猿の天麩羅 4

猿の天麩羅(第4話)

尼子猩庵

小説

11,117文字

 不条理な大幸運に飄々と忍従する中学生少年少女たちのロードムービー。

 異世界にして過去世。未来にして神話時代。下劣にして荘厳。地獄にしてユートピア。

 図書館にはなく、本棚にはある。人生で二度捨てる。

※第13回ハヤカワSFコンテスト二次選考落選。

 

 

 

山道がとつぜん幅の広い滑らかに舗装された《棕櫚街道》へ合流し、海と並走した。にぎやかな島々を見ながら西へ西へ進んだ。

点在する小島はまったくの手つかずなものから遊園地になっているもの、欧風な城をいただいたものから天に伸びる巨大な螺旋階段を建築しているもの等々、様々だった。

大きな公園や動物園や水族館が現れるたび立ち寄った。動物園と水族館は、それぞれの門衛が双子のおじさんで、水族館でそれとわかった時に動物園へ引き返し、あっちのおじさんはタダにしてくれたと言うと、順路の通りに歩き過ぎる約束で入園無料にしてくれた。水族館でも同様だった。

屋台で食べ物を買い――四人には目下オーガニックフードが流行だった――荒れ果てた海の家で冷たいシャワーを使った。コインランドリーで洗濯し――乾燥が終わるまでは素っ裸で座っていたが、そのあいだに他の客からずいぶん小銭をもらった――近くに神社仏閣や図書館がない時には軽トラの荷台で眠った。

軽トラを借りる際に一つだけ買った煉瓦は、夜の図書館に入る際などに役立っていたが、もはや一個の煉瓦として一生分のガラスを割り終えただろうと、ある時、軽トラを最高速度で走らせて、窓から道路へ叩きつけた。

バックミラーの中で煉瓦は粉々に砕けて赤い煙が立ったが、その煙の中になにかキラリと金色に光るものを知明は見た。戻って調べてみたけれど、なにも見つからなかった。

ある公衆便所の壁に大手売春会社の求人広告が貼られていたので、電話して穂野と八代井が登録した。賀谷と知明が公園で待っていると、目印として胸ポケットに赤いマーカーペンをさした男性客が現れたので、

「女の子たちはあとで来ますが、乗り逃げされては困るから先に代金を払ってください。何度かそういうケースがあったもので」

と賀谷が言い、支払ってもらうと、半分を返して、

「これは騙したお詫び」と言った。

この商売は一度でやめて、漫然と西へ向かった。

右のような商売をやったからに違いなく、ある一軒の娼館の前でガス欠になった。公衆電話でガソリン配達を頼み、待っているあいだに穂野と八代井が艶やかにほほ笑んで、

「君たちのためにテクニックを教わって来る」

と言って娼館に入って行った。けれども帰って来た女子たちは、それからしばらく女同士でなければ寝なかった。

 

眠れない夜、荷台の上で四人ジグソーパズルのように寝ころんで、幼少期のスキー旅行の話をしている。

小学校の体育教師だった賀谷の家長が、六年生の担任を受け持った時、修学旅行先の旅館やホテルを下見に行かなければならなかった事情から、ついでに家族とその友だちも連れて行ってくれたのだった。

「あれっておじさんの自費だったんでしょ?」と八代井が聞くと、賀谷は知らないと言った。

それからしばらく話題がなくて、ただぼんやり星を眺めていた。一筋の長命な流れ星がなにかにぶつかったかのように四方八方へ散ったが、なににぶつかったのかはわからずじまいだった。

近くに赤いポストが転がっていた。ある時賀谷が引っこ抜いて来たもので、荷台で夜を明かすたび、そこいらの町角に一晩中突き立てておいて、出発の際に回収していたものだった。うまくすれば手紙に現金を入れて誰かに送る人もあろうという期待なのだったけれど、どの町でも「その手は桑名の焼き蛤」と書かれた紙が入っているばかりだったので、このたびとうとう捨てられたのだった。

ふと賀谷が知明に

「なんか落とし噺をしてくれよ。最高に笑えるやつ」

それで知明は考えたけれど、思いつくのはもうこの顔ぶれに話したことがあるものばかりで、ウケたためしもなかったから、創作することにして少し時間をもらった。しばらくして知明はぴしりと指を鳴らした。賀谷は首を持ち上げて

「できたか」

「いいや」

「なんだよ」

「いや、つまり賀谷はなんか思いついたわけだ。でもちょっと自信がないから俺に前座をやらせて温めようとした――その可能性に気づいたのが指だったんだよ」と言って、もう一度ぴしりと鳴らした。

賀谷が見回すと、女子たちも期待して見つめている。

「じゃあしょうがないな。さっき思いついたやつがあるから、話してやろうか。――あるところに金持ちの爺さんが暮らしてた。爺さんはこのところ、泥棒が来るという恐怖にとりつかれていた。これではせっかく金持ちでも、夜もおちおち寝られないし、ちっとも幸福じゃない。そこで爺さんは、泥棒を撃退する画期的な方法はないかとアレコレ考えて、遂に解決策が見つかった」

「うん」

「泥棒の気持ちになればわかるこった。どこかの家へ盗みに入って、そこになにがあったらイヤだ?」

「さあ。獰猛な犬とか」

「違う。一番イヤなのは、首をくくった死体さ。どんなにベテランの泥棒だって、こればっかりは肝を潰して逃げるだろ。爺さんはそれに思い至って――」

「最低」と八代井が言った。

「じゃあ次、知明な」

「いやだ」

 

何度かすれ違ううちにすっかりデコトラに憧れて、ようやく街道に現れたカスタム屋へ立ち寄り、小型のコンテナに東海道五拾三次岡部宇津之山を描いてもらっているあいだ、カフェで昼食のキッシュを食べている。

つい先ほど強面のお兄さんから声をかけられ、この地域は十三歳から結婚できるのだけれども、戸籍の上だけでいいからある二人の賠償宇宙人の女の子の夫になってくれないかと頼まれた。くわしい事情を聞くと、なにも聞かずに頼むということだったので、承諾した。

お兄さんは知明と賀谷の拇印を取ると、すぐに戻るからここにいてくれと言い置いて出て行った。お礼に少なからずくれる約束だった。花菱さんにもらったお小遣いはまだ残っていたけれど、ありがたい収入だった。

ちょいと豪華なデザートでも頼もうかと話し合っていた、そこへとつぜん八代井が腹痛を訴えた。痛みはどんどん激しくなって、近くの医院へかつぎ込むと急性虫垂炎だった。

海を見下ろす高台の大きな病院に移送されて、緊急で切開手術を受け、事なきを得たけれど、しばらく入院することになった。あとで知明がカフェに戻ってみたけれど、強面のお兄さんはいなかった。後日役場に行ってみると、知明と賀谷はちゃんと既婚者になっていた。

知明と賀谷が売店で歯ブラシやらタオルやら買って病室に戻ると、カーテンに隠されたベッドで八代井が穂野に「つるつるにされてしまった証拠」を見せているところだったので、知明は病室から締め出された。

賀谷も証拠を見せてもらっているあいだ、廊下で待っている知明が看護師さんに呼ばれた。施術費・入院費の問題を持ちかけられたので、保険証とお金を送らせているところですと答えた。看護師さんは安心して去って行った。穂野だけ病室を出て来たので、そのまま一緒に病院を出て、坂を下り、浜辺を歩いた。

我々の所持金ではとうてい足りないが、どうやって都合しようかと知明が言うと、穂野が暗い顔になったので、病室の窓辺に飾ろうと言って、二人で貝を探した。穂野が宝貝を見つけたと言って嬉しそうに見つめていたけれど、宝貝はけっきょくその浜にはうじゃうじゃあったので、一つも持って帰らなかった。

ヒッチハイクしてカスタム屋に行き、完成していたデコ軽トラを引き取った。知明がおっかなびっくり運転して帰って来、病院の駐車場の端っこに停めた。

賀谷が付き添って病室に泊まり、知明と穂野は海に面した広やかな公園で眠った。大きな公園だった。そこに住んでいた賠償宇宙人の移民が親切で空けてくれた藤棚の下のベンチはゆったりとして寝心地よく、周囲から完全な死角であった。

ベンチのそばの地面に、栄養失調の路地薔薇がだるそうに蕾を閉じていた。

 

八代井の病室は二人部屋で、もう一つのベッドが空いていたから賀谷はそこに泊まっていた。病院からは、別の病室に居座っていた健康ノイローゼの一団を賀谷が追い出したことで大目に見てもらっていた。

知明と穂野は昼間に会いに行った。四人集まって話しているとどうしても大騒ぎになるので、やがて賀谷に病室を追い出され、二人は院内をうろついた。

近ごろ増築されたばかりということだった。たいへん広く、その内装の印象について知明は「未来的にプリミティブだ」と評し、穂野は「無機的にコケティッシュだ」と評した。

南棟一階整形外科・内科待合室の奥にあるコンビニエンスストアでジャンクフードを買い込んで食べながら散策した。神童がいやしないかと小児病棟を覗きに行ったけれど、ちょっと見当たらなかった。

壁にポスターが貼ってあり、陰茎移植のドナー募集とあった。知明が応募資格の詳細を黙って読んでいるどこか寂しげな背中を穂野はそっと押して通り過ぎた。

院内放送が流れる。

――罪の意識が恥の意識を言い負かしている時、年中陽の当たらない谷の底に住むモグラと蛙はどちらがよりいっそう(雑音によりかき消される)で、恥の意識が罪の意識をやり込めている時、上空の雲まで届く大きな塔に住む梟と糸の切れた凧はどちらがよりいっそう塔を建てたか?……

渡り廊下から中庭の噴水を見下ろしていた。知明が美人の看護師さんを探し始めたので、穂野も一緒になって探した。

食べたものが悪かったのか、ひじょうな睡魔に襲われた。通院者の一人もいない産婦人科待合室のソファに寝ころがってとろとろした。

知明が半分眠りながら、瓢藤の声で考えるのにいわく「巨大な一匹の生物が元始からの進化や退化や停滞やを今なお続けている中で、もはや機能しないのにぶら下げている不要の器官のように産婦人科は病院の中にダンコ居座り、長いまばたきをしている」……。

一瞬間錯乱したのち眠りに落ちて、少々のぼせて目覚めるとまた散策した。うろつき回る二人をずっと観察していたらしい、点滴の管の赤く逆流した老人が、話したそうに寄って来るから二人はそのたびに駆け出して逃げた。

またコンビニにジャンクフードを買いに行き、今度はイートインスペースの机に御馳走を広げた。となりの机では若い家長が赤ん坊を座らせて、おむつであろうか、ごそごそと取り乱していた。生後間もない赤ん坊はたいそう可愛らしく、少々輝き過ぎる瞳はまだ何事か大いなる真実を覚えている証拠ではないかと知明が言うと、穂野は肩をすくめた。

穂野が薄い唇をぷるぷる鳴らすと赤ん坊は笑った。その笑みは美し過ぎて鬼の子のようではないかと知明が言うと、穂野はシッと言ってたしなめた。ガラス張りの壁から店内いっぱいに正午の光が射していた。

後ろの席で精神疾患らしい青年がつぶやいている。この大病院であまりはかばかしい診察を受けられなかったらしいことについて、天文学的な畑違いだ、医学のエアポケットだ、極めて聡明な先生も我輩のような症状を前にしては、関取がフェンシングをするようなものだ、フィギュアスケーターがカツオを釣るようなものだ……。

西棟の一部が教会になっていた。覗くと誰もいなかった。

自動ピアノから柔和な調べが流れていた。穂野が入って行くので知明もついて行ったら、誰もいないと思っていた薄暗がりの奥隅にたいへん不器量な女性患者がいて、木製の女神像のはだけた乳房の先端を口に含んで泣いていた。

目が合った。知明と穂野は会釈して教会を出た。あれはなんだったんだと知明が尋ねると、穂野はなんだったんだろうねと言った。

八代井の病室に戻ると、部屋の前で一人の看護師さんが立っていた。室内の音に耳を澄ませているらしい。二人を見るとせわしく手を振って邪険に追い払った。

二人はきびすを返して散策を続けた。

ホルモン注射室の前にできた大行列の枯葉臭いあいだをすり抜けて北棟に行った。屋上に花壇があったからしゃがみ込んで見ていると、

「大勢ののっぺらぼうどもが無為に年ばっかり取りくさっては、屁みたいな不具合を持ち寄ってよ、」

と、点滴のたいそう逆流した老人が二人の背後に立っていて。

「この穢れた建物にあふれ返るんだ。ァあ。生き甲斐も死に甲斐も持たない文明の塵垢ののっぺらぼうどもがよ、ここにあふれ返るんだ。ここは一足先の死後の世界さ、発明狂と我欲と弱気が機械と液体の空間に変態した世界さ。この建物はね、捕らえた獲物の蓄積を以て蜘蛛という正体を露顕するね。僕を見なさい。独り一抜けしてのっぺらぼうどもから脱出し、独り覚醒してぶうたれることがすなわち僕さ。僕は外気に染み込んで、いずれ天に昇り詰めるその時まで上昇の途中で落ちてはまた上昇し、断続的に生存をやめない肉体からもワリカシ自由だ。肉体の因子は僕にとって、自我の形成には関与が薄いようだ。見たまえ」

と言うと、なにか文庫本を取り出した。知明と穂野が建物の中に入ると、老人はついて来て話し続けた。

「これは古今東西の賢者と愚者の著述から、ほんの数語ずつ抜いて集めた本だ。コンビニに売っていた。どうしてこんなものが作られ、安価に買えるのか。こんなものはなくなるべきだ! ほらあの壁の絵をご覧。あれはボートだけがいいのではない。背景もいいのだ。全体がいいのだ。見る僕の感受性がいいのだ。僕があれを目にする時期がいいのだ。君たちという環境――複数人というものから来る反応現象――がいいのだ。だからこんな、」

と言って本をばんばん叩き、

「イヤなものはなくなれ! そうしたら僕は出版社に行って、世界中の名著の中から、または愚書の中からも黄金の数語を抜粋し、一冊の文庫本に編み上げるというアイデアを提出するのに、それをこれの、」

と言って本をばんばん叩き、

「これを編んだのっぺらぼうは卑劣な奴だ! 僕のアイデアを盗んだ奴だ! ……ところでねえ、通信販売で病室に本を取り寄せるのはそんなにいけないことかね? 僕がやったんじゃないんだけど、僕だと思われているからには、僕はこのことを擁護しなければならないんだ」

それから急に落ち着くと、窓辺に行って見下ろした。

「やあ見晴らしがいいね。ご覧、もうじきビンビサーラ王が僕に会いに登って来るよ。もしかして君たちは――……やっ、どこへ行きァがったんだろう!」

 

病室に戻ると、賀谷と八代井は窓を全開にして換気していた。四人でわいわいしゃべっていると、これから休憩に向かう医師が通りかかり、立ち寄って四人を検査してくれたところ、全員マラリアにかかっていたので注射を打ってくれた。

料金は退院の時にまとめて支払うことになった。夜になって面会時間が終わると知明と穂野は病院を出た。ささやかな観光地を少しぶらついてから、食べ物を買うためスーパーマーケットに入ったけれどもレジが封鎖されていて買い物ができなかった。どうしたのか店員さんに聞いてみると、立ち読み客が迷惑だと訴えがあったので雑誌コーナーを閉鎖したところ、立ち読み客からすればレジに並ぶ客が迷惑だったと訴えがあったのでレジも封鎖されたのだそうな。

スーパーを出て、屋台でコウノトリのゆで卵を買い、藤棚の下のベンチに戻った。

藤棚から遠からぬ所に張られたテントに住んでいるピアスだらけなイミニアン(賠償宇宙人たちの徹底した受動性・消極性を至高の精神状態として尊崇・模倣する人々の総称)の青年がテントの前に座っていた。彼はいつもアコースティックギターをとなりに置いて、ラジカセでピアノ演奏のラグタイムをかけていた。

このイミニアンはオダノブといった。彼にいわくラグタイムはギターに聞かせているのであって、演奏というもののかなめは奏者が半分、楽器が半分だからということだった。

知明と穂野は死角に引っ込んだ。一晩中ラグタイムはかすかに聞こえていた。時々オダノブが指の関節をぴちぴち鳴らすのが聞こえていた。

満月の夜に公園の広場で催された賠償宇宙人の移民たちの踊りがしだいに広がって行き、二人の寝床の近くにも及んで来た。それは乙女ばかりの踊りで、十三歳以上の男は見てはいけない決まりがあるのだとオダノブが言っていた。

イミニアンであるオダノブは当の移民たち以上にこうしたしきたりをうやまいたっとび、乙女たちの踊りが及んで来るとテントに引っ込んだ。知明と穂野は寝床からこっそり眺めた。移民の乙女たちの踊りは、やはり人間にしては美し過ぎ、漂って来るものはかぐわし過ぎた。まばゆいほどの月光の下、関節は異様な方向に曲がり、数人がからみ合うとそこにいる人数がしばしば定かでなくなった。

やがて月が雲に隠れて、全裸の乙女たちが帰ったあとの知明と穂野は異様に高揚していた。翌朝、ハッとして飛び起きた穂野は、果たせるかな寝小便をしていた。この悪癖の原因の大分量は何代か前の乳母に起因したが、しばらく克服できていたものを、以降しばらく復活されることになった。

さらに翌朝、知明が腹痛で飛び起きた。痛みは下腹部からだんだん降下し、最後には股間に集中した。オダノブに肩を借りて賠償宇宙人の移民が営んでいる医院に行き、手足を押さえつけられて施術を受けた。捻転した左の睾丸を元通りにひっくり返しただけだそうな。しだいに痛みも治まった。

「友だちが入院してるのはわかるけど、病院なんかへひんぱんに通っているからこんなことにもなるんだ」とオダノブが言った。

その晩、知明と穂野は恐る恐る知明の回復具合を確認した。最後にはたいそう盛況になった確認が終わって、正気に返ると、オダノブに聞かれていなかったかと覗き見た。彼はテントから足だけ出していびきをかいていた。

気分転換に深夜の街道を歩き、二十四時間営業の小さなスーパーがあったので入った。しばらくお菓子を物色していたけれど、焚き火をする時に重宝するオイルライターの油だけ穂野のパンツの中に入れて、なにも買わずに出た。

地元の不良少年でもたむろしてはいまいかと裏の駐車場に行くと、従業員入口の扉が開いていて、段ボール箱が積んであるから覗いてみると陳列前のスナック菓子がぎっしり詰まっていた。別に欲しくもなかったから、帰る道々にほとんどばらまいて捨ててしまった。あとでそれをついばんだものの姿は誰も見なかったけれど、翌朝にはきれいさっぱり消えていた。

藤棚に戻って小さな焚き火をつけた。立ち昇る煙と星空を眺めて座っていた。穂野がふと不思議な昔話を始めた。

けれども始まってすぐに知明が、それはほんとのことかいと聞いたので、穂野はもう二度と続きを話さないと言い、本当に二度と話さなかった。

穂野は先に眠ったけれど、知明は神経がなにかを凝視していて寝つかれなかった。それでもひじょうにくたびれていたので、睡眠には達しないけれども半分眠りかけながら、穂野の昔話を聞かなかったことはたいへんな過ちだったと悟る心持ちがした。

それを聞くまでは永久に下賤な生涯へ生まれ変わり、それなので一度もまことに生きることなく、まことの誕生を意味するまことの死亡にも達せられず、トラッキングの悪い画面の中で、いつまでもまことには眠られないのではあるまいか……。

やがてすべては、つい今しがた犯した過ちではなく久遠の過去に犯した過ちなのだと悟る心持ちがした。それからやがて、久遠の未来にとうとうなにかの呪縛から脱出する自分の姿を悟る心持ちがして、その瞬間に一切合財安心すると、神経は凝視をやめて目をつむり、ぐっすり眠ってぜんぶ忘れた。

 

となりで穂野がどうしようもなく寝小便している明け方に、知明はふと眠りが浅くなり、昔日に瓢藤がラジオの数学番組で賞金を当てたのと酷似した夢を見た。

それで夜が明けると、悲しげに色々の後始末をしている穂野にそのことを話して、ラジオを聞かなくてはならないからと断りを入れ、どこかへ出かけている早起きのオダノブを探しに行った。

オダノブは海辺の屋台が密集するあたりでギターを弾いていた。事情を話すとラジカセを貸してくれた。知明は静かな所へ行き、固唾をのんで数学番組を探したけれど、やっていなかった。

空腹だった。朝食の算段を考える前にラジカセを返しに行くとオダノブは夢中で演奏していた。官能面において徹底的に清潔なイミニアンの機械のような集中力は人間に化けた鬼のようだった。

八代井は抜糸の痕もぷりぷりと塞がり、もういつでも退院できたのだったが、来もしない保険証とお金の到着を待って延長入院していた。賀谷は医師の一人ととりわけ昵懇になっていた。榎本さんというひじょうに体格のいい外科医で、彼の通っているトレーニングジムを毎晩使わせてもらっているおかげで元々の分厚さに戻りかけていた。

賀谷に触発されて穂野もかつての日課を再開した。オダノブが調達してくれた演舞服を着て、ひっつめ髪にし、ぴしりと集中して、緩急めまぐるしく展開する武術太極拳は公園の移民たちにも流行した。

すとんとした白いカンフー服を着て児童のようになった穂野は、体重がないかのようにゆったりと舞い、時々ピャッと飛び上がっては、目にもとまらぬ早業で幻の敵を打ち倒した。

知明があまり見つめると穂野はやめるので、練習が始まると席をはずし、オダノブとこっそり盗み見た。どこか遠くで名称を保留された放送が流れていた。

――その薄暗い喫茶店で、一人の後家さんがココアを注文した時、扉の鈴を鳴らして、一人の老人が入って来た。老人は席に座ると、キリマンジャロブレンドを注文した。マスターはうけたまわりながら、レジスターのサンドイッチを食べた。レシートのレタスがシャキシャキ鳴り、紙幣のチーズが音もなく噛み切られ、硬貨のピクルスが転がり落ちた。その時入って来た一人のタクシー運転手が注文して申さく、「眼球を動かせば遅れて舞う、角膜に付着した埃や塵が、視野に映ずる物に引っかかる時、磁力を発しているのは網膜か、それとも焦点か?」……

知明と穂野が日没後の浜辺を歩いていると、ある小島の対岸が広範囲オレンジ色に煌々と輝いている。前から気にはなっていたのが、とうとう気になり切った。

正体を確かめるため、二人は最終便の連絡船に乗った。上陸して歩いて行くと、オレンジな明かりの正体は工場地帯なのだった。門衛のおじさんにいわく、工場は十二日間のマラソン作業がちょうど終わったところで、今はわりとのどかな時間なのだそうな。怪我をせず、なにも触らなければ勝手に歩いていいと言われたから、歩いていると、ある時呼びかけられた。

見ると小さな事務室の中で扇風機を回して煙草を吸っている作業服のおじさんが手招きしている。二人が行くと、よく来たよく来たと歓迎され、冷たいウーロン茶をいれてもらった。油まみれな机の上には書類が散乱し、そのへんに生えているS字草がコップに活けてあった。

小遣い稼ぎに二、三日溶鉱炉の火加減を見るかと提案されたけれど、八代井の施術費と増え続ける入院費にはどうせ届かないので辞退した。

おじさんと別れてふたたび散策した。追熟室を開けてみると舶来のフルーツがたくさんあったけれど、どれもまだ食べられそうになかったので閉めた。

埠頭の駐車場にしゃがみ込み、帰りの連絡船が動き出すのを待っていた。すると、近くに停めてあったワゴン車から優しそうなお兄さんが降りて来て、車の上にテントを張ってやるから泊まって行きなさいとすすめてくれた。

二人はお礼を言ってワゴン車によじ登り、テントの中で眠った。下からは時々、缶ビールを開けるらしいプシ、コカッ、という音や、お兄さんと恋人らしい女性との話し声がぼそぼそ聞こえていた。それはたいそうさわやかな、別れ話らしかった。

 

翌朝、連絡船の船尾のカフェテラスで一緒にコーヒーを飲み、上陸すると握手して別れた。東に向かって遠ざかって行くワゴン車の後ろ姿に、知明と穂野はもう一度軽く頭を下げた。

藤棚のベンチに戻ると賀谷と八代井が座っていた。賀谷いわくデコ軽トラが公園の出口に置いてあるとのこと。

急げ急げと言うので、お礼を言うためにベンチを譲ってくれた移民を探す暇もあらばこそ、さっさと乗り込もうとすると背後からおーいと呼ばれた。一同がふり向くと、いつぞや知明と賀谷を既婚者にした強面のお兄さんが激しく手を振りながら走って来て、どうして待っていなかったんだと言いつつ約束通り少なからぬ謝礼を知明に渡した。

八代井の盲腸のことを伝えると、それは大変だったなと言いつつさらに数枚包んでくれて、帰って行った。四人はデコ軽トラに乗り込んだ。

走り出していくばくもなく、知明と穂野が同時にあっと声をあげ、車を停めさせて降りると、ギターを持って歩いていたオダノブに別れを告げた。

オダノブは知明と穂野にピアスを一つずつくれると言ったけれど、二人とも穴がなかったので断った。それから抱擁を交わして別れた。

椰子や蘇鉄の立ち並ぶ街道を西へ西へ向かった。

ようやく清潔な公衆便所があったのでトイレ休憩を取ったところが、穂野と八代井が入ってすぐに叫びながら飛び出して来た。信じられないくらい大きな虫がいたそうで、二人は仕方なく近くの茂みに入って行った。

女子たちを待っている知明と賀谷の肩に警察官が手を置いた。そのまま二人は連れて行かれた。

歩きながら警察官が事情を説明するのにいわく、数日前このあたりを歩いていた《リビ解》(リビドー解放協会)の理事長の孫娘が、何者かに背後から目隠しをされて無理矢理リビドーを解放された事件の犯人を捜しているから協力願うということだった。

「その時間帯、君たちはどこでなにをしていたかね」

「ぼくたち、別の場所で蟻を売っていました」

と賀谷が答えると、警察官はたいそうおかしそうに笑った。ハハハハ……蟻を売ってた……アリバイか……なるほどなるほど……しかしそういうことなら来なさい。

交番に着いた。十人の男がぞろぞろ出て来るのと入れ違いだった。交番の中には、知明と賀谷の他にも捜査協力者が集められて並んでいた。その奥に、《リビ解》の理事長の孫娘と思しき美しい女性が、ひじょうにくたびれた様子で、こちらを睨みつけながら立っていた。

知明と賀谷のあとにも数人連れて来られ、協力者が十人集まると、孫娘は手に持っていた布を巻きつけて自ら目隠しし、背を向けて机に手をついた。

集められた協力者たちは警官にうながされ、端から順に捜査協力した。やたら長く捜査協力する者もいる中、知明と賀谷はあっという間に捜査協力し終えてしまい、他の協力者たちの失笑を買った。

十人全員が捜査に協力し終えると、孫娘は目隠しを取った。彼女にいわく、このたびの十人は誰も犯人ではなかった。

一人の婦警がやって来て、いちおう科学的な検査もするからここに捜査協力してくださいと言われ、ビーカーを渡された。おのおの捜査協力を始めたが、賀谷が

「故郷の校則の問題で、自分では捜査協力できません」

と言うと、婦警はしばし迷ったすえ、

「しかたないわね、こっち来なさい」

ということで、別室にて捜査協力した。次いで知明が呼ばれて捜査協力した。

知明と賀谷が交番を出ると、既に六、七人集まっている次の協力者たちの塊から少し離れた檳榔樹の木陰で穂野と八代井が待っていた。

賀谷が事情を話すと、八代井が瞳をきらりと輝かせ、次の協力者たちの中から一人の男を指さして、あれが犯人だと断言した。

となりで穂野もうなずいた。それで四人が缶ジュースを飲みながら見物していると、次の協力者たちが入り、やがて出て来た。けれども全員潔白らしかった。

賀谷と知明が八代井を見ると、八代井は穂野と見つめ合い、肩をすくめて、

「被害者が違ったみたいね」と言った。

次の協力者たちが交番に入って行った。

 

 

 

2025年7月3日公開

作品集『猿の天麩羅』第4話 (全13話)

© 2025 尼子猩庵

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