朝から私の家にそろっていた。
夜になったら小学校へ侵入しようと話し合った。
あの時に戻ろう――しかし小学校はもう他人であろうと察しられた。精神的の問題だけではなく、窓なども、外から根気よく揺すれば鍵が外れた当時のままではなかろう。こちらもまた、侵入が見つかっても笑って済む子どもではない。当時は何度か見つかった。這いつくばって隠れおおせたことのほうが多いが、「誰や!」と発見され、「お前らか」と職員室へ連れて行かれて、冷蔵庫からソーダ水をごちそうになった。先生たちが学校で冷蔵庫など使っていることや、自分の湯飲みなど置いていることが新鮮だった。
――……ダメだ、懐かしい場所なんぞへ行ってしまったらあの頃を汚す。こんなことはどこの世界においても犯罪である。
しかし相談が進み過ぎた。途中でやめたらどこかに悪く溜まりそうだった。
違うところがいい。何が起きても嘘くさい神経鈍麻の我々は、生半可に擦り切れたがびがびの心を引きずってどこの梅園に遊ぼうが掃き溜めに遊ぼうが同じことではないかしら。いくら投げても賽は転がらぬ。転がる時は風に飛ぶ。目が外れるような期待も持たず、台無しになるような何物もない。
そうして、秘密基地とはまた別方向の山の中の小規模なでんぱた――誰かの父親がいくらか所有していた。キャベツをいただいたことがあった。洗っていると雨蛙が跳び出した――の向こうに、明らかに使われてへんグラウンドがあったやんかと私が言うと、半田があったあったと応じた。女性たちは知らなかった。
自転車で行った。みんな自転車を持っていた。私は半田に借りた。
途中、誰かの親に呼び止められたに違いなかったけれど、我々は振り返りもしなかった。
住宅街の南端から始まる山道をがたがた行ってたどり着いた。森に囲まれたグラウンドには植物が旺盛に侵略していて、もうグラウンドにも見えなかった。
かくして我々は駐輪場に自転車をとめ、校舎に入った。ランドセルを机の横にかけた。一人だけクラスの違う貴崎さんも遅れて入って来た。
我々はそれぞれの所属しているグループを離れて集合していた。グループの仲間たちが不思議そうにこちらを見ていた。
他人の恋愛の噂話をした。この時分にくっついていたちっちゃなつがいは、小学生ごときが付き合って、それでいったい何をしていたのか。県道をしばらく行けばゲームセンターだのカラオケ店だのボウリング場だのあったけれど、もさい不良ばかりだったし、知り合いが家族で来ていたりした。都会へ出るには長いこと電車かバスに乗って山々をくぐらねばならぬ。じっさいに乗ってしまえば、せいぜい一時間ちょいでくぐり終える近さではあったけれども。本当は、その程度の浅い辺境なのだったけれども。しかしそこまでやったつがいはいたのであろうか。
我々の中で小学生の頃に付き合ったことがあるのは貴崎さんだけだった。聞けば、家の電話で話したり、人の来ない階段で座ったり、交換日記をしたり、趣味を教え合ったり、同性間でしか知らない秘密を漏らしたり――けれどもけっきょく冷やかされるのがイヤで別れた。二人付き合ったがどちらもそれだけだった、誓ってキスもしなかったと言った。
先生の物真似をした。誰もうまくなかったので、とうとう出勤して来なかった。それでも授業は始まった。
付き合っていられなかった。エスケープすることに決めた。いいやエスケープどころではない、我々は一切合切やめるのだった。
先生のたぐいに見つからないよう抜け出して、帰ろう。見つかったところで、まさかそのまま本当に帰るとは思われないだろう。しかしもう二度と来ることはない。
不登校児童と呼ばれるかしら。しかしそっちがどう呼んでも、こっちは何とも呼ばれていない。
嘲笑われるかしら。しかし世間が嘲笑っているところ、憂慮するところに、私たちはいない。
抜け駆けの自由や、庇護された余裕をやっかまれるところにもいない。我々は被幽閉者だ。そうは見えないだろう。それがこんなことをしているなんて思いがけなかったんと違うか。どいつもこいつも、救いようのないアホやな。
さようなら。みんな元気で――おお、お前らも元気で。……そこのな、君たちなんか、あとで色々あるけども、くじけるな。くれぐれも踏み外さないように。逃げ癖がついたらおしまいだと、そういうふうなこと、聞いたことがあるであろう。おしまいとは具体的にどういう状態であるのか、お兄さんたちは知らないけども。
私たちは廊下に出、階段を降り、校舎を出、校門をくぐった。
山道の斜面に乗り捨てて来た自転車にまたがり、西日の射す永遠の校舎をあとにした。
やっつけだ! 何もかもがやっつけだ!
私たちは言うまでもないが、私たちだけではない、すべてがやっつけだ、そうではない一切の事物も、そうでなければないほど、何から何までやっつけだ!
だからと軽くもならないが、どうしようもなくあいまいだ。それが断乎としている。私一人のめまいにこうまで嘘くさくなる絶対的な重力や、客観的な大地の上下も、私の寿命の内部で暴れれば暴れるほど、寿命の出口の遠さをさらす。
解放してくれるのは自意識だけだ。これがただ去ってくれればよいだけだ。これは確かに短命な束だ。次の瞬間には死んでいる。苦悩も自覚症状も必ず終わる。しかし記憶が厄介だ。続いているように思わせて来る悪党だ。
地球の球体や、脳のはたらきというものを発見し、普及した時に、人類は発狂しなかったと言うのだからやっつけだ。
私はレントゲン以前、ダーウィン以前、ニュートン以前、コペルニクス以前の自意識、五感、常識、神仏、自然に戻らねば狂う。
迷信を建立し直さねばならぬ。唯物崇拝の過激さにはついて行けぬ。紀元前何世紀の解剖学者や無神論者以前の感受性に戻らねば狂う。
とは何ぞやを言語から追放せねばならぬ。とは何ぞやのない世界に住まわねばならぬ。
そのようなことはしょせんできないが、できるかどうかではないし、できなければ狂う。
しかし具体的に、能動的に立ち往生して治療に専念するとか、自己を見つめ直すとか、そのようなことをすればまた一息に狂う。一生、意識をほかに向けて、くたびれようが何であろうが何かに没頭し、注意を逸らし続ける以外ない。
注意を逸らし続ける不断の努力の生活とは、ほかでもない一般的な健常者の生活だ。自覚はいけない。対義語は何だ他覚か。主観的他覚だ。他覚がよろしい。他覚は生物のほんらいだ。自覚にも他覚をかけねばならぬ。無自覚にまで到達することはないにしても、他人事にはなるであろう。
相変わらず窓から庭木が見えていた。これを眺めていれば安らぐか。しかし枝の線などは非常な力みようだ。一見静止しているけれどあれは鬼のような筋力で持ち上げ続けているのではあるまいか。植物の力みはすさまじい。こむら返りだらけなんじゃないかしら。こんなに力んでいるものを眺めて安らぐなんぞ無理な相談であった。類別すればどういう型があるかしら。柳型、松型、桜型、椿型、藤型、椰子型、バオバブ型――もう苦しい。
うちの庭木は――わからぬ。何じゃこれは。
左様にどうしようもなく思弁の乱れへ迷い込んでいても、半田が訪ねて来て、川野さんと貴崎さんが続いて、それで問題が後方に駆け去る、自覚症状もまぎれる。こうして我々は何かしらまぎらせ合っていた。それも生半可に、無自覚に、なまくらに。それだからこそ確実にかわせていた。確かにこれだけしか現世の廊下の立たされ方はなかった。こうでなかった場合などもう想像も及ばぬ。立たされやめたところで消えもしない現世の廊下に、自ら立たされ続けねば現世の廊下が消えてしまう。
我々は庄原を探し始めた。
家を訪ねればいるだろうがそれは庄原ではない。秘密基地へ訪ねて、そこにいるのが庄原だ。いなければ待ち伏せしようと決まって、林道を行った。
ほかに我々に為し得る行為は何もなかった。現世の立たされ方などもう意味もわからぬ。短命な自意識が知らぬ間に生まれ変わっているのであろう。無常、有為転変、色即是空、そんなん。そんな感じのやつ。諸法実相、真空妙有、生は寄なり死は帰なり、嗚呼そんなんそんなん。
けれども我々に為し得るゆいいつの行為は宙に逸れた。
テントはそこに捨てられていた。侵略者に気づいた庄原は、素早く、いっさいの私物をなくしていたのだった。
むろん確証はなかった。全然の別人がいたのかもしれない。けれども、みんな庄原を確信していた。少年期にしょっちゅう会っていた庄原の残り香を嗅ぎ分けた内奥の動物に悟らしめられたかのような。
もう戻って来ないだろう。これも内奥の動物の確信であった。
庄原を自ら失った我々は、とぼとぼと私の家に向かった。
この年齢の男女四人が近頃よく歩く。平日の真っ昼間から、ぞろぞろと自転車など押して。しかし住宅街は我々に興味も示さなかった。今幼い「次の我々」を扶養するのに忙しいのだ。その証拠に、幼いのは変わらず楽しそうであった。我々の頃にはなかったオンラインゲームなどしていても、ここの記憶は同じように残るはずだった。今ゲーム機を持って座っている、その場所から見える景色や匂いが、のちの郷愁になるはずだった。
どの庭もよく手入れされていた。私の胸中に映ずる零落した住宅街のすがたはじっさいにはなかった。住人たちの分不相応なローン云々も、ただ一家だけそれに該当した私の自分勝手な偏見に過ぎないかのようだった。
×丁目の巨大なマンションが空に突き刺さっていた。このマンションはできたばかりの頃に入居者による飛び降りがあった。誰かクラスメイトがその死体を見たはずだった。しかしすぐに住人たちから忘れられていた。そういう事件をたやすく乗り越える住宅街だ。私たちになんぞ注目もすまい。ましてもう一度扶養し直してくれはすまい。
いわんや親鳥のごとく母性のくちばしでいっそ巣から追い出すことにおいてをや。
我々も庭をきれいにしようと話は決まった。
玲衣子さんに車を出してもらって、ホームセンターに行き、スコップだの苗だの買おう。肥料やジョウロや。それから睡蓮鉢とメダカと水草と。
そう話しながら帰宅すると、門扉が少し開いていた。そして門から玄関までの階段に一人の刺々しい青年が座っていた。
百均の携帯灰皿にタバコの灰を落としていた。無駄な肉の一切ない顔だった。長い髪の毛を後ろで束ねていた。
こちらを見つめる強い目は何だか異様に光が入り過ぎているように感ぜられた。
ほっそりと背の伸びた庄原だった。
ちゃぶ台をみんなで囲んでいた。五つ買っておいた座蒲団とマグカップが遂にすべて埋まっていた。
一人だけやや両隣との隙間の広い庄原が、コーヒーには手をつけず、強い目で私だけを見ていた。私をどう評価するか、庄原が判断するまでのあいだ、我々は待たされていた。あたかもそこには猿におけるオスが充満していた。
川野さんも貴崎さんも、女性らしく軽やかに話しかけそうに思われたけれど、女性らしく男の沈黙に付き合っていた。この二つの「女性らしく」のどちらを選んでもシックリ行く卑怯さもまたじつに女性らしいわなんぞと、独りだけ追い詰められている私の苛立った何かがしきりに八つ当たりしていた。
半田は体調が優れないらしく顔色が白かったが、庄原に怯えてのことではないらしかった。話しかけたくてうずうずしているようにすら見えた。高校に入学してすぐの頃、こういうクラスメイトがいた。妙に明るく振舞って、手っ取り早く友だちを作ろうとしていた。けっきょくは自然に出来上がって行ったいくつかの輪の中で、隅のほうに固まっている、ごく小さなものの中に納まっていた。夏までに退学になったやつに顔面を殴られていた。部活でも相当むごたらしいリンチを受けていたそうな。けれども彼は卒業したはずだった。殴ったやつも助けなかった私もしょせん脱落者であった。
今、私は危機を感じていた。あたかも本物の危機だと思われた。そのようなものがこの世に残っているかのようであった。
庄原がここで一声挙げれば、半田も川野さんも貴崎さんも連れ去られそうだった。
残された私は庭をきれいにでもするか。独りでバスに乗り、ホームセンターへ行って。私を×丁目のマンションのふたたびの事件に加えるほどにまで、その喪失の痛手を高めてくれたら救済であるが。
ようやく庄原がコーヒーを手に取り、一口飲んだ。
それから、「えらい静かやな」と言った。苦笑しながらだった。
その苦笑で、今までの緊迫が何かの誤解ででもあったことになったろうか。長過ぎた沈黙が? あの目つきが? ともあれ川野さんと貴崎さんがあれこれ質問し出した。半田もしたし私もしていた。
庄原は住宅街のそこここで、車を停めて、時々現れてはどこかへ消え去る我々を見ていたらしかった。ただ秘密基地の侵略者が我々であるという確信はなく、それと知って安心していた。
じつにさまざまのアルバイトをしたがどれも一年と続かず――三ヶ月と持たないのがほとんどで、なぜかいつも給料日直前に音信不通のかたちで辞めた。一番イヤな辞められ方だろうと自嘲気味に言った――今も休止期間であるらしかった。
使い道のないお金が溜まっていた。何でも好きなことのできるお金であり、生活にあてるにはあまりに乏しいお金だった。たといどこまで溜まっても自立者のお金にはならぬ、自立者とは今後も稼ぎ続ける者のことで、たとい貯金を持たなくとも自立者なのであり、いっぽう自分は人生の物入りからも逃げられて、捕まえられないのだと言った――少なくとも私はそのように聞いた。
今も近くに車を停めてあるのだとか。路上駐車がもはや問題にならない住宅街であった。
我々は私の作った夕食を食べ、テレビを見た。五つのカレー皿もスプーンも、遂にすべてが使われていた。
やがて庄原が帰ると言った。車は父親のもので、返さなければならないのだった。
それでみんな帰った。何なら一人々々送って行くと庄原が言ったので。みんな、庄原の車に興味があったので。
独りになってテレビを消すとうるさいような耳鳴りであった。焼酎を入れた。立ち昇るタバコの煙を生命の根源的な郷愁に見立てようとしたけれど失敗に終わった。
あちこち微妙に痙攣している。安定剤の断絶はいまだまぎらわしようがなかった。もっとはなはだしい禁断症状にまで行けば社会の一員であったが、相変わらず何もかもが生ぬるかった。
床でも磨こうか。庄原が比較の種を撒いて行ったのが大樹に育って冷たい木陰に沈めて来る。私が母の慈悲に溺れている頃、庄原はさまざまの職種をシッカリ穢していた。私が家事手伝いをしている頃、庄原は断乎何もせずに寝ていた。そしてその差はごく狭い。しょせん双方いつまで経っても苦労に達さぬ消耗人に過ぎなかった。
今にして思えばたとい汚名であっても正式に社会的の汚名なら賜っておきたかった。脳外科に何度か行ったあとしばらく精神科に通っていきなりやめて、三年ガマンしたあと、循環器科に何度か行って心療内科へ回されて、爾来ずっと通っていた。そこのところを突けば(いくつか賜った病名の中では心身症が重宝か。)社会的に肯われ得る無職者にもなり得たけれど、頑なに拒絶するものがあった。その中途半端さがまた心療内科へ通わせていた。
ナマナカ器用は今も床を磨いている手先に染みついている。呪いでも何でもない。習慣を再開させることにもはや何の躊躇もない。他人が残して行った埃や抜け毛のエイリアンを拭い滅ぼさねばならなかった。
そこへ庄原が独りで戻って来た。
インターホン越しに、話がしたいとだけ言うから外へ出て、助手席に座った。
庄原は運転席に座ったけれどエンジンはかけなかった。
「――みんな送って来た。川野と貴崎と、最後に半田で」
それだとルートに無駄が出るが、女性を残さないよう気を遣ったのだろうと察しられた。
タバコを吸うために我々はいったん降りて、後部座席のスライドドアを引き開け、並んで座った。大きなワンボックスカーだった。父親も喫煙者だが他人のタバコの煙を嫌がるからという由の移動だった。今は双方タバコの煙が如何ともしがたく必要であった。
私がやっていること、その目的を聞かれて、目的というほど確たるものはなかったけれど、いちおう答えた。例のサナギ云々。一瞬、ここで初めて本当に目的として生きるかと思われたけれど、けっきょく星が流れるようなことはなかった。
庄原は、流れ星を見たわけでもなかろうが――あるいは急いで目をつぶったのかもしれなかったが――ともあれその、暗がりでも光の入るような目で私を見つめ、
「俺に協力できることやったら、何でもする。そやから俺も入れてくれ」
と言った。……それにしてもこの目は何であろうか。覚醒剤をやっていると目が異様に反射するとか聞くけれど、これがそうであろうか。
尋ねてみると、違うと言う。違うのだろう。ああいうものはけっきょく、もっと生きている連中がすることだ。
不肖私がそういう社会学習をやってみていたのは十代までであった。医師の先生は私の自覚症状にマリファナの後遺症の可能性をほのめかしたことがあるけれど、しかしパニック発作その他はマリファナ以前からだった。
確かにバッドトリップの苦しいこと、少年期の交通事故のフラッシュバックとしか思えぬような地獄もあったけれど、それ以前に、たとえばタミフルなどでもフラッシュバックはしたのだ。もっと言えば幼児期からよく頭を打つ子であった。わざと、全力で。頭を打って馬鹿になるなら、馬鹿まではギリギリ行かなかった私はほんらいとんでもないカシコであったのかもしれぬ。惜しいことである。
自ら頭を強打して、ひっくり返って何日か寝ていたこともあった。迷路振盪では、一週間まっすぐ歩けなかった。それから大脳捻転になるほど頭を振っていた時期もあった。それから自分の顔をずいぶん殴った。しかしトリガーはやはり十歳誕生日の交通事故か。
しかしそれも生まれつきの行動異常が運んで来た賜物だ。テレビだのカレンダーだの、何か四角なものを見ればそれを菱形に焦点で囲まねばならぬことや、階段の手すりのポールがある段は反対側の足で踏まねばならぬ強迫神経症的な、いや思えば保育所の頃から頭は少し変だった。
お昼寝の際に昔のことを思い出していて、前にも同じことを思い出していたなと気づき、然らば今の自分も未来の自分から思い出されているに違いなく、その時の自分は今の自分とは違うと悟った恐怖は生半可ではなかった。
同じ頃、眠れば次に起きた時からは記憶を引き継いだ他人になるのではないかと考えた時、然らば自分は今朝からの人格なのではないかとよぎり、反証できず、どこまでも落ちて行くほど怖かった。
どちらの妄想も今、ある程度当たっていると言えるけれども。
自覚症状の原因は染色体や先祖の霊までたどられるものであって、決してマリファナから世界が始まったわけではないのである。
まあ、ともあれ庄原のは、ぬるい孤独に耐え兼ねて、どれだけ耐え兼ねたところで終わりはしない毎日に消耗し続けた目が、内圧みたいなもので光っているのだ。目つきが強いのも、肉体的恐怖や形而上的苦痛をまだ知らぬからではないか。よく見れば何のことはない、大して深みを持たぬ粗雑な眼光であった。噛む犬の目に過ぎなかった。
しかしよく切れ上がっている。私と半田の目はたるんでいた。庄原のは鋭い。この違いは何であろう。
何であったにせよ、しょせん庄原も浅い溝の底の脆弱者であった。
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