猿の天麩羅 7

猿の天麩羅(第7話)

尼子猩庵

小説

12,056文字

 不条理な大幸運に飄々と忍従する中学生少年少女たちのロードムービー。

 異世界にして過去世。未来にして神話時代。下劣にして荘厳。地獄にしてユートピア。

 図書館にはなく、本棚にはある。人生で二度捨てる。

※第13回ハヤカワSFコンテスト二次選考落選。

 

 

 

――光の速度が最も遅くなるのは何曜日の何時頃か?……

――七歳の年女が家出するわけとは?……

その町は骨だけ与えられて肉体を忘れられたかのようだった。見果てない野原のただ中に無数の四角な空地が敷かれ、かすかな土地の高低が設けられ、無数の電柱が突き立ったきりで年月に吹きさらされている中を道路は一直線に横切っていた。なにかしらの方法で家屋が出現する可能性など話し合いつつ、けっきょくバスは立ち寄りようもなく通り過ぎた。

カトキヨが後方の座席に散らかっている中から西洋の鎧兜を見つけ出して装着し、車内をガチャガチャ歩き回っていた。

やにわに前方の大地が盛り上がり、けれども道路は水平に直進してトンネルへ潜り込んだ。ヘッドライトは右側が切れていたが、そのせいか点いている左側の光量は眩し過ぎるくらい強かった。

カトキヨがクラシックギターを見つけて来て、知明の示す声に合わせて調律した。トンネルは延々と続き、三人作詞作曲のフォークソングが一曲完成したころ、前方に光点が現れて、ハーモニーがうまくハマり始めたころトンネルを出た。ぱっと明るんだ瞬間に三人は歌を忘れた。

見果てない岩場を道路は蛇行しながら進んで行った。錆びだらけの標識に《呂号線》と書いてあり、国道であることが明らめられた。カトキヨがバスの中にあった地図を広げて照合しようとしたけれど、それはたいそう緻密に作られた偽物の地図だった。

やがて南国のような密林が前方に現れた。けれども突入してみると密林の木々は原産地における巨大さが失われ、小ぢんまりと萎縮して狭苦しく繁茂しているばかりだった。小さくなった極楽鳥や金色の猿がこちらを見下ろしていた。

清水の湧いている無人のキャンプ場があったので、寂れ果てた駐車場にバスを停めた。

湧き水と思ったものは蛇口から水が出っぱなしになっている水飲み場だった。三人はそこで体を洗った。

そのまま出っぱなしにしておくのもナンだから蛇口を締めておこうかとも話し合ったけれど、最初から出っぱなしであったことだし、これを閉じてどこかで事故でも起こったらいけないという結論になって、そのままにしておいた。

車内にあったかちかちの石鹸が異様に泡立つので、ついでに服も洗って着替えた。着替えはひじょうにゆったりとした原色なイミニアンの服ばかりだったが、穂野は革のジャンパーとパンツを頑としてふたたび着た。

それから女性バイカーたちにもらった化粧品を持ってサイドミラーを覗き、目の周りなど黒く塗り直していた。

知明がとつぜんぱんと手を打つから、穂野がふり返ってどうしたのと聞けば、

「蚊が飛んでたんだ。食われる前に仕留めた」と言った。

それから知明とカトキヨはバスに積まれていた大量のがらくたをキャンプ場の焼却炉で燃やした。立ち昇る煙の中に時々ぱちぱちと弾ける光源があったけれど、まったく正体不明であった。

しばらくあたりを探検し、川辺の木陰に寝ころんで背中を伸ばした。こういう舶来の密林では毒のある虫が心配だと知明は言ったけれど、いくら考えても予防策が浮かばなかったために、危険も存在し得なくなる道理であった。

夜になると焚き火を起こして、フライパンでステーキ肉を焼き、川で冷やしたビールを飲んだ。近くのキャンプ跡に誰かの残して行った粗塩が山ほどあったので、カトキヨがてきぱきとステーキ肉の半分を燻製にした。

ビールと一緒に飲むと頭の中がまろくなる木の実をカトキヨが粉末にして配った。三人は粉末を少しずつ舐めながらビールを飲んだ。

「――だからだ、鰻に戻ってだ、善意が裏目に出続ける同胞たちから逃げ続けるのが人間の一生なんだ。山の中みたいに川の中を逃げ続けて、それが海に出てしまうと波に、空では風に溶けてしまうんだ……確かに、自分のことを棚に上げないと、黙ってることなんかできるものじゃァないさ……」

としゃべっていた知明が、ふと正気に返ると、ビールの入ったマグカップからは太った麦が咲きこぼれ、ステーキはじっと突っ立って口に含んだ草を噛んでいた。穂野とカトキヨを見ると、二人とも銀色の長身痩躯な斜塔だった。

カトキヨもまた延々としゃべったけれど、知明と穂野が理解できたのは、涙は映画にひんぱんに映されるけれども尿は滅多に映されない、しかし本当は逆なのだということだけだった。

穂野は他に比類なき「くのいち忍法」をごろうじゃれと言うとおもむろに服を脱ぎ、驚くべき柔軟さで以て、開脚して身を屈めて自らの舌の先もて竜宮城の呼び鈴を掻い撫づる技を披露した。

知明とカトキヨは驚嘆の念を以て拍手した。前々からその忍術をダンゴムシと命名していた知明は讃美の念からこのたび術名をアルマジロとあらためた。カトキヨは畏怖と崇拝を込めて《一輪百合》の尊称を献上した。

麦がとっぽんと音を立ててマグカップの中に落ち、ステーキはフライパンに座り込んで美味しく焼けた。知明と穂野が肌色に戻った手を差し出したけれど、粉末は一日一回と答えてカトキヨは譲らなかった。

知明が急に後ろをふり返り、オヤッ久しぶりだなと言うと、カトキヨはなにか指に塗って知明の口に突っ込んだ。知明はしばらく空間を見つめていたけれど、人違いだったと言って向き直り、カトキヨにうながされて大量に水を飲んだ。

 

翌朝、三人がめいめい、野生化したミニトマトの群生からルビーのような高価な新種を、そうとは知らずに山ほどもぎ散らしている時のこと、なんの前触れもなく穂野が卵を見つけた。尋常ではない様子で呼ばれて知明が駆けつけると、卵を抱いて立っている穂野がいたのだった。

奥へ分け入って誰よりも多くミニトマトを収穫していたカトキヨは、遅れて駆けつけると卵を触り、しばらくじっと目をつむって、うん、死んでいないと言った。

「殻を破って生まれるところを見た男女には『刷込み』が起こって家長と乳母になる――生まれるところを三人で見たらどうなるか知ってるかい」

「知らない」と知明。

「わたしも知らない」と穂野。

カトキヨも知らないと言って卵を見つめた。

イミニズムにおける家長と乳母の事情を尋ねると、子どもは乳母と家長ではない人物に育てられるのが普通だが、それもある程度育ってからの話だと答えた。

それから、イミニアンは経済力がなくても卵をかならず拾う。だからイミニアンは卵をなかなか見つけられないのさ……。

ともあれ我々はまだこの卵を見捨てるほどにはシッカリしてないと言い、カトキヨは穂野から慎重に受け取って優しく抱きかかえ、バスに持って行った。

知明と穂野は見つめ合った。

どう思う、生まれるところを三人で見たり、一人で見たりした人はいない、環境の用意が整わなければ卵は割れないという、このタブー的な原則の真偽を確かめられるいい機会だ。なぜタブー的なのかを考えれば、もう答えはわかってるような真偽をさ。

だけどそんなことしたら、わたしたちもじつは誰かから実験されてたなんてことにならない? ぜんぶ台無しになるようなことに?

――まあ、その危険はあるが、とにかく、先が長くないかもしれないカトキヨに「刷込み」させるのはよくないよ。俺たちが家長と乳母になるなら、いっそイミニアンになってどこかの集落に行けばいい。カトキヨがいるからどうにかなるよ……賀谷と八代井とはぐれたことで、瓢藤が迎えに現れてこの旅を終わらせてくれる希望はほとんどなくなった。俺たちは既に行われるはずのない行為の中に生きている。慣性の車輪が倒れるまでは続く。目下のところ、カトキヨへの甚大な責任がある限り。一切が理解不能のままで。

うむむ……難しくってわかんないな。わたしたちもバスに乗らない?

乗ろうか。

そういうわけで車内を覗くと、カトキヨは卵を後方の座席に固定していた。すぐ生まれそうかいと知明が尋ねると、まだ当分先だろうと答えた。

カトキヨは卵のとなりに座って、なにか考えているのか考えを絞め殺しているのか、ひじょうに高価で希少なミニトマトをしきりに食べた。穂野は彼の一つ前の席へ後ろ向きに座り、イミニアンの子育てと太刀坑校区の子育ての差異について話し合っていた。

知明は独り黙々と運転した。

 

舶来の密林は徐々に褪せて行き、クヌギやシイやナナカマドやブナに代わって行った。最後の猿の一群がなにか投げつけて来たけれど、投げられた物はフロントガラスに跳ね返って茂みの中に消えた。それがなんであったのかはわからなかった。

森が終わって、ひじょうに丈の高い真菰まこもの茂みの中をうねくりながら進んだ。たいそう見晴らしが悪かったけれど、太陽の行き方から西に向かっていることは確かだった。

やがてくずの葉っぱがびっしりと道路にはびこり、両脇の茂みには琉球朝顔が覆いかぶさって一面に花を咲かせた。アスファルトの割れ目という割れ目から立葵が突き出て咲いていて、ばさばさと倒して行かざるを得なかった。

道路が国道呂号線から外れた瞬間には誰も気づかなかった。ずっと一本道だったけれども、標識によれば現在走っているのは名もない農道らしかった。道は悪く、起伏するアスファルトをがたがた、立葵をばさばさ轢き折りながら行った。

遠くで汽笛が鳴ったのでエンジンを止めて窓を開けた。けれども汽車の音は聞き取られなかった。バスの上に立って見渡してみても、一帯に繁茂する茂みに閉ざされて周囲の様子はわからない。すぐ近くに大都市があってもわからないだろうと思われた。

ひじょうに高価なミニトマトとステーキとキャンプ場で汲んだ甘い水道水の昼食時に、カトキヨの幼少期から使っていたフォークの年々太くなっていたのが、ここ数日間の急成長であまりに太くなり過ぎて遂にフォークの用途を果たさなくなった。

二度と使わなくなったら、また使えるようになるだろう、なんにせよもうこれは使わずに家宝として取っておくよとカトキヨは言って、フォークを丁寧に仕舞った。

卵は夜になると星明かりの射し込む薄闇の中に白く浮き上がり、穂野にいわく、いかにも博識そうだった。

その夕食時から穂野がビールを飲まなくなったので、知明がわけを聞くと、かつての上田さんの耕作(壁に向かって結跏趺坐した自問自答)が今ごろになって働きかけて来たらしいと答えた。知明はとっさに耳をふさいだけれど間に合わず、こちらも働きかけられて禁酒した。

カトキヨはよい香りの煙草を持っていたけれど、知明と穂野はもう煙草もコーヒーも飲まなかった。

二人で一緒に寝ることもなくなった。真菰や葛や琉球朝顔や立葵の農道はしばらく続いた。

 

夜中に一斉に目覚めると、三人同じ夢を見ていたことがわかった。

夢にいわく、毒林檎を食べたのか錘で指をついてしまったのか原因は判然としないけれども、ある廃墟に眠ったままの美女がいる。そこへはじつに大勢の男が訪れたけれど、誰も接吻だけはしないのだった。

美女は今も眠り続けている。

「彼女、この近くにいるのかな?」

と穂野が独りごちた。知明は肩をすくめて、それよりも夢がまだ車内にいるかもしれないからと提案し、三人は寝袋を持ってバスを降りて外で眠った。

ひじょうに遠くで流れている放送が極めて明瞭に聞き取られた。それは大勢の読経のようだったが、異様にはきはきと聞き取られるのだった。

――某民族の大地で、民族と、非民族の争いがあり、戦地に住む民族の、非戦闘員を、非民族は攻撃しない代わりに、非戦闘員に、戦闘員を潜り込ませないよう、非民族側が、民族側に、条件を提示すると、民族側は、同族に潜伏する自由戦闘員の存在を明かし、取り締まりの困難なることを主張して、その条件をのまなかった。民族と、非民族の、人口と武力は拮抗する。民族の戦闘員の戦死者は、非民族の非戦闘員になる。非民族の戦闘員の戦死者は、民族の非戦闘員になる。民族の自由戦闘員の戦死者は、非民族の戦闘員になる。非民族の自由戦闘員は、戦地にいないため戦死しない。民族の非戦闘員の戦死者は、非民族の自由戦闘員になる。非民族の非戦闘員は、戦地にいないため戦死しない。戦地は民族の大地から動かない。この場合、民族と非民族の、人口と武力が拮抗し続けるためには、次の三つのうち、どれをなくすべきであるか? 一、角を辺にしていること。二、一を角にしていること。三、二を辺にしていること……

朝、外で寝ている三人の真ん中に見知らぬ焚き火の跡があった。誰の記憶にもない焚き火だった。なにも盗られていないし、なにかを忘れたような寂しい気持ちもないので、どこかの時間か空間から飛んで来たのだろうと結論した。

朝食のバーベキューをしていると、道路に人が立っていた。カトキヨが抜けるような青空を見上げて、今ごろ升千布町は長雨だとつぶやき、みんなもつられて東の空を見上げた、その時に気づいたのだった。

意想外に近い所へ立っていたため、かえって驚きそんじて平然と見つめていると、その人は近づいて来た。声をかけられて女性であることがわかった。わかってからは小股の切れ上がった粋な年増さんだった。

平杉さんと名乗った。食事に誘ってみると、お礼を言って加わった。平杉さんはステーキをたいへん喜び、ぬるいビールもたいそう飲んだ。カトキヨの粉末は受け取らなかった。ふと知明が今朝の謎の焚き火に関係があるかと思って聞いてみたけれど、知らないと言った。

平杉さんは穂野のとなりに座っていて、穂野は嬉しそうだった。知明がどこからいらしたのですかと聞くと、すぐそこの茂みの中に小道があって、その先が彼女の家につながっているということだった。

ふだんはあまり道路に来ることはなく、向こうに貨物列車の線路があってちょうど急なカーブで減速するので、飛び乗ったり飛び降りたりして町と行き来しながら静かに暮らしているということだった。

このたびはいい匂いがしたので覗きに来たのだそうな。

平杉さんはカトキヨにもらったコーヒーのガムを噛みながら、三人の歴程を興味深そうに聞いた。それから家に招待してくれた。泊まってらっしゃいとすすめられて、三人は平杉さんと握手を交わした。

茂みに突っ込むようにバスを道の脇へ寄せ、ステーキ肉とミニトマトとビールと卵を持ち出して鍵をかけた。茂みの中の小道を平杉さんのあとについて行った。平杉さんはカトキヨの抱いている卵に少々面食らっている様子だった。

こんな近くにこんな森があったのかと思っていると到着した。たいそうモダンな山荘だった。周囲一帯遠い親戚の土地なのだそうな。山荘の南側の森に大きな沼があり、舟を浮かべて毎日昼前から日が暮れるまで魚釣りをするのだとか。舟の名前は「魚丸」と言った。

荷物を山荘に置くと、平杉さんは三人を沼に誘った。家はあまり掃除が行き届いていないので恥ずかしいのだ、日暮れまでには片づけが終わっているだろうからと言うので、家政婦さんがいるんですかと穂野が尋ねると、平杉さんは穂野の肩に腕を回して、まあそんなもんねと答えた。

魚丸は予想よりも大きく、四人はゆったりと腰かけて沼に浮かんだ。うどんを千切って針にかけ、糸を垂らした。

しばらく餌を取られてばかりだった。それから少しのあいだ立て続けに釣れて、また釣れなくなった。

鮒ばかりだった。平杉さんの指示に従い、六尾釣れたうちの四尾を放した。子どもばかり放すわけではなかったので、健康なのを逃がすのですかと聞くと、魚本人の諦め、カンネンの具合によるのだと答えた。

時々ナマズが浮かんで来て舟の匂いを嗅いでいたけれど、これは釣れなかった。

平杉さんは巨大な黄色い肺魚が睡蓮の葉の下をゆっくり泳いで行くのを見たことがあった。あの肺魚を釣ったなら魚丸は転覆するだろうという意見だった。

しばらくなにも起こらなかった。平杉さんが家政婦のことを知りたいかと穂野に尋ねた。じつは旦那でねと言うと、穂野はぜひ聞きたいと言った。

平杉さんは穂野の肩に腕を回して、夫婦の馴れ初めを話し始めた。

 

……と、まあ大体そういうわけで私は作務衣を着て、藁草履を履き、頭に菅笠をかぶってる。ね? 魚丸に乗る時のこれが礼装なの。今日は違うけど、ふだんはそう。

舟には煙草――煙草も舟の上では煙管でなくてはならない――と、お番茶の入った魔法瓶と、えらくインクくさいイタリアの画集を一緒に積んでいる。あァそれから、そのころだ、魚籠を置き始めたわね。もし万が一この沼に鰻がいたなら、魚籠を置いとけば釣れるって、ある明け方の夢に御神託を賜って。このお話の時には、まだ魚籠が役立ったことはなかったけれど。まァ、今もそうだけどね、アハハ!

浅い所には野鳥がよく来て、水浴びをする。例えばセキレイがひんぱんに来る。ほらあそこに来てるでしょ? 白鷺もいれば、バンもいれば、カイツブリもいれば、鵜もいれば、寒くなったら鴨も来る、時には川蝉や白鳥も来る、よい沼である。

ところで、沼には一尾の外来魚がおりました。それはうどんでは釣れない。それは町で買って来た匂いの強い疑似餌を泳がせると簡単に釣れる。もしくは、うどんで釣った魚の口に大きな針を通して泳がせておくと、すぐ釣れる。

外来魚は巨大で、口が恐ろしいくらい大きく開いた。色が派手で明るい。耳がある。獏のような鼻も。初めて釣り上げた時には、衝撃にびっくりしたのか蟹を吐き出しゃァがった。青い分厚い蟹で、こんなものが沼の底にいたのかと思った。この蟹も外来種だけど、ややこしくなるから、ここは忘れてよろしい。

その外来魚は恐るべき繁殖力を持ち、日本在来の素朴な魚たちを絶滅させて歩くと聞く。テレビの教育番組でやってたの。この手の魚はひとりでには来ないから、誰か人間が運んで来て、ちゃいして、あちこちに出現するしか来日の方法がない。

この沼に住んでる一尾きりの外来魚も、ここらへの不法侵入者が沼に放ったんでしょう。もしくは竜巻とか、アホなコンドルの悪戯とか。一尾ではいくらがんばっても増えないだろうけど、あんまり大きくなって沼に鯨みたいのが泳ぐようになったら、怖くて水に浮かんでいられなくなるものね、どうしてやろうかと考えた。

私は本来、釣り上げた魚は、食べない分はその場で放すの。それは残酷な遊びだと言う人がいるけれど、じっさいやってみると、まァおおむねその通りかもね。今ではそんなことはなくなったけど、慣れないころは放したあとでしばらく経って向こうに浮いてしまうこともあったわ。

話を戻して、私は蟹を吐いた外来魚を見つめて思った。こいつは早いうちに沼から上げて、埋めてしまうほうがよいかもしれない――鯨みたいになるかもしれないし、鰻を食べてるかもしれないから。蟹は消化が悪くて胃に残ってたけど、鰻は消化してたのかもしれないじゃない?

でも、色々の場合を考えてけっきょく、最後には放っておいてもいいと考えた。大きな魚を殺すのはきついし、生き埋めにしたら今度は、何日も土が蠢いたり、夜中に地震が起こったり、変な木が生えてきたり、……それから(小声になって)朝起きたら私の大事な所が魚の顔になってたりしたら、怖くって死んじゃうでしょ?……

一匹くらいヌシがいたほうがいいだろうって、それくらいのところで手打ちにしたの。ヌシは、あの黄色い肺魚がもういたけど、二匹くらいいてもいいだろうって。そうして、グロテスクな外来魚を、私は放した。

都市でドロップアウトして山荘に逃げ込んで来たころの私は、神経を患っちゃってて、それはいくらか遺伝的なものでもあったんだけど、こう顔をね、幻覚の小さな蜘蛛が歩き回っていたものだった。山荘に来ると、新しい生活のあまりの自由さと不便さと、自然の広さとむなしさに、その美しさと嘘くささに強烈な嬉しさと悲しさを感じた。それから感動の起伏は狭まって、ひたひたと平らかなものになって行った。

知らないうちに顔の蜘蛛はさっぱり落ちた。もうずっといてもいいと思い始めてたんだけど、だからこそかな、ぽろぽろって落ちたの。

山荘の裏にある滅びた庭を蘇らそうかとも思ったけれど、中途半端に手をつければ散々なことになりそうだったので保留にした。今は、けっこう熱心にいじくってて、散々なことになってるわ、アハハ!

そうしてある日、この沼を見つけて、粗末な屋根つきの桟橋にもやわれた魚丸と出会ったの。それから私はずっと舟を浮かべて、釣っては逃がし、お茶を飲み、煙草を吸って絵を眺めた。外来魚はその後四、五回釣り上げた。釣り上げるたびに大きくなってたけど、二度目からはもう慣れてしまってなにも吐き出さなかったから、なにを食べていたかはわからなかった。

 

……ェえ、いよいよね。さァお立ち会い。その日は朝から沼に行きました。そうすると、彼がおりました。

(平杉さんは穂野にほほ笑みかけた。カトキヨの糸がかかっていたけれど、釣られ慣れた魚はあわてず騒がず、おのが宿命と分際の内部で悠々と泳いでいた。)

彼は沼の畔で私のことを待っていたのです。彫りの深い、鼻の高い顔立ちで、唇がないのかと思うほど薄く、青い瞳をしていて、金髪で、背が恐ろしく高かった。

けれども、着ているものはくたびれた浴衣だった。茶色がいじけたような色で、ぼろの一枚だけが巨体に引っかかっていた。それでも髪が几帳面になでつけられているところを見ると、根は紳士らしいと感じた。

「ぼくは、あなたに釣られ続けて来た外来魚です」と彼が言った。

「外来でしょうね」と、私が答えた。「国産なら夜に出るもの」

これは、ぜんぜん伝わらなかったわ。お化けのことを言ったんだけど、それにしても、うまくないよね。私は緊張すると、とてもまずいことを言うの。それで恥ずかしい思い出がたくさんあるわ。

「あなたをお連れします」と外来魚の彼が言った。

「どこに?」

「ぼくの故郷アメリカに」

「そんなこと、できるの?」

なんかおとぼけた感じね。でもこうだったの。緊張してたからなのか、精神安定剤のせいかもね。どうでもよくなってたから。今は、もう飲んでないのよ、お守りとして持ってるだけ。

「たやすいです」

「でも、アメリカなの? あなたを見てると、アマゾンとか、なんかアフリカとか、そんな感じがしますけど」

「アメリカなんです」

彼は私を見下ろして、淡々と話してた。嗚呼目がブルーだと思った。とても素敵だと思った。

「そうですか。では、どうぞ……かどわかしてください」

と私が言うと、彼は魚丸を指して、

「それへ」

私は、魚丸にこの巨人と二人で乗れるだろうかと心配になったけれど、彼が私を先に乗せようとするので、さっさと乗ってしまった。彼もすぐに乗り込んで来た。あんがい揺れなかった。舟は、とっても深く沈み込んだけど。

「どうして連れて行くの?」

今さらながら尋ねると、

「誤解されたままでいたくなかったからです」と言った。「ぼくの属性は外来ですけれど、ここにいるぼく本人は物心ついてからずっとこの沼で暮らして来たんですから。あなたよりもずっと前から、ここに住んでいたんです」

最初に考えていたよりも彼は子どもらしかった。少年でいいくらいだった。私はなにか青臭くて出口のない衝動と義憤に付き合わされてしまったの。彼はしゃべりながら、ぐんぐん漕いで行った。

「だから一緒にアメリカに行って、一緒に文句を言うんです。いい考えでしょう?」

「うん」私は抱いていた持ち物を隅に置いて、「もうすぐ?」

「ええ。この辺りかとは思うんですけど」

幅広な赤土の道が前方にはるか長く伸びていた。轍の刻まれている道だった。

魚丸はおだやかに揺れながら、彼の漕ぐことに合わせてすいすい進んだ。土の上では、舟は水の上よりもすぐに止まろうとした。彼は水に浮かんでいた時よりも一生懸命に漕がなければならなかった。

「ここはもうアメリカ?」

私が聞くと彼は、額に汗を浮かべて漕ぎつつ、

「アメリカです――しかし、文句を言いたいアメリカじゃあないな。あそこで誰か麦刈りをしてるけど、魚を密輸する、悪い売人がいないことには」

彼が舟を停めた。私たちは並んで座って、遠いシルエットな、おじさんの農作業を見守っていた。

「でも、ぼくを運んだのは悪い売人じゃないかもしれないから、あのおじさんでもいいことになるのかな。……そういうわけにはいかないかな……」

「――これからどうするの?」

「わかりません」

「それだと困るんだけどな」

「じゃァあなたがあの人に、がつんと言ってください」

と彼が言った。怒ってるようで、怖かった。内心びくびく、それからなにか変に嬉しくもあって、ぞくぞくしながら、

「いやよ。適当なこと言ったら怒られるじゃない。それに、なんて言やいいのよ」

「よくも魚を持って来たな、とか」

「魚を持って来たのは、あの人なの?」

「そうですよ」

麦刈りのおじさんが腰を伸ばしたので、私たちは舟の中に身を縮めた。その拍子にお互いの頭をぶつけて。私は苛々したから彼を突き飛ばして、

「よし、言ってやる。『よくも魚を持って来たな』って、英語でなんて言うの? アメリカ訛りで、過激に演出してよ。すっごい汚い言葉で言うから」

「英語なんて、知りませんそんなもの」

そうして私と彼は、アメリカのどこかの農村の道で、魚丸に座ってた。長いこと。

「――アメリカでは、麦刈りの季節なんだな、」

私がつぶやくと、彼は妙な顔をして笑った。とりあえず一服してから考えようと思って、魔法瓶の蓋をコップにして番茶を注いで、彼に渡した。彼は恐縮して受け取らなかったけれど、無理に渡すと受け取った。

それから水飴をこしらえて、そう割り箸でね、この半分も彼にあげた。地面の、魚丸の影になっている所に生えてた雑草を、小さな鮒がつついてた。

「鮒がいるね」と私が言うと、彼は覗き込んでうなずいた。

私たちは一つのコップと煙管を代り番こに使った。

「遠くの山があんまり高くて、雲みたいね」と私が言った。「さぞかし郷愁があるでしょうね」

「郷愁ですって? とんでもない。いいえ。よそよそしいです。なにもかもが広過ぎて、恐ろしいくらいだ」

「だけど私は、なんだかこんな所のほうが懐かしい気がするな。死んで魂が飛べたりするなら、私、真っ先にここへ来よう。あなたは沼のほうが郷愁なの?」

「さあ。郷愁はわかりません。時々、なにか、こんな感情があればいいなって思うような、ないものを惜しむような、思い出しそうなような気持ちにはなりますけれど」

私はいい気持ちで水飴を舐めながら、

「時差がないのねえ。ほんとはアメリカって、まだ夜なんじゃないの?」

すると彼は難しい顔で煙を吐いた。いつ吸ったのか見ていなかったから、少しぎょっとした。彼はなにか言いかけたけど、悲しそうに口をつぐんだ。

夕陽が私の知ってるサイズより五倍も大きかった。波打つ金色の原っぱが赤褐色になった。麦畑からちらちら白い星のようなものが舞い上がって、風に運ばれて行った。甘い匂いと、かすかな焦げ臭い匂いも漂っていた。

カメムシが私の額にピチッと当たった。日が暮れるので家路を急いでいるのだろうと、おでこをさすりながら私は言った。麦刈りのおじさんが帰ってしまった。私たちはおにぎりを一つ半ずつと、バナナを半分こ食べただけだったから、おなかが空いていた。

「くたびれたわ」

と私が言った。麦の海に夕陽が沈んだけれど、空は刻々と赤が増して明るんで行く。激しい気性のせいでそんなになってしまったような雲が一筋長く伸びていた。

星が出るまで待ちましょうと彼は言ったけれど、私はこの見飽きがした風景に郷愁の失せて行くことがやるせなくて、

「帰ろうよ」と言った。彼はうなずいて、Uターンして漕ぎ出した。

私は子どものように後ろ向きに座って麦畑を見てたけど、ある時の一回のまばたきでアメリカは見えなくなった。水の上に浮かんでいて、彼は漕ぎやすそうだった。

桟橋に上がった私に彼は、後ろを向いて欲しいと言った。元の外来魚の姿に戻って沼に帰りたいのだけれど、変身の途中を見られるとよくないと。私は言われるまま背を向けた。

背後で水音がしたからふり返ると、真っ赤な夕映え空の下、真っ黒の沼の中を、浴衣の外国人が蛙泳ぎで離れて行くのが見えた。大きなアレがなんだか尻尾みたいに見えておかしかった。おしまい。

 

日が暮れかけて山荘に戻ると、きれいに掃除されていた。けれども平杉さんの旦那さんは姿を見せなかった。社交をするにはもう大きく育ち過ぎているのだと平杉さんは言った。

浴室はたいへん広くて三人は心ゆくまで長風呂した。平杉さんの大きなベッドに穂野が招待され、遅くまで話していたらしかった。知明とカトキヨはそれぞれの部屋でぐっすり眠った。

翌朝、なにかのベリーのパイとレモネードを御馳走になり、おいとまする際、三人は相談のすえに卵を平杉さん夫婦へ贈った。平杉さんはひじょうに喜んで卵を受け取った。

バスに戻ると、ガソリンの入ったドラム缶が五つ置いてあり、周囲にはひじょうに大きな濡れた足跡が残っていた。送って来てくれた平杉さんは穂野と抱擁を交わし、知明とカトキヨに握手して、別れた。

その晩、一人のヒッチハイカーを拾った。彼はメドさんと名乗った。「目処」と書くのだそうだった。焚き火を囲んで話を聞くに、メドさんはたいへん憂いに満ちた少数流浪民で、先に進んでいる弟を追いかけているということだった。

メドさんの身の上話はひじょうに悲しいものだった。メドさんの話によると、今この世界に彼を覚えている人は、弟を除いてはどこにもいないのだった。

三人は泣きながら、自分たちは決してメドさんを忘れないと誓った。メドさんは寂しそうにほほ笑むだけだった。

翌朝、謎の焚き火を見つめて三人は首をひねった。

なにも盗られていなかったし、なにか忘れたような寂しい気持ちもなかったから、この焚き火はきっとどこかの時間か空間から飛んで来たのだろうと結論した。

 

 

 

2025年7月3日公開

作品集『猿の天麩羅』第7話 (全13話)

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