猿の天麩羅 2

猿の天麩羅(第2話)

尼子猩庵

小説

12,754文字

 不条理な大幸運に飄々と忍従する中学生少年少女たちのロードムービー。

 異世界にして過去世。未来にして神話時代。下劣にして荘厳。地獄にしてユートピア。

 図書館にはなく、本棚にはある。人生で二度捨てる。

※第13回ハヤカワSFコンテスト二次選考落選。

 

 

 

森の中のグラウンドに最初に着いた知明と穂野は、のんびりと仲間を待った。グラウンドにはテントが点在していた。老若男女おしなべて異様に美貌な賠償宇宙人(別号贖罪未来人乃至堕先祖)たちのキャンプであった。

知明の聞いた話では、なにか受動的な団体の逆説的な運動によって許された治外法権的な移民キャンプだった。穂野の聞いた話では、未申告にしておくよう裁判所から命令が下りている自由キャンプだった。

向こうの一隅にはテントにあぶれた移民たちが固まって座っていた。知明の聞いた話では、なにか受動的な団体は近年内輪揉めがひどくて逆説的な運動をしていないそうな。穂野の聞いた話では、一隅の人たちだけが時おりトレーラーハウスを賜るのであえてテントを明け渡しているのだそうな。

知明がじっと目を凝らして見ていると、どうも家に住み着いていた年増がいるようだったけれどもけっきょく定かではなかった。

やがて小橋と賀谷、八代井と向坂が合流し、最後に一人だけ校区内ギリギリの集合住宅から通っている瓢藤が転がるように駆けて来た。

賀谷が瓶の詰まったビニール袋を両手に提げていた。途中のリカーショップで、なにがあったのか知らないけれども主人が品物を次々と投げ捨てていたから、割れなかった物を拾って来たのだそうだった。

分けて持とうと瓢藤が提案すると、賀谷はかぶりをふって、

「さっき気づいたんだけど、ここを見ろ。これ全部配給なんだよ」

だからグラウンドの移民たちに配ると言った。女子一同(穂野と八代井と向坂)が熱心に賛同した。それで賀谷はそうした。

そのままグラウンドを突っ切った。謎の田畑を崖下に見下ろしつつ、頭上に架けられた苔まみれな煉瓦造りの空中水路の下をくぐって広大な森へ入った。ちゃんと整備された道があった。これをずっとたどって行けば西の山々まで続いているが、途中でよさそうな枝道があったら曲がろう、それから先はそのつど選択して行こう……。

七人は西に向かって歩いて行った。

 

ツボネの背に乗って海をわたり、白谷啓弥は小さな島に上陸した。

川をさかのぼって森の奥へ進んで行くと、木々がひらけてほとんど崩れた古城が現れた。

ここで終生ともに暮らして欲しいとツボネは言う。白谷啓弥は古城を懐かしそうに見回した。二人が幼児だったころ、ツボネの実母の背に乗ってひんぱんに通った古城だった。

現在ツボネは妊娠していたけれど、海淵の産婆の見立てによれば生まれるのは八年から十年ばかり先だった。父親の心当たりはなかった。半年ほど前に外来樹の花粉が列島を覆い尽くし、そのためあちこちで人魚の処女懐胎が起きたと判明するのはずっと未来のことだった。

白谷啓弥は承諾した。ツボネがいれば金がなくともなんとかなる。食糧、飲み水、暖を取ること、病毒を抜き取ること、云々云々。どうしても金が要ったら、観光客に古城を案内して稼ごう……。二人は手をつなぎ、代々の城主の肖像画がずらりとかかっている廊下を歩いた。

「ここには人の埋められた柱が六十六本ある――」

と白谷啓弥がつぶやいた。昔ツボネの実母から聞いたことだった。

それから二人で、つるはしを振るい、めぼしい柱を壊してみると、果たせるかな崩れた奥に人が入っていた。慎重に取り壊して引っぱり出すと、髯面の男性で、まだほんのり温かく、死んだばかりにしか見えなかった。

「これ、鬼かなにかじゃないの?」

という意味のことを、ツボネは、白谷啓弥には懐かしい、二人だけの言語で言った。二人は鬼かどうかを疑って、それから三日間様子を見たけれど、男性はだんだん冷たくなって遂に腐り始めた。

男性を土に埋めると、人柱の中にはまだ生きているのがいるかもしれないと話し合い、めぼしい柱を壊して行った。そうしてある時、肝心な柱を壊してしまい、古城は崩れて、二人とも埋もれた。(――××県××市の××波止場で車が引き上げられ――二人の遺体が――××市在住白谷啓弥さん大学生――▽▽県▽▽市在住井星つぼねさん無職――井星さんは妊娠六か月と――)……

 

森の屋台でひじょうに高価な葉巻を一本買い、回しみにふかし始めると、しだいにみんなウキウキと心が弾み、頭もたいそうスッキリした。木漏れ日の射す道を歩いて行った。

ふと通り過ぎたまっ黒な沼に、なにか白い哺乳類らしいものが泳いでいたのが沈んで行った、と瓢藤が言ったのでみんな引き返して畔にしゃがみ込み、ふたたび浮き上がって来るのを待った。

しばらくすると、ふやけて腐った白いカバのような動物が浮かび上がって来て、そこに人がまだいることに気がつくと息継ぎしないままあわてて沈んで行った。一同はありったけの石を投げ込んで逃げた。

森の道はたいへん静かだった。ちらほら屋台や公衆便所や錆びたコンサートホール、朽ち果てた映画館等々あったけれど、歩いている人はいなかった。

映画館に入ってみると、どこかの国の古い政治映画がかかっていた。字幕が現代語だったために一同には読まれなかったので、すぐに出た。

またひじょうに高価な葉巻を売っている屋台があったので、今度はどっさり買い込んだ。澄んだせせらぎに足を浸けながら、七人は並んで座ってぷかぷかとふかした。

ふかすうちに頭の中がつるつるに剥かれ、一切のわだかまりがなくなって行った。

そこは小さな遊園地のような所で、なにもかも錆びて無人だったけれども営業していたから、色々とアトラクションに乗りたかったが、七人とも自分が今なにをしているのか、一時間ほど経ってから思い出すというありさまだったので、入ろうかと思った時には遊園地はずっと後方に離れ去り、アトラクションに乗って大いに遊んだ記憶をただ思い出すのだった。

トイレやレストランもそんなふうで、あるなと思うころには通り過ぎていたけれども、ちゃんと便所で用足しをして、手を洗ったこと、移民(賠償宇宙人)のウェイトレスに注文して温かい料理を食べたことを思い出すのだった。

終始優しそうにほほ笑んでいた小橋が、ふいに真顔になって言った。

「我が国最大の理論物理学者――現在が過去からつながっていないことを証明した黒丸博士の理論がわかった。しかも平語で説明できる。この説明を聞きゃ、どんな阿呆でも世界の潜在意識を易々と悟得するこったろうぜ」

この言葉を小橋が言い終わる前に知明と賀谷と瓢藤があわてて小橋に飛びかかり、彼の口をふさごうとしたらしかったが、一時間前、小橋は言い終えた瞬間に消えていた。(――△△県△△郡在住小橋凛太郎さん中学生――友だちと川遊びの――十五キロ下流で遺体となって――)……

少女たちは抱き合って、お互いの涙と鼻水に顔を汚しながらうめき、少年たちは這いつくばって、額を地面にこすりつけながらうなっていた。道は誰も通らず、日も暮れなかった。みんな泣きながら、時々瓢藤が千切って配るひじょうに高価な葉巻をくゆらし続けた。

 

翌朝、六人は兵隊から逃げている。お金もなくなっている。

体格の大きな賀谷だけが夕べのことを覚えていた。いわく、数学番組の賞金の残りをすっかり投じて自分たちに懸賞金をかけたということだった。それで追われているのだった。

誰が言い出したことなのかは賀谷も覚えていなかったけれど、とにかく「万愚節ばんぐせつ」という卑猥な流行歌をみんなで歌いながら、森の役場に行ってお金を支払い、申請したのだった。(「万愚節」なる歌は、今は誰も知らなかった。)

しばらく屋台も公衆便所もなかった。薄明るい木漏れ日の道を、前後左右警戒しながら歩いて行った。

兵隊の姿はまだ一度も見ていなかった。しかし確かに追われている事実だけが、休憩所に流れていた地下ラジオの定時放送でわかっていた。

ひじょうに高価な葉巻の煙は、呼気や汗から抜けるに際して色々なものを連れて抜け――大小便は香草のようなまろやかな匂いがしていた――心身のぼやけた箇所を残らず引き締めて行った。

脳髄の整頓された意識透徹な六人は、ある所で木に登り、枝を伝って鉄条網を乗り越えて、看板が厳重に侵入を禁止している区域に入り込んだ。そこから先はなにか特殊な血統の人々の所有地で、兵隊は追って来られないはずだった。区域の地下に眠っている資源は、あまりに有益過ぎて、開発の為され得ないまま秘境になっているのだった。

快癒処女林をかき分けかき分けして歩いて行くうちに、六人の肌に虫が入った。それほど有害な虫ではなかったけれども、そうとは誰も知らなかったから、ちくりと痛むたびに彫刻刀でほじくり出し、みんなあちこち点々と血がにじんでいた。

なにかの草でいつの間にやら頬や額が切れていた。傷は思いのほか深かったけれど、首から上にしかなかったので、そうとわかってからはかがんで歩いた。

みんな一度は擬態苔を踏んで岩場を滑り落ちた。手を取り合って引っ張り上げたり押し上げたりしながらずっと進んでいたが、時々ヒューズが飛ぶようにへたばった。六人で一つの生物になったように、それはまったく同時に起こった。

へたばって、軽い錯乱が過ぎ去ると、すべてがどうでもよくなった。疲労が快楽になって来ると、いつまでも歩き続けたくなった。時々ハッと理性的になると、無理矢理にでも休憩を取った。

休憩時には、弟や妹のたくさんいる八代井が、その時となりに居合わせた人を誰でもかまわず引き寄せ、豊かな乳房に休ませて頭をなでたり、肩に腕を回して頬を舐めたりして慰めていた。

定期的に知明が学級長独特の訛りを用いて、傷をこしらえるなよと注意をうながした。森の黴菌が入ったら御仕舞いだからな……。

ふとたいへん古い貯水池があり、門柱に刻まれた文言にいわく「飼育不能に陥った大型外来魚は河川に放流するなかれ万策講じて為す術なき場合にはこゝへ放すべし」。見れば水の干上がった粘土の上に吹きさらしの巨大な骨が山積みになっていた。

天から降るように理性崇拝抑止放送が流れていた。

――木の上で逆立ちをしたら、自分を丸呑みにすることができる、たいへん食いしん坊な楽器とはなにか?……

 

ぼろぼろに老朽した温泉宿にたどり着いた。中を覗いてみると、虫や植物や無数の菌類が栄えていた。

腐り落ちた廊下を進み、建物をくぐり抜けると大昔は露天風呂だったらしい所に今もそのままお湯が溜まっていた。

六人は湯加減を確かめると、裸になって入浴した。ひじょうに高価な葉巻の煙に浄化され、兵隊に追われ、森の中を歩き続けてたいそう覚醒している少年少女は、お互いに恥じらう気持ちも、なんらの生理的反応もなかった。

途中からいちいちほじくり出すことをやめていた、あちこちの肌にもぐり込んだ虫が、残らず死んでお湯に浮かんだ。とりわけ臍と股間からうじゃうじゃ浮いた。後日に賀谷が、この時骨髄から一族代々の晩年に発症する遺伝病が虫と一緒にお湯へ染み出し、それに伴うなんらの副作用もなかったことを明け方の夢の中で悟って、起きると同時に忘れた。

広やかなお湯の真ん中に岩があり、なにか大きな鳥の巣の崩れたものが乗っていた。宿の前に倒れて色々なものの温床になっていたヒノキの匂いが回り込んで来て、お湯のおもてに漂っていた。

少し熱過ぎたから、知明が端まで泳いで行って、水門の錆びたバルブを回すと、すぐとなりに流れている川の水が流れ込んだ。

川では、温泉の湯がかすかにもやもやと漏れ出していたその地点に雷魚やナマズや鯉が密集し、その姿はどれも異様に肥大していた。それらが水と一緒にお湯の中へ流れ込んで来、巨大な魚たちはみんなゆっくりとのたくったのち硬くなって死んだ。

浮かんで漂う死骸を少年たちが抱きかかえて洗い場に押しやった。死骸は洗い場の玉石敷きの上をごとごとと滑って行った。

湯上がりに着た学生服は嗅覚上のよそよそしさを感ずるものの、若人の甘みが勝つやら郷愁に慰むやら、どちらかというとこころよかった。

最も乾燥した部屋を探して食事にした。森の屋台で買ったハンバーガーやフォカッチャは通学カバンの中でぺちゃんこになっていた。

しばらく温泉宿に隠れ住むだろうから少しずつ食べて温存しておきたかったけれど、あたりには大人が立っているくらいの高さに育った七色の黴の塔がいくつもあったので、その場で全部食べた。

最後に女子連が買い込んだナタデココを食べ終えると、賀谷が服を脱いだ。それでみんなも脱いでみると、どの腹も過食のために風船のようになっていた。蛙だ蛙だと言い合ってむやみに笑った。

ひじょうに高価な葉巻の煙が抜けたあとの、どこまでも冴え切った意識は後々のことを考えなかった。心から食事を楽しみ、満腹に苦しむだけだった。

瓢藤と向坂がしかめ面で吐き出したピクルスや知明と穂野が残したパンを、賀谷がかき集めて平らげるのをみんなぼんやり眺めていた。

食べ終わった口元を八代井が拭いてくれるのを賀谷が嫌がるので、みんなで押さえつけて拭かせたりしつつ。追跡の気配はまるで感じなかったけれど、追われているはずだった。ガラスのなくなった窓から外光のにじむ薄明るい部屋で、みんな足を投げ出して座っていた。向坂が、当人には劣等コンプレックスな掠れ声で以て天に悪態をついたけれど、キゲンはいいらしかった。

我々は秘境にいる。と知明が確認した。みんなはうんうんうなずいた。

「フェンスから外へ出ると兵隊に捕まるし、出るまでの途中でまた虫が肌に入るだろう。ここに潜伏するとしたら問題はあんまりない。黴が肺やら脳やらに悪いかもしれないから掃除しよう。食料は川にいる天国太りした魚が簡単に獲れるから心配いらない。葉巻はあと五十八本ある。――時効までどれくらいかかるか、また時効になった時にどうやってそれを知るかだな」

そうして一本を回しみしながら考えてみると、考えるほどに問題はなくなって行った。瓢藤が三割ほど眠りながらつぶやくのにいわく、しとしとと変化して行く世界の片隅で、六人でじっとしていることは無上に楽しく、頭も心もぬぐったように晴れている、先ほどまでの透徹な意識とは別の部屋に入室したらしいが、とことん目覚めた意識というものは、一人の人間の中に、全部でいく部屋あるのだろうか……?

それから瓢藤は計算して答えを出したが、彼にはラジオ番組で賞金を取った実績があるので、みんなその計算を信じた。彼いわく、とことん目覚めた意識は全部で十六部屋あり、大きさや密度の差はまったくないのだそうだった。

「ところで、」と賀谷が言った。「お前の正夢の、つまり俺たちの旅の最後はどうなるんだい」

瓢藤は答えて、

「まあそれは解釈次第みたいなもんだったよ。途中で違う夢に変わってもいたからな。だけど、それもひっくるめてのことだった」

「――そんなもんでじっさいに現実の問題をぴったり解きゃァがるんだからなァ」

「ああ。向こうから来るものを我知らず待ち、無数の罠には気づきもせずに、連れて行かれるものに我知らず従い続けるのがコツだな。数学に限らず、たいがいのことはさ……」

 

まったくとつぜん、一人の男が現れた。

廊下からひょっこり顔を覗かせて、しばらく値踏みするように六人を眺めていた。知明が礼儀正しくあいさつすると、男は軽く会釈を返し、剣呑に腰へやっていた手をゆるめて胸元に組んだ。

自分は地下通路を通って来たのだと言った。それからくわしく説明するのにいわく、一部の賞金稼ぎと、一部の逃亡犯のあいだにだけ行き交う伝書鳩のニュースで以て六人のことを知り、秘境に逃げたらしいから自分の知っている所にひとまず来てみたらば、一発目で当たったのだそうな。

今ごろあちこちで外した野郎がごろごろいるよと言いつつ煙草を取り出して満足そうに一服吸った。

君たちはこれから自分と一緒に来るように。地下通路を通してあげるから。そうしたら留置場へ引き渡されるだけで、秘境の中から出て来なかった事実により、入らなかったことになって、不法侵入の罪は現じ得ず、看板に書かれていたような惨事にはならない。

「なに賞金さえもらえりゃ、君らの行いに倫理的の興味はない。『罪人つみびとはその罪にありて既に十分に罰せられてある』だ」

六人は承諾して、彼について行った。地下通路はたいそう蒸し暑かった。

オートバイに大きな鉄板が鎖でつないであった。発育豊かな八代井が選ばれて男の後ろにまたがってしがみつき、残りの五人は鉄板に乗って引きずられる格好でデコボコした地下通路をゆっくり進んだ。

しばらくオートバイの反響が耐えがたかったが、やがてあちこちの恒久灯の淡い光で上にも下にもひじょうに見晴らしのいい鉱山の内部に出ると轟音は弱まり、がたがた跳ねていた鉄板も大人しくなった。

到着した広やかな空洞では、五人の女性が煙の出ない紫色の火を焚いていた。五人の女性と男とは夫婦なのだった。男は名前を木村さんといった。木村さんの奥さんたちはみんな顔や体格がひじょうに似通っていたけれど、血のつながりはないらしかった。

知明たちに逆らう意思のないことを確認すると、拘束することもせず、木村さんは奥さんの一人にコーヒーをいれさせた。それからひじょうに高価な葉巻はどのみち留置場で没収されるから譲ってくれないかと言った。工夫して持ち込んで牢名主や看守を買収するのもよかろうが、そんなふうに色々と頭を働かせて困難を打開するのも面倒だろう?……

知明は仲間を見回して同意を得ると、木村さんにすべて譲った。地上ではもう日が暮れるころだから明朝留置場へ行くことにして、木村さん夫婦と知明たち六人は、あんがい標高が高いらしい地下の空洞で一晩、ひじょうに高価な葉巻をくゆらして過ごした。

奥さんの一人が大量の楽器のコレクションを見せてくれたので、触らせてほしいと頼むと、構わないと言ってくれたから六人は大喜びで触らせてもらった。薄明るい空洞は音がたいへん澄んでしんみりと響いた。

葉巻の煙のために研ぎ澄まされた集中力がいつまでも続く。瓢藤と賀谷と知明のジャムセッションするブルーグラスの速弾きは、三人の指先がぱっくり割れてじとじと濡れても延々と奏でられた。

思い思いにクラシックを弾きまくっていた八代井と穂野と向坂は、楽器の所有者の奥さん――楓さんといった――に、たいそう値打ちのあるグランドピアノが別の空洞にあるからと連れて行かれたきり、しばらく帰って来なかった。

ひじょうに高価な葉巻の煙が隅々まで行き渡るころ、知明と賀谷と瓢藤は木村さんから奥さんを一人ずつ拝借していた。

女子一同が消えた方角からグランドピアノを演奏する音はいつまで経っても聞こえて来なかった。

「じつはあっちにゃ、とってもきれいな坊やがいるんだよ」と木村さんが言った。

その坊やは、早い話が馬のような賠償宇宙人なのだと、知明の下敷きになっている奥さんが知明に教えた。それも後天的の、人為的の馬なのだ。馬のようにするためには、幼いうちから飼育して、体の発育が一段と進む頃合いに他の主要な突起物を剪定したらよりよく育つのだと、瓢藤にからみついている奥さんが言った。

「女の子たち、今ごろ股から真っ二つになって、宇宙の彼方に放り出されているころね。臍の裏あたりの感覚が叩き起こされて、これを機に逆立ちが上手くなるわよ。わたしたちもみんなそうだったから」

奥さんたちは現在、軽業師をしているのだそうな。知明は詳細を聞きたかったけれど、なにしろ自分自身それどころではなかったので、遂に聞きそびれた。

 

翌朝、六人は朝食をたっぷりと御馳走になった。夕べ遅くに戻って来た少女たちは、死んだように眠っていると思うととつぜん飛び起き、気絶するようにまた眠ったが、朝になるとなにも覚えていなかった。

奥さんたちと抱擁を交わして別れ、木村さんにジープで送られて留置場に引き渡された。森のように蔦の這う煉瓦造りの古い大きな建物は、中に入ると壁がひじょうに高いためか、空にばかり目が行った。

看守が入れ替わり立ち替わり奥へ案内した。途中で木村さんは小さな塔に呼ばれて、それでお別れだった。知明たちは木村さんと抱擁を交わして別れ、看守について行った。

葉巻の煙がどこにも残らず呼気や発汗で退場し、どこまでも素面な六人は、なにも憂慮せず執着せず歩いて行った。

やがて男女で分けられた。八代井と穂野と向坂は小さく手を振り、婦人看守に連れられて行った。知明と瓢藤と賀谷は、どこか内臓の悪そうな、やつれて黄色い顔をした看守について行った。

窓が異様にまぶしい、真っ白に塗られた二人部屋へ、一人ずつ別々に入れられた。知明の部屋には、端正な顔立ちの、蝋のような体臭をした青年が座ったまま眠っていた。

食事は玄米のパンとなにか甘い根菜だけだったけれど、量はずいぶん多かった。運動の時間と入浴の時間が異様に多くあったから、誰も運動も入浴もしていなかった。

自由時間になると、知明と瓢藤と賀谷は固まって座っていた。

聞き及んでいた通り新米虜囚は先輩たちから残酷な扱いを受けた。すなわち、自由時間のあいだは賠償宇宙人の少女が人数分与えられるのに、三人の元にはいつまで待っても回って来ないのだった。

三人は指一本触れさせてもらわれず、隅に座っていた。男たちの息と湿気た体臭と、もっと内部から出たもののにおいが充満する中、ふと目の覚めるようなかぐわしい匂いが漂って来るのをよんどころなく嗅がされつつ、諦め切って無表情にまばたきしていた。

知明が壁にもたれかかり、同じ姿勢の賀谷と瓢藤に挟まれて、そこここで虜囚に自由時間されている少女たちをぼんやり眺めていると、ふいになにかぴんと来た。視野の端のほうになにかちらりとまぎれ込んだらしかった。そちらをじっと見たけれど、けっきょくよくわからなかった。

あちこちでぴこぴこした自由時間が為されていた。人間にしては美し過ぎる、神々のように整った顔立ちに、ずっと年上のような――人間の成熟がもしも途中で衰えに向かわなかったならば、六十や七十くらいでようやく達せられそうな――身体つきの少女たちの中には、しかし幼いくらいなのもいて、そこには誰も寄りつかず、彼女たちは仕方なしに自分で自由時間していた。

眺めていると、少しずつずれて行く大勢の自由時間のある隙間に、知明は先ほどぴんと来たものの正体をとらえた。

それは前に保健体育の授業で勉強した教材の面影のちらつく賠償宇宙人なのだった。けれども、やっぱり別人だった。目元と鼻が似ているらしい。まったくそれだけのことだった。

向こう端では、賠償宇宙人の少女たちの中でもずば抜けて器量が良く、あまりに高尚過ぎて正視に耐えない数人が壁に穿たれた穴へ向こう向きに腰まで突っ込み、下半身だけになって立っていた。そこには誰もいなかったから、三人はそちらへ行こうとしたが、先輩たちに阻まれた。それで戻って来て、また隅に座り込み、壁から突き出て立っている遠くの下半身を眺めていた。

それはだんだんそういう生き物のようだった。やがてしゃべっているように見えて来た。読唇術で以て傾聴するに、小橋が消える直前に言っていたようなことが連想させられて、知明はあわてて目を逸らした。

なにもやることがないから、ぼそぼそと無駄口を叩いた。ふと瓢藤が軽い舌の発作に襲われて、お、おおお、俺たちが、あ、新しく入って来、来たことで、こここ、この残酷なし、仕打ちから、のの逃れた、ももももも、もと新米虜囚は、誰だだろうな……?

誰なのか見渡してみたけれど、けっきょくわからなかった。

その晩、昼間にはとりわけ熱心に自由時間していたルームメイトの、深い、いくぶん苦しげな寝息を聞きながら、知明は猛らせるだけ猛らせられたものの絞殺に難儀した。

それで、睡眠の授業を思い出している。一切のわだかまりや想起・連想を意識の戸外へ放擲すること。脳髄の電気信号を宇宙へ連結せしめて緩慢に塗り潰して行くこと。脱力的に忍耐し、あの他律的な出走をひたぶるに待つこと。大いなる無目的へ意志の総力を挙げて従うこと。云々、云々……。

知明は眠ったことに気づかないまま、先ほどの少女がやっぱりあの日の教材で、移民同士で少々乱暴に自由時間されている、そこへ彼方から駆けて来た小橋が突撃し、奪い去って行くという幻を寸分たがわずくり返しくり返し、無限に思われるほど見た。やがて自意識の操舵者が交代したらしいと気づいて、気づいたことを忘れた。

昏睡に近いほど熟睡し、明け方には眠りが浅くなって、右わき腹に穴を開けて終生拳を挿し込んで暮らす一部の移民の暮らしを限りなく主観的に体験している。こめかみあたりに気が遠くなるような不快感を伴って、糸を引くピンク色な寝小便をした。

そうして目覚めたが、寝小便に飛び起きるまでの一瞬間、遠い子孫の記憶とも言うべき印象が脳裏を駆け抜けた。すなわち、一帯がとつぜんくるりと引っくり返った大地に飲み込まれ、列島各地次々とその通りになり、時を経てこの天体が翼の生えた人類から違う名前で覚えられているということ。翼の生えた人々は大きな地震が起きるたびに上空へ避難するため、上空ではあちこちで予期せぬ同窓会が開かれるということ。そこで交わされる思い出話の中には、なにか僻遠な記憶からの謎の思い出が混ざっていて、その中には今の自分たちに馴染み深いものもまぎれ込んでいるということ……。

視野に七色の稲妻が走り、あちこちで黒い火花が炸裂する房の中に目覚めた。ルームメイトは軽いいびきをかいて眠っていた。

どこか遠くで理性崇拝抑止放送が流れている。

――数を1、12、123、1234、12345……というふうに、1から始めて一つずつ増やしながら数える老人が、数えながら時計の中を反時計回りに歩いていると、ある数字の所でふと若いころの自分に追いついた。その数字とはなんであるか?……

 

罪名は「悪質な財産遺棄」であると言われた。倫理上のペケであり、社会に対する重篤な落書きである云々。

しかし価格変動の豪儀な罪になってしまいますがどうしましょうか……誰かわかりますか今の相場が?

いやこの地域ではずっと一定なんですよ。しかしそれではあまりにむごいことになってしまう。若者は貴重な消耗資産ですからな。

じゃあ一番軽いので行きましょう。軽いの。無罪。

陪審員席から鉛筆を走らせるコツコツという音ばかり響く簡易裁判が閉廷し、六人は釈放された。けっきょく拘留期間は裁判を待っているあいだの十一日間で、そのうち新米虜囚だったのは最初の五日間だった。釈放の際には体の一部を入念に洗浄され、ペニシリンのカプセル剤を賜った。

知明と瓢藤と賀谷が門衛とコイン賭博をしながら待っていると、遅れて女子連が出て来た。みんな健康そうだったけれど、勝ち気で小柄でボーイッシュな向坂だけ少し変な歩き方をしていた。八代井と穂野がさりげなく両脇を歩いていた。

門衛と握手して別れた。合流した六人はみんな左手の甲に彫られた長尾鶏の刺青が日光にざらりと反射していた。ここの留置場の入れ墨は無形文化財になっておるのだが文部科学大臣の意向によってデザインが変転してな、先月まで皇帝ペンギン、来月からナウマン象だったから長尾鶏のあいだでよかったなというのは門衛が教えてくれたことだった。

返却された学生服は柔軟剤をたっぷり使って洗濯され、丁寧にアイロンがかけられていた。着用していた囚人服は持って帰っていいとのことだったので記念に頂戴した。

《夾竹桃街道》と標識の立っている石畳の道路を歩いて行った。円錐形の公衆便所がひんぱんにあったが、向坂はそれがあるたび駆け込んだ。毎回八代井と穂野が付き添った。

ある時、公衆便所から出て来た向坂に瓢藤が大丈夫かいと尋ねると、向坂はにこっと笑って、二度と触れるなと答えた。

まじない師の屋台があったので、穂野が覗いて軟膏のたぐいはありますかと聞くと、ひじょうに良質なものを商っていた。

留置場に労働や工作の時間はなかったが、刑の一環として『莫迦へのご褒美』と銘打たれた金銭を受け取らされていた。金銭の出どころは、先達がこうしてキチンと罰せられることによる後進への抑止効果から得られるはずのうんぬんかんぬん。けれども良質な軟膏はひじょうに高価で、とても手が出なかった。

安いものはありませんかと言って、店主に向坂の症状を話すと、魔女のような風貌をした店主は事情を察した風情でうなずき、ひじょうに高価な軟膏の、ごく少量を無料で譲ってくれた。塗って三十分ほどは強烈な副反応が出るから、とくに若い異性は近くに置くなと注意を受けた。穂野はねんごろにお礼を言うと押し頂いて受け取った。

それから穂野と八代井は向坂を連れて茂みの向こうに行き、四十分間帰って来なかった。やがて三人とも大いに火照った顔をして、濡れた前髪を額に垂らし、くすくす笑いながら帰って来た。

「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」

と、しゃんと背筋を伸ばして立った向坂が言った。

 

一帯の物価は異様に安かった。屋台で串焼きの肉を買い、なんの肉だかわからないけれども美味しいのでどっさり追加注文して、旺盛に食べながら歩いていると、ふと通り過ぎる馬車馬の首元に景色が反射するのを六人は目撃した。

とっさに目を逸らしたけれど間に合わなかった。

網膜が焼けたように視野が赤茶け、次いで白んで見えなくなり、六人は手をつなぎ合って道の端へ移動すると座り込んだ。御者が馬を停めて謝罪して来たので、知明が目をつむったまま声のするほうへ手を上げて、どうぞお構いなくという意味になるよう振った。御者はその後もしばらくいたようだったが、やがて蹄と車輪の音が遠ざかって行った。

知明がだんだん回復して薄まって行く焦点の眩しい焼け焦げを透かし見る視野に、このところマシーンでトレーニングをしていない賀谷の筋肉が少し小さくなっているようだった。肩が狭く、首が細くなり、しかしベース型にごつく発達したように思われる輪郭はそのままで、つまり顔だけ大きくなったようだった。

〽知らぬ地域の常識に、蹴ッつまずいた旅がらす、ニワトリ彫られて帰りゃいいのか起きりゃいいのかカァコケカァカァコケカァカァ……と瓢藤が目をつむったまま歌っていた。

ところで馬車馬の首に反射が起こったということは、こちらの背後にそういう光源があったらしいなと知明が言うと、みんな目をつむったままこくこくうなずいた。なんだろうなと言うと、みんなしんとしていた。

瞳の色が薄くて茶色っぽい穂野が最も回復に時間を要した。彼女がすっかり見えるようになるまで、みんな手をつないだまま座っていた。

時々通り過ぎる人々は、そんな六人を見てもとりわけ大した驚きもないらしかった。穂野が見えるようになると、一同はのろくさと立ち上がり、西に向かってふたたび歩き出した。

軟膏を塗ってから二時間以上経っていたけれど、念のため少年たちが向坂に近づき過ぎないよう八代井と穂野は気をつけていた。

その理性崇拝抑止放送はすぐ頭上から聞こえるように思われた。

――これは理性崇拝抑止放送などではない。最初からそのようなものではない。当初の自称が目論んだのは目的でも段階でもない。この否定が目論むのは否定ではない。

――上から見たら病。下から見たら老化。水平に見たら色とりどりの感情。昨日は、上から見たら怪我。下から見たら破産。水平に見たら絵のない走馬灯。おとといは、上から見たら不在。下から見たら不在。水平に見たら四季の花の絵の走馬灯。明日は、三日前と同じ。それはなにか?……

 

 

 

2025年7月3日公開

作品集『猿の天麩羅』第2話 (全13話)

© 2025 尼子猩庵

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

この作者の他の作品

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"猿の天麩羅 2"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る