猿の天麩羅 12

猿の天麩羅(第12話)

尼子猩庵

小説

13,143文字

 不条理な大幸運に飄々と忍従する中学生少年少女たちのロードムービー。

 異世界にして過去世。未来にして神話時代。下劣にして荘厳。地獄にしてユートピア。

 図書館にはなく、本棚にはある。人生で二度捨てる。

※第13回ハヤカワSFコンテスト二次選考落選。

 

 

 

美濃部は何度も便所へ行っては吐いたり下したりしつつしゃべりまくった。伊知郎は美濃部の話を聞きながら、酒のせいでか話の内容のせいでか、頬の蟻がどんどん湧いた。酒のために足音のしなくなった蟻は、静かになった代わりに後頭部まで足をのばして歩き回るらしかった。

「ともあれな、『国家半壊』がじつはほんの地方というか辺境・秘境だけのことであったとしてもだ、あの多大なエナジーの確かに吹き荒れて確かに消滅した今、目下現実的な問題はだよ、本郷、お前の病気も然り、つまり虫害(神経症)は昔からあったけれども、蔓延の程度と、その公的な浸透の程度を考えれば、極めて現代的な流行だ。その虫害だけが残ったということさ。

どこかの秘境の、超生物学的な、なにか神話的な人たちが、男女一組で人間の卵の孵化する瞬間を見る……そうそう刷込み。そこの人たちは生殖能力がなくて、男女は夫婦にならずに家長と乳母になり、家長と乳母になったところへばかりひんぱんにまた卵が集まるってな。

この神話的な秘境に住んでる人たちは、みんながみんなすごく頭脳明晰で、眉目秀麗だったとか。見た奴なんかいないがね。

秘境っていえば、じつはこっちのほうが例外的な秘境だったりしてな? おお怖い。……よう、俺はちゃんと話せてるか? なんだか言葉が頭の中で先にできちゃって、しゃべるころにはもう――そうだ、映画の話なんだ。いや違う、現代的な虫害の話だったな。

ともかく本郷は、当事者でもなんでもないのに時代の流れ弾を食っちゃったんだ。でもそんなもん正常なこったよ。蟻なんかに悩まないのが一番さ。どう悩んだところで、悩み切ることなんか土台できないんだからね。

すべてはな本郷、もとをただせば、イデオロギッシュなUnknownが自己を識別できなくなったことや、古来変わらぬ手段の行使が過去からの延長でなくなったことのためなんだ。わかるか?

――わからんだろう。俺もさ。しかしな、これはわかってるよりましなんだ。間違ってわかってるよりな。けれどもやっぱり、わからないのもけっきょくは困ったもんさ……」

美濃部は粘土のような顔色をしてしゃべりまくった。

「硝煙が吹き流されて新鮮な泰平が訪れた。だのに虫害の蔓延だ。本来ならば、それは鏡のように凪いでいて、そのじつ腐った水に泳ぐミジンコたちに多い病気だったんだ。ところがそれが大難を経て、清々と澄み渡ったこの現代の清水に、じっさい蔓延している。

これはじつは、澄んだのではなく、ただ沈むものが沈んで、上澄みができただけなのかもしれないな。……そうだ、台風一過と思われているけれども、じっさいには沈みそんじた人々が置き去りにされて、虚空にいるから澄んで見えるんだ。澄んでると思い込んでるんだ。そして沈んだ底では、つまり本物の世界では、我々とのあいだにもう青空や星空まで境に立ててしまっていてな。我々を天上の人々に変えちまってさ――けれどもけっきょく、この上澄みはただの油なのかもしれないよ。清水を覆っている油なのかもしれんよ……」

ちょっと失敬と言って便所に行き、帰って来て美濃部は伊知郎に虫害の自覚症状を尋ねた。伊知郎がくわしく伝えると、ふむふむとうなずき、

「便所で考えていたんだけども、上澄みと虫害をテーマに、ひとつ短編小説を書いてだね、雑誌に送ってみるよ。いい雑誌があるんだ。ここに載りゃァもう、棺桶に入れてくれよ」

「何度もそう言ってるけど、ぜんぜん書かないじゃないか」

「そうだっけ? ……おい、そういうことは思っても言っちゃいけないよ。それが社会人の分別ってもんだぜ。わかった? 反省しなさい。――すみません、お勘定」

 

伊知郎が雑踏の中を歩いている。外部の様相とそれに対する感覚とがいちじるしくかけ離れている。この自覚症状が正しければ絶望的な大病だ。生きているのは間違いで、いや本当はもう死んでいて、でたらめな余命が続いているかのような。一切が嘘の世界のようだ。

今にも死にそうだった。いつ死んでもおかしくなかった。けれども、この直感が正しければ、もういく度も死んでいるから、結論として、このたびも大丈夫なのだと慰めながら歩いている。

頬から蟻がほろほろとこぼれ落ちる。これに少し安心している。夢幻的な自覚症状がにぎやかになるのに反比例して体の物質的な不調――不整脈、呼吸困難、めまい等々――は弱まるので。

幻の黄泉に片足を踏み入れているだけだ、幻の棘が眉間に刺さっているだけだ、このまま一般的な寿命を全うするまで生きられるし、寿命が来ればこれと関係なく死ぬ。昔からたくさんいたのだ、どんなにおかしなことになろうと、生き間違うということはなく、死に間違うということもないのだと慰めながら歩いている。

明らかに襲い来る苦しさも、健常者には見えない頬の蟻も、地上的には嘘だ。だから気にするこたァない。もしこれが嘘でないならば、そんな世界に未練はない。すなわちどう転んでも大丈夫だ。大丈夫でなければどうにでもなれ。この症状で死ぬならば殺せと慰めながら歩いている。

出社すると、外見的には美濃部のほうがむしろ体調が悪そうであった。美濃部は伊知郎に気づくと、不定期に寄稿している雑誌を丸めて望遠鏡のように覗きつつ、

「本郷お早う。次回はノンポリ・ナンセンスにするよ。真面目なことを書くにはおつむがパワー不足だ。俺の思考にはパッキンがないからじゃあじゃあ漏れなんだ。なにが漏れているのかは、漏れている本人には永久にわからないようなものが。それにだな、真面目な頭脳労働っちゅうものはだね、一たび足を突っ込んだが最後、果てしなく闘い続けなければならんし、時には面の皮を厚くせにゃならんし、若い女の子には嫌われるし、友だちも減ら。だからこういうのどうだろうね、なにか重大なことをさ、普遍的なメタファー的なことを、ただ無意味に書き綴る、収拾しない、いわゆるすかしだな。これからはすかしで行くよ。

――……しかし本郷ね、本物のノンポリをやるには、むしろ莫大に政治的なことや宗教的なことや哲学的なことを凝視せねばならないんじゃないか? 違うかね? その上でようやくのこと、いやしくも物を書く以上はいかなるイデオロギーからも自由であるべしというイデオロギーをかたじけなくしてだ、書く物の背骨なるものは意図するべからずという意図のもとに臨まねばなるまいよ。

斯くていよいよ有機的に、総合的になって参りまして、そやつら――すなわち網羅的になぞった真面目なことども――を空気中に散りばめてさ、一発残らず外して行く詭弁のマシンガンをぶっ放したいね。こう、裁判みたいなものでな、ふさわしくなくとも、とにかく言いまくって、たとい記録は削除され、発言をぜんぶ撤回しても聴衆に少なからぬ印象だけは植えつけ終えているわけだ。

しかも話しているあいだは陪審員どもを夢中にさせられる。これは愉快だよ本郷。いいやこれだけが目的なのさ。これが思う存分できるなら死刑にされても構わない。地獄にだって行っていいよ。嗚呼……そんなことが本当に、満足にできるならね。

――こんなことくっちゃべっているのも、そもそも俺という人間が徹頭徹尾ロジカルだからなんだなァ。理系なんだしょせんは。それか、血圧の問題だ。血圧が高いと思想家になるからな。いや小便の問題かな。近ごろ腎臓の濾過機能がどうもね。――ああ昼飯(の注文)かい。君は? 生姜焼き弁当……かゑる庵だろ? それじゃ俺は幕の内」

 

無職の伊知郎が歩いている。世界はぼんやりして、重力もなければ酸素もない。音も温度もない。過去も未来もない。無いということもないので、伊知郎は歩いているのであった。

伊知郎の歩く大地はぐにゃぐにゃしていた。けれどもはたから見ればたいそうシッカリ歩いていた。

私を裁いているのは誰。と考えていることに伊知郎はぼんやり気づく。答えていわく、裁いているのは深層の自我や、私の中の社会我。しかし社会我自身、心に疚しさがなければ、これほど罪人をいじめないのではあるまいか? ――生贄だ。まあ仕方がない。

私を裁いているのは神仏の概念や、幼少期の躾やトラウマや、誰か負け犬からの呪詛や、そして誰も裁いてなぞいない事実へのボンヤリとした不満だ。まあ仕方がない……。

伊知郎の頬には蟻が這っていた。通り過ぎる人々はそれに気づかなかった。ふと、向こうから歩いて来る婦人の頬には蚊がたくさんとまっていた。同病者につきお互いの虫が見えた。婦人はすれ違う時、伊知郎の蟻をちらりと見て行った。伊知郎のほうはそれがマナーだと思うから、婦人の蚊を見ないように努めて通り過ぎた。

虫害科の先生はいつもと同じことを言った。なるべく疲れないようにすること。ストレスを溜めないようにすること。あまり虫のことを気にし過ぎないようにすること。

先生も頬に明らかな虫の巣があった。けれども薬で眠らせてあるのだとか。伊知郎も薬を処方してもらっていたけれど、なんとなく飲んでいなかった。それは虫害患者にはわりに多い特徴でもあるそうな。あたかも喪に服しているかのごとく回復を拒む。楽しみや喜びを避ける。

ああ前からまた一人、同じ病の人が来る。スーツを着た女の人だ。凛とした美しい顔立ちをして、その歩き姿はいかにもハキハキしている。彼女の頬には……カブトムシがついている!

伊知郎はとっさに道を折れた。自分よりもっとはなはだしい自覚症状に襲われているのに、あの人は快活に勤労し、立派に生活しているのだ。比較してしまう。自分の情けない事実を突きつけられるのはつらい……。

伊知郎の頬の蟻はうじゃうじゃと湧いた。

ビル風が吹いている。いわく、

――空間も時間もなく、存在も不在もなく、観念の対象にもならず、表現の矛盾にも破綻にもならない世界の絵を描く時に、一番多く使う色は?……

――私のなぞなぞに答えられる人物とは誰か?……

叔父の家は都市から遠く離れた山村にあった。父の弟の叔父だった。叔父には蟻は見えなかったけれど、都市に蔓延る虫害には同情しているそうだった。

部屋へ案内してくれた際、肩をぽんとたたいて、しばらくのんびりするといいと言ってくれた。

荷物を置き、畳の上にあぐらをかいて、伊知郎は物思いした。もうすぐ美濃部が結婚するから、式には行けないけれども、祝儀を送らなければならぬ……。

このような避けられない手続きがこの先無数に待機しているのだと考えた。完全な不意討ちならまだしもマシだが、予約して来たり、折に触れて予約を匂わせて来るのだ、じっさいにはけっきょく持ち上がらないことまで含めて膨大に。いちいち耳を貸していたら不必要に消耗するだけだが、無視しても「保留されている問題」の累積が換気口を塞ぎ、排水口を詰まらせる。そしてくたくたのところに不意討ちもまた持ち上がって来る。とても乗り越えられないような重量のものでも、平気で。

自分のごときは、よしんばずっと生き残っていたとしても、それは生きているのではなく、死にぞこなっているだけだ……。

伊知郎の頬の蟻はうじゃうじゃと湧いた。

 

浅い眠りの中で、じっさいには交わさなかった美濃部との会話に知恵を絞っていた。

「本郷、どうもね、俺はむしろ喜劇のほうに才能があるらしい。あると言えば図々しいが、悲劇のほうにはもっとないんだ。もうほんとに馬鹿げたドタバタに逃げ込むしかないね。じっさい何篇か冗談みたいなコメディを駄目元で送ったら、予想外の好評だったよ。

ぜいご島に出る秘密の地下トンネルっていうのがウケた。オートバイを運び入れてね、簡単に行けるんだ。ちょっとエンジン音の反響がうるさいけどね。後ろに橇をくくりつけて、みんなで引っ張られて行く。ぜいご島じゃァ森の奥に廃校があってな。屋上のプールに野生化したベタが泳いでるんだ。もうすっかりヒレも短くなって、色も抜けちまってるけどね。肝心のストーリーは忘れたが、あの話は確かによく書けた。

――しかしあれはねえ、自己という幻想の真ん中でだよ、この凡骨にもせよ哲学的なる救いようのないおつむの中で、執拗な理屈が暴れ回り、くたびれ切った思弁の二日酔いの時だけ炸裂する反作用によるご褒美みたいなものなんだ。閃こうと思ってもそうそう閃かないんだよ。逃げちまいやんのさ。けっきょく俺のほうが魚で、向こうが釣り人なんだよ。鳥なのは俺のほうで、向こうが詩人なんだな。

そういう事情のところへ、原稿料の前借りで彼女とスキー旅行に行ってしまったわけだろう? 速やかに新作を考えなければいけないというしだいなんだ。今日はそれで訪ねたんだがね、君なにか面白い案がないかな」

「そりゃあるとも」

「おったまげた! いや君は閃く奴だと思ってたよ。どんな案だい?」

「そうな――昔の担任の体験談だけれども」

「うん」

「先生、墜落中の飛行機からパラシュートで飛び降りたことがあるんだ」

「なんと」

「ゆっくり降下しながら、夕暮れ時の世界がこの世のものとは思えないくらい美しかったんだと。墜落しゆく飛行機がもくもく残して行く煙にはえもいわれぬ色が反射して、それは視覚をして魂を昇天せしむる光景だったんだとか」

「ほんとにあった話かい」

「これが本当なんだよ」

「するってえとなにか、実話となるといろいろの諸々がナンだけれども、図書館なんかに行けば当時の新聞に載ってるかな」

「いや、こっちの図書館にあるかはわからないがね。ともあれ飛行機はけっきょくどうにか不時着した。一人だけ、その時の衝撃で以てものすごいむち打ちで、前の席の人と頭が入れ替わったらしいけど。その他はみんな無事だった」

「ははあ」

「けっきょく飛び降りたのは先生だけだったんだが、あの脱出は果たして正しかったのかどうか。――いっそヒト牧場という未来から脱出できるまでのことだったなら、正しいも正しくないもないんだけれども。――ともあれハッキリしていることは、先生一人だけ逃げるのを乗客たちは目撃してるからね、ひじょうに恥ずかしいのだそうだ。アナウンスに従ったまでだと言うのだけれど、しかしそんなアナウンスは流さなかったと機長は言うわけさ」

「よし、ちょっと待て。……うん、いいじゃないか! しかしそれは落ちがむつかしいぞ」

美濃部は独りでブツブツつぶやいた。

「いいな……いいぞ。まだ続きがあるなこれは。よし、ちょっと待て。……そうして助かった先生は、後日、今度は船だな。沈没するから浮き輪をつけて海に飛び込む。ところが乗客はみんな海の底で助かって――一人だけむち打ちになるけれど――船長はなんのアナウンスも流さなかったと、そういう場面で終わりだ。……これはいずれ脚本にして映画会社に売ろう。主演はキートンがいいぞ…………」

目が覚めた。蟻にまみれていた。

叔父の家に来てからは、見知らぬ静かな土地に隠れていることの、ほっと安らいだ気持ちと、ひたひたと迫り来る悲観と焦燥とのあつれきで、かえって甚大な蟻の活動なのだった。

幻の苦しみを募らせて、布団に引っくり返ったまま動かずにいると、蟻の息づかいが聞こえて来る……虫の息というやつだな。思いがけなく真実の語源を一つ暴いたぞ、美濃部。君の好きそうな話じゃないか。

伊知郎の頬の蟻はうじゃうじゃと湧いた。

 

その朝、伊知郎はたっぷりと寝坊して、ゆっくりと顔を洗い(蟻は手触りがない。蟻は水に濡れない)、だらだらと食事を済ませると近くの池まで散歩に出かけた。畔に立った。大きなL字型なその池は折れ曲がった先が森の木々に隠れて見えなかった。

叔父の一家はこの池に近寄らなかった。昔、伊知郎の父方の祖父が、ここへ魚釣りに出かけたきり帰って来なかったのだとか。二、三の持ち物が浮いていたが、死体は遂に見つからなかったそうな。

畔をぶらついていると、やにわに池の水が寄せたり引いたりし始めた。こんな山奥でまるで海のようだなと考えながら眺めていると、軽い潮の香がした。指で触って水を舐めてみると塩辛かった。明らかに海水だった。

向こうの桟橋にボートがもやってある。ペンキで《魚丸》と書いてある。伊知郎は叔父の家のほうをふり返った。めまいがした。空も地面もゆらゆら揺れる。伊知郎には世界のほうが病気である。

ボートに乗り込み、櫂を水に差し込むと、伊知郎はぎこちなく漕ぎ出した。

L字の角を曲がると、森はそこで切れていて、見果てない海が広がった。間もなくボートは潮の流れに乗り上げて、漕がなくとも勝手に進んで行った。今ふり返ったら背後の景色はどうなっているのだろうか? ――伊知郎はふり返らなかった。

櫂を仕舞ってぼんやり座った。空を眺め、海面を眺めた。一度だけ、すぐ近くを蛸が泳いで行くのが見えた。

子どものころから、大きな事態に直面すると頭は活動を停止して、どうしようもなく眠くなるのだった。切り抜けて行かねばならない障害が立ちはだかると、決まって頭がぼうっとするのだった。

これは人間としてのたいへんな劣等性の証拠だと思った。

以前は、たとえどれだけ不毛で無意味でも、不可解で理不尽でも、なにか確かなものへ盲目的に従い、確固たる進むべき方角を持っていたような気がするのだけれど、記憶の中のどこをあたってみても、そのような経験は見当たらないのだった。

それは前世の記憶なのだろうか? それとも、どこかにいる誰か別の人の記憶なのだろうか? 遺伝子に沈殿する祖先の記憶なのだろうか? それとも、疲弊した脳髄がこむら返りを起こしただけの的外れな錯覚的既視感に過ぎないのだろうか?……

――まったく、どうしようもなく眠いのだった。

 

起きると同時に忘れる夢を見た。上座より美濃部が登場し、梵天よ、これが最後の、逆立ちしながらの謁見、すなわち最後の言語思考でありますと前置きして――

ねえ本郷。ここに二人の神々が話していると思いなよ。お互いに、毎日一時間ずつ、助け合おうじゃないかと。一時間くらいが妥当じゃないかと。

その通りだと。了解したと。ところで君の言う一時間とは六十分だよねと。

とんでもない、一時間は三千六百秒ですよと。そういうあなたの毎日とは、一日一日の継続ですよねと。

とんでもないと。毎日とは年に三百六十五回のことですよと。

そういうことなら、助け合いはやめて、干渉のやめ合いにしませんかと。

了解したと。ところで君の言う干渉とは、口出しだよね、手出しのことじゃないよねと。

とんでもないと。そんなことまで確認するなんてと。やはり我々は、干渉のやめ合いすらできないほどに隔たりがあると。こうなったらせめて境界を引いて別れていようと。境界こそが最大の善であると。

よろしい、承知したと。

――そこへ三人目が現れて、「毎日とは年に三百六十五回」という右の台詞を取り上げ、うるう年についての横槍を入れるんだけれども……本郷。我々の時代というのは、つまりこの横槍みたいなものだねェ。

精霊に満ち満ちた滝の空気の秘密をマイナスイオンと見破るようなさ。(マイナスイオンを無限に製造しても滝にはならない。)科学を崇拝しながら神仏のモザイクを取り去る、すなわちすべてを裏ビデオにしちまうマスかきがさ。まあ見てて御覧よ、このマスかきは遠からず独りで腹上死するぜ。ここが進歩の折り返し地点で、引き返すんなら安心だけれど、若返ることはできないものさ。

自分の尻尾を食う蛇がいると思いなよ。こいつは輪っかになって、(じっさいは絡まりまくって、)なにをしているのかと尋ねれば、もう蛙を食うのが可哀相だというわけらしい。それで自分のケツを食うておる。今までなにを食い続けてそこまで優しくなるに至ったのかという問題は、もはや想像するだに汚らわしくって捨てちまう。ケツは飲み込めず、喉に自ら手を突っ込む者の吐き気に悩んでいるんだが、当人は、いまだに蛙を食いおる他の蛇に対する吐き気だと主張している。果たして誰が吐き気をもよおす姿であるのか、鏡を御覧と言いたいね。

ねえ梵郷。いや本郷か。……そうじゃァないか?

美濃部、下手へ退場する。

退場した美濃部をふり返りつつ、入れ替わりに蕎麦屋の師匠が登場して――

どうして我々は、あれほどサディスティックに宇宙人たちを扱い得たのか。それは、劇烈な復讐の炎で以て一息に滅ぼしてもらいたいという安易な自滅願望だけではかならずしもなかったのではあるまいか。

本当の理由は、昔々あちこちの墓地から現れた宇宙人たちが、即座に宇宙人の模倣にひた走る我々を《素晴らしき知的生命体》と讃美し、しかし宇宙人の模倣にひた走るによって(それだからこそ宇宙人は失われつつある美に気づき得たのかもしれないが)崩壊するありさまを惜しんだからだ。惜しまれるによって我々は自覚してしまった。自分たちの素晴らしさと、それが既に失われた事実を。そしてもはや以前の自分たちになんらの魅力をも感じ得なくなっている、審美感覚というよりも認知機能の喪失を。

ヘタに自覚せしめられなければ、華麗なる変身の夢を見たまま滅べたものを、「なんか違ったんじゃないか」を生ぜしめられたことへのあれはやっぱり我々側の復讐に他ならなかったのだ。むろんすべては、全体的な無意識が為したことだから、誰にも責任はないけれど。誰にも功績がないのと同じように。

……梵郷君。間違っているかね? 間違いだとしても、本当に心の底から首肯できないかね?

蕎麦屋の師匠、上手へ去りかけ、途中で間違いに気づいてきびすを返し、下手へ退場。

 

目覚めるとボートは砂浜に乗り上げていた。眠ったことで口の中が熱く、息を吸い込むと涼しかった。

そこは小さな入り江であった。静かな――と思えば前方の森の上になにかの塔の頭が見える。かすかに喧騒も聞こえる。町があるのだと思った。伊知郎はぼんやりしながら、叔父のスクーターをボートに乗せてくればよかったなと思った。

けれども、まあやっぱりスクーターはいらないか。見知らぬ町の中を乗り回しても、目立つかもしれないし、こちらは交通ルールも違うかもしれないし。

――このまま、いくらでも尻込みができると思われた。砂浜になんぞ到着せず、どうしようもない波の上に閉じ込められてもう一度眠りたいと思った。無理は承知で逃げたかった。これは産み落とされた赤ん坊の最初に感ずる気持ちなのではないかしら。もっと自覚を逞しゅうすればさらなる懐かしさに到達することもできるのではないかしら……いくらでも尻込みできた。

前方にあるのはまったく未知なる新世界だ。これまで必死で習得して来たものがすべて無効にされる恐ろしい混沌の世界だ。こちらの知らない常識が安定している異国だ。前方にはこれ一つしかない。後方には見果てぬ海があるきりで、たぶんもう戻られない。とんでもないことをしでかしてしまったのだからにはもう一度眠りたいと思った。

あの時自分は、それまでの世界に見切りをつけて飛び出した時、なにを思っていたのであろうか。前方になにか安楽な、介護施設のような世界を望んでいなかったか。もしくは幼少期のような。

いや、じっさいはなにも考えていなかった。そのまますんなり死なれるような心境だった。英雄的行為に伴う決死の無私ではなく、ただ目を逸らし続ける無考え、もしくはふらふらっと死に誘われる、どの生物にもあるであろう一つの状態だったが。しかし行為は為され、事は動いて、次の行為の必要に差し迫られてしまった。――……よろしい。それならそれでこちらにも考えがある。つまり、考えはないということだが。

と、斯様に尻込みしていても、いっこう眠くもならないから、ここはひとつ覚悟も気合いもなしに、ぼんやりしたままともあれ動くに限ると思われた。目下のところそれが一番ラクなので。ヘタに動けば、追われるかもしれないし、捕らえられるかもしれないし、殺されるかもしれないし、もっと過酷なことも起こるかもしれないが、もう尻込みに疲れたので。

陸に降り立つと、それほど長いこと海上にいた気はしないのだが、揺れない地面に酔ってふらついた。そこへ、思わぬ所から声をかけられた。

「どっから来なすった?」

ふり向くと、岩に座って釣り糸を垂れているお爺さんがいた。伊知郎がボートの上で尻込みしているあいだもずっと見ていたらしい。

「またうまく流れ着いたね。お前さん、海坊主じゃあなかろうね?」

伊知郎はなんと説明したらよいやら、わからなかったから、

「――そのようなものです」

と答えた。するとお爺さんは笑って、

「馬鹿言いなさんな。お前さん、池からかい。川からかい」

「はあ……?」

「沼からかい。水たまりなんてのもいたな。噂によると、雨垂れに当たっただけというのもあったとか。もっとはなはだしいのは自分の涙で――これはしかし、いかにもありそうなこった。または貯水池ね。滝については川に含めていいと思うがね。もちろん海もあるよ」

「あのう、それなら、池からです」

「池か。私は海だった。だからいつの間に変わっていたのか、境目に気づかなかったよ」

お爺さんは釣り道具を片づけて、すっくと立つと歩き出した。少し行ってふり返ると手招きした。伊知郎はボートをそのままにしてついて行った。

 

伊知郎の印象では、なにかこう西欧風な、古色蒼然たる町であった。作喪衣渡さもえど町というのだとお爺さんが教えてくれた。

「どうだね。なにかこう、阿蘭陀流だろう」

「えェはい」

「今夜はどこで寝るのかい」

さてどこで寝ようか……どうやって生きて行こうか。わからない。これまでもわかっていなかったけれど、これまではけっきょく誰かしら教えてくれて、なにかしら手がかりに引っかかることができていた。けれども今は手がかりが一つもない。眠たくなる。頬を蟻が歩く。(なんだ……治ってないのか。)

お爺さんは伊知郎の肩にぽんと手を置いて、

「まあそうだろうな。私も、あんまりほったらかしに過ぎるとは思う。もう少しあってもよさそうな親切心がなさ過ぎるとね。しかしけっきょく、これまでがあり過ぎたんだろうさ。それに、もっと酷くても仕様がなかろうものを、このくらいで済んでいるとは、いや、ありがたいこったよ」

それから手招きして一本の路地に入って行った。狭くて汚い路地をしばらく歩き、やがて壁の漆喰のあちこち剥げたアパートに入って行った。窮屈な階段を上り、ある部屋の扉を開けると中に入るよううながした。

伊知郎はうながされるまま、中に入った。薄いカーテンのふくらんだ、物の少ない部屋だった。

「私の部屋だよ。あのボートをくれるなら、しばらくここで寝てもいい」

「ありがとうございます。ボートは差し上げます」

「荷物は?」

「ありません。財布も着替えも、なにも」

お爺さんはうなずいて、一脚きりの椅子をすすめた。それからキッチンへ行ってなにやら火にかけながら、

「まあ一服しなさい。そして元気が出たら役所へ行くといい」

伊知郎は窓を眺めた。カーテンの透ける向こうに、すぐとなりの建物の壁の煉瓦が見えていた。お爺さんが熱いコーヒーの入ったマグカップを持って来て、小さなテーブルに置いた。伊知郎は頭を下げた。お爺さんの分のコーヒーは、なにか白いお椀に入れてあった。お爺さんはお椀を両手で持って、ベッドに座った。

「なにもかもわからんだろうが、済ませることを済ませてからボンヤリするこった」

「――済ませることってなんでしょうか」

「君はまず戸籍を作らなければいけない。一緒に行ってあげよう。私もちょうど役所に用事があったから」

「身分証明になるものも、なにもありませんけれど。――捕まったりしませんか」

お爺さんは熱そうにコーヒーをすすり、一口飲んでから、

「捕まりゃせんさ」と言った。

 

お爺さんは安永と名乗った。

太古の神殿をリフォームしたようだろう、と役所を指さして言った。それから中に入ると伊知郎に市民課の窓口を指さして、それじゃあと言うと行ってしまった。どこへ行くのか見ていると、安永さんは福祉課の窓口へ行くようだった。

伊知郎はしばらくうろうろ見回して、市民課窓口へ行き、番号札をもらった。それからベンチに座って待った。呼び出しの放送が時々流れていた。

――巻貝の中にはほうき星がいくつあるか?……

――この世が階段の十四段目である場合、階段は何段目で作られたものか?……

――心電図、目覚まし時計、××、自転車、ドアノブ。××に入るものはなにか?……

――その劇場の席亭は背の低いマッコウクジラで、共同出資者は五人の夕日である。役者はすべてマッコウクジラで、観客はすべて夕日である。こけら落としは何月であるか?……

――ドレミファソラシドと演奏するとレレシファシシレレになる楽器とはなにか?……

――深く心が傷ついた機械はなにを心のよりどころにすれば油をさされずに済むか?……

それほど待たされずに呼ばれた。一生懸命事情を話している伊知郎に、太った男性職員は「はあ、はあ、」と相槌を打ってはいるものの、今ひとつ頭に入っていない様子だった。

伊知郎が消耗して口を閉ざしてしまうと、奥で激しくデスクワークに取り組んでいた婦人職員が颯爽とやって来て太った男性職員と代わった。

婦人職員はひじょうにてきぱきしていて、またひじょうに親身になってくれた。婦人職員の頬には明らかな巣の痕があったけれど、虫はもう住んでいないようだった。

差し出された用紙に記入し得る範囲だけ記入して返すと、婦人職員は用紙を持ってどこかへ行った。それから少し待たされた。婦人職員は一度戻って来て、あちらのベンチにお掛けになってお待ちくださいと言うとまた引っ込んだ。

伊知郎がベンチに座っていると、窓口にはさっきの太った男性職員が戻って来て、次の市民に応対していた。次の市民は、なにか手続きの面倒な問題に直面しているらしい、途方に暮れたお婆さんだった。

太った男性職員はやわらかに何事か説明していた。お婆さんが途中で口をはさむと説明を中断して耳を傾けた。それからふたたびやわらかに何事か説明していた。

福祉課のほうから安永さんが歩いて来た。なんだかしょぼくれていた。二人はベンチに並んで腰かけて待った。

安永さんと反対側の隣席に新聞紙が置き去りにされている。伊知郎はぼんやりと読んだ。

――鏡が自分の顔を眺めている魚とはなにか?……

――脳髄が体系的な幻想をこしらえ始める容量になる境は、鈴にするといくつの時か?……

――ネクタイはこれからどう変化して行くべきか?……

――イルカの性欲はしゃがんでいるか歩いているか?……

――おたふく風邪が換喩になる昆虫とはなにか?……

少しウトウトして、夢と言うのでもないけれどもなにか印象が脳内を駆けていた。会社の慰安旅行でいくつかの崖を見た。それらは元はみな立派な滝だったという。滝壺にはかならず猿が泳いでいたという。今はただの崖だけれど、みんなえらく熱心に眺めていた。

目が覚めた。番号で呼ばれるのだろうと思っていたら名前で呼ばれた。さっきの婦人職員と一緒に、眼鏡をかけた痩せ型な男性職員がいた。

「本郷伊知郎さん」

と痩せた男性職員が言った。それからの話は、頭がついて行かなくて今ひとつわからなかったけれど、その夜、祝杯のビールを飲みながら、安永さんがまとめてくれた。

すなわち、伊知郎の祖父が、その昔作喪衣渡町へとやって来て、ひと財産を築き上げた。祖父のつくった化学肥料の工場は、ある渓谷で今も大いに稼働している。

「それにしても、本郷の後家さんと息子たちが話のわかる人たちでよかったわい――」

祖父が亡くなった時、財産の半分は奥さんに渡り、息子さん二人の元に四分の一ずつ渡った。そこへこのたび祖父の前妻における孫である伊知郎が現れた。

本郷邸へは伊知郎と、てきぱきした婦人職員と、安永さんとの三人で赴いた。伊知郎の父と叔父と、それから会ったことはないが三人の従兄弟たちが海の向こうにいて、しかしこちらへ渡って来る可能性の極めて低い上は相続放棄とみなされ、(じっさいには死亡とみなされたのだとか。そうすると死亡の時期が祖父よりもあとになるか前になるかの問題で、婦人職員はどこかへ電話をかけていた。そうしてけっきょく、じっさいには生きているからには、祖父よりもあとの死亡ということになったのだった。)斯くして孫である伊知郎に、息子さん二人と同等の相続権が生じた。

本郷の息子さんたち――どちらも化学肥料会社のオーナーだった――に伊知郎を入れた三人は、祖父の遺産の六分の一ずつを分け直すことになったのだった。

 

 

 

2025年7月3日公開

作品集『猿の天麩羅』第12話 (全13話)

© 2025 尼子猩庵

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