私は不安を胸に、ICカードを取り出した。総務部でA4の表裏にわたる書類への記入と引き換えに入手したカードだ。もし期待通りに動作しなければすべて徒労になってしまう。恐る恐るカードを読み取り部にかざすと、無機質な電子音とともに重い鉄扉が解錠された。私はあからさまな安堵の表情を見せながら振り返った。
「こちらです。足元に気をつけて」
私の視線の先には三十代くらいの女性がいる。肩上ボブの黒髪と切れ長の目が意志の強さと知性を感じさせた。牧田真希子といえば、フランス文学研究者の間ではそれなりに有名らしいが、私をはじめ警察関係者にとっては『コロシの牧さん』こと牧田常典の妹、と言った方が通りがよい。牧さんの面影をぎりぎり残してはいるが、それも私の知る現役時代の牧さんの話。今現在の牧さんとは、似ても似つかない。
「不便な場所にあるんですね」
化粧気の希薄な顔の中で唯一しっかりルージュを引かれた唇の端を上げ、真希子は言った。
「滅多に出し入れしないものばかりですからね」
S県警本部から一時間車を飛ばしてきたここは押収品のなかでも還付のあてのないものや裁判の長引きそうなもの、本部の倉庫に置くには場所をとりすぎるもの等を保管する倉庫である。中に入ると、背の高いスチールラックが並んでおりラベルを付けられた紙箱が収納されている。さらに奥へと進むと、大物を保管する広いスペースがあった。
例のピアノはそこに蔵置されている。
「これですね」
「はい、どうぞ触れてごらんください。弾いてもいいですよ」
真希子は鍵盤蓋を開けたり屋根を持ち上げたりして状態を確認する。それからおもむろに曲を弾き始めた。私の知らないクラシックの曲だった。素人の私でも分かるくらい、調律が狂っている。
「気に入りました。是非とも欲しいですわ」
「ですが……」私は躊躇しながら言った。「いいんですか? これいわゆる『事故物件』みたいなものですよ」
「構いませんよ」真希子は屈託のない笑顔を見せる。「こんな状態のいいスタインウェイが格安で手に入るんですもの」
正確にはこのピアノは警察の証拠品ではない。元の持ち主は殺人事件の被害者となり、まさにこのピアノの上で絶命した。事件自体は唯一の容疑者が不起訴処分となり、迷宮入りの状態にある。ピアノは被害者の遺族に還付されるはずだったが、遺族が相続税を払えなくて相続放棄したため、形式的には国税局の所有に帰属している。それがまだ警察の倉庫にあるのは重量物の運搬を嫌った国税局と県警の怠慢の結果である。
おかげでこうして競売前の現物を真希子に見せられているわけだが、それだってグレーゾーンの行為だ。ましてや競売にあたって真希子に便宜を図るのは職権濫用にあたる。私はそこまではできない旨、真希子に念を押した。
「承知しております。競売で坂本さんのお力を借りるつもりはありません。競りだろうと入札だろうと、落札してみせますわ」
この自信はどこからくるのだろうと思うが、無理もない。ピアノもテニスも全国大会レベルの実力、旧帝大を出てパリに留学し、フランス文学界の新星として凱旋を果たした。神は二物を与えずというが、与える者には三物も四物も与えるらしい。
牧さんにとっては相当なプレッシャーだったろうな、と想像する。出来の良すぎる妹をもてば常に比較される。『コロシの牧さん』の異名をとって鬼刑事として恐れられた彼に、どこか陰がついて回っていたような気がしたのはそのせいかも知れない、と私は思った。
真希子がやにわに振り返ったので、彼女の後頭部をまじまじと眺めていた私は慌てて目を伏せた。
「ご存知です? このピアノの持ち主が上げていた動画、まだネット上に転がってるんですよ」
「はい、聞いたことあります」私は面を伏せたまま答えた。
被害者はYouTubeに、アニメや特撮のコスプレをした状態でその主題歌をピアノで弾くという動画を上げていた。顔は絶対に映さないが、そのスタイルの良さと露出度の高さで再生回数は毎回100万を超えるという人気YouTuberだった。
本人の死後、動画はすべて削除されたが、ダウンロードされた動画はネット上でやりとりされ続け、今でもちょっと検索すればすぐ手に入る。私も捜査段階で少し見たことがあるが、中には裸同然の際どいコスプレもあって、男性ネットユーザーを中心に人気があったのもうなずけた。
「坂本さん、このピアノ家に置いたら夜とか持ち主の幽霊が出たりしませんかね」
真希子は涼しい顔で言ってのける。私はどう返答してよいものか考えあぐねた。
「それは……ちょっと怖いですね」
「そうですか? あれだけの美人だったら、私、幽霊でも会ってみたいものですわ」
やっぱり牧さんの妹は普通じゃない、と私は内心舌を巻いた。
翌日、私は繁華街へ向かっていた。コインパーキングに車を駐め、歩いてすぐのところに雑居ビルがある。ビルの一階に個人経営の小さな整体院が入っていた。雑居ビルの屋上には広告パネルが設置されており、最近公開が始まったアニメ映画のビジュアルが貼られている。近年量産されている、童顔で胸ばかり大きな少女たちが描かれた広告だ。前に来たときは、同じアニメでも今や『世界の安野』と称される安野日出明監督の最新作の広告だったが、事情があってその広告は短期間で掲載を終了した。
安野監督は昔の名作アニメや特撮をリメイクして『シン』の接頭辞を付けて映画化しまくっていた。『シン』シリーズは映画自体の出来は良く、安定してヒットしていたが、一部の原作ファンからは「コレジャナイ」とブーイングを受けていた。『シン・ナウシカ』や『シン・うる星やつら』まではまだぎりぎりセーフだったが、『シン・ベルサイユのばら』に手を出してしまった安野監督は激怒した原作ファンにJR宇部新川駅を出たところでフランス近衛隊仕様のサーベルのレプリカでめった刺しにされて死亡した。
安野日出明監督作品の広告が掲載終了した事情というのがそれである。
私は改めて居ずまいを正すと、整体院の入口をくぐった。
「いらっしゃい」
客は一人もいなかった。診療室の奥で背の低い老人が事務椅子に座っていて、私を射るように見ていた。
「こんにちは、多胡さん。景気はどうですか」
「見ての通り、良くはない」
老人は微笑を浮かべながら、言った。元警察官の多胡は現役時代『ノスタル爺』と呼ばれていたが、今彼をその名で呼ぶ人はいない。
「今日は何の用だい、坂本」
「いや特に用事はないんですけどね」私は無人の施術ベッドを見やった。「牧さん……牧田元刑事の妹が日本の大学に仕事を見つけて帰ってきたんですよ」
多胡は回転椅子をこちらに向けた。
「まだあの事件、調べてるのか」
ピアノYouTuber殺人事件は実質迷宮入りとはいえ、公訴時効は成立していないから捜査は継続されている。しかし捜査本部解散から七年が経ち、新証拠も何もない事件に進展があろうはずもない。重要参考人だった『ノスタル爺』すなわち多胡が証拠不十分で不起訴になったことで、この事件に関しては時間が止まったままである。
牧さんが担当していた事件だから私が引き継いだのだが、どうも厄介な案件を抱え込んだものである。厄介さでいえば、安野日出明監督刺殺事件に劣らないくらいだ、と思う。その事件、容疑者は捕まっているものの、犯人は監督に殺意を抱くほどの熱烈なファンでもなければ、凶器のサーベルの入手経路も不明のままなのだ。私はY県警の捜査員に同情した。
「多胡さん、牧田真希子とはもう会っていないんですか」
老人は急にその会話に興味がなくなったように、冷えきった鉄のごとき顔をした。
「儂が誰と会おうが勝手だろう」
「仰せの通りです」
「じゃ何故訊く」
「仕事ですから」
ふんっ、と多胡は鼻を鳴らして回転椅子を半周回す。
「終わった事件のことをいつまでもつつき回すんじゃない。お前の給料は税金から出てるんだ。もっと有効に時間を使え。安野日出明監督を刺した犯人を捕まえるとかな」
「お言葉ですが、安野監督の事件はY県警の管轄ですし犯人は現行犯で捕まってます」
多胡はだしぬけに笑いだした。その声があまりに大きいので他人事ながら近所迷惑を心配するほどだった。
「これだから若いもんは。おい小僧、あの牧田とかいう刑事の爪の垢でも煎じて飲め。例のピアノ弾きの事件、死体発見の二日後には儂にたどり着いたぞ」
「やっぱりあなたが犯人だったんですか、多胡さん」
「そうだとして、何だ。自白だけじゃ有罪にはできんぞ」
埒が明かなかった。私は忸怩たる思いを抱えながら整体院を辞し、帰途についた。明日、刑務所に行って牧さんに接見してみよう、となんとなく思った。多胡の言葉が引っかかったというわけでもないが、しばらく牧さんの顔も見ていないし、たまには会いに行ってやろうと考えたのだ。
F刑務所の面会室で待っていると、アクリル板の向こうにやつれた男が現れた。
かつて『コロシの牧さん』と呼ばれた鬼刑事の姿は見る影もない。身体は半分くらいに縮んだように見え、肩はないといってもいいほど下がっている。落ち窪んだ眼窩の中にある生気のない双眸は何処を見ているか判然としない。牧田常典は椅子に座っても俯いた顔をそのままに、私の方を見ようともしない。かさかさに乾いて薄皮のめくれた唇からは、私が何を言っても返答らしきものが出てこない。ただ時々、呻き声を口の中でくぐもらせた残りかすみたいな音が微かに洩れ聞こえてくるだけである。
「牧さん、妹さんが帰ってきましたよ」
真希子は帰国後まだ一度も接見に来ていない。殺人犯で受刑者の兄とはもう縁を切ったということだろうか。彼女の前途に輝く明るい未来を考えればそれは賢明な選択ともいえた。
「頑張ってください、あと三年真面目に務めれば、仮釈放も見えてきますから」
牧さんは依然として反応しない。
「じゃ、また来ますよ牧さん。そうそう、昨日『ノスタル爺』に会ってきました。何年かかろうと、あいつの尻尾は必ず掴んでやりますよ」
牧さんが顔を上げたような気がした。『ノスタル爺』の名前に反応したように見えたが、一瞬のことでよくわからなかった。
「ばら……うま」
私が暇を告げて面会室を出ようとした瞬間だった。たしかに牧さんはそう呟いた。
「今、何と?」
振り返ると、牧さんは刑務官に腕を引かれて奥へと消えてゆくところだった。
「すみません、待ってください」
刑務官が待ってくれるはずがない。ドアの向こうに姿を消す直前、牧さんはこちらを振り向いて微かに口を動かした。
(マー)
カサカサの唇は確かにそう動いた。私は牧さんが妹のことを「マー」と呼んでいたことを思い出した。
二ヶ月後。
牧田真希子からメールが来た。真希子は国税局の競売にかけられたスタインウェイを見事に落札していた。
「私YouTuberになりました。匿名ですけど、坂本さんにはお教えしますね」
メールに書かれていたURLをクリックすると、『MaPiano』という登録者一万人のYouTubeチャンネルが表示される。始めたばかりで一万人はかなりのものだ。おすすめのトップに表示されている動画を見て私は戦慄した。
「薔薇は美しく散るを弾いてみた」
そう題された動画のサムネイルは、宝塚みたいなフリフリの衣装とウェーブのかかった金髪のウィッグを着けた女がスタインウェイの前に座っているものだった。顔は隠れているが、間違いなく真希子がコスプレをしているのだろう。
「ばら……うま」
「マー」
ばらばらであやふやだった牧さんの言葉と目の前の動画が生き物のように動いて繋がっていく。安野監督に殺意を抱くほどの熱烈なファンが実行犯の背後にいるとすれば、動機についても凶器の件も説明がつく。
多胡さんは正しかった!
私は上着を掴んで立ち上がった。
千本松由季 投稿者 | 2021-11-14 16:11
複雑なカッコいいサスペンスですね。『ベルサイユのばら』のファンは確かに危険な感じがします。近寄らないにこしたことはないです。
古戯都十全 投稿者 | 2021-11-18 21:02
今作を読んでから前作を読み返し、さらにもう一度今作を読みました。かなり楽しめました。今回はスピンオフということですが、他のキャラにもがぜん興味がわいてきました。スピンオフに次ぐスピンオフで、どんどんずれていってほしいです。ノスタル爺の過去とか。
コメディなのかミステリーなのか、そんなジャンル分けの範疇を超えているところに魅力があると思います。
春風亭どれみ 投稿者 | 2021-11-21 11:36
パロディ精神溢れる作品で、「多胡さんのモデルってやっぱりあの人かな?」とかいろいろ考えながら、面白く読ませていただきました。
大猫 投稿者 | 2021-11-22 22:05
ノスタル爺再登場ですね。
恥ずかしながら前作の詳細を忘れてしまっていて、ほぼ初読に近い感じで興味深く読みました。
コロシの牧さんが妹のために実行犯となったと言うことでしょうか。そこまでする動機をもう少し深掘りしてほしかったです。
曾根崎十三 投稿者 | 2021-11-23 12:09
コミカルなタッチで面白かったです。
前作と併せて読みました。
私の読み不足だと思うのですが、オチがはっきり分からなかったです。
「シン・ベルサイユのばら」で安野監督を殺した犯人を操った真犯人が妹だったとは思ったのですが、それ以外も何かありそうで分からなかったです。
そして、ノスタル爺のネーミングはいつ見ても秀逸です。来月はディッセン婆とか出てくるかなと思いました。
松尾模糊 編集者 | 2021-11-23 14:25
ノスタル爺、牧さん、キャラが立っていていいですね。懐かしいです。シリーズ化できそうですね。ミステリ、サスペンスの良い読者ではないのですがこういう作品が書けて羨ましいです。
一希 零 投稿者 | 2021-11-23 14:33
ノスタル爺、、!懐かしかったです。キャラが立っていて、読んでて楽しかったです。
波野發作 投稿者 | 2021-11-23 15:20
ノスタル爺人気ですね。自分もファンです
Juan.B 編集者 | 2021-11-23 17:36
この題材でサスペンスをやるとはどんな展開になるのかと思ったが、キャラの立ち方を生かした面白い作品に仕上がっていた。ノスタル爺にはこれからも頑張ってほしい。
小林TKG 投稿者 | 2021-11-23 19:23
シンってつけたらなにをリメイク、リブートしてもいいんだ。便利だなあww