猿の天麩羅 5

猿の天麩羅(第5話)

尼子猩庵

小説

13,450文字

 不条理な大幸運に飄々と忍従する中学生少年少女たちのロードムービー。

 異世界にして過去世。未来にして神話時代。下劣にして荘厳。地獄にしてユートピア。

 図書館にはなく、本棚にはある。人生で二度捨てる。

※第13回ハヤカワSFコンテスト二次選考落選。

 

 

 

軽トラのラジオをつけると

――七色のカンバスに、裸の黒人が、無数の円を塗っている。無数の円は、しだいに模様を呈し始める。雨が降り出すと、黒人はしだいに、猫になってゆく。カンバスはなにになってゆくか?……

これに賀谷が答えようとしたので、三人はあわてて賀谷の口をふさいだ。賀谷はハッと我に返り、運転に疲れ過ぎていたと反省した。

賀谷のみならずみんな座り続けのために疲労困憊していた。ここらでいったん「尻休め」しようと、偶然前へ停まったクリーニング屋の店先に求人広告が貼られていたので、穂野と八代井がその場で就職し、やがて高価なスーツやドレスを持って戻って来た。お尻も回復していたので、またぎゅう詰めになって座席に座った。

走り出した軽トラの中では、みんなぴったりサイズの合ったフォーマルな装いであった。

街道の名前が二つ変わるころ、ガソリンがなくなり、近くにガソリンスタンドはないという標識を読むと、たまたまそこを歩いていたひじょうに小柄な浮浪者へデコ軽トラを譲った。浮浪者は女子たちの着ているドレスもくれなければ譲り受けないと言ったので、四人は晴れ着も譲った。

歩いていると街道が運送業者の職場にさしかかり、にわかに騒がしくなったので道を逸れて住宅街に入った。家々の間隔がたいへん長く、平屋ばかりで空がたいそう広かった。住宅ではなさそうなドーム型の建物がやたらと目についた。

ひんぱんに《ルパナヨオ》のための看板があったけれど、ルパナヨオというのが「諸事情によるやむなしの放浪者」、あるいは「当地の慣習に疎く、そのことが当人の危険につながり得る人」を意味する語句であることはしばらくわからなかった。それが方言なのか外来語なのかは最後まで不明であった。

看板にいわく、ドーム型の建物は降灰時の避難会館なのだった。気流の関係で周囲一帯は遠方の数十の火山が噴いた灰の集結地となっており、ちょうどそれを読んでいる時に鳴り響いた耳に心地よいメロディは降灰警報のサイレンなのだった。

知明と賀谷が、この時看板を読まなかったら灰は飛んで来なかったのではなかろうかと議論するのはずっと後日のことだった。

四人は最寄りの会館に駆け込んだ。

ドーム型の壁から天井一面に幻想的な空が描かれて、見事な量感の雲の陰から様々の幻獣が覗いていた。画家のサインが壁の下方の隅に書かれていたが、そのミドルネームがたいそう卑猥な駄洒落になる落書きが書き加えられていた。

会館は公園の上に建てられたらしく、一面の芝生は枯れていたけれど噴水の池やブランコやジャングルジムがあって、あちこちに避難中の子どもが取りついていた。

数人の悪童たちが「水飲み場のな――給水タンクにな――下剤を入れて来たぜ」と話しているのを小耳にはさんだ。降灰警報は継続しており、悪童たちは便所に注目していた。時間が経つにつれて避難者が増え、水飲み場を数人が使用したが、そのうちにちらほらと便所に行き始めた。

ショルダーバッグを提げたサラリーマンふうの男性が便所へ駆け込むと、悪童の一人がついて入った。あのおっさんがショルダーバッグを扉の裏に掛けるかどうかだなと、知明と賀谷が話していると間もなく悪童はショルダーバッグを持って出て来た。そのまま仲間たちと降灰のピークに達した薄青い世界へ駆け出て行った。

少し遅れてサラリーマンふうの男性が出て来た。下腹をさすりながら、しばし迷って、しかしショルダーバッグを取り返すべく、これも降灰の薄青い世界に駆け出て行った。

四人は水を飲まないようにして、隅に固まって座っていた。

やがて便所には悲惨な行列が出来た。

 

ふたたび一帯に響き渡るオルゴールを合図に人々は表へ出た。四人は、ずんぐりしたお爺さんから話を聞いている最中だったが――「近ごろはこの一帯も衰弱してな、なにもかもが廃れてしもうた。昔、都市の資産家どもの実験で、多額の援助を受けた流れ者たちが集まって、なにもない平野から出発して町を作ったんだ。だからルパナヨオには優しいのさ。ともあれ開拓の苦労は並大抵ではなかった。それでも日本一幅の広い国道を敷いてからは大いに栄えたものでな、数々の偉人を近代史に送り出したものだった。今では亜細亜中の灰を集めるだけで、この土地を新たに踏む人間も君たちのようなルパナヨオばかりさ。それでも私はね、」――オルゴールを聞くなりお爺さんをそこに残して外へ駆け出た。

太陽はそれほど傾いていなかったけれど、灰のためにあたかも真っ赤な夕映え空だった。ストライキ中のイミニアンがすなわち忙しく労働しているトラックが通りかかったから、四人はヒッチハイクして乗せてもらった。

けれども賀谷が運転手と剣呑な雰囲気になり、降灰区域を過ぎてすぐに降ろしてもらった。

空は晴れ渡り、ぬぐったような青だった。降灰区域は、入る時には気がつかなかったけれど、出る時にはでかでかとした忠告の看板が目についた。誰しも入る時には気がつかないのではなかろうかと、知明と賀谷が議論するのはずっと後日のことだった。

たいへん幅広な街道を歩いて行った。運搬業者の職場が遠のいて閑散としていた。

やにわに現れたサーフショップと釣具店のあいだに大きな古着屋があったので、学生服もずいぶんボロになっていた四人は立ち止まり、しかしけっきょくは、そのまま通り過ぎた。

垢や土埃は安心すると知明が打ち明けると、みんな賛同した。

フェンスを乗り越えて茂みの中に、なんの用途か円形にアスファルトの敷かれた清潔な箇所があったから、そこに今夜の陣を張った。

ウィンナーだのトウモロコシだの焼いて夕食を済ませ、そのまま焚き火を見つめていた。

賀谷が、我々ルパナヨオがいつかなにかのはずみで帰郷した暁には、もう学業には戻れまいから、そん時ゃみんなで商売でもやろうと言った。

――そうだなァ、地球に火災保険をかける保険屋でもやるか。全焼した場合のみ支払う約束でな、一人くらい契約者は出ると思うぜ。大金持ちの酔狂が一人いりゃァ、俺たちみんななんとか食ってけるんだ。どうだい知明。

賀谷は目をきらきらさせて、頭の中で考えていることの端々に、自分でうなずいていた。

――保険会社を起こす資金源だけどな、著作権だか特許権だかがある今のうちにやらんと。新しい柄を考案するなんてどうだ。閃きだけで億万長者になれる仕組みは、この世にまだ残ってるんだから、それで汗を流さない手はないぜ。

つまりドットとかチェックとかアーガイルとかな、それくらいのレベルの新しい柄を考案してアパレル業界に売るんだ――そうだなあ模様は瓢藤に考えさせよう。数学の天才だから柄にも強そうだ。なあ知明、いい案だろう……?

 

翌朝、西へ向かって歩いていると汚い手書きの看板が立っていた。苦心して読んでみるに、今しがた歩いて来た道はかならずなにか物を落とす道である、と書かれてあった。

みんな持ち物をまさぐったけれどなにをなくした気配もなかった。かならずなにか物を落とす上に落とした物を忘れるのだろうか? 先達が落として忘れた物がなにか落ちていたわけでもなかったが。

前方にじっと目を凝らすと、ずいぶん先にも同じ看板があるらしい。四人は持ち物を大事に抱えて歩いた。けっきょく看板は五つあり、通過し終えた四人は毎度なにを落とした様子もなく、ふり返って確認する限りでもなにか落ちている様子はなかった。

ネオイミニズムに耽って一切の文明の利器を排しつつ歩いていたけれど、ある時知明が衝動的にタクシーを停めた。他の三人もまた同じ衝動の内部にあったので知明が動かなくとも誰かが同じタクシーを停めていたはずだとは後日判明したことであった。

然らばその場合、最後に動いたはずなのは誰で、世の発明者は誰を押しのけて発明者になり、人類はなにを押しのけてここまで来、世界はなにを押しのけて存在し、物の限度はなにを押しのけて斯く在るのかと議論するのはさらに後日の明け方の夢であった。

停まったタクシーからドライバーが降り、後部座席の扉を開いて女子たちと賀谷を乗せ、知明に助手席の扉を開けた。客が乗り込むと丁寧に閉め、後ろから回って運転席へ戻るそのあいだに知明はシフトレバーのとなりへ束にして留めてある紙幣を下から数枚引っこ抜いた。運転席に座ったドライバーにすべて渡して長距離運転をお願いするとひじょうに喜んで発車した。

よさそうな枝道があったところで《棗椰子街道》を離れ、どことも知れない鄙びた土地へ向かってもらった。

途中から道がずっと満開な蔓薔薇の茂るアーチに囲まれていると思うと、急に途切れた。さてはどなたか皇族様のおん地所であらっしゃったのかしらとドライバーは独りごちた。

山道が切れて町に出、また山道に入り、町に出、山道に入りをくり返すうちに、もうじき一種の突き当たりに行き着きますよとドライバーが言った。

彼は常田さんといって、よくしゃべる人で、ここまで来るあいだに四人とはすっかり打ち解けていた。かなり開けっぴろげな身の上話や、仕事柄遭遇する珍妙な出来事を問わず語りにしゃべりつつ、時おりラジオをいじくっていたと思うととつぜん音量を上げた。

大音量のサイケデリックトランスミュージックに合わせて、一同、車が浮くほど跳ねながら、制限速度を大幅に超えて飛ばして行った。

 

その町にさしかかるころにはとっぷりと日が暮れていた。ここはどうやら激戦地が近いようだと常田さんが言った。激戦地とはなにかと尋ねると、言葉そのままで、一種の突き当たりには珍しくもないですと答えた。

四人はそこで降ろしてもらった。一緒に出て来て、紙幣を勘定している常田さんに知明がお釣りはいらないと言うと、常田さんは全員と握手して運転席に戻り、しばしラジオをいじっていると思うと悲しげなシャンソンで止め、ほとんど目を閉じたまま走り去った。

どうしても入り口が見当たらない公民館に町名が書かれてあったけれど、あまりに写実的な象形文字だったので、どう読むのかはわからなかった。高低ちぐはぐなマンションの五、六棟ずつの塊が点在し、一面に張られた水田が遠近のマンション群の灯りを上下に映していた。水平に浮かべた銀河の上に立ってるみたいだと賀谷が言った。

一棟まるまる誰も住んでいないマンションが、どの塊にも二棟はあった。無人のマンションも廊下の電気は例外なく煌々とついていたけれど、どの扉も窓も厳重に施錠され、忍び込むことはできそうになかった。

かすかに作動音の鳴っている廊下の電気に照らされて、四人は肩をすくめ合った。真上から白々と照らされた四人の顔は、どれも痩せたために影が入り、異様に大人っぽく見えた。

広大な水田を割って縦横に走る道路がひとところ円くふくらんだ小さな公園のベンチに横たわり、いつか屋台で買っていた腹の中でふくらむ薄いビスケットを食べると、泥のように眠った。蚊がいないことに誰も気がつかなかった。かつて蚊の天敵となったものはさらなる天敵に滅ぼされ、その連鎖はさらにしばらく続いて既になんの痕跡も残っていなかった。

朝になるとあちこちのマンション群から自転車に乗った人々が四方八方へ出かけて行った。あらためて無人のマンションを覗いてみるとすべての扉の鍵が開いていた。エレベーターも動いていたから最上階まで行って、部屋々々を覗きながら下りた。どの部屋も清潔で、なにもなかった。

ある部屋を覗いた時に八代井が具合を悪くしたので、四人は急いで出た。賀谷がお祓いのまじないを知っていると言ったけれど、八代井は断った。賀谷は八代井の後ろを歩きつつ、こっそりとなにかぶつぶつやっていた。

蔓草と野鳥に埋もれた無人マンションの中庭にいったん落ち着いた。

知明が全員の荷物を点検し、もっと色々そろえておくべきだったとぼやいた。穂野が地面に並べられた持ち物の中から鋏を手に取ると袖をまくった。八代井も袖をまくって、少女たちは少年たちの伸び過ぎた髪を切った。

八代井が知明を、穂野が賀谷を当たった。少年たちはとりわけ襟足を短くされたことに憤慨したけれど、少女たちは清々しい顔で出来栄えを眺めていた。

人の住んでいるマンションは例外なしにぎっしり空き部屋なく住んでいた。賀谷がどこかの玄関先からワンプッシュ式の傘を失敬して来、例のごとく《カサカギ》を取り出して、駐輪場から自転車を四つ引き出すと、四人は見晴らしのいい一帯を探検した。

あるマンション群の中央のアーケードのスーパーで弁当を買い、電子レンジで温めて、別のマンション群の敷地内にある神社で食べた。それから見果てない水田を割って走る滑らかに舗装されたアスファルトの道路を、かなりの速度で徘徊した。

このたびの自転車はどれもひじょうにスタイリッシュで、高性能な変速機能がついていた。蛙をいくたびか轢いてしまった。ある時、また一匹轢き殺してしまったと思う瞬間すべての蛙が一斉に鳴き、それからしばらく道を横切る蛙はなかった。

やにわに北の森林のほうでうわんうわんと響きが立ったので四人はそちらに向かって漕いで行った。

どこからか流れる放送が森の響きとまじり合い、違う内容になって聞こえていた。

――浮き輪の中で泳ぐ浮力は男か女か?……

 

人々が武装して突撃の準備をしている。

この戦いに勝てば人類は出産能力を取り戻すことができるのだと、地べたに座って休憩している疲れ切ったおばさんが教えてくれた。

「今では人魚どもと賠償宇宙人どもだけが持っている、天然の繁殖機能をさ……」

――あんたがたは、これほど真剣な戦いが現に行われていることなんてつゆほども知らずに生きて来たんだろうがね、責めやしないよ、この私たちだって知らない真剣な戦いが今もどこかで行われていないとも限らないのだからねえ……。

なにと戦っているのかと聞けば、《次の人類》だと言う。

「今はこんな直接的の抵抗ができて、まだ幸せなんだよ。敵を認識もできなくなった時が敗けた時さ。しかし今のところは敗けていないというだけで、当分勝てそうにはない。次の段階がいくつかあるだろう。奴らが肉体上の優位性をさらに高めて、私たちを食糧にし始めたら、戦士たちは自らに毒を獲得する戦術を持たねばならない。そして自ら食われねばならない。奴らが人間を有毒と見なして、遂に食わなくなるまで。そして束の間の平和がやって来たら、ただ惰眠を貪るのではなく、奴らが有毒の人間と無毒の人間を見分ける技術を持つか、戦士を無毒化する技術を持つかする前に次の手を考えておかねばならない。――……もっとも、奴らが次に高めるのが肉体上の優位性ではなく知能上の優位性だったら、もうお仕舞いだがねえ……」

準備していた人々が突撃して行った。休憩していたおばさんも立ち上がり、突撃隊の劇烈な戦いの中で直接の戦闘行為ではなく副次的な事故によって命を落とした人々に限った埋葬の段取りを始めた。

送り返されて来る死体はそうした死体ばかりなのだと言う。きちんと戦死を遂げた死体は、もうこの出産の終わった世界へ流転しないから野ざらしにしていいけれど、運ばれて来る不運な死体たちは、よほど丁重に葬ってやらなければ次はどこへ配属されるやらわかったものではないのだと言いつつ盛んに土を掘っていた。

送られて来る死体を見るに、どれも明らかに直接的な戦死を遂げた人ではないですかと穂野が尋ねると、死体の選別の間違いは、運んで来る者の苦労と危険を考えれば仕方がないことだし、けっきょく関係のないことだからねえと答えた。

新しい突撃隊が準備を始めた。古参兵は一人もおらず、戦士は常に新しいのだと、なにか桶を運んでいる娘さんが言った。

つまりは「その瞬間」がこの土地に永住しているのだと鍋を磨いている老婆が言った。あんたたちもやるかいと言われて、四人は志願した。

名前を記録するため、事務室へ案内された。奥の隅に赤ん坊がたくさん並べて寝かされていた。

四人の名前と出身地を記録している事務員さんの後ろで、二人の若い乳母が赤ん坊たちの世話をしながら話していた。この戦いによって勝ち取られるはずの生殖機能の復活の話題になると、眠っている赤ん坊たちの目が大きく開き、ゆっくりとまた閉じた。

記録が済むと、武器が届くまでそのまま待たされた。四人は所持金をすべて事務員さんに渡して、諸々の運営にあててくださいと頼んだ。

事務員さんはお金を見て、これはそうした判断をする所へ送ると言った。そうした判断をする所がどこにあるのかは知らないし、届かないかもしれないが。よく不明のお金が転送され続けていると聞くから……。

それでもいいですと言うと、受け取って記録した。

事務室へひんぱんに運び込まれる、副次的な事故によって負傷した人々が、女性たちの手当てもむなしく亡くなると、ちょうどその瞬間に事務机の蝋燭の火が揺れたり、なにも泳いでいない水槽を照らしているライトが点滅したり、何語が語られているのかわからない流しっぱなしのラジオが乱れたり、日が陰ったりした。

表で突撃の準備をしている人たちの甚大なる恐怖と一切を即座に肯定して回る巨大な幸福が壁を突き抜けて四人を貫いていた。

「……このままではゆいいつの好機が去ってしまう、早く俺を埋めてくれ」と、一人の負傷者がしきりに頼んでいるのを、若い乳母と看護師さんが外へ引きずって行った。

機関銃が届いたので突撃隊に加わった。一人の看護師さんが追いかけて来て、花火のように戦死できるよう祈りをこめた接吻を、四人の口にしてくれた。看護師さんはどちらかと言えば地味な顔立ちだったけれど、これまでに見た中で最高の美人だと感ぜられた。

突撃隊が森へ向かって駆け足で出発した。

四人は人々を追い抜いて、だんだん先頭に行った。

 

夜、賀谷と八代井は戦友たちと立て籠もった猟師小屋の中で二人だけ生き残っていた。知明たちとは昼間のうちにはぐれていた。

敵として戦っている《次の人類》の姿を拝む前に突撃はいつの間にか同士討ちになっていた。それが《次の人類》の古来変わらぬ戦法なのさ、この堂々巡りを突破するまで我々は永遠に勝てんだろうなと今しがた息を引き取った戦友が言っていた。

「――花火のような戦死から見捨てられた生き残りや遺族らの、激しい感情の渦に打ち阻まれながら、この堂々巡りを続けるだろう。遂に突破した暁には、《次の人類》だかなんだかが、本物かどうかがわかる。あの凄腕の連中が、もしもけちな正体だったら、そうだな……これからは奴らに人類をやらせようぜ。このクソみたいな人類をさ……」そう言って事切れた。

賀谷と八代井、二人ともに同じ幻聴が聞こえた。

――げらげら笑う声の正体は誰であるか? 中古な人類の迷妄が答えていわく、笑い声の正体は、中古な人類の迷妄である。さめざめと泣く声の正体は誰であるか? 中古な人類の迷妄が答えていわく、泣き声の正体は、中古な人類の迷妄である。ぷんすか怒っている声の正体は誰であるか? 中古な人類の迷妄が答えていわく、怒り声の正体は、中古な人類の迷妄である。次に正体を問われる声にいわく、中古な人類の迷妄の正体は誰であるか? ――さあ、誰であるか?……

賀谷と八代井に呈している最も激しい幸福が、互いに因になり果になりして混在していた大火から分離しつつあるらしかった。あまり長引くとふたたび誤謬に飲み込まれてしまうから急がせてくださいと八代井は内なる外部に拝んで祈った。

冷たくなった賀谷の頭を膝に乗せ、八代井はとつぜん了解した。

もうもうと立ち昇って夜空を覆い尽くす黒煙を眩しく照らしている激しい炎に囲まれている大幸福者は、もはや真理をしか感じないこと、もはや感ずるものをしか求めないこと、すなわち求めることがなんでも叶うことを悟らしめられた。

窓が外から割られると、火は猟師小屋の中に滑り込み、室内は朝陽のように明るい。

けれども全力で浮遊してゆく二人に大地のべろべろした舌はもう届かなかった。

――嗚呼、鳥になって飛んで行くのは私たちだ。あれは、賀谷と私だ……。(――※※県※※市在住賀谷龍也さん中学生――友人たちと登山中に滑落し――遺体となって発見――)……数分後(◇◇都◇◇区在住八代井智菜さん中学生――学習塾へ向かう途中、雪で隠れていた側溝へ転落――遺体となって――)……

 

倒れている戦友たちの中に混じり、撃たれたふりをして、知明と穂野が寝ころがっている。

いずれ気づかれて本当に撃たれるまでと、肩をぴったりくっつけ合って満天の星を見上げていた。

澄み渡った星空だった。

穂野が空を指さして話しているけれど、知明は穂野の指ばかり見つめていた。

「たくさんあるなァ」と穂野が言った。「あれをぜんぶ寄ってみるんだから、いそがしいぞ。次はのんびり行こうね。また急いで、こうやって、ばてるといけないから」

「たった一粒でこれだったんだもんな」知明が答えた。「それに、仮にあそこの一粒が、じつは遠くの銀河だったりしたらさらにトンデモナイ数だ。もう、いやでものんびり行くしかないさ」

穂野は知明の手をさぐって握りしめ、

「そんなに悪くないよ、きっと」と言った。

 

 

 

Intermission……

 

 

 

――扇動家の鼓膜が拍手の鉄砲水に溺れるとババロア・メロンは増えるか減るか? 地方出身者が集結して都市の人口を成すとババロア・メロンは増えるか減るか? 地球の電池が八十億年の充電を終えるとババロア・メロンは増えるか減るか?……

翌朝、知明と穂野は歩いて激戦地から出た。背後では新たな突撃が準備されていた。

無事に夜が明けた時、二人はすこやかに眠っていた。疲れ切ったおばさんに起こされて、やんわりと追い出されたのだった。

二人の心は生き成仏したように安らかだった。機関銃を捨てて拳銃を拾い、学生服の内に秘めた。スタイリッシュな自転車はなかろうかと最寄りのマンション群へ行ったら、幼稚園に行く子どもを連れた乳母たちがぞろぞろ出て来るのとかち合った。

乳母たちは二人が突撃した人物であることを悟ると、子どもたちに持たせていた弁当をそっくり与えてくれた。それはたいそうな量だった。持ち切れないでいるのを見て、乳母の一人がトートバッグをも与えてくれた。

二人は乳母たちの出て来たマンションに入り、変速機能のある自転車にそれぞれまたがった。そうして駐輪場を出ようと思った矢先、鍵の刺さったままなスクーターがあったから、そちらに移った。

知明が運転し、穂野は知明の足のあいだに荷物を抱えてしゃがみ込んで、顔を横から出して前を見た。

町はずれに小さなあずまやがあったので、そこで弁当を一つ分け合って食べた。

それから西に向かう白い林道を進んだ。滑らかに舗装された石造りの林道はずいぶん長いこと続き、誰ともすれ違わないまま弁当を二度食べた。

公衆便所も休憩所もないので用足しもそのへんで済ませた。

道端で眠った夜、知明は林道をいつまでも進んでゆく夢を見た。夢の中では空は連日雲が垂れ込め、薄暗くなったり薄明るくなったりするばかりで夜とも昼ともつかず、道はひたすら白々と浮かび上がっていた。

目覚めた時、穂野がいなかったので、知明は現実と夢との境界を明確にしようと持ち物をまさぐった。そのうちに穂野が濡れた下着を持って戻って来た。向こうで絞って来たのだと言った。

なぜとはわからないけれど、そろそろそんな気がしていると、果たして森林が途切れ、見渡す限りの平野に出た。

硬かった空気がいっぺんに軟化したらしかった。見果てない湿原の中央を黒々としたアスファルトの道が、これまでの白い林道から継続してまっすぐ彼方まで伸びていた。

スクーターはメーターにいわくガソリンが底をついてから半日ばかり何事もないかのように走っていたけれど、林道を出てからはさらに調子が上がるらしかった。

アスファルトは見るからに敷かれたばかりで濡れたように光っていたけれど、前にも後ろにも人っ子一人いなかった。

ふいに看板が現れて《離れ石狩》と地名が書いてあった。

じめじめしていた一帯もやがて青々とした草原になり、後ろに森林が見えなくなると草原と道路と空の他にはなにもなくなった。

突起物の一つもない平らな大地に立つのはなかなかの恐怖で、ガソリンの不可思議なふんばりが尽きるまでに大平野を抜けられるかどうかわからなかったが、二人は急がなかった。

急がない限りスクーターはいつまでも平らかに走り続けるということが今の二人には明白だった。

 

神の声が降っている。

――その部屋はキレイに片づいていた。机と椅子とベッドがあった。けれども本当は、この部屋にはもう一つ、家具があったのである。私が足を踏み入れた途端に消えたのである。いったいなにが消えたのか? ヒントはない。この放送は神の声ではない……

日が暮れるころ、最初はあやしい点に過ぎなかったのが、近づいて判明したことには、草原の中に一軒の壊れかかった家が建っているのだった。

知明はスクーターを停めて道の端に寄せた。静かに停止したスクーターにもう一度エンジンがかかるかどうか確かめてみることはせず、二人は草を踏みしめて、壊れかかった家を訪ねた。

家には若い僧侶が住んでいた。案内された裏庭には年老いて立っているのもつらそうな、痩せて皮のだらだらと垂れた象がいた。僧侶は上田と名乗り、象は「錆び」と呼ばれていた。

弁当箱を一つ渡すと、上田さんは少量食べ、「錆び」に残りを食べさせた。双方、見るからに餓死する寸前であった。

それから上田さんは先に食した食物の耕作を始めた。すなわちひび割れた壁に向かって結跏趺坐し、しばらく黙っていると思うとおもむろに口を開いた。

「自問にいわく、人類が遂に蒸留されるまでには、あとどれほどの醸造が必要であるか。

自答にいわく、地球という雛が、さらにもうひとつ目を開くことをいまだ拒み、殻の鈍角を数え続けている以上、どのみち破裂するほど膨張もせず、萎み切るほど収縮もしない。

自問にいわく、深度の及ばぬ虚空にふやけ切った鳥は、ふたたび大地に降り立てるか。

自答にいわく、宇宙というオタマジャクシが足を生やす時を待つ蛇のよだれを本能に蔵して久しい我々は、原初をいかようにも覆せるが、その権利は行使しないあいだだけに限られる。

自問にいわく、未来の陰茎が過去の膣に収まる時、時間の煙草は無傷の肺を保てるか。

自答にいわく、自由が強制されるという羊毛を刈ることが可能になる時、羊はどこにもいない」

そういうふうに一の門が開かれ、二の門、三の門とは続かずに、行きつ戻りつ、飛ばし飛ばしにじつにいくつ目の門まで開かれたのか、上田さんはとつぜんふり返り、立ったままだった知明と穂野に座るようすすめた。二人はふたたび壁に向かった上田さんを見つめつつ、寄り添って座った。

穂野が手を合わせているのを見て知明も手を合わせた。それを見て穂野は、手を下ろそうかと思っていたところだったけれど、そのまま合わせ続けた。

「自問にいわく、現世の立体性を納める額縁をつつがなく結ぶには、どうすればよいか。

自答にいわく、宿命のサボテンを食べるイグアナは流星群に網を投ずる。

自問にいわく、老熟してようやく初期設定される根を同じゅうして、幹の異なる樹木と見合いする樹木の梢は風になれるか。

自答にいわく、おのれを自ら伸ばしたネジが最後まではまり終えてもなお余ることで生ずる突起の剣山には、もはやいかなる釘も刺さらぬ」

斯くして上田さんは先に食した食物を耕し終えた。それから静かな瞑想に入ったので、知明と穂野は広い別室に行き、地べたに座って大人しくしていた。

蚊が飛んでいることに対して穂野が神経質になった。近くに来たのを知明が払っていると、長らく上田さんの血を吸って暮らして来た蚊は間もなく静かにカンネンし、すっと地面に降り立って静止した。それを穂野が靴の裏でぱんと潰した。

死にゆく蚊を見ているうちに、とつじょ知明の心が畏怖に満たされ、五体投地して

「我々は一切を寸分たがわず無限にくり返すことを望みます」と言った。

「…………ェ?」そうして事切れた。

二人は残りの弁当を調べ、腐りかけた物を平らげて、まだしばらく持ちそうな物を一番大きなアルマイトの箱に詰め直した。

それからお手洗いを借りたが、ちょっと話し合ったすえ、使った分を空いた弁当箱で汲み取って外の平野に捨てた。それから井戸水で軽く体を洗うと、清潔な部屋を探し、片隅に並んで寝ころんだ。

空気に清廉な戒律の美徳が満ちていたので、二人は肩が触れ合うくらいで済まして、することはせず、じっと横になっていた。

夜が明けるまでとろとろとして、明け方になにか重大な夢を見て起きると同時に忘れると、上田さんと「錆び」に別れを告げて、壊れかかった家を出た。

 

スクーターはなくなっていた。代わりに、朝露に湿った古風な自転車が一台置いてあった。タイヤやブレーキやチェーンを調べたところ、どこも問題がなかったので、サドルの高さを少々いじくると、穂野が座って知明が立ち漕ぎし、見果てない一本道を進んで行った。

遂に遠く町が見えたので、自転車を停め、立ったまま最後の弁当を食べた。

ずんずん町が近づいて来る一本道に屋台が現れ、「水に溶ける虫」なる商品を売っていた。なるほどコップの中に泳いでいたが、それはどう見てもボウフラとしか思われなかった。

「ある日、水に溶けていなくなりますよ。眺めているうちに不思議と愛着が出ます。寝室にどうぞ」

奥の隅に置いてあるスーツケースのプレートには《媒介動物研究会》と書かれてあった。

あれほど人けがなかったところへ、背後から車が来たと思うと、ドライバーの男性から乗って行くかいと誘われた。荷台に自転車も乗せられるぜ。

それでありがたく乗せてもらうと、男性はじつは警察官であることを明かし、知らない人の車へ気軽に乗ることの危険を厳しく注意して、走り去った。

そのあとから《発散ノイローゼ》と幟を立てた人々がガヤガヤと通り過ぎた。卑猥なことばかり大声で喚くしりとりゲームに興じている人々、聖書・仏典のたぐいらしい書物を破っては丸めて鼻に詰めてはふんと飛ばしつつ歩いている人、ホットドッグの包み紙を開けてケチャップだのマスタードだの丹念に塗ったと思うや遠くに投げ捨てる人、そんな中から一人の老人が二人の前に立ち止まり、安全というものの危険について説き始めた。

二人が拝聴していると背後からシャッター音がして、ふり返った穂野が知明に「スカートの中を撮られた」と言った。知明が「許してあげよう」と言うと、カメラを持ったおじさんは安堵した様子で頭を下げ、ついでにもう一枚と言うから穂野が知らんふりしていると、おじさんは後ろからもう一枚撮り、ふたたび頭を下げるやとつぜんネガを破り捨てて歩き去った。

安全がいかに危険かを論じていた老人は、いよいよ結論に至る手前で話をやめ、亡妻の形見だという老眼鏡を見せてくれた。

「あれの見ていた世界がどのようなものだったのか、こんなことをしたってわからんとは思いつつも時々かけてみるんだよ……」

そう言うなり道路に叩き割って一行のあとを追った。

見えてから着くまであんがい遠くて、日暮れ前にようやく到着した。升千布ますちふ町と看板が出ていた。いくつか大きな建築物もあるものの、町全体に電気ガス水道等々の神経の通っていないことが一目で察しられた。

崩れかけた家々にはたいそう無表情な人々が住んでいて、通り過ぎる二人のことを見ないようにしているようだった。

しかし、後ろから背中をつついて来る穂野にいわく、一人の若い町民が四角な手鏡越しに穂野をじっと見ていたというので、知明は懐中に秘めていた拳銃を取り出してベルトに差し直し、力強く自転車を漕いで行った。

廃墟のようなマンションがあったから、今夜のねぐらを得んがため自転車をかついで階段を上って行った。エントランスにあった色々の掲示板から察するに、住んでいるのはイミニアンたちだったので、まあ穂野の安全は保障されているはずだと信ぜられた。

上って行くうち、やがて廊下から升千布町の北半分が一望できると思えば、下から数人のイミニアンたちが追いついて来て、色々と尋ねられた。知明と穂野は、不案内なイミニアンの風習のうちでは友好の手がかりになったかもしれないオダノブのピアスをもらっておかなかったことが悔やまれた。

けれどもイミニアンの人々は、二人の長尾鶏の刺青を見、掠れ切った声を聞き、それから拳銃をためつすがめつ眺めると、部屋を一つ分け与えてくれた。

十二階の突き当たりで、ベランダからは町の南半分が一望できた。遠く向こうに今しも夕陽の沈む海が見えていた。イミニアンのおばさんが持って来てくれたおにぎりを食べた。

残照の暮れるまで海を眺めてぼんやり過ごし、降るような星が輝くと、知明と穂野は睦まじく触れ合って、一晩ぐっすり眠った。

穂野がとつぜん生理的な嫌悪に襲われて知明を拒絶し、けれども涙を流して知明を愛おしみながら離れて眠る光景が、睡眠中の知明の眉間から伸びる紐の先の雲の中に映じていた。

穂野はなにか視覚的ではない夢を見ていた。

 

 

 

2025年7月3日公開

作品集『猿の天麩羅』第5話 (全13話)

© 2025 尼子猩庵

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

この作者の他の作品

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"猿の天麩羅 5"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る