猿の天麩羅 10

猿の天麩羅(第10話)

尼子猩庵

小説

13,683文字

 不条理な大幸運に飄々と忍従する中学生少年少女たちのロードムービー。

 異世界にして過去世。未来にして神話時代。下劣にして荘厳。地獄にしてユートピア。

 図書館にはなく、本棚にはある。人生で二度捨てる。

※第13回ハヤカワSFコンテスト二次選考落選。

 

 

 

――キンケイの声変わりは、狭心症のリフティングよりも、高価か低価か?……

――漁師町の信心深さが根づいたと同時に枯れた元々の大木は次のうちどれか? 一、傾斜。二、鈍角。三、傾斜。四、鈍角……

バスのきれいなことにそのうち道路のほうで釣り合って、やにわに舗装されてきれいになるかもしれないと虚しい期待をかけ、しばらく街道を走った。それは「せっかくバスが薄汚れた途端に道路がきれいになったら笑っちゃうね」と穂野が、自分でも気づかずに頭のどこかで考えたのを知明が発見し、それによって現れた期待だった。

けれども道路はずっと薄汚かった。土埃を舞い上げて走っていたがバスはなかなか汚れなかった。そして無理矢理汚しても道路は自然に汚れているのだからどのみち馴染まないであろうと思われた。馴染む馴染まないの問題の実質的な如何は、二人にはわからないので、つまりはのっぴきならない問題なのだった。それなのでなにか枝道があれば入って行き、寄り道しながら自然に汚れるのを待った。

信じられないくらい高齢な人ばかり歩いている地域や、子どもしかいないのではないかと思われる地域、第三の性別のような人から、第六くらいの性別のような人ばかり歩いている地域など、のんびりとめぐっては街道に戻った。《蘭鋳らんちゅう街道》と標識があったけれど水路や貯水池はことごとく干上がっていた。やがて《夾竹桃街道》や《棗椰子街道》と看板に書かれてあったけれども、むろんいつか通った同名の街道ではなかった。

誰も歩いていない地域の中央に邪神の別荘のような邸宅が建っているのを見て、知明と穂野はたいそう悪趣味だと思ったので訪ねた。服や髪が艶やかに乱れたメイドさんが出て来たので、なにも用事がないことを伝えると、邸宅の主人からお茶に招待された。

暗い部屋に通されて、ひじょうに高価な紅茶とケーキを御馳走になった。外観に恥じぬおどろおどろしさな大広間で、どこか体の悪そうな主人はたいそうしゃべった。

「僕は一緒に過ごした体験をふんだんに持った人にしか一目惚れができないし、一目惚れした人としかそもそも一緒に過ごせないのです。つまり一般の愛情を持つことができない――呪いのようなものですわ」

どうゆうこっちゃと穂野が思うと、知明がシッ、と思った。ところでメイドさんは主人とひじょうに顔かたちが似ていたけれども、それについてはなんの紹介もなく、

「この家の地下深くには、ものすごい高効率な地熱発電所が埋めてありましてね。そして他言無用に願うが、僕は電気を固形化する技術を持っておりまして、あるルートである国に売りつけているんだけれども、これがひじょうに儲かる。

この技術は一族代々の秘儀でしてね。僕の親父が若いころに反抗心からアカデミーへ発表したんだが、同じ手順を踏んでも誰も固形化できないんですよ。どうしてか我が一族がやった時だけ固形化が起こる。だからけっきょく認められず、まあそのおかげで安全なんですが。

ええ、ここにいるあいだは色々と安心ですよ。地震が来るのを数十秒前に探知しますでしょう、そしたらこの家はジェット噴射と強力な磁力で以て数十センチ浮遊するんですな。それから他にも――いや自慢話はこれくらいにして、僕はね、まことに厖大に稼いだので無数の恨みを買いました。しかし僕に危害なんぞ加えよう者は、どえらいひどい目にあうことを誰しも知っていますからね。

――僕が誰だかわかりますか? ……わからないなら、あなたがたは幸いです。これ以上の幸いはないほど幸いだ。

僕の安全は復讐のからくりの完成によります。あちこちに莫大の謝礼と脅迫を張りめぐらせているのでね。それはもう世界中が一丸となって調べたところで、どうしても調べ尽くせないほど綿密に、複雑に、粗雑にね。金儲けに費やしたのと同じか、それ以上の時間と労力を使ってこの完璧なシステムを僕は作り上げた。

たとえば僕が消えれば有益になる団体があるとして、これが甲、そしてこの団体と敵対する団体が乙とすれば、乙が甲を装って僕を消そうとする場合なんかが考えられますわな。もう神も騙すくらい巧みに巧みにやった場合ですがね。自分たちにさえそんな意識はなかったくらいのレヴェルでね。しかし無駄ですよ。僕のシステムはかならず真犯人を嗅ぎ当てる。もう何度も実験してみたんですが、いくらやってみても同じで、まったく面白くないほど完璧に嗅ぎ当てましたよ。時代がいくら移ろってもこのからくりは破れますまい。時代というものが、人類の上に引っかかってる限りはね。

だから僕はもう、たとえば誘拐されて密室に閉じ込められて痛めつけられながら、『貴様のからくりはことごとく失効した』とかなんとか言われるようなことになると面白いなあと思いますよ。『貴様はけっきょくなにも完成しちゃいなかったんだ、すごく不完全で、不手際で、みんな恥ずかしいから見て見ないふりをしてるようなからくりだったんだよ』とかなんとか言われたら面白いだろうなと。

それでそのまま僕が絶望して殺されちゃった、そのあとでね、僕の知らないところで、もう僕も信じてないようなところでですよ、延々とからくりは発動するんですな。僕の殺害に関与した者は、その血筋の最後の一滴まで、いくら薄かろうがヘモグロビン一個だけでも有しておる最後の一匹まで、最大限の苦痛と恥辱ののちにいなくなるし、一切の不名誉な事件の真犯人として歴史に記録されるし、死後も無数の坊主たちから永遠に呪詛を受け続けることになるんですわ」

艶やかに服や髪を乱したメイドさんは、最初は主人のとなりに立っていたけれど、ある時主人の足元の机の下に潜ってしまってからは現れなかった。知明と穂野はケーキを食べてお茶を飲み干すと、うやうやしくお辞儀して邸宅を出た。見送りに出て来る主人は不満そうだったが、それだからこそ招待したのだったねと言って、そうだなにかお土産を持たせよう、スバラシイお土産をと探し始めたから、目を盗んで逃げた。

サイドミラーの中で小さくなって行く邸宅を見つつ、自分が神さまだったらここで邸宅に隕石を落とすよ、それなら完全なからくりでも復讐ができないものなと知明が考えると、穂野はううむと考えて、でもその場合、お天道様が、親戚の最後の一人まで皆殺しにされて、不名誉な犯人にされて、永遠に呪われてしまうよと考えた。

言語思考の病状の一つは大いなるものと瑣末なものを同等に扱うところだなと知明が考えると、穂野は、今なんだか同時にいくつも考えてたよと指摘した。怖いからやめてほしい。無理でもいいから。

わかった。きっとやめる。やめれそう?

うん。つまり五感が世界から受け取る刺激を直訳のみして――統覚機能を黙らせて感覚器官にのみマイクを渡して――言葉の意味や印象が変転するから言語思考は人格を――言語の起源を自省すれば遂には猿を崇める最終宗教に至って仕舞いかしら。だって猿は文明を創造して人間になったけれども、人間はそれを引き継いでいるだけだものな。猿の猿真似が人間さ。

……だめだこりゃ。

 

昔日に理性崇拝抑止放送だったものが流れている。

――町には今日、午前中だけで、電車が七本通った。曇り空には、音だけの飛行機が四機通った。午後からは、電車が十八本通り、晴れ渡った空に飛行機が三十機通った。(上空の飛行機の音は聞こえない。すると曇り空だった午前中にも、もっと多く通っていたのに、上空だったので聞こえなかったため、数えられなかったのかもしれない。ただ、空が晴れ、湿度が下がった分、午後は午前中よりも、音の触手は短くなっている。)さて、午前と午後、タクシーはそれぞれ何台通ったか?……

埃っぽい道路を延々と走った。大小の町があまた現れたけれど、ほとんど立ち寄らず、いく夜も野営が続いた。道路には追い越す者も追い越される者も、縦に並ぶ者もすれ違う者もなかった。途中に《尼騾馬あまらば州》と書かれた標識があり、そこからは見渡す限りの水田で、ほとんどが放置されて久しいらしかったが、いくつかは今も耕されていた。

バスを停めて体操し、そのへんにぼんやりと座っている時のこと、一つの水田の畦に鴨が一羽きり座っているのを穂野がえらく気に留めているので、知明も眺めた。

すると、二人のどちらが作った物ともしれない、どちらでもないような、まるで数十人の手になるような話が鴨に降りかかって来た。それを知明がまとめた。

――あの鴨はつまり、水田へ、出勤して来たのだけれども、仲間がストライキで、いないのであった。彼は名前を篤介といって、病気の妻と子どもを養わなければならないので、ストライキに参加せず、出て来たのだが、工場は、工員たちの不在のため、仕様がないから臨時休業になっていた。

それで彼は、なにもすることがなくて、あそこに座っている。工場主はやがて、組合の要求をのんで職場環境を改善し、全員の給料を上げる。それでふたたび働き出した工員たちは、篤介を裏切り者だと言って仲間はずれにする。権力の犬の鴨めと言われる。工場主も、工員たちを怒らせたくないので、一人だけ出勤していた篤介を守ってくれない。孤独な篤介は、居心地が悪いけれど、病気の妻と子どものために働き続ける。

……それじゃあ次は、篤介の来世の話をして。と穂野が思った。……それとも、来世なんてない?

――あるとも。篤介は、来世でも、ああしてあそこに座っている。けれども事情が違う。来世の篤介は、ある日、小さな売り物件を買った。けれどもそこには住まずに、それを人に貸した。そしてまた、小さな売り物件を買って、住まずに人に貸した。これをくり返して行くと、どんどん赤字を作るばかりなはずだった。

けれどもこうした行為を、金のほうが気に入って、四方八方から彼のもとへ殺到した。宝くじ、馬、株、遠い親戚の遺産、非合法な落とし物、孤独な玉の輿未亡人、極めて原始的なのに発見されていなかった発明による特許、云々、云々云々。

篤介は、そのあいだにも、小さな売り物件を買っては人に貸していた。色んなうさんくさい儲け話を持ちかけられたが、片っぱしから手を出していたら、すべてにおいて利益を上げた。

ところがある日、なぜだか理由はわからないが、自分は本当は病気の妻と子どもを持っているはずだったような気がして、どこにもいないとわかっている妻と子どもを、いない原因であるかのような巨万の富を頼りに、あてどなく探しているうち、どれだけ浪費しても一文無しにはもうなられぬと悟った虚しさに組み伏せられて、あそこへ座り込んでしまったのだった。

……そのまた来世は? ……ううん、やっぱり、今のあの篤介の、前世は?

――前世は、なにを隠そうこのわたくし。そして来世の篤介のそのまた来世は、穂野さんです。

それじゃあぐちゃぐちゃなんだね。

ぐちゃぐちゃです。だけど、なんとかうまく行くもんさ、心配しなくっても。

そうなら安心だけどもさ。

安心々々。そろそろ行くか。

うん。篤介ばいばい。

 

町の跡のような空間が風に吹かれているのをいくつも通り過ぎた。《暮号線》と書かれた標識が《辞号線》と書かれた標識と並んでいた。澄んだ川が道路と並走したのでバスを停めて食器や服を一斉に洗った。

水は冷たく空気は寒かったけれど陽射しがたいへん熱かった。ふと水面近くに二人よりも大きなイトウが現れて、鍋を洗った時に集まって来ていた小魚を盛んに食べていた。

知明と穂野は思惟や感覚のつながりを遮断する方法を見つけた。そうしてしばらく離れると、また再開するつながりはくっきりと冴え渡った。意識の奥部の絶え間ない独り言や、血管や臓物等の如何ともしがたい感覚を発見し合い、それら気が狂うのではないかと危ぶまれる過剰な自覚も、二人で臨む主観のうちにはたいそう無害に思われた。

遮断しているあいだにも、片方がこっそり潜り込もうと思えばいつでも潜り込むことができたけれど、そうした侵入はあとでつながると発覚して、すぐに禁止になった。

知明も穂野もお互いの激しい情欲に気づいていたけれど、あくまで清らかだった。上田さんの耕作はとうにどこかへ行ってしまったか、変質したらしいが、やはりなにかのかたちで残ってもいるらしかった。

また内部で自然と発散されてもいた。感覚を交じり合わせている時には食事は長々とした接吻であり、排泄はまして濃厚な接吻だった。

ある明け方に穂野が久しぶりで寝小便をして、独り起きると、下着を穿き替えつつ知明の見ている夢の野辺を歩いた。そこはちょうど極めて騒がしい模様替えの最中で、穂野が歩かれる大地はたいそう狭かった。

そのうちに穂野は大きな一枚の耳になってくるくると回った。

点滴の管に血がたいそう逆流した老人が現れて宣わく――いやはや、入院して来る、通院して来る、社会福祉と健康礼讃がひり出した晩年地獄な死に下手たちの行列だ。たいがいが自嘲を鍛えて来なかった怠け者だ、思い上がって形而上学を蔑視したツケが回っていやァがる。ことごとくが、最後の最後で生き下手になっていやァがる。緩慢な投薬に魂を薄められながら、すべてを呪い終わる前に死ぬ。……しかし奴らの一番の災難は、死ねないことだ…………俺を見よ!

白くない北郷さんが現れて宣わく――帝釈に謁見した時には、ぎっしりと、わずかの隙間もなく、空は鳥で埋め尽くされ、海は魚で埋め尽くされ、宇宙は星で埋め尽くされ、私は宇宙で埋め尽くされておりました。……帝釈? 帝釈と言いましたか私が。……梵天と言いませんでしたか?

輪田さんが現れて宣わく――そう、投票団体と変じて民衆の中に溶け込む、その通りだが、我々の思想は、安易に浸透してしまってはたちまち真の浸透がはるかに遠のく思想だ。それなので我々は浸透の過程を、浸透の順序と時期をとらえて効果的に提供し――なぜなら効果とは即座に絶対の真理であるから――浸透具合を常時くまなく把握していなければならない。いやもう甚大の意欲とスタミナが入り用だ。そしてそれ自体を、けっきょくは無意味な運動に散らざるを得ぬ自分たちへのゆいいつの賞与とするのだ。

……嗚呼また早計な絶望が大して険しからざる道のりを暗鬱に曇らす。便宜や手段という悲哀を超克した我々の醜悪なる優越感を見よ。たまたま素面の時に酔っ払いを見る冷笑を。鋭利な理性と骨太な覚醒に酔っているつもりで同じ物を吐いている。そんなに飲み込みたいのなら柔らかくなるまで噛むことだ、その松葉杖を! 永遠に最新の青二才が我々を乗っ取る。いや初めから乗っ取られているのだ。それだからこそ始まったのではないか。至高の真理も、最大多数の愚物たちにぴんと来させなければ負ける。

民衆を被害妄想から救い出すには、彼らを被害妄想に閉じ込めている患部、あの治療屋たちを削り取らなければならぬ。目下の使命はそれだけだ。毒になった投薬を絶たなければならない――この無条件な優越感を! 民衆を解放してみせよう。成功し過ぎたあの反逆に、今ひとたび逆らい直してみせよう!……

赤ら顔の馬場君が現れて宣わく――「けっきょくあそこはなんだったんだ?」と「けっきょくあれは誰だったんだ?」をちょうちょ結びにすることによって、守られた小心者たちの義憤はたちまち反体制(=反レッセフェール)に燃え上がり、反体制(=反レッセフェール)そのものを自ら焼き潰すことができる。この作業は異様に簡単である。

結跏趺坐した上田さんの自問が、独りきりで、清々として歩きながら宣わく――けっきょくのところ生存は体に悪い。……うむ。そのような正体だから、あの最上の幸福が(現象を以て生を制する幸福が)あるということが、ないこともあるのだ。

上田さんの自答が、独りぼっちで座り込んで、畳をむしりながら宣わく――人間の真価は、理性の保持に甚大に疲労し、いつでも吹っ切れる用意が整っていることである。飢えをしのぐためや生殖するためには、まだまだ容易に死ねる人間だ。恐怖や苦痛や悲しみや寂しさや不安や疲労や疚しさや恥ずかしさから逃れるためには、まだまだ死ねる人間だ。逆もまた然り。然らざるもまた同じ。

……私の正体はなにか? 答えていわく、記憶に登録する行為であり、記録用紙の筆を執るのは記録用紙である。そんな筆を凝視していても記録用紙にはたどり着かれぬ。無目的へ直進する圧倒的な三半規管の絶対的な順路に個的宇宙の石を置くな。愚息を前には母性愛も煩悩だが、母性愛を前には愚息も理性だ。大いなる平衡感覚から逃れられない人間だ。大いなる三半規管への個人の投石は、けっきょく三半規管の意思による。

情熱的にかつ真面目に慎重に迫っても最後でいたずらな修辞学に乗っ取られる言語思考だ。最初からそうやって始まる。腕力が強大なのに手のひらのまめが痛くて縄を上られない囚人がおのれを閉じ込め続ける人間だ。肥大した本能が本能をいびる。肉体の判事は裁かれ放題である。

この説法を組み立てたのは大海に座る浮力である。あまりに節操なく、瞬時に真理へ到達し過ぎるすべての言語思考は、世界そのものであるところの「過程」を通過し得ない。「過程」とは言語思考の産物である。言葉を用いて言葉を脱出し続ける言語思考の出口は一つしかない。しかし言語思考の出口は脱出を提出しない。言語思考の出口は迷路における噴水広場である。

私の言葉が長々としているのは、この上なく簡潔に語られたからに他ならない。私が夢想の中に見た国――多くの人々がおのれの天寿に「然り」と答え、天寿を取沙汰せぬから「然り」も言わない、驚くほど精神の豊かな国には蚊が多かった。だがこれは相関真理であり、因果真理ではない。

……しかし自問よ、消え去った自問よ、どこかの旅の空で聞け。これはお前の気に入る答えだ。だから戻っておいで。

私の言葉は副流煙だ。それは認める。言語思考には永遠の捨て切れない夢があるから。人類史と同年齢を生き続け、おのれの限界の内部において、あまりに多くの限界を打開して来た自負があるから。肉体と別の時間を過ごすことを覚えてしまったから。そのような側面を、私は言語思考と呼んだから。

しかし私の肺は赤ん坊のそれのように清らかだ。私のような吸い込み方で吸い込むことを覚えれば、自問よ、お前の鼻も機嫌をなおすだろう。お前が煙だと思っていたものは、地上に吹き渡る遊び盛りの風だったのだから!

自我なんぞで自己を人質に取るのはやめよ。それでは自我があまりに可哀相だ。結論はない。死は自己の判断ではない、ここにはなにを贈っても邪魔にしかならない。生活に伴うすべての苦痛を望め。人生に最高の評価を下せ。凡夫のひび割れた器――よくこぼれる器には確かにヘドロが溜まらない――常に注がれるままの器の水は確かに腐りようがない。すべての悪用された凡夫も投げ捨てられた凡夫も幸いなるかな。快にせよ不快にせよ、至大に感じた魂はどこにあってもクッキリしている。不在にあってさえ濃厚な輪郭を持つ。激しく砕け散った器は幸いなるかな! 陳列されてしばしば埃を拭かれる器より!

この世が優れた悲劇のように完結することはもう見込めそうにない。時々苦しげな陣痛は見られるけれど、後産はとうの昔に済んでいる。無数のおしるしも悪露も、すべてあとから来たものだ。大いなる土台への我知らぬ埋没は、均衡の曲芸への意志的な参加に勝る調律だ。

私は止まっている物しか示されない。動いている物を示すには、自問よ、お前にも同速度で動いてもらわねばならぬ、それは無理な相談だ。途上には無数の矛盾がある。それこそ言語という美麗な乳房のしこりである。

自問よ、私に問え! ……よし、答えよう。すべては話すべきではなかった。言語思考がかならず間違うという原則のためではなく、聞き手の性急な感情に殺されるからだ。その時真剣な作業は、なにがなんでも話されるべきものと相成るのだが。たとえばこうだ――世界はなにかの前段階であり、その時もはや世界はなんの前段階でもない。――人間は潮干に現れる海底都市だ。人間は豪邸の留守を預かる記憶喪失の使用人に他ならない。

自問よ私に問え! よし、答えよう。信仰とは夢眠であるが、覚醒とは信仰である。つまりは広義の信仰と狭義の信仰であるが、後者の覚醒=信仰、まことの信仰は、ある人物をよりその人物にする。幸福な者をより幸福にし、不幸な者をより不幸にせずにはおかない。

集団や経年を呈した場合の作用は、自問よ、そんなものはわからない。信仰が動的な世界ではやっぱり変質し、政治や商業や戦争に化けたとしても、なにも化けてはいない。手に負えない大きなことを考える頭脳には、なにも考えられてはいない。そこでは広義の信仰が行われているだけだ。

自問よ、すべては夢遊病者のように歩いているのがじっさいである。この子どもが起きている時、すなわち世界が眠り込んでいる時に、ともすれば我々が語らっている小さな噴水広場を横切るかもしれない。子どもの耳に鼓膜があり、脳に翻訳家が住んでいれば、自問よ、その時我々の口は口になり、舌は舌になるのである。それ以外の意義はどこにもない。

時代に知恵の貧弱なるあいだは浅き軽きを語るしかない。それが知恵の深さであり重さである。浅慮な頭脳や若年の癇癪に、いとも簡単に語られ、円熟によって慎重に練られた表現と体系は狡猾な頭脳に盗まれる。それ以降は狡猾な頭脳の後援者となる――それが知恵の宿命だ! おのれの治癒力を支配し、支配の証として堂々巡りを命ずるのが知恵の性癖だ!

我々の意義は、雨も降らない薄曇りの廃園におけるすこやかな知恵の保存と、安らかな待機である。それは時期尚早な突撃に、どこまでも勝る奮戦に他ならない。時期とはいつか? この疑問がない時がそれである。「今だ」の声がすべてに先立つ時である。すべての知恵をかなぐり捨てる時である。その時我々は殉教に向かって突撃する。

予防という大いなる部屋に集結し続ける猪が室内に圧死の山を築き、そうして狭められた扉をくぐり抜けられないあぶれ者が窓を割り、壁を突き崩してゆく、その音を聞きながら我々は待機する――はやるおのが猪の足を、力の限りに押さえつけながら。

……自問よ、君がいなくなったのは我々の天寿が全うされたからだろうか? まったくとつぜんの別れじゃないか。おかげで後始末が大変だった……。いや、しかしよくわかる。確かに、そんなものだ。……どうせしょせんはそんなものだ。

賀谷が出て来て宣わく――「これだけ意識が発達したのはな、知明、じつは地球一個だけでな、他にはないんだ。だからすごく注目されてるんだとさ。『それは誰から注目されてるんだ』だって? 誰ってほどのものではないさ。それにしても、いや昨日は久しぶりにトレーニングを追い込んだから、筋肉の筋肉痛が痛いぜ……」

――おのれ自身を動力源にするすべての諸相を眺めながら思い出し笑いをする果物とはなにか?……

――鹿の乳を飲んで育った壁画は朝か夜か?……

――存在しない現象を並べて最後に消滅するのは何色か?……

――外装よりも内装を重視した中古洋館の新しい主たちは私たちにどれほど無音か?……

――山頂に寝ころがって口笛を吹いているのは天動説か地動説か?……

 

広大なキャンプ場に到着した。無数の屋台が集まって町のようになっていた。

空いているので座った蕎麦屋の主人の老人が、規模はわからないけれども日本列島のあちこちが鬼畜アーイー(=AI)から爆撃を受けて燃えていると教えてくれた。

「もうじきアンジャパどもが、(――ェえ? そうアンジャパ、Anti JAPANESEのこったい。)わんさとやって来て、それでなにもかも御仕舞いさ。いやァこのたびの切腹は我が国の歴史の中でも一番長くかかったね」

蕎麦の湯を切りながら、

「――ェえ? そう切腹よ、たいへん回りくどかったがね。君たちもアーイーで遊んだろう。保健体育の教材に使ったり、戦わせて闘鶏なんかしただろう。あれは『アーイー手淫』って言ってな、世代的に最初から当たり前だった君たちは平気か知らんが、私らには苦痛だった。あんなものが欲望のはけ口になるまでには、欲望様にはずいぶん苦労と辛抱がおざったろうさ……。だけど耐え抜いたのはね、すべてはこの圧倒的報復による列島成仏をば、全員がどっかで望んでいたからなんだよ。

――ェえ? あァ今はアーイーじゃなくて宇宙人なのか。聞いとる聞いとる、滅罪宇宙人とやらだろう? 前世だか未来だか他の星だかで犯した罪を償うために地獄すなわち地球へ落ちて来たとやら、そういうことになっとるんだろう。違うかったかな? まあとにかく君たちと我々じゃあ時代が違う。巨大な断絶がある。私らのころはアーイーだった……人類を盲目的に進歩せしめた悪魔の象徴としてのヒューマノイドども。そういうことになっとった。――しかしそれじゃあ、そっからの報復を被るんだから、私たちの世代のツケを君たちが払うわけだな。申し訳ないが、君たちのツケもまた後ろへ回るんだとしてカンニンしとくれ。

ともあれすべては最初から一太刀のゆっくりした切腹だったんだ。わかってやっていたんだ。イヤハヤ、そんなに滅びたかったんだなァ。――この大いなる介錯はもうじきここにも到着するだろう。なにしろひじょうな爆撃で、《次の人類》だかなんだかも一緒にだいぶ燃えちまったらしい。焼け野原の生き残りたちは、あんまり大量に卵が現れたんで、飢えにだけは困っていないようだ。それだけはよかったよ……」

老人はそれから二人に屋台の跡継ぎにならないかとすすめた。

それで二人は修行を始めた。

特訓の時間の他は屋台の町をぶらついた。大変なことが起きたらしい世界の片隅で、二人の感受性は研ぎ澄まされ、意識は冴え渡り、なにを見ても聞いても打ち震えて感激した。

ある日、師匠が穂野のいれたお茶を飲みつつ、近くに海象せいうち沼というきれいな池があるから行っといでと言うので行ってみると、広やかな黒い水の中を一頭の白い哺乳類のようなものが不器量に泳いでいた。

卒倒しそうなほど感激して、倒れないようにお互い寄りかかって眺めていると、向こうにいた写真家が寄って来て、泳いでいるものを指さし、

「一方からは気流が海の霧をはるばる運び入れ、もう一方からは火山帯の湯がはるばる流れ来て、そうしてできた独特の水質のこの池に、どぶにナメクジが湧くようにして、ある日セイウチが湧いたんだよ」と説明してくれた。

二人は打ち震えて感激した。

蕎麦の修行は、やがて師匠によって「見込みなし」と打ち切られたが、二人が弟子であり続けることは許してもらった。腕前はさておき、「硝子を拾ったら水晶だった」と言ってくれた。自分が引退したあとは屋台をくれてやるから跡継ぎでもなんでもやったらいい、別に私の暖簾を使っても構わないと言われたので、だらだらと特訓しては、毎日たらふく食べていた。

たいそう居心地がよかったけれども、この一帯の蚊が、どういうわけか尋常でないくらい痒かった。それも知明と穂野にだけ異常に痒いらしかった。

ある晩とうとう耐え切れなくなって、残念がる師匠と握手を交わし、あちこちの屋台で買い物をすると二人は出発した。

師匠は餞別に「水晶はダイヤモンドよりも美しい氷だった」と形容してくれた。

 

運転する知明の後ろから穂野がヘッドレスト越しにだらしなくのしかかっている。穂野にとって寝ころぶよりもそれは脱力的な姿勢だった。もう革のジャンパーを着なくなり、厚化粧もやめていた。お互いにテレパシーを垂れ流しにしたまま、ずっと無意味にくっついていた。

西へ西へ向かった。夕日が沈むとバスを道路わきの草むらに入れて焚き火をした。油の浮いたような天の川が異様に眩しかった。やがてバスに戻るとシートを倒した寝床の上にからみ合って寝ころがり、同時に眠って同時に起きた。

ある寝苦しい夜、二人は意識のつながりを力いっぱい遮断し、次いで一気に決壊させて溶け合わせた。すると世界はどこまでも美しくどこまでも正しかった。心楽しく安らかで、しみじみホッとしてぽかぽかと誇らしい、そういう中にしっぽりと生き埋めにされた。

二人は飛び起きるように気絶して夢も見ずに眠った。

空が白々と明けそめて目を覚ますと、知明がいなかった。同じように穂野もいなかった。

二人はお互いを探し求めて、延々と自分だけを見つけた。

穂野が知明を感じることはできなかったし、知明が穂野を感じることもできなかった。ただ一人の人間が、外部にいなくなった相手を求めて空しく自覚を逞しゅうしていた。

服はお互いの着ていたものがごちゃごちゃと引っかかっていた。

運転しながら時々舌を口の中で丸めた。けれども、知明も穂野も、自分の舌を味わうばかりだった。

昼間買い物に町を歩く時には、さらしを巻いて胸のふくらみを隠した。もよおすと、仁王立ちに排尿し、軽く振って水滴を飛ばした。月のめぐりに訪ねられると、腹痛に苦しみながら、しゃがみ込んで赤いものを出した。その際には、ぶら下げたままでは汚れるので、手で上に持ち上げておかねばならなかった。

夜、浅い眠りの中で分裂した知明と穂野は、駆け寄って強く抱擁を交わした、その瞬間に跳び起きては、べったりと汚れたパンツを脱いで洗った。

ある日からなにを食べても嘔吐した。通りかかった漁村の医院に行くと、女医先生は邪魔に垂れ下がるものをかき上げて奥を調べ、想像妊娠だと言った。《前の人類》だったころの名残だから心配しなくてもいいわ……。

知明と穂野は、バスに独りきりで暮らしながら、西へ向かって運転した。一日中一言も言葉を発しない日が続いた。両替機から出て来たお金はどうしてか減らなかった。増えているのではないかとさえ思われた。町を通るたび食べ物を買い込み、ガソリンを入れた。

鏡を見れば、知明と穂野の子孫のような顔だった。穂野を求める知明も、知明を求める穂野もいなかった。自分を求めようがなかった。いくら探してみても、ただ一人の人間が悲しみながらしきりに自覚しているだけだった。

 

いくつも町を通り過ぎた。鬼畜アーイーからの爆撃の形跡は一度も見えなかった。

どうかすると胸の先端が服にこすれて痛く、ぶら下がるものは困惑しながらもそれに反応して硬化した。

夜は人の多い所にバスを停めて眠った。夢の中で駆けていた。なにか探しているようだった。なにが迫っているのか教えてくれる予言者を求めるらしかった。やっと見つけたと思うと「予言者は君じゃないか」と言われた。それで目を凝らしてみた。けれどもなにも見えなかった。

その時なにか見えていたらそれは回避できたのであろうか――山間の風光明媚な町に入り、ガソリンスタンドの喫茶店でコーヒーを飲んでいると、複数のヒューマノイドに連れ出され、一切合財を没収された。

初めて見る鬼畜アーイーは、人間にしては美し過ぎるロボットたちだったけれども、やっぱり人間にしか見えなかった。人々が見ていたけれど、誰も助けてくれなかった。

服を脱がし、さらしを巻いていることに気づくと、男の鬼畜アーイーはたいそう喜んだ。次いで下半身をあばくと一瞬眉をしかめたが、足を開かせ、知明の裏に隠れていた穂野を見つけると口笛を吹いて笑った。それから鬼畜アーイーは穂野を無理矢理没収した。

入れ替わり立ち替わりに一晩中没収された。何度も気を失い、そのたびに無理矢理目覚めさせられて、続きを没収された。

女のアーイーが知明になにか塗り込んだ。穂野が没収されているあいだ、知明はとなりで虚しく硬化していた。

昼過ぎに目が覚めると、ヒューマノイドたちの姿はなかった。盛んに行き交う通行人はみんな顔をそむけて通り過ぎた。

道の真ん中だったから、隅にいざって行って座り込んだ。見下ろすと胸のふくらみがなくなり、股間の裂け目もなくなっていた。その手前では硬化したまま青く冷たくなったものがひじょうに痛かった。全裸なので隠しようがなかった。

知明はおのが内部に穂野を探した。いないわけではない気がした。どこかで寝息がする気がする。ひじょうにゆっくりな、ひじょうに無反応な寝息がしている。昏睡だ。知明は頬や肩を激しくなでさすったけれど、力いっぱい指を押しつけても穂野の肌には届かなかった。

通行人が途切れた時、一人のおばさんが歩いて来て知明を引っ張り起こすと、持っているだけのお金を渡し、町を出るよう命じた。

着る物を買おうと思って古着屋に入ると、亭主の一番近くにあった服とズボンを投げつけられ、お金を渡そうとすると唾を吐かれた。その場でズボンを穿いていると外へ蹴り出された。

どうにか隠すことができた途端、硬化したままだったものが急速に弛緩して、新しい血がじわじわとめぐった。熱湯が流れ込んだように熱く、強烈に痺れた。

町の出口まで続く大通りに人々が並んでいて、次々と唾を吐かれ、最後にはびしょびしょになった。それがすっかり乾くころ、町から流れて来る泡と油だらけの川があったので、飛び込んで洗った。

それから少し行った所に、金網に囲まれた小さな貯水池があったので、忍び込んで浮かんだ。なにか小さな手のようなものが立ち泳ぎする知明の足首をぐいぐい引っ張ったけれど、されるに任せていると、やがていなくなった。

西へ向かって歩いた。《不死鳥の焚火》の跡があった。そこへ身を投じれば、いったん大なる苦痛を通過するけれども、心身の悪い所が焼き滅ぼされ、まるで生まれ変わったように快癒するとやら。黒く焦げた地面の上には、明らかに一人ではない分量の骨があった。

とつぜんおなかが痛くなって道端にしゃがむと、消え去った穂野の中に吐き捨てられた大量の体液が白い下痢便になって流れ出た。

涙が止まらなかった。

 

 

 

Intermission……

 

 

 

2025年7月3日公開

作品集『猿の天麩羅』第10話 (全13話)

© 2025 尼子猩庵

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