前書き 吉田佳昭
著者であるジェムウェルド・アルクダーンは古代エミシュラル文明に生まれた哲学者である。生没年は不詳であるが、言語年代から紀元前4世紀から紀元1世紀の人間であるとは判明している。
彼に関する資料は全くといって存在しない。この殆どが散逸した本書とアグヌシウス碑文に記載された情報によって彼の存在が示されている。といっても後者に書かれた情報は単に彼の名前が脈絡もなく、記されているだけであり、具体的な事柄は分かりかねる。
しかし余りにも謎の多い人間であるにも関わらず、現代にいたるまでその名前が知られているのは、彼の名前に相応しく(ジェムウェルドという名前は古代エミシュラル語にて「ジェム」(歴史・記憶・知識)と「ウェルド」(守る)の複合形である。古代エミシュラルでは自分の名を30歳の時に自ら改めるという習慣がある。このことから彼は賢者と称されるに値する人間であると分かる)、彼の宏遠な知識と倫理が数少ない彼の文章からありありと窺知しえるからであろう。
本文は16の文章からなる。いずれも短い文章からなり、中では一文のみで構成されているのもある。殆どは晦渋なものが多く、今まで多くの学者がこれらの文章に関する見解の齟齬によって、様々な論争を生み出してきた(16世紀のイギリスにて生じたホフマン・アイヴァーズ論争は中でも熾烈なものであり、長らく続いたことから歴史に名を残しているが、今回は紙幅の都合上、割愛することにする)。しかし一方で、その曖昧で深遠なる文章からは彼の哲学探究を垣間見ることが出来、また現代問題にも通ずるところがある。例えば6番目の文章では、性的マイノリティへの寛容を説いている。そして10番目と11番目では神の絶対性について触れている。いずれも個人間、更には集団間で意見の食い違うことから様々な問題、政治問題やテロリズムなどそういったものを引き起こし、深刻な事態になっている倫理的問題である。アルクダーンはこうした問題に、それも2000年ほど前から挑んでいた。このことは驚くべきことである。そして彼の問題への考え方は極めて独特であり、またある一面からすれば、一つの真理であるようにも思える。そういう訳で、これらの文章については一見するべきであると、私は考える。
ところで彼の文章では度々意味不明瞭な単語が散見される。例えばマリムクエンテ。マリムクエンテとは「マリム」(神)と「クエント」(与える)と動詞の名詞化に使われるサフィックスである「エ」によって構成される。この言葉はエティモロジーと文脈とから恐らく愛に近い意味を有していると推察されるが、しかし単に愛という訳ではない。これは15番目にもあるように性行為を含んでいないからである。プラトン的愛やジンメルの「愛の断想」に描写される愛の形に近く、本文にて、このマリムクエンテが高貴性を有した王女的であると記されていることからもそのことは容易に推知しえる。
しかし題名にもあるマクトエルンについて、その字義を理解するのは至難の業である。これは古代エミシュラルに於いては全く使われておらず、恐らくはアルクダーンの造語であるが、マクトエルンは本文では14番目でしか用いられておらず、主要語であるが、その意味は極めて——彼の言葉を用いて表現すれば——逆説的にも表音的である。しかし彼が記述した「マクトエルンによって、私は神の絶対性について懐疑的になった」という一文は、それとなくマクトエルンの一部分について触れているように思える。この文を斟酌したとき、同時に11番目にある「しかし神の全てを否定する訳ではない」という言葉を読むと、アルクダーンはこの言葉の意味として「信仰心に垣間見える神の絶対性への不安感」を根底に含んだのではないか。エミシュラル神話は最早世界宗教的一面を有しているが、教義には他の宗教とは決定的に異なり、妄信について戒めが存在している。この教義は凡そ紀元三世紀に本格的に成立したこともあり、彼の文章は既に知れ渡っていた。このことを考慮するに、彼の創り出したマクトエルンの存在はその意味の消失こそすれ、教義には概念的に存続することが出来たのだ。
アルクダーンの文章は決して簡単に理解することは出来ない。しかしこれらの文章には時代を超えた彼の思想が確かにあり、これを繙き、理解するのは極めて貴重な経験を齎してくれると私は信じている。
本文の翻訳は、ミスカトニック大学附属図書館に所蔵されている古代エミシュラル語版”Dsmant Simakteln Geuent Qgmae Sinmalim Qge”を底本とした。文章の順番はその底本のそれに準拠している。
追記:ジェムウェルド・アルクダーンの名前について触れたとき、私はその名前から、彼は賢者であるだろうと記した。しかしこれについては稍読者諸賢に対して不親切な描写であったと思う。これについて補足したい。「自分の名を30歳の時に自ら改める習慣がある」と私は記述した。しかし自由に改名することが出来た訳ではない。というのも二つの規則が存在していたからである。一つは改名後の名前にある由来が存在したときに、それが客観的にその者にとって相応しいものかどうかということ。例えばmeky(偉大な)が含まれていた時は、果たして彼が周囲から見て立派な人間であるかを吟味する必要があった。また罪を一度でも犯した者はfaj(優しい)という言葉を使えなかった。もう一つは両親のファーストネームに使われている文字の内どれか一つを自身の改名に含めてはならないということ。これはいわば避諱の一種であり、専ら両親の死去に際してそれは行われていたが、この当時の平均寿命は史料によると30代半ばであったので、30歳になった時には大抵両親どちらも既に亡くなっていた。それ故にこのような規則が設けられたのだ。この二つの規則は立派な法律となっており、名前の改名時には、それらを満たしているかどうかとして民部省の事務員がそれを確認することになっていた。そして彼はその名前を用いることが出来ていたため、私はこのような推察をしたのである。
1
死は神秘主義的感動であり、生は現実的無味乾燥である。則ち、死とは我々が常に考えていることよりも遥かに生々しい。
2
神は我々自身に基づいて生じる。ただし驕奢から生じるのは灰燼のような存在、則ち極めて利己的精神的現実性のみである。
3
同性愛の美しさと異性愛の美しさは何ら変わらず、それは寧ろ人間の主観によって生じた外的性質であり、人間の偏見によってその差異は問題視されているが、結局として内的性質と比較すれば、瑣末なものに過ぎない。これは以下の神話からも良く知ることが出来る。
神は以前兄弟であるシュリーエルモとアグヌシウスとの諍いを目した。彼らは「マリムクエンテは異性愛と同性愛、どちらのときに最も神聖さを帯びるのか」ということについて口論していた。アグヌシウスは女装を好み、よく男性を見て心に熱い迸りを感じていることが専らであったため、勿論同性愛が一番神的であると述べ、一方でシュリーエルモは男性を見て、己の女性的精神の熱い迸りを感じていることが専らであったため、勿論異性愛が一番神的であると述べた。そこで神は6人の人間に分裂し、彼の前に現れた。6人は3組に分かれた。男性と男性、女性と女性、男性と女性である。彼らは互いに美麗なマリムクエンテを示した。兄弟は感動し、マリムクエンテとは外的には我々の偏見により、その性質の最も優れているかを考えてしまうものであるが、結局のところそれは平等/普遍的なものであるという内的性質によって完成していることに気付き、己の過ちを恥じるのであった。神はそれを見て「これでよい」と独り言ちた。
4
専政とは非論理的思考の最も幼稚な具象化である。
5
心とは言葉と感覚が主演する悲喜劇である。
6
形式主義的言語により、人間の脱精神化が始まった。これによって人間は肉体的性質の妄信を始め、神話的創造の何一つも行えなくなった。
7
あらゆる技術は客観的マリムである。というのも技術は根拠のない先験的体系によって支えられているから。いわば開放的であり、閉鎖的でもあるという二律背反である。
8
人間の存在は何ら証明されないことにより、証明される。葛藤や抑圧は精神的不和の元であるが、この不和は主観的に写された外界の一視点を教唆するためである。
9
精神の分裂は外界を介在させた精神世界の、つまり認知性精神世界の複製であり、主観的マリムを複数、それもアンチテーゼの存在を創り出すことなく、安全に造ることが出来る点で、神聖である。
10
私は決して神に服従しない。神は私より下位に存在するからであり、故に未来に対して不安定だから。不安定はこの世界によって最も妥当であると考えられる不可避的死である。つまり不安定は神秘主義的感動を持つ点で魅力であり、魅力は神に打ち負かされることはない。
11
しかし神の総てを否定する訳ではない。何故なら神というのは人間の複数信仰によって存立する精神依存的存在であり、また和集合的精神領域を往来するということから、人々の倫理の集合体且つ抽象体でもあるからである。その限りで、神はマリムクエンテの純的性質を持ち、それにより比較的まともである。但し神は間違いうるので彼が過ちを犯したときは、私は躊躇なくそれを改めるだろう。
12
我々には語りえぬものが存在する。しかし実は語りえる——正確には導きえる。何となれば、語りえぬものは外界に於ける内的性質が純金的である故に抽象的に考えざるを得ないからであるが、しかし有限回によってそれを挙げ尽くすことは可能である。というのも、あらゆる事物は有限的微小体によって構成された存在であり、その構成数は莫大であれ、決して数えられぬことはないからだ。希臘の言葉ではそれを「アトモン」というらしい。このアトモンの組織は高々その構成要素の数でしか内的要素を包括しえない。我々が無限にあると思っているのは外的要素であり、それも我々の存在限界により有限的である。
13
クニセーとニセー(訳者註:クニセーは書くこと。ニセーは読むこと)という集合、クキェとキェ(訳者註:クキェは聞くこと。キェは話すこと)という集合は対立的存在であり、決して階級的存在ではない。前者は文盲である場合用いられないが、後者は声と聴覚に不自由がない限り用いることは容易であるという理由で、後者の方が前者よりも本源的であり、優位性を持つと考える者がいる。しかし実際はそうでない。文字の親和性は、それを獲得した時、余りにも優越的概念となるからだ。
文字を知らない嬰児を例に挙げよう。
この嬰児は文字という概念を知らぬため、人の声、専ら母親や乳母の声で何かを曖昧に理解する。つまりこの嬰児は音の意味するものよりも音の流れ単体によって事柄が何かという霧のかかった景色を想起するのである。この曖昧や霧のかかったという表現が鍵であり、決して文字を知らぬものは耳にした音の流れを使って精神世界に鮮明な事物を投射することは出来ない。しかしこの霧は文字によって晴れる。例えば砂糖についてその書き方、読み方を熟知しているときに、その言葉を見聞きすると文字と共に、砂糖の山やジャムを作る際に注がれるそれを鮮明に概念的に想起するだろう。極めて相応しい景色が、希臘的表現でイデア的と言われるような景色が目に浮かぶのである。これは文字による功績である。
また我々は極めて非現実的事物について文字を用いることにより、安定した概念を想像することが出来る。現実に結び付かないものというのは頭の中ではやはり創造することは難しい。これは色を考えるとよい。色盲である人間が自分の知覚しえない色を景色によって想像するのは不可能である。况やその色から発展した事物に於いておや。しかし文字でその色の名前を知り、その内容・意味を理解したとき、それらを文字で同定し、意識に据えることによってある種の予測を打ち立てられる。そうすると彼は自分の知りえない色を補完的に知ることが出来るのだ。
以上より、文字は表音的でもあり、定義的でもある。それによって私の主張が示される。
14
マクトエルンによって、私は神の絶対性について懐疑的である。神との邂逅によって私は神の不確かさを確信したからである。しかしマクトエルンによって神を再び信頼することが出来た。それこそ友人のように。
15
マリムクエンテは性行為以外によって構成される人間の「本能」である。この「本能」は一般の本能とは異なる。循環論であるが「本能」は人間的であり、本能は動物的である。こう思うと、「本能」は王女的であり、本能は体液的なのだ。互いはどちらも流動性を持つが、しかし高貴性によってそれらは峻別される。
16
私は他者との共通部分を持っていながら、やはり確固たる自我があり、それは神でさえ干渉しえない。私はその意味で覇者なのだ!しかし覇者は他者に敬意を持たねばならぬ。他者とのマリムクエンテは王女的結合関係の予感であり、覇者はその純化によって成立するからである。
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