猿の天麩羅 8

猿の天麩羅(第8話)

尼子猩庵

小説

11,142文字

 不条理な大幸運に飄々と忍従する中学生少年少女たちのロードムービー。

 異世界にして過去世。未来にして神話時代。下劣にして荘厳。地獄にしてユートピア。

 図書館にはなく、本棚にはある。人生で二度捨てる。

※第13回ハヤカワSFコンテスト二次選考落選。

 

 

 

――たいそう背の低い人ばかり住んでいるその町には、空がひじょうに低くまで降りて来ている。その町から見上げる星座の神話は、他の町から見上げる星座の神話よりも、雄弁か、寡黙か?……

一直線に伸びた道路を西へ向かって進んで行った。盛んに砂煙が立った。

一帯が砂漠になって久しく、給水の問題が頭をもたげて来たころ、右手はるかに山脈が現れたと思うと、前方に大きな町が見えた。

トラックだらけな駐車場にバスを停め、近くに建つ役場の二階の観光局窓口に行ってパンフレットをもらった。三人は待合のベンチに座って読んだ。それによると、遠くの山脈からはるばる地下を通ってここへ至り、盛大に湧き出る大きな泉が町の真ん中にあるそうな。町の名は魚流屯うおるとん町と言った。

泉の水はひじょうに澄んでいて、数世紀にわたり天敵のいない魚の艶めかしく進化変形したのがつるつる泳ぐ水中は台風にも濁らない。この魚の口は人間へ男女問わずたいそう艶めかしい奉仕をし、ラビリンス器官という呼吸器官が発達しているため水から上げても二、三時間は溌剌としているので、昔の町民はこれをたいそう活用したと図解を伴って説明されていた。今ではある衛生上の問題からこの用途はないが、町民はこの魚を崇めるように守っているそうな。

また魚流屯町には大きな運送会社があり、遠い海から新鮮な魚介類が常時運び込まれるために港の匂いがすると書かれてあった。けれども、そのような匂いはとりわけしないように思われた。

読み終わったパンフレットを役場出口にあるパンフレット捨て場に捨ててバスに戻った。駐車場の無料シャワーで体を洗い、丸めて山積みにしてあった洗濯物を洗って干した。

駐車場には他にも旅人がたくさんいたので、カトキヨがあちこち話しに行って、煙草と交換に大量の塩をもらって来ると、残ったステーキ肉をすべて燻製にした。そのあいだ知明と穂野は屋台の物色に出かけた。

座ってもなかなか気づかないので、くださいなと言うと亭主はようやく顔を上げた。素早い動作で補聴器をつけ、うけたまわりましょうかと言うのでうなずいた。驚くほど安かったので、二人は新鮮なトロの刺身をたらふく食べて、カトキヨのお土産もどっさり買った。

PCOのせいで今年はマグロが異常に増えて値段が暴落し、運送代のほうが高くつくからアホらしいってんでやめちまって、そこいらに捨てているらしいよと亭主が言った。それを食った野良猫や野良犬がとっても増えて、今度また高騰したら、たくさん死ぬよ。そうしたら禿鷹がたくさん増えて、しばらくしたらまた減るな。その時にはなにが増えることやら……。

PCOとはなんですかと知明が聞くと、《太平洋養殖機構》だと思うと亭主は答えた。でも間違ってるかもしれないから、他では言わないほうがいいよ。あァそれから、別に急いで食えとは言わないけども、もうじきホールでコンサートがあるのを見に行くつもりなんだ。

誰が来るんですかと聞くと、誰が来るもなにも、ドブレポルファボールさと言う。大昔に流行した楽団で、子どものころに乳母がラジオで毎日聞いていたので懐かしいのだそうな。もうたいへんな高齢楽団だけれど、ひじょうに陽気な演奏で、アレンジもなく昔からちっとも変わらないのだとか。

そういうことならと、よもやま話も早々に切り上げてお会計をした。

亭主の話では近くに銀行があり、預金者が大いなるまばたきをしたために宙吊りになった大金が眠っているということだったので帰りに通ってみると、銀行の建物をぼんやり見つめている人が何人かいた。

赤字営業の良心的な経営が潰れないようみんなで寄付していると聞いたスーパーマーケットは潰れていた。

駐車場に戻ると、カトキヨは太ったトラック運転手と話し込んでいた。

タイヤ交換をしてもらったということなので、知明と穂野は頭を下げ、お礼にトロの刺身を渡そうとすると、もう飽き飽きするまで食ったからいらないと言って行ってしまった。

カトキヨはたらふく食べた。

 

楽団を見に行くか相談しながら町を見物していて、中央からだいぶ離れたあたりまで歩いて来た。鄙びた広場に童女が独り膝を抱えて座っているので穂野が立ち止まった。

童女は二本の木のあいだに張られた布を飽かずに見つめていた。その童女を三人が飽かずに見つめていると、井戸のそばに盥を置いて根菜を洗っていたおばさんが三人を飽かずに見つめていた。

喉が渇いた三人が井戸へ行くと、おばさんは手招きして童女を指さし、あの子は毎日あそこへやって来ては映画の終わったスクリーンを見ているのだと教えてくれた。いつ終わった映画ですかと聞くと、二週間ほど前だと言う。

穂野が童女を見つめて、黒いほど紫な口紅をさした薄い唇をぼそぼそ動かしていると思うと、ぴっと知明をふり返り、もしもあの子の生活が行きずりの人に連れ去られても事件ではない程度にうやむやならば連れて行きたいと言った。

しかしうやむやなだけで事件にならないだろうかと知明が言うと、穂野は威圧的に人差し指を立てて「これたゆみなきうやむやに我知らず根の浅くならしめられた……時至れば大なる強運に振り回さるるの本懐あればなり、云々云々……」知明はとにかく賛成した。

それで穂野が話しかけてみると、あんがいハキハキしゃべる童女の言うことには、わたしの望みは映画がもう一回始まることだけだというのだった。そして、もう一回映画が始まる時には、頭の中の映画にまつわる記憶を宇宙にお返しすること。そしてあの優しい映画をいつまでもいつまでも、くり返しくり返し、初めて観続けることだけ……。

とぼとぼ戻って来た穂野に知明が、あの子の根は浅かったかいと尋ねると、肩をすくめて、わからないけど誘拐はできそうにないと答えた。

それから穂野は晴れやかに諦めて、ふたたび童女のとなりに座り、盛んに話しかけた。受け答えする童女は嬉しそうだった。

しばらく広場でのんびりしていた。知明とカトキヨは町の不良少年たちからバタフライナイフをもらった。出どころが出どころなんで早く捨てないとヤバイものだから、ただ受け取ってくれたらいいと言い張るので、ありがたく頂戴した。

お礼にステーキの燻製をあげると言うと難色を示したけれど、バイカーたちのくれた肉だと言うとたいそう喜んだ。渓谷のバイカーたちは有名なのかと尋ねると、自分たちは無知だから知らないが有名に決まってると答えた。

スクリーンを見ていた童女が兄らしい少年に迎えられて帰って行き、不良少年たちも、遠くでかすかに口笛が鳴るや、御免と断わって行ってしまったので、三人も駐車場へ引き返した。

途中で穂野がコーヒーを飲みたいと言ったので半地下な喫茶店に入った。先客は奥の暗がりに青年が一人いるきりだった。

三人がコーヒーを飲んでいると、イージーリスニングミュージックがふと途切れて、奥の青年がなにかレコーダーにぼそぼそ話しかけているのが耳に入った。ひじょうな小声だったし、知明と穂野に劣らない掠れ声らしかったけれど、滑舌がいいのかイヤでも聞き取られた。

「……香水入りのコーヒーを飲みながら彼は思い出した……彼は昔、劇烈な消費都市の中心部に暮らしていた……彼はそこで無収入の生活に、アイロニカルな義務や不明の自覚症状をぎゅう詰めにしていたが、余暇と余力を工面しては論文を書いていた……ある日、彼の発明したある重大な結論が、一言一句たがうことなく前世紀のナンセンス漫画に描かれてあるのを発見した。

……彼は途端に頭が冴え渡り、今ならば欠くることなき全能の体系図が書けるという確信と――どこからか聞こえる無機的な笑い声に対する奇妙に許容的な気分と――おのが精神の健康状態に関する苦々しい親心と――民衆からの迫害に怯える創作意欲に打ち震えて自殺した。

……自我が声を枯らして一生で一番大きく叫ぶ年齢――脱輪した車輪が最も激しい火花を噴き上げる年齢……これに関して彼の二十四歳はなんらの提出をも拒んだ。

……そうして彼は、自分の退場の代わりに登場した人物を模して――香水入りのコーヒーを飲みながら、一切を思い出している……彼は今では私立高校の教諭を職業にしている。担当教科は教鞭を取る彼にもわからない。けれども生徒たちは彼を先生と呼ぶ。

……ある日、なにか超越的な同人誌を発行している生徒から、なんぞいい論考はありませんかと聞かれて、喫茶店の奥隅に座り、レコーダーに向かって無い知恵を絞っている。

不器量なウェイトレスから漂う柔軟剤の匂いが鼻腔に一歩入り込んだところで卒倒してしまった閃きの――踏み潰された虫のように痙攣するさまをぼんやりと見つめながら……」

喫茶店を出て、青年の独り言について知明がひとくさり論ずると、穂野とカトキヨにはまったく別の内容が聞こえていたことが判明した。外見にしても、穂野はおばさんだと思ったし、カトキヨはキンシコウだと思っていた。

聞こえた話の共通点を探ると、みごとになかった。

 

バスの中で穂野が、眠る前に知明へ話しかけた。

ねえもしも、誘拐犯が誘拐した子の命を救ったりしたらどうなるの。ただそれは、誘拐されなかったら遭遇しなかった危機からの救出なんだけど?

知明は、スクリーンを見つめていた童女の顔をよく見ていなかったことが悔やまれた。顔を鮮明に思い浮かべられたら、穂野が我知らず望んでいる返答を見つけられたかもしれないのに。

そして、卵を手元に置いておいたほうがよかったか、とも思われた。けれどもこれは卵を手放したから遭遇している危機であり、卵を手放したことによって回避した危機からは救出され続けているのには違いあるまい。

いや違う、事実の如何ではなく、穂野になにか答えなければならないのだ。しかしなんと答えたものだろう。

――たとえばさ、我々が生まれた時には、既にバスがあったろう。技術さえ学べば、誰でも運転できるようにできていてね。しかし我々は、古代人と変わらないかたちで生まれて来たんだから、バスを使うのはずるい。しかしバスにとってはどうだろう?

……むろん、これでは駄目だ。

きっと命の恩人になるさ。そして、その子を返してはならない。子どもを返してあげなくてはならないという論理は、本来的に、君自身が子どもを誰かに誘拐されないための論理だから、君としては誘拐したその子を、たとえ返すというかたちにしろ、奪われるわけには行かないものね。

……これも駄目だ。

返事を待ちくたびれて眠った穂野をぼんやり眺めながら、知明は頭の中にずっと同じ歌がくり返されてどうしようもなかった。それは駐車場の片隅の共同炊事場で夕食を料理していた穂野が、一人の女トラック運転手を手伝って鍋をかき混ぜながら歌っていた歌だった。

古い歌だった。食材がよく分解されて消化に良くなる周波数が含まれていることが証明され、時の世間を大いに賑わせた歌だった。栄養学に革命を起こした歌だった。

あまりに歌が止まらず、このままでは脳髄が分解されて消化に良くなり、血管に溶け出しそうだったので穂野をゆり起こして別の歌を歌ってもらった。

しかし穂野は知明が危機から脱する前に歌いながら眠ってしまった。知明は取り残されて対象もなく延々と分解していた。

睡眠状態に移行するだけなら容易なのだった。太刀坑中学では誰もが能動的な睡眠を修学し、卒業生たちは生涯を溌剌と過ごしてゆく。けれども今このまま眠れば、幼少期から時おり訪れる悪夢に閉じ込められる予感があった。この悪夢はたいそう苦手だった。それは無限に夢から覚めてゆくという夢だった。

カトキヨは車内にいなかった。夜になると二人に気をつかって遠慮するのだった。ハンモックを抱えて、星空の下の独り寝がイミニアンにはゆりかごなのだと言って出て行くのだった。

知明は穂野の寝顔を見つめた。上田さんの耕作が働きかけて来て以来、知明と穂野に粘膜の交渉はなかった。一日中ぺたぺたくっついてはいるけれど、粘膜だけは触れ合わないのだった。

だんだん穂野の顔が両生類に見えて来て、やがて魚類に見え始めると見つめるのをやめ、悪夢をむしろ迎え入れるくらいの気合いで眠った。

 

深夜の来客に起こされた。昼間の不良少年たちが黒いミニバンに乗って、夜分遅いことを詫びつつバイカーたちの燻製ステーキを受け取りに来たのだった。

カトキヨが出来のいい物を選んで渡すと、なんならこれから一緒に遊びに行くかいと誘われた。助手席から降り立った少年がスライドドアを開けると広い一間になっていて、あぐらをかいて座っている少年たちが盛んに手招きして来た。

知明と穂野とカトキヨはバスに鍵をかけるとミニバンに乗り込んだ。

海の近くに大きな公園があるんだが、今日はそこで喚きながら走り回るのだと運転席の少年が言ってミニバンは走り出した。

途中、街灯が煌々と明るい石畳の一角でなにか騒ぎが起こっているのを停車して眺めた。使い走りの少年が屋台から人数分買って来たアイスクリームを舐めつつ三人もぼんやり見ていると、一人の少年が知明の肩をつつき、騒ぎを指さして説明してくれた。

彼いわく、昔々この町で起きた大きなデモ行進には都市の芸術家も多数参列したが、その時の新進気鋭の画家の一人がよぼよぼに老いぼれた今もたった独りでああして叫びながらビラをまいている。

老人の批判する圧政はまだ起こっていない圧政であり、大声で要求する釈放はまだ捕まっていない同志の釈放だった。数人が耳を傾けているけれども、それは純粋な敬老精神から来る拝聴に思われた。少し離れて警察官が二人、水の止まった噴水に腰かけてコーヒーを飲んでいたが、この二人が老人を見つめる目にもあたたかなものがあった。

彼いわく、二人の警察官は、親や学校の先生が昔のデモ行進に参加していたのであり、そして不良少年たちとも昵懇の間柄だった。

――だって警察が仕事になるためにはよ、誰かが悪さをはたらかなくっちゃあならないだろう? そういうわけでさ。でも俺たちも、じっさいにはあんまりなにもしてないよ。いつなにをしてもおかしくないってだけでさ……。

聴衆の中から一人のおじさんがやって来て、ミニバンはやんわりと追い出された。魚流屯町の大人たちは不良少年たちを我が子のようにぞんざいに扱い、不良少年たちも逆らわなかった。

それから長い道路を延々と海へ向かった。ある信号待ちの時、向こうで車同士の当て逃げがあったので、逃げた車を追いかけてナンバーを確かめると、当てられた車の所に戻って少年たちは逃走車のナンバーを教えた。

到着した公園は海の近くだということだったけれど波の音や潮の香りはしなかった。強い松の匂いのするひんやりした空気は恐ろしく透き通っていて、紫色の天の川がぼやぼやと浮かんでいた。

入り口の案内図によればかなり広大な公園だったが、少年たちがある一本の鉄柱を蹴りまくって外灯がぜんぶ消えたため真っ暗になり、石の歩道ばかりが闇の中へ白く浮き上がっていた。

少年たちが走り出した。ただただ力の限り奇声を発して駆け回るのだった。カトキヨは驚くほどの大声が出たけれど、選挙応援で喉を潰した知明と穂野は空気がすかすか抜けてあまり出なかった。

一人、昼間と違って女装している少年のいることが車内でずっと気にかかっていたのを、知明がたまたま近くにいた少年に尋ねると、尋ねられた少年は叫びやめて、あれは俺もよくわからないんだと答えた。今夜とつぜんあれで現れたんだよ。本人は大真面目らしいし、でもなにか打ち明けて来るわけでもないし、みんな触れなかったんだ。

向こうにくだんの少年が見えていた。かすかに息を切らしつつ、ベンチに片足を乗せてずり落ちたストッキングを引っ張り上げていた。

「この騒ぎはいつものことかい?」と尋ねると、

「よせよ。こんなわけのわからないこと」

しばらく走り回っていたのが急に静かになり、どこかでかすかにさわさわ鳴っていた。助手席に座っていた少年が招集をかけたらしいので声を頼りに集まると、女装の少年がミニバンのトランクからたくさんの古い木製バットを抱えて来た。

別のグループの不良少年たちが来たのでけんかするのだと言う。最初はみんなで野球する約束だったんだけど、あいにく上の連中がグラウンドを占領していて、どこもできないから、もうこうなったらけんかにしようかって――でも、いつやるかは決まってなかったんだ。次に鉢合わせになった時って話だったんだけど、巻き込んでしまって悪いね……。

少年たちが申し訳なさそうに三人を見て、構わないかと尋ねた。三人は構わないと答えてバットをもらった。

がなり声を上げながら襲って来た。あちこちで乱闘が始まった。けっこう真剣に殴り合っていた。本当に倒れた相手を追撃しようとする者がいた時だけは、両方のグループから止められた。

知明たち三人は固まっていて、敵に追いまくられ、いよいよ追い詰められると本気で飛びかかって撃退した。

穂野がとっさに飛び退くと、空振りした敵のバットはブンと鳴った。知明が後ろから頭を殴られ、真っ暗闇なのに視野が一瞬明るい黄色になった。うなじから背中まで熱いものが流れたけれど、あとで確認してみると出血はあんがい少なくて、背中まで流れた感覚は幻覚らしかった。知明に命中させた敵はカトキヨに殴られて運ばれて行った。

気がつくと仲間の一人が息を切らして横にいたので、いつもこんなことしてるのかいと聞くと、目を丸くして「よせよ」と言った。「こんな危ないこと」

敵が数人走って来たので一斉に逃げた。

しばらくのち、知明たち三人が仲間からはぐれて歩いていると、向こうから敵の大群が走って来た。えらく体格のいいのもいて、いよいよかと恐れたけれど、敵の少年たちは三人に気づいて逃げろ逃げろと言った。手ぶりに従って三人は彼らについて走った。どうやら後ろからなにか来るらしかった。

敵の少年たちが車を停めている駐車場に到着した時にはほとんど追いつかれていた。追っ手は巨大なシェパードを連れた公園守だった。公園守はシェパードを放すかどうか迷っているらしかった。敵の少年たちは車のドアを開けたまま大声で知明たちを呼んだ。その時、公園守がシェパードを放した。

敵の少年たちの車に向かって走り出した三人の行く手に黒いミニバンが滑り込んで来た。スライドドアが開けられると、仲間は全員座っていた。乗り込むと中はたいそう湿気ていた。一人、明らかに大怪我を負った少年が肩で笑っていた。ふり返るとシェパードは襲って来てはおらず、なにか熱心に地面の匂いを嗅いでいるばかりだった。

ミラーの中で遠ざかって行く公園守は、逃げた愛犬を呼んでいた。女装した少年が知明の頭の傷を調べて、一生残ると請け合った。

大きな十字路を突っ切る時、敵の少年たちの車がパパパパッとクラクションを鳴らして曲がって行った。こちらもプァァァン……と鳴らし返した。目を閉じて手首の脈をはかっているカトキヨのくちびるが紫色になっていて、穂野がそっと背中に手を当ててさすっていた。

駐車場まで送ってもらい、全員と握手して別れた。カトキヨのチアノーゼは回復し、空がずいぶん白んでいた。知明はぐっすり眠ったけれど、穂野は帰りの道々車内で少年たちが歌っていた歌が頭の中にいつまでもくり返されてなかなか寝られなかった。

知明をゆすぶったけれど、負傷した知明の眠りは深く、どうしても起きなかった。カトキヨは気をつかって外で寝ていた。

 

――地球しか売られていない野菜売り場に例外的に置かれてある香辛料とはなにか?……

――宝くじが当たった猿と保険が下りた猿とではどちらがよりいっそう人間に近いか?……

翌朝、ラジオがしきりに接近を伝えていたものの、熱が入り過ぎて誰にも聞き取られていなかった台風がぴったり予報通りに来た。

空が荒々しく町をなで回していた。吹き飛ばされて電柱に引っかかっていたのをバスの中へ引っ張り入れた婦人は、このような規模の台風は百年に一度だと言った。以前にお目にかかったのはもう三十五年も前のことで、その時は三百年に一度と言われていたと言った。

スロー再生にしてようやく聞き取られるラジオによると、このたびの台風《内蔵助》には台風の目なるものが大小さまざまに現在十八ほど確認されていて、それぞれゆっくりとまばたきしながら停滞しているということだった。やがて十八のうちの一つに入ったらしく、昼間でも星が見えるほど澄み渡った青空になり、ゆっくりと回転する巨大な雲の壁が天にそそり立っていた。この凪はしばらく居座りそうだということだったので、婦人はお礼を言って帰り、三人は散策に出かけた。

道路はことごとく浅い川になっていた。町の中央の巨大な泉はスッカリ濁り、艶めかしい魚たちがあふれ出て道路の上を泳いで行った。やがて遠い沼地からはるばる流されて来た余所者が泉に流れ込むだろうから、またパンフレットを書き替えて町の歴史を創造しなければならないと通りすがりのおじさんがぼやいた。

移動するよりもまばたきによってやにわに再開した《内蔵助》は暴風をともなわず雨だけだったが、海と陸を交換するような雨だった。バスも浸水し、三人は荷物を天井の網の上にすべて上げると、しばらく車内に吊ったハンモックで揺れていた。

やがて町役場のボートが迎えに来たので、差し出された傘を受け取ってボートに乗り込み、避難所へ移った。

古い刑務所を移築した個人の邸宅が避難所として提供されていた。提供者の資産家は避難者に交じって楽しげにうろついていた。

屋内広場の壇上に機材が組まれてドブレポルファボールによる慈善演奏会が催されていた。曲芸ばりな速弾きの曲が大いに受けていた。

知明たち三人はいくらでも振る舞われる色々な果物のジュースをがぶがぶ飲んでは小便ばかりしていた。午後には区庁舎で開催されるはずだったタイプライターの大会が屋内運動場にて催され、ピアノ教室を営んでいる老婦人が優雅な指運びで優勝した。

ふと穂野がおなかをさすりつつ、さっき食べた配給のサンドイッチが胃の中で元のかたちに戻ってると言う。だめだ、もう吐くと言って廊下に出て行ったから、知明がついて行き、うずくまった背中をさすりながらサンドイッチの入っていたビニールを持って待ちかまえた。

穂野はひじょうに苦労してポンッと吐いた。サンドイッチは完全に元のかたちに戻っているのみならず、食べる前より乾燥してすらいた。穂野は喉を押さえつつ、元通りビニールを巻き直している知明にごめんねとだみ声で言ったあと、

「……なんか、ひどい既視感がない?」

と聞いた。知明は神妙な顔でうなずいたが、カトキヨが心配しているだろうからとにかく戻った。

やがて三人が不良少年たちと連れ立って屋上に出、ふたたび風も加わった暴風雨の中で力の限り喚いていたら、台風がとつぜんやんだ。

空を埋め尽くしていた癇癪は一瞬できれいさっぱり消滅し、耳が痛いほど静かな晴天があるだけだった。少年の一人がうずくまり、完全な元のかたちに戻ったハンバーガーをポンッと吐いた。

急逝したエナジーの行方についてカトキヨが、今ごろあちこちに卵が出現しているだろうと言った。そしてまた、タブー的な原則が営業困難に陥るんだ。そうして人間はまた、ちょっとだけ不幸になるんだ……。

 

浅い洪水の去って行くかすかな音を聞きながら屋台でマグロの刺身を食べていると、こういう大きいことが起こったら連鎖して色々起こるから、なにか儲け口もあるかもしれんのでひとつ都市のほうに行ってみるよと言って、屋台のおじさんが店をたたむ準備を始めた。

悪いけど看板にするからその御詫びと言って大きなマグロの切り身を譲ってくれた。三人はありがたくいただいて持ち帰り、駐車場で燻製にした。そうして魚流屯町を出ることにした。

西に向かう大きな道路が三本ある中、一番森閑とした道を選んで出発した。ドブレポルファボールのダッジバンも町を出たところだったらしく、出発していくばくもなく追いついたから同行した。

並走するダッジバンの窓から、マンドリンを弾いていた恰幅のいいお爺さんが変な顔をしたり稚拙な手品をしたりして来るのを見て穂野が笑いころげていた。

夜になると通行者のない道路の真ん中で焚き火して、牛肉とマグロの燻製を振る舞うと老人楽団の面々はたいそう喜んだ。

翌日も見果てない道路をずっと進んだ。マンドリン奏者のお爺さんは折に触れては穂野を笑わせていた。

昼過ぎにカトキヨが体調を崩した。

 

葛の葉っぱの這うアスファルトの上に寝かされたカトキヨの手を知明と穂野が両方から握っている。その周りを老人たちが取り囲んで見下ろしている。

カトキヨはしばらく苦しみに耐えていたが、やがてずいぶんラクになったと言い、もうじき次の波が打ち寄せた時にさらわれると思うと言った。

その時とつぜん、知明と穂野は思考がつながった。二人はこの現象を、お互いの胸中で瞬時に受け入れていた。テレパシーによって初めて知る相手の内奥も、わりあい知明は知明だったし、穂野は穂野だった。

穂野と知明が見つめ合っていると、カトキヨがお礼を言い始めたから、老人たちはめいめいカトキヨの肩や膝にそっと触れて、ダッジバンに引き揚げて行った。

過激な化粧をした穂野が見下ろしてほほ笑んでいると、カトキヨは穂野を見つめて、君は本物のいい人だ、存在しているだけで、そうじゃない人たちへの批判になるから、人間関係はいつもつらいだろうけど、へこたれるな、かならず、天に愛されているから……。

次に、知明が見つめていると、カトキヨはすまなそうにほほ笑んで、穂野のことしかわからないと言った。

カトキヨの顔をなでている穂野が頭の中で決心したから、知明は頭の中で賛成し、バスの中に引き揚げた。善なるまま逃げ切らんとする貞操を脱がせ終わるまで心臓がもつだろうかと考えつつ座っていると、穂野が、どうやら大丈夫らしいと頭の中で答えてよこした。

それで安心したけれど、それから知明は如何ともしがたく流れ込んで来る穂野の主観に打ちのめされた。破瓜の恐怖に避けようもなく震えた。穂野がしきりに恐れることはないと励ましてくれるけれど、なかなか耐えられなかった。展開していることから心をかたくなに閉ざして、なにもかもが終わるまで石仏のようにじっと座っていた。

じっさいには二十秒ほどで終わっていた。けれども、それからどれくらい経ったのか、ようやく穂野に呼ばれ続けていたことに気がついた。つつがなく元服の終わったカトキヨはそのまま旅立っていた。(――◎◎県◎◎市在住加藤潔さん中学生――不登校――浴室に倒れているところを同居の叔母が発見――机の上に遺書と見られるメモが――)……

中で硬直したままみるみる冷たくなったと頭の中で無機的に反芻する穂野も、その体勢のまま硬直していた。感覚は知明の中にも流れ込んだ。まったく氷のように冷たかった。

知明は穂野を抱き上げてそっと抜き、カトキヨの姿勢を整頓してきっちりと服を着せた。

ドブレポルファボールの老人たちも、誰も死体を冷やす物を持っていなかった。蒸し暑い日だった。

知明と穂野がカトキヨを燻製にしようとし始めると、とりあえず次の町まで行って葬儀屋を探すべきだと老人たちが提案した。引き返したほうが早いかもしれないとフィドル奏者が言ったけれど、次の町のほうが早い気がするとアコーディオン奏者が言った。

カトキヨの遺体をバスに積むと、二台の車は西に向かって出発した。

 

 

 

2025年7月3日公開

作品集『猿の天麩羅』第8話 (全13話)

© 2025 尼子猩庵

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