リンギンズ氏は歯を食いしばって1秒間だけ黙っていた。リンギンズ氏の蜘蛛のような8本脚(機械の脚ではない)が貧乏ゆすりをしている。もし床がカーペットでなかったら、脚部の接地部分が床と奏でるおぞましい独特のリズムが部屋中に撒き散らされていたはずで、そうなれば室内の家具にとどまらずわたしの表情までもがぐにゃぐにゃに歪んでしまっただろう。幸いまだ静寂が保たれていた室内に、リンギンズ氏の声がどこからともなく(床の方から?)聞こえてくる。
ドアを蹴破ったそのままの勢いで、エンジニアはリンギンズ氏の頭部に電流グローブを押し当てた。頭皮への文字通り電撃的な奇襲だった。「あ、あ、あ、」とリンギンズ氏は呟くと、そのままがくんと脱力して動かなくなった。死んでしまった、というよりは機能を停止させてしまったという方が正しい。この機能停止というのは、人間で言うところに死に相当しない。死んだ人間は再起動できないが、機能停止はあくまでもダビングしてある意識のうちの一つの機能不全であり、早急に意識をスワップすることで、最大ダウンタイム15秒以内には復旧する。常識ではあるが、この範囲が未履修の初学年向けに、機能停止プロセスについて少し補足した。
棚に鎮座する猿の身体をした体長15cmほどの人形たちは、驚きの悲鳴のあと、エンジニアを侮辱する言葉を次々に発したが、それらの性差別的で低調な語彙に比べれば、耳元を飛び回るコバエのほうがよほど品のある音を鳴らしていた。
エンジニアは自らを「リンギンズ」と名乗った。
リンギンズ:ごめんなさいね、遅れて。あたしが本物のリンギンズです。この家政夫は、あたしがジャンク品で組み上げたものなの。だけど、オープンソースのAIシステムとの食い合わせが悪くて、自分のことをリンギンズだと思いこんでしまうのよ。ほら、ラッキョウとコーラを一緒に摂取すると、肘にイボができるって言うでしょ。そんな感じ。
菫ニードル<D状態のコケシ>:その組み合わせは初めて聞きました。
リンギンズ:そう? 年の功ってやつかな。老いは自然と人を物知りにするのね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:なるほど。では、失礼ですが、あなたが本物のリンギンズさんである証拠を見せていただけますか?
リンギンズ:実家の鼠の額くらいの大きさの庭にテーブルと机を出して、両親と妹、それから親戚の4人家族の、ぜんぶで8人で大人と子どもが集まって、初秋のすこし肌寒い風を浴びながらバーベキューをしたの。駆け回るには小さすぎる庭を犬が_たしかパグだった思うけど、人工芝生の上を転げ回ってて、そのぷりぷりで毛むくじゃらのお尻をあたしの妹が追いかけてる。親戚の家の子はあたしたち姉妹より3つも年上だったから、犬と一緒にどこか遠くの誰かに向けて何かを訴えるように吠えてみたり、生焼けのお肉をいち早く自分の口の中にしまい込んだり、いきなり日陰に寝そべったり、そんな下品なことはしなかったけど、あたしたちのことを気にかけてくれていて「バレエの発表会があったんでしょう? 動画を見せて」とか「もしよければ、使わなくなったバッグをあげようか?」とか、今になって思えば気を使ってくれていたのかもしれないし、あるいは本当に親切で、自分より頭の悪い子どもに対する学術的な興味があったのかもしれないけど、でも事実として気にかけてくれていると感じられる時間が、あたしには心地よかった。だからこうして、今になっても思い出すんだよね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:ちょっと待ってください。今の話は二〇二三年の出来事ですか?
リンギンズ:たぶんね。でも、わからない。もしかするとあたしの妄想かもしれない。時間が経つにつれて、それが現実だったのか虚構だったのかを区別する境目が曖昧になっていくのよ。もっと言うと、あたしは自分がリンギンズであると確信を持って言うことはできないわ。なんとなく、自分がリンギンズなんじゃないかっていう自信はあるんだけどね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:そんな。
リンギンズ:記憶の根拠も、自分が自分であるという根拠も、どっちも曖昧なのよね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:・・・・・・参ったな。いや、大丈夫。今ある問題としては、二〇二三年の記憶をピンポイントで取り出せないことが一つ、それからあなたがリンギンズなのかそれともリンギンズじゃないのかわからない、ということが一つ。そして、あなたが何者かはっきりしない以上、仮に2023年の思い出を取り出せたとしてもそこに信憑性はない。したがって、まずはあなたが何者なのか、リンギンズなのかそうでないのかをはっきりさせた上で・・・・・・
わたしの言葉はここで一度遮られた。というのも、リンギンズが突然その顔に笑顔を浮かべたからだ。明らかに天然品ではない既製の前歯がずらりと並ぶと、いままで感じてこなかった印象、端的に言って胡散臭い気配が漂い出した。
菫ニードル<D状態のコケシ>:どうかしました? なにも面白いことは言ってませんが。
リンギンズ:せっかく来てくれたあなたが不憫だから、あたしも必死で思い出そうと頭を回転させてたの。そしたら、うっかり思い出し笑いしちゃった。もっと昔のあたし、つまり転生を繰り返す前の最初期のリンギンズはね、今どきの言葉でいうと「脳開示者」みたいな感じ? 別に罪人ってわけじゃないの。昔は今の刑法と違うし。リンギンズは、自分で自分の脳みそを文章データにエクスポートしたがる変人だったのよ。それでね、脳みそは油で出来てるから、きっとエクスポートされたデータは油性のインクで記されてるんだろうな、って言ったの。面白いと思わない?
菫ニードル<D状態のコケシ>:自分から脳を見せつけたがるなんて、そんな変な人がいますか?
リンギンズ:マズローも言ったように、人間の根源的欲求の最上位は自分というものの露出だからね、どんな時代にもいるんだと思う。下半身を集中的に露出したいって人がほとんどだけど。
菫ニードル<D状態のコケシ>:ちょっと待ってください、露出趣味があるんですか?
リンギンズ:道端でね。もしかしたら比喩かも。
菫ニードル<D状態のコケシ>:話の腰を折ってしまい、すみません。続けてください。
リンギンズ:ある日のリンギンズ、というかあたしは、自分の文章が透明な空中楼閣のようになっていることに気づいて愕然としたわけ。透明な文章っていうのは、誰にも認識できない文章ってことでしょ。こんな皮肉は他にないじゃない? だって、開示するための文章のはずが、むしろ書けば書くほど隠匿してしまうんだから。透明なペンで書いた文章よ。しかも紫外線を当てたら光って浮かび上がる、みたいなギミックもない。
菫ニードル<D状態のコケシ>:一度、自分自身とリンギンズを切り離して、客観的に捉え直したほうがいいのではないでしょうか?
リンギンズ:でもあたしはリンギンズなんだから仕方ないことじゃない? あたしはリンギンズであり、同時にリンギンズじゃないの。これは禅問答なんかなじゃなくてつまり、リンギンズってのはそもそも人の名前じゃないのよ、たぶん。
菫ニードル<D状態のコケシ>:違います。だって、リンギンズっていうのは魔術と科学の倫理学についての最初期の理論書である「催眠漂流」の著者の名前ですよ。Re-Liveを使って二〇二三年を股にかけて生き延びた、歴史の証人の一人です。もしかすると最後の一人かも。
リンギンズ:いったいそれは誰に教えてもらった知識?
リンギンズは一冊の電子書籍を空中に投影した。
ピンク色の表紙が目に痛い、「催眠漂流」の表紙が夜店のネオンのように空中に浮かびあがった。
リンギンズ:この本の話をしたい? たしか、この本を書き始めたのは二〇二三年だったはず。・・・・・・ああ、今まさに脳髄が痺れている。笑気ガスを胸いっぱいに吸い込んだときのような陶酔感が、あたしがリンギンズであるということを自覚させるの。一個の人格が空から降ってきて、あたしはそれを羽織る。あたしはそれを着こなしてる。でも同時に、あたしはその服に拘束され、規定されるの。一種の共犯的な均衡状態のなかであたしは何も考えずに、ただ身を任せて漂うだけ。
菫ニードル<D状態のコケシ>:それは「催眠漂流」の中の一節ですね。
リンギンズ:そうね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:あ! もしよろしければ、本の執筆の背景を教えていただけますか? そうすれば必然的に、二〇二三年という時代の一端を垣間見ることができるはずです。むしろ、最初からこうするべきだったのかもしれません。
リンギンズ:これは、リンギンズ、つまりあたしの個人的な解釈に過ぎないんだけど、リンギンズがこの中で描こうとしているのは「愛」よ。あなたもご存知のように、二〇二四年に起こったことを考えれば、二〇二三年は呑気だった。世の中の愛の総量が限界まで減りきった状況だったのに、誰もそのことを真剣に考えようとしなかった。ガソリンの切れた自動車みたいに、今にもすべての機能が止まってしまう予兆がはっきりあったのに。リンギンズは、ガソリンを足そうとしたのね。まあ結果は知っての通り、無駄だったわけだけど。
菫ニードル<D状態のコケシ>:正直な意見を言わせてもらうと、「催眠漂流」が愛を主題としていたとは思えませんでした。もっと、ひねくれた意地悪なことが書かれていませんでしたか。
リンギンズ:作家というのはどんなに人格が破綻していたとしても、どれだけくだらない物語に徹しようとしても、作品の中に一つくらいまともなものを持ち込んでしまうものなのよ。この場合は、愛。
菫ニードル<D状態のコケシ>:すべての短編小説で、ですか?(※催眠漂流は短編小説集という形式を採用している)「あなたは人間じゃない」もそうですか?
リンギンズ:蝶の幼虫も、蝶であることに変わりないでしょ? それと同じことよ。
菫ニードル<D状態のコケシ>:でも、トンボはヤゴじゃないです。
リンギンズ:トンボの幼体でしょ。ああ、でも、それにしても、ヤゴ! あたしヤゴって好き。見るからに下積みって感じがするじゃない。でも、運命はヤゴに羽を与えているのよ。運命とはなにか、それは遺伝子。生まれたときにすでに与えられていたのよ、羽付きの設計図を。幸福な生き物だと思わない? それにくらべて人間は・・・・・・。
菫ニードル<D状態のコケシ>:それはあくまでも獲得されたものですよ、進化の過程で。だから、種の単位でみれば、すべての生き物は永遠の下積みということもできます。
リンギンズ:いい慰めね。でも、生物の進化にはゴールがないでしょう? 終わることのない下積みは、下積みとは言わないのよ。それはね、拷問とか、不幸とか、地獄とか、そういう表現のほうが似合ってるのよ。
菫ニードル<D状態のコケシ>:そんな大げさなものでしょうか?
リンギンズ:終わりのないルームランナー、って言ったほうがピンとくる?
菫ニードル<D状態のコケシ>:・・・・・・では、その愛の主題はどのような方法で表現されているんでしょうか。あるいは、そのテーマのインスピレーションを生んだきっかけなどがあれば教えてください。
リンギンズ:ちょっと待ってね。アーカイブしてるデータにアクセスしたいんだけど、久しぶりだから生体認証がうまく通らないみたい。・・・・・・、仕方ない。
リンギンズ氏が背中に背負った二本のアームが、少し大げさに手を叩いて音を出した。その合図を聞きつけた13歳くらいのメイド服を着た少年が、蓋付きの銀のトレイと白いナプキンを運んできた。メイド服を着ているのに、足元は6センチ以上あるヒールを履かされていて、柔らかさのある絨毯がいかにも歩きづらそうだった。
ありがとう、とは言わずに黙ってトレイとナプキンを受け取ると、視線を使ってそのメイド服の少年を下がらせた。少年は深々とお辞儀して、踵を返すときにスカートが風をまとって膨らんだ。ところどころに洗練された振る舞いが混ざってはいたが、全体としては危うげでおぼこい印象を纏っていた。
すでにリンギンズ氏は首元にナプキンを付け、トレイの蓋を開けていた。トレイの上で厚さ3センチほどの、焼けば美味しくなりそうな生肉が血をにじませていた。「生体認証が通らないときの、奥の手なの。リンギンズの生肉」リンギンズ氏はそう言うと、手掴みで肉にかぶりついた。
読者のみなさまの中には、この行動に驚かれる方もいるかもしれない。しかし生体認証をクリアするために、体内に登録者の生体要素を取り込むことは決して珍しいことではない。リンギンズ氏は、他人の生体情報を盗むような犯罪行為とは無縁のはずだから、おそらく自身の身体を培養して生食可能な部位のみ生産しているのだろう。身体の乗り換え回数の多いリンギンズ氏だからこその苦労に違いないが、どうも手慣れた様子で、5分もしないでぺろりと平らげ、肉からもれてトレイ溜まった血も啜り飲んだ。こうして、リンギンズ氏はさらにリンギンズ氏に近づいたというわけだ。
わたしが吐き気に耐えている間に再度生体認証を開始し、わたしが吐き気に耐えかねて手のひらに胃液を吹き出したときには認証は完了していた。
「さあ、よみがえれ! あたしの二〇二三年よ!!」
▽
二〇二三年を知るためのインタビューは、思いがけずリンギンズ氏の二〇二三年の作品「催眠漂流」を触媒として遅々とした化学反応の道を進んでゆくこととなったのだが、ここに至って唐突な警報が鳴り始めた理由はその道に害獣が出るためでは決してなく、シンプルにコラムの紙幅を迎えそうだからなのだ。
次回をお楽しみに、と素直に書きたいところだが、読者のみなさんはこのままリンギンズ氏のあとに続いて二〇二三年という過去にどうせ戻ってしまうのだし、そうなればここで読んだことなどすべて忘れてしまうのだから、次回をお楽しみになどともったいぶって書いておくのはきっぱりとやめてしまったほうがいいだろう。
"ジャンプ用の浮石としての二〇二三年(リンギンズ氏インタビュー)"へのコメント 0件