AFTER DIARY 第二章

Hell If I Know(第2話)

W-E aka _underline

小説

10,344文字

第二章末尾でなされる語り手の対策は、この物語にとって思いがけない重要性を持ちます。

僕たちはタクシーを電話で呼びだそうとする。それが到着するまでの間とても長い時間がかかり、僕は様々な物語の展開をイメージしたが、それが活かされるかどうかは分からない。ごく普通の物語をちらっと読んでよく思うことは、なにかしらのプライドが大きな邪魔をしていることだ。ケッ、よくこんなものにこいつらとり組めるよな、というプライド。口が悪いが要するにそれらの一般技術集成に僕が敬意を払っていないことの証だ。だからもし僕がそういった小説空間にダイヴするならまず何か一点でもいい、敬意を払える対象を見つけなきゃ嘘だ。感動しなければならない。それだけじゃない。生かされるほどの体験をしなければ敬意など払えない。そういった作品にベケット以降出会えただろうか。要はそういうことだ。

 

タクシーがやってきて僕らはそれに乗り込む。行き先を新宿と告げて、僕は隣の彼にいう。

 

「きみの行きつけのバーかなにかを紹介してほしいんだ。可能な範囲でいい」

 

「なるほど」

 

「僕の結論では、きみは小説的人間ではないが、登場人物的人間ではあるんだ。失礼な言い方かな。別にそんなつもりはないんだけど。ところで見ろよ、このどしゃぶりの窓から見える都会の夜景を。欲望の渦巻く素敵な街なかで僕たちはひっそりと生きてるんだ。顔が割れてない。それは素敵なことだよ。テレビと同等レベルの情報メディアのなかじゃきみの知名度もないみたいなもんだろ。美しい。なんでもできる」

「力があった方が何でもできるのは確かだ。それと一般知名度はまた別だが、それもあった方がより何でもできるよ。できないことも増えていくけどね」

 

「ドラゴンボールの魔王サタンがいい例だな。あの支持率は相当のもんだった」

 

タクシーの運転手は黙々と運転し続けている。

 

この東京を走らせる仕事は多くの闇に消えていくリアルな話も聞けるのだろう。僕の隣に座っている彼がどのような人物なのか、少しは気になったりしているのだろうか。大量のデカい情報の渦のなかで目立ってすらいないのだろうか。都会のタクシーの運転手は情報網の接点にいる。断片集のパズルを少しずつ解いて今何が起こっているのかを積極的に知るサイドワークの形成も可能なはずだ。ラジオからは交通情報のニュースが坦々と現状を報告している。僕は、後部座席から運転手の顔を覗き込もうとする。すぐ脇を、一台の車が夜の水たまりをはねながら、僕たちの乗っているタクシーをすみやかに追い抜いていく。

 

と、重力のあり方が一瞬後に変わったような感覚が僕のからだを襲い、……、僕の脳の中のゆるやかなデータの流れが突然混線したかのようなノイズに覆われる。息が止まりそうになる。一瞬腰が座席から浮く。と、ものすごい風に横から吹かれたかのように僕のからだが隣で座る彼の方に飛んで、だが、彼もまた同じように飛んで、僕たち二人が窓ガラスに落下する。すぐに反対側へ落下しかける。腰がまた浮く。「あ」とのどから漏れる声。四コマほどのフィルムが飛んだような現状認識。また腰が浮く。また横へ落下する。ドシンと尻が座席に落ちる。また、運転席側のシートに頭をぶつける。僕は叫ぶ。「事故か……!?」実際に口にでたのかは分からない。スリップしたのか……? やばい。しかし、どうすることもできない。後部座席にいるこの状況でハンドルは奪えないし、と、天井に思い切り頭をぶつける。「停めろ!」——そう叫ぶのが精一杯だ。外に、飛びだすべきか……いや、……僕はできるだけ車のでたらめな振動に振り回されないよう、からだを固定するべく、通常は足を置いているスペースに潜り込み、からだを両手で支える。目をつぶり、落ち着こうと努力し、だが気を抜けば気を失いそうな恐怖心。まぶたを閉じた暗闇の向こうに見える物語を思い浮かべるんだ。美女がいい。美女が手を招いているそんなベタなシチュエーションに、ほぼ僕と同一の主人公の設置。それから、その美女の背景を考えるんだ。突然街を襲った地震のなか主人公は家主の娘のところまで飛んでって守ろうとするんだ。そんな物語が楽しいか? 違う、ここはSMルームだ。突然の大地震にうろたえるなか僕はその美女のもとに駆け寄り「大丈夫だ」という。そして、その女の背景だ。神戸というある種の地方街から新宿にでてきたその女がSMクラブで働くようになったその原因を美学としよう。肉体が求める所のモノとしての美学だ。縛りだとかSだとかMだとかそういうカテゴリーのある場所へのトリップを手がかりに美学を探究しにきたんだ。神戸にいる間ずっと一人で、ときには彼氏相手に探究していたが、それでは個人を越えないと考えた彼女はSMクラブの住人を通して社会全体の中での自らのポジションを知ろうとしたんだ。だからその発する言葉は社会と連結した個人の声であり、僕に似た主人公はそんな彼女の言葉に惚れ込んだんだ。そして大地震。僕は彼女の肩を両手で支え、それから……。大きな衝撃、と、それに続く連続した衝撃と、音。匂い……

 

タクシーが停車している。電柱を脇に、無数の凹んだボディと、煙。それから、雨。

 

これは僕のイメージだ。僕は気を取り直し、深呼吸を整え、ゆっくりとからだを動かす。ちらっと横を見るが彼はピクピクしている。僕の場所からじゃ運転席側は見えない。声をだそうとしたがビビってしまってでない。僕はドアを開けて外に出ようとする。ざあざあぶりの雨に、雷鳴。ガチャと音がしてドアが開く。僕は這うように雨にぬれるのも気にせず道路にでる。振り返り、先程見たイメージそのもののタクシーの状況を目に焼きつける。やはりだ。

 

立ち上がろうとする。すでに数人の者たちが取り巻いている。「事故だー」という声が聞こえなくもないが至ってみんなクールだ。大雨に事故。彼が気になる。運転手はハンドルに向かってうつぶせになっている。いったいなにが起こったんだ? 落ち着け。落ち着くんだ。僕はすぐにフラッシュバックする。隣の彼に鉄塔の側で聞かせていた物語の再現だ。これは。で、だから、なんだ?

 

……

 

随分と時間が経過している。

 

僕と彼は雨を凌げる百貨店のシャッターの前で語らっている。タクシーの事故から今に至るまでの顛末を語ること以上の問題に僕たちは直面している。豪雨と雷が依然治まる気配さえも見られていないことは、足下ではねる雨の乱雑さとひっきりなしに光る夜空、それだけで充分だ。僕は彼に確認する。

 

「率直に言って、僕のした物語が数時間後に現実となった可能性は消せないんだ」

 

——まぐれというのもあり得る。神の気まぐれってやつだ。問題は、もしまぐれじゃなかったとするなら、他の物語もまた今後現実化しておれたちを襲うってことだが、こうも考えられる……たまたまおれたちが今回は襲われたという状況なのかもしれない。なんにしても神秘的な可能性をおれたちは忘れられない時間軸に放り込まれてしまったってことだ。おれたちの共通点が分かるか? 二人とも馬鹿正直なんだ。偶然に決まってんじゃんってふうに思い切ることができない。そもそも、さっきの事故で死んでたかもしれない……。こうやって二人が無事だったのは本当によかった。ただ危険な可能性が潰えない限り、誰かをまきこむような行動はとりたくない。要するに、バーにいくのはやめってこと。いいな?」

僕は坦々と語る彼の意見を覆せない。たぶん、彼よりも僕の方が、また似たような再現が起こるんじゃないかと危惧してるはずだ。完全に僕たちは翻弄されている。運命に筋道などあるはずがないのに、妄想は幻覚を見せて、それに拘束された行動しかとれなくなっているんだ。次に車に乗って再び事故が起こる確率はどれくらいだろう。もしさっきの事故がまぐれじゃなかったなら、それでも確率は低いはず。車はきっと安全だ。同じことが起こるはずがない。とりあえずもう一度タクシーに乗って僕の部屋で待機しないか、と僕は提案し、彼はそれを受け入れる。どうやら同じ考えのようだ。

 

それで、タクシーを拾ったわけだが、動きだした頃にはすでに、ただならない危険を察知している。隣の彼に目をやると、同じことを考えているのか、目があってしまう。タクシーの外側にある夜景は、この近辺がまだ眠っていないという単純な事実をイルミネーションによって伝えてくれる。窓の向こうのそんな流れる夜景に息づく数えきれない人間の組みあわせによる世界と、タクシーの後部座席という小さな場所に生じている、僕と彼によってのみ共有されただけの、神秘的な予想から想像される世界。彼の口がゆっくりと開き、「不安だ。さっきの予測からはみでたままのなにかがあるような気がする……——それで僕は運転手に車を停めてもらおうと声をあげるが、すぐに、鼓膜を破らんばかりの衝撃音が全身を覆う。!!? 振動が追って貫通する。声を出そうとしてから一秒と経っていないはずだ。運転席のシートに大きく頭をぶつけ、車の窓ガラスのほぼ全体に一挙にひびが入り、拡散する。実際の僕の頭部よりも後ろの方にまだ意識が残っているような感覚があり、その場所で僕は急速に分散された意識の結合を行い、きっとこれは、正面衝突かそれに近いなにかだ、と、思うまでに至る。その意識が一挙に闇に包まれて、まるでカーテンコールのようだ。その闇には複数のざわめきがじきに混じり始め、それが数分間続く。やがて複数の会話が入り交じってのざわめきであることが分かってくるようになると、再び僕の意識から一本の声が生まれる——タクシーは事故った。そして警察官たちが僕たちをとりまいている……。動かされる僕のからだ……きっと、救急車にでも乗せられて病院に運び込まれるのだろう……彼は無事だろうか。ふっと、また意識が閉じる。

 

うつらうつらした意識のなかで僕は過去を回想している——とはいえ過去などバラバラでつかみどころがないのだが、たまたま先日読んだ「無限の住人」を糸口にして、そのバラバラの記憶を素材にコラージュしてみようと思う。記憶などは積み木やダイアブロックのように簡単に目的を持った形に完成してしまう代物だ。「無限の住人」は家系図の物語でもあることを作中で問題提起している。つまり、ヒロインの女は目の前で両親を殺られ連れ去られたことからその集団への復讐の物語を生きるが、子持ちの敵を相手にしたときに、今度は自分がその子供に対し過酷な復讐劇のきっかけを生む立場になるかもしれないと危惧され、復讐劇は、循環劇へと進展する。子は親の業を負う物語を生きるという家系劇。そして僕は、父が母を傷つけてしまった一連の流れを見てしまったゆえに、完全な家庭を創造する物語を生きることとなったのだ。一人の女、それも傷つき壊れやすい女に生涯偽りなき愛を与え続ける人生、という公式を、僕は早々に不可能とする。なぜ不可能なのかは、異性愛幻想の可能性云々に携わるまでもなく、僕の反律性に負っている。反律性はこう述べる。母親に似た女を愛するなどセオリーな!両親の問題を抱え込む人生を歩むなどステレオタイプな!ゆえにその選択肢は消えたのだ。僕は、僕を否定する分子だ。しかし、否定しようが事実は事実として存在する。僕が結婚を否定するのは当然僕の両親の結婚の失敗を否定したいからだ。それは、結局は家系図の物語のカードが裏返っているにすぎない。僕の手持ちのカードはすべて裏返っている。ウイングマンの戦闘シーンの風景のように反転して裏返っている。復讐の物語は、それを果たしたときに終結するのだろうか。では、家族の物語は、我が子に幸せな家庭像を見せたときに完了となるのだろうか。子も家庭ももたない、家系自体を終わらせる選択をとり続けた僕は、だからこそ前衛文学史の受け渡し役を望んだのだ。なぜなら文学は僕の父であり得たからだ。だが、第一次世界大戦前の前衛史は、戦後の前衛史とまったく違う。だが後者を僕は末裔と見なし、90年代半ばはまだポストモダンがぎりぎり息づいていただろう。トマス・ピンチョンはその色彩を放っていただろう。メタフィクションは新時代の文学としてアヴァンギャルド、つまりアカデミズムの基盤を形成する。だがその城がいつだったか落ちたのだ。アニメ界のメタフィクションに代表されるそれらは世界という最大公約数ではなく、個人という最小公倍数のもとから現れ、文学の歴史が、世界記述対個人記述の歴史であったことが明るみに出たのだ。日本文学は世界文学たりえず、私小説という名の個人文学とミステリなどに見られる職人文学の、強大な実験現場たりえただろう。そして個人文学はその性質上、大衆文学に着地している。世界文学が、あくまでも僕の基準にとって、最高値だ。人間など知ったことではない。もちろん、幸あれ。それと文学内部で記述される内容とは別物だ。この現実世界は架空ではない。そんなことも言えないポストモダンなど単純すぎてただの遊戯だ。

 

だから僕の話したことが現実に反映されるこの予想事態は、ふざけている。二度タクシーが事故り、僕は救急車で運ばれているようだが、架空の事故風景を僕は必死で思いだそうとする。確か、——フラッシュバックが見えるか? おれたちは口論し事故っただろう——そのような、運転席に座る男の台詞。そして、事故があり、どうやら助かったようだという語り手の台詞と描写。恐怖……。つまり、この物語自体が何らかの再現の物語なのだ。運転席の男はフラッシュバックで見えた事故の情景に忠実に事故を起こした、とすれば……。僕のこめかみ辺りを汗が流れ落ちる。それは気持ちが悪いが、からだを動かせず拭うことができない。そもそも、僕は今、夢と現の間にいる。まだ雨は降っているのだろうか。大きな、とても大きな空間の揺れが僕の全身にぶつかってくる。まるで、雷が遠くで鳴ったときのように、時間差を置いて、数人の男たちの悲鳴が僕の耳に飛び込んでくる。僕のからだを乗せている寝台が大きくはね、僕の背中が、それに応じて飛び跳ねる。また、だ! また、この救急車も事故を起こそうとしている! 僕のからだがどのようになっているのかも分からないが、今の状態で事故ってしまったら、今度は本当に死んでしまうんじゃないか? 事故の情景はもういい。物語を進めるんだ。

 

「雨が車のボンネットを叩き続ける。焦げ臭い匂い。僕——いや、おれは——ハンドルにうつぶせになっている男に語りかける。——フラッシュバック——おれたちは口論していた——よく思いだしたよ、きみの強引なやり方で……。口から血を吐き、あのときの凄惨な情景を、言葉にする。その男がばらばらになった内蔵や骨を抱えた体を動かし車内から逃れようとするそしてきみは大声で笑うんだ。おれは死に、きみも死に、そしてきみが死後を生きる。この物語がこの事故から、このおれたちの口論から始まった……。で、どうする? おれは無事だし、きみも生きてるだろう?——稲妻が正面の向こう、崖よりも向こうの森の奥深くに落ちる。車は意図的に事故し、おれたちは生きている。今はもう使えないが、そこのカーナビを最後に見たとき、森を抜けた街の一帯がそれほど遠くない場所にあるようだった。歩こう。おれたちはそこへ行く。正面のずっと向こうで森が燃え、雨が大量に降り注いでいる。そもそもおれたちがこの車を走らせたときに、どこへ向かっていたのか、思いだせ——。運転席側の男が顔を持ち上げて、黒真珠のような瞳をこちらに向けてくる。それが2355分」

 

救急車は依然でたらめな滑走を続けている。だがまだ事故っていない。もし僕の推測が正しければ、これでもう当分事故には悩まされないはずだ。物語では主役たち二人は街へ向かうことになり、だから僕たちも街へいくことになるはずだ。そのような偶然が今度は積み重なるだろう。おそらく——

 

ところでこの救急車には見えないが、彼は別の救急車に乗せられているのだろうか。それとも無事だったため、まだ現場で事情徴集を受けているとか。この救急車がいまだ事故を起こしていないことについて彼に伝えなければならない。現象が僕にだけ降り注ぐ可能性も考えられるが、彼は聞き手であったゆえに共犯者のはずだ。更なる問題が幾つか控えている。僕の物語がホラーになることを彼に伝えてしまっている。つまり、物語を語り終えるまで、この現実との共振関係が、穏便にすむはずがない。すべてに対策をとらなければ駄目だ。僕はそこでようやく、振り絞るように、声をだすことに成功する。

 

「いったい、なにがありました……?」

 

返答に窮しているのを察した僕は、僕は大丈夫ですから本当のことを教えてください、と強くいう。それで、一人が答える。「目の前の、無関係の車二台が、衝突事故を起こしたんです。巻き込まれるところでした」

 

「そうですか」

 

僕のからだが依然うまく動かない。数時間後、片足を複雑骨折していたに過ぎないことが判明する。手術が終わった頃には彼と話すこともでき、僕は一通りの推測されうる事情を伝える。ただし、どのように物語を展開させるべきかは相談しない。聞き手にそれをしてしまってはならない。僕に編集者でもいれば別だが、そうでなければ、物語は、神聖だからだ。

 

僕はギブスをはめられ吊るされた片足を眺めながら、今でこそ言えるが、僕は物語を作ることに興味がないのだ、と思う。もはや状況的に語らざるを得ないし、そもそも物語ることの喜びを見出せるかもしれない。はやりの比喩でたとえれば、犯人が密室でおこなった完全犯罪の手口を突き止めるほど困難な仕事だ。出口は鍵が内側からかけられたドアしかない。密室のなかには被害者の遺体しかなく背後からナイフで刺されしかも一撃で死んでいる。それは、僕の内面と一致する。僕が物語に喜びを見出す可能性などどう考えてもなさそうなのに、しかし、この小説はその手口が公表されて終わるはずなのだ。僕は見舞いにきてくれた彼の目を見つめ、その瞳が黒真珠のようではないことを確認する。僕はいう。

「僕のからだがこんななのに僕たちは街へ行くことを望まれている。きみにとってはなんでもないことかもしれないが、これは僕にとってはヘヴィなことかもね。状況をもっと改善しないとややこしいことになりそうだ」

 

「ああ。きみがギブスのまま床に這いつくばっている情景が浮かぶ。……

 

そのとき、振動が起こる。カタカタと側のテーブルが動き、上に乗っていた筆記具や鞄やティーカップが音を立てる。建物全体がギシギシと呻きをあげ、彼の姿が上下にぶれる。二重三重に、高速に。彼だけじゃない。周囲のあらゆる目に入るものがそうなのだ。振動はベッドを通じて僕のからだに伝わり、世界全体が崩れ去るような轟音をあげている。が、なんてことはない。これは地震だ。分かっているが心臓が止まりそうなほど僕は突然の動悸に襲われる。怖い——。止まらないガタガタいう病棟の震動がティーカップの中の液体を飛ばし、天井から埃を落とし、この病室にいる他の患者の、緊張感を越えて漏れた叫びなどが建物が壊れていくそんな音に混入し、そこへ数人の看護婦のつんざく悲鳴が積み重なっていく。オオッ!と彼が目を見開いて口にだし、ベッドの手すりにしがみついている。地震——。そんな、物語は、知らないぞ、これは、偶然の天災なのか!?と彼が声を張り上げるが、半ば以上ビビッているために聞きとれたのが奇跡のように思え、しかし、彼に物語ってはいないが、タクシーの事故のときに僕は確かに地震を物語として語っているのだ。確かSMクラブで主人公が美女の身を案じている情景。物語をその中途な場所で終えたはずだから、きっと、こうすればいい——。地震がやみ、僕に似た主人公の男は、深呼吸を強引にしたあと、「もう、大丈夫だ」と告げる。女は怯えてはいたが笑みを作って「びっくりしたぁ。け、結構激しかったね。あたし、神戸出身だから、ごめんさない、本気で焦っちゃったよ。それより——」そう心配そうな視線が向けられた先にはM男が縛られ吊り上げられた状態で呆然としていて、その足下でボンデージ姿の女がへたりこんでいる。その女に向けて、ほっとしたように「きゃはは、S失格ー」と笑って僕に似た男の腕をとる。その男は、さりげなく苦笑してボトル類が倒れていないかカウンターを心配する。——そこまで頭の中で物語った頃には、現実においても地震は治まり、僕も一息つく。地震の被害はおそらくとくにないだろう。車の事故を消し、地震を消し、まだ、なにか残っているだろうか。僕は落ち着いてから、これらの事情を彼に述べる。いったいどんな反応をするか、僕にはそれこそが気になったからだ。

 

「まだ、満月の下で恋人の腕を欲しがる青年の話があったな。他にはないか? 有効な選択肢が一つある。これら全部の物語を、一つにしてしまうんだ。そうすれば、たった一個の物語を終えることで、すべては、解決、する、……。いや、どういうことだろう。語り終えたあとでまた物語が始まってしまったら同じことが続くのか?」

 

この二章はあと数十行で終了する。というのも一定の長さで一章をおさめることにしているからだ。以前に、僕たちに名前をつけるべきだろうか(そんな恐ろしいことができるだろうか)と述べたはずだ。そろそろ、いい加減に、そのこととも向かいあわなくちゃならない。なぜなら、僕や彼にしろ、僕の物語にいる登場人物にしろ、明確な人物設定がなされていないからだ。今さっき彼が言ったことはとても聡明だし、もっともなことだ。が、僕もすでにそう考えていて、そうするつもりでいたことだ。つまり、今の彼の台詞はほとんど僕が口にしても良かったものなんだ。もちろん、ここは現実なのだから僕と彼が同一なのだなんて言うわけじゃない。彼が海外で体験したもろもろのことを僕は知らないし、その辺りの話題に関して意見が食い違いもしただろう。問題は、僕にある。僕はこの現実の世界で、僕を僕と認めたくないんだ。僕はもちろん自分の名前を知っている。けれど、それを口にする勇気がないんだ。僕はさっきも言ったように、否定分子なのだから。と、看護婦が駆け寄ってきて、

 

「大丈夫でしたか」

 

と聞いてくる。僕は「あ、はい」と答え、笑顔を作る。その看護婦は僕と同い年くらいだろう。顔つきと素振りから判断するに、さっぱりした性格をしてそうだ。小説を買ってきて読んだりすることはあるのだろうか。まあいい。話題を戻そう。これから起こりうるだろうことを未然に防ぐ対策を、僕はする義務がある。なぜなら、僕の語る物語が現実に反映するのであれば、モンスターの登場するホラーである限り、この現実世界にモンスターがしばらく現れてしまうだろうからだ。実際、僕はこうして事故の結果、複雑骨折しているし、タクシーの運転手を巻き込んでしまってもいる。そのことがあまりに非現実的だからといって義務を放りだすのは無責任にすぎる。だが、僕はきっと、そんな無責任なことを平気でしてしまう人間なんだ。僕は、否定分子なのだから。僕は僕自身が架空の存在であってもいいと思っている。そして架空の世界は何でもアリなんだ。もし僕が核戦争の物語をしてしまえば、セカイ系のように世界が滅ぶかもしれない。いや、滅ぶ。もし、僕が語るホラーの内容が世界中でゾンビ化していくものであったなら、僕は百人に収まらない他人を巻き込むことになってしまうのだ。そして、その痛みという想像力が、今の僕にはない。車の事故をなくしたのも地震を消したのも、僕自身に被害があったからだ。目の前の彼は、こういったことに正義の判断をくだしてくれるはずだ。なぜなら彼は僕よりもずっと社会人としての行動を経験してきた人間だから。社会人というのは、そのような他者への想像力を生むという点で、正義なのだ。もちろん他人を食い物にしている人間は腐るほどいるが、それはまた別の要素がそこに代入したからにすぎない。

 

「考えたんだが」と僕は彼にいう。「きみが帰ってから明日、きみがくるまでの間に、僕は続きの物語をノートに書き綴ろうと思う。このように紙にしたためた場合、誰かに見せるまで物語は保留になるのかもしれないが、状況はそんなに甘くはないだろう。たぶん物語は、僕という読者を通しても進展する。地震の件がそれを証明している。だからそれが目的じゃない。ただ、行き当たりばったりに語ってしまったら理性を越えた展開をすると思うんだ。理性を越えた展開というのは言い換えれば、急ぎ足で行われるリレー小説のような、締まりのない展開。それじゃあ、僕ら当人への危険を回避できない大事になりかねないだろ。様々な伏線を物語に貼る必要がある。この現実世界に、今モンスターが現れれば、僕らはなす術がない!」

「ああ。なにか問題が発生したらすぐに電話してくれよ」

 

そして数分後に彼は帰り、僕は看護婦にノートを用意してもらい、それを、ベッド備え付けの簡易テーブルの上に置く。まだ、なにか面倒なことが起こりそうな予感がする——

2023年11月20日公開

作品集『Hell If I Know』最新話 (全2話)

© 2023 W-E aka _underline

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