神戸から離れて数年、大阪環状線の末端から近鉄で四十分ほど南下した辺りにある南河内郡、田畑や遺跡の多い区域にある大阪芸術大学のすぐ裏にある寮の一室で、目が覚めたとき、動けなかったのだ。数日前から目が霞んでいたが、食費を浮かせるために睡眠薬で時間を飛ばす実験をしたり、一日一食、塩と米だけで済ませたり、早朝大学の食券機の下から日銭を稼ぐような無茶苦茶な日々だったため、今日どうも様子がおかしい、とか、そのような常識的判断がすでになく、動けないというのもまぁ金縛りみたいなものだろう、脳は起きても体がまだ寝ているのだ、そのように高を括っていたが、一向に動けない。結局、病院に運ばれることとなる。
多発性硬化症という特定疾患は、細菌やウイルスを攻撃する免疫系が自分の脳や脊髄を攻撃するようになる病気で、原因は不明、治療はステロイド任せ、欧米の白人女性に多いがここ日本でも近年は増え、現在は一万人を超える患者がいるという。守る役目を棄て味方を攻撃するとは、我ながら自分に似合った病気だと、馬鹿な悦にも浸っただろう。
回復のなかで二篇の小説(うち一つは「ここに書かれたことは普通のこと。」で、もう一篇は本文をすべて消去し章タイトルだけを残した「ディス・ポルノグラフィ」)を作り、無事退院したが、これは二度目があるという予感がし、我が人生をまとめる方向へと気持ちが傾く。ステロイドによる筋肉の増強からセックスが愉しいという感動と、BDSMやフェティシズムとも無縁だったため、これだけ筋肉がなければ真のセックスではないのかという失望を充分に携えつつ、「モロイ」「マロウンは死ぬ」と読み進めていたサミュエル・ベケットのまだ読んでいなかった三部作最後「名づけえぬもの」を読破し、恋人がいたにも拘らず、もう悔いはない、としただろう。そして、数日し、予感通りに、また体が動かなくなったのだ。
救急車で運ばれ、霞んだ視界のなか、当時看護婦と呼ばれていた女たちに囲まれ、両親の不在を聞かれ、答えずにいると、私がお母さんよ、と手を握られる。のちに話題にするナース・ショックだ。この入院では、別の看護婦に片思いをし、さらに別の看護婦に相談するという、青いエピソードも生じる。
ステロイドの投入である程度回復したが、その回復が途中でぱったりと止み、歩くことはできても世界は霞み、読書はできなさそうだ。買ってきてもらった画集を開き、不自由な目でも愉しめるバーネット・ニューマンを、ラジオからイヤフォンを通して聴こえる音楽と合わせ、意志を保つ。医師の声は重く、唯一頼れる実家はここ数年の流れで崩壊の一途を辿っていて、それでも金銭の問題にまで頭は回らなかった、車道に出るのは怖いが、外出許可も下りていたので、病院の周縁を壁伝いにふらふらと歩き、家にはピアノがある、余生はピアノの練習をするしかないだろうと腹を括る。ふいに、この病気を見切った、という感覚が生じ、翌朝、再び回復が始まる。しかし、こちらはもう腹を括ってしまったのだ、通常の人生など未練はない、余生を反故にはできない、それに、小説の才能もなかったのだから、と、奇妙な人生観に迷い込む。
退院は九月だ。
病気は、見切ったと信じてやまなかったので、以後再発はない。
この二度の入院で、よくよく思いだしてみれば単位を落とし、優秀賞だった卒業制作は研究室賞に下げられたと他人を通して聞くようになり、晴れて五回生に突入したが、この地点がすべての始まりなのかもしれない。
詳細は省くが、二単位だけ残し、その追試の日に、彼女と三重県は志摩まで旅行にでかけ、大学を去っただろう。
以後、「芸術」だとかいう大口とは名ばかりの「常識」に近づきそうなとき、その旅行を思いだす。その意志を、二十年近く、保っている。幾らかの人は、この話を聞いて、自らに呪いをかけた馬鹿だと思うだろう。だが、その呪いは、時間とともに様を変え、才能がないと自己評価する最悪の逆境でさえ微動だにせずキープし続けるという別の表情をまとう。
続けることは芸術ではない、その最果てに、永遠、を視る。
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