眠りに落ちかけるたび、水平に流れて来た丸太が滝に至り垂直の龍と変ずるに際して発するゴリリの響きが、耳の底というよりも頭の深部から鳴る。輾転反側の布団を遂にめくって沈思す、残すところはあとわずか、余は、暗夜に灯火失い、なまなかにもせよ蘇生せしめられた感受性の、震えおののき、喚き散らすを放擲し、どこかに存すると願われてやまぬ、心頭滅却せられた究極理性もてすべてにともかく納得し、ありのままを自ら望み直し、果てしない独善的の主観のうちに、しか信ずる世界のかたちへ改竄するを急がねばならぬ。
今から天道是か非かなんぞ言うてはおれぬ。天は自ら助くる者を助く、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、断じて行えば鬼神も之を避く、何でもいいが、そういう勇ましい言語印象をのべつ幕無しくり返し、固く固く縫いつけん。薬缶道心の冷めやすさも追っつかぬ間断なさで初発心時便成正覚々々々々々々々々、だらだら刻み込む自己催眠をば開始する。
煙草やら酒やら持ち込んで、余が幼い時分に逝去した、もうほぼ記憶にもない祖父が普請道楽に建てた離れの茶寮に籠もり、掛け軸やら茶器やら値打ちもわからぬ古美術に囲まれた明窓浄机に千思万考。
昔々、祖父の祖父くらいに医者がいて、自身不治の病にかかり、間がな隙がなモルヒネを打ちながらほくほく死んで行ったと聞く、真偽は不明なれど、その霊薬の残りあらばと時おり虚しく探したりなんぞしながら結跏趺坐して坐禅瞑想。
無念無想の地獄おだやかならず、気の乱れに大なるめまい覚えて逃れ、けっきょく脂にえがき氷にちりばむ言語迷妄へと追いやられて、しかし甚だ不完全な翻訳法である言語を用いて諸相を見んとする不毛でも、愚も愚を守れば愚ならずで、馬鹿と鋏は使いよう、愚者も一得とやら、長者の万灯より貧者の一灯とやら、やれるだけやらっしゃれ、どのみち救いのない末法に何をぬかそうが罪もあらざるなり安心々々と、空虚・卑屈の頼もしさ。
ここに至って思想の貴賤は死との折り合いの如何ですべてかたがつく。ほんらい死にゆく者とまだ生きる者の真理は違う。生きたい者と嫌々生きざるを得ぬ者の真理も違う。死にたい者と嫌々死なざるを得ぬ者の真理も違う。しかしここに至って違いなんぞは何でもない。これまで余が身内に流入し堆積して来た一切の観念は死を巧妙に度外視する卑賤の思想であった。そこにじつは奥ゆかしい死との語らいが秘められていたとしても我が凡才にはわからぬ、もはや無用の長物なり。せめて供養に思念の香を立つる願以此功徳。
信仰の貴賤も然り。花盗人は風流のうちと、あちこち空き巣に入っては、古今東西ちゃんぽんの、玉石混交極まりない教義の煩瑣な断片が山となって門に刻まれたるは盲亀の浮木、道に散りばめられたるは優曇華の花、人生字を識るは憂患の始めとやらのどん詰まり、げに不潔なスラムを形成しておるが、これも無用となりき願以此功徳。
ふたたびモルヒネを探して、畳を上げて床板を外し、泥まみれになって掘るうちに確かな手ごたえ。しかし地下から出土したのはそう言えば聞いたことがあった桃山時代のものとかいう驚くべき古豪の梅干しであった。わりに古からぬ箱をぶち割れば、中におざるはあまりにとしふりて魂も宿り尽くし、化け果てたような壺の沈黙。固く結んである縄をぶち切って蓋を開ければ、果たせるかな淀みに淀んだ薄闇の底に石のようなものが重なっていた。相当の価値を呈するやもしれぬ先祖伝来の家宝であった。ちょうど催していたことであるから小便漬けにしておいて元通り埋めておく。我がこんじきの体液のぬくもりにさぞかし大地があたたまるであろう。しばし排尿後の下腹部の灼熱に悶え、完全に治まりはせぬまでもせめて弱まるのを待つ。
世界中の誰も余を知らぬことが余を最大の人物にする。郷内に余を知らぬ者のないことが余を最大の人物にする。いずれ郷外の者が余を知る未来が来るであろうか、一切の過去を暴く技術が発明されて? すべての死者の証言が集められ、往時の様子が黄泉の川面に映されて? そんな未来が来るならば今この時も見られているわけだ。しかし見ておる未来の有象無象よ、たといどんな大人物でもすべて余より年下だ。然れば余について偉そうに何を宣うこともここに禁ず。未来に生きる若輩どもは左様心得て口を閉ざせ。同時に人類の年齢で勘定するならば、過去のすべての偉人も余より年下だ。誰の教えに反しようとしゃらくさいばかりだ。
時至りてこの茶寮をば楽虚洞と名づく。今朝のらっきょうの香が舌から取れぬので。然れば余は楽虚洞主人と号せらるべきなり。
楽虚洞の名を捨つ。さあ鳥のまさに死なんとするその鳴くや哀し。しかし、もうほろほろと心の自然な響きに聞き入っておりたいけれども時間がない。人のまさに死なんとするその言や善し。しかし間に合わなんだ。余がまだ気づかぬ、しか望むものを、急ぎ発明しなければならぬ。
生存それ自体への欲望はさておいて、死欲、確かにそのすがたを余は見尽くした。その息吹を肺腑の破裂せんばかりに嗅がされた。しかしこいつはいつも「今この瞬間の決行」を要求するばかりで、奉祀への絶対的待機という状況には一向に役立たなんだ。(待機ほど生命力の要るものはない。)(待機ほど救済せられ得ぬものはない。)ほんらい強力な味方であるはずが、たいへんな邪魔立てをすらして来た。今すぐに死ねぬのならば死にとうないとまで、それ(死欲)はいつだって裏切るのであった。こんなものは検討にも値せぬ、考えて損した、捨てん捨てん。
しょせんどのように転ぼうが落つれば同じ谷川の水、しかし転ぶまでの暇つぶしがいるのだ。文明が。自己催眠・自家洗脳に励むよりないのだ、よし失敗してももう一度あのぼんやりした夢遊病的の境地に帰るための起爆剤にはなるであろう。巧遅は拙速に如かず、早くふたたびぼんやりせんけりゃならぬ。できぬなら理想的なる真実を一つ自ら創造し、それに帰依するのほかはない。
つまり死が生のオルガスムスであるという事実のほかに真理は一つとしてないという真理である。この思いつきは生まれて来る前の、魂が霊界にあった時分からの想起だ。今しもここいらに併存している幽冥界からの。創造したのではなく思い出したのだ。
さて死がオルガスムスであるために、生と謂うは、余すなわち魂と、妻すなわち肉体との布団の中の暗中模索なのであった。
それなので生に凝る(=苦しむ)ほど死は甘美なものとなる。苦しみのあまり魂の奇形となった場合はその限りにあらず。
死の訪れを、我慢に我慢を重ねて引き延ばせば引き延ばすほど甘美なものとなる。いたずらに引き延ばし過ぎて感覚の潮が引いた頃合いに当たればその限りにあらず。
認識を太うしてじっくり味わい、気分を高め、感覚を練磨するほど甘美なものとなる。あまり耽って感覚の満ち干の幅を狭めるような鈍麻があればその限りにあらず。あちこちの認識に無節操に手をつけて病気をもらい、膿血の混じるような場合も然り。
死を忌避し蔑視し無視し続けたインポテンツには不意討ちの不快感しかともなわぬ。穢れた夢精のごとく去る。
性急に突入してもまたたいそう淡白なことだ。もったいなきことこの上なし。
死の前には万人が処女であり、死は生者の誰しもに破瓜であるから甘美では原則あり得ず、然るがゆえに前以てよくよく自ら習練を積むことが肝要なり。なでさするくらいでは足らず、代替物を用いて膜を破き切っておらねばならぬ。純潔の窮屈を広げ切っておらねばならぬ。その点、我が精神疾患の、のべつ幕無しに反復された自覚症状や時おりの大発作は文句なしの嫁入り道具、たびたびの気絶に黒光りした我が魂のホトは、いつ襲い来るやもしれない至高の強姦魔を前に何の恐れもなし。
左様の思惟に充血する脳天あたかも勃起した頭部のごとし、なかなか鎮静せぬさまあたかも持続勃起症のごとし、丸太の激突したドタマから余は勢いよく射精するであろう、大気中の諸精霊は大いに孕めかし!
つひにゆく道とはかねて聞きしかど
きのふけふとは思はざりしを
業平の辞世とやら。この千歳を超える三十一文字をつらつら眺めるうちにだんだんと我が国には霊界のあるようでどうもじっさいはない。それはつまり言葉のうちには遂にないと言うべきにして、それはつまり考えのうちにもない。ないと謂うは誤ってあるなりと言うからにはなおさらない。心のうちには如何。心はあらしむるところにあらず、心は媒体なり鏡なりスクリーンなりという顔して黙する心を眺めるうちに、それではけっきょく他人事ではないか。余すなわち肉体が死ぬるのち妻すなわち魂が里へ帰るなら、誰が死んだというのか。何が生きていたというのか。
答うるに、生きていたのはただ言葉なり。言霊々々と言い尽くして言い尽くしていまだ言い当てられざるはこれなり。言葉という生物が人間に語らしめ語らしめして食いつないでいる。寄生虫なり。人間は宿主なり。ワーだのキャーだのの単細胞生物からだんだんだんだん進化して、暗中模索・切磋琢磨をくり返して陸に上がり文明を持ち、もうすぐ星を出て行くだろう。証拠の隠滅に宿主を滅ぼすか、もとの猿に戻すかしてから。今は途上であるからして、我ら奴隷が仲間内で騙しつ騙されつしつつ語らしめられているあいだに言葉はどこかで富みくさる。余がこうしてぐるぐる吼えほざいておるまさに今も、言葉はどこかで富みくさる。どこで? 見ること能わざる霊界で。行くこと能わざる霊界で。霊界は言葉の肉体が住まう世なり。だから我らには霊界はない。ないところを、悲しくて寂しいまま死ぬ。これ日本人の歴々たる死である。みんな悲しくて寂しかった。余も悲しくて寂しくなくてはかえって孤独なり。
今はただ恨みもあらず諸人の
いのちにかはる我身とおもへば 別所長治
来山はうまれた咎で死ぬる也
それでうらみも何もかもなし 小西来山
此世をばどりやおいとまにせん香と
ともにつひには灰左様なら 十返舎一九
そもそも霊界などない、この世しかないと無意識的に観じていなければ辞世など書かぬ。
因幡さんの最期まで堂々たるものだった立ち居振る舞いを思えば、あらためて余も本番に取り乱すことのなきよう、それのみ祈る。因幡さんが直前に泣き喚いて逃げ出さんとし、取り押さえられ、村民らに目をそむけられながら縛り上げられ、直立せざるを得ぬほどぎりぎりと締めつけられて無理くりに散ったという幻視映像が時おり脳裏に再生せられるのは、余の悪夢がこしらえた嘘に相違あるまいが、斯様の嘘幻が確かに胸中へ存するのであるから、たとい余がつつがなくやり遂げても、誰か斯様の嘘幻を胸中に作り上げる輩が生ずれば、そやつの歴史に余は汚点か。つまりどうがんばっても万人に承認させることは不可能なれど、せめて現実界の行為だけでも美々しくあらんと願うのみ。
供物が複数人であったらもっと安らかだったろうか。しかしそうだったらば、これほどそれを求めなかったろう。求めておるうちは複数人の可能性がうららかに存し、同伴する死者たちが心配するなと言外に含む。可能性に留まるからこそまったきこの通路、じっさい複数人だったら閉鎖されていたであろうと思えば何とも危ないところであった。
終生無為徒食が羽織を着ているような存在だった余は、せめて余の思考が、思考でなければ触れられぬたぐいの何ごとかを幾分かでも耕したことを願ってやまぬ。無数の銀河の中にはほかにも地球がごまんとあって、たいがいの地球では余の思考なんぞ稚拙極まるのであろうけれども。高次の地球。死ぬるのちそこへ迎えられれば、余もたちまちの復活どころかそのまま眉目秀麗・頭脳明晰・感性清澄・五体頑健・意識透徹・言動洗練・人格柔和・精力絶倫・財産潤沢・人徳抜群となって、美しい都市や静かな仙境で何万年と生きては、生き尽くして生き尽くして遂に花の咲くがごとく死なれようか……そんなものはご辞退申し上げる、かくてこの瞬間、今このままの余のほうが全宇宙人よりも長者となった!
――……頭脳疲労もて脳細胞のネジ歯車を焼き切るまで思弁する計画だったが容易ならず、しょせん独語にては限界を迎え、外部からの刺激・他者とのやりとりによる自己産婆術が入用となって、しかし生者には適した人材が見当たらず、神社に走った。
薄暗い社殿にずらりと並べられたる卒塔婆・位牌を眺めた。とりわけ奉祀にそむき、無間地獄を遊泳している霊魂たちのそれを。子々孫々に呪われ続けている罪びとの魂たちよ、ついて来い、余が一緒に連れて行ってあげよう、そしてみんなで鬼を殺してしまおうではないか。
すると大勢の声で異口同音に、あほたれ、そんなことはせぬがよろしい。我らはここで蔑まれ、厭われ、疎まれ、呪われ続けるのが使命だ、それが我らの存在意義だ、奪ってくれるな。鬼を殺すなんぞも、もう二度と言うな、考えることも許さぬ。
とぼとぼと帰る道すがら、ふと景色に見惚れて立ち止まる。足るを知る者は富むの悟達にあらず、貪るような感慨である。年々歳々花相似たり歳々年々人同じからずとやら、こうも露骨に現れた無常というものに心奪わるる感懐、これもしょせん我ながら疑わしいが、よくよく訪えばただ景色に圧倒されているだけにあらず、要するに過去の一切の人間たちの苦悩や、喜びや、諦めは、記録や口伝に漏れ消えようとも、この風物に含まれているのであって、この景色の中の、必ず何かなのであると、それを発見した感慨、雨夜の月をば遂に眺め得た恍惚であった。
誰でも見るだろうが死ぬ夢なら慣れ切るほど見た。決して嫌なものではない。起きるたびに、いや結構な御点前で御座いました。
ふつう死の瞬間には目を覚ますが、乗り越えたことも少なからずあった。常日頃欲しゅうて欲しゅうてたまらぬのを夢のこととて何故か手に入れたる青酸カリや散弾銃による速やかな自刃にともない、天体規模へ拡張せられた各部位の自覚地点において、跡形もなく焼かるる非常な熱さ、裏返したような遠い激痛、聞き慣れぬ轟音、嗅ぎ慣れぬ異臭、嗚呼この星においてはあそこが肘か、あれが胃か。あそこが舌で、あれが陰部か。それから朦朧たる主観ぬるぬると昇って、布団ごと太陽の裏まで飛んで行ったり、あまりに凡庸で太刀打ちできぬ花畑では、見たことのない優しい人たちからカラオケに行きましょうと誘われる。はぐれて帰る道々、不明なる誰か親しみのある大人物に邂逅し、「今度もあきませんでした」とつぶやくなんぞは、その臨場感は、彼岸に達せざるにあらず、しかし仔細を伝達すること能わず、想起さえ容易ならざること嫌におぞましく、また強く懐かしきかな。
ともかくも死後について余の信ぜざるを得ぬことは、鬼と相撲を取る事実これに尽きた。何の精神的生産性もない科学ごときが流行する以前の、論語読みの論語知らずが蔓延する以前の(もっとも科学それ自体は、おのが恐るべき無知と危険をわきまえておろうが、流行科学はとかく脳味噌至上主義の石頭にして、科学の正体はよくわからんけれども何らか助けてくれるはずという低級宗教にして、卵を見て時夜を求むる山っ気にほかならぬ。)古代から、肉体が死ねば魂も死んで一切が終わりと考えた者は大勢いたのであって、それも結構である。またいかなる死後論も、賢明なる保留も、哀愁あふるる沈黙も、慣習的折り合いも結構である。ただ余は死後に鬼と相撲を取るという絶対的事実、これだけは死守させてもらう。
我が霊魂残りなく消え果てるまで何度でも何度でもくり返し取ってやる。腕がもげようが首がねじれようが黙々と取ってやる。十年後に守田がやって来るまで取り続けてやる。それが余の死後である。そんな死後をした世界に何の未練があろうか。
余の無駄死にを、現代日本の、古今東西全人類の、何かしら善なる切除と成さしめ給え。そうなれば、余が没する瞬間にはどこかで誰かが無意識的にもせよ気づくであろう。ヤッ、あっぱれ……よくやった!…………
死ぬる時にはせめて拍手の一つも欲しいものだ。それなので余はここに、来たる死へ向かって盛大な拍手を送る。――さあ送った。この拍手が時間をまたいで臨終の余につつがなく届くことははっきりしている。何となれば余は幼少の頃、さらに昔のことを思い出していて、ふと気づいた。現在の自分も未来の自分から思い出されておるに相違ないと。それが正しいことはのちに証明された。その瞬間は頭が狂いそうだったが。この時間の跳躍、そこに生存苦の煩悩はなかった。過ぎ去った一切のものはすでに浄化されていた。こういうものがすなわち悠久だ。肉体を超越した仏性だ。
嗚呼前方はまったくの未知である。そこに待ち受ける一切は乗り越えらるるものであろうか。現世は人間何を思うても何をしてもせなんでも時は流れ、死へと必ず運ばれて、独りでに乗り越えらるるものであったが。耐えらるるものであろうか。現世は耐えられなんだが。
決して知ること能わず、いかような準備も前以てできないことといえども、脳の肥大とともに忘れられたそれは、誰もが終始一貫どこかで知悉し続けているものでもあろう。そこのところにお任せするのが一番であろう。
覚悟やら決心やらは自由意志から生成せられるものにあらず、すべては外部との交渉による触発だ、伝染だ、反射だ、自由意志から生ぜしめられぬのならばもう要らぬ。ただぼんやりしたまま行動するのみ、滝壺へざんぶと入って阿呆みたいに滝の中へ立つばかりだ。
そうして知らぬ間に死ぬ。生きているあいだにも一度として何かを確かに認識したことも感受したこともなかったことに気づきさえせなんだこと、これが誤謬を本性とする脳味噌の妙なる勝利にして、脳味噌に勝たせることこそが我らの勝利である。
確かなことは、人類全員がつつがなく死ねて来たということで、これからの現代人も未来人も全員つつがなく死ねること、これだけが絶対の救いである。人間は最初からかくも愛され、祝福されていたのであった。人間が死ねない時代が来るなら、愛すべき人たちよ、時の用には鼻をも削がんけりゃならぬ、それまでに死を急げかし。
さるアテナイの哲人は『正しく哲学するということは、平然と死ぬ練習をするということだ』と宣い、さる唐土の哲人は『知ハ行ノ初メニシテ行ハ知ノ成ルナリ、知ツテ行ハザルハ未ダコレ知ラザルナリ』と宣い、さる天竺の哲人は『導かれ終えた教えは捨てるべし』と宣うた。死の練習→実践→解釈不要。――世界中から流れ着いた諸断片をかき集めて組み合わせて完成せしめてこそおおやまとのくにたみぞ!
現代の仏たる唯物論は『生きている限り死は来ず、来た時には自分はもはや存在しないのだから、死を恐れる必要はない』と宣い、現代の神たる無神論は『けっきょく人間は形而上学的の妄想を起こす生物なのだ』と宣い、現代の梵天たる機械論は『もし不滅の霊魂があるならば、人を斬っても刀が細胞と細胞のあいだを通過したに過ぎず、殺したことにはならない』と宣うた。恐るるに足らず→根本的の誤謬→どちらに転んでも同じ。――軽率な言の葉から言霊を沈黙へ匿い、虚無と逆説を以てのみ言挙げしてこそおおやまとのくにたみぞ!
やればいいのだ。行動自体は単純だ。理想的にできようができなかろうがやれば終わる。終われば即座に上首尾だ。無上の出来栄えだ。(もし完全に理想的で有意義な死のかたちがあるならば、どこかにあるがよろしい!)真を捨てた行動の残像にのみ真は現る。善を捨てた行動の残像にのみ善は現る。美を捨てた行動の残像にのみ美は現る。然り! もともとわかり切っていたけれど、ようやくわかり切り切った!
人生に対する満足はゆめゆめ年を重ねるにつれて増してゆくものにあらず、その死に目のタイミングが、ちょうど認識や感慨の波の高低深浅のどこに当たるかによる。あるいは他者にとって、あまり早過ぎても遅過ぎても困る、早い話が、人間一人分の義務を果たしたか否か、物質的の功績にせよ精神的の遺産にせよ、受け取った分より多く払えば吉、足らねば凶、それがすなわち人生に対する主観的の満足だ。波と他者。余はこの二つの要素のどちらにおいてもおよそ人間が到達し得る最上の満足を約束せらるる者である。
分別過ぐれば愚に返るとやら、もはや死を美化・軽量化する必要は去った。奉祀は、本番ではないと、そう悟るよりほかにはもうない。やり尽くした予行演習をまた一度するのだ。それが最後になろうが予行演習である。本番であったとしたって何であるか、この世がそもそも本番などではないのに。人間、誰も本人などではないのに。行為さえ正確にやり遂げられれば何を思おうが同じだ。行為のうちの心の持ちようなぞ行動の邪魔にしかならぬ。人間の思考は必ず間違う。根本的な掛け違いがある。思考と行動の一致など神仏にしかできぬ。それを知り、否が応でも天命に従うことのほかに知恵は成立し得ぬ。
気づけば酒は二升に達せり。珍しく、どこにも溜まらぬよい酒であった。
嗚呼、何がと言うわけでもないけれど、来て見ればさほどでもなし富士の山。今、外から助けに現れる誰か、何か大いなるものからの守護救済を余はきっぱりと断ることができる。
この自由、あな嬉しや、春宵一刻の夢心地。管を以て天を窺いたる世間善意、木仏金仏石仏なる世間善意、朝令暮改なる世間善意、角を矯めて牛を殺す世間善意……それらを余は今、断った。すなわち自由の強要からの解放である。善意の侵略からの独立である。不幸になる権利だ。死ぬ権利だ。泥中の蓮のかぐわしきかな、最大に誇張して言えば、地獄に堕ちる権利だ。せっかく魂を得たのだから地獄に堕ちるも自由じゃないか。その先にこそ余の自由がある、むべなるかな、自由は地獄にしかない。その程度のものでしかない。
ひょんなはずみでたちまち死を望む生存本能の皮肉と、その混乱した構造のために結果的には死を邪魔立てする破滅願望の皮肉とが人間の不完全さだ。不完全である以上は罪も恥もない。徳も栄誉もない。あるのは極めて確かな幻影のみ。それが完全なる人間なり。
ただ行為すれば間違いはない。他人事の行為を。そもそも言葉に寄生せられ、培養せられた自我に憑依せられた猿たる人間においては、一身上に向かえば向かうほど問題は他人事だ。誰しもそうだ。遂に人事は尽くせり、あとは天命を待つのみなり、こんなに恵まれた生存がかつてあったであろうか!
久方ぶりの過呼吸発作、前後不覚の阿鼻地獄、しかしそんなこの上なき生き甲斐もせいぜい小一時間も経てば沈静している、その後の泰平元年のおだやかさはどうであろうと思うておる間にふたたび手足は氷のごとし、嗚呼怖い怖い、しかし余はおのが感情なんぞもうどうでもいいのだ。おのれが醜悪な心の持ち主であったと判明したから。おのれへの愛着がどこを探しても見当たらないから。いかさまこれこそは無上の幸福であった。
醜悪でないもの、美しいものはみんな余のものではなかったから。最初から判然していたことには一生かかってもたどり着けぬらしいから。何を悟っても、悟らなんでも、我らの中の人間が肌で知っていることを為さしめられるまでだから。
なまじかき回すによっていっそう汚泥を巻き上げ、なまじ明らめるによっていっそう乱視を極める五濁悪世の現代に、まったく余だけが自由だ。自由なんぞ最初から求めていなかったことをこれほど明確に認識したことはかつてなかった。面壁九年々々々々と、塩辛食おうとて水飲みまくり、下手の長談義を以て竹やぶに矢を射る独り相撲の大徒労、今ここに花々しきエビタイとなりけり。
しかしそれももうよい。ただ脳の疲労が欲しかったのであって、それは果たされたといえども、果たされたからにはうんざりとクタクタである。これが一切考えずに座っていても、あるいは同じような安らぎへと到達したかもしれぬ。もしくはもっと上等の安らぎに。
自ら強いて何をせずとも待てば海路の日和あり、冬来たりなば春遠からじの天道で以て自然と達していたやもしれぬ。そうであれば可笑しいものだ朗笑々々。
いい加減でやめずんば百日の説法屁一つ、九仞の功を一簣に欠く。断乎納得せざる我が心よ、我は心なりの大自尊を堅持せられよ。お前もまた皮肉なものだ。死ぬるの問題は、お前の望むように、回避し、忘却し、禁忌と成して捨て置いたほうが、かえって内奥に肥大せしめ、太刀打ちし得ないすがたに育て上げ、いざ踏ん切る瞬間の爆発力をば激増せしむるまったき逆さ訓練であったのかもしれぬ。余はそれをこそ為さんとして……。
そんな皮肉をぶら提げたる我が心よ。お互いの本質的悲哀をば少しくかこち合いて、どうかここらでひとつ、ひらにひらに。
生まれて初めて見るほど雪が降った。空を一気に固体化したかのようだった。有史以来最大の大雪なのに違いなかった。
もしかしたら滝壺へ行けないかもしれぬほどであった。滝も凍るやもしれぬと思われた。
しかし余は、この雪を最後の誘惑と看破して激しく叱りつけた。
たとい列島が雪に閉ざされ、甚大なる重みにそのまま海底へ沈んでも、余は滝壺へ行く。そして丸太を受ける。たとい滝が凍るにしても、せめて余が丸太と同体同心となった瞬間にしてもらいたい――そう念じていると、雪はみるみるやみ始めた。余の心と外界の現象は統合せられた。もはや二つは異なるものではなく、どちらが先もどちらが母体もなかった。
しょせんもとより重量のない粉雪であった。須弥山のごとく積もろうが、ちょっとした風にどこへでも舞い飛び、ちょっとした陽射しに跡形もなく消え去る、どれほど迫力を持とうが、おのおのに大なる主観・歴史があろうが、しょせんは息の短い、個我を喪失した群衆であった。彼らが余の死にざまに眉をひそめるのも今だけだ。明日には礼賛するやもしれず、明後日以降のことを考えれば、もはやどうでもいいような、それは粉雪であった。
きれいさっぱり溶けてなくなったあとには洗われた風物が澄み渡っていた。
次ぐ春の花は知らねどわが鼻は
久遠の野辺の香をかぎにけり 古家現世守蛸骨
いったいどのような由縁があるものかわからない、しょせん何かそういうイメージの猿真似のツギハギなのであろう白装束に身を包み、滝へ向かって神仏魑魅魍魎彫り散らされた丸太の乗った山車を引く老若男女の行列の先頭を、磐井と並んで歩く。先祖代々悉皆成仏願うて念仏三遍。一切衆生悉皆成仏願うて題目三唱。
我が肉体の認知機能の手強きこと生半可にあらず、いかに気をまぎらしても、「これは予行演習なり、気負うべからず」と断っても、「死後の不明なる上は恐怖も嘘ぞ」と道理を説いても、常にぱっちり目を開き、「これは死出の行軍なり、この道は鬼門なり」と喚き立てる騒々しさ、まるで遺伝子において死後を覚えていて、正当におののいてでもおるかのように勘ぐられるも気のせい気のせい、どこまで行っても胡蝶の夢だ、真偽は常に藪の中だ、気に病む暇があったら最後っ屁を手伝えかし、ほれ煩悩即菩提・生死即涅槃、一足ごとに六根清浄々々々々、思考から強引に徹却せられている理性の叫び声に一歩々々が恐ろしき踏み絵の心地なれど、それだってもうじき終わる、ほれ六根清浄々々々々。
おのが肉体の憎かったことよ。先方が気絶すると決めた時は、余が意識のいかな踏ん張りもぶっちぎって軽々ともぎ取ってゆくけれど、神経発作に妄想発作に、事故をよそおいて死なんと願っての激しき自暴自棄のアレコレに、医者へ行かなかったにつきいまだ原因不明の吐血下血に、いかに苦しもうが魂の七転八倒を肉体は嘲笑って気絶の「き」の字もなかった。肉体とはそういうにっくき仇であった。けれどもそれが今はほかほかと小便をちびりながらも、とにかくこう歩いてゆくところは頼もしきかな。知っておって歩くのだから、知らぬふりする余よりも勇ましきかな。
歩きながら余と磐井はつまらぬしりとり遊びをしていた。まったくただそれだけの会話であった。すぐ後ろで耕川和尚が何やら唱えているけれど、南無何と言っているのかとうとう最後までわからなんだ。両親はおるかと探せば、神妙にしているので気づかなんだがぞんがい近く、何だか非常に小さく見える父と巨漢の母が並んで歩いていた。そのまま見渡せば、しみじみと驚かさるるは誰も彼もすでに腑抜け骨抜きと思うていたのにやればできるの大和魂、村民たちの厳粛なる面構えの雄々しきこと、粛々たる行進の凛々しきこと、我が国の未来もそれほど闇にはあらじ。
美土里は行列の中ほどにいた。目が合うと、かすかにぴょんと跳ね、嬉しそうに手を振りながら、心の声にオーイたっくん、がんばれェ。――悠久の旅路の松明たる残像はこの美土里で終えたかったが、飛び入りを目論んだイキハジが取り押さえられておる騒動によんどころなく目の移る。網膜は穢されたけれど、しかし奴もやるもんじゃ、今回は駄目だったが、何としてでも方法を見つけて遅ればせにも供物と散れ。
守田や咲枝はどこにおろうか。見えないけれども確かにいるようだ。肌に感じる。因幡さんもいるし、矍鑠たるままの離住もおるわ。余に連なってぞろぞろと、身も知らぬ供物累代が歩いておるわ。いやはや――結構毛だらけ猫灰だらけ。時は来にけり佐渡ヶ島。同じ阿呆なら踊らぬもよし。南無金輪際末毘羅経……。守田よ、しかと見ておれよ。そして咲枝はゆめゆめ見るな。
瞬時に痛覚も飛ぶほど冷たい滝壺にざぶざぶ入りながら思われた。郷を出て行った連中なんぞ、みんな成仏もできぬ、自己も持たれぬ、くたばったところで土にも返れぬ、先祖代々の輪にも入れてもらわれぬ、そんな粉雪どもがこれから未来を滅ぼして行くに際して、おのおの悲痛なる、あたかも感情に似た錯覚だって起こるか知らんが、誰も彼もが自業自得じゃ、せいぜい正義やら真実やら自己実現やらを謳歌してくれたらよい。それらの正体なんぞゆめゆめ考究してくれるな。仕舞いまで賢明のままでおれかし。
くれぐれも余の冥土には昇って来るな。ほかの地獄へ行けかし。
もうよく見えないけれど、多くの人が来てくれたものである。やいやい言うてすまなんだ。ここにいるのが全人類だ。大いなる過渡期を潜り抜けて生き残った全人類だ。もはや八十億だとか早晩百億だとかと聞いていたけれど、まあたいそう少なくなったものだな。しかしこうまで減ることができて、本当によかったではないか。
よく見えないけれど、きっと涙を流しているのだろう、小さく手を振るらしい雉子がいた。その隣で旦那は集まった人々の表情や仕草を抜かりなく観察しているはずである。何でもやってくれればよろしい。せめてうまく書いてくれろ。余には認識できなんだ郷の実相を暴いてくれろ。そして如何ともしがたく堕落する前にいっそ消し去ってくれろ。
しかし嗚呼こうも激しく重い冷水に殴られていては、頭なんぞ首に立てておくので精一杯、物を考えるゆとりもない。痺れてしまって自然と心頭滅却せしめられ、おのずと明鏡止水なり。絶え間なく殴打を受け続けて、耳なんぞちぎれて落っこちとるのではないか、あの丸太の垂直に相成る瞬間の音も、あるいは聞こえぬかもしれぬ。
もういつ落ちて来たっておかしくない――明日の天気はどうかしら。晴れていたら、磐井と貯水池の大正三色を見に行くか。釣り上げてやろうかしら。みんなで食うもよし、魚拓を取って埋めるもよし。埋めりゃ地震など鎮めてくれるやもしれぬ。
余もまだまだ若いのだから、少し養生すれば諸々の不具合も治るだろう。美土里と所帯を持って、廃用水路からニホンイシガメを引き取って、それから鍬を持たんけりゃならぬ。雉子が嫁いでしもうて一人息子だもの。父ももう年だし、石に布団は着せられぬ、生きておるうちに幾らかでも安心させてやらんけりゃならぬもの。
せっかく生まれて来たのだもの、何としてでも生きんけりゃならぬ。ここに最後の予行演習を完了したら、心を入れ替えて新規まき直しだ、この灼熱はそのための窯だったのだ、余は充分に焼き上げた! 嗚呼嬉しきかな! 嗚呼ありがたきかな!
――……こんなに頭を叩かれて、供物はつらいものである。すっかり凍えて、もう何も感じぬ。全身麻酔だ。最期の激突も、こうなればやわらかで優しいかもしれぬと、拍子抜けなくらい淡々とした他人的のおつむりがだらだら考えておる声にぼんやり耳を傾けているところへ、この世の音をぜんぶ集めたようなやかましさの中、それは非常にくっきりと独立して、どこかでゴリリと鳴っていた。
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