いけませんでしたか」
「いけなくはありませんとも」とメトロファネス。「それで眠気のほうはどうです、動かれないほどお疲れですか」
「いいえ。この景色の中へ飛び出して行くかと思うと、目は冴えました。僕の胸は期待にときめき、魂は鳥のようです」
「鳥より魚のほうがようがすよ」パラスケヴァスが酒瓶を懐に詰めながら、「あまたの空を起き過ごしちまったんだからね」
「とにかく降りましょう」とメトロファネス。「夢を見ずにここまで来てしまったのが吉と出るか凶と出るか、よろしくないということがハッキリすれば、その時はその時だ」
「その時は火災警報器のベルを鳴らしますか」
そう個巣母巣が尋ねた。メトロファネスが答えた。
「いや、みんなでバーにでも入って、悲嘆に暮れればよろしい。さあ行きましょう」
それで三人は、銀河を切断するように帯状に連なった巨帯都市へと降り立った。
*
観光客だらけの巨帯都市を塗り潰すように歩いた。
その見物には八十世代の時間がかかり、その間に巨帯都市は盛衰を繰り返したので、三人は時には寝る場所もなく、時には都市と都市との断絶に足止めを食い、時には遥か昔に通ったのと同じ道を遠く離れた星で歩き、そして膨大な出来事を見逃した。
こうも歩き尽くして、遂に飽きが来ないことを悟ると、個巣母巣はパラスケヴァスとメトロファネスを遊郭に残したまま、妙なる鳥になって窓から逃げた。
そうして銀河を出たのだが、それは巨帯都市が最も範囲を広げていた時期で、遂に脱出する最後の出口に、パラスケヴァスとメトロファネスが待っていた。
個巣母巣がそれに対して覚える感情を、眼前に並べて選んでいると、パラスケヴァスが言った。「坊っちゃんが我輩どもをお嫌いなら、消えますよ。しかし独りになりたいんでしたら、諦めることでがす」
続いてメトロファネスが言った。「何でしたらいったんお独りになってみて、百年後にここへ戻って来て、改めて決めてくだされば」
「それでもいいですか」そう個巣母巣が尋ねた。
「ようがすとも」
「そうと決まれば、我々はあちらの水の星の中で眠っていますから、戻って来たら起こしてください」
それで個巣母巣は単身旅に出て、約束通り戻って来た。水の星の中であぶくを立てながら眠っている二人を揺り起こした。
パラスケヴァスが言った。「いやァ、不思議な夢を見ましただ。その中で完全に起きていることに成功し、やがて自分の思い通りに出来ましただ。しかしそこでも眠るんでしょう。その夢の中でもまた色々支配しましたな。どこかの夢の中においては、眠らない体でいたことだってありましただ。しかし、もういいや」
メトロファネスは夢の話をしなかった。それよりも天の時計を仰いで、「三十倍ほど遅かったですな」
「ええ、ちょっと夢中になっていましたもので」
「さぞお楽しみだったんでがしょうね。お話ししてもれえてえね」
「色々とありましたが、これは僕の心に仕舞ってある大切な秘密です」
「そりゃ残念」
「ところで坊っちゃん、独りになってみてどうでしたか。我々はどうしましょう」
「あなたがたが決めてください」
「そんならね」とパラスケヴァスが言った。「こちとら坊っちゃんのお供をするのが後天的な遺伝でがすからな」
「このまま軽やかにお供しましょう」とメトロファネス。
三人は虚空へと歩き出した。
*
時間も空間もない所を歩いていると、前方に天の森が現れた。
森の中を歩き回ること数ヶ月、数年、数十年、村のようなものが成立し、人口が増え、技術が発達し、町になり、外部との交渉が盛んになり、都市になり、遥か遠方で中央文化圏の戦乱の火蓋が切られると、一切の交渉を絶って中央を名乗り、無視されながら爛熟し、人知れず自壊に向かい、最後の一人が首をくくって死ぬ頃、三人は一切手を貸さない神々として眠りこけていた。
目が覚めると微生物たちの旺盛な生存活動によって天の森は全く元の姿に戻っていた。
三人が地面を掘り起こし、太古に文明があった証拠を見つけては、研究して意見を戦わせていると、森の女神が現れた。
女神が言った。「わけもわからず進めて行くのね。熱量ばかり与えて、破滅したら剥ぎ取って、甚大な感謝と怨念を虚空へ捨ててしまうのね。彼らが永遠の命を手に入れて、安楽な所へ行き、あなたがたよりも高次な存在になって、遊んでいるのもそのままにしておくのね。結構なことだけれど、それではわたくしの恋情に、火を灯すことは出来ませんよ」
パラスケヴァスは女神に言った。「その歌は左指で死角を塗っちまったね。それも上唇にフラミンゴを通してでがす」
メトロファネスが言った。「黙れパラスケヴァス。このかたは検討も評価もしてはならない人だ」
二人がそのようなことを言っている間、個巣母巣は女神をただ見つめていた。女神はその視線に気づき、見つめ返していたが、やがて頬を赤らめ、森をまるめて一つの寝間を作ると、その中へ身を隠した。
個巣母巣は寝間を見つめながら、ほとばしる恋情を一篇の歌にし、沈黙で奏でた。個巣母巣の肩に知らぬ間に乗っていた小さな富裸熱都が、その歌を詠んでは遥か彼方へ流していたけれど、誰にも富裸熱都の姿は見えなかった。
やがて女神の寝間の扉が、ゆっくりと開かれ始めた。個巣母巣は恭しくこうべを垂れて跪いていた。パラスケヴァスとメトロファネスは、向こうで女神の影と匂いを捕まえ、濡れ事をしに、それぞれ空間から隠れていた。
寝間が遂に開き切る頃、個巣母巣はおのが恋情におののき、先手を打って尋ねた。「私は遍歴の騎士よろしく、あなたさまを恋い忍びながら、あなたさまの平安のため、冒険をしてまいりとう存じます。どうかしるべをお授けください」
すると床化粧を済ませていた森の女神は、目を見開いて驚き、大いに気分を害した気色で、手を叩いた。女神の影と匂いが空間へ引きずり出されて、乱れた着物を直しつつ、女神の元へ戻った。
それから女神はある一方を指さすと、寝間を森に戻し、空間から去って行った。
着物を直しつつ現れたパラスケヴァスとメトロファネスが戻って来るまで待って、個巣母巣は女神の指さしたほうへ歩き出した。
やがてパラスケヴァスが言った。「坊っちゃん、我輩はね、さっきの体操で一時的に老眼が進んじまって、近くがよく見えないんでがすけれども、あそこのぼんやりしたあれは、これからの坊っちゃんの冒険に、ゆかりのあるもんじゃねえかね」
それで個巣母巣が目を凝らすと、宇宙の向こう端で、誰かがこちらを見ながら、エレベーターの扉を開けてくれているらしかった。
メトロファネスが言った。「ははあ。あれは坊っちゃん自体にゆかりのある人だ。坊っちゃんの郷里、坊っちゃんの帰るべき場所だ」
個巣母巣が言った。「それなら急いで向かいましょう」
そうして向かっているうちに、エレベーターの明かりは見えなくなった。三人は慌ててガソリンスタンドに立ち寄り、ヒッチハイクの仕草をすると、銀河のように巨大なトラックが停まったが、運転手はいなかった。これにガソリンを入れている間、カフェで食事をした。
ガソリンはなかなか溜まらなかった。三万回目に食事を運んで来た時、個巣母巣は初めて、ウェイトレスの顔を見た。
*
ウェイトレスの値段はサンドイッチよりも安かった。それで注文し、ウェイトレスが運ばれて来たのだったが、それ以降はいくらお金を支払っても、誰も料理を運んで来なくなった。
パラスケヴァスが言った。「まったく坊っちゃんは注文がうめえや! あァたはそんなかわいこちゃんを手に入れて、さぞかし御満悦でがしょうがね。我輩はそろそろようやく胃液が出始める頃だったのに」
メトロファネスも非難がましく個巣母巣を見ていた。個巣母巣は意に介していないふうで、ウェイトレスと隣り合って座り、話し込んでいた。
ウェイトレスの名前は恵舞離深愚といった。
個巣母巣が言った。「もうガソリンはだいぶん入ったんじゃないですか。恵舞離深愚も連れて、行かなければならない所へ行きましょう」
メトロファネスが答えた。「ガソリンはまだ、気化する分量に補充の分量が追いついてすらいませんよ」
「方法はないのですか」
パラスケヴァスが答えた。「坊っちゃんの懐具合にもよるね」
メトロファネスが続けた。「財布をお貸しなさい」
個巣母巣が財布を渡すと、パラスケヴァスとメトロファネスは机の上に金貨を積み上げた。店内が全て埋まっても積み終わらなかった。
パラスケヴァスが肩をすくめて、「こりゃ多過ぎて駄目だ」
次いでメトロファネスがカードを見つけ、どこかに電話を掛けて、額のほどを調べて戻って来た。
「どうでしたか」
「特大の恒星が星の数ほど買えますな」
「そりゃいいだ。それなりの恒星を一粒、ガソリンの代わりに詰めといたら、トラックが骨になるまで走れまさァ。アクセルなんぞも用無しでがす」
「いくつくらい買いましょうか」
「L寸が一つで十分でしょう」
それでL寸の恒星を一つ買い、ガソリンタンクに放り込んで、一同は出発した。
個巣母巣が運転し、恵舞離深愚が助手席に座った。パラスケヴァスとメトロファネスは荷台の上で昼寝をしていた。
州境を越える際、恵舞離深愚の身分がウェイトレスであるという事実が障害になったので、それはこの近辺を書いている巨人の詩人による書き損じだと、個巣母巣は確認を取らせた。パラスケヴァスが失敗して、メトロファネスが成功した。
かくて最も正統なる女王になった恵舞離深愚から、パラスケヴァスとメトロファネスは勲章と爵位を賜った。
パラスケヴァスが言った。「ところで我輩がね、恵舞離深愚の女王様。あァたの血統の確認を取っとりました時に、向こうでエレベーターを開けてくれていたご婦人のことを思い出したんでがす。あれは遠い昔のこったけども、そのことについて考えておりましたらば、途中で巨人はどっか行っちまいましたな」
メトロファネスが言った。「どっか行った? それなら今は、誰も書いていないのか」
「確証はねえがね」
「坊っちゃん、そういうことなら、このままではあちこちの空気が悪くなりますから、大いなる窓を開けに行きましょう」
それで個巣母巣はハンドルを切り、どこへともなく向かって進んだ。やがて一切を断念してトラックを停めると、そこには寒々とした小屋があり、中には世界を書いている巨人がいるはずだった。けれどもどこにもいなかった。パラスケヴァスが机の上に置かれた草稿の束を手に取って、
「御覧なさい。やっこさん恋に気が狂って、こんなもの書いていやァがる」
メトロファネスが言った。「しかしこの草稿は、なかなかよい物件だぞ。坊っちゃん、これが最後の選択肢なら、私はこれを選びますね」
パラスケヴァスがしばらく草稿に目を走らせて、「――そうだね。それで死んじまったら、戻ってくりゃいいだ。ちょいとここへしけこんで、ぺえいちひっかけるのもまた粋なもんじゃァねえかな。どうでがすね、坊っちゃんと女王様?」
「どのみち御二方はハネムーンに行かなきゃなりませんしね」
個巣母巣は恵舞離深愚と見つめ合って、「ちょっと二人だけで相談してもいいですか」
「ようがすとも」
このように許可されたことで、二人だけで相談する必要もなくなった。
四人はしっかと手を繋ぎ合い、大いなる草稿の前に並んだ。ゆっくりと川を流されながら、前方の滝の水煙を見つめた。やがて滝まで至り、果てしなく落ちて行った。
*
美的遊戯の詩や、秩序を作る詩、楽しみのための詩や、血のように滴る詩、配列の狂った詩や、言語を用いない詩、長大な全文で一つの自然を表す詩や、何も表さない詩等々を、読み尽くし、評価し尽くし、吟味し尽くし、理解し尽くし、誤解し尽くししていたが、そのほんの数時間で飽きてしまった恵舞離深愚が独り草稿の中から出て来た。
室内を歩き回っていると、紐に足を引っかけて、小さな鈴がかすかに鳴った。するとメトロファネスが、草稿の中からコッソリ抜け出て来た。鈴はメトロファネスの仕掛けた罠だった。
恵舞離深愚の貞操を打ち砕くのにメトロファネスは百年かかった。とうとう口説き落とすと、恵舞離深愚を連れて、天のくぼみに引っかかっている不潔な小屋へ入って行った。やがて小屋からは恵舞離深愚の間断ない鳴き声が漏れ出して、風下の世界に響いた。
風下の世界は、声が響いている間、ありとあらゆるものが淫欲的に輝き、やがて著しく衰退した。
個巣母巣とパラスケヴァスが水を飲みに草稿から出て来た。二人は遠くから響く恵舞離深愚の鳴き声を聞いた。パラスケヴァスは悔しがって歯ぎしりしたが、個巣母巣はそれよりも草稿に夢中になっていたので、水を飲むとまた詩の中へ落ちて行った。
パラスケヴァスは天のくぼみに引っかかっている不潔な小屋へ飛んで行くと、「遅くなりまして。ネクタルのデリバリーサービスでがす」
すると中からメトロファネスの声がした。
「お前、注文したのか」
「いいえ、わたくし注文なんていたしません。わたくしの飲み物は、メトロファネスさまからいただくものだけですもの」
メトロファネスが服を羽織り、いぶかしげに扉を開けると、パラスケヴァスが宅配人の帽子をちょっと上げてみせた。
「お前か」メトロファネスは素早く出て来て、パラスケヴァスの耳に口を寄せ、「坊っちゃんも気づいているのか」
「気づいてるとも。だが坊っちゃんは草稿に、阿房のように夢中になっててね、また落ちて行っちまっただ」
メトロファネスはパラスケヴァスを上から下まで眺めて、「そうか。ところで、ネクタルはほんとに持ってるのか」
「もちろん。ほれ、ここに」
「ちょっと貸せ」
「条件があるだ」
「何だ」
「恵舞離深愚を我輩にもおすそ分けしてもれえてえね」
「そんなことか。いやいや、私も少し飽き飽きしていたところだから、面白いだろう。二人で」
「二人で、ってのもいいがね。まずは一人できこしめしてえだ。お前がネクタルを飲んでる間だけでいいから」
「よし、それならそれでいいから、貸せ」
「ほい」
「――こんなにあるのか? これじゃあ、飲み干すまでの間に、恵舞離深愚が干物になってしまうぞ」
「なあに、水気は絶やさせねえだよ」それでパラスケヴァスが小屋に入って行った。
メトロファネスは壁に寄りかかって、渡り鳥やら虹やらを見ながらネクタルを飲んだ。ふたたび恵舞離深愚の鳴き声が響き始めた。パラスケヴァスはメトロファネスよりも巧みに恵舞離深愚を奏でた。
風下の世界では衰退していたものが再興し始めた。
*
大いなる詩集が個巣母巣の精神の網膜に、遂に書かれ終わる頃、パラスケヴァスとメトロファネスは自らをほとんど無限に産み直せるほどの精を絞り尽くし、雨粒のように落ちて行って、古い宇宙やら、新しい原則やらになっていた。
解放された恵舞離深愚が個巣母巣の前にぬかずいた。個巣母巣は彼女の変貌ぶりにたいそう驚いた。彼女はあまりに高みや深みへ触手を伸ばし過ぎて、ことごとく伸び切っていたために、個巣母巣では彼女を、もはや労わることは出来なかった。
さめざめと泣くばかりな恵舞離深愚をどう慰めたらよいものか、個巣母巣が考えていると、頭上に学問の実がなっていた。
それは空間に何が広がっているか、時間に何が過ぎ去って行くか、現象に何が起こっているか、存在に何が現れているか等々、味覚をして悟らしむる果実であった。
個巣母巣は一つもいで食べると、ひどく大らかな心持ちになった。そうして恵舞離深愚に、最も正統なる女王であることを思い出させた。半信半疑な恵舞離深愚が、その場を通り過ぎんとする人々に命令してみると、ちゃんと人々はそれに従った。
恵舞離深愚が命ずる。「象を鼠に湧かせよ」すると誰かが方法を見つけて、そうした。
「宇宙よりも大きな馬車を壊せ」誰かがそうした。
「時の外角に葡萄酒を注げ」そうした。
恵舞離深愚がスッカリ自信を取り戻した頃、世界のどこかで抜け殻のようになっていたパラスケヴァスとメトロファネス(※数語欠落。)股の二つの空っぽな卵がぽとりと落ちると、二人はコーヒーを片手に、大いなる寝室から出て来た。
(※数欠。)その鐘が鳴った時、個巣母巣の前に幼い姉妹が現れた。
「君たちは誰ですか」そう個巣母巣が尋ねると、姉妹は困ったように顔を見合わせた。
やがて姉のほうが進み出て、軽く頭を下げると、名乗った。「わたしは再悟之新版」
次に妹のほうが進み出て膝を曲げ、「あたしは崇派唖能罵」
「君たちは何をしに、僕の前へやって来たの?」
そう個巣母巣が尋ねると、再悟之新版が進み出て、「わたしたちはあなたの、次の旅を邪魔する役割を、仰せつかっていたのだけれど」
次に崇派唖能罵が、姉の後ろに半ば隠れるようにして、「出番をしくじったの」
「そうですか」
「はい」と再悟之新版。
「どうしましょう」と崇派唖能罵。
個巣母巣は振り返ってみたけれど、彼方の恵舞離深愚は何かに隠れて見えなかった。ただそこからは七色の湯気が立ち、パラスケヴァスとメトロファネスの尻や踵が時々、見え隠れしていた。
個巣母巣は姉妹に向き直ると、両手にそれぞれの手を取り、間に挟まって歩き出した。何か道標がないかと思いながら歩いていると、彼方に始業ベルが鳴り響いた。
三人は顔を見合わせると、繋いでいた手を放し、競争するように駆けて行った。
*
近辺の第一存在者である女神が言った。「あなたたち三人は、まだまだ教育の必要がありますから、学校に入らなければなりませんよ」
それで、そうした。が、いざ校門をくぐろうとする個巣母巣を女神は捕まえて、「あなたは入学するために、まず子どもに戻らなくてはなりませんよ」
個巣母巣は言った。「方法を知りません」
女神は答えた。「然るべき手続きをすることね」
個巣母巣がトボトボと引き返すと、再悟之新版と崇派啞能罵も戻って来、彼を挟んでしゃがんだ。そのまましばらく三人で、落ちている石を独楽にして回したり、天体にして回したりしていた。
やがて再悟之新版が尋ねた。「どうするの」
「ちゃんと然るべき手続きをして、入学するよ」と個巣母巣は答えた。
崇派啞能罵が尋ねた。「どうやって?」
「当てはあるんだ」
「どんな当て?」と再悟之新版。
「恵舞離深愚に、お母さんになってもらうのさ」
「そんなら早く、そうしてもらって来てよ」と崇派啞能罵。
「今は駄目なんだ」
それで個巣母巣が振り返る先を、姉妹も振り返った。目を凝らすと、彼方で鳴き声を上げている恵舞離深愚の足が屏風の端からのぞき、パラスケヴァスとメトロファネスの尻や踵が時々のぞいていた。
「あれが終わってからね」と個巣母巣は言った。
それでしばらく待っていると、恵舞離深愚の鳴き声がやんだ。三人は恵舞離深愚の風上にいたので、実際よりも早くやんだわけであるから、個巣母巣は恵舞離深愚の元へ、わざとゆっくり歩いて行った。
恵舞離深愚は着物と髪の乱れを直し、個巣母巣を迎えた。詳細を説明すると、恵舞離深愚は股を開いた。初め個巣母巣は要領を得ず、行きつ戻りつを繰り返しているばかりだったが、ようやく全身飲み込まれると、妙なるとつきとおかを経て、ふたたび産み出された。
「これでいいの、坊や?」
そう言って、恵舞離深愚は生まれたばかりの個巣母巣を抱き上げ、へその緒を歯で噛み切った。それからくまなく舐め取って綺麗にした。
「どうもありがとう。それではお母さま、行ってまいります」
「気をつけて行ってらっしゃい」
個巣母巣は母親を振り返り振り返りしながら、大いなる小学校まで戻った。
再悟之新版と崇派啞能罵は、最前の場所で待っていた。再悟之新版が個巣母巣に鼻を近づけ、全身の匂いを嗅いだり舐めたりして、言った。「変な味」
続けて崇派啞能罵も嗅いだり舐めたりして言った。「臭いこと」
そこへ女神がやって来て、「あら、手続きをして来たのね。よろしい。さあ、入学案内書を渡しますから、お手をお出しなさい」
三人が手を差し出すと、女神は案内書を一人ずつに渡した。三人はそれを読みながら、大いなる小学校の校門をくぐった。
*
個巣母巣は模範生として、再悟之新版は首席として、崇派啞能罵は誰も考えつかなかった校則違反を無数に考案した栄誉で、それぞれ称えられ、拍手喝采と罵声と紙吹雪と投石の中、卒業証書を受け取り、寄付箱に突っ込んだ。
それから女神に引率されて大いなる中学校へ上がった。
三人が女神にも中学校へ異動して欲しいと頼むと、女神は人事課長に会いに行き、着物と髪を乱して戻って来て、異動することが出来たと言った。
女神が寮監となり、四人は優等な寮の一部屋に住んだ。
大いなる中学校の校舎はあまりに広大で、設計者たちも把握し切れていなかった。代々の卒業生たちが作り続けている地図があり、四人も地図作りの分担を与えられた。
地図が完成するまでは授業が始められず、無数の卒業生たちは全く授業を受けていなかった。そのため卒業生たちは社会に出てからたいそう活躍していた。
半年も経つと再悟之新版が女帝になっていた。個巣母巣は再悟之新版のボーイフレンドとして優遇されていた。崇派啞能罵は反女帝組織のリーダーになっていた。女神は崇派啞能罵のパートナーとして陰ながら付き従っていた。
けれども四人は夜になると同じ寮に帰り、同じ部屋で眠った。二つのベッドをくっつけて、二人一組で眠るペアは盛んに入れ替わった。
卒業のためには学校へ上納する金銭を稼がなければならなかったけれど、個巣母巣たち三人は他生徒たちからの大量の賄賂で悠々突破した。女神はまた人事課長に会いに行き、髪と着物を乱して辞職の許可を取って来た。
個巣母巣は卒業に際して教師たちから報復のリンチに遭いかけ、完全に包囲されている中を逃げ回った。校舎内にはたくさんのビルが建ち並んでいたが、路地に隠された路地や、妙なるマンホールなど、個巣母巣は教師たちより校内に詳しかった。
あるビルの階段を、以前崇派啞能罵と発明した上り方で以て素早く駆け上がり、屋上に出た。折しも夕日が彼方の校舎のシルエットに沈むところだった。
個巣母巣は隣のビルに飛び移り、洗濯物を干していたご婦人に口止めをお願いして、階段を下りて行った。ある部屋の扉が開いていた。階段の手すりに身を乗り出し、上を見上げて、追っ手がいないことを確認すると、部屋に入って扉を閉めた。
部屋の中には一人の童子がいた。洗濯物を抱えていて、今から屋上へ干しに行くところらしかった。驚いて個巣母巣を見ているので、個巣母巣は言った。「追われているんです。匿ってもらえませんか」
すると童子は奥へ向かって人を呼んだ。現れたのはたいへん肥満した母親だった。
母親は個巣母巣から事情を聴くと、言った。「なるほどね。今朝、光り輝くあまたの蝶が舞い込んで来る夢を見たのよ」
そうして童子に命じた。「このお客を逃がしては駄目よ」
それで童子は個巣母巣を監視し始めた。抱えたままの姿勢で、洗濯物が完全に乾いた頃、個巣母巣に尋ねた。「いったい何をして、追われているんだ」
「異なる制度のもとで、一貫して模範生だったためです」
そう答えたが、童子は意味を理解していなかった。嘘をつくな! だとか、模範生とは何か! とか言っていた。
「君の名前は何ですか」
そう個巣母巣が尋ねると、童子が答えるより前に、母親がやって来て言った。「あまたの蝶さん」
「個巣母巣と申します」
「個巣母巣さん。あたしねえ、買い物に行って来たいんだけど、お金がないのよ。あなた余裕がないかしら」
個巣母巣はポケットを探った。金貨百枚分の価値がある銀貨を差し出すと、母親はむしり取って出て行った。
「個巣母巣」童子が呼んだ。個巣母巣が見つめると、「僕は十吐露自慰だ」と名乗った。
「ありがとう。よろしく十吐露自慰」
「ちなみに、母さんは派等土区区守だ」
「そうですか。教えてくれてありがとう」
それからしばらく、派等土区区守が雇って来たメイドに一切の用事をさせて、三人はその部屋に隠れ暮らした。学校に行かない十吐露自慰の教育は個巣母巣がした。
*
「はい先生。出来ました」
「どれ――……うん、よろしい。それじゃあ次に行くよ」
「お願いします」
「つまりこれがこうでこうこうで――どうしました?」
「……先生、ごめんね、まだ笑っちまうみたい」
「駄目ですね」
「だって、どうしてこんなことするのさ。――いや待って、言わなくていい。わかり切ってるから。それを言われるのがイチバン大変だから」
「よく出来ました」
「それよりも先生ねえ、そろそろおめかししといたほうがいいと思うな」
「どうしておめかしするんです?」
「もうすぐ姉さんが来るから」
「え、お姉さん?」個巣母巣は母親を振り返り、「ほんとですか派等土区区守?」
「ええ、ほんとよ」
「――あなた痩せましたね」
「そうなんです。それというのも、もうちょっとで十吐露自慰の姉になりますからね。あまり見ないでくださいな」
それで個巣母巣は、しばらく目を逸らしていた。十吐露自慰が鏡を持って来て、派等土区区守の変態を見せようとして来るから、笑いながら防いでいた。
やがて派等土区区守が言った。「お待ちどおさま。どうも先生、初めまして。弟がお世話になっております」
「あなたは?」
「わたくし十吐露自慰の姉の胎夢と申します。わたくしたち姉弟は何と言いますか、ずいぶん込み入っておりまして……」
それから胎夢の身の上話を聞いた。その間、十吐露自慰は姉にべったりくっついていた。
胎夢と個巣母巣の境遇は非常に似ていた。個巣母巣は話を聞くうちに、胎夢を恋しく、離れがたく思うようになって行った。胎夢もまた、個巣母巣を激しく慕い始めた。
そうして、ほんの少しの間でも、二人で逃げようと話は決まった。
「どこか鄙びた湖の畔にでも」と個巣母巣が言った。
「あなたとならどこへでも」と胎夢が答えた。
くっついていた十吐露自慰は、姉の決意を見て取ると、これからは独りで立派に生きて行くと宣言し、個巣母巣に握手を求めると、部屋を出て行った。
個巣母巣と胎夢は車を呼び、絶景地方へ向かった。残されたメイドは、捨てられた部屋のあるじになった。
二百年ののち、二人は鄙びた湖畔の古びた小屋に住んでいた。子どもを持とうとしたことが何度かあったけれど、生まれた子どもはみんな、言葉を覚え始める頃に、鳥になって飛び去ってしまうのだった。
子どもの名前は全て富零素といった。
*
どれほどの富零素を鳥にして空に返したか、にわかにはわからなくなる頃、個巣母巣と胎夢の元へスッカリ成人した十吐露自慰が訪ねて来た。
十吐露自慰は懐かしく話をして、質素な夕食を食べ、一晩泊まって、翌日帰って行った。
十吐露自慰が訪ねて来た日から、胎夢が太り始めた。
「君は富零素を生むのにも太らなかったのに」
「そうですわね。嫌な予感がしますわ」
「このまま行ったら、派等土区区守に戻るのではないか」
「そう。そうして十吐露自慰はあの通りシッカリしてしまいましたから、わたくしはいったい、誰の母親になるのでしょう」
太り始めたとはいえ、まだまだ輪郭の鋭利な胎夢を、個巣母巣は見つめて座っていた。胎夢も個巣母巣を見つめ返した。
そうして相談が決まると、二人して湖に入って行った。
*
再悟之新版と崇派啞能罵に揺り起こされて、個巣母巣は息を吹き返した。
「あなたの卒業論文が受理されたよ」そう再悟之新版が言った。
「胎夢はどうなった?」
崇派啞能罵が答えて、「あなたと一緒で、助からなかったわ。だから今頃どこかで、誰かが揺り起こしているでしょうよ」
「そうか……」
個巣母巣がうなだれていると、再悟之新版が軽く抱きしめて頭を撫でた。崇派啞能罵は目の前にしゃがんだが、顔をそむけていた。
女神がやって来て、みんなで非常に大きなカフェへ行った。上層階の席に座った女神は、いかにも疲れているらしく、すぐさま眠りに落ち、たいへん長い寝言を言った。
そのため女神は個巣母巣たち三人から渡離居霧とあだ名を付けられた。
渡離居霧は目を覚ますと、運ばれて来た物を飲み干してから、言った。「ちょっと色んなことにくたびれちゃったから、里帰りするわ」
三人が見つめていると、「あなたたちも来る?」
「行く!」と三人。
それで渡離居霧の故郷へ向かって汽車の旅をしたのだが、途中で何度も下車しては、あちこち見て回り、迷ったりはぐれたり、住んだり逃げたりして、遥かな線路を運ばれること数千年ののち、たどり着いたのは天を突き抜ける摩天楼が無数に並ぶ都市だった。
渡離居霧の実家はある素朴な摩天楼の最上階にあった。隣の部屋との間に庭があり、大きな噴水があった。下の部屋との間に駐車場があり、テニスコートとプールがあった。
渡離居霧の部屋の窓からは空中荒野が見渡された。しばらく厄介になっている間に、渡離居霧の幼馴染の青年がしばしば訪ねて来て、個巣母巣と姉妹もたいそう仲良しになっていたのだが、ある日幼馴染の青年は渡離居霧に求婚し、二人は結婚した。
結婚式で三人は大いに花びらや甲虫を投げた。そうして新婚夫婦の友人として百年暮らした。
三人は摩天楼の都市を散策し、あちこちで事情を持った。個巣母巣は聡明な女中と、再悟之新版は侍従長と、崇派啞能罵は破産した王子と、それぞれ恋仲になり、遊び暮らした。
ある日天から鐘が鳴り、大いなる展望台から見渡すと、彼方で誰かがエレベーターを開けてくれているのが見えた。それで出かけることにした三人に、渡離居霧は祝福の武具を授けたのだったが、それにより三人は乱世の銀河へ流された。
三人のパートナーたち(聡明な女中、侍従長、破産した王子)もそれぞれついて来た。彼方では恵舞離深愚が年老いて、パラスケヴァスとメトロファネスに養われていた。
どの次元の風下にも、胎夢の匂いはしなかった。
*
個巣母巣のパートナーは、ある大芸術家の女中をしていた人で、赦童といった。
再悟之新版のパートナーは、最高位の摩天楼の中層の侍従長をしていた人で、路地区区といった。
崇派啞能罵のパートナーは、福祉制度によりかえって没落前より豪勢な暮らしをしていた王子で、音句数頭といった。
六人は乱世の銀河をくまなく見て回ったけれど、見れば見るほどどこに落ち着くべきか、いつまでも決めかねた。やがて星間連盟がたいへん安定している地域の、独立天体に落ちて行った。
渡離居霧にもらった武具は強力過ぎて現実では使えなかった。しばしば戦火が近づいて逃げたり、何か見当違いなことを疑われて追い出されたけれど、六人の正体が見破られたことは一度もなかった。
最も短く住んでいた地域では、個巣母巣は小学校の教師になり、最初の生徒たちは老後に個巣母巣を囲んで思い出話に花を咲かせた。
赦童は園芸で有名になり、諸国に紹介されるほどのガーデナーになった。
再悟之新版は専業主婦をやりながら見事な織物を無数に仕上げ、無数の子どもを生んだ。
路地区区は野良仕事の傍ら短い物語を書いて、とりわけ処女作がアカデミーに取り上げられ、後代の哲学に大いなる影響を与えた。
崇派啞能罵は個巣母巣と時々不倫をしながら自堕落に生きて早逝した。
音句数頭は巨大な駅の前で托鉢をしながら終生崇派啞能罵の墓守をした。
やがてそこも追い出されると、崇派啞能罵も墓から出て来て、六人は転居した。最初に住んだ地域に行くと、何もかもが変わり果てていたので、ふたたびそこに住んだ。
一度彼方の水平線に、潜ったり浮かんだりする怪物の一部を見かけた時、崇派啞能罵が妙なるライフルで撃とうかと提案したけれど、五人はとめた。
怪物が流転を繰り返し、砂時計が倒れて転がり出した頃、遂にこの星も星間戦争に巻き込まれた。閃光や光の膜が炸裂した。六人はいよいよ渡離居霧の武具を取って参加したけれど、呆気なく敗れた。
最後に斃れた音句数頭は、先に斃れていた五人から揺り起こされた。海辺の白い家だった。それからボート遊びやバーベキュー、読書や議論、ハイキングなどして暮らした。
海には一匹だけ大蛇がいた。これが陸に上がって来た時が六人のどんちゃん騒ぎの終える時だと、行き倒れになりかけていたところを助けられてからそのまま住み着いた予言者が言った。
音句数頭と路地区区が大蛇を仕留める計画を立ち上げ、個巣母巣も参加したが、遂に仕留めた大蛇を見て予言者は「違う大蛇だ」と言った。「くだんの大蛇は一匹しかいないが、違う大蛇ならうようよいる」
ある曇天の正午、空が割れて光が射し、二十五菩薩を従えて、胎夢が個巣母巣を迎えに現れた。
それなので個巣母巣は一同に挨拶をした。「胎夢が来たので、これでお別れです」
一同は深く悲しんだけれど、路地区区が言った。「ともあれ胎夢が来たのだ。それが全てだ」
音句数頭は個巣母巣が去っても、その後を続けると言った。「たとえ陸に上がった大蛇に滅ぼされる世界でも」
再悟之新版は全員にキスをして、「みんな合格よ。宇宙一杯の祝福を」
そう言って消えた。
続いて崇派啞能罵が、「これから全てを始めに行って来るわ」
そう言って消えた。
赦童は個巣母巣に合わさって、光の反対側に、個巣母巣の形を成した。
予言者が円渡と名乗り、遥かな風下へ去って行った。
昔日に飛び去った富零素たちは彼方で全ての王になり、かつ永遠の人柱になっていた。
遥か高次な天空から未流奇異宇泳と戯夜楽思惟がにこやかに見下ろしていた。
彼方のエレベーターは扉を閉じた。
丸襤褸と湾渇婦は新たな賭けに興じていた。
"ムーサの痰壺"へのコメント 0件