日が暮れると屋台が一斉に提灯を灯した。
昼間と同じ街道だとは思われなかった。地面もいつの間にか石畳ではなくなって土がむき出しになっていた。肌寒いほど涼しくなって、どこかで蛙を食い過ぎた蛇が蛙の声で鳴いていた。
提灯の色や模様によって屋台の商い物がわかるのだったけれど、六人がその法則を把握するころには時間帯による変更が起こった。
まだ日暮れ前のこと、瞳孔を開く目薬を売っている屋台があったので、夜になったら差そう、よく見えるぜと言い合って買っていたはずが、なくしてしまっていた。すると瓢藤が、じつは金を払ってお釣りをもらって、誰も商品を受け取っていなかったのだが、みんな気づいていないから黙っていたのだと打ち明けて一人で笑った。
空が靄って星が暗かった。黒い山々の稜線に後光が射しているのは山向こうの工場地帯の明かりであろうと察しられた。街道が地下の旧市街の大通りと交差する地点を通る瞬間、それと知らずその印の上をまたぎ越した六人は不思議に身震いした。
歩き疲れて休憩所を探した。つるべ井戸で手や顔や首を洗い、口をすすぎ、屋根の狭いあずまやの茣蓙に固まって眠った。
近くでせせらぎの音がしていた。いつの間にか眩しいほど澄んでいる星空に、星がサボっているかのような蛍が飛んでいた。
翌朝、小川の冷たさに奇声を発しつつ男女交代で水浴びをした。髪の毛を濡らしたまま屋台で買った団子を食べつつ歩いた。
《琉金街道》に変名した所で枝道があったから折れた。小さな山を一つ越えた所で枝道が終わった。そこは山間の住宅街であった。どん詰まりのあたりに大学があると看板に案内があった。
わりあい裕福そうな、目に楽しい家々のあいだを観光客よろしく歩き回った。二棟続きの大きいマンションがあったから入って行った。知明がポストルームに行き、ダストボックスから宅配弁当のチラシを見つけて戻って来た。
中庭の円柱形なジャングルジムに登って、ぐるりと腰かけ、頭を寄せ合ってどの弁当にするか選んだ。全員の第一希望と第二希望が決まると、知明と穂野はマンションを出て道路を渡り、バス停の傍にある公衆電話で注文した。
まず知明がかけて、A棟6××号室まるまるさん宅に第二希望を、次に穂野がかけて、B棟17××号室ばつばつさん宅に第一希望を注文した。
A棟のエントランスで水槽のランチュウとダルマメダカを見ながら待った。賀谷がどこかの玄関先からワンプッシュ式の傘を持って来て、柄をへし折り、押しボタンの部品――彼らは《カサカギ》と呼んでいる――を取り出すと、駐輪場に行き、《カサカギ》で以て開錠して自転車を三台引き出した。
瓢藤が「傘と自転車という一見まるで関係のない二つの物が――」
その時弁当のデリバリーサービスのバイクが到着した。
苦学生らしい青年がエンジンを止めて、後部のボックスから弁当の入った袋を取り出し、小走りにA棟のエレベーターへ乗り込んだ。それを見届けて八代井と穂野と向坂がバイクへ駆け寄り、ボックスから残った袋(B棟に配達されるべき弁当)を取り出して、少年たちのまたがる自転車の後ろにそれぞれ横座りに座ると自転車は滑り出した。
広大な公園があったので入った。喫茶店の屋上庭園の白いベンチに腰をおろし、季節の花が整然と咲いているのを眺めながら弁当を食べた。食べ終わると喫茶店に入り、有線のディキシーランドジャズを聞きながらコーヒーを飲んだ。
六人の長尾鶏の刺青を気に入ったマスターが、売れ残りのやや乾燥したシフォンケーキをサービスしてくれた。
太刀坑中学校の校歌にうたわれるドグマに従って、賞金が正夢と乖離して消滅した瓢藤はしずしずと帰り支度を始めた。同じく校歌に従って一緒には帰られない残りの五人は、それを黙って見つめていた。
そこへとつぜん向坂が一緒に帰ると言い出した。無謀だ、そんなことをすれば、例えば消えてしまうか、永遠に静止するかもしれないと言うと、馬車馬の首を覚えてるでしょ、ここはもう故郷ではないから、そうはならないと言い張った。でも故郷に帰るのだろうと言うと、帰るのだから大丈夫なのだと言って聞かなかった。
それにまた道々出会うかもしれない悪漢等の懸念を挙げて、瓢藤独りだったら滅茶苦茶されるかもしれないけれど自分がいれば色々と交換条件が使えると言い、小さな胸を張った。
それにまたもし瓢藤が帰り着けないと、みんなはこのままどこまで行かされるやらわかったものではないじゃんか。瓢藤が無事帰り着いた暁には、ようやくこの旅の妥当性に疑問を持つことだってできるようになるってもんでしょ……。
盗んだ自転車は三台とも、盗難に遭ったことを示すシールが一枚も貼られていないので、捕まったとしても初犯になるからして、そのまま乗って帰ることになった。二人乗りの瓢藤と向坂が遠ざかって行くのを残された四人は見送った。
漕いでいる瓢藤が愛嬌でやたらとふり返るから、そのたびに手を振った。後ろ向きに座っている向坂がそのたびに振り返して来た。
道はひたぶるに直線だった。四人は盛んに手を振りながら、じっと立ち尽くして見送っていた。
やがて瓢藤がふり返っているのかどうか、自転車が進んでいるのか止まっているのかもわからなくなった。時々、ふり返ったような気がすると、四人はあいまいに手を振って、それからゆっくりと手を下ろした。(――□□県□□市在住瓢藤浩也さん中学生――原付でパトカーから逃走中、中央分離帯に衝突――搬送先の病院で――)……同時刻(――☆☆府☆☆町在住向坂美樹さん中学生――家族で外食をした帰り道、山道のカーブで対向車線からセンターラインを大幅に超えて来たトラックと正面衝突――ガードレールを突き破って崖下へ転落し――)……
街道には戻らず住宅街を突っ切って、外観だけは某有名大学に酷似した辺境大学の先に伸びているがたがたした林道を漕いで行った。賀谷の後ろに八代井が座り、知明の後ろに穂野が座っていた。
道がふたたびなめらかになって、次の住宅街へ入った時のこと、四人は林の中の薄暗さから空の明けそめる朝ぼらけへ出た。もうじき日暮れだとばかり思っていた四人は狐につままれたような気持ちになり、軽い貧血のようになって休憩した。
「言わなかったんだけど」と賀谷が言った。「昨日の夜よ、街道を歩いてた時、なんかやわらかいものにつまずいたんだ……」
「――なんだったんだ?」
と知明が聞くと、賀谷は顔をしかめて、
「それが、なにも見えないんだよ。ちょっと戻って蹴ってみたら、やっぱりやわらかいものはあるんだ。でも見えない。――ありゃな、ここだけの話、透明人間かもしれねえよ。なにしろ見えないだろ、だから馬車にでも轢かれちまってさ、死んでたのかもな……」
それから、見えない血がべったりついているなんてこともあるかもしれないので、靴を土で以て丹念にぬぐったのだそうな。
ふたたび出発して、客のいないコンビニエンスストアの駐車場に自転車を停めた。隅の水道で手や首や顔を洗い、口をすすぎ、ペットボトルに水を入れていると、焼き立てのパンを積んだトラックが入って来た。ドライバーが品物を建物の裏まで運んで行った。
賀谷が、とにかくやってみると、焼き立てパンを大量に積んだトラックはゆっくりとよどみなく動いた。運転席にぎゅう詰めの四人は学生服の汗が醸されて熟れた果物の匂いを発していた。
駐車場から道路へ出る際に車体の後部をこすると、運転中の賀谷が幻の痛みを訴えた。どのあたりが痛いのかと尋ねると、それに答えるには人体模型を複雑に拡大しなければならない、その模型を持って来てくれたら、きっと指さして教えられるはずだと言った。
数分後、トラックのドライバーとコンビニエンスストアの店長は駐車場に残された二台の自転車にそれぞれまたがり、ある賠償宇宙人の混血人が経営する保険会社に向かっていた。
夜になるとその町は、薄淡い街灯の光がにじんで一切がにわかに青くなった。ところどころ雫を垂らす空中水路や、時おり地面へ四角に露出する地下水路等々、あちこちに水の流れのある町だった。
酒場を兼業する宿屋に入った。亭主はパンをひじょうに喜んだ。あれは十五年前、大昔の酒蔵を掘り当てて、誰にも言わないまま、その上にこの店を建て、開業したのだとパンを運び入れながら言った。――そうか、ちょうど君たちが生まれたころのことじゃないか。なにか因縁があるねえ。
掘り当てた洋酒はどれも極上の年代物で、今それをじっさいの値打ちの何十分の一、何百分の一の値段で売っている、これほどの贅沢はそんじょそこらの金持ちには逆立ちしたってできないことさ。
しかし君たちがこの店と同い年だということは、君たちは言うなれば店の精だ。いやァ十五年か。精が出るまでには、やっぱりそれなりに時間がかかるもんだね――。
そういうわけで、パンと引き換えに借りた部屋を亭主のおかみさんが準備してくれているあいだ、四人は酒場に座っていた。舟が浮くほどの洋酒が整列していた。地下にはまだ戦争を起こせるくらいの洋酒が眠っているのだと常連らしい老人が言った。
ひじょうに高価なテキーラを振る舞おうかと亭主が四人に持ちかけた。常連の老人がうらやましがって、
「なんでも楽しい年ごろさ。世界がすばらしくって仕様がないだろう。まだ掃愁帚の憎さがわかるほど素面じゃないよこの子たちは」
けれどもせっかくなのでいただいた。ひじょうに高価なテキーラは、口に含むともう半分なくなり、唾液よりもやわらかく喉の中を滑り降りて静かに消えた。一口目のショットグラスを口から離すころには、すべてがまろく、善いものになっていた。賀谷が五合ほど、他の三人が二合ほど飲んだ。
蒸し風呂で汗を流し、学生服を洗濯に出して浴衣を着た。
二部屋だった。八代井と穂野は見つめ合って艶やかにほほ笑んだ。なにかテキーラにひらかれたものをむんむん匂わせて。それはむしろ幼児の持つ強烈な母性愛の名残……と左様な印象に打たれつつ知明が賀谷を見やれば、賀谷も知明を見た。
二人はしばらく見つめ合い、それから少女たちをふり向くと、膝をついて拝んだ。賀谷が八代井に、知明が穂野に伏し拝んで頼むと、少女たちは肩をすくめて承諾した。
斯くして知明と穂野、賀谷と八代井に分かれて部屋へ入った。
翌朝、窓から朝陽の射し込む酒場のテーブルに四人が座っている。
ひじょうに高価なテキーラがきれいに抜けたあとの極めて透き通った意識で以て、目下窮している問題に対し、優先順位をつけながら話し合っている。
知明と穂野、賀谷と八代井、と密着して座っていた。
自由への服従を瓢藤と向坂がこうも強引に片づけてしまった上は、なにかよんどころない継ぎ足しが入り用になっているのが現状だ、と知明が言うと、まったくその一事に尽きた。
酒場はまだ開いていなかったけれど、夕べの常連がいく人か向こうでまだチェスを指していた。それを眺めていた一人のおじさんが、なにやらこちらをうかがっているらしいと感じていたら、意を決したようにやって来た。浴衣姿の四人に、ちょっと用事を頼まれてくれないかと言う。そうしてくれたら、その後のことはいくらか面倒を見ることもできるんだが……。
「どんな用事でしょうか」
と知明が聞くと、今ある重要な選挙戦が大詰めを迎えていて、その応援に来てほしいのだということだった。応援する政党は《叢生党》とやら。イデオロギーを尋ねると、少々きつい楔形訛りで答えるのにいわく、
「千年実験の開始。全人民の諸事情の一切万事を一望のもとに把握し、適宜適切な創造とぶち壊しの反復を弛緩的に惰性的に慢性的に行うこと。人民の精神を良好に大肯定的に保つべく社会現象を正邪善悪織り交ぜておりふし提供すること――他地方出身の君たちには単語の意味がことごとくズレて別の言葉に聞こえているかもしれないが――我が党は我が国の健全なる情報遮断を断行し、遂に達成することへ多大に貢献したあの伝説的な政党の後継なのだ。またぞろ芽吹き出した諸々の伝達技術を各地で叩き潰すという使命を負っている。そして記録に残らず成仏して来たあの真実の大幸福、これから先も記録に残らぬ無名氏たちのあの大いなる大幸福を、絶対実現のため、副次的に無自覚的にいったん全力で剥奪すること……」云々。
「具体的になにをすればいいんですか」と穂野が尋ねた。
「具体的には、他の政党の演説を妨害すること。その際、我が党から派遣された者であることを、しっかり顕示しつつやることだね」
おじさんは花菱さんといい、四人の左手の長尾鶏を満足そうに見つめた。浴衣のままでいいと言われたのでそのままついて行き、ピラミッドのように黒電話が置いてある《叢生党油塩豚町支部》で臨時就職した。それから地回りの兄さんたちに案内されて、あちこちで仕事をした。
叢生党からの立候補者は百谷さんという言語型チック症の女性だった。短い奇声をひんぱんに差し挟みながら――我々はとかく円熟した政党ですが、他党めらの乳歯だらけなおちょぼ口から吹き荒るる稚拙な暗示効果を掻い潜って同胞諸氏の毒せられた鼓膜に到達しなければ始まりませぬ、然るがゆえに我々が語る言葉は武装過多にならざるを得ぬとしても云々……然るに老熟者の真剣は一見どうしても他の一切の幼児らの姑息に似通い、時には彼らよりも云々……適切なる伐採に息を吹き返す森林! 砂漠の生物の幸福! 人生の吹き溜まりへ否応なしに進軍せざるを得ぬすべての無名氏たちが吹く笛の無音! どう足掻いても最後は同じ地獄じゃ、子どものように泣き喚くのか、虫けらのように耐え忍ぶのか、鳥のように歌い遊ぶのか、同じ阿呆なら云々云々!…………
時あたかも変声期真っ只中な四人の喉は数日間で徹底的に枯れ、いつの間にやらみんな向坂に劣らない掠れ声であった。仮眠を取ろうと横になるたび高ぶった神経を手っ取り早く静めるためにちょっぴり舐めていた安い蒸留酒もあいまって声の掠れは生涯元に戻らなかった。
食事は党員の奥さんや二号さんたちが持ち寄ってくれる炊き出しを食べていたけれど、この女性たちと知明たち四人はあまり馬が合わなかった。
乱痴気騒ぎの喧騒の中で他党の立候補者や後援会を威嚇している際、時々向こうからも同種の人々が現れて剣呑になり、とうとう実力行使の運びに突入すると地回りの兄さんたちが大いに助けてくれた。
シュプレヒコールを怒鳴りながら通りを練り歩き、耽美的なプロパガンダ映画のビデオカセットを投函して回り、夜には地下の教会に集まって各党の成績の相関的な効果を検討修正、最初から決まっている当選者がヘマをしないか、落選者が大物に化けたりしないか監督しつつ、退屈な油塩豚町の貴重な陶酔を慎重に盛り上げて行った。
喧騒に身をさらし続けた疲労は深夜に騒々しい錯乱となって知明と穂野、賀谷と八代井を襲い、四人は襲われるに任せて破裂しまくった。
予定通り百谷さんが当選して祝賀会に招待された。四人は会場の隅に座り、ほそぼそと飲み食いした。
やがて供された賠償宇宙人の年増たちは辺境のこととて造船所だの鉱山だの経由して来た使い古しだったけれど、かえってそれによって一種形而上的な清らかさを増していた。あるいは凄い所に刺青が施されてあり、あるいは凄い傷痕にまみれてあり、なにか本物の獣の耳やら尻尾がじっさい生えてさえあった。縛られるやら吊るされるやらして露わに見える顫動的な果実や花弁は薔薇やメロンの芳香を放っていた。
ふいに地回りの兄さんの一人がやって来て、美女たちへ通ずる行列の最後尾に並んでいる四人を座敷から連れ出し、町から出て行きなさいと言った。賀谷がどうしてと聞くと、とりわけ親切にしてくれた輪田さんというその兄さんは、今から叢生党が悶着するからだと言う。
「俺たちは政党を解体し、今後は投票団体として政治にたずさわる。名前も実体も持たない投票団体は民衆の中に浸透して拡散し、日和見菌を抱き込んでどんどんふくれ上がり、社会我の無意識に根差した無数の舵柄を塗り潰す。
もはや参加者と非参加者の区別はつかない。我々はごく少数だけ覚醒細胞として残り、あらゆるマスパシーを牛耳る。自然発生する一切の雲を、風と気温を以て操縦する。地形と気流を以て出現させ、気圧と湿度を以て消滅させる。社会我の背筋がぴんと伸びたら達磨落としで以て腐食部をかっ飛ばし、絡み合った腐食部は養分となるまで丹念に混ぜ込む。実践すると極端に暴力的だが、それが行われる時には既にそれは暴力とは見えない。なにが起こっているのかわかる者は皆無に等しく、その者の発する警鐘は下賤な身中の虫どもが潰してしまって誰の耳にも届かない。そうして大いなる鼓膜は思想そのものになる。やがて淘汰をくぐり抜けた一つの時代へ集結し、政治を躁鬱病から解放し、すべての後進どもの爪と歯を抜き続ける。そうしてふたたび次の危機に届く時をひたぶるに待つ。
油塩豚町はこれから独立し、それ自体で完全に完結した上で国家へ献身的に参加する。百谷さんも味方だ。彼女は既に党内の有力者を多数こちらへ引き入れた。今から揉めるが、内乱になればみんな疲れる。徹底的に疲れるとなんにでも賛成する。だからこれからの悶着は中央政府も黙認する。秘密警察からの支援金も厖大な額だ。我々の計画もまた疲労によって大いに軌道が変わるだろう。古来この手の実現を阻んで来た根源的な作用によって」
「どれくらい悶着するの」と賀谷。
「さあな。混沌は世界の自律神経だ。極めて弛緩的の現象だ。しかし奥部では大いなる怪力が振るわれている。怪力の頭部にいる我々は世界の弛緩を支える過労にならざるを得ない。時代がなんらかの未練を持っている時には、過労にはよほどの魅力がなければならない。この手の過労がこれまで絶対的に失敗を続けて来たからには。提示する魅力は甘美な堕落や哀愁の自嘲である他に手段はない。鼻先にニンジンをぶら下げて牧草地へ追い立て、ニンジンを取り上げて幽閉し、二度と自家中毒の八百屋へ戻れないようにするのだ。畑すら耕させてはならない。まだ未練のないお前たちは関わるべきではない。似非の未練を作ってはいけない。
我々は溺れ死ぬまで泳ぎ続けなければならない。いずれ役目を終えてからは、罪の湖底で溺れ死に続けなければならない。時々こうしてなんの反作用でもない無意味な波をひっ被せることは最も高度な職業だ。近寄らないことだ。世界が運動し始めた途端、運動だけが休息になる。溶解だけが意識を持つ。ひじょうに幸福な現象だ。これからそれが始まる。
お前たちは体験するな。お前たちはのんきに生き延びて、近い未来の我々を成功も失敗もなくさせる次世代の悪魔になってくれないと困る。他ならぬ我々の成仏のために」
そう言い残して座敷へ戻った。四人は宿に帰った。
亭主から、花菱さんが届けて寄越したというお小遣いを受け取った。少なからざる額だった。
久しぶりで着た学生服は硬かった。トラックにガソリンを満たして油塩豚町を出た。コンテナは亭主にあげた。亭主は餞別としてひじょうに高価なテキーラを五升くれた。
名称を保留された放送が流れていた。
――カプセルホテルで目覚めたミンククジラが最初にすることとはなにか?……
ひじょうに高価なテキーラが慈しみ深く喉の粘膜を舐めて行く。飲むほど世界は柔和になり、温厚になり、記憶力は空想の車輪にまたがって、意識はどこまでも懐かしく、なにもかもが満ち足りて行った。
二時間も眠ればアルコールはきれいに抜け去り、交代してとことん目覚めた朝の野辺に迎えられた。選挙活動で重篤な睡眠不足だった肌はしっとりきめ細やかになり、髪の毛はつやつやした。それからまた飲み始めると、一切は滑らかにとろけて行った。
声帯だけは掠れたかたちのまま治癒再生したらしく、四人ともすっかりハスキーボイスだった。6オクターブの音域を失った八代井は、もう歌を訓練しなくてよくなったと言って喜んだ。
注意力を夢幻の笹舟に浮かべた賀谷の運転する頭部だけのトラックはどことも知れぬ石畳の道をとろとろと西へ進んだ。
夜になると、一日中車内にぎゅう詰めだった四人は野に降りて火を焚き、ひじょうに高価なテキーラをちびちび飲みながら、屋台でどっさり買った安い芋を食べた。
まろくなった舌に安い芋は妙なる瑪瑙のようだった。
ある朝、大地に眠っていた四人が、全員の夢の中に登場して詠誦する瓢藤にいわく「竜舌蘭の諳んずる十万遍の詩を聞きながら血管を暖房し神経を按摩し」て、すこやかに目を覚ますと、トラックの運転席に誰かが乗っていた。それが賠償宇宙人の混血人の保険屋だとは誰も知らなかった。
混血人の保険屋は、ひじょうに高価なテキーラをすべて積んだまま、頭部だけのトラックを運転して去って行った。
夢の余韻の中で詠誦を続ける瓢藤にいわく「蒼茫たる自意識にしみじみと沐浴して」いる四人は執着なくトラックとテキーラを諦めた。
けれどもやがて、屋台や公衆便所の森閑として見当たらないひび割れて蔦だらけなアスファルトをぽくぽく歩くうち、四人同時に、異様にやるせないむしゃくしゃした気分に襲われた。
きっとこれは脳髄が急務的に為している天空いっぱい砂埃を舞い上げた荒々しい精神の整頓であるから、いっそのこと堂々と真ん中を横断しようという知明の提案にみんな賛成し、四人はお互いの欠点やら過去の失敗やら、なんとなく指摘したくもなかった劣等的な特徴やらについて激しく罵り毒づき合った。
絶望するほど傷つけられたり、衝動的に殺意さえ抱かせられたり、どうしようもないほど後悔して自分を罰し殺してしまいたくなったりするこの精神の整頓が、簡単に通り過ぎてしまわぬよう、おのれの性根のとことん悪いところ、引きずり出さなければ生涯現れなかったであろう醜いところ、強いてこしらえなければ自分の中にはまったくなかったに違いない耐え難く臭いところを延々と表出させ、投げつけ合いながら歩いて行った。
整頓のとりわけ高潮していた時のこと、四人が通りかかった道端の草むらから、くたびれ切った女性の声で「誰か……」と聞こえ、それからか細い悲鳴が上がって、男の威嚇するような息づかいが聞こえたけれども、一同はむしゃくしゃしたまま通り過ぎた。
北の彼方の雲が晴れ、ニッポンチョモランマが遠くかすんで見えるころ、とつぜん精神の整頓は初めからそもそもなかったごとく霧散して、四人は先ほど悲鳴が聞こえた草むらへ駆け戻った。けれどもかき分けかき分けして現場に着いてみれば、そこには一羽の巨大なオウムがいて、「誰か……」からくり返した。それはいつどこで覚えた声であったのやら、オウムは男の威嚇するような息づかいを立てながら飛び去った。
空を覆い尽くした雲に穴が開き、辺鄙な駅構内のベンチへ腰かけている四人に濡れたような日光が射すと、八代井が出し抜けに詩の朗読をした。ひじょうに複雑な韻を踏みつつ、その概要は、太陽光というものが、じつは古馴染みの人々で、大昔に交わした約束を向こうは果たしているのだけれども、こちらは忘れている。地球へ届くまでに程よく冷まされた火は、悪書を包まされた羊皮紙のようにすべてを諦めている……。
穂野がこくこくうなずいていた。賀谷は、八代井が言うことだからなんでもとろけるような笑みである。知明は、こうなると八代井も穂野と同じ例の民間思弁団体の会員だったらしいと考えつつ、穂野とつないでいる手の力をゆるめたが、穂野が握り直して来るので、なにかを許すような心持ちであった。
その民間思弁団体は世間から色々に呼ばれているけれども、知明はカボスと聞いていた。本当の名称は会員も知らず、それよりも常々口を酸っぱくして民間思弁団体などではないと言う。カボスでやり取りされている事柄は、カボスのカの字も知らない人々にももはや浸透しているが、その事柄もカボスに端を発したものではそもそもないと言う。
知明はカボスの辻説法の老人と幼いころ友だちだった。なにを語っているのかわからなかったけれど、端々に心地よい印象を感じた記憶があった。もう死んでしまった老人だった。晩年は認知症になってあちこちうろつき、一度手招きされたから行ってみると、内緒話をするようにちょいちょいと誘われた耳元でただ大声を出されたのが最後だった。
ふと賀谷が便所に立って、帰って来る途中、改札口のインターホンを押した。ややあって、どこか遠方にいるらしい係員が応答すると、
「今ですね、構内の、便所の横の自販機に千円札を入れて、百円のジュースを買ったんだけど、お釣りが出て来ないんですけど」
知明と八代井と穂野が首を伸ばして見ていると、しばし沈黙していたスピーカーのとなりにある乗り越し清算機から百円玉が九枚出て来た。そのお金で賀谷はジュースを人数分買って戻って来た。
一日一本しかない電車の、到着時刻の三時間近く前から既に乗客が待ち始めた。四人は線路を歩いて駅を出た。
賀谷の話では、五十年前にアフリカの大学生が完成させ、四十年後の未来へ旅立ったはずのタイムマシンがいまだに現れないという。確かに彼は先ほど新聞を読んでいたけれど、その記事を見せろというと、惜しいことには便所で使い切ってしまったそうな。
駅の周りに古い建物が密集している他はほとんど突起物のない、見渡す限り平坦な土地だった。少し歩くと様々なフルーツを栽培しているビニールハウスが点在していた。賀谷が希望を募ると、八代井はバナナとマンゴーを頼んだ。知明と穂野も答えようとすると、そんなには持てないと言って断られた。
電車が行ったので駅に戻り、ベンチで昼寝した。かなり疲れがたまっていた。
日が暮れて、とうに廃業した喫茶店と居酒屋と理髪店の上に乗った木造アパートから崩れていない部屋を探し、入ってみると零落した夫婦が住んでいた。子どものころに駆け落ちし、時に経たれて今に至るのだそうな。だいぶ疲れているようだね、今夜はここに泊まりなさいと言うと、貴重品だけ持って出て行った。
歯をみがき、布団を敷いて――しかし久々の屋内はむしろ目が冴えた。明るい月夜だったのでちょっと散歩に出ると、財布を拾った。それ以降どうも靴の裏に砂がつく。格子のはまった溝で足踏みして砂を落とすと、下から誰かおじさんの声で「住んでるよ!」と怒鳴られて、四人は平謝りに謝った。
名称を保留された放送が流れていた。
――机の上にタルト、プディング、マカロン、パイ、シュークリーム、ババロア、ドーナツ等々を並べ、眼鏡をかけて悩んでいる爬虫類とはなにか?……
ふと前方から一人の老人が歩いて来る。老人は生涯で莫大の財産を築いたが、死ぬまでにちょうど使い切りたいと願っていた。その方法や如何。もう次にすれ違う人が偶数なら、すべての金を渡し、余生を森の中の別荘に引っ込んで、舞い落ちる木の葉など眺めて過ごそうと決めていた。
その時賀谷がとつぜんの便意をもよおしたが、ちょうど清潔な公衆便所があった。賀谷は駆け込んで事なきを得た。こんなに都合よく便所があるなんてお天道様の思し召しだと窓から大声で言った。外で待ちながら三人はうなずいた。老人は三人をちょっと見たけれど、奇数だったので通り過ぎた。
散歩を終えて部屋に戻った。八代井と穂野は腹ばいに寝そべって足をぱたぱたさせつつ、窓から射し込む月明かりに拾った財布を照らし、免許証の青年の顔をぼそぼそ批評していた。
知明が財布に入っていたパチンコ玉を床に置くと、アパートはたいへん傾いているようで、勢いよく転がって行った。隅にパチンコ玉がチッ、チッ、と積もって行った。賀谷が握り拳を床につき、足を流し台に上げて延々と腕立て伏せしているので、そちらのほうにパチンコ玉を転がしてみたけれど、本気で怒られたのでやめた。
屋台で買ったままずっと読まなかった文庫本から顔を上げた穂野と八代井が、さあ大変なことになった! と言ったけれど、なにが大変なことになったのかは、かたくなに言わなかった。
翌朝、布団をきちんと仕舞って、駆け落ち夫婦を探したけれど見当たらなかった。またどこかへ駆け落ちしたんじゃないかと言っていれば現れるんじゃないかと言いつつ、歩き回るうちにホームセンターがちょうど開いたので、賀谷が煉瓦を一つだけ買ってサービスコーナーに行き、購入物を運ぶためと言って軽トラックの貸し出しを頼んだ。
提示した免許証(例の拾った財布から)の写真の青年はちっとも賀谷に似ていなかったけれど、じっくり見比べていたサービスコーナーのおばさんは、ふとなにか満足そうな、謎を解き明かしたような顔になり、「うちの息子もそうなのよ」と言って、軽トラックの鍵をこころよく貸してくれた。
「つらいこともあるでしょうけど、お互いにがんばりましょうね」と言うので、賀谷はなんのことかわからなかったけれども、
「はい。息子さんにもよろしくお伝えください」
「あら、どうもありがとう。ほほほほ」
それから若い従業員が来て、なるたけ一時間以内に戻してくださいと言いながら従業員専用駐車場へ賀谷を案内した。賀谷は煉瓦を荷台に置くと、落ちないようにベルトで固定し、ホームセンターの外の溝の魚を覗いて待っている三人を拾って、出発した。
山道をしばらく走っていると、にわかに屋台が点在し、やがて名所らしい滝を案内する看板があったので曲がった。長い石段の下に軽トラックを停めて、四人は登って行った。
帰って行く家族連れやバードウォッチャーと何度かすれ違ったけれど、滝に着いた時には誰もいなかった。
欄干から身を乗り出して滝壺を見ていると、奥の古い売店からお婆さんが出て来た。四人が知らんふりしていると、お婆さんはどんどん近づいて来て、とうとう滝について話し始めた。
昔々天界の龍がこの世を訪ねたら、こうなってしまった。見た目には、龍は滝としてまったく閉じ込められてしまっているが、当人にはほんのまばたき一つのあいだのこと。それでも発散しているエネルギーは御覧の通りで、わたくし自身、ここで暮らしているうちに、龍の功徳で以て肉体の苦悩を脱ぎ去った。すなわち患ってもそれは既に患いでなく、やがて死に至ってもそれはなんら特別なことではござんせん。心清らかで憂いなく、ささやかで正直な煩悩は、迷妄という鳥籠の中で美しくさえずっておりますよ。
八代井は財布から最も安い紙幣を一枚取り出すと、ガイド料を支払った。お金は女子が管理していた。それからしばらく、お婆さんが持って来てくれたお茶を飲みながら、四人は滝壺で泳ぐ猿を見ていた。
――そうなると小橋のまばたきはいつ終わるのだろうか? 今ごろどこで滝になり、どんな功徳を発散していて?……
知明はそうつぶやきかけたけれども、直前で飲み込んだ。
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