(7章の4)
わたしはまた、ふと思いだす。以前に一度、夕日を見つめていて思ったことを。
もしかしたら自分は死ぬとき、夕日を見たくなるのではないだろうか。きっと死ぬ間際になって、くすんだ朱色の世界に囲まれたくなるんじゃないだろうかと。そんなことを、強く思ったことがある。いつ思ったのかも明確に記憶している。あれは小学校の、夏休みの最後の日だった。
夏休みの最後の日。子どもにとっては、1年365日で最も気持ちの沈む日だ。マイナス思考になり、終わりというものを強烈に感じさせる日。
休みに入る前までは、まるで永遠に続くかのように、とてつもなく長いと安心しきったはずなのに、それがあっけなく過ぎ去ってしまった。おそらく小学校の夏休み最後の日というのは、人生で初めて「あーあ、こんなに時間があったのになんにもできなかったなぁ」と過去を悔やむ経験をするときだろう。人はそれから、区切りごとに悔やむことになる。中学、高校、そして大学など学業の場の卒業から始まり、引退や解散、脱退や馘首、別離の時になど。結局はたいしたことができなかった、と……。
その集大成とも言えるのが、定年退職のときだろう。これほどの時間で、まったく手ごたえあることをできなかったと。定年は人生の晩年なのに、あの小さかった頃、夏休みの最後の日に感じたことと、基本的に変わらない思いを胸のうちに浮かべることになる。もっともわたしは、それを味わうことはなかったが。
それはともかくとして、わたしは小学校3年の夏休みの最後の日に、死ぬ間際の気持ちなどというものを考えた。夕日が見たくなるかもしれないぞ、と。まだ一桁の年齢だというのに。
子どもなんかが、自分の死ぬときのことなんて普通は考えない。そんなことが訪れるなど信じられないくらい、遥か先のことなのだから。だけどもその時は考えた。夏休みが終わる日だったからだ。明日からまた学校が始まることで、気持ちに絶望感が生まれたからだ。
些細で、かわいいものだ。休みが終わっただけだというのに。しかし皮肉なことに、そのとき思ったことが、今般、的中することになった。すごい予言だ。まったくなんの役にも立たなかったが、とてつもない予言だ。
幼いわたしが考えたとおり、最後には夕日が見たくなってしまった。それだけならまだしも、驚くべきことに、夕暮れの赤い大地に立ち、その日差しに包まれることになった。わたしは、ひさかたぶりに、笑った。
人体実験のような検査は数日間続いた。人の出入が激しいからか、夜、眠りに入りやすくなった。寝たきりなので、夜になったからといっても眠くならなかったのだ。それが人疲れで、消灯に合わせて眠れるようになった。
それでも体の疲れがないので睡眠はうすく、ちょこちょこと目を覚ます。月夜の晩で窓はうっすらと明るい。
目が冴えてしまったわたしは、真っ暗な部屋を見回す。ふとカーテンを見ると、ゆらゆらと揺れているような気がする。地震だろうか。そこであらためて、キャビネットの角とカーテンの皺の部分を合わせて、凝視する。頭を動かさないで、息をひそめて。
数秒見つめるが、角と皺にずれはなく、いつまでも合わさったままだ。カーテンが揺れているというのは錯覚だったのだ。
――― へぇ。なんか、揺れてるように見えたんだけどなぁ。
こんな些細な、通常なら、次の瞬間にはきれいさっぱり忘れてしまうようなことを、一人病室で面白がっている。面白がってはいるが、面白がることそのものには、さみしさを感じてしまう。
わたしには僅かしか時間が残されていない。見ることも、聞くことも、感じることも、そこで永遠におしまい。残り時間はとっても短く貴重だというのに、こんな取るに足りないようなことを、一人で面白がっている。それが悲しかった。
翌日、今までの男たちが去り、別の人間が入ってきた。白衣の男が一人、そして作業服の男が三人。彼らはマスクをしていて表情は分からず、一切無駄話をすることなく淡々と作業を進めている。白衣の男は打ち出されているわたしに関するさまざまな書類を見ながら指示を出し、作業服たちはそれに返答しながら機械操作を行っている。沢田はわたしの横で、付き添いの家族よろしく連中をおとなしく見ている。
そして白衣の男がわたしの体をチェックすると、これですべて終了と言って作業員の1人に目配せした。いよいよ夢の世界に入っていくという。わたしは別の作業員からタオルで目を覆われ、ヘッドフォン様の機器で耳を覆われた。そして眠くなり、気付くと夕暮れの世界にいた。山道に朽ち果てるように置かれているバス停で目覚めたのだった。
しだいに意識がはっきりしてくる。いつもの、寝て起きたときとなんら変わらない感覚だった。
「えっ、これが、夢?」
辺りを見回し、わたしはひょいと立ち上がった。いきなり、驚かされた。もうすっかり忘れている、両足で立つという感覚だった。
あの部屋で機械につながれ、目にタオルをかけられたところを鮮明に覚えていた。それでもこうやって、今ここで、確かな実感があった。これが本当に夢の中なのか。歩きながら、それでもわたしは信じられなかった。
そうやってわたしは、夕暮れの世界にやってきたのだった。
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