勢いをつけて坂を下ると、自転車のブレーキが泣きそうな音をたてた。壊れたければ壊れてもらってもかまわない。しかし壊れたのは坂の終点に顔を出していた、なにやら看板めいたものだった。
その看板めいたものは、自転車がぶつかった刹那、横顔を張り倒された女のような悲鳴を上げた。
金切り声ではなく、ボヨヨン、バキッ、ヒッーという間の抜けた音だったが、世界のどこかにはそんな悲鳴をあげる女がいるかもしれない。
それは黒い十五センチほどの枠の両面に、正方形のプラスチック板が合わさった、「看板」に間違いなかった。飲食店やその他もろもろの店舗がよく使う、どこにでもありそうな「看板」。立方体の胴体から伸びる尻尾のような電気コードが、鉄の黒い足に絡まっている。
自転車のタイヤに正面から衝突されて、ひっくり返った「看板」を、救うためなのか、ただの興味か、目的のわからないまま、自転車から降りた。
手のひらにはびりびりとした衝撃の振動がわずかに残っている。だが決して罪の意識からではない、道にはみ出していたほうにも問題があるのだと手の震えをだまし、「看板」を見下ろした。
胴体部分の真ん中、ほのかに透明感を持った白い表側のプラスチックが割れている。大きな割れ目から、空洞の内部が見える。内側には蛍光管がぐるりと一周していたが、それも見事に砕けていた。
腰を下ろし、無残に割れたプラスチックを囲う枠に両手をかけた。金属の冷たさと、ずしりとした重みが指先にかかる。
ぐい、と四角い胴の部分を引き上げ、黒い足を立たせてみた。
空洞の内側から、割れて入り込んだ破片どうしがぶつかる音、少量の砂が底に落ちていくざらざらとした音が聞こえる。
アスファルトの上で、「看板」はどうにかバランスを保ち、再び立ち上がった。
あらためて、まじまじと、その「壊れた看板」を眺める。
生きているのか、死んでいるのか、わからなかった。
大きく破壊され、何も言わず、立ったまま眠っている。
割れ残った部分にくっきりとした黒字で「喫茶」。
これは「喫茶店の看板」だったのだと納得した。
しかし喫茶店の名前は見当たらない。割れ目から覗き込むと、底に重なっている破片がいくつか見え、なにか書いてあるようだった。内部に手を伸ばす。割れ目は鋭利で、油断をすれば指を切りそうだった。
そっと、息を殺して手を届かせる。
取り出した、刃物のように尖った三角形の破片には、「エリザベート」。
「喫茶エリザベート」。
こんな店がいつからあったのか。
壊れた看板の横には、古い大きな建物があった。二歩、後ろに下がって建物を見上げる。
それは古めかしい洋館だった。
灰色の煉瓦で覆われた外壁にはところどころひび割れていて、うねったラインが黒ずんでいる。アイビーが触手を這わせるように茂っているが、ほとんどが枯れ、茶色く乾いている。縦に長い窓が、上に四つ並んでいる。四階建てのようだ。
窓枠は何度も塗り直されたらしく、水色のペンキがボロボロ剥がれ落ちていた。どの窓も分厚いカーテンで塞がれ、中の様子はわからない。
しかしここが、「エリザベートという名の喫茶店」なのだろう。
喫茶店の入り口はどこなのだ。
店に入らなければならない、そんな気がする。
壊れた看板は修復できるのか廃棄されるのかわからないが、放置しておくほどの度胸は持ち合わせていない。
アスファルトの道路から横に入る細い路地があった。古い洋館の壁と、向かい合う垣根に挟まれ、人がやっとすれ違える程度の道幅だ。
この路地沿いに入り口があるのか、と覗き込んでみた時。
タッツッタッツッタッツッツ。
後ろから軽い足音が聞こえる。
次の瞬間、子供に足を踏みつけられていた。
スニーカーの上にのった柔らかな重み。小さな青い靴がはっきりと見えた。けれど子供が突然現れたことに驚いて、何も言えない。
子供は踏みつけた足も、その横の壊れた看板も完全に無視して、路地に駆け込んだ。そして、あっという間に洋館の角を曲がって消えた。
古い建物に吸い込まれるような消え方だった。
四、五歳の男の子だったろうか。短く刈られた髪と縞柄のシャツ、黄色い短パンの後ろ姿だった。
なにを急いでいたのだろう。
全部無視して。
子供はそんなに忙しいのか。
子供にとって、身体ばかり立派なくせに大した目的もなく佇んでいる「大人」は、道に転がる障害物でしかないのか。
そう思うと少し情けない。子供には大切な用事があったのかも知れないが、子供の世界のことなどわからない。
けれど足に感じた体重は軽く、少しも痛くなかったので、怒りは湧かなかった。
看板がまとっていた埃のせいで黒ずんだ両手を太ももではたき、自転車を道の脇に寄せ、鍵をかけた。
子供の消えた路地に入る。狭い道の片側から、洋館に這う枯れたアイビーのつたが伸びてきて、肩をくすぐる。死んで干からびた植物独特の、太陽と、腐った青臭さのまじった匂いがした。
壁沿いに路地を進んでいくと、喫茶店の入り口はすぐに見つかった。
喫茶エリザベート。
古い建物の壁に貼られた真鍮のプレートには、控えめに、黒い筆の楷書体でそう書かれていた。文字は横書きで、右から左へわずかに傾いている。
その横に小さな扉があった。
窓枠と同じ水色のペンキで塗られた木枠に、ゆらゆらとした大正期のようなガラスがはめ込まれている扉。こちらは念をいれて塗り重ねられたのか、一部も剥げることなく艶を保ち、木の匂いはずっと奥深くに閉じ込められていた。
真鍮の丸いノブを回すと、少しぐらつく。押すのか引くのかわからないので、とりあえず押してみると、ギシシと壊れそうな音をたてて扉は開いた。
いらっしゃいませ、というお決まりの文句はなく、入るのを躊躇するほど視界が悪い。店の中に霧が立ち込めているのかと一瞬戸惑うが、鼻から思い切り吸い込んでしまった匂いで、漂っているものが紫煙だと気がついた。
煙がもうもうと、室内を満たしている。
強い香りの煙が、開いた扉に向かって流れ出してくる。全身が灰まみれになるように思えるほど、濃厚な紫煙だ。髪も服もすぐに煙草臭くなり、目にしみてうっすらと涙が出そうになる。
浮雲の間に隠れた月を探すような気分で煙の向こう側に目を凝らすと、入り口の正面には壁があった。
額絵が飾ってある。薄暗さと煙のせいでどんな絵なのかはわからない。
店の奥からは人の気配が感じられ、結構な人数から発せられる低いざわめきも聞こえる。営業しているのだ。
店の中に入る。カーテンがしめきられ、自然光の届かない店内に漂う煙が、舞台のスモークのように白熱灯で照らされていた。あまりにも煙草の匂いが強烈だったが、かすかにコーヒーの炒られた香りも混じっている。
あちこちでぼくぼくと吐き出されている紫煙に溺れながら、数歩足を進めたところで店内を見渡す。
左側にある濃い木目のカウンターは見える範囲で十席以上ある。壁側に置かれた正方形の二人掛けテーブルも、突き当りの窓際まで、数えて六、七席はあった。
カウンターもテーブル席も全て客で埋まっている。ほとんどの客は手に煙草を持ち、煙をのぼらせていた。入ってすぐのカウンターに腰掛けている老人は、つやつやとした濃い茶色のパイプをくゆらせている。ぱはぁ、とエクトプラズムじみた煙が、皺で縮んだ唇から飛び出す。
老人だらけ。
充満する煙の中で、客の平均年齢の高さに包囲されていることに気が付く。
パイプの老人は少なくとも六十代後半。
カウンターに並ぶのは、栄養分を使い果たした頭髪の数々。白、灰色、黒白、奇妙に艶めく真っ黒、あるいは荒野。というか毛のない地肌。
煙草を持つ手の甲の皮膚は、かろうじて内側の血管をコーティングしている。
そしてこれら老いの気配がみな、ものすごく近い。
丸い緑のスツールに座ったパイプ老人の後頭部は、自分が少し横を向けば、その白髪の混じった襟足に鼻を埋めてしまいそうなほど接近している。
狭い店内の壁際に、無理やりテーブル席を置いているからだ。
通る道はただ一つ。左右どちらに身体をずらしても、カウンターに座っている客の背中か、テーブル席の客の肩に当たってしまうだろう。
そんな狭さだったから、パイプ老人はじめ、ぼそぼそと喋りながら煙を吐き出す客達の顔の皺、せりあがった額の怪しげな輝き、どこか夏の終わりの蝉を思わせる褪せた肌、煙の奥から覗く美しすぎる歯並びなどに気付かないわけにはいかなかった。不自然なほど整った入れ歯達は、時折カチカチと意味もなく噛み合わされている。
残念なのは噂の「加齢臭」が紫煙にかき消されていることだ。これだけ老人が密集していれば、芳醇な香りを楽しめただろうに。
店主はどこにいるのだろう。
せめて店員でもいい。看板を壊してしまったことを告げるために、この店に入ったのだから。
しかし老いた後頭部が並ぶカウンター内には誰もいなかった。
カウンターの背後には、黄ばんだ壁が立ちふさがっている。その前の台にはコーヒーカップやグラスなどと共に、大きなコーヒーミルが置かれ、大量のコーヒー豆を粉々にしていた。
豆が細かく砕ける景気のいい音が店のBGMだった。音楽はかかっていない。カウンターの内部からは、紫煙と判別がつきにくいが、湯気のようなものも立ち上っている。
何故コンロやミルの側に誰もいないのだ、この店は。
レジも何処にあるのかわからない。
老人たちの囁きや、ふぉふぉふぉといった低い笑い声などが、濃密な紫煙と豆を挽く音に混じって聞こえてくる。
軽い酩酊のような混乱に襲われ、はやいとこ謝るなりなんなりして帰ろうと決めた。こんなわけのわからない場所に長居はしたくない。
店員もしくは、話しかけやすそうな人はいないかと、すぐ横を見下ろす。
テーブルに、濃いコーヒーの注がれたカップが二つ並んでいる。
ところどころ剥げた、金の縁取りがあるコーヒーカップの横で、ささくれ立った分厚い手と、筋張った鶏の足のような手が向き合っている。指先がじっとりと重なっていた。鶏の白い薬指には大きな指輪。昆虫のように見える緑色の宝石はオパールか、それとも瑪瑙か。
宝石には興味がないので視線を動かす。
老女のカールした白髪。
老女と向き合っている老人に目を向ける。艶々した広い額の上までかかげた煙草の灰が、今にも落ちそうだった。
右手で煙草を持ち、左手を老女の指に重ねているこの老人は、いつコーヒーを飲むつもりなのか。
不意に老女が顔を上げてこちらを見た。
「こんにちは」
そう言って微笑む老女は、ピンクの口紅をして淡い黄色の花柄ワンピースを着ている。煙草は吸っていないが、灰皿には細長いキセルが置いてあった。ふわふわとした白髪とその乙女チックな衣装は老いた妖精を思わせる。
「あ、こんにちは」
「あなた、そんなところに立って何をしてらっしゃるの」
口の周りに皺を寄せ微笑む老女を、向き合った老人はうっとり見つめたままだ。老女と煙草以外にはなんの興味もないという表情だった。
おずおずと尋ねてみる。
「あの、店員さんはどこにいるのでしょうか」
「さぁ。さっきここにコーヒーを運んで向こうへ行ったわ。お忙しいのじゃないかしら」
老女は言いながら、空いている手で店の奥を指差した。示すほうに目をやるが、店員らしき姿はなく、ひたすら老いた客ばかり。
「あっち、ですか? いないようですが」
どれどれ、というように老女は身体を動かさないまま首だけ回す。機械のようにコキコキと捻られた首にも枯れた筋が浮き、眼球の血管が破裂しそうなほど目を見開いて、店の奥を見る。
「そこじゃないのよ。もっと奥。あなた、この店はあなたが思っているよりもずっと広いのよ。奥に行けば一つくらい空いた席が見つかるわ」
励ましなのか厄介払いなのかわからない言い方だった。
老女は勝ち誇ったように微笑んで、眼球と頭を元に戻し、老人と再び見つめ合う。
若い人は何も知らないから困っちゃうわね、でも優しくしてあげないと。
老女の微笑みはそう言っているようだった。
老女が満足げにコーヒーカップを片手で持って一口啜り、ショッキング・ピンクのマニキュアが輝く指先で、カップの縁についた口紅を拭き取るのを見届けてから、奥に進んだ。
突き出された老人達の足に、二度つまずきながら、カーテンの引かれた窓のある突き当たりまで来ると、通路のような店内は九十度左に折れた。
なるほど、確かにこの店は思ったより広いようだ。
カウンターは曲がり角で終わっていたが、そのかわりにショーケースが置いてある。向かいの窓側にも二人掛けの席がずらっと並んでいた。
白いクロスのかかったテーブルを挟み、緑色の布張り椅子が、通路側と奥の窓側に置いてある。
一体何席あるのか。十五、十六? ここも満員かと思ったが、空席があった。
一番手前の席には、意外なことに若い、おそらく二十代と思われる男が窓を背に一人座り、本を読んでいる。その隣が二席空いていた。
空席の向こうには、太った老人と流木のように細い老人が向き合って、何やら真剣に議論しながら煙草をふかしている。太った老人の髪は黒々しているが、明らかな、かつら。
かつらなどどうでもいい。
背後に気配を感じ振り返ると、黒いワンピースに白いひらひらのエプロンをつけた女が、入り口の方から、こちらに向かって歩いてきていた。
今までどこにいたのかわからないが、空席よりも価値ある店員発見に、思わず声が上ずる。
「あの!」
黒いワンピースの女、いや店員は、自分の大声に立ち止まった。その声は同時に店内も揺さぶったらしく、何人かの客の視線を集めてしまった。
わずかな静寂。
――老人達が無遠慮に自分を見ている。自分はうつむく。品定めのように上から下まで眺められることが不快だった。そんな視線は少しも自分を高揚させない。見られてもいいのは、自分が望む時だけであり、あなた達の視線からは何も得るものがない、と文句を言いたかったが、老人の数が多すぎる――
再びざわめきが始まった。
顔を上げると、うつむいていた間に店員は目の前まで迫ってきている。
「どうぞ」
店員は感情のない声で言い、空席を指差す。ハイル! の下向きバージョンのようにピッと伸びた肘、指先。彼女は四十代だろうか。光沢のある黒い髪を一つにまとめ、化粧気のない蝋のような顔でこちらを見ている。
「いえ、そうではなくて……」
言いよどんでいると、急かすようにもう一度空席を指差す。ハイル!
「コーヒーでよろしいですか」
その言葉は反論の余地などないくらい毅然としていた。迫力に負けて頷く。
店員はすっと体を横にして、自分とも客たちとも接触することなく通り越していった。
振り返ってその姿を見送る。きゅっとしたエプロンの結び目が映える、肘や指と同じく、きちんと伸びた店員の背中は、突き当たりを左に折れた。
その先は未知の領域だ。
とりあえず、命令に従って座ろう。
二つの空席はどちらも、他と同じく直線的なデザインにモケット生地のはられた古い椅子だったが、それぞれ座面のへたりや生地の剥げ方がわずかに違う。
かつら老人の側を避けて、店内では浮いた存在である若者の隣に決めた。
しかし、席の配置は無理やりだ。
テーブル同士の隙間はわずか二十センチほどで、人一人満足に通れない。その狭いテーブルの間を、お尻を引っ込めながら身体を横にして抜け、やっと奥の席に座った。
座り心地は悪くない。使いすぎてへたってしまった椅子のクッションが、もんわりと下半身を支えてくれた。
腰を下ろした瞬間、どこからか、つんとしたアンモニア臭が漂ってきた。
煙草の匂いを切り裂いて届いてきた鮮烈なアンモニア臭ではあったが、それは一瞬のことで、すぐに気にならなくなった。
煙草の煙にかき消されたのか、瞬時に匂いに慣れてしまったのか、わからない。実際は周囲に、煙の匂いとアンモニア臭が、互いを消し去さろうと争うように混在し続けているのだとしても、慣れてしまえば気にならない。
そして、気にならないのであれば、無いと同じ事だ。
とりあえず持っていた小さな布の鞄を膝の上に置き、一息ついた。
椅子に座ると少し緊張がほどけ、滑稽なのだこれは、と気がつく。
なにをやっているんだ、こんなところでコーヒーなんか飲んでいる場合じゃないだろう、と責める。
すぐに、どうせ今日は暇だったのだと思いなおす。
暇だったから、坂道を思いきり自転車で下るなど、いつもとは違う事をしてみたかったのだ。
引っ越してから一年も気がつかなかったこの店にしたって、コーヒーは美味しいのかもしれない。なにせこの混み具合なのだから。
窓を背にした席からは、店内がよく見えた。
正面にあるショーケースの背後には、カウンター側から直角に折れた壁がしばらく続いているが、その端は未知の領域方面に向けて奥に折れている。
この店はどうやら大きなコの字型をしているようだ。
コの字の壁に沿ってカウンター、ショーケースが囲み、さらにその周囲にテーブル席がめいっぱい置かれている。コの字の壁は煙草のヤニで黄ばみきっていた。内部は調理場か倉庫にでもなっているのだろうか。
座席の向かいにある、ガラス張りのやけに横長なケースの中には、なにやら色々並んでいるが、よく見えない。もう一度立ち上がってケースの側まで行くのも、めんどうだった。
WTV ゲスト | 2009-08-12 17:19
次回どうなるのか?固唾を呑んで見守っています。