(第14話)
駅で内田と別れた依本はぜんぜん呑み足りなかったので、「大葉」の暖簾をくぐった。
いつもの壁際がうまい具合に空いていて、落ち着く場所を確保できたことに満足する。この位置はゆったり座れるのだ。依本はオヤジに一言、パンダと告げた。
「お、最初からホッピーかい。どこかで一杯やってきたんだな?」
「あぁ。そうそうここばっかりにカネを落としてるわけにもいかないかんね」
「ヨリさんの飲み代に頼ってるようじゃ、ウチはつぶれちゃうよ」
「でもけっこうな金額になってるはずだぜ」
軽口を交わしていたが、生が切れたとアルバイトが言ったのでオヤジは樽を取り替えるために依本の前から去った。
それにしても、ドライと言ったらいいのか、手応えのない呑みの場だった。もう世の中全体がソフトになって、昔の豪傑作家に編集者がトコトン付き合うといった構図など人々のイメージでしか残ってないのだろう。
依本は作家になったばかりのとき、やはり似たような感覚を持った。そのときの担当編集者が女性だったこともあり、打ち合わせと称して呑むということが一切なかった。それどころか顔を合わせるのもたった数回で、メールのやりとりでほとんどが進んでいった。
どうも世の中が、出っ張りのないツルンとしたものになってしまったようだ。もっともそんな時代だから、自分が書いたような工場労働者が珍しがられたということもあるだろう。ヤマ場もオチもない淡々とした話でも、出っ張ることができたのだ。隙間産業なので爆発的なヒットとはいかなかったが、とりあえず世に出ることはできた。これがひと昔前だったら工場の作業員などありふれた仕事だったので、世に出ることはなかったにちがいない。その点で得をしたのだから、呑みの場で手応えがなくなったくらいで文句を言うのは筋違いなのだろう。依本はそう考え、納得もした。
しかしどうにも気持ちに荒々しい風が吹き、依本は角が取れて丸くなった世の中に抵抗するように、『ソト』をあまり注がないでホッピーを呑んだ。休みなく書かなければいけないのでここのところ抑え気味に呑んでいたが、今日は通常のペースで呑みたい気分だった。
たいして『ソト』が入っていないホッピーだが、依本は一応割り箸でかき回した。そして胸のポケットから文庫本を出す。夏用ジャケットは生地が薄くてポケットも大きくないが、詠野説人氏の本は薄いので、楽に収まるのだ。
最初に投稿したときから新人賞を取るまでに、依本は10年かかった。社会人になってからの10年は人によってまちまちで、長くもあり短くもある年月だ。出世の階段を登るエリートサラリーマンにはあっという間の時間だろうし、惰性でルーティンワークをこなす労働者にはとても長い時間だ。とにもかくにも、要した年月を顧みるとさまざまな思いを抱く。パッと賞を取って華々しくデビューした若手作家を知れば、こんなにも年月を要してしまった自分は彼らの欠片ほどしか才能がないんだなぁと落胆した。しかし曲がりなりにも賞を取るところまで辿り着いたのだ。多くの人間が一次選考通過すら経験しないこの世界で、受賞してデビューしたんだからたいしたものだ。そう感じることもあった。
「その新人賞作家が、今やゴースト作家ときたもんだ」
依本は顔を上げてホッピーを口に持っていきながら、呟くとはなしに呟いた。今回依頼が来たのは、カツカツながらも文章の世界で暮らしている恩恵なのだろう。著作があり、賞に名前を残している人間だから、内田が候補に挙げるきっかけになったはずだ。これが工場労働者のままだったなら、出版社からの依頼など間違っても来ることはなかった。賞を取る取らないというのは、大きいということだ。もっともゴーストの依頼が恩恵と言っていいか、依本自身よく分からない。
それにしても、ここまで詠野作品を快調に書いていけるのが、依本には意外だった。話の展開が次々頭に浮かび、それを的確な言葉でつなぎ合わせていける。ゴーストライターの立場でなんの気負いもなく取り組めるからかもしれないが、そうなると、書いているときのこの気持ち好さを説明できなくなってしまう。
最初いい調子で書けたのは、仕事から遠ざかっていた渇望感からの反動だと思っていた。腹が減ったときに嫌いな食い物でも美味しく食べられるように、依頼があればとにかくどんなものでも書きたい、という渇望感がページをどんどん埋めていったのかと思っていたのだ。しかしここまで快調さが維持されることに、依本は心底首を傾げた。もしかしたらこれは、自分に合った文体なのかもしれない。言ってみれば新境地で、この文体や作風なら筆も止まることなく、量産していけるのではないだろうか。
――― そう、書ける書ける。どんどん書ける。
人は、思うことならどう思おうと自由だ。だから依本は、都合よく思い込むことにした。
"影なき小説家(ペイパーバック・ライター) 第14話"へのコメント 0件