第四篇 Nicht Schlecht
言われなかったこと
母の残した本棚を読み漁ったのと同じように、ミユキに関してもそういった「読み解くことができるもの」があればいいと思った。しかし、ミユキは本好きではなかったし、日記を書く習慣もなかった。私はある小説のあとがきを読んで、なぜ彼女が日記を書かなかったのかということの合点がいった。
そこにはこう書いてあった。
『回想録とするより、日記とする方がいいという人がいた。しかし、彼らは行動人が日記を書かないことを忘れているのだ』
たしかにそうだ。ミユキは現実に対し、書き置くべきことなど持たなかった。すべてはそこに現れていたのだから。
もしも私がミユキの何かを読み解くことができるとしたら、それは私のいかにも頼りない記憶しかない。
それに、彼女は自分でもあまり過去を語らなかった。二人とも都内出身ではなく、根付いていたわけでもない。必ずしも東京に住んでいなくちゃいけないわけでもなかったから、お互いのバックボーンは普通に生活しているだけじゃあまりわからなかった。
今思い返しても不思議なのだが、私もあまり訊かなかった。本当は、インタビューをするみたいに、生まれた頃からの自伝を聞いた方がよかったのだろうけれど、私たちの前にはいくらでも時間があるような気がした。
私が彼女に関して知らないことは沢山あるし、知ったことでも忘れてしまったものもある。
ただ、いくら私が忘れっぽいといっても、最初の頃は憶えているものだ。つきあいはじめで、なにかしなければいけないような気になって、都心にほど誓いT山に昇ったときのことだ。
T山はたぶん、トレッキングの中では手軽な方だと思うのだけれど、ミユキはあまり体力がなかった。彼女は五分もたつと喘ぎはじめ、膝小僧を手で押しながら進む始末だった。私は自分のペースで進みたがる傾向があり、隣を歩いてやればいいのに、先を進んでは苛立って後ろを振り返りミユキを待つという一連の動作を繰り返した。かつて父からそうされたように。
「先行ってもいいよ」
ミユキは唇をかさかさにしながら言った。私はただ単に遠慮から、「いいよ、自分のペースで歩きな」と言った。そして、飛び回るモンシロチョウを苛立たしげに手ではたこうとした。
ロープウェイを使わずに行こうと言い出したのはミユキだった。彼女はわりかし根性のありそうな性格だったし、私は私で、少しぐらい試練めいたデートの方が二人の今後のためにもいいなどと、妙にストイックなことを考えていた。
三十分ほど歩き、中腹にある神社にさしかかった。やっと追いついたミユキの手を握り、ベンチ代わりの丸太ん棒に座った。ミユキの手はしっとりと汗に湿っていた。色々なことが上手く行きそうな気がした。
M平野を一望しながら、春先の初夏の風に吹かれていたのだが、私は突然、戦慄を覚えた。スズメバチが飛んでいるのだ、それも三匹!
私は怪我には強かったが、なぜだか虫刺されに弱かった。ミツバチ程度に刺されただけで、拳大に腫れてしまうのだ。クラゲに刺されたときなど、半年間も痛みが消えなかった。まだ一度もスズメバチに刺されたことはなかったが、一発でアナフィラキシーショックを起こして死んでしまうという強迫観念があった。
はじめはそれとなく逃げまわるだけだった。しかし、蜂は一向に去ろうとしない。やんわりとそこいら飛び回り、なおかつ私の傍から絶対に離れようとしないのだ。絶対にこいつらは俺を狙っている! 私はついに駆け出した。ミユキは置きっぱなしにして。
やっと蜂を振り切ったところ、茶屋のある場所まで来てしまっていた。当時、すでに携帯は出ていたが、山中などではまだ電波が弱くて繋がらなかった。私は一番はじめにある店に入ると、ミユキをすぐに見つけられるように、歩道に面した席を取った。彼女が好きかどうかは解らなかったが、ところてんを二つ頼んでおいた。
「ちょっと、いくらなんでもありえないんじゃない?」
間も無くミユキが追いついた。当然のことだが、怒っていた。私は詫びるより先に、ところてんを勧めた。それが彼女をますます怒らせることになった。
ぷりぷりと言い募るミユキに対して、私は家畜のようなだんまりを決め込んだが、彼女が置いたお絞りに朱い染みがついているのを見つけ、思わず声を上げた。
「どうしたんだよ、それ?」
「ああ、これ?」と、ミユキは自分の手の平を見せた。「転んだんだよ。私も蜂から逃げようと思って」
ミユキの手の平には、小さな窪みができていた。そこにじっとりと血が滲んでいる。
私はほとんど反射的にその手を舐めた。ミユキは少し慌てたが、その頬は官能的に上気していた。
「なにすんのよ。そこまでしなくても……」
私は少し残念な気がした。しかし、言い繕いようがなくて、そのままずっと黙り込んだ。ミユキも私をそれ以上責めなくなり、二人は静かな登山客になった。
その後、なんとか山頂に到達すると、ミユキの作ってきた弁当を食べた。彼女は腹が膨れると、ベンチの上に横になってしまった。私は眠りに落ちていこうとする彼女に向けて、逃げた理由について説明した。彼女は主人公がスズメバチに刺されて死んでしまう哀しい映画が好きだったから、私のことを許してくれた。
"ここにいるよ(23)"へのコメント 0件