無い、無い、無い無い無い。狼狽た分だけもっと無い。
「確かに収れた筈ですが」
「ほお、収れた。出した、収れた、か。拾い物した人にしちゃ、変わった口を聞きなさる」
護衛、其れとも執事か何か、老人の目は嫌に鋭い。傍に抱えた黒匣に張られた革が、怪しく光り、郁子の虚言を燦然と尾け狙う。
「入ってた、ですね。失礼、済みません」
「何故に謝る」
首筋に鉄の棒でも差し込まれたか、愚と身体が動かない。元来が虚言の得意な方じゃない。二羽目の燕の依頼を聞いて、役者気取りで此処まで来たが、所詮真面目な会社勤めじゃ、謀略には正直過ぎる。美点だと賞めた処で始まらない。こんな場合は無力の一語。裁判に、保釈、判決、執行猶予、私も罪になるのか——なんて、未来を憂う言葉が並ぶ。
とこう、すっかり顔色を失って、周章狼狽曝け出し、指の先など細かに震え、唇の光沢までも失くなれば、羨む程に色白の女が漏言、助け舟。
「駄目だよ、脆弱。遠路遥ゝ届けてくれた、優しい人に失礼よ。写真の事は諦める」
崩露流と頬を伝うのは、水の真珠か、金剛石か。其の涙には、女同志も見惚れるような。掛ける言葉を見つける前に少女は莞爾、笑い直した。
「御礼がてらに、御宅まで伺いますよ。何処ですか」
「猿楽町」
と、真面目に応え、発とする。無策ゝゝ家に来られては此方が困る。捜査令状、家宅捜索、事情聴取……科人の頭に浮かぶ四文字熟語。否、直ぐに取って来ます——と、立ち上がったら、老人再び好機と見たか、何処へ行く——と、透かさず二の矢の問いで尾け狙う。
「不可思議な。写真は家に在るのかい。路で拾った……聞き間違いか」
老人は、これ見よがしに耳を穿った。少しの虚言を拵える、そんな事さえ覚束無い。動揺が握り締めてた手の甲に、点然と涙、一滴。少女の其れに叶わない、然し想いの凝縮された、三十路女の心の雫。地味な努力を重ね続けて、訪れたのは泥棒扱い。連日連夜の残業で疲れた肌じゃ水を弾くも叶わない。
駄目な燕に世話を焼くのが生き甲斐と、自分で自分を騙していたが、本音を言えば……甘えたい。渡り鳥なら何時か旅立つのが運命。其れならいっそ、自分の元で飛べない鳥に成って欲しいと、本気で思う自分が恐い。実際に、島津と共に住んでから、彼が書くのをしないのは、当人だけの所為じゃなく、私が夢を食べる獏——。
かと言って、島津に去られ、孤独地獄で老醜露し、竟に寂しく野垂れ死に……なんて自虐は描けない。如何したんです、気分でも悪いんですか——と、情けを掛ける目の前の白い女も、いっそ其の若さが憎い。
「別に貴女を疑ったりは、してません。ねえ、泣かないで」
「泣いてませんよ」
意地を絞って、毅と正面見据えれば、老獪な視線が凝と迎え撃つ。
「この弱虫め。終いには被害者面か」
「失礼ですが、初対面の方に其処まで言われるような、非道い生き方してません」
「開き直るな、見苦しい。あの写真はな、二年前、死んだ子供の忘れ形見よ。よし過失にしたってな、失くしても良い代物なんかじゃないんだよ」
と、老人が切り出したのは、聞くも哀れな身の上話。
此処は晩夏の六本木、而も熱気の渦巻く歌小屋。それなのに、流離譚を聞けば、膚を刺すほど冷たい水で水垢離などをした気分。
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