猿の天麩羅 13

猿の天麩羅(第13話)

尼子猩庵

小説

9,773文字

 不条理な大幸運に飄々と忍従する中学生少年少女たちのロードムービー。

 異世界にして過去世。未来にして神話時代。下劣にして荘厳。地獄にしてユートピア。

 図書館にはなく、本棚にはある。人生で二度捨てる。

※第13回ハヤカワSFコンテスト二次選考落選。

 

 

 

伊知郎はビールを飲みながら、昼間本郷の奥さんと息子さんたちがすすめてくれたように化学肥料会社で働くかどうか考えていた。そうなれば心丈夫だ。あの親戚たちはひじょうに好意的だし。頬に蟻がうじゃうじゃ湧いた。

莫大のお金が振り込まれる口座を、明日ひらきにゆかなければならない。安永さんがついて来てくれる約束だった。

この親切な老人を如何せん。自分のことのように喜んでくれている。卑しい打算のようなものは感ぜられず、かえってなにか不用意に報いたら怒り出しそうな気さえする。

「いやァ、よかったよかった。そんじょそこらのよかったよかったじゃないよ――」

赤い顔をしてしきりにうなずいていた安永さんが、ふと着ているポロシャツを見下ろして、ため息をついた。千鳥格子のワイシャツを白いポロシャツと一緒に洗濯機に入れてしまい、色移りしてしまって、淡い千鳥格子になってしまったのだった。さらに靴下から若干ニット素材も移ってしまって、少々暑くもあるそうな。

「私は昔は灯台守でな、じつに色々な海を眺めた。旅がらすでね。異動があるもんで。灯台守は国家公務員だからさ。……あれは遠い昔だ。……遠い遠い昔だ……」

安永さんが酔いつぶれて眠ると、伊知郎は静かにアパートを出て入り江へ向かった。

夜の町なみはやわらかだった。どこかで変な声の梟が鳴いていた。

――泣いている未来が楕円、怒っている書物が鋭角、笑っている句読点が因果律である場合、眠っている発端はなんであるか?……

――一卵性双生児の片方が〈生〉でもう一方が〈死〉である場合、二卵性双生児の片方が〈ペットボトル〉ならもう一方はなにか?……

砂浜に立った。前方には夜の海が見果てなく続いていた。月はなく、澄んだ夜空に見たことのない星座がかかっていた。

ふいに、風もなければ船も通らないのにひじょうに大きな波が来た。逃げ遅れた伊知郎は腰まで濡れて、しぶきが顔にかかった。すると頬から蟻が、ぎゃあぎゃあ喚きながらこぼれ落ちた。あとからあとからひり出て来ては盛大にこぼれ落ちて行った。波は落ちた蟻たちをさらって海に引き返し、ふたたびなにもかもが静まった。

濡れて黒々した砂浜に伊知郎は立ち尽くしていた。

頬を触ると、すべすべしている。きっと鏡を見れば幻のぼこぼこした巣の痕が残っているだろうし、それは同病者には見えるだろうが、もう蟻たちの気配はどこにもなかった。

昏睡から覚めたように、猛毒が抜けたように、意識が透き通った。窓を閉めたように、鎮火したように、めまいや耳鳴りが消えた。

他人事だった心肺や胃腸が帰還し、脳髄が帰還し、手足の指先が帰還した。

自分がまだ若者であるという事実が思い出された。すべてのあいまいなる自覚症状は――症状を自覚する主体自体のあいまいさは――イソギンチャクのように一瞬でしぼんだ。

海の匂いが強い。自分はこんなに生きていたのかと思った。ひんやりと肌寒いけれど、慢性的な悪寒が去って――慢性的な悪寒に起因する慢性的の不感が去って――ただこころよく涼しかった。足の下の地面はしっかりと不動なる頼もしさを取り戻していた。

快癒した自意識の花園の中で色々なことを発見していた。いつまでも飽きなかった。けれどもいい加減のところでやめておくことにした。とにかく世界はもう一度冴え渡ったのだ。

ふと見やれば、先ほどの波で少々打ち上げられたボートが砂の上に傾いている。

空が白み始めていた。

 

――さて。(と伊知郎は思う。)なにもかもが解決し好転した今、ここですべてを捨てて元の世界に帰ったら、長々しかった我が青春はようやく幕を閉じ、青春ではなくなったものが漫然と続いて行くだろう。

なんとかして会社に戻り、まあ伯父か美濃部にでも紹介してもらって、結婚して子どもができればよいな。妻も子どもも作喪衣渡町での蘇生と莫大な遺産相続の話を、まあ信じてくれないだろう。それもよし。それとも最初から秘密にして、一人ほくそ笑みながら墓まで持って行こうか。それもまたよし。

あるいはある晩、一緒に眠っていた妻は穂野に起こされて、わたくし本郷伊知郎の奥部の人物(知明)の所有権について二、三の脅迫を受けるかもしれぬ。それとも二人の女性はわたくしの寝たあとに語らう仲となるかしら。

「それにしても穂野さんってば、伊知郎さんの中に閉じ込められていて可哀相ね」

と妻が言うと、穂野は軽やかに笑って、それは的外れな同情よと答える。妻はいぶかしげな顔をして、

「どうしてよ。あっ、もしかして、そっちじゃ知明さんとラブラブだったりして?」

「ううん、知明は、やっぱりずっと眠ってるの。伊知郎さんが男で、知明も男だからじゃないかな。わたしはこうやって、ひそかに分裂できるんだけどね。きっとわたしが女だからでしょうね」

「ふうん。ややっこしいのね。でもそれならどうして的外れなの?」

「それはその――……じつを言うとね、うちの知明が常々憧れてる、こんなふうになりたいなっていう理想の男性が時々通り過ぎるんだけど、わたしすごくモテちゃって。あんがい捨てたもんじゃないのよ。でもこれだったら浮気じゃないでしょ」

これを聞いて妻は目を丸くしたが、穂野も目を丸くし返して来たので、プッと吹き出し、笑いころげた。

「ちょっと、伊知郎さんが起きるでしょ」とたしなめられて、目じりの涙をぬぐいつつ、

「だって穂野さん、そんなの知明さんの父親と寝るよりヤバい浮気よ」

「ええ? そんなことないよ。だってあの人たちは知明の理想の自分なんだよ?」

「だから残酷なのよ。それ、本人には絶対ばれちゃ駄目よ」

「それができないのよね。私たちってテレパシーでつながっちゃってて。嗚呼……もめるかなあ」

「もめるもめる。まあ、その理想の姿っていうのがどういうものかにもよるけど」

「それはつまり、知明のがその、ごにょごにょで」

「あらそうなの? それじゃ理想の人たちのは大きいの」

「すごく大きい。別に気にしなくていいのにね」

「だめだめ。男にとって肩書きとサイズは切実な問題よ」

「はあ……気が重いわ」――「え? なにか言ったかい?」

と、穂野から目覚めたわたくしが尋ねると、

「なんでもありませんから、心配せずにお寝なさい」

と妻は答えるのであった。

――さあ、(と伊知郎は想像する。)あのボートを押して、海に浮かべて。莫大の財産を後ろに残して飛び乗り、わき目もふらずに漕ぎ出して。やがてボートは潮の流れに乗り上げて、それからは漕がずとも勝手に進んで行って。

櫂を仕舞ってぼんやりと座って。空を眺め、海面を眺めて。一度だけ近くを蛸が泳いで行くのが見えて。

そうして故郷に上陸する……あのL字型な池に。なにもかもが元に戻る。するととつぜんやわらかな光に包まれて、知明と穂野は再会する。二人を吐き出したわたくしは本来の運命に追いついて消えて行く。(――●●県●●市在住本郷伊知郎さん小学生――母親の運転するトラクターに巻き込まれ――)……

伊知郎は漕ぎ去ってゆく自分の後ろ姿を見送った。行っちまったな。ボートをあげる約束だったのに安永さんには悪いことをしたけれども、きっと埋め合わせはしよう。

どこかで海鳥が鳴いていた。

――海の底ではレースのカーテン。都市の横断歩道では熟れた柿。森の地下では瓶詰めのマーマレード。上空五千メートルでは表紙のない日記帳。夜の闇ではコウノトリ。ダムの水面ではオリーブオイル。台風の目では映画を見ている孤独な童女。それはなにか?……

 

 

 

袋とじ付録   ローマンランドの雀蜂

 

 

 

遂に解体の運びとあいなった◆◆市は、その日、ある市有地を、化学肥料会社に勤務する青年、小川知明に返却した。その土地は、農地改革以前には彼の一族の私有地であったというのだったが、知明には寝耳に水だった。

役所へ赴いて詳細な説明を聞いたけれど、どう考えても自分には権利がないと思われた。念を押して確かめていると、とうとう応接間に通されて、数分ののち、見るからに疲労困憊した市長が現れた。市長いわく、

「とうとう熱病的な実力行使に乗り出した、後代に取沙汰もされないようなつまらぬ時流の一端に盗られるよりも、愛すべき市民に返すほうがマシですからね。ケッタクソの問題ですわ」

「しかし、どうして僕なんでしょう。一族の家は他にもありますし、うちにしたってなぜ僕なのか。父も祖父も健在ですが」

「それはですな」と言うと、ポケットをまさぐりつつ灰皿を取り寄せ、「つまりナンです、君は太刀坑たちあな中学校の出でしょう。じつは私もそうでね。我が人生最初で最後の公私混同だ。ここはどうか一つ、なにも言わずに」

「ですが、そんな大きな土地を返却していただいても管理ができませんし、固定資産税ですか、そうしたものも払われませんが」

と知明が言うと、市長は首を左右に振り、自嘲的に笑って、

「固定資産税なんちゅうものは、もうありませんよ」と言って煙草をくわえた。

返却された土地は広大な山林で、ちょうど中央あたりに大きなテーマパークがあった。返却されるものの中にはそのテーマパークも含まれていた。

テーマパークの名前は《ローマンランド》といったが、知明は聞いても知らなかった。父親に尋ねてみると、

「お前がまだ小さなころに一度連れて行ったんだが、まあ覚えてないだろうな」と言った。それから顎をさすりつつ、「まだ潰れずにあったんだな……」

次の休日、知明はフィアンセを助手席に乗せて車を運転し、自分の所有物になった土地を見に出かけた。

 

山中の道路を西へ西へ、延々と進んで行った。舗装されているけれどかなり狭かった。大きなテーマパークへと続く道だから、さぞかし多くの車とすれ違うことだろうと懸念されていたけれど、けっきょく最後まで前からも後ろからも他の車は現れなかった。

都市からずいぶん離れた、山々の奥深く、ひときわ見晴らしのいい高地にローマンランドはあった。巨大なアーチ型の門が開け放たれていた。一台の車もバスもオートバイも停まっていない駐車場に車を停めた。

降り立った駐車場はひじょうに広く、かすかに枯れ葉や砂塵が舞っていた。知明と穂野は正面玄関へと続く広い階段を上って行った。職員はまだ働いているということだったけれど、見渡す限り誰もいなかった。

階段を上り詰めると入場口付近の壁一面にローマンランドのマップが描かれていた。このたいへん大きなテーマパークは、アトラクションの区画がぞんがい少なく、中規模なプールやコンサートホールのある他は無数の花壇や池に埋め尽くされ、遊歩道が網目状に走っていた。

中央に建っているお城はホテルであるらしかった。

ローマンランドの建築は◆◆市が昔ドッペルブルクと姉妹都市だったころにドイツの古典大工らの設計に基づいて造られたものだと、色あせてほとんど剥げかかった案内板に書かれてあった。

穂野は無数の花壇の連なる彼方にそびえ立つお城を見るとすっかりはしゃいで、知明を軽く引っ張りながらどんどん歩いて行った。

網目状の遊歩道の交差地点はしばしば陸橋になったりトンネルになったりして合流せずにすれ違っていた。噴水の停まった四角い池がいくつもあった。どこも浮草にびっしり覆われていて、水の中になにか生きものがいるのかどうかもわからなかった。錆びついた自動販売機が置いてあり、鯉か金魚の餌らしいものが百円で売られていたけれど、百円玉を入れてもなにも反応しなかった。

ふと水面が揺れたけれど、なにが泳いだのかはわからなかった。ただホテイアオイの花がこちらを向いて揺れていた。

あちこちの花壇の植物はずいぶん野生化して、草ばかり繁茂する中、痩せて小ぶりになった花がそよ風に震えていた。繊細な種類は全滅したものと察しられるが、強いのは石畳の地面にこぼれ落ちても芽吹いて小ぶりに咲いていた。

到着して見上げたお城は、まるきりの本物を現地から移築したのではないかと思われた。石造りの壁はたいへんな蔓草に覆われて、あちこちに黄色い花が咲いていた。

尖った屋根々々は五百年の陽射しと風雨を経たように真っ白になっていた。すべての窓が閉まっていたけれど、鎧戸はことごとく開いていた。

お城の門も開け放たれていたので、二人はしっかりと手をつないで中に入った。

窓から射し込む光で薄明るかった。カーペットに積もった埃の中になにか小さな獣の足跡が点線を描いていたけれど、それも古いものだった。

エレベーターが動かないので階段で最上階まで上った。最上階の上にもまだ尖塔への階段が続いていたけれど、穂野は廊下の最奥に扉の開け放たれた一番上等らしい部屋を見つけると断固そちらへ向かった。

空気がかなりよどんでいた。天井から床まである窓を開けると白いカーテンがゆっくりとふくらみ、新鮮な風が流れ込んだ。

広い石造りのバルコニーに出ると、そこからはローマンランドの南半分――正面玄関からお城まで――がすっかり見下ろされた。二人は石の手すりに腰かけ、足を外に垂らして、穂野が作って来た弁当を食べた。

食べたら双方ドッと眠気が来た。週末の疲れもあり、ここまでの運転の疲れもあり、また一連の変事になかなか追っつかないものもありして、ちょっと尋常に物を考えられないくらいの眠気であった。

それなのでほうぼう探検する前に、天蓋つきの大きなベッドでひと眠りすることにした。

 

どれくらい経ったのか不明だった。となりで穂野はまだ眠っていた。

知明は穂野の寝顔を見つめた。幼少期から昵懇の仲だった。娘をあまり愛さない両親だった。勉強ができたけれども進学は許されなかった。特別支援学校の事務員の仕事が終わると、それほど年の違わない継母の家に寄り、腹違いの妹たちの世話をしていた。夜遅く継母が帰宅すると自分のアパートに帰った。そうして、どれだけ疲れていても映画を一本観るのだった。ビデオショップに勤めている年の離れた兄のおかげでレンタル落ちの廃品テープが山ほどあったので。とりわけ古い映画を好んだ。

孤独な少女時代を過ごし、自己実現を挫折し、私生活を搾取され、たくさんの映画を見た穂野は摩耗し切った感受性を抱きしめて疲れ果てていた。

知明は、童女のように眠るフィアンセを起こさないように気をつけて、そっとベッドから出た。

バルコニーに立つと、傾いた太陽にすべての池が反射していた。浮草に覆われた池はじわじわと淡い光を照り返し、見つめていても眩しくなかった。知明は手すりに肘をつき、遠くまで広がる山々を眺めた。

その風景の中に、日常の心配事はどこにもなかった。しばしばとらわれるあの大いなる悩みもなかった。

こうなると大いなる悩みとはなんだったのだろうか? あの、それについて話し始めると、いつも穂野が接吻でふさいで来る、如何ともしがたく切実な、あいまいであるがゆえに深刻な、人間にとって最も真剣なものであるはずのあの諸問題が今どこにもないなんてにわかには信じがたかった。

この広大な廃園(?)と、夕焼け空と山々は、ずっと未来にあるもののように思われた。色々の出来事の一切が済んだ世界のようだ。かつて人間がいて、とんでもなく進歩発展し、どうしようもなく悩み尽くしたことも、ことごとくが成仏しているかのようだ。

これまでの生涯に、精神のよりどころとなるような特定の思想はなかった。無思想もなかったから無関心もなかった。それなのでそれなりに翻弄された。

魂のよりどころとなるような特定の信仰もなかった。無信仰もなかったのでこれもそれなりに翻弄された。(あれはいつ、どういう時だったか、まるでどこか別の世界にいる本来の自分が、生きたまま成仏したとでも言えるような瞬間があった。しかしそれは宗教のたぐいとは別のものだと思われた。)

政治は人間関係の義理に従ってさっさと投票し、応援した政党の動静も見なかった。社会や世間への参加においてなんらの意欲も使命感もなかった。これらも完全にないわけではなかったので、それなりの義憤と気だるさだけは持たされていた。

スポーツや芸術における情熱もなかった。ここにもまたまったくの無関心もなくて、夢中にはならなかったけれど一通りはやった。少なからぬエネルギーをあいまいに散らした。

仕事は、すなわち工場の細分化された作業は、自分が一日どれだけ働いてどれだけの成果に貢献しているのか等々、判然としないまま、生き甲斐と言うには程遠く、やるだけのことをやってもらうだけのものをもらっていた。

正体不明の自意識を知らぬ間に獲得していた。最初から高度文明の恩沢に浴していた。人類史の頂点に生まれたのだという優越感を刷り込まれていた。それに対する安直な自嘲すら与えられていた。

――等々、このような話をすると穂野はただ接吻で返事するのだった。大量の映画を観て無意識に染みついた女優的仕草と女優的表情で一切の保留を命ずるのだった。

こうしてふわふわと落着しながら暮らしていたところが、とつぜん一城のあるじになってしまった。あまりにも分不相応で不条理な大幸運を賜って。

しかし結論として、この風景の中にない問題は悩みようがないらしかった。だんだんどうでもよくなった。解決云々を飛び越えて、諸問題に健全に混乱したまま安らかだった。

いつの日かふたたびの没収を言い渡されたらいさぎよく手放そう。この幸運への付き合い方はその他にはない。さしあたりそれくらいのことだ。さしあたりだけでたくさんだ。

しみじみと休らいだ気持ちで景色を眺めていた。けれども、生き成仏のような感慨もまた時間とともに過ぎ去って、どう考えても手にあまる財産の管理や、いずれ避けようもなく訪れるであろう売却の問題などが頭をもたげ(ちょっとトイレにも行きたかった)、太陽とともに気持ちも沈み始めた。

その時出し抜けに一匹の雀蜂が飛んで来て、知明の顔の前でうろうろと浮かんだ。

 

知明は、刺されてはかなわないと思うから、平静をよそおって動かないでいた。すると雀蜂は知明の目の前で宙に静止し、あごをかちかち言わせつつ、

「小川知明さまで」

と言った。即座には答えられないでいると、ひゅうと近づいて来て、お尻を突き出した。知明が飛び退くと、雀蜂も飛び離れて、

「あいすみません、ゆめゆめ刺そうなどというわけではなかったんです。翅のあたりがちょっと――凝っておりましてな。こう、空中にじっと停まっているのは骨なものでして。一種の、筋肉痙攣です今のは」

雀蜂はそれから手すりに停まった。知明を見上げて、

「あちらに馬車が御座います」

と言うと、一本の脚を持ち上げ、知明がまだ見ていないお城の裏の方角を指した。

「しかし、御者がもう、この通りなものですから、どうにもならんですな。馬は、かくしゃくたるものなんですがな」

「はァ……」

「ええ、ええ」

そのままぴくりとも動かないから、あるいは死んでしまったのかとすら思って、なにか声をかけるべきだろうかと考えるころ、

「つまり、あちらに馬車が御座いますな」

知明は、たいそう切迫した疑問がたくさんあったけれど、なにしろ面食らっているために、

「――その馬車は、どこかに行く馬車ですか」

「いやもう行きませんな」

「昔は行きましたか」

「昔は行きました。イヤァ……懐かしゅう御座いますな」

それから雀蜂は首を伸ばし、知明の肩越しに室内を覗く仕草をして、

「かわいらしい奥さまですな」

「婚約者です」

「それはよう御座いました。式はぜひともローマンランドで挙げて頂きとう存じます。立派なチャペルが御座いますからな」

「あなたの他にも職員はおられますか」

「おります。当地がこうなってしまって、我々もこうなってしまいましたが」

「みんな雀蜂ですか」

「ええもうみんな雀蜂です」

「それはやっぱり、市の解体のしわ寄せで――」

「いやもっと前から、こうなりましたですな。ローマンランドが世間様からすっかり忘れられて、それから次に、本当に忘れられてしまいました時からですから」

「しかし、僕の父は覚えていましたよ」

「え、そうですか? ……なんとまあ、それでは、色々と考え直さなければなりませんな」

とにかく今、直接役に立ちそうな質問を探していると、

「しかし我々は、もうあなた様のしもべですからな。どうかここに住んで頂きとう存じます」

知明は後ろ首をさすりつつ、

「住むとしたって、たとえば食事はどうしましょうか」

「果物ならば、ホテルの裏の広場に若干と、音楽堂の裏の果樹園に山ほどなっております。今年は桃が豊作で、どえらいことになっとりますな。地下蔵にはワインがふんだんに御座いますし、柵が壊れて鶏どもは好き放題に走り回っとります、卵もよう産んどります。

また花壇の土が、ずいぶん肥沃ですな。ちょいと耕して種を撒きゃァ、野菜も少しっぱかりは取れましょう。ガスはつきませんが、調理場はどうにか清潔なもんですから、薪で以て料理もできるのではなかろうかと存じますな。調味料もいくらかは駄目になっとりましょうが、粗塩なんかは無事に、ふんだんに御座いますな」

「鶏はたくさんいますか」

「ぎょうさんおります。狐が来るので、ずいぶん追い払いました。一度なんぞは熊が来まして」

「熊が」

「ええまあ熊は、そのまま行ってしまいましたがな」

「トイレはどうしましょう」

「それは、あちこちのトイレはもう使われませんから、ちょっと工夫していただくことになりますな。託児室におまるがありますから、どこか森の中に穴でも掘って頂いて」

「なるほど――」

「水は井戸があります。これがまったくきれいで、飲めますな」

知明は他にもなにか実際的な問題がなかったろうかと考え考え、

「服の替えがありません」

「劇団が使っていた衣装がふんだんに御座います。生地はどれも柔らかで、通気性もいいとか聞いとりますな。最初は少々ナフタリン臭いかもしれませんが、まあしばらくの辛抱で」

「お風呂はどうしましょう」

「ホテルに引いていた温泉は涸れてしまいましたが、どういうわけか、あちらのほうの温室の裏に御座いますレストランの地下倉庫からじわじわと湧いて出て、腰丈くらいに溜まっとります。少々熱いですが、そばに川が流れておりますから、そこから水を引いて御埋めになれば問題なかろうかと存じますな。――ああ、この川には魚もおりますし、ホテルに非常用の缶詰が山ほど御座いました。賞味期限と言ったらもう、長いものでは、向こう五、六十年は問題なかろうかと存じますな」

「ははあ……」

「旦那様。我々一同、ローマンランドの滅亡を見るのが忍びないんでして。あるじがあれば生き返るもんです。我々もこんなふうですが、まるきりの蜂畜生というわけでもありませんで、こうなってから何年も経ちますが、全員、至って元気なようですし、私なんぞはむしろ若返ったくらいのことです。あんがい力もありまして、門を開けるくらいなら、みんなでかかればできないことはないです」

「他の人たちはどこにいるんですか」

「それですな。玄関の大門を開けたでしょう。そして、ホテルの門も開けましたんで、みんな少し、くたくたになって寝とります。御無礼を御許し頂きたいと、一同断腸の思いで。ただ一人、なんとか動かれた私が、代表であいさつに参りました次第で御座います」

「フィアンセと相談しても構いませんか」

「それはもう。じっくりと御相談くださいませ」

「ところで、僕たちがここに住むことになったとして、友だちを呼んで住まわせても差し支えはありませんか」

「差し支え御座いません。あまり大勢でなければ、いっそう差し支え御座いませんがな」

「花菜と、白谷啓弥と、人魚の婦人、瓢藤、向坂、賀谷、八代井、小橋、カトキヨ――九人です。……いや、そうだあと一人、義理の姉がいました。森に住む魔女に囚われています。これを今度みんなで救出しに行きましょう。大勢の雀蜂に刺されたらあの老婆もたまらないだろう――だから十人です」

「それならまったく問題御座いません。魔女退治も、我々一同、大いに腕が鳴りますな」

あたりは真っ赤な夕映え空だった。知明は室内に戻ると、すやすや眠っている穂野を、そっとゆり起こした。

 

 

 

2025年7月3日公開

作品集『猿の天麩羅』最終話 (全13話)

© 2025 尼子猩庵

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