略式乱痴気チキンレース

尼子猩庵

小説

25,488文字

老人Aと空き巣A以下、様々なAたちが織り成す、奇想驚くべき珍道中。

 

 

 

老人Aは、町の、鉄筋アパートに、独りで暮らしていた。

彼は学者であった。何の学者であるかは、やっぱり、誰も知らなかった。

老人Aは、よく散歩をした。人々は散歩する彼を見て、あゝ大学の講義にいらっしゃるのだ、おゝ学会の発表からお戻りだ、と思った。

ある日、老人Aが散歩に行っているあいだに、空き巣Aが、老人Aの部屋へ忍び込んだ。

タイムカードが切られた。

何か金目のものはないかと、見ていると、机の上に原稿用紙の束がある。何かの論文であろうか。

空き巣Aは、その原稿をちょっと読んで、大いに感激した。どうして読めるのかわからないけれども、読めた。学んでいないことを飛び越えて来るものがあった。これは驚くべきものだ、天に不敬を働き、その罪によってかえって煉獄の山を易々と登らしめるものだ、脳死者の耳元で囁けば、思わずクスリと吹き出さしめるものだ。

空き巣Aは、その時激しく、身にも心にも追いついて来るものがあって、ために、霊界においても、もはや彼は空き巣であった。この作業に当たっている御役人が、ふと鼻をかんだ。彼は慢性副鼻腔炎による後鼻漏がひどくて、肺が少々やられていた。

あまり強くかんだので、鼻から肺がゴッソリ出た。思い切り鼻をすすって元へ戻したが、どうも、ちゃんと戻ったかどうか。胃下垂がひどくて、洋ナシ型の胴体は、上部がほぼ空洞となり、心臓が広々と阿波踊りを踊っている。

胃は湖底に休らいで、安閑と揺らぎつつ、おのが内部に、アニサキスが阿頼耶識あらやしきと対話する自己取材を、聞いているのである。

かくして空き巣Aは、その原稿を携えて、鉄筋アパートを出た。そうして何歩くらい歩いた頃であろうか、盗んで来た原稿の、自分こそ相応しき読者である事実、そのあまりの幸福、その磁力、車に轢き逃げされたのであった。

轢き逃げ犯Aは、どんどん逃げた。嗚呼、誰か知らぬがボンヤリ歩いておった阿呆を撥ねちまった、変な磁力を発散させて歩いてけつかる先方が悪いのだけれども、こちらは撥ねさせられたのだけれども、こういう事情を守ってくれる法律はない。

――何か、撥ね飛ばした時に紙片が舞ったようだが、その時、鳥籠から放たれた小鳥たちの、可愛らしいパタパタが聞こえたし、近頃、誰か幽霊でも乗っているのではないかと怪しんでいた後部座席から、乾いた拍手の音が響いた……。

轢き逃げ犯Aは、アクセルを踏み疲れて、草むらに車を乗り捨てた。そのまま走り出したのだったが、文明の利器から解放せられた獣の走駆の心地よいこと! 可愛らしいパタパタが、おのが内部から鳴っている。そして後ろから、乾いた拍手がついて来ていた。

轢き逃げ犯Aが走り去った、そこへやって来たのは、おのがリビドーから逃げている、女性Aであった。

彼女は、自らの内部から湧き出るものに驚き、恥じ入り、恐れおののいて、それから逃れるべく、果てしなく駆けて来たのである。それが今、乗り捨てられた車を見つけた。これ幸いと乗り込んで、飛ばした。しかしどこへ逃げればよかろう? おのがリビドーから保護してもらう――警察だ。少なくとも、相談には乗ってくれるだろう。

さて警察がどこにあるのかわからない。そこへ、これ幸いは続き、道端でヒッチハイクしていたのはタクシー運転手であった。拾って、運転を代わってもらった。

ところが、警察へ向かってもらっている途中で、先ほど轢かれた空き巣Aが倒れているのに出くわし、女性Aは車を降りて、空き巣Aに駆け寄った、その隙に車は走り去ってしまったために、女性Aは代金を支払わなかったことになる。

タダ乗りしたことにされてしまうのは、彼女にとって、耐えがたかった、それというのも、忠則ただのりという男に、苦い過去があったので。あの頃の体液が、我が肉体に、今も微量は残っているに違いない、その影響による細胞の変化も、人格への介入も。

しかし人命のほうが優先だ。救急車を呼んだ。空き巣Aは病院にかつぎ込まれ、一命をとりとめた。膨大な行方不明者たちの預金で運営されている補助金に当選し、治療費・入院費その他もろもろ無料であった。最高級の個室であった。

優雅な入院生活を送るうち、空き巣Aは、看護師Aに恋をして、猛烈に口説いた。

看護師Aは、とうとう根負けして、空き巣Aが退院すると、同棲した。

ここで少女は本を閉じ、おトイレに立つ。

その間隙をついて、遥か彼方では、ビーカーに理科室を流し込んでいたコブダイが、自らに起因する大地震を、ゆがいたフキのように、しがんでいた。

咀嚼され、気泡の失われて行くフキの中で、少女を観察していた台風の目と魚の目が、少女の読書が結末まで耐え得るかどうか賭け、金額をどうするかサイコロに託して、盛んに丁半争うていると、どこからともなく

「またホモがいちゃついてやがる」の声。

台風の目と魚の目は怒り狂って店の外へ走り出た。見渡せば、声の主と思しき影が、向こうへ駆け去る後ろ姿。二人は追いかけて行った。

サイコロが卓から落ちぬようにだけ注意して転がり続けている。それはあたかも読者の目が文章を外れぬようページに這わせる焦点の動き。

読者は更に読まれ、著者は文中に溶け消え、どこかで交わされる会話が違う内容になって響く。

「すなわちこうか、愚僧が、この狂った本を、正気を保ったまま書き続けられるか、貴殿が、読み続けられるか、先に音を上げたほうの負けだと」

「しかし、こうして我輩が登場する頃には、既に文章は最後まで書かれておるではないか。つまり大僧正は最初から勝っているのだ。あとは我輩が追いつけるかどうかだけじゃないか。だからこうしよう、我輩が最後まで読めたら、我輩の勝ちだと」

「確かにこの本、すでに最後まで書かれてはおるが、同じものを読んだ複数人が、本書について話す時、違うことを言う。会話者は、おたがいが食い違ったことを話しているとは、気づきようもないのだがね。しょせんは、『我々は誤解し合うのだということがわかる程度に、理解し合えれば沢山』というこったよ」

「それじゃこうするか、最初の読み手たる書き手は、最後の書き手たる読み手を凌駕し得るかどうかの――」

その時、くす玉が割れて紙吹雪、垂れ幕には《大いなるチキンレースは開幕した》とある、これに激怒した著者は、以上の全てを消してしまって、読者による、

「あれはなかなか面白いよ」を笑い飛ばし、

「君が読んだ文章はもはや存在しないのだ」

何だ、人の好意を踏みにじりやがって。君こそ読めることへの感謝が足りない。何を! やるか! つかみ合いになり、殴り合いになり、ごろごろ転がりながら去って行った。

 

 

*      *       *

 

 

少女Aがおトイレから戻って来て、本を開くと、ちょうど、老婆Aが、本を開くところ。

老婆Aが本を開く、すなわち仏壇を拝み、クリオネ如来の仏像を仰いで念仏を唱える。やがてドグマへの懐疑に食われたが、先方もさすがの御用意、疑うほど抱き込まれ、冒涜するほど許されて、一天にわかに晴れ渡る。

少女Aはいよいよ瞳を輝かせて、早く先が知りたいが、さっさと読み終わりたくもない。かといって同じ行をくり返し読んでも妙なる音色は褪せてゆく。洗ったばかりの小さな指で、詮方なしにページをめくる。

そこまでを原稿用紙に書いた老人Aは、ふと、散歩に出かけたくなった。

出かける際には、鍵をかけ、扉を固く閉めて行った。そうすれば、空き巣Aが、原稿を盗むこともなく、轢き逃げされる悲劇も避けられるわけで、同時に看護師Aと出会う幸福も奪われるけれども、とにかく観察者たる少女の膀胱に、ビッグバンの起こらぬ可能性――トイレに立たれて栞が別の場所へ滑り込み、読書再開に際して老婆Aの読経、これを阻止する可能性――へと賭けたわけであった。

結果や如何。耳を澄ませながら老人Aが歩いていると、呼び止める人があった。私に見覚えがありませんかという期待の目を、覗き込めば、瞳孔の奥にいくつもの楕円銀河があり、ドーナツを食う童子Aの姿が、その奥にまた見える。

焦点を戻して、じっくり見たけれど、老人Aは恐縮しつつ、

「見覚えございませんな」と答えた。

すると、それはそうでしょう、あなたは記憶喪失でございますから、今のあなたの御記憶は、あなたを介抱した医師が吹き込んだ真っ赤な偽り、どうして介抱せられねばならなかったのか、原初については医師自身も知りませぬが、あなたの肢体に巻き付く博士号という操り糸は、至高天にも高天原にも届かずに切れ、上空を漂うて、飛行機をからめとること飽くことを知らず、悪魔のイソギンチャクと、飛行家たちには恐れられておりまして、ともあれ、あなたは私と血縁関係にあるのでございます……

老人Aが、更に詳細を確かめんと、口を開きかけた時、白衣の男が駆けて来て、血縁者とやらを捕まえ、老人Aに頭を下げて、いや御迷惑をおかけしました、私は医師ですが、この人は記憶喪失なのです、この人の語ったことは、イデアにおける真実で、娑婆においては、もはや断ち切られたる、余計のダルマであります、どうかお忘れを、末法には末法の徳がございます、時代錯誤の求道心だけはゆめゆめ御起こし遊ばされぬよう……

その時、向こうから、喪服の男が駆けて来て、医師を捕まえ、老人Aに頭を下げて、いや失礼いたしました、私は葬儀屋ですが、この人は死んでおるのです、しかし火葬するまでのあいだに、棺桶から逃げ出して、白衣なんぞ着込みまして――何しろ生前は医師でございましたからな、ほらあなたを介抱して、あなたに偽りの記憶を吹き込んだ、あの医師ですが――これが何を言ったか知りませんけれど、全て死者の言葉です、生者が聞くことはなりませぬ……

その時、向こうから、白骨が駆けて来て、葬儀屋を捕まえ、老人Aに頭を下げて、いやどうも、私は、誰に謝ればよいですかな、とにかくこの喪服の男、この人の言うことは真っ赤な偽り、それというのも、彼ほど本当の事情を、つぶさに知っている人はなかなかありませんので、どんな偽りもこしらえられますから……

――云々と、話している彼らのあいだを、看護師Aが全力で駆け去り、そのあとから、空き巣Aが全力で追いかけて行く。

やがて空き巣Aは、看護師A自身のリビドーに過ぎなくなり、看護師Aは、おのがリビドーから逃げ切らんと、どこまでも駆けてゆくのであった。

一同の視線が逸れた隙に、老人Aは、その場を離れ、一角をぐるりと回り込み、白骨の後ろから、一同に追いつくと、白骨を捕まえて、一同に頭を下げ、いや御迷惑をおかけしました、この白骨は、私の倅なのですが、食事という行為が嫌いでありまして、ある日のこと、先に一生分の食事をとってしまおうと思い立ち、半分ほどはやってのけたのですけれども、それからというもの、ひどい下痢をやりまして、ひねもす下しておるうちに、肉も皮も失い、とうとうこのような姿になってしまい申した……

一同は、老人Aに拍手を送った。老人Aは会釈を返し、かくして、何の変哲もない、いつもの散歩を終えると、鉄筋アパートの自室に帰ったのである。

すると、見よ! 死体が転がっているではないか。

老人Aが、そばにしゃがみ込み、つぶさに観察しようとすると、「触るな!」の声。ふり返っても誰もいない、と思っていると、

「ここだここだ。今あなたに話しかけたのは私だ」

と言ったのは死体であった。老人Aは死体Aを見下ろして、

「あなたは、どなたか」

「私は刑事だ。この事件の犯人を追っている。ガイシャは私だがね。通報があったので、改めて来たのだ。何か手がかりはないだろうかと、考えておるところへ、先生が帰って来た。まったく御手上げだったのだ。被害者に聞ければいいんだけれども、死人に口なし、何か周囲にメッセージがあるでもなし。先生も手伝ってくださらんか」

「そりゃァ、やぶさかではないですけれども。私の家で起こったことですからな。ところであなた、何か覚えていることはないのかね」

「ィヨッ! ――っと、体が動けば、ぽんと手を打っているところなんですが、何ぶんこの通りだもんで。しかも何も覚えておらんのですから、どうせ体が動いたところで……」

「よしよし、光明が見えて来たぞ」

「まさか」

「そのまさかさ、本当にわかったんだよ。君を殺した犯人はね――」

「待った! たびたびすみませんがね、私はそれを知らんほうがよい気がしますんで。署に電話してください。事件はなかった、そして私は退職するとね」

「すると君は、犯人をシャバに放置するのかね。被害者が増えるかも知れんのに」

「いいや、やっこさんはけっきょく、犯人不在でも成り立つ殺人事件の、最初からの被害者にしか手を下さんのです」

「それは、私の推理と違うな」

「おっと、あまり核心をつくのは危険ですよ。それに、なまじ迫っておいての撃ち損じは罪ですからな、およしなすって、また散歩にでもいらっしゃい。そのあいだに生前の私が来て、キレイにして帰りますから。事件も解決する頃に、帰っていらっしゃい。つまり、この事件について、先生が時効になる頃にね」

それで老人Aは、本を閉じた。近くに少女Aがいるはずだと、見回せば、少女Aは年頃に育ち、娘Aとなって、そこにいた。

 

 

*      *       *

 

 

心なしかうるんだ瞳で、つぼみのような愛らしい口元に、はっとするほど大人びて見える切なげな微笑をたたえ、

「あなたに御会い出来る日を、子どもの頃から待ち続けておりました」

けれども、老人Aは、娘Aが今しがた、向こうの御台所で切っていた大根の漬物の匂いに、過ぎし日の妻を思い出し、愛娘を思い出し、娘Aは娘Aで、幼くして亡くした父親を思い出し、おたがいに相手を、愛することが出来たならと激しく願われるばかり。

かくなる上は、あの世か来世で再会することを祈って、ただ心中これあるのみ、どちらが先に行くか、どちらもあとを追いたい。交代々々のロシアンルーレットと決まり、ピストルを交互に、こめかみへ当てては、引き金をしぼる幸せ。

なかなか弾に当たらないので、おたがいの身の上話――もはや大して興味もない、現世における過去のこと――をする。それでまず老人Aが、娘Aの名を尋ねた瞬間、ビンゴ! ピストルが火を噴き、娘Aは帰らぬ人となったのである。

真っ赤なしぶきを浴びた老人Aは、もはや物言わぬ娘Aに、自分の名を呟いた。むろん返事はなかった。老人Aは、娘Aの手からこぼれ落ちたピストルを、そっと手に取った。

そこまで読んだ空き巣Aは、天を仰いで感涙にむせび、感激のまにまに、原稿を持って、鉄筋アパートを飛び出した。

そこへ、向こうから轢き逃げ犯Aが歩いて来て、

「ちょっと御尋ね申します」

空き巣Aは原稿を後ろに隠して、

「何でしょうか」

「私のアイデンティティーを見ませなんだか。何だか、車とやらに乗って、誰ぞ、轢き逃げせんけりゃならぬのですが」

「それなら、ここに記してあります」と、原稿を取り出して、「どうです、素直に言った分、御許し願いたいが、私はこれを渡す気はない。あなたは、力ずくで奪い取るしか法はない」

轢き逃げ犯Aは、うなずいて、

「受けて立ちましょう、と言いたいところだけれども、私は身寄りがないもので、死んじまったら誰からも供養を受けられない。決闘の前に、ここ数年ちょくちょくテレビでも取り上げられておる、生前葬とやらをして、前以ての供養を自ら」

「あァあの、棺桶に入ったりするやつね。しかしかたちだけでは駄目なんじゃないかなァ。生前葬と言うからには、死の恐怖・苦しみをも伴わねば。少なくとも、ある程度はね」

「ある程度」

「まあ現実問題、コストの面でも、バンジージャンプくらいが妥当でしょうな」

それで二人は、駅で買った弁当を食べながら、トロッコにごとごと揺られ、ある渓谷へ赴いて、高い吊り橋の中央に立ち、係員にゴム綱を装着してもらうと、じゃんけんをして、まず轢き逃げ犯Aから、もはやこれまでと目をつぶり、えい、ままよ、宙へ躍り出た。

ガクッと足を踏み外す感覚と、何かじんわりした衝撃の余韻を伴って、老人Aは目を覚まし、布団をめくって上体を起こした。

そこで目覚まし時計が、こう鳴る。

「貴殿は直前で免ぜられてばかりで、もはや結末を、これまでに何度も取り逃がしてしまい申したぞ!」

老人Aは、ジリリリと正論ばかりな目覚まし時計を止めて、顔を洗いに洗面台へ立った。

しかし正論は正論、たといそれが資格のない者の口から、死産の憂き目に遭わされていようと正論は正論、目覚まし時計にも五分の魂、老人Aは朝の小便も取りやめて、書き物机に向かった。やがて原稿を鞄に詰め込んで、丘の上のスペースシャトルへ向かった。

 

 

*      *       *

 

 

これまでの散歩とは違う足取りで歩いて行く老人Aに、町の窓という窓から拍手が降りそそぎ、その湿ったやら乾いたやらのパチパチは、遥か彼方でイナゴの群れとなって、どこかの大国を食害しに行く。

テレビカメラが老人Aを映しつつ並走していた。老人Aは、携帯テレビで、生放送されている自分を見ながら歩いた。こうして見ると他人のようだ。いわゆる典型的なうぐいす顔。鋭利な輪郭に似合わぬうなぎ髭。またちょっとまぶたがたるんだかしら、もう少したるめば、まったくちょうど、お隣の部屋に住んでいるおじさんの顔だけれども。

スタジオでは、コメンテーターの若人が、原稿とスペースシャトルとの関係を解説していた。すなわち今世紀最大の出来事、宇宙人との交流、しばらくはおたがいにビクビクしながら、ただプレゼントを贈り合っていたが、そろそろ力量を誇示する段階。こちらからくり出す一手目として、国際政府から依頼された論文なのである。

チャンネルを替えると、老人Aの妹と名乗る人物が、インタビューを受けているが、まったく見知らぬ人であった。

つまりは妹Aめ、まァた美容整形しおったな。と思って、微苦笑する。それをカメラマンが、パシャリと撮る。これが古びたような加工を施されて、某文芸誌の表紙を飾る。

妹Aの話すことには、老人Aは若い頃、ベランダに出て、星を見ながら、これからの人生を計算し、この深甚なる思想を如何に表現したものか、短命な肉体、無節操な精神、論文の建立に我が寿命は間に合うであろうかと、向こうの景色が透けて見えるほど憂えていた折、初めて円盤を見たのであった。

盛んに話している妹Aは、声やイントネーションまで知らない人だったけれども、この話の内容自体を、老人Aは懐かしく聞いた。

あれからどれほどの歳月を経たか。我が仕事は、遂に完成しなかったが、宇宙人との交流に際し、能力の誇示に用いる弾として、国際政府から依頼をされるまでにはなった。

放送されつつ丘を登る。丘の上には三本のスペースシャトルが立っている。真ん中に老人Aは乗り込む。

その頃老人Aの寝室では、目覚まし時計がスヌーズ機能によって復活し、

「さァさァついて来れるかお立ち会い、宇宙を舞台の乱痴気社交だ、楕円銀河に渦巻銀河、ダークマターにニュートリノ、全ては一人の少女の夢だ、彼女がくしゃみをする時にゃ、最高級の神仏だって振り出しに戻る、妙なる卑猥な双六だ……」

そのジリリリはやがて、うわんうわんと波打って、老婆Aの念仏だとわかる。

折しも老婆Aは慎み深き敬虔さのために苦しんでいるところ。それではどうぞ。ハイどうも。すなわち、クリオネ如来に何ぞ贈りたいという傲慢を許したまえ。我がのアニムスとまぐわうような自己偏愛を許したまえ。

しかしそのような悩みもだんだん消えてゆく。『儀式は元来、個人を没却する場でなければならぬ。人間が個人であることをやめて、生命のもっとも根元的なものに帰っていくための通路』――閉眼し、ひたぶるに念仏を続ける。

そうして、スペースシャトルは発射され、宇宙へ出ると、送迎のハイヤーが着いていた。老人Aは、息を止めて乗り換えて、車内で燕尾服に着替え、気付けにワインを一口飲んだ。

会場では各星の代表者が集まっていた。しかし何か不都合でもあったのか、パーティーは御預けになっている。

老人Aが、隣に居合わせた隣人Aに、事情を聞くと、隣人Aは肩をすくめて、いやネ、ここまで来る連中は基本唯物的ですけれども、やっぱり神々の宴のようにはしないでおこうと、さて誰が言い出したのやら、あすこの騒ぎがそれだと思うが……遠いなあ、何万光年からあるがな。

ウェイター! と、指をパチリ鳴らすのは隣人B、ウェイターは来なかったけれど、セグウェイのようなものが来たので、三人は、くだんの騒ぎのほうへ滑って行った。

到着すると、時すでに遅し、どんな騒ぎであったのかは、そこにいる隣人πから隣人√に至るまで、誰も覚えていなかった。

録音機があったので、何が話されていたのか、再生してみると、どうも録音データは、検閲済みになっており、ピーピーガーガーと鳴るばかり。

いわく、このパーティーに列席する我々の持ち寄った論文なんぞは、おしなべて、うんざりするような一貫性がやかましい。

文化を形成し、のち文化に形成される知的生物の、(見よ! 言語は遂に、知情意を映す鏡とはなり得なかった!)到達と幻滅のワルツ、どこまで行っても不完全、活物としては至極もっとも、死物としては欠陥だらけ。

全てを克服する論文を物したいが、知的生物ごときには叶わぬ。

かくなる上は、心霊の叡智を仰ぎたいが、形而上学も肉体の産物と肉体は言う。空間の問題か、然らば更なる他銀河との交流の拡張、時間の問題か、然らば未来の大完成に向けて一切の小完成を没却した純滅私的研究の開始。

妙なる最終の論文、これが書かれれば、人間は智慧を捨てる。老熟や希望や哀愁や笑いを、無条件に獲得し、絶対に達するのだ、その時人類は、全てをリセットしてくれるものを、激しく歓迎するであろう……

――そこで、かすかに、遠い目覚まし時計の音がまぎれ込んだと思うと、録音機は止まり、草のように枯れてしまった。

かくしてパーティーは、最後に各星自慢のお酒を酌み交わして、御開きとなった。

老人Aの凱旋に、地球は沸き立った。宇宙交流によって、いつかもっと安楽な、贅沢な、エクスタシーに満ちた、誰もが産み落とさるべき時代が来るものと期待された。あるいは、暗澹たる未来(奴隷、食糧、実験体、娯楽物、etc.)を予感しつつ、ともあれ星を挙げてのどんちゃん騒ぎ、食い過ぎ飲み過ぎによる死者多数、懐妊多数の、年が暮れた。

 

 

*      *       *

 

 

新年の朝、枕元に、空き巣Aがひざまずき、老人Aが目を覚ますのを待っている。ようやく目を覚ました老人Aの顔を覗き込み、

「もっと御自身の周囲の問題を、何とかしてくだされ。高尚な宇宙会議なんぞへおいでになんなさる前に、例えばわたくしのような身近な問題を解決してくだされよ」

老人Aは、上体を起こすと、空き巣Aから差し出されたおしぼりで顔を拭き、差し出された洗浄機で口をすすぎ、差し出された尿瓶に用を足し、その場で朝の細々を終わらせた。煙草をくわえると、これまた差し出された火で弁じて、煙を吹き、

「――解決ったって」

「わたくしごときには、解決せらるべき問題が見当たりませんか?」

「いやあ、そんなことは言わんけれど、何かこう、『君が僕の所に来たからには』、というようなやつがね。もひとつ見当たらんでな」

「だからですね、わたくしがこうして現れた、その原因がですな、けっきょく、先生に帰着すると睨んどるわけです。わたくしはそこから派生して来ると。そう仮定すれば、話はわかりやすかろうと思いますがな」

「何それ。おせェて?」

「いや、具体的におせェることは出来ませんが、どういうことが起こっとるかですな、つまり先生は、宇宙を際限なく剥いて行くとか、世界の容器の限界は花びらを開いたとか、そういう映像にも音楽にもでけんことを、要するにあなたはやっとるわけだ」

老人Aは、寝床に座ったまま、空き巣Aが盛んにしゃべりつつ運んで来る食事をとり、ひげを剃り、着替えを済ませた。

「とりあえず出かける用意は出来たが、どうするね? 解決策は一つだが」

「ィヨッ!」と手を叩き、「どうぞおせェてくださいませ」

「要するに君は、ここへ来る時間を間違えたからそんなことになっとるのよ。私がおらん時に来ればいいんで、要は私が散歩に――」

そこまで言った老人Aを遮って、

「先生、あれを見てください!」

と空き巣Aが窓を指し示す、見れば、遥か彼方、天に昇りゆく二人の女人、老人Aが窓に近寄って目を凝らすと、果たせるかな、今しも看護師Aと娘Aが、祝福の粉をふりまきつつ昇天するところで、

「――同志よ、あの片っ方(娘A)は、何を隠そう私の伴侶だ」

「先生、もう片っ方(看護師A)は、わたくしのスケでさ」

「どうしてあんなことになっとるのかは、わからんけれど、追うんだ。あれに逃げられたら我々は意味の価値を失う。それは存在しないよりも千倍つらい」

「ええ、行きましょう!」

かくして、空き巣Aはジェット噴射をかつぎ、老人Aはこんじきの翼を生やし、二人の女人のあとを追い始めた。

そのまた後ろを、おのがリビドーから逃げ続ける女性Aが、何もかもを吸い込む掃除機をかけつつ、追い始めたことに、二人は気づいていなかった。

 

 

*      *       *

 

 

どれほどの月日が経ったであろうか。空き巣Aが言った。

「先生、我々はずっとこうしていてよいものでしょうか。もうわたくしが空き巣Aであった頃のことなんざァ、覚えてる人もいませんよ。もう我々という存在は、ただ女の尻を追い続けとるという、下等の神々みたようなもんでがすけども」

「息子よ、我々が追っているのは、尻ではなくて彼女らの魂だ。これより高尚な仕事はな、世界広しといえども、ほかにはないぞ」

「そうでしょうかしら」

「そりゃァ、本当にないかといえば、ナンじゃけども、そんなものは豚に食わせろじゃ」

「なるほど。そういうことなら、大いにスケのケツを追いましょうよ。ェえ。わたくしとしちゃァ、わたくしと先生が、ダンテとウェルギリウスや、サンチョとドン・キホーテみたいにさえならなけりゃ、もうさしあたっての懸念はねえでがす」

二人は、各々の魂の片割れを追って、じつに様々の世界を経めぐった。

いつもあと少しのところで逃げられたり、遂に手に入れた時には、決まって記憶をなくしていて、手に入れたものの価値を知らぬまま過ごし、失ってようやく、自分が何を失ったのかを悟るのであった。

今もまた、老人Aが、ある生涯を生き終え、何もかもを思い出して、どうして逃がしてしまったのかと、悔やんでいる。これに、先に生き終えて待っていた空き巣Aが、

「先生。我々は、あのスケどもを手に入れられるんですか。もうね、何度か手に入れたでしょう、なまじ。だからかえってもう二度と、ダメんなっちまったんでねえかね」

「いいや息子よ、我々はな、あのおかたたち(看護師Aと娘A)が、世界のどこかに実在している限り、どうしても邂逅せねばならんのじゃ」

この答えに、空き巣Aは、不服そうに、道端の草をむしっていたが、その時、宇宙のどてっぱらに切れ目を入れて、扉を開いてやって来たのはほかでもない、老人Bと空き巣Bであった。そして何をかいわんや、Aらに挨拶の一つもあらばこそ、二人の女人(看護師Aと娘A)を、追い始めたのである。

老人Aが顔色を変えて、追いかけ、追いついて、

「待たっしゃい! あなたがたの正体は推して知るべし、あえて問わんが、どうして私たちの伴侶を横取りしようとなさるか」

老人Bが答えていわく、

「まあ拙者の正体を、少し補足しておけばじゃ、せんだって貴殿が、宇宙会議で会うた老人Bなどとは違ってじゃな、(※宇宙会議には老人Bは登場しない。隣人Bのことか。)貴殿の、異世界の、もう一人の貴殿自身ちうか、そういうアレじゃによって、こちらでは老人Bじゃが、拙者からすれば、どちらがBか、よう心得ておかっしゃい」

「うん心得た。しかしここは世界Aじゃ。そこを心得られよ」

「むろんじゃ。それで、先の貴殿の質問に答えるとじゃな、拙者たちの伴侶、看護師Bと娘Bは、我々の世界の外からやって来た老人Cと空き巣Cに、盗られてしもうたのじゃ」

「それは、」と空き巣A。「他人事じゃねえね。誰かに盗られちまうと考えると、急に惜しいや。だけんど、スケBどもも、またうまく逃げたもんだよ。これで旦那様BとわしBが、スケAのほうに行ってくれたらシメコのウサギってもんでがす」

これを聞いて、老人Bと空き巣Bは、確かにそうだ、謀られた! そういうわけで世界Bへ帰ると言った。

「我々は、Cらに奪われた伴侶たちを取り戻すことにする。この容赦なき自然界では、闘う者のみが、存在を許されるのでな」

「闘わずに隠れていた者だけが、生き残るわけではあるけどもね」と空き巣B。「わしらはけっきょく、そんな奴らの末裔でさァ」

「そしてCらも、Dらから伴侶を奪われたのであれば、Cらの闘いにも参戦してやろう。そののちはCらと共に、Dらの闘いにも参戦し、Eらの闘いにもと、兵力を増やしつつ、然すれば闘いはどんどんラクになる道理じゃ。いや、ご迷惑をおかけした」

これにて御免と言うと、Bらは、宇宙のどてっぱらの扉から帰って行った。

老人Aと空き巣Aは、改めて各々の思い姫たちを追いかけた。

 

 

*      *       *

 

 

あらゆる宇宙で出来た大山を登り、あらゆる次元で出来た海峡を渡り、あらゆる概念で出来た渓谷を飛び越え、あらゆる法則で出来た砂漠を突っ切り、ようやく見つけたと思うと、看護師Aと娘Aは、長らく隠れていたところから敢然と出て来て、一人の苦学生を差し出し、声を揃えて言った。

「この少年は、宿命に恵まれず、たいそう不運ですけれど、それでもへこたれずに、学問に励む立派な人です。自らに問うこと幾千万年、もはやどんな学者よりも高貴な人よ。それに比べてあなたがたは、この子のように、物を考えて生きていますか?」

体の密着具合や、ふとした所作から、苦学生Aは、どうやら肉体の上にも、二人の女人の寵愛を受けているように見受けられた。老人Aと空き巣Aは、嫉妬の炎に焼かれた。

さて女人たちの質問に答えるには、苦学生Aが自らに幾千万年問うているものが、どのような問いであるのか知らねば始まらず、老人Aは尋ねた。苦学生A宣わく、

「――と、斯く申す理由で、(中略)次に(中略)の問題です。可知と不可知の(中略)、無限遡及の(中略)秩序、パラドックスや循環論法からの中略、コペルニクス的転回からの中略、日常語で説明し尽くせる中略。然らば然らずが(中略)、中略の(中略)、我が魂の病めること悟らば必ず快癒あるべし、アートマンに中略は生じ得ぬ云々……」

空き巣Aが挙手して、

「おめえさまは、ナンだね、早い話が、ちと統合失調症気味でがす。ゴタクよりも、ふだんはどういう生活をしておるのか、収入その他、そこんところをお聞かせ願えてえね」

これに苦学生Aは、頭の中に準備していた次の台詞が、葡萄状鬼胎となってしまった。しばし呆然とし、やがて何か振り切って、答えるのには、

「僕は最近、この女性たちに拾われました。それは寵愛にして幽閉の日々。彼女たちは、魂の夫から逃げ続ける似非やもめ。僕という、幻想上の完成された息子の中に、夫であることも要求する。この母たちは死ぬまで、出来損ないの息子を傍に置き、『私たちがいなければ』という、心地よきため息、そんな自分たちの属性を逃すまい! 僕に如何なる大成をも許すまい! ……僕は生涯、肉体的に清らかでいる覚悟でした。しかし彼女らに穢された、よって僕は学問を捨てる、もう僕は苦学生ではない!……」

そう言って、苦学生Aは、おのれの皮を剥ぎ、何をかいわんや、轢き逃げ犯Aが現れたのである。そのまま高らかに笑いながら、すたこら逃げて行った。

二人の女人は愕然とし、騙されていた悲しみに、泣き崩れた。老人Aと空き巣Aが、それぞれの伴侶に寄り添うて、慰めているうちに、二人の女人は突然産気づき、それぞれ娘を産んだ。どちらも、轢き逃げ犯Aの子どもであった。

自暴自棄の女人たちは各々、我が子をオートバイに変え、うちまたがると、騒々しい土煙を立てて、逃げ去った。老人Aと空き巣Aは、翼とジェット噴射で以て、ふたたび追いかけた。

 

 

*      *       *

 

 

最大の空間を塗りつぶし、最長の時間を経、最古の発端を発掘し、最後の最新なるものを見届けて、ようやく見つけたと思うと、看護師Aと娘Aは、長らく隠れていたところから敢然と出て来て、一人の道楽者を差し出し、声を揃えて言った。

「この人は、この世の全てを楽しむことが出来る人。いつも生き生きしていて、白けるということがありません。そして、周囲の人のことをも楽しませてくれます。あなたがたは、この人のように、人生を楽しむことが出来ますか?」

道楽者Aは、ニヤニヤしながら、二人の女人を左右に侍らし、その腰に手を回していた。更に向こうには、二台のオートバイ(女人たちの娘たち)が、一台のスポーツカーに、これまた寄り添うように置かれていた。

老人Aと空き巣Aが、道楽者Aと張り合えるほどに、人生を楽しめているかどうか、答えるためには、とりあえず、この道楽者が、どのように楽しんでいるのか、知らねば始まらず、老人Aは尋ねた。道楽者Aは咳払いして、

「人生というものが、偶然拾ったものであったとしても、大いなる御心からのプレゼントであったとしても、高次の自己が見ている夢であったとしても、面白おかしく過ごすべし、よしんばこの世が、過去世の罪業をすすぐ服役なのだとしてさえ、面白おかしく過ごすべし、何となれば、快楽はやがて必ず苦痛と失望を連れて来るため服役にも適っているからだが、なに、我輩は諷刺がしたいのではない、諷刺や皮肉は、感受性の鈍麻したあとに残る、老後の楽しみだからね。ともあれ、努力や工夫次第で、相当量の楽しみが手に入る世界にある限り、努力せぬのは罰当たり、利己が嫌なら利他の甘露に耽ればよい、堕落が嫌なら勤勉の蜜に酔えばよい。我輩の場合、昼間は、飲んで食うて、騒いで抱いて、働く暇などありはせぬ。物を考えるなんぞもってのほかで、何か創るなんかは大笑いだ。うん、我輩はこの演説も、そんなに深くえぐる気もなければ、新しい言い回しの発見を期待もしない。しかしとりあえず、最後まで行こうじゃないか。昼間は、飲み食いしたと。眠る時は、あらゆる楽しみを楽しみ尽くした一日の総仕上げに、大いなるおんかたよ、あらゆる制約の解除せられた夢の中にて、更に楽しく過ごさせたまえ、と祈る。そして――」

ここで空き巣Aが、何か答えようとしたけれど、老人Aが押しとどめた。何かを待っているようであった。すると道楽者Aは、肩をすくめ、「もう少しで格言が出るのに、言わせない腹だな。『人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり』だ。ちぇっ、台無しだし、段取りも糞もあらばこそよ」と呟きながら、おのれの皮を剥ぎ、何ぞ図らん、轢き逃げ犯Aが現れたのである。

そうして、スポーツカーに乗り込むと、寄り添っていた二台のオートバイをひっくり返して、逃げて行った。

二人の女人は、愕然とし、騙されていた悲しみに泣き崩れた。老人Aと空き巣Aが、それぞれの伴侶に寄り添うて、慰めているうちに、二人の女人は突然産気づき、それぞれ娘を産んだ。

今度の娘たちは、生まれてすぐに、母親たちを凌駕する美しさと賢明さを持ち、めいめい自分たちの姉(オートバイ)にまたがった。そのまま、この狂った劇場を去ろうとしたところが、看護師Aと娘Aも、その後部座席にうちまたがった。

次女たちは、けっきょく人情にほだされて、母親たちを乗せたまま、騒々しい土煙を立てつつ逃げ去った。

老人Aと空き巣Aは、翼とジェット噴射で以て、ふたたびこれを追いかけた。

 

 

*      *       *

 

 

その先の未来には、どこを探してもいなかった。高次の世界を覗きに行ってもいない、低次の世界を見てもいない。過去や、陽炎や、泡沫や、混沌の方面を当たってもいない。あまりにいないと思うと、ある時にはあまりにい過ぎる。

シッカリ邂逅するために、もう励み努めることをやめた瞬間、ようやく見つけた。

女人たちが、このたび寵愛しているのは、一人の文学者であった。看護師Aと娘Aを両側に侍らし、そのまた娘たちを足元に侍らし――いつの間にやらオートバイの呪いは解かれ、無垢なる美女が、改めて生まれ直していた――老人Aに尋ねられる前に答えて、

「私は、我が精神の、ただ治療のためにのみ書く。普遍性を獲得するためには、かえって純個人的の目的に、徹底的に没頭せねばならぬ、社会も、世間も、どこ吹く風で。独り善がりと言うか、分娩ではなく脱糞だと言うか、堆肥にもならぬ放屁に過ぎぬと言うか、商品価値のあるものにしか用はないと仰るか、好きに言うがよろしい。あなたは常に正しい。あなたはそして美しい。あなたはしかもかぐわしい! ――この書き散らしが治療となる根拠は如何。あの精神分析学者は昇華なるこの方法の効き目の薄さを洩らしたが? 実例は如何。おのが治療のために書いた先達は? ひい、ふう、みい、……無数におるわ! そしてなかなか普遍的なものを書いた猛者もおられる。それでは副作用・危険性について。書くによって悪化し、死んだか狂った先達は? ひい、ふう、みい、……無数におるわ!」

口を開けて突っ立っている空き巣Aを、老人Aがつっつくと、空き巣Aはハッとして、

「――いやはやどうも、こやつを、わしらが轢き逃げ出来たらいいだに。ねえ先生」

老人Aは答えかけたが、文学者Aがしゃべり続ける。

「私はただ、経度にも緯度にも打ち克つ大地を求めるのだ、赤道に貫かれても涼しく、南北の極点に追いやられても温暖で、雨季も乾季もなく、台風も地震もなく、花粉も黄砂も飛んで来ず、それでいて、どこよりも厳しく、どこよりも絶望的な大地を!」

「音羽屋!」と空き巣A。文学者Aは空き巣Aを見て、ヤヤッという顔をし、

「本なんか読んで何になる、と御尋ねになる? よろしい、答えますれば、知りませぬ。人によりけり。自己形成、人生との調和、読まない人こそ幸いなるかな! ――ええ、そうですね、作品が未熟で、息切れに満ちておって、死にそうであったらば、トドメをさしてやるべきでしょう――いえ、そうじゃなく、もっとここまで降り立って、対決ですよ、鍔迫り合いでしょうが! 失敗すれば即座に死ぬような読みざましか好かんです! しかしそんな読みざまちうものも、一体どこにありますか!」

「松島屋!」と空き巣A。文学者Aは空き巣Aを見て、ヤヤッという顔をし、

「私は新しい価値や、解釈の創造など目論んでいるのではない。むしろ徹底的に平凡な、正統的なものでありたいのである。異端児や鬼才や開拓者より、言わばマンネリストと呼ばれることを望む者である。いや違う! そして急に終わる!」

かくして高笑いをしながら、皮を剥ぎ、轢き逃げ犯Aが現れた。そして逃げた。

女人たちは、騙されていたことに愕然とするのも上手くなり、同時に手を抜き始めた。合計六人の女人たちは、それぞれ、轢き逃げ犯Aの子どもを、一人ずつ生んで、このたびも全てが美女、そして全員がこのたびも、一陣の風となって逃げた。

老人Aと空き巣Aは追いかけた。

 

 

*      *       *

 

 

空いっぱいに聳え立つ棚、棚、棚に、ずらりと陳列された世界、その中の、一つの内部でまた、空いっぱいに聳え立つ棚があり、そこにまた、ずらりと陳列された世界、その中の、また、というふうに、探しに探して、無数の贋者と、贋者よりも遥かに多くの本物を、見つけに見つけて、ようやく見つけ当てると、このたび寵愛されているのは、一人の爽やかなスポーツマン、その演説は次の通り。

「余は異種競技にばかり挑んで来た。しぜん相手はいつも余よりうわてであり、全戦において惨敗を喫した。スポーツの本懐が性欲や復讐心や闘争本能の昇華にあるなら、余が狂気は目的に適う。またスポーツの本懐がゼウスに捧ぐる英雄どもの乱痴気騒ぎであっても、どだい敵わぬ邪神に立ち向かい続ける余が狂気は、ゆくゆくは神々にさえ迎え入れらるべきものであろう。またスポーツにおける政治的利用価値や経済効果については、スポーツマンたる者、そもそももっと口下手であるべきなのだ!」

演説を終えて、轢き逃げ犯Aが正体を明かし、逃げ去る。女人たちは驚き嘆き、女児を産み、逃げる。老人Aと空き巣Aは追いかける。

探し回って、見つけると、このたび女人たちから寵愛を受けているのは、男としての永遠の劣等コンプレックスを抱く男、その演説は次の通り。

「ボクは、たとい文明の抑圧を解除されても、断乎裸にはなりたくない――いやいや、女神さまがた、慰めてくださいますな、これは女性の踏み込んでよい領域ではない。多少の女性が、男根のサイズなんぞ気になさらぬことは、ボクも経験から承知でありますが、男同士ではそうは参らぬ。ふだんの力関係が、浴場では逆転するのだ。何だ小せえなと言われれば、返す言葉もないのだ。豊かな顎ひげを蓄えても、歴戦の古傷だらけになっても、背中一面刺青で埋めても逃れ得ぬ、厳然たる階級がそこにあるのだ。だからボクは、平等論者になれぬ。世の中が平等になればなるほど、劣等コンプレックスの矛先は、くだらないものへ逃げて行くから。そしてやはり、男は、人間が肉体を有する限り、男根のサイズに、魂の優劣が帰着するから!」

演説を終えて、皮を脱ぎ捨てたのは見事な男根の轢き逃げ犯A、逃げ去る。女人たちは驚き嘆き、女児を産み、逃げる。

えっほえっほと追いながら、空き巣Aが宣わく、

「もうここも、誰も見とらんでがす。今の閲覧者は……一人! ――まあよろしい。さて苦学生、道楽者、文学者と来て、そいから、スポーツマン、短小と来て、次には誰が現れるのやら。法律家、音楽家、肉体労働者、政治家、老人、病人、死人、神仏、胎児、半人半獣、そういうふうにね、際限なく出て来るにちげえねえだ。そしてどうせ誰も彼も、鼻持ちならねえペダンティストにちげえねえだよ」

「お前もな、サンチョや、ペダンティストだとか何とか、人からそんなことを言われたくなければ、そういうことは言わぬがよいぞ」

「ふん、そんな賢い御忠告もね、何かの諺に食われちまえばいいだ。わしはね、もっと気の利いた冗談とか、裏側から真理に到達する滑稽とか、言いまくるはずだに、すっかり失語症になっちまった。しかしまあ、御の字でがす。こちとら贋作をやらされることにも慣れとるでね。それに、くり返すようだけんど、あのアマっこらに、どうせ追いついたってさ、今度は坊さんに寝取られて、その次は悪魔に寝取られて、大道芸人に寝取られて、没落貴族に寝取られて、というふうにね、際限がねえだよ。わしらの種を持たない娘たちが、どんどん増えて行くだ。そしてある時には、とうとう女の都が出来ていて、鼻持ちならねえ轢き逃げ野郎が、王になっとるにちげえねえ。ふんとに、いやんなるだよ、旦那様」

「こりゃ、息子よ、そんな情けない口ばかりきいとらんで、黙って追わっしゃい。それとも、少し休憩したいと申すなら、遠慮なく言うがよいぞ」

「わしはね、旦那様、少し休憩したいでがす」

それで二人は、鉄筋アパートを出て、散歩に出かけた。

 

 

*      *       *

 

 

棒を倒し倒しして行き着いたのは役所であった。入って行くと、ある職員が、むつかしい顔をして机に向かっている。空き巣Aが、ポンと手を打ち、

「ややっ、ここで会ったが永劫回帰百通り目、あなたは昔日に、霊界における空き巣の称号を按排してくださった御役人様ではないですか」

職員Aは顔を上げ、くしゃみの拍子に鼻からゴッソリ肺が出たのを、全部すすり戻して、

「あァ、あなたですか。ええ覚えていますよ。その後御変わりはありませんか」

「ありませんかが聞いて呆れるほど、ありましただ。けれども、なかったよりは、よござんした。ところであァたも、何やら御変わりがありそうでがすね」

職員Aはうなずいて、

「いえどうも、この申請書に骨を折っておりまして」

「どういう申請書か、御見せいただいてもよろしいかな」

老人Aが言うと、職員Aは鼻をかみながら、書類を寄越した。次のように書いてある。

『「どんな女でも、こいつを知れば惚れちまうのさ。いくらアレがうまくったって、こいつには敵いっこないね」――日本語に翻訳すると、こうである。「どうして翻訳する言語により、意味がばらけるのか、ちょうど今、この瞬間に、知っている人は、どこにもいない。三百秒程前には、五、六十人、二百秒ほどあとには、二、三人いるけれども」――イタリア語に翻訳すると、こうである。「どのように翻訳しても一緒である」――これは何語の翻訳なのかわからない。「どうして意味がばらけるのか、翻訳するうちにわかって来たが、ある言語に訳した途端に、ふたたびわからなくなった」――もう一度日本語に翻訳し直すと、こうである。「原文を寄越せ」「断る!」「この原文は、翻訳されながら育ってゆく、生きた文章のようだ」――フランス語に翻訳すると、こうである」』……

横から覗き込んでいた空き巣Aが鼻で笑って、

「今さら、あえて持ち出すほどのものでもねえね。先生、休憩はもうよろしい。ずいぶん具合もよくなりました」

「では、息子よ、我々は魂の伴侶を追うとしようか。我々の半身、我々にとって、最も善きものをな。それでは御役人殿、これにて」

点鼻薬を突っ込みながら手を振る職員Aに別れ、役所をあとにした。

鉄筋アパートに戻る途中、二人は行間に落っこちた。そこでは今しも、「長らく紛失していた序文が捕まった」という騒ぎであるから、行ってみると、檻の中に入れられた序文は、以下のごとき相貌をしていた。虫食いがひどいけれども、

《序――本書は貴殿が言語中枢に……を承認せしめんと、並びに読者諸賢の……感慨恍惚三昧境に耽る純粋人生……暇もあらばこそ……からの、如何なる反証も立ち得ざる上は、甚だしき緊張の強いられたる脳細胞へ弛緩の洞窟を穿ち……貴殿代々の御判断……追従にあらせられます。御勘弁御海容の程くれぐれも……奉る、よしなに取り計らわれんこと此処に固く命ずる所存なり、従い侍らん不遜の輩は厳罰必定……如何なる結果に相成ろうとも――ええ、ありがとうございます…………やっ、我がゴーストライターの姿が見えぬがどこへ行き腐ったか、我輩のディオティマは、ミューズは、インスピレーションは? ――おうそこにおったか、代わりに書いてやったでな、各自この原稿を素早く天に撒け、散骨花火大会じゃ。そら駆け足駆け足、抜かるでないぞ!》

この序文はまがいものだ、と誰かが叫ぶと、そうだそうだの怒鳴り声、序文を削れ、序文を削れ、と大合唱が始まり、もはや収拾つかず、壇上に上がった王様までが、逆立ちだのヤギの声真似だの、その騒ぎに乗じて序文は檻から抜け出し、晴れやかに、巻末の更に彼岸へと飛び去った。老人Aと空き巣Aは、これを見届けると、行間から這い出た。

這い出たは這い出たが、しばらくは乾き切らず、足下に纏いつくものがある。

通りかかった斎場の煙突が、現代のラディカル・ヘルシズムにおける最後の喫煙者を以て自ら任じ、盛んに煙草を吸っていた。

号外、号外、と序文のまがいものが配られる。

《苔を食う貝が、水槽中もう食い尽くして、自分の殻は苔まみれなのだが、口が届かないから、餓死するよりない、そこへ、向こうから、同じような境遇の貝がやって来て、おたがいの殻の苔を食べ合えば助かるし、雌雄両性、子孫も残せる、めでたしめでたし、イヤハヤ、もう御免だ! ってんで、大爆発して、この世が出来たってえことでがす。》

《いや彼はね、彼というのも老人Aだがね、学者でも何でもないんで、その昔、鼻水を吸引する携帯器具を思いついて、花粉症だらけの日本でしょ、特許を取って、石油王みたいな金持ちになったんですよ。いやあれは壮年Aだったかな。》

《集合的無意識と名乗る夢遊病者が、本物の序文を探して来た。申さく、老後の気晴らしのため、新聞記事を集めていたら、全ジャーナリズム史に起こった全ての事件が、一つの、筋の通った、長い長い物語となったのだ!……》

 

 

*      *       *

 

 

彗星のように尾を引く残り香を頼りに、轢き逃げ犯Aを追いながら、空き巣Aがぽつりと、

「先生、わたくしたちは、敵のために祈りましょう。にっくき轢き逃げ犯Aの、健康と幸福のために」

「どうした息子よ、突然変異か」

「我らの宿命が、嫌にならないための、屁をこいただけでがす」

「そうか。それで、効果は如何ばかりであったか? 効き目があるようなら、私も試してみるにやぶさかではないが」

「腹が張っていたなら効いたでがしょうが、腹ペコだもんで、余計につらくなりましただ」

「ならば口を閉じていることに、労力の全てを割かっしゃい」

追跡については、あまり急ぎ過ぎても、見落とすばかり、だからと急がな過ぎれば、余計に見過ぎるばかり、卑下も慢心、驕りも卑屈、加えて中道のむつかしさ、急ぐべきか急がざるべきかと、ぶらぶら行った。

やたらと白骨が落ちている街道に差し掛かった時のこと、ふと二人は、遥か後ろから、何もかもを吸い込む掃除機を手に、追いかけて来ている、おのがリビドーから逃げ続ける女性Aの存在を、思い出したが、時すでに遅し、遥か昔に、女性Aは、女性Bの掃除機に吸われ、女性BはリビドーCに連れ去られていたのである。と、左様の事実が、石板には刻み込まれていた。二人は、腕を組んで、とつじょ現れた石板を読み、

「――先生、これを信じますか」

「信じるも何も、そう書いておるでな。疑うことは容易いが」

「しかし、ほれ、向こうにおるあれは、吸われたはずの、女性Aではないかね。今もおのがリビドーから逃げ回っとるだよ」

「それはな、石板を否定し得る物的証拠は、あれに限らず、世界中にごまんとあるわ。万人に承認せられ得る科学的事実に、まとめることも出来ようて。しかし、ともかく我々は、おのれのことにかまけ過ぎて、哀れな後始末屋を顧みんかった。可哀相なことをしたよ」

云々と、話しながら、気がつく頃には追いついていた。

二人の神々しい女人(看護師Aと娘A)は、追跡者たちに言った。わたくしどもが欲しくば、最悪の怪物を、退治して来てください。

老人Aと空き巣Aは、それを為したのだったが、早い話が、約束は反故にされた。

二人の神々しい女人は、次いで、追跡者たちに言った。わたくしどもが欲しくば、最古の謎を、解いて来てください。

老人Aと空き巣Aはこれを為した。しかし前の時と同様、約束は反故にされた。

女人たちは次いで、わたくしどもが欲しくば、最大の貨幣を、持って来てください。

老人Aと空き巣Aは、これも為したが、反故にされた。次いで、答えの見つけられぬ問いが、どうして起こるのか、説明してください。永遠に得られたのちにも、欲し続けていられるものを、贈ってください。決してわからぬものを、わからせてください。耳で鼻を食うてください……

老人Aと空き巣Aは、それらを、全て為した。女人たちは遂に、為さぬことは出来ないのかと、ぷんぷん怒って、行ってしまった。

老人Aは、いったん、これまでのことを、かいつまんで論文に書き、空き巣Aに、その原稿を、鉄筋アパートの自室の卓上へ届けさせた。

空き巣Aは、いつぞやの老人Aが散歩に出るのを待って忍び込み、机の上に置いた。しばらくその場に隠れ潜み、いつぞやの空き巣Aが入って来て、その原稿を持ち去るのを見届けると、老人Aの元へ帰った。

 

 

*      *       *

 

 

どこかの廃校に、校内放送が流れているのが、装着してもいない補聴器に聞き取られる。老人Aと空き巣Aは、互いの耳をくっつけ合って拝聴した。どうやら、どこかで目覚まし時計が鳴っている様子。

いわく、人口の増加と、未成仏霊の増加により、幽冥界がスカスカという大問題もさることながら、あなた魔が憑いておざるから祓いたまえかし、と言われたので、いや祓わない。魔に憑かるることは、クリオネ如来のおんはからいで、慈悲そのものからの寵愛が、一見試練を呈するは天の道理、そも魔を厭うは煩悩の泣き言。

――えェどうも、こんちは。クリオネ如来でございます。考えてみますてえとあたしなんぞは、ゆめゆめ言挙げしとうござらぬが、何を言挙げしとうないのか、一生に一度くらいはハッキリさせておこうてえのが、このラジオ番組の主題なんでありまして、つまりは、あんまりべしゃると何か駆け出すものがありますからな。置いて行かれますからな。世界の果てまで運ばれますからな。反射神経ばかりに衝き動かされる、数多の戯れ言から成る傀儡と化しますからな。黙っておりたいわけです。かむながらに、黙って黙って、分相応に生きて、跡形もなく死んで行きたいんですよ、あたしゃァ。

そりゃァね、絶対的・最終的の結論でもありゃァね、個我や、社会我や、民族我や、時代我や、人類我を概括した、天体我としての結論でもありゃァね、嗚呼、そんな御大層なこたァ、どのみち言いたかないすよ………。

老人Aと空き巣Aは、つけてもいない補聴器を、もがきにもがいて、どうにか外すと、また、魂の片割れ(看護師Aと娘A)を追い始めたが、空き巣Aがぼそり、

「しかし先生、わたくしは、二つに切断せられた魂が邂逅し、一つに戻るを望み、それが末永く続くことを夢見ますがね、ナンだ、さっきからどうも。ェえ、何が言いてえかと申すに、つまり御主人様は、ドゥルシネーアだか、ベアトリーチェだか、あるいはアヌンチャタだか、亡き紫の上だかのケツを、わしも、そういうものに類するケツを追っとるだよ。だけんど、つまりはだ、追いついちまっても、果たして大丈夫だろうかと」

「息子よ。お前は今、疲れておるのじゃ。これも幻術師どもの魔法に相違あるまいが、わしも大いにくたびれた。ついては、この大いなる仕事を、いったん中断して、ちと休んでな、あすこの木陰で昼寝でもするか。ふたたびあの売女どもの追跡を、清々しく再開するための、最短距離の迂回として」

「是非ともそう願います、ウェルギリウス」

「よろしい。それではこれより昼寝にかかる。覚悟はいいか!」

そういうわけで、二人は昼寝をした。やがてIntermissionという字幕から、sがこぼれ落ち、変則的に転がって行く物音に、老人Aは目を覚ました。かたわらでまだ眠りこけている空き巣Aを、そっと揺り起こした。

「ああ先生。おはようございます」

「息子よ、おはよう」

「たいへん長い夢を見ていたような気がしますけれども、起きてみりゃァ、何のことはありませんな。いや、ふんとに。人生というのはまっこと、愛さるべからざる何物をも持ち得ない、愛おしいもんでさァ」

「それで、心身はどうじゃ。眠る前は、我々はたいそう疲れておったからな」

「ぴんぴんしとりますだ」

「わしもじゃ。それでは、ふたたびな、最も善きことをば、為しに行こうではないか」

やがて、天の森に差し掛かった。どこかの茂みでうぐいすが、法華経、法華経と鳴き、木立のあいだを歩き回っている鶏が、金剛般若経、金剛般若経と鳴き、どこか木の上で文鳥が、《夜の女王のアリア》を歌っていた。

「先生、」と空き巣A。「我々は、夢の中から戻れましたが、あちらでも、人生は人生でした。精子や卵子という前世も持っていたし、精子の世界における永劫回帰もありました。するってえと今の我々もまた、ある夢の中の幻影なのではありますまいか。もっと高尚な正体があるのではねえかね」

「たといそうでもな、ダンテよ、まあ歳に合うた物を読んどりゃよろしい。何となく読めておれば御の字と、安心さっしゃい」

「いいや、安心ならねえだ。現にいつだったか、簡単に、老人Bや空き巣Bがおっただよ。そいつらにも更に、CやDがおったでがす。そんでまさに御主人様が、今おっしゃられたようなね、大らかな安心をば、BやCが今頃、手に入れとるかもしれんと思うと、やり切れねえだ。もしかしたら奴らは今頃、我々より高尚な正体に戻っとるかもしれねえと思うと、はらわたが煮えくり返るような心持ちんなるだよ。わしらがBらのBであったり、CらのCであったことにすらされかねねえ」

「するとダンテよ、いやサンチョか。もうダンチョでいいかな。お前は、昼寝する前のお前に戻ると申すのか?」

「申すとも。だってね、ええだか? ウェルギリウスよ、ご覧ください! 女人たちは、ぽこぽこ生まれる轢き逃げ犯Aの娘どもで、遂に女の都を創ったと思っていましたら、いつの間にやら男を生むことをも覚えて、そら、あすこの天体に、落ち着いてしまいましたよ、あれに、地球とやらに! ……今は、西暦二〇二五年ですって、何のことやら! 何もかも忘れ果てた、遠い子孫たちしかいないというわけですよ! 旦那様、わしらの魂の片割れは、あんなに、木っ端微塵に、八十億人に分裂してしまいましただ! わしの伴侶の面影と、先生の伴侶の面影とを、混ぜて持っとる女もいらあ! そういう、男すらいらあ! 先生、わしらはもう永遠に、伴侶にはめぐり会えねえだ。増え続ける人口がいつかふたたび減って行って、二人の男女に戻っても、もう突起ある伊邪那岐でも、割れ目ある伊邪那美でもない、ちゃんぽんだ。運よく事が運んで、スケだけ二人残ったって、混ざり合って薄く、あるいは濃くなり過ぎてて、どのみち完全な再会とは行かねえだ!」

「ダンチョよ、悲しむことはないぞ。まあ聞かっしゃい。わしの考えでは、この地球というのはな、眠り姫となった、我らが女神たちの、鼻提灯なのじゃ。これがぱちりと割れた時、元の彼女たちが目を覚ますじゃろうて」

「ふん。もしそうでもね、ぱちんと割れるまでには、とんでもねえ長え時間がかかるだよ」

空き巣Aは、いやだいやだと、道端に寝転がり、手足を振り回した。それを呆れたように眺めていた老人Aが、はたと気づいた気色、空き巣Aはグズりやめて、

「どうされました」

「うむ。ふと思うたんじゃがな、昔日にわしを映しておったテレビカメラが、隠しカメラとなって、どこぞで撮り続けていないとも限らぬ。然らば大長寿番組だからして、あるいは我らも、そうとうの有名人じゃ。この追跡も空間的には行き詰まったが時間的には続く。そのあいだ、顔をさされても面倒だし、ここはひとつ韜晦とうかい趣味と洒落込んで――」

「何です、韜晦趣味てえのは」

「韜晦とは、おのが才能や身分などを、世間から隠すことじゃ。それでつまり、木を隠すなら森の中、姿を消すより周りに溶け合い、通俗の限りを尽くすべきじゃろうて。ついては、意地汚くも愛すべき大凡人、弥次郎兵衛・喜多八でけむに巻こうかと思うがどうじゃ」

「ヲヽそれはいゝね。ずつと師弟といふのもおもくろくあんめへとくたびれてたとこだ、つまり無礼講だね、それじやア、わつちが喜多八か。やらう〳〵。コウ弥次さん〳〵、」

「またつせへ。こゝにひとつはかりごとでな、例のあれよ、おいらは親仁なりぬしやア廿代といふもんだから、親子といつても、いゝくらいだによつて、とかなんとかいふくだりが、ひざくりげにあつたとおもふが、あれはなんの話だつたかな」

「さやう〳〵ありやした、それじやア、弥次さんのことオ、おとつさんといふのか」

「そふさ、手めへ承知の助か」

「ひざくりげにあつたからにやアやらずばなるめへ、合点した」

「そふなりや親子だから、さいぜん師弟がおもくろくねへとかなんとか宣うておざつたがな、わつちが親で手めへが息子、つまりこれまでと一緒だ、ハヽヽヽヽ」

「エヽいめへましい、せつかく無礼講だと喜んだに、なんのこんだかわからずじめえだアな、ちくしやうめ、ウェルギリウス、私はやめますよ」

「私もな、ダンチョよ、これはいよいよ物にならぬわ。どこかの幻術士の謀り事じゃ。いやしくも膝栗毛を名乗りながら、狂歌の一つも詠めない体たらく、これじゃァ十返舎先生も浮かばれぬぞ」

 

弥次喜多の意地汚さで韜晦とうかい

いざくり出せば一句も浮かばず

 

かくして少女が本を閉じると、出囃子が鳴り、南沖亭多楽なんちゅうていたらく登場。満場の拍手。座布団に座り、湯飲みの蓋を取って、湯気を軽く吸い、さっそく羽織を脱ぎつつ、話し始める。

――ェえ、多楽でございます。あいだに挟まりまして相変わらずの、独演会でございますが、フェードアウトした闇が凝縮して凝縮して遂に電灯と灯りますてえと、向かい合ったパイプ椅子に、いつかサイコロを転がしていた台風の目と魚の目、

「おや! ここまで読み進めたですか」

「読み進めましたとも」

「いや、あっぱれだ。おみそれしました」

「どういたしまして。――それで、チキンレースの勝敗は、どうなるんでしょうな」

「さあ。ルールも決まってませんでしたしね。何にせよ、作者は降りましたよ」

「アイタ! そうでしたか。いつの間に?」

「いつってえと、そもそも今がですね、ようがすか? ……みなさまもようがすね? 二〇二五年よりゃズイブン経ちましたけんど、まだまだ世界人口は、二人の女人に戻るまでには減っとりません。この続きは、まあ師匠に任せましょう――」

――はい、どうも。ェえ、そういうわけでござんして、今ここは、たいへんな未来なんでございます。だもんですから、みなさまは今、瞬間的に、浦島太郎というわけでしてな、みなさまからすれば、ずうッとのちのちのお話をば、申し上げます。

あれからこちら、何度もその、想像だにしなかったことが、起こりました。

はい。ほんとうにたくさんの苦労があって、ただいまのような――みなさまからすれば、何代も何代も先のことでありますが――美しい時代に、到達したわけであります。

「よくぞあれだけがんばった。よくぞ立派に耐え抜いた」と、褒めてあげたいですよ、あたしゃァ、ほんとうに。

じっさい、あたしはね、色々の御苦労に先立って、みなさまを褒めに来たんですよ。何だかんだキレイに終わりかけていた乱痴気騒ぎに、間一髪滑り込んでね。まったく、ノベルジャックに成功した噺家なんてェのは、あたしくらいのもんですな。はばかりながら。

ェえ、そういうわけで、みなさまが、みなさまの御先祖たち――暗中模索しながら、陰になり日向になり、善になり悪になりして、現代を築く礎となった御先祖たち――を、偉い、褒めてあげたい、と思う御気持ちがありましたらば、そのような御心をな、みなさまはどうか今、御自分にも、差し向けてあげてくださいませ。

それが、おおそれながら、遠い未来の地に立つ私からの、せめてもの贈り物でございます。

 

 

 

2025年7月4日公開

© 2025 尼子猩庵

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