猿の天麩羅 11

猿の天麩羅(第11話)

尼子猩庵

小説

12,011文字

 不条理な大幸運に飄々と忍従する中学生少年少女たちのロードムービー。

 異世界にして過去世。未来にして神話時代。下劣にして荘厳。地獄にしてユートピア。

 図書館にはなく、本棚にはある。人生で二度捨てる。

※第13回ハヤカワSFコンテスト二次選考落選。

 

 

 

――百七十才のドライフラワーは何語を話すか?……

――断酒した酔いどれの朝の空を泳いでいるすがすがしさは何色に架かるか?……

――一方通行な激しい恋心の檻の格子は何本か?……

――夜ごと神経症患者をおびやかす心臓はどのような罰を受け、またどのような罪から解放されているか?……

――イポタンペタポタイぺンタ人の父親とヌタケタリアリヌアタケリヌ人の母親の長男が次男の誕生日にもらうものはなにか?……

――頭に妊娠した土下座はどのようにでんぐり返しをするか?……

いつ果てるともなく歩いているうちに知明は骸骨のように痩せて行った。失神したらそのまま眠り、目が覚めたら歩いた。

失神するのは気持ちがよかった。体が勝手に丸まるからマラリアかと思ったけれど、そのうちに丸まらなくなり、けっきょくなにがなにやらわからなかった。

《(※不明の文字)》という港町を通過したけれど、なぜだか絶対にそんなはずはないと感ぜられた。ヒューマノイドがたくさんいたけれど、とくになにもされなかった。

気がついたら、ある貯水池の前に立っている看板を何度も読み直していた。《彼はまぶたを閉じることを拒んだ。まばたき一瞬のあいだに、どのようなことが起こり得るか、知っていたために。ずっと目を開けていて、目が乾かないように、あちこちをぐるぐる見回していた。やがて舌が伸びて、おのが眼球を舐めることができるようになった。夜には開いたままの目を、こんこんと湧く涙がうるおした。そんな彼は、大地から許されなかった。ある日、大地のまぶたに閉じられて、今ではこの泉の地下に水源として眠っている。長く伸びるように発達した彼の舌は、遊泳者の足首をちょっと引っ張ることはあるけれど、溺れさせはしない。》――云々。

まだ空腹を感じていたころは、舌を食べられたら食べるし、胃を消化できたらすると思っていたが、ある時を境に体はなにも欲しがらなくなった。ひんぱんに脳髄へきらきらと電気が走り、それはひじょうな快感だった。

空が誕生以来最高の美しさに達した瞬間を知明は見た。体の節々の苦痛は紫色の花になって匂やかに揺れていた。そこここに落ちている幻視から目を逸らして歩いた。

失神するたびに妙なる最終の幸福を悟るけれども、体はまだ死ぬより眠るのだった。幸福がぐんと遠ざかる音で目が覚めた。定かではなかったけれど、毎度ひじょうに長い時間眠っているらしかった。

 

夢の中でも同じことを延々とくり返しているので、どれほど歩いたのだか見当もつかなかった。幻視はいよいよ現実味を帯びた。見ないように努めながらも、白谷啓弥とツボネと、それから会ったことがなくて知らない友人たちと、夜の町を歩いて行った。

「どこかに、暖炉の前で曾祖母が話すおとぎ話を、」と白谷啓弥が言う。「聞いてる童子がいたら、そしてそのおとぎ話がまことで、童子の耳もまことなら、我々のことは生涯知らないだろうな」

そう言うと白谷夫妻は一同から抜け出して消えた。追いかけたけれど、どうしようもなく追い越してしまって二度と見つからなかった。

そうこうしているうちに《根本の問題》が夜道の真ん中で友人たちに発見された。知明と友人たちは《根本の問題》をごみステーションに追い詰めた。しかし《根本の問題》は蛸の吐く墨のように幻を見せて逃げた。

幻の煙幕の中で知明たちは《根本の問題》を捕縛したが、懲らしめるほどに自身も苦痛を感じた。ふと気がつくと《根本の問題》を懲らしめている行為は、自分の腸を握りしめている行為なのだった。

煙幕の中で知明たちは歓声を上げて喜んだ。それというのも《根本の問題》よりも重大なことがわかったので。その内容は各人が自分にも内緒であった。斯くして高尚なる知明たちには、今ごろほくそ笑んでいるだろう《根本の問題》すら可愛かった。知明がふいに衝動に駆られて一同から抜け出し、独りで森へ入ると、なにもかもを思い出した。

すなわち記憶の定かではないころまでは植物であったこと。すなわち一匹のカナブンが昔々に罪を犯して、すべてはこうあること。管理人は寿退社したのだと管理人が言ったこと。

人間の意識は腑に落ちないようにできていること。同じ大地のどこかで長命孤独な緑色の少女がやぶれたティンパニーを前にバチを握りしめて突っ立っていること。

Hah?……yup! しかしミスター・スラングはなにをしゃべっているのか、地球は同級生の堕胎のカンパをしなかった罰が当たっているのだ。世界よあなたの扁桃腺は鰓呼吸のままだろう。その書物な部位は湿っている。その、とても満ち欠けな真理の案内が書かれている書物は。どれ拝見……なんと! でもそれは極大の重要さを持つというだけのことだ。こうやって……この文章にマーカーを引いてあげる。最後に人間になって終わる、と書いてあるここが消えるように、ページを折って重ねておこう。それから少し書き足しておこう。

なにを書こうかしら――臥しまろんだブリキ色の時代錯誤は、新しい歌を口ずさんで死ぬ……と、こうだ。四股を踏む初金星にいわく「二が四つ」より「三が三つ」のほうが多い……と、こうだ。数字にはいらない臓腑があるから、いよいよとなればそれを売って左団扇に暮らしてゆける……と、こうだ。

人類というオードブルは吐き気をもよおす出来だ……あの自動車道が開通し、オードブルが遂に皿を脱ぎ去れば、空は遂に飛び始め、海は泳ぎ始め、山は登り始めるであろう……星は住み始め、宇宙は解き始め、次元は仮定し始めるであろう……と、こうだ。

我々はわからないようにあやつり始めるであろう……と、こうだ。

世界よあなたの主題歌を、僕たちはどこで聞いたことがあったのかしらん? ……と、こうだ。

 

誰かに運ばれていた。思い返してみるに、もう少し前から、すでに意識はあったようだ。それによると、ずいぶん長いこと引きずられていた。

力持ちではないらしかった。休み休み、えらく苦労して引きずっている。それからどれくらい経ったやら、誰かもう少し力の強い人が参加して、ぐいぐい運ばれ、やがてベッドに寝かされた。

いろがみのようになっていた口の中にぬるい液体を含まされ、たらりと流れ込むと胃は七転八倒し、電気のような百足が体中にワッと湧いて激しく明滅した。

直前で引き戻すなんて残酷だ。ようやくすべての苦痛の手続きを踏み終えたのに。ここで生き延びさせられたら、いつになるかは知れないけれど、どうせいつかはふたたび訪れるその時、もう一度初めから手続きし直さねばならないというのに。

これから引き返すのにも、ちょうど同じ分量の手続きを踏まなければならないというのに。肉体の未練がふたたび口出しし始めたら、事は簡単になってゆく可能性はあるけれども。

――やっ、いいぞ……いや、まだまだ。――と見せかけて来た! ここがカンジンだ!

恐怖を脱ぎ去り、悲しみを脱ぎ去り、寂しさを脱ぎ去り、勿体無さを脱ぎ去り……後悔を脱ぎ去り、疚しさを脱ぎ去り、怒りを脱ぎ去り、恥ずかしさを脱ぎ去り……なんと、生き成仏だ! 生き成仏を脱ぎ去り……疑念を脱ぎ去り、憂鬱を脱ぎ去り……脱ぎ去りを脱ぎ去り、(しかしこれこそ大昔に張られたなにか取り返しのつかない罠なのかもしれない。しかしもうよい。)大いなる意図からの作用を脱ぎ去り、自由を脱ぎ去り……よし、もういいな……ここらへんで留めて!

だんだん体が、また動くつもりらしかった。先ほどまで脳をはじめとして体はすべて意識と無関係だった気がするが、今からまた元の鞘に収まるつもりらしかった。

おうさすがに若い若い、と聞こえた。ぬるいスープが木の皮のような胃壁を刺しまくっていた。がさがさになった心臓が骨にへばりついたままずりずり動くらしかった。

世界中に響き渡っていた激痛が遠のくと、たいへんな睡魔に頭からぬるぬる呑まれて行った。大きな手のひらで優しくすくい上げられて、幻も夢もなにもない水の上へそっと浮かべられたらしかった。

しばらくあたたかな母乳のおもてに浮かんでいたけれど、泡がぷつりと割れると、ゆっくり沈んで行くらしかった。

 

気づけば知明は老婆と少女に介抱されていた。最初に見つけて運んだのは少女らしかった。少女は寝たきりの知明が嫌いらしく、滅多に姿を見せなかった。姿を見せている時は知明を見ないようにしていて、ふとした拍子に目が合うと、じっと目を逸らさず、眉間にしわを寄せて睨みつけて来た。

少女に家事の一切を任せて老婆は分厚い古書を読んだり編み物をしたりしていた。時々窓から空を眺めては、どこかに電話をかけて、なにか変更させるような命令をしていた。

見るからに博識そうだったから、知明は舌が動くようになると老婆に話しかけて、すべてはなにかの報いですかと聞いた。蚊の鳴くような声だったけれど老婆は一回で聞き取り、意想外に若々しい低い声で、お前はあんまり移動し過ぎているからもはや報いも糞もないと答えた。

それはいつか戻りますかと尋ねると、じっとしていればそのうち戻ると答えた。

ここでじっとしていて構いませんかと尋ねると、私たちはたいへん退屈だったから居ていいと答えた。ここは一種の隅っこだから、お前にも好都合だろうよ……。

知明はただただ寝かされていた。だんだん体が動くようになっても強いて寝ころんでいた。ある日、やっぱり報いの息遣いが気になって仕様がありません、報いなんぞないならもっと強くそう教えてくださいと言うと、老婆は巻き込まないでくれと答えた。

しかしどうしてもイヤなら、すっかり断つ契約をするかと持ちかけられたので、すると答えると、報いを消すにはとかく未来を消すことが肝要、未来というものは死んでも続くから、とりわけ工夫して消さなければならないと言った。

どうすればよいですかと尋ねると、老婆はまあ任せて忘れておいでと答えた。そして、これまでのことをお話しと言うので、しばらく話すと、もういいよ、そこまでで。――まったくあんたらは、みんな同じことをするんだね、本当に。ほとんど寸分たがわずに。まあとにかく安心しておいで。契約はもう済んだからね……。

知明の心身が元気になると、少女は知明に嫌悪感を示さなくなった。むしろしだいに好意を寄せて来て、家事雑事に走り回りつつ、手が空くたびに知明を外へ連れ出そうとしては老婆にたしなめられていた。

ぬるいスープばかり飲んでいて一切排泄のなかった知明だったけれど、ある日とつぜんの便意に襲われてトイレに行くため立ち上がった。ひじょうなめまいを覚悟していたけれど、立ち上がった体は羽根のように軽く、平衡感覚は世界の果てまで見えるほど透き通っていた。

草の香りのする、ぽっちりだけの便が出た。

少女に引っ張り出されて外へ出ると、久しぶりの太陽光にさぞかし目が痛むだろうと覚悟していたけれど、眩しい外光はどこまでも柔和で心地よかった。眼球に風景はとくとくと注ぎ込まれて円満に満ちるらしかった。居候している小屋は森の中にひっそりと建っていたが、それはまったく予想していた通りであった。

少女は知明をあちこち案内した。それから、これまでは久野という空想の人物に担わせていた役割を知明に押しつけた。

知明は少女と大いに遊んだ。ある夜から久野と名乗る顔のない人物に夢の中でしこたま殴られたけれど、夜を重ねるごとにだんだん殴り勝つようになり、やがて久野さんは吹っ切れた笑顔で握手して来ると、それきりぱたりと出なくなった。

全快した知明は少女の家事を手伝った。知明が寝ている壁の穴は最近死んだ大きな犬が使っていた寝床らしかった。

知明は日を追うごとに幼くなって行った。あばたが消え、体毛が薄くなり、長尾鶏がぼやけ、掠れた声がうるおい、背が縮んで行った。

覚えている色々のことはそのままだったけれど、どれもひじょうに新鮮で興味深い記憶だった。知明は頭の中のそれらを慎重に保管した。宝物庫はしだいに軽くなって行ったけれど、いくら探してみても無くなった物はなかったので安心した。

このまま年齢が逆行して同い年になったら婚約しようと少女は言った。知明は日に日に少女と年齢を接近させつつ、少女と遊び、少女の家事を手伝った。

 

木々のあいだをかき分けて放送が届いて来る。けれどもそれは、もう誰にも聞こえなくなっている。

――それは誰に賛成され、誰に反対され、誰に肯定され、誰に否定され、誰に信用され、誰に疑われ、誰に好意を持たれ、誰に嫌われ、誰に覚えられ、誰に忘れられ、誰に影響を及ぼし、誰に染められ、誰と無関係で、どう誤解され、どう看破されたのか?……

森の中の小川に深いよどみがあり、その上に石橋が架かっている。たいそう美味な魚が獲れるよどみだった。暑い日には飛び込んで泳ぐのが心地よいよどみだった。少女と知明は家事仕事の一環として橋の上から蟹をばらまいた。

この蟹は小屋の裏にあるオモダカが咲いた長方形な真っ黒いドブからすくって来るもので、「きれいな小川に沈めるとたちまち繁殖するのだ、そしてこの蟹を食べる魚はたいそう美味に育つのだ」と少女は教えた。

時たま針にかかる沼烏賊ぬまいかは、「味覚をして魂を昇天せしむる味だと御婆様は言うけど、それほどでもない」と言って、少女はせっかく釣り上げたのを日溜まりへ磔にし、日射病にかからせて殺した。垂れ流しの墨には無数の小さな虹色の泡が輝いていた。

なにかの塔の崩れた跡によじ登り、並んで座って足をぶらぶらさせながら、少女が自分の素性を語っていわく、

――あたしの両親は義理の兄妹だったの。孤児院で、ずっとくっついて暮らしていたら、ある晴れた日に、一人の老紳士に一緒くたに引き取られて、山の上の……そうこんな感じの(と言って塔の壁を踵で蹴りつつ)お屋敷で大きくなったの。

そして大きくなったら結婚したわけ。結婚式では、新郎新婦の両親の席には老紳士が独りで座っていて、それはお屋敷の中のチャペルで、御者とかの召使いたちが列席して祝ったの。

それであたしが生まれると、あたしの両親は考えた。二人は、孤児だったからこそ、引き取られて、一緒になって、幸せに合わさった時にぎゅっと絞られて雫の一粒垂れたのがあたしでしょ? だからあたしのことも同じ幸運に預けようと、相談が決まった。

父さんと母さんは、あたしを幸せにするために孤児院にやっちまって、あたしは、ある薄曇りの日に、御婆様に引き取られたの。あたしの両親は、今ごろどこかで幸せに暮らしてると思うわ。お屋敷を相続して、御者とかの召使いたちと楽しくやってるわ。

あんたもなんか話しなさい。

(――そう言われても、どうしようか。生い立ちは、なんだかうろ覚えで面白くもないから、落とし噺でもして、ごまかそうか……しかし、誰かからたくさん聞いたんだけれども、いざとなると出て来ないぞ。そもそも誰に聞いたんだったかしら。)

「……なんでもいいからしゃべればいいのに。つまんない奴」

と少女は言って、虫を捕まえては地面に落とした。ちょうど石の上に落ちるように狙いを定めて。その石の上にはたくさんの死骸と、それを食べに来ている虫たちがいた。今上から落ちて来たものに当たって負傷した虫は、他の虫たちにどこかへ運んで行かれた。

ある日、老婆がどこからか若い美女を連れて来た。少女と知明は、隠れ住めるくらいな壁の中の隙間を伝って、天井の穴からこっそり覗いた。老婆は美女を素っ裸にして、分娩台のようなものに固定するやら、不自然な姿勢で吊り下げるやらしては、お前を人に売るだの、獣に食わせるだの、猿の子を産ませるだの、このまま死ぬまで放置するだのと言い置いては何度も退室した。初め美女は激しく暴れていたけれど、やがて大人しくなって行った。食事も睡眠も排泄も老婆の管理下に行われ、美女は信じられないほど急速に老婆の飼い猫になった。

一か月後、美女は元通り王冠をかぶって四頭立ての馬車に乗り、近衛兵に守られながらどこかへ帰って行った。

老婆は一連の猫の教育を少女と知明へ故意に覗かせていたらしかった。猫が帰ったあと、老婆は少女の体をたんねんに調べた。そうして知明を見つめると、この意気地なしめと言って罵った。

 

ある日、本郷さんという婦人が小屋を訪ねて来た。知明はもう少女よりも幼くなっており、少女は知明を婚約者ではなく弟とみなすことにしていた。添い寝の朝など、幼くとも仕方なく硬直していると、脱がせて色々に眺め、つまんだり弾いたり引っ張ったりしては笑いころげた。弟が遂に泣くと、至福の笑みを浮かべて、泣きやむまで優しく抱きしめていた。

年齢の逆行した知明は幼少のころの姿ではなかった。見知らぬ顔と体つきをしていた。その知明を一目見るなり、本郷さんは泣き崩れて、知明を伊知郎と呼んだ。それから歩み寄り、膝をついて抱きしめた。

伊知郎……伊知郎……とつぶやきながら左右に揺れた。ごめんね……ごめんね……とつぶやきながら涙を流す本郷さんを少女は嫌悪感たっぷりに眺めていた。

本郷さんは老婆に札束を渡し、知明を連れてさっさと帰ろうとした。長居したくないようだった。老婆は本郷さんを呼び止めて、どうなっているのかわからない湯気の立つ手で最後に知明の顔をなで回した。

少女は知明を見つめていた。知明は少女の目を見つめ返し、急に不安になった。

(お姉ちゃんったら、またなにか隠したのだろうか?……ぼくの宝物を?……)

しばらくなでていた老婆が行ってよしと言うと、本郷さんは頭を下げて伊知郎を連れ帰った。森の中の細道を伊知郎は母と手をつないで歩いて行った。

後ろから少女がトモアキ! とわけのわからないことを叫んだけれど、母と手をつないで歩く伊知郎はあまりに幸福だったので、ふり返りもしなかった。

 

 

  *      *      *

 

 

誰にも聞こえない放送が流れている。

――生まれたての感受性がとぼとぼと歩いている見果てない世界では、ノスタルジアはなんの建物であるか?……

――もはや目しか見ず、口しか食べず、鼻しか嗅がず、耳しか聞かず、手しか握らず、足しか踏まず、爪しか掻かず。さて、最も損なのが耳にあらずして、最も得なのが手にあらざる場合、爪は最もなにか?……

夜遅くなると、父は母を寝室でいじめるのだった。伊知郎が母の声に驚いて覗いたら、信じられないことをしているのを目撃したのだった。だから父は恐ろしかった。また母がその被害の事実をまるで秘めていることも謎であった。

祖父はしばしば伊知郎を膝の上に乗せて縁側に座り、昔五島列島で大きなブダイを釣った話などしてくれた。父にいじめられた母は、朝になると何事もなかったかのように飯を炊き、夫婦そろって畑に出て行った。

祖父は時々いなくなると、鰻やイチゴを持って帰って来た。祖父が出かける場所について伊知郎はひそやかな空想をめぐらせたけれど、いまひとつ想像力にとぼしく、あまり長続きしなかった。

伊知郎は小学校に行かなかった。伊知郎は近所に内緒だった。祖父の話では近くに大きな川があるらしかったけれど、伊知郎は、家と、周りのちょっとした森と藪と田畑しか知らなかった。

郵便配達員はいずれ撃退するつもりだった。しかしそれには、自分の頭がもっとよくなる必要があると伊知郎は考えていた。今闘っても勝てないし、恐らく家族は郵便配達員の味方につくだろうから。時を待つ必要があった。

ある日、祖父が洗濯屋さんからもらって来た大きな盥を庭に埋めた。穴掘りは祖父と伊知郎でやった。盥の底に、祖父が取って来た田んぼの土と河原の砂利を敷いた。そして水を張った。

出来上がった盥池に入れる鯉を祖父がどこかの家の庭の池へ釣りに行くことになっていたのに、父がやめさせた。その代わり父は、水がいつまでも澄む方法を教えると言って、盥池を覗き込む伊知郎のとなりにしゃがんだ。伊知郎は緊張していることを隠すため、全身に力を籠めていた。

まず、コイ科フナ属の硬骨魚ワキグロを入れて、おりや藻や水垢を食べさせる――そこまで聞くと、祖父が山に出かけて行き、城跡のお堀からワキグロを釣って来た。そのあいだ、伊知郎と父はヒキガエルに毛虫を食べさせて待っていた。

ワキグロが届くと盥池に入れた。ワキグロは向こうの壁に鼻をつけて、停止したまま逃げ続けた。

次に、ワキグロの排出したものを沼達磨海老に食べさせる――そこまで聞くと、祖父は田畑の用水路へ沼達磨海老をすくいに行った。そのあいだにワキグロは気持ちを落ち着け、伊知郎をじっと見つめていた。

祖父がエビを入れるのを見ながら、ワキグロがエビを食べるのではないかと心配した。思い切って尋ねてみると、父は、多少は食べるかもしれないと答えた。

それでは最後に沼達磨海老の排出したものを分解するバクテリアを入れる――祖父が目をこすりながらしゃがんでいるので、父が自らどこかへ行き、泥を取って来て入れた。泥が少し虹色に輝いているだろう、これが、バクテリアがいるかどうかの見分け方だ……。

バクテリアはある程度以上増えると太陽の光で消える。その時大量の酸素が出るから池がぼこぼこ沸騰しているように見えるけれど心配いらない。さてこれで盥池の水は永遠に澄み、栄養豊富になる。こういう池に育ったワキグロが牛のように大きくなって、四百年近く生きた例もあるそうだ――。

どうしてこんなことを知っているのかと聞くと、お父さんはなんでも知ってると答えて、野良仕事に戻って行った。

伊知郎と祖父は父の博識に感心しながら、小さなワキグロの泳ぐ盥池を眺めた。

 

伊知郎は鯉か金魚が飼いたかったのだけれど、諦めて、毎日ワキグロと沼達磨海老を眺めた。どちらもあんがいきれいに反射するし、ワキグロの慣れて寄って来るのなんかはたいへんかわいかった。

祖父に手伝ってもらってちりめんじゃこの中からこつこつ集めたゾエアが桐箱の中で腐っていたので盥池に入れた。ワキグロはこれを少々不熱心に食べた。水はいつも澄んでいて、コップに汲めばかすかに甘い匂いを立てた。母は盥池でおひつを洗った。ワキグロは雪のように降って来る米粒を夢中で食べた。

奇妙なほど手のかからない伊知郎を育てながら、母は時々伊知郎が女に育つのではないかと心配した。伊知郎の中に、確かな女がいるのが嗅がれるのだった。性別が揺れているというのではなく、もう一人別に女の魂が隠れているかのような。

これを相談された父は、だから言わんこっちゃないと言い、松ぼっくりの焼酎をいつもより余計に飲んだ。伊知郎は酔っぱらった父を恐れたが、それでも盥池を愛でつつ、すくすく育って行った。

ある日伊知郎は、母にあげようと、少し遠くの茂みへササユリを摘みに行った。そこで同い年の女の子に目撃された。

女の子は死んだはずの伊知郎を見て、初めは幽霊だと思った。しかししばらく観察しているうちに、生き返ったのだと判断した。彼女は名を扶美枝といった。ある日扶美枝はこっそり伊知郎の家を覗いた。塀の上に頭を少しだけ出したのだった。しかしそれは、ちょうど縁側に座っていた伊知郎がぼんやり眺めていた箇所にどんぴしゃりだった。

見つめ合った。それからしばしば会いに来るようになった。

扶美枝が会いに来ていることは祖父しか知らなかった。伊知郎は扶美枝の持って来た服を着て出かけた。女物の服を着た伊知郎はどう見ても女の子のようだった。村の人々は誰も伊知郎だと気づかず、扶美枝の親戚が遊びに来ているのだろうと思った。

浜で青っぽいセキレイの卵を見つけたのを盗んで帰り、二人で孵した。三羽生まれて二羽死んだ。一羽はなんとか育ちそうだった。そうして楽しく過ごしていたけれど、扶美枝が鬼の子と遊んでいるという噂が立ったので会えなくなり、セキレイの雛は伊知郎が引き取った。

高い柿の木の上から見ていると、扶美枝はやがてランドセルを背負うのをやめてセーラー服を着た。そしてある日からふたたび会いに来るようになった。この密会も祖父しか知らなかった。

二人は色々な遊びを発見し、発展させた。やがてセーラー服を着るのをやめたころ、扶美枝は伊知郎と一緒に開発した艶めかしい技術をふんだんにたずさえて去って行った。

あの技術を今ごろどこかで誰かを相手に使用しているはずだと考えると押し潰されるような切なさに襲われて伊知郎は悶え苦しんだ。父の身長を追い抜いた伊知郎は失恋にたいへんな度胸を授かって都市へ出て行くことに決めた。母の兄が勤めている会社に試験雇用してもらわれることになった。大きくなったセキレイは祖父が預かった。肥満し切ったワキグロは愚鈍そうに泳いでいた。

駅へ向かう青年を成人した伊知郎と見破る村人はいなかった。緊張した面持ちで汽車に揺られた。レールは草に埋もれて、汽車はヤスデのように野原を這って行った。

やがて窓の外の世界がごたごたした。どんどん建物だらけになって行った。それでも都市まではまだまだ遠かった。

頭の中で母に言われた諸々の忠告を確認した。アパートに着いたら連絡すること。毎日どのように処し振る舞うべきか伯父さんにしっかり聞いて教えてもらうこと。真面目に働くこと。いかがわしい所に行かないこと。酒を飲まないこと。布団を干すこと。……大部分抜け落ちたらしいが、きっと折々思い出すだろう……。

別れの時、父も母も涙を流していた。伊知郎も涙を流した。事情がわかっているのか定かならぬ祖父はおだやかにほほ笑んでいた。とても寂しかったけれど、故郷のどこを見渡しても、未練はなかった。

 

いくら頭で言い聞かせても、体のあちこちが出勤を拒むのだった。動悸がし、脈拍が乱れ、止まるほど弱々しくなり――肺を塞がれたように息苦しくなり、後ろへ倒れ続けるようなめまいに襲われ、ふと足元が抜けるような、ふと突き飛ばされるような幻覚に見舞われ――食べられなくなり、眠られなくなり――とつぜん全身の力が抜け、耳鳴りがやまず、手足は氷のように冷たくなり、熱さや痛みがわかりづらく――明け方に寝間着のまま道端で我に返り、云々、云々云々……

世界が濁って揺れていた。物との距離や天地の角度や重力の働きや時間の流れが不真面目極まりなかった。

そうしてある朝とうとう、歯を磨いている時に頬へ蟻が出始めたのだった。《虫害》なんて現代的じゃあないかと同僚の美濃部が言った。美濃部はよくしゃべった。

「あの映画な、確かに立ったまま観たら、座って観るのと違う内容になってたよ。アンジャパどもへ破廉恥極まりない抵抗を断固やめない狂った国からとうとう混血も移民もみんな出て行った。日本が世界地図から消えたぜ。それで前々から違うとわかっていた箇所が修正されて、旧日本列島なるどこかの永世放擲国は、もうタツノオトシゴじゃあないらしい。いつか、手こずったあげくほったらかされた介錯が遂に完了してだ、彼らがふたたび正式に生き始めたらば、今度は十世代くらいかかる切腹にしてもらいたいもんだな。どうせならそれくらい本腰入れて、完全に消滅してもらいたかったよ」

美濃部は酒が入るとさらにしゃべった。そういう時は少々話が大きくなり過ぎる癖があった。

「そうさ。すべてはじつは、どっかにいる新興貴族のでっち上げでな、爆撃も鬼畜アーイーも演出だったんだ。アーイー手淫だって法の上位にあるなにかのからくりに適ったもので、なにか手続きがきちんと済んでいたものだったんだ。

ロボット奴隷たちをもらうに際して、こっちからなにを出したかは知らないけども、なにか出したんだ。出したっていう表現は当たらないかもしれないけどな。なによりほんとは賠償宇宙人(別号贖罪未来人乃至堕先祖)でもロボット奴隷でもなかったんだからな。乳児期のなにかの予防接種でああいうふうに育つんだとさ。途中からでもそこそこ変われるらしいよ。俺もしようかな。一部だけでもさ。――一部とはどこのことかって? よせやい、野暮なこと聞くのは。

それより、この真実を隠すために色々と他の真実を暴露して回っている連中の言うことが恐ろしいじゃないか。知ってるか? 世界地図なんて国によってまるきり違うんだってさ。ヨーロッパもアメリカもじっさいのところはわかったもんじゃあない、衛星写真なんぞは誰か最初の加工者の著作権が利いてて、変えられないんだとさ。

いいや、こういうのがだよ、なにかを隠すための偽の暴露だとか、麻痺させるための工作だとかな、陰謀論か? そんなことに俺たち凡人が気づいているはずがないんだ。ということは、なにかもっと大きな工作が効いてるのか、ほんとに事実をどばどば流して麻痺させるつもりなのか……《次の日本人》どもの計略でな。

――でもな本郷。ェえ? 聞いてるか? 本郷伊知郎君よ。いいか? 俺は自分にゆかりのある情報源をとことん信頼するよ。凡人を自覚せる凡人だからな。お前もそうしろ。お前もとっくに俺とゆかりだろ。知ってるか? 今回のことは、知らぬ間に行われている恐怖政治の、なにか王座が知らぬ間に入れ替わっただけのことでな、色々起こったのだって海外では軽いニュースで流れただけでさ、やってられないというか、よくやってくれたというか。

新興貴族たちはな、『まるで完成した世界のようにやることのなかった寄生虫たちの自虐風刺劇から文明を奪還し現実を蘇生させる』と息巻いているんだとさ。でもこれについては俺にだって、信用しない権利はあるんだ。じっさい、鬼畜アーイーも焼け野原も、賠償宇宙人も移民も混血もイミニアンも、その当事者も関係者もいつの間にかどこにもいないんだものなあ。かつて確かにいたってことだけは、あちこちの遺留品から明らかなんだが……」

 

 

 

2025年7月3日公開

作品集『猿の天麩羅』第11話 (全13話)

© 2025 尼子猩庵

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