上野は日本の誇る文化都市である。
たとえ、糸のほつれた虎のスカジャンを着た浮浪者が修学旅行生に罵詈の言葉を撒き散らしていても、早朝シルバー割のストリップ帰りの吐き捨てた痰でうっかり新しい靴を汚してしまっても、京成上野には、幾重にも折り重ねられた自由七科の綾がある。
黒船亭のオムライスをたった一回我慢する分別さえあれば、フランダースのネロが命を懸けて見たがっていたルーベンスの絵を労せず観覧することができるし、素粒子に還って、人類の進歩と闘争の歴史にそっと思いを馳せることも容易い。妖刀の光にうっとり、二枚目役者をシンクロさせつ見惚れて日がな一日過ごすのもいいだろう。
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それらは皆、上野の森に咲く花であり、実る果実なのだから。
ちょうど北風吹き荒び型落ちのiPhoneを撫でる指先も悴む、なんちゃってスプリングのこの時期は旧暦では春節にあたる為に、大陸の方からも沢山の観光客が訪れ、上野の森は牡丹をこさえて彼ら彼女らを出迎える。
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そして、あなたもまた同様に歓待されているのだ。花を愛で、床机に腰掛け、一句読んでみるのも乙だろう。
しかし、中韓、ベトナム、台湾、シンガポール。殊更特別、平成最後の春節がアジアの風を強く纏っているのは、何も純真無垢なパンダの赤ちゃんがいるからでも、円と元が織りなす気まぐれのせいでもありゃしない。
上野の森に、顔真卿が来るからだ。
翆玉で出来た白菜や、豚肉の化石にも伍する故宮博物院の至宝と讃えられる名筆「祭姪文稿」が遠路はるばるこの日本東京の上野の森にやってきたのである。しかし、侘び寂びよりも恥ずかしいくらいに褒めちぎるあちらの批評家をして「画(線)は、雲の如し」と、讃えられる逸品であっても、書というものは、琥珀を溶かしたスープの色も、亜麻色の乙女のキューティクルヘアーのような麺の形もしていない。もっと、スピリチュアルなものである。究極、見るだけでは宝石のようには感動できない。読めなければ、ならない。
篆書を見ても、ぽんぽん印鑑、三文判子。会社勤めの辟易しか浮かばない。ちょっと達筆な草書の年賀状なんて送られてきても「賀正」しか読めずにあとはぽいっと宝くじ待ち。まして、漢字で「ニイハオ」って、どうやって書くのレベルな僕が、私が、春風亭どれみが、見ても心を動かすものがあるのだろうか。そう思って、一度はこの展示をスルーするつもりでいたのだけれども、どうやら、顔真卿が得意とするのは楷書と行書。特に楷書は今の形を完成させた古代のフォント職人でもあるという我々にも深い馴染みのある人物だということで、拝見することを決める。「祭姪文稿」の熱いメッセージを浴びると決意し、チケットを握りしめ、特別展に向かう人混みにまぎれる。
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そこは祀られた文字たち、一字、一字が憑りつくように訴えかける小さな宇宙だった。
漢字の呪術性を唱え続けた白川静氏の言説も今ならもっとすんなり腑に落ちるのではないかと、眉につけた唾の無意味さを知る。そして、とある展示でふと天の川に隔てられるように引き離された二つの字が目に留まる。
「平」。そして、「成」。あと、三か月もしないうちに幕を下ろす、西暦にして1989年から2019年までといささか中途半端な区切りで仕切られた私が生まれてからずっと続いてきた一つの時代を示す二つの文字だ。偽書から出典してしまったせいか、「地平らかに天成る」の一節は全くの皮肉に思えるほどに、心を傷める天災に見舞われた三十余年だった。しかし、同時に明治大正昭和と続き、初めて、「内平らかに外成る」と、戦争も内紛も起きなかった時代でもあるのだからと、文字の訴えに敬虔になってしまう自分に気づく(勿論、文字が勝手に働きかけた結果だけではないことも承知である)。
だから、IoT時代にそぐわないからと新元号にネグレクトを決め込むのも忍びないじゃあない。慮られた「おきもち」自体は、二年も前に発せられたのだもの、文句は例の会議に言うことにする。ひょっとして、まだ決まってないんじゃないの。
そうこうくだらないことを考えているうちに、私の前に禍々しいほどの「哀」、「激」、「怨」が立ち込めてくる。目を落とすと、力いっぱいに漲った筆の痛みと墨の涙の跡がもうそこにはあった。鉤は屈金の如く、戈は発弩の如く。おまけに怒りに任せて、文字をぐちゃぐちゃに塗りつぶしているところまである。
(嗚呼、これは熱血漢の字だな……)
そんな気がしたし、気にさせるものがあった。その文字には楊貴妃のような艶やかさはない。なんだか不愛想で朴訥としている。戦と禍に引き裂かれたゲルニカみたいな書だ。血の気の多い先史の皇帝たちはお気に召すかもしれないが。また来る時代にはそんなには愛されない書なのかもしれない。もっと私も含め、今の、これからの人々はチャーミングなフォントを求め、好むはずだから。
それでも、その字のとめはねに首をひん曲げられて、有無を言わさずにその書の叫びに胸を貸す、貸さざるを得なくなる。ふと目に飛び込む「元年」の文字。そうだ、もうすぐ元年なのだ。せっかくだから、この時代遅れの文体をした文字列に掌を翳す。保守だ、保守だとうたう割には、四書五経を嫌って、例えば日本書紀から~と、前例のないことをしてきそうな雰囲気はあるけれども、文字自体は普遍的なものを選ぶだろう。翳した掌を画数の少ない文字の前で、ぎゅっと握りしめる。
握り拳の中のその文字は、新しい時代に選ばれるのだろうか、それとも——。
特別展の、特に「祭姪文稿」は本来門外不出の逸品なので、当然、写真撮影とSNSへの投稿はいけません……ちゃんと大人1600円、高校生なら900円(中学生以下は0円、スマイル!)、払ってみましょうね。それから、フォントは大事、フォント職人も大事。文自体はここでもあっさり転載できるもん、それでも、どうにも、いやはや……。
春風亭どれみ 投稿者 | 2019-04-01 20:23
追記。
令和。名もなき人々のさまざまな種類の歌をおさめた万葉集を出典し、『文選』からもカバーするなんて、識者はやはり識者なんですね。