猿の天麩羅 6

猿の天麩羅(第6話)

尼子猩庵

小説

12,655文字

 不条理な大幸運に飄々と忍従する中学生少年少女たちのロードムービー。

 異世界にして過去世。未来にして神話時代。下劣にして荘厳。地獄にしてユートピア。

 図書館にはなく、本棚にはある。人生で二度捨てる。

※第13回ハヤカワSFコンテスト二次選考落選。

 

 

 

――世界のチューニングがぶれて、年をまたいでも直らない時、あらゆる災害の裏側にあるメトロノームがせっせと仕入れている食材とはなにか?……

――おしっこに起きるおねしょを睡眠不足にする交代々々はなにを過剰に飲むか?……

翌朝、下着姿のまま洗面所に行って、ヤゴの泳いでいる水で口をゆすいで顔を洗った。近々小さな雨季が来るから水が汚いのはそれまでの辛抱だと、昨晩おにぎりをくれた神田さんというふくよかな婦人が言った。

それから神田さんは二人の体臭に眉をひそめ、穂野の脛のふわふわした毛を睨み、強引に腋の下をも覗いてふわふわした毛を睨むと、かぶりを振って、顔を赤くしている穂野をどこかへ連れて行った。

残された知明がベランダに出て町なみや空を眺めていると、少し離れて向こうに建っているもう一棟のマンションの屋上に、大量の土が盛られて丘になり、一本の大木が生えているのが目に留まった。

シラサギが白く点々ととまる屋上の木をしばらく眺め、やがて視線を下ろして行くと、七階か八階のこちら向きなベランダに誰かがいる。じっとしているけれど、なんとなくこちらを見ているような気がした。

神田さんが戻って来たのでふり返ると、ぴかぴかに磨かれた穂野がイミニアンの服を着て立っていた。

続いて知明が連れて行かれた。壁が大きくくり抜かれて空がよく見える浴室で服を脱がされた。神田さんは知明の全体を見ると、とりわけひとところを見つめて、

「気にするこたないよ」と言った。

それから「カノジョのを剃ったのと同じ剃刀だけどいいでしょ」と言いつつ口の上の薄い髭を剃られ、そのまま「気にするこたない」とくり返しながらひとところの周囲も剃られた。そののち隅々まで磨かれてイミニアンの服を着せられた。

全身の触覚が蘇生したかのようだった。ゆったりした原色な服の肌触りはやわらかく、服の中に吹き込んで来る風は優しかった。

神田さんにお礼を言うと、もっと清潔にしろと言ってお尻を叩かれた。この学生服は繕うか燃やすかと聞かれて、穂野はなんと答えましたかと尋ねると、「あんたに任せると言ってたよ」と言うので、燃やしてくださいと答えた。

後で牛をほふるのを手伝ったら、あんたたちも好きなだけ食べていいと言われ、それまで遊んでいろと言われて部屋に戻ると、穂野がベランダで一人の少年と話していた。

少年は穂野よりも知明と話したい様子で、あれこれ盛んに質問して来た。彼は旅に憧れていた。けれども心臓が悪いから諦めているのだと言う。カトキヨと名乗った。

知明がカトキヨの質問に答えつつ、ふと屋上に木の生えたマンションを見やると、さっきのベランダにまだ人が立っていて、まだこちらを見つめているような気がした。

双眼鏡があるかいと聞くと、カトキヨは滑り出て行って――ローラースケートを履いていたことに知明は今気づいてギョッとした――少しべたつくのを持って来てくれた。

待っているあいだに事情を聞いていた穂野も興味津々で、双眼鏡を覗く知明にもたれかかって成り行きをうかがった。

なかなか焦点が合わなかった。知明は遠近の調節にくらくらしながら、汚れを落とした穂野はやはりいい匂いだと思った。

自分の匂いも久しぶりだった。遠からず子どもではなくなって行くのだろうけれどもまだ臭くないと思う。カトキヨは、イミニアンといっても明らかに二世か三世か、強固な入信動機もなく自発的な禁欲もないので穂野のことが性的に気になっているかもしれない……もしくは、俺のことが。なんとなくそう感ぜられる。

中性的な顔かたちをしたカトキヨに好かれるのは複雑な気分でもあり、いや単純に得難い幸福であるのかもしれぬ……

――焦点が合った。知明は人影を見た。すると、向こうは肉眼でこちらを見ているのだった。

明らかにちゃんと見えているらしかった。その人は、全身ペンキで塗ったように、強烈に白くて、頭がつるつるだった。そして手招きをした。

 

木の生えたマンションにも多くの人が生活していた。イミニアンとは別な秩序で以て治められているらしかったけれど、類似した親切さを以て迎えられた。

知明と穂野とカトキヨの訪問は秘書を名乗るおばさんによって記録帳に記された。最初、後ろから何度呼びかけてもふり向かず、穂野がおずおずと肩に手を触れるとようやくふり返り、

「ああ、また幻聴だと思ったのよ」と言って謝ったおばさんだった。

現住所を細かく告げるカトキヨの説明をふむふむ書き取っているおばさんに、七階か八階のベランダにいた白い人のことを尋ねた。するとおばさんは苦笑なのか微笑なのかわからない笑みを浮かべて、804号室の北郷さんだと教えてくれた。

このマンションの屋上の木を見たかと尋ねられて三人がうなずくと、あれは北郷さんが昔植えたのだと言う。

訪ねると、顔も体も色素がないというよりやはり塗ったように白くて一切体毛のない北郷さんが笑み崩れて知明と穂野とカトキヨを招じ入れた。部屋の中は物がなくてひじょうに清潔だった。

「よく御出で下さいました」

と言いつつ北郷さんは最初に知明、次にカトキヨと穂野を同時に握手した。固く握ってぶんぶん振る握手だった。

「こんなにすぐ御出で下さるとは思いませんでした。これから日を追うごとに少しずつ少しずつ警戒心を解いてゆかれ、好奇心を募らせてゆかれるかと。すぐに御出で下さるとわかっていたら色々用意をしておいたのですが。少しお待ちいただいてよろしいでしょうか」

奥の部屋とベランダから椅子を合計四つ持って来て向かい合わせに並べた。三人の客は北郷さんが座るのに合わせて、ゆっくりと座った。

「僕たちになにか御用でしたか」

知明が尋ねると、北郷さんは立ち上がってキッチンに行き、四つの湯呑にお茶をいれて戻って来た。向かい合った椅子の真ん中に置かれた小さなテーブルに湯呑を並べた。そうしてまた座ったのだが、いささかの音も風も立たないその動作は、返事を話し出す前に軽い咳ばらいをしたくらいな印象だった。

「いえただ新しい人がいらっしゃったな、と思いました。新しいことが起こるとかならず色々と物事が続いて起こるような気がします。たくさんの物事の体がつながっているかのようです。もう関係のないところまで、やっぱり起こるかのような気がします。私自身もひじょうに新しい出来事としてここに来ました。その時はやっぱり色々と起きました。新しいことや、認識されなかっただけで古来そこにあったものの発見が。

反対の様相も呈していたでしょうが、これは私たちにはわかりません。やがてこの連鎖は落ち着くかのようです。落ち着くと今度は頑としてなにも起きなくなるような気がします。私がここに出現してから、周囲にとって私はずっと新しい出来事でした。しかしともあれ時は経ち、事件は終わりました。私の存在は遂に界隈の出来事にとって新しいことが連鎖するほどには新しくなくなったのです。

しかしまあ、受け入れられたし馴染んだとはいっても根本的に違うものは違う。そういうどこか永久に馴染まれない異質者の孤独が、新しい人がいらっしゃったなと私を喜ばせた次第なのです。それでもあなたがたは、やっぱり私ほど新しくはない。私は見た目がこういう通りでしょう」

まつげのない、くりくりした目でじっと見つめられて、うなずくのは失礼かもしれないけれども、ともかくなにが失礼に当たるのかわからない余所者として知明はこくりとうなずいた。すると北郷さんは、なにも反応しなかった。ゼンマイが切れたように静止していたから、

「はい」と言った。するとふたたび動き出し、

「ええ。こういう見た目なのはやっぱり問題です。解決しているんですけれども、消えたわけでは決してない、解決済みの問題です」

「北郷さんはおいくつですか」とカトキヨが尋ねた。

「ひじょうに難解です。それでもよろしいですか?」

三人はこ、こくりとうなずいた。

「ある日私は梵天を訪ねました――あえてそう言います。つまり、梵天という言葉がさすところの、宇宙の根本原理や究極存在、最高神や創造主にして世界そのものという概念にぴたり当てはまるところの宅のことです。そこへ訪ねたのです。あれはどうやったのかわかりませんでしたけれども、その時はまるでただ鼻の頭を掻くくらい簡単なことでした。

そうしようと思っていたわけでもありませんでした。ええ、それはほんのまばたきするあいだの出来事でした。もう、遺伝子の最奥の記憶でもなければ魂に眠る本来の自己でもなく、この肌を突き破って外部世界のことごとくからもう一つ脱出した、もしくはその反対をいちじるしく呈した所へとじっさいにたどり着いたのでした。

むろん、それがただ私の脳髄の内宇宙であったのならそれで構いません。なぜならその時私の内宇宙は、外宇宙を物質的にも、いとも軽々と含有していたからです。そして内宇宙だの外宇宙だのという表現が、まるでちんけな愛らしいイトトンボとして飛んでいたことを見知っているからです。

直観があまりにも冴え渡り、無言にして雄弁、ありとあらゆる現象の段階性は徹底的に寡黙でした。出発と到着が同時に起こり続けていました。すべてはぴたりと言い当てられていたのです。そこへ至る無限の過程がみんな手をつないで、となりに小さく並んでです。

私は思い出しました。いちじるしく忘れたとも言えるでしょう。私は消滅しました。すなわちいちじるしく所有しました。それからまばたきは終わったわけですが、目を開けた私はもう以前のようではなく、周囲もひじょうに時が経ておりました。知り合いは死に尽くして跡形もなく、知り合いの面影を引っ提げて歩いている者はもう遠い遠い他者でした。私はこの通りですし、やっぱりあの訪ね当てた所というものは、持ち帰られる何物をも含み持っておりませんでしたから、やかましいほどの手ぶらです。外見を別にしては。

私は異形として帰って来て、紆余曲折のすえに、ともあれ心優しい人たちに恵まれることができ、命をそこなうことなくここにたどり着いているという正体なのです。その幸運に私はしみじみと感謝しております。感謝なぞおこがましいことは百も承知で、駄々をこねるように、感謝しているのです」(――○○県○○市――北郷滝治さん新生児3238g――気絶した母親の見た幻――生まれてすぐさま七歩半歩き、右手で中指を立て左手で親指を下ろして「天上天下唯我独賤」と言ってすすり泣いた――)……

 

「屋上の木は北郷さんがお植えになったとか」

とカトキヨ。その楽しそうな顔を見て知明は現代史の授業を思い出していた。イミニズムの旧套を脱し、最終的に消滅せしむる途上としてのポストイミニアンを出現せしめたことに限りイミニズムは有意であったという先生の独善的な、夢で見たのかじっさいに習ったのかも今となっては定かならず。

「その通りです。あれは私がここに落ち着いて間もない、まだまだ疲労困憊とぼんやりとで迷子の老人のようになっていた時のことでした。この時私はレコーダーにまばたきのあいだの見聞を吹き込みましたが、夢を見失って目覚めた朝のように取り落としていて、吹き込みたかったものはいくら手探りしても見当たりませんでした。

『――週明けとなる木曜日には、人間の花言葉はなんであろうか?……』

こういうことを五、六十句ばかり吹き込んだのですが、もう忘れてしまいました。レコーダーもどこかに行ってしまって、今となっては見つかりませんが、遂に諦めて吹き込むのをやめると、マンションの最上階にエレベーターで上がって――そのころはエレベーターが動いていましたので――廊下を歩いていたらば、屋上への階段がありました。

とにかくもう食べることを世話してもらっていたし、あとはいただいた部屋を清潔に保つくらいのことで時間が有り余っていました。疲労というものは、回復にばかり労力をあてても退去を急いではくれないと思い始めていた矢先です。つまり仕事が欲しかった。私は階段を上りました。

ええ、まだ梵天謁見の残り香に包まれておりましたから、ただ廊下を歩いているだけでも、それはもう口笛が生きて歩いているような、完全に充足したものでしたけれど、上ったのです。梵天を訪ねたことは重大なことでしたが、それが終えたのちにもまだ現世に存在し続けている私には、もうなんとも言えません。このように帰って来てしまっているのです。帰らないこともできたのですが、あの時は、くぐり抜けることがただ美しく思われて、私は私自身が穴になって、ようやくのことくぐり抜けられたのですが、こういう結果に相成りました。訪ね当てた時と同様、そうしようと思わなかったことに決着したわけです。

まあ、もうよかろうと思い始めました。それというのも存在とはやがてそう思うようにできているのです。戻ってすぐは、幾何学のどんな難問でも解くことができたように覚えていますが、そのままでいるよりはきっとよかったのに違いないのです。

階段には柵がありました。私は猿のようによじ登り、空中に張り出したねずみ返しを越えました。私は体重がほとんどありませんから。影に至っては、私とは少し別のかたちをしております。

甘いコンクリートの匂いがしたのを覚えています。雨の日には濡れるままな、屋根のない階段です。とうとう屋上に立つと天に人間が一人突き刺さるのを感じました。

ふと見ると、誰かがコンクリートをうがって作ったプールがありました。昔々の仕事です。大きくくぼんだきりのプールは苔と藻と雑草だらけで、雨水が少し残っている中に虫が泳いでいて、……そうして、わずかの上澄みに、どのくらいの歳月を生き永らえて来たものでしょう、赤い大きな、ガーネットのようなベタが住んでおりました。

その時私はここに建物を建てようと思い至りました。それは思い出したというのが正しいような気持ちでした。どのような様式の建物か、用途はなにか等々、なにもかも決まっておりました。しかしそれは視覚的な記憶ではありませんでしたから、まったく建築に向かない確信に衝き動かされていたわけです。

石材は柵の隙間を通過し、袋に詰められたモルタルも隙間を通過してゆきました。私は猿のように柵を横から超え、転落死と博奕を交わす日々でした。毎日少量ずつ運び上げ、どんどん造ってゆきました。

最初は壁を築くばかり。梯子が柵を通過したことは幸いでした。板とポールと縄とで足場が作られ、壁は高く高く、ここいら一帯では晴天にも落ちる雷と博奕を交わしつつ、住人に見つかったらなんと言われるだろう、もはや簡単には解体できぬ大きさの建造物を見て、しかし私に責任能力がないことを承認する心優しい人々は一体なんと――……

四辺の壁が出来上がり、次に第一の天井を造り始めんとした時、私はこの建造物はやめようと決めました。その瞬間、一粒きりの巨大な雨が、十の虹を作るくらいなしぶきを天に跳ね散らかして壁ばかりな建物の中に落ちました。

天に突き刺さった、深い立体プールでありました。私は管理人さん――当時はまだいらっしゃったのです――や住人のかたがたに怒られたら、元々のプールを指さして、あれは私ではないのだと言うつもりだったのですが、もうその道はなくなっていました。元々のプールの上に造ったのですから。

この立体プールは有意義な貯水槽になりましょうか? いやいや、無断でやったのがいけない。偶然による善結果は私の罪を無くしはしない。おそらく住人のかたがたにとっては。

斯くして原罪を後天的に獲得した私は奮起イチバン、運び入れるのを土にして、立体プールを埋め尽くしたあとも、どんどん盛って山にしました。それが一番善良だったからです。ええ、マンション住人のかたがたは、当時まったく外を歩きませんでしたから、(だって当時の貴族は下界人たちから容易に害されましたので。)外部からは一目瞭然な私の奇行を教えてくれる者もなく、誰にも気づかれませんでした。

私がこっそり外の連中と、とりわけ一人の女の子と仲良しになって、石材やモルタルや土を運んでもらっていることも誰も知りませんでした。その女の子は今はもういません。昔々に町を出てしまいましたから。

私は完成した土の山の天辺に細い木を一本突き刺しました。それが一番よかったからです。その瞬間、晴天の雷が木に落ちました。木はほんのまばたき一回のうちに数百年の歳月を経たようでした。確かに今よりは小さかったですが、もっと古びていました。もう大きな老木なのです。土の山の中に立体プールがあったために根っこの拡大が抑えられ、それくらいに収まった大きさでした。うろには既に鳥も住んでおりましたし、昔鳥が住んでいたらしい空き家もたくさんありました。

種類はいまだにわかりませんけれども落葉樹だったために、冬になって葉を落とし、廊下やベランダや中庭に散り積もって遂に発覚しました。住人のかたがたは管理人さんを伴って屋上へ行き、戻って来ると私をふんじばりましたが、けっきょくは解放しました。

解放されながら私は将来を垣間見ました。いずれ木の横には尖塔が建っていると。しかし私が最初に思い出した建造物は、蓋を開ければ木だったのであるからには、尖塔の光景も、じっさいにはあの木がたいへん大きく育つというだけなのかもしれません。あるいは次の雷で枯れるということなのかもしれません。

そして嗚呼、解放しながらも人々は怒っていました。それは対象のあいまいなる怒りでありました。それは多分こうだ。死者がこの世に残れば生者は死者を追い出すだろう、しかし私は死者ではないために、怒るしかなかったのだと。生者は死者の生存を許さぬ。それはのちの永遠なる安眠を否定されることに対して、睡眠時にもあくせく働く諸臓腑にかかる底深い恐怖から来る無意識的な絶望として。それは死者に限らず、まだ生者にならぬ未者たちに対してもそうであり、いつまでも死なない非死者に対してもそうであり、そして私のような例外者に対してもけっきょくはそうでありましょう――……失敬」と言って時計を見ると、「仕事に行かなくてはならないのですが、一緒に御出でなさいますか。すぐに終わりますが」と誘われて、三人はついて行った。

 

最上階まで階段を上った。そこは廊下の幅がひじょうに広かった。下界の家々は高い手すりに隠れて見えず、清々した空だけが見晴らされた。部屋も一戸ずつが大きいために、三軒しかなかった。北郷さんは端からノックして行って、

「ちょっと遅かったね」などと言われながら、にこやかに迎え入れられた。

最上階の住人たちは総じて裕福そうで、無欲そうだった。そして重要に思う事柄が根本的に違っていそうだった。

北郷さんが逡巡なく歩いて回る部屋々々の天井からは屋上の木の根っこがとうとう突き抜けて垂れ下がり、曲がったり丸まったりして浮いていた。

どう考えてももっと巨大なはずである根っこは、天井を突き破って土を見失い、空中に垂れた途端に萎縮したようだった。それをさして北郷さんは、

「これは、ここに出て来てようやく自分が世にそぐわぬことを了解し、こうして遠慮しているのです」

それから湿った土を根っこに薄く塗り始めた。床に落ちないよう気をつけながら丹念に塗って行った。

「誰か他者の記憶のように思い出される風景に――それはある美貌の女性と毛むくじゃらの女の子が旅をして行くというのですが――こういう場面があったので、この方法を知り得て実行しているのです」

三人が手伝いたいと申し出ると、北郷さんはやんわり断った。

 

遠くから放送が木霊している。

――昼は逃げ回り、夜は追い回す男が、歯を磨くのはどんな時か?……

804号室に戻った。北郷さんは一日のほとんどの時間において眠くてたまらないのだと言うと、申し訳なさそうに断って粗末なベッドに横になるやたちまち眠ってしまった。

眠りに落ちる直前に、どうぞごゆっくりと言われていたので、知明と穂野とカトキヨはしばらく行儀よく椅子に座っていた。

やがて立ち上がると、あちこち見て回った。ベランダに出た。植木鉢に生えているなにかの挿し木の若葉を、服を新調したばかりのミノムシが盛んに食べていた。

手すりの上にはジャムの瓶やウイスキーの瓶や、あらゆる瓶がずらりと並べてあり、中にベタの稚魚が一尾ずつ入っていた。どの瓶にもマジックペンで中の魚の名前が書かれてあったけれど、一つとして読めなかった。

風雨に傷んだ小さな棚がベランダの隅に置いてあり、飛行船のラジコンが仕舞ってあるのを見て、カトキヨが「UFOの正体見たり北郷さん」と言った。

台所に電気炊飯器があったから、使えるだろうかと聞くとカトキヨはうなずいて、電気は使いたければうちのマンションでも使えるんだと言う。

「どこから来てるのかはわからないんだけど、なぜか使えるんだ。でもいつ尽きるかわからないんで、滅多に使わない。ただ使ってないと尽きる可能性もあるから、たまに使うよ」

穂野が本棚から鳥類図鑑を持って来て、(しかし載っているのはどう考えても実在する鳥ではなさそうだった。)三人頭を寄せ合って眺めた。やがてすることがなくなった。ふたたび椅子に座って窓の外を見ていると、目下お世話になっているイミニアンのマンションが見えた。

北郷さんは肉眼でどれくらい見えるのだろうと考えつつ、ふたたびそこいらをあさっていると、押入れに天体望遠鏡があった。それを見て知明が思い出したことを穂野に言うと、穂野も覚えていた。

幼少期に瓢藤の家長が連れて行ってくれた高原のキャンプ場で、瓢藤が天体望遠鏡を覗いていたところ、突然ウワッと言ったのだった。

その理由は最後まで言わなかった。その時瓢藤はわなわなと震えていて、今にして考えてもよくわからない表情だった。

それから瓢藤はそれまでにもましてひょうきんになり、軽やかになり、世話焼きになった気がする。今から考えれば、それからの瓢藤にはどこかぽっかりとした哀愁があったのかもしれなかった。

知明がそう言うと、穂野は小さくうなずいた。

 

北郷さんは目を覚ましてすぐ、あまり長いこと起きなかったら帰ってもいいと言うつもりだったのだが、言う間もなく眠りに落ちてしまったと詫びた。それからお茶をいれ直し、巧みな手品を披露した。やがてもう帰りますかと尋ねて三人がうなずくと、また御出で下さいと言って送り出した。

カトキヨの案内に従い、家々のあいだを縫って帰った。それは安全な順路であるのみならず、ちょっとした商売上の都合もあって、カトキヨは道々二、三の物々交換をしていた。

マンションに戻ると、神田さんが三人に「おかえり」と言った。今駐車場で豚をさばいているところだから――あァ、さっき牛と言ったのは、まあちょっとした手違いさ――知明とカトキヨは早く行って手伝っておいで。

穂野が自分も行くと言うと、それなら私も行くと言って、けっきょく四人で行った。

口ひげを生やしたおじさんが豚のさばきかたを教えてくれながら、

「先週な、留守にしていてよ、受け取りそこなった郵便物をな――従兄弟が遠国から送って来た地場野菜なんだがね――あとでちゃんと受け取ったんだけども、受け取りそこなった時の不在連絡票が手元に残っていたからな、物は試しで郵便局に持って行ってみると、同じ郵便物がもう一度届いたんだよ。そうそう、遠国の地場野菜が。これはいいと思ってな、昨日もう一度やってみたんだが、前回の不正が発覚していてよ、すごく叱られたよ、ハハハハ」

その夜、知明も穂野も神田さんに磨かれたためにスッカリ塩がなくなって、どこもかしこもたいそう薄味になっていた。

薄味になってとつじょ花ひらいた穂野の疾走に引きずり回され、半ば以上置き去りにされたからであろうか、知明の明け方の夢の中で瓢藤が正夢を見ている。いわく、ある種のウイルスは永遠の命を得んがため感染者の体の一部を逞しく粘り強くし、異性をくらくらさせるフェロモンを放つとやら。ある種の蚊のみが媒介動物として運ぶことが確認されているというからどこに行けば会えますかと聞けば、神託答えて申さく汝は三度会うだろう。しかしもはや二度会い過ごしている。残るチャンスは一度のみ……。

数日おだやかに暮らしているうちに、激戦地で突撃した時から知明と穂野に湧出していた熾烈な生命力の地下水がぽたぽたとにじみ落ちて行くらしかった。

ある晩知明は、半ば以上自ら登頂した艶やかな失神から覚めた穂野に、考えを打ち明けた。すなわち旅人として歓迎され、受け入れられているからには、ここに居続けるゆいいつの方法はふたたび旅立つよりないというのが太刀坑たちあな中学校校歌の背後に漂う真意の正しい解釈だと思う……。

これに穂野は、脳神経の炸裂の名残からかスッと流れ出た鼻水をあわてて拭いて、うなずいた。

翌朝、神田さんを筆頭に、お世話になったイミニアンたちへあつくお礼を言って出発の準備を始めた。みんなたいへん惜しんでくれたけれど、異文化にいだく敬意から理由も尋ねず引き留めもしなかった。その代わり保存の利く弁当や着替えや寝袋等々、どさどさと与えてくれた。そこへカトキヨが一緒に行くと言い出すと、一部の頭脳明晰な人々が議論を始めた。

最初は難色が強かった。三世に過ぎないカトキヨを手放すのは、空疎なポストイミニズムから今一度脱出し直して純粋なイミニズムに回帰しつつある升千布ますちふイミニアンの世代的な過渡期にあたる今、壊滅的な前例になりかねない。

――しかし長老、その壊滅をも是認することこそが純粋なイミニズムなのではありますまいか。

――しかしね棟梁、それでは壊滅するよ。もっと悪いことには、変質して如何ともしがたく継続してしまうんだ、事実は忘れられ、過去は塗り替えられて、そのため先祖供養をしても宛先不明で当人に届かず……。

その時一人の老人(親方)が、カトキヨの心臓のことについて言及すると、そこから盛んに採決がくり返され、最終的にカトキヨの出立は許された。

そうして賢人会議は、あらためて知明と穂野にカトキヨの同行の可否を尋ねた。二人は承諾して請け合った。

大小のオートバイが二台用意された。大きなオートバイに知明がまたがり、後ろに穂野が座った。小さなオートバイにまたがったカトキヨはしばし軽やかに仲間たちへ別れを告げていたが、バイクをふと降りて、知明と穂野にとっての家長と乳母にあたる人物と抱擁を交わして戻って来た。

ヘルメットをかぶったカトキヨの頭を神田さんがぱんと叩き、「楽しく死ぬんだよ」と言った。カトキヨはなにか儀礼的な仕草をして、友愛を込めてほほ笑むと、知明と穂野をふり返り、行こうと言った。

三人は家々のあいだを塗って升千布町を出た。滑らかに舗装された渓谷の底の道路を、西に向かって進んで行った。

 

谷底の道路を颯爽と飛ばしながら、知明とカトキヨは時々近づいては怒鳴り合って話すのだったけれど、反響するエンジン音がうるさくてほとんど聞き取られなかった。大した用事があったわけでないことだけはシッカリと通じていた。

穂野は終始上を向いて細く狭められた青空を見ていた。ある時から上空を並走する大きな鶴がいたけれど、しばらくすると消えた。

一度大きな落石の転がっているのに出くわしたけれど難なく通り過ぎられた。渓谷の底の道路はどこまでも続くかと思われた。オートバイはなにをはばかることもなく大音声のうなり声を反響させて疾走した。

と、とつぜん、一つの枝道からオーケストラのようなバイカーたちの大群が現れて、三人は飲み込まれた。

バイカーたちはイミニアンの服装をした三人を見ると、なにか極端な巻き舌のスラングを叫んだ。三人はその意味がどうしても知りたくて、分かれ道が何度か現れたけれど、そのまま彼らについて行った。

バイカーたちは大昔に作業が頓挫したまま忘れられた渓谷の中の工事現場をねぐらにしていた。彼らは三人を盛大に歓迎し、ふんだんのバーベキューを御馳走してくれた。

穂野は女性のバイカーたちにやたらと気に入られて、革のジャケットを着せられ、革のパンツを穿かされ、彼女たちもやらないほど過激にメーキャップされた。

カトキヨが先ほどのスラングの意味を尋ねると、バイカーたちも昔、旅の途中の俳人に聞いただけで意味はわからないのだと答えた。

その俳人もどこか都市の映画祭で耳にして、セレモニーホールにいた監督に意味を尋ねたが、監督も大学時代の同級生が言っていた言葉の聞きかじりで意味はわからず、ただ極端に巻き舌になる発音が気に入って映画の中に多用したまでだと答えたのだった。

とんでもない意味だったらどうするのですと俳人が尋ねると、監督は「そうなれば僕の映画も普遍のテーマを体現することができる。馬鹿々々しい誤解で、どうにかこうにか成り立っている愚にもつかない現実世界というテーマをね」……。

それで俳人やバイカーたちは誰か風変わりな人物と出会うたび、このスラングで呼びかけてみて、意味のわかる日を待っているのだった。

知明がこれまでのひじょうに高価な葉巻やテキーラの話をすると、生意気だと小突かれて、三人は大量のビールを振る舞われた。

バイカーたちは全員が、元々はある一流企業に勤めていたサラリーマンだったのだけれど、社員慰安旅行に出かけた先で色々の出来事に巻き込まれ、紆余曲折のすえこのような運びと相成り、かれこれ十年ばかり時に経たれているのだとか。

こう見えて笑うのはじつに久しぶりだ、周辺の警察や小都市の連中は俺たちをとことん苦しめたいらしくて、十年間の窃盗その他諸々を徹底的に無視し続けてけつかる。それで俺たちはどんどん、もう今では徹底的に自由から見放されちまった。本当に、こんなに笑うのは久しぶりだ……。

夜じゅう騒いで、明け方近くにばたばたと気を失い、昼まで眠った。一人が飲み過ぎで寝たまま亡くなったが、ようやく退職金が出たなと言いつつ、バイカーたちはねぐらの片隅にある底の見えない穴へ葬った。

まるで出鱈目な葬式を、全員が至極真面目にやった。

知明と穂野が歯を磨いていると、カトキヨが向こうで話をつけて来て、小型のバスとオートバイを交換したと報告した。故郷のオートバイに思い入れはなかったのかと知明が尋ねると、イミニアンは物をひじょうに大事にするが、交換しまくって一つ所に留めないのだと答えた。

エディ・ダディと呼ばれている巨漢なバイカーが知明にバスの運転を教えてくれた。エディ・ダディは知明と穂野をたいへん評価していた。彼いわく、二人の、本人たちが失ったと考えている突撃の余韻、その熾烈な生命力の湧出が完全には失われていなくって、もう自然には分離されない癒着となって残留し、発光している、それは同種の人々には嗅ぎ取られる一生消えない芳醇な名残だ……。

どこかできっとまた嗅ぎ当てる人と出会うよ。そして色々寄って来る。そして――まァ骨だろうけど、せいぜいがんばれ。

バイカーたちは山ほどのステーキ肉とビールを持たせてくれた。三人は全員と抱擁を交わして別れた。

渓谷の底の道路を、知明の運転するバスは西に向かって発車した。いまだ厚化粧の穂野は、革のジャンパーを着て、革のパンツを穿いていた。

 

 

 

2025年7月3日公開

作品集『猿の天麩羅』第6話 (全13話)

© 2025 尼子猩庵

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