2011年3月11日、私は経堂の自宅で仕事をしていた。私の書斎は本棚が五本ある上、破滅派の在庫が段ボールで重ねられていたので、いかにも危なかった。すぐさま寝室へ戻ると、愛犬のニッチを抱え、ベッドの上にうずくまった。棚の上からガラス製の赤い花瓶が落ちて割れた。彼女が同棲を始めるにあたって持ち込んだ、足の細い花瓶だった。かなり長い揺れが収まったのち、私は彼女に連絡を取ろうと思ったが、ニッチが怯えて外に出たがったので、古いマンションの二階にいるよりは安全だろうと、余震(あるいは本震)が来る前に外に出た。
赤堤通りの交差点に走る車はなく、人もいなかった。ただ、白人の女性が泣きながら携帯電話で話していた。彼女はベビーカーを押していた。おそらく、慣れない異国の地で歴史的な強さに震え上がったのだろう。仕事で不在の夫と話しているようだった。
ほどなくして、一緒に住んでいる彼女と連絡がついた。彼女はすぐそばの金融機関でアルバイトをしていて、無事だった。夜、経堂の駅前に出かけると、帰宅難民の列があった。テレビの映像が私のかすかな期待を裏切り、災害の凄まじさを深々と墓標に刻んでいった。
何日かのち、仙台に住む破滅派同人の月形与三郎氏と電話では話した。仙台在住の彼は無事なようだったが、やはり東京に住んでいる私とは比べ物にならないほどの「被災者」だった。その後も継続的にやりとりをするうち、ぜひ東北に来て欲しいということになった。五ヶ月後、東北道がすでに一般車の通行を許可した頃になって、私は東北へと旅立った。旅の道連れは同人のアサミ・ラムジフスキーだった。旅のテーマは「基準値を超える放射能が出た牛肉を食べにいく」というグルメツアーだ。当時の様子は破滅派八号所収の『国家の終わりとハードグリルドアトミックビーフ』にまとめている。
あれから六年が経った。当時の彼女は妻となり、そして三児の母となった。あれ以来地震を怖がるようになったニッチは、つい先月、癌になって死んでしまった。月形与三郎氏とはまったく連絡を取っていない。
私は3月11日の夜、撮りためた写真を見返していた。破滅派に掲載したごく一部の写真とは別のものを眺めていると、震災から五ヶ月後の東北を巡った旅が懐かしく思い出された。雑誌に掲載することのなかった写真とともに、私が何を感じたかをここに記す。
東北道
東北道は復旧したばかりで、道の両脇のそこかしこで工事が行われていた。道の両脇に草木が茂っていたのをよく覚えている。それはたぶん八月の気候のせいというより、高速道路の草刈りをする余裕もなかったことを示していた。
仙台・松島海岸
月形さんの住む仙台市に入ったとき、私は思ったほど被害はひどくなかったのだなと早合点した。七夕祭りを控え、市内は賑わっていたからだ。しかし、松島海岸まで出ると、その思いは一変した。海岸に打ち上げられた木々、そしてひび割れた石段を見て、被害が甚大だったことを思いしった。海岸には水族館の職員がいて、磯の生物を集めていた。子供達に見せるとのことだった。
石巻市
仙台市から海岸へ降りる形で石巻に向う途中、被害の深刻さは更新された。家々はまばらになり、そこかしこに基礎だけが残っている。道路は波打ち、私が運転する車はそこに乗り上げ、ひどくきしんだ。
女川
原発を見るために女川へ向かったのだが、そこは私が見た中でもっとも被害の激しい地域の一つだった。かつてそこに集落があっただろう場所はほとんど平野となり、鉄筋の頑丈な建物以外はまったく残っていなかった。丘の上にある原発は無事だったが、目当てだった資料館は閉鎖し、中にはいることはできなかった。漁港には大量のブイが打ち上げられ、突堤は海面すれすれまで下がっていた。当初は女川の民宿に泊まるはずだったが、工事関係者で満室となり、宿は見つからなかった。私は率直にいって、この町はもうダメだろうと思った。夜の小学校には避難民が多くいた。
ふたたび松島海岸
私たちは松島海岸まで戻り、当初の目的だったバーベキューをした。八月だというのに、そんなことをしている人は他にいなかった。
相馬市
相馬は女川と同じく、もっとも被害のひどい地域だった。原発の影響だろうか、復興もほとんど進んでおらず、海岸線に近づくにつれ、田畑であったあろう場所に船が置き去りになり、海には家やバスがそのまま沈んでいた。
福島第一原発
福一にはぜひ行ってみようと足を運んだのだが、入ることはできなかった。入り口には数十人のマスコミ関係者がいた。近隣の住宅には入ることができない。おきざりにされたピカチュウのぬいぐるみと、妖しげに咲き誇るひまわりの黄色が印象的だった。「海岸でサーフィンをする」という馬鹿げた企画のため、サーフボードを持って行ったのだが、とてもそんなことをできる雰囲気ではなかった。海岸では、遺体の捜索をする一団がいた。
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以上で六年前の思い出は終わる。私が勝手にダメだろうと決めつけた町も、確かに復興しつつある。それぐらいの歳月が流れたのだ。
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