小学校も中学校も、どちらもまあよろしかった。いわゆる「○○君とは遊んではいけませんよ」の、おそらく頂点に位置してはいたろうけれど。
中退した高校も非常によろしかった。よろしかったが、液体窒素で何度焼いても治らなかったイボが中退して半月も経たず嘘のように消滅した。体罰ありますと入学案内に明記された私立の男子校であった。ここの中退は中卒よりアホな高校であった。
私が受けた体罰は軽いものだったけれども、職員室じゅう引きずり回された時の教師の、例の「何やその目は」。その時私が考えていたのは、「逆の立場だったら俺はこんなことはしない」というものであった。そらシメられるものだった。
ドロップアウトの原因はただサボり過ぎて自ら転げ落ちたのに過ぎなかったけれど、恩師のなかったことももう自分のせいだ。楽しかった思い出だけ靴の裏にでも飾っておく。
さて庄原の車から中学の校舎が見える。懐かしいが、この時分の何らか作品だの記録だの残っているのならことごとく消えてなくなって欲しい。痴態の時代でしかない。ここでじっと自己表現を隠し通した輩がのちの勝者だ。ここの勝敗が死ぬまでにはひっくり返ることだけを願う。
卒業して五年ほど経った頃だったか、友人たちと訪ねたことがあった。その時でもかなり先生は異動していた。
それで今、とうに異動になっているある先生が、我々の洞窟へ訪ねて来たのであった。
皿村先生といった。あの時分からベテランに属し、なおかつ情熱家であった記憶がある。
教師への侮蔑は至るところで耳に入る。在学中これを覆す事件もとくに起こらなかった。漠然とにもせよ、どういうイメージであったろう。今の教育制度は日本の急ぎ過ぎた近代化の失敗例としてある――積極的な教師はほぼ左傾化している――第一次産業を廃れさせる――歴史を教わるによって記憶喪失となり、国語を教わるによって外国人となる――学力テストの競争に負ければ善人であろうが苦労人であろうが未来は閉ざされる――いざ社会に出る頃には疲れ果てている――学校の勉強がゆいいつ役に立つ職業は教師だけである――……等々の、こういう思惟傾向はしかしほかでもない学校教育の賜物である――云々。
かくて我々は最初から過去に対する優越感を植えつけられ、それが破綻しても傷つくことなく自嘲もできる、そんな態度を離れるべき必要もすんなり承知し得、甘い自虐はすべてを緩慢に許し続ける。
――だいたいそれら一切の責任をなすりつけらるべき人種の代表格が、訪ねて来たのであった。
しかしいざ肉体を以て眼前に現れ、面と向かって話しかけられると、我らがどうしようもなさの、どうしようもない病巣を一つずつでも、どうにかこうにか治してゆこうとむなしくも奮戦する皿村先生であると、そう映ずるのであった。
先生はリビングまで上がって来て、とつぜんの来訪を詫び、しかし教師と生徒の関係に今一度戻って欲しいと頭を下げ、それからひたぶるに自立の必要を我々へ説いた。
未来に対する失望――老人たちの孤独死、ローン地獄、過労死、リストラ、熟年離婚、いや数え上げればキリもない、そうしたものは確かに悲惨やが、いきなりそこへの憂慮に跳ぶな。直面してから悩め。じっさいはせえへんかもしれへんのやからな。可能性としてならことごとく直面し得るが、それは妄想や。妄想、上等や。してもええ。せやけど自立してからせえ。自立、経済的自立と精神的自立を分けてもええ、しかしそれは経済的自立を成してからにせえ。
我々は先生の小さな車で県道沿いのハローワークへ連れて行かれた。事の展開の速度に気づいている暇もなかった。
先生は駐車場に車を停めて、エンジンを切ると、言った。
「今日は中に入らんでええ。次に来るのもいつでもええ。一年後でもええ。でもここは、自立しとる未来への入り口や。通信教育受けるなり、重機の免許取るなり、地方に移住するなり、ほかに何ぼでもあるやろ。俺の知らん方法が何ぼでもあるやろ。でも『ここだけや』と、いったん思てみろ。入ったらあとは何とかしてくれる。聞いたら教えてくれるし、相談にも乗ってくれる。一緒に考えてくれる。そうやって動き出したら、すべてが明るいほうへ一気に動く。通信教育も、何ぞの免許も、今考えとるより遥かに身近になる。よくよく考えんでもええ。頭の片隅に置いとけ。突破口の場所はここや。ここやぞ」
我々は職安の建物を上目づかいにちらちら見ながらうつむいていた。先生の熱量に温まらぬ我々は変温動物ですらなかった。プリザーブドフラワーのごとき童心がガラスケースの中で手を差し出し叫び声をあげているのは先生には聞こえないし、聞かれるわけにはいかなかった。我々が自分で聞かねばならないのだった。
先生はたぶん実年齢以上に年寄りのにおいを発していた。気にもせずに、どんどん発し続けながら、一人々々の目を見つめて言った。負けたらあかん。逃げたらあかん。闘え。闘わんかったら、卑怯者や悪党たちに食われる。
闘わんかったら、愛すべき人たちを、お前たちが食いつぶしてしまう。
死んでもええと言うんやろ。踏んづけられても物乞いしても生きていたい人たちを笑えるんやろ。そんな自分自身のことも笑ろとんのやろ。
かまわん。でもせめて、冥途の土産をもっと持て。あの世があったらどうする。考えてもみい。もしあったらどうする。なかったらどう生きてもとんとんや。でも、あった場合のこと考えてみい。今のままやと、土産話があんまり少ないやないか……。
それからラーメンを食べさせてくれた。どこかの学校で、今もテニス部の顧問なのだろうか。試合でがんばった教え子たちにもこうしてごちそうしているのだろうか。その同じものを食べる資格が私たちの誰にあると言うのか。
好きなもん頼め、いくらでもおかわりしろ。でもビールは今度や、それはめでたい時やと言いながら、ご自身は醬油ラーメンとおにぎりを頼み、おいしそうに食べていた。
元通り一緒くたに私の家へ送ってくれて、帰って行った。
先生は誰から我々のことを聞いたのであろう。何となく、我々の親からではない気がした。
先生はまた来るだろう。忙しい身の上に鞭打って。無償で。純粋の心で。
我々が先生からいただくのは、押しつけがましいかどうかなぞ軽く吹っ飛ぶ、遠慮のない、大木のような慈悲だろう。
先生の慈悲は自費だ。こんな諧謔に遊ぶ気にもなれぬ。
曇天が割れて陽が射すようだった。外からこじ開けてもらった。監禁された子どもたちに嘘を教え続けていた悪い老人が、一瞬で灰になってしまった。
我々は急いで準備をし始めた。
冷蔵庫をカラにし、ガスの元栓を閉め、一切のコンセントを抜き、メダカを貯水池に放ち、いらぬもの・捨てるべきものを捨て、預金を引き出し、すべての中途な仕事を忘れて、庄原のワンボックスカーに乗り込んだ。
午前三時。二度と戻らぬ心であった。
底抜けにうつろな旅の空を見上げて、みんなで左右のスライドドアから足を投げ出して座っている。
最前まで野原に寝転んでいたのだが、次第々々に空に落ちるという恐怖であった。檻を外されたほうが籠の鳥であった。これだけはこうもハッキリ認識してはならなかったことだった。
海に行っても水槽の魚で、水平線の水平も傾き、貝など集めてまぎらわしても、常時非常な力みが強いられた。
波の引くたびにミユビシギが駆け寄ってついばんでは寄せる波から逃げるのをくり返すさまなど眺めて、愛らしさや軽やかさが現実に降りて来ても、夢の中よりおぼろだった。やがてミユビシギは永遠のひもじさや忙しさの象徴に変わって行った。
とりわけ選りすぐって拾った貝の色や光沢も、海水に濡れているあいだだけのことで、すぐに乾いて汚くなった。
引き潮にちらほら現れた小石へ西日の影が長く引かれて、小石らが夕陽の沈むさまを眺めているように見えた。(彼らが星を眺める頃にはふたたび満ちて溺れてしまうだろう。)かと思えば小石らは引いたばかりの海側へ向けて砂に窪みの線をも引いていて、海から這い出て来たようにも見えた。夕陽を見ているほうと海から這い出て来たほうと、どちらが世間でどちらが我々であろうか。千鳥の足跡のかわゆさも浄化してくれないけれど、別にそこまで濁ってもいなかった。
漫然と歩くうちにやがて砂浜は打ち上げられたイカのフネだらけで、おお食われとる食われとると言いながらゆく。ふと眼鏡が落ちていて、おお食われとる食われとる。
――財布にはまだ診察券があった。かかりつけだった心療内科まで行って、多めに薬を出してもらい、みんなで分けて飲めばよかろうか。一種類を大量に飲めば体が拒否反応を起こして吐き出さんとし、生殺しの胃洗浄でもされるのだろうが、ちょいと組み合わせるだけで少量でもイチコロに効くはずであるが。
実家に行けば相当量の備蓄はあるけれど、母の退職金を丸呑みしてなおカツカツのローンなマンションだ。ローン返済において、手術・入院によって想定外の出費が嵩み、退職後の再任用の予定も狂った母だ。その上で私のこのたびの愚行を許したのは、いけしゃあしゃあと汲もうものなら天罰が下るような心情だ。どのツラ下げてという面目の私だ。
きちんと勤めて月々家にお金を入れ始めなければ手放すほかない未来が、もはや一、二年内に迫ってしまったマンションだ。まず公共交通機関に乗れるようになるまで、全力で養生し、認知行動療法に励み、働かねばならなかった私だ。
今さらできるはずもなく、しかし死ぬにしても浴室なんぞで死ねば不動産価値が下がるかもしれないから外で死ぬしかなかった息子だ。それがために事故物件へ飛びついた私だ。
昔日に子どもを産んだ器官をあるいは癌にしてでも投げ捨てた母だ。かくておのれが存在した原因が物質的にも精神的にも消滅し、その消滅にストレッサーとしていくらか荷担していながらのうのうと存在し続けている私だ。
銀行の担当者からは、息子さんは勤労の意思はないのですかと言われている私だ。二十代全部を、自分と母(と途中までは姉)しか食わないメシを作り、その皿や鍋やフライパンを洗ってばかりいた私だ。買ってもらった食材で。払ってもらった水道代で。
電車に乗れなくなったという事実は措いて、高校は卒業しときなさいとだけ言った大人たちだ。まあ信じていなかったのだろう。話半分で聞いていたのだろう。今となっては、苦笑するばかりの大人たちだ。言わんこっちゃない。困ったもんだなで終わりだ。
福祉支援の方々は、対人訓練や早寝早起きや感情コントロールのトレーニングを勧められたけれどもそういうことではない、一日中倉庫で段ボールを運び続けるから、倉庫の屋根裏に住まわせてくれ、時給四百円でいいから発作のたびに抜けさせてくれ、出勤しなくていい仕事を紹介してくれと願うのだけれどもそんなものはないのであった。
ハローワーク――行ったことはあるのである。――の職員さんは、同じような人が来ました、その人も自転車で来ました、その人は製図ができたので、就職しましたと言っていた。そしてギリギリ徒歩圏内の大きな工場の夜警があると提案してくれて一瞬世界が明るむも、グズグズしているうちに求人はなくなっていて胸をなで下ろした私だ。
母方の祖父が、やっぱりいわゆるぶらぶら病であったらしいが、近所の学校の夜警をしていたそうな。昔は就職にせよ結婚にせよ世話を焼くオバサンやジジイが町内にいたものを。そして仕事ものんびりしていたろうものを。写真を見たが笠智衆のような端正な祖父であった。三分の一ほど端正を受け継ぎ、ぶらぶら病を倍から受け継いだ私だ。
調べるほど、調べようがなく、現職や前職や学歴や資格や免許や、記入し得る記入欄すらなかった私だ。いわゆる社会不適合者たちに差し伸べられているものを調べるほど、何だか健常者向けの話のようだなと思うばかりで、思い切って問い合わせれば、しばらく叱咤されたのち、あれ?……スミマセンうちではありませんよと片づけられる人種だ。
公費で養うくらいなら働いて欲しいけれども、こいつらに合わせた働き場所を作るのも金がかかるし、見ないふりしているあいだに死んでくれたらありがたいなと本音では思われている私たちだ。
こちらからすれば、滅多に自覚症状を話さずに来たせいでいざという時に信じてもらえないのは自業自得だが、意を決して話す時には、要領を得ない釈然としない顔をされるから、理解してもらえるように努め、早く終わって欲しそうだから、早口になるわけなのが、あちらからすれば多弁・興奮・妄想等と片づけられる私たちだ。
入院さしてしまえば、やがて程よく太って赤い頬してニコニコして出て来るだろう私たちだ。そして社会復帰した時、幽冥界では「どうした、人口が一つ減ったが?」「ああ一人治療が済んだんだよ」「なるほど。じゃあ何せ……周囲にとってはメデタイことだな」。
――云々と、そんなことを考えていて、私は今どんな顔だったろうと思い、周囲を見回せば、私のみならずみんな、嗚呼そんな顔だったかという顔だった。我々の気分に呼応するかのように、ぐんと気温が下がり、風が強まって、海が荒れていた。それでも一羽の鵜が漁を続けていた。いつか真冬の日本海でも見たことがある。もっと寒く、もっと荒れていたのにもっといた。あのようになりたい。あのように生きて行けたらよかった。
波の寄せたり引いたりは自律神経を安定させるとか聞くけれど、波自体が極めて不規則になったり、滅茶苦茶に早くなったりと、遠からず世界が終わる時には海も不整脈や過呼吸を呈するであろうか。
貝を並べて文字にしたり、大小のカニの死骸を向かい合わせて、小さいほうを兄貴分のことにしたりしていた。寒風による肉体的ストレスもあろう、耐え切れなくなり、ふたたび車へ引き返して、後部の広い空間で、手など握り合っていた。
社会学者の高みから見れば、神経症も数に過ぎず、しばしば神経症者から文化の創造者が出て来たことは明白だとか何とか達観者が述べよるが、涙が出るほどうれしい言葉だ。
けれども個性の礼讃や、信仰の衰退や、思考の自由化が自殺率を上げるという現象は、我々とは無縁だ。神経症が増えるのに貢献したすべての現象は無縁だ。ごく最近無縁になった。たった今無縁になった。
古典文芸に登場する、狂気によって真理を語る人々はどこへ行った。いなくなったのは真理のほうか。
我々は一切の花々しいものから離れた、のちにかたちを残さぬ無名氏たちの感情が人類史の余白におびただしく積もっているようなところをうろつく。その中でも風下の日陰な掃き溜めの中を這い回る。時空を超えた拡張的な自覚だ、しかし何を創造するでもない。求めずして授けられるものをただ押しつけられるばかりである。
のろのろと南へ向かって進んだ。どこにも到着してはならない旅だった。
コンビニとスーパーで摂食と排泄をまかなうのが外出の精いっぱいで、すぐさま車に逃げ帰り、窓を恐れながらじっと座って、神経の不調に小さな身じろぎばかりしていた。
川野さんと貴崎さんは非常に分厚い原稿を持って来ていたが、もはや朗読はしなかった。霊界ではもう作家やからどうでもいい。そう言った。
原稿は小説のアイデアの、極めて膨大な羅列だった。『穀象虫のメモ ~ 三千の吸い殻』という題がつけられていた。短編も中編も長編も、大長編と呼び得るものもあったそうだ。しかしそれらはなまじ完成させてしまったせいで暗く閉じてしまったし、私怨もあふれてイタいんで、ぜんぶ捨てて来た。それらのエッセンスがここな『三千の吸い殻』に入っているわけでもまたない、作品に使用したものはここ(三千の吸い殻)からは出来得るだけ削ぎ取った。
「でもええねん、何ていうか、天に向けて書いとったんやし」
「確かに文字にして書いたんやし」
「今となっては捨てても一緒や」
「不格好な肉体を脱ぎ捨てられて、かえって清々してはるわ」
「こんな人間、これまでにも山ほどおったに違いないし」
「いずれ誰かが受信して書きよるわ。あんがい、一言一句おんなじ話を」……
半田はスケッチブックを持って来ていた。何冊かまとめてガムテープでぐるぐる巻きにしてあって、見せてくれと言う気もハナから起こり得ない。それを大事そうに抱えていた。
お金は一つにまとめられて饅頭か何かの入れ物だった桐箱に入っていた。
旅館やホテルに泊まることもできなかった。頭が痙攣し詰めたように固まり、記帳ができないのだった。代わってもらおうとしても、みんな嫌がった。途中でやめて、さぞかし怪しまれたろうが。しかし異様な挙動で無理に泊まって、警察など呼ばれるのも恐ろしかった。
南国へ向かっているということになっていたけれど、車はそう進んでいなかった。停められそうなところがあるたびほとんど必ず停めた。
渋滞だけは避けねばならなかった。信号待ちだけでも我々の神経は限界ギリギリだった。極端に右折をしなかった。
車で眠り、車で食べた。みんな妙に頻尿・渋り腹で、公衆便所もコンビニもなければ、茂みだとか、とにかく死角になっているところ、時には男も女も仕方がなかった。
後部の窓はスモークフィルムが貼ってあるけれど、完全に見えなくするには運転席との境にカーテンを引くなり何なり、しかし職務質問のたぐいを恐れて遂にできなんだ。
どこでも停まったけれど、風光明媚なところに差しかかるたび、尋常の人でも停まるであろうところに停まるたび、おろうはずもない玲衣子さんがいやしないかと探した。
そして皿村先生の追跡を恐れた。
電源を切りっぱなしにしていたケータイを「せえの」で突堤から海へ投げ捨てんとして、全員が最後の手を離せなかった。独り裏切るつもりは毛頭なくて、誰か一人でも投げていたら急いで続いたろう。けれどみんなそこまでマトモに対峙し得ているわけですらなかった。ケータイの代わりに投げ捨てられたものは、あるに違いなかった。かくて煩悩に滅却された我々はしかしその後も悲しく、虚しく、煩わしくて寒かった。
捨てて来た家の、最後の戸締まりをするに際して、やっぱりいたんだな、なんて言いたかった幽霊も、遂にすがたを見せなんだ。しかし一度は想像してしまったのであって、輪郭なき残像のようなものだけ脳裏にある。幽霊の幽霊とでも呼ばるべきものが。
家の鍵をある山の中に埋めたが、これは引き返して掘り出した。せいぜい数十分だったけれど、埋めたその場所にそのままある鍵は嘘くさかった。あたかも何ものかの視線を浴びていた。
半田が軽い妄想の発作に見舞われた。スライドドアの向きが反対になっているから、車がすり替えられている、もう包囲されていると言って、見つかっても凶器とは思われないもので以て武器になり得るものを持っておかなければならないと主張し、石を拾ってみんなに配った。
やがて鎮まった。その後は、今のような強い妄想は脳を委縮させるのだと、強く心配し始めた。脳の萎縮の進行を食い止めようと、あの手この手を尽くしていた。ハタから見る分には、ただじっと座っていた。貴崎さんがその肩を抱いても、目を閉じてうなずくだけだった。それからいかに脳の萎縮が即座の危険ではないかを、半田はしゃべり出した。過度に緊張し消耗し切ったにおいを発しながらしゃべり続けた。油のような汗をかいている手を貴崎さんは何度も握り直した。
パートナーを選ぶ自由のない網の中のつがいだった。子ども同士、手をつなぐことだけが許されていた。そうやってぎりぎり何ものかからの非難と処罰を免れていた。
ダイオウイカからはあれから一度の連絡もなかった。私の人生から音もなく去った。あるいは今頃死んでいるかもしれなかった。
私は川野さんを見ないようにしていた。庄原はどのような心からか、川野さんとのあいだに強いて私を挿んだ。私は川野さんの視線を浴びていた。その視線はしかし貫通しているのかもしれなかった。
かつての入院生活で私は、たかだか数週間の寝たきりによって、ただ座るだけで脳貧血を起こしたり、たかだか数週間伸ばしたままだった足を直角に曲げるだけで、関節技にギブアップする屈強な格闘家の主観を体験したり、人間がごく短い悪生活で驚くほど衰廃する肉体であることを、身を以て知った。
今度の逃走の旅は我々をどこまで脆弱にしてくれるであろう。人々がふと帽子を押さえるくらいな風に天界まで吹き飛ばされるほどまで軽くしてくれることを望む。そこまで行くことを祈る。
蘇生めいたことが起こる期待はなかった。二十代の初期まだ薬を飲まぬ頃、神経不安と外出恐怖の極点でショック療法の概念にとり憑かれ、淡路島をママチャリで以て独り一周した。零泊三日。地獄であった。今くわしく思い出す体力はない。空腹と寝不足と躁と過労、幻聴と幻視、化け物、錯乱、云々。それからずいぶん悪化した。
数年後ふたたびショック療法を為さんと、明石から下関まで歩いて行く計画で出発し、これも今くわしく思い出す体力はないが、この失敗から心臓不調が顕著になり、もう自発的のショック療法に挑む気骨は失せた。
どちらもあるいは大した経験でもないけれども、我流のショック療法という魔物を、徹底的に自ら食われることによって遂に毒殺したのだと、言えば言えるであろうか。
ともあれ今、このたびの逃走に、蘇生の期待だけはなかった。
逃走の旅を続けるためには、逃走の旅ではないことにしなければならなかった。それで我々は何か明確な目的を探した。
以前我々のあいだに虫のように湧いたいくつもの相談は、実行不能という前提があって初めて自由に湧き得ていたものだった。さんざんもてあそばれたのち、虚空へと吹き散らされて行くものだった。
その遥かな風下から、地球を一周して帰って来るものを遂に見つけた。勇気を出して年賀状を送ったかつての川野さんは、まあ勇気というよりか非現実的陶酔だったそうなが、数年後にこうなるなどとは思ってもいなかった。もっと遥かに願わしい、現実には起こり得ないものを夢見たまでのことだった。
かくして我々は、あるマンションに住んでいる、小学生時分のクラスメイトのもとを訪ねたのである。
土橋さんといった。彼女は中学受験をしてすがたを消した、高学歴の人にして、もう当時その瞬間から年上のような、既に世の中の運営に加わっているかのような印象だったけれども、中三くらいだったろうか、登校拒否になっているらしいと聞いた。もう既に一年くらい前からずっと家に閉じこもっているらしいと。
確かな目撃情報のないまま中学時代は過ぎた。その後引っ越したとか何とかで、私には終始ようとして知れなかったが、このマンションに流れ着き、人知れず時に経たれていたのであった。
何だかたいへん細かったように覚えていたが、今もやっぱり細かった。そして一種の美人も感じた。貴崎さんを今のようにしたものと根を同じゅうする力が彼女をもこのようにしたか。元凶の人物がいるなら、今頃どこでどう過ごしているのであろう。まっとうな社会人であることは間違いなかった。
土橋さんの住所を字から復元し、現実の場所として探し当てた時、我々は激しい消耗の中、とにかく行為せんがため如何ともしがたくボンヤリした。せえので一斉にボンヤリした。そうして突撃し、土橋さんと会っているあいだのことは、気づけば済んだことだった。
土橋さんは日記をくれた。段ボールに隙間なく詰め込まれた大学ノートへみっちり書き込まれた膨大な日記であった。
自分じゃ捨てられんし、捨てられん限り逃れられんからと言って聞かなかった。私たちに渡すことで自分が存在していた証拠を外部へ残すような意図があったろうか。わからない。そうしてもう訪ねてくれるなと言った。とても太刀打ちできなかった。
我々は食料を買い込んで、近くに公衆便所のある海沿いの空き地に停めて腰を据えた。それ以上南へ進むわけにもそろそろ行かない、ここらが世界の果てであった。
日記を川野さんと貴崎さんが一緒に黙読していた。そこに書かれているのは我々の来世であるか前世であるか。今しも並走する別の現世であるか。夢であればどちらが現実か。
我々の、それぞれの将来であるか。如何ともしがたく解散して、その後の様子はようとして知れず、しかしじっさいには全員がまったく同じように、日記に書かれた内容のようなことを寸分たがわずたどって行くのではあるまいか。
何にせよ、土橋さんはおのが生涯を我々に投げ捨てて、それでいっそこれからは生きるだろう。我々のほうが生贄だった。
興奮の完全に鎮まった半田は憔悴していたけれど穏やかそうに見えた。清潔さに関する羞恥心も戻っていた。
日記は川野さんと貴崎さんの目に、しばらく声に出されず流れて行った。
ある時から交代々々に読み上げられた。ただ機械的に音読するのではなく、とくに重要な部分を、折々それまでの経緯をかいつまんで挟みつつ。
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