死神

宮水楓

小説

11,142文字

時は江戸時代。謀略により士分を奪われた一人の男とその妻は、江戸から追われていた夜路にて、「死神」を名乗る老人と出会う。
古典落語「死神」を材としているものの、文学的テーマと新たなアイデアを加えた一作。

或る夜のことでございます。改易により江戸を追われた元侍の男と、その妻が、静かな夜路を、途方に暮れながら、二人で歩いておりました。丑三つ時のためでしょうか、街は眠りについていて、空は留紺に満ちております。近くの山の木々の奥からは、化け猫の瞳のような、鈍い金色の大きな満月が、路行く夫婦をじろりと覗き込んでおります。

何故男は改易されたのか、それは、祖父の代から続く因縁のある一族が、父が死んだことを機に、謀略により男たちの一族を陥れたからでございます。勿論、男の罪は事実無根でございますが、奉行所が男の声を聞き入れることは、決してありませんでした。そうして、改易を命じられた男は、妻と二人で江戸を出る他はなかったのでございます。謀により幕府直属の武士、旗本としてのこれからの人生を不当に潰され、男は、心を萎えてしまったのでございますが、男の妻は、かのように酷く落ち込む男に、何一つ苦言を呈さず、共に二人で暮らしていこうと、強く、それでいて優しく男を励まし続け、齢二〇にも満たない夫婦は、この人生最大と思える逆境の中で、再出発を遂げたのでございます。それ故か、並び行く夫婦の顔は、不安の色こそ溢れておりますが、絶望の色は、微塵にも感じられません。

ですが、現実は非情なものでして、街路に沿って並ぶ家屋は、二人を無視するかのように静かに眠り、山々の木々は不穏なほどに葉音を騒がせ、時折二人の間を吹き抜ける冷えた夜風は、この夜の薄気味悪さをより一層に強めております。夜闇とその薄気味悪い空気に満ちているこの空間から逃れるために、二人は少し歩みを早め、泊まれるところを探していると、

「そこのお前、ちょいと待ちな」

と誰もいないはずの背後から、酷く枯れた、老人のような声が聞こえてきました。二人はびくりと驚き、静止して、大きくした目を合わせました。そして理解したのです、先程の声は確かに私たちに向けて放たれたものだと。暫くの間、無言で見つめ合いながら固まっていた二人でございましたが、まるで何もなかったかのように、又前を向いて歩き出しました。無意識の内か、足を早める二人でございますが、その声は確かに聞こえてきます。

「おい、聞こえているのだろう?」

更に二人は足を早めます。勿論、二人の後ろには、人は愚か、飛ぶ蠅の気配すら感じません。それにも関わらず、同じ距離感から、声は聞こえてきます。

「おい、待て」

何度も声が聞こえるたびに、二人の足も共に速くなっていきます。

「待てと言っているだろう」

遂に二人は駆け出しました。まるで二人の傍にいるかのようでいて、遠く離れた場所にいるかのような、独特な気配は、男の恐怖心をより増幅させる他ありませんでした。

曲がって、進んで、又曲がって。向かいから流れてくる夜風を切りながら、一心不乱に駆ける二人は、まるで水の流れを捉え、それに乗ってぐいぐいと進んでいく魚のように、この夜路を勢いよく進んでいきます。曲がって、曲がって、又曲がって。恐怖に駆り立てられてひたすらに走っていた男でございますが、ふと、妻は大丈夫なのか、と云う不安が男の脳裏に過りました。先程まで我を忘れ、一人で逃げていた男の頭には、全く妻のことや、恐ろしき怪異のことでさえありませんでした。男はいきなり後ろを振り返りました。そこには、突然振り返った夫に驚き、丸い目を大きくさせて夫を見つめている妻がいるだけでございました。先程、男が振り返ったことによって、不意に男は、怪異が後ろにいないことを知ることができたのでございます。呆然としていた二人に、やっとそれまでの疲労が追いついて来ました。途端に二人は膝に手を付いて、ぜいぜいと必死に息を始めました。それは、今までの恐怖と不安による緊張が、確かに解けたことを証明していたのでございました。暫くの間、疲弊によって、動けなかった二人でございますが、満足に休める処も二人にはございません。今の二人にできることは、一早く休める処を探すことのみでございます。大きく深呼吸をした後に、進むために前を向こうとした男でございますが、その刹那でございます。

「少しは話を聞けよ」

先ほどまでの老人の声と共に、男の眼のほんの数寸先に、一つの灯が現れたのです。灯は底の見えない闇に緋色を燈しながら、人魂のようにそこに浮いております。突然現れた灯に驚いた男は、腰を抜かし、地面に尻餅をつきました。すでに体力の限界を迎えた男は、目の前に現れた人魂のようなものを唯眺めることしかなかったのでございます。すると、その灯の周りの闇の中から、徐々に、人形が姿を現し始めました。よく見ると、小さく、痩せこけている不気味な老爺ではありませんか。古びて汚れた鼠色の着物の袖から見える、杖を突いている腕は、まるで牛蒡のように細く、衣紋と首元の間から見える曲がった背中からは、背骨が浮き出ております。かの人魂のような灯は、老爺がもう一つの手で持っている燭台に挿してある、小さな一本の蝋燭のものでございました。

腰を抜かしている男と、その後ろで硬直している妻に、老爺は口を開きました。

「あんた、自分とは関係ねえような奴らの謀で町追われて、御家取り潰しにされたんだろ?」

先ほどまで人間とは次元の違う、神様か、又は妖かと思っていたものが、こうも弱々しく、今にも倒れてしまいそうな老爺でしたので、男は安心して立ち上がりながら言葉を返します。

「ああ、そうだよ。だけど、それがあんたと何の関係があるのさ」

「俺は、死神だよ。文字通りお前たち人の魂を冥府に導くのが、俺たちの役目でなあ、それで、つい先月にあんたの親父を殺したのが、この俺なんだよ」

死神と名乗る老爺の話など、真に受ける筈もない男は、軽く遇らうように言い返します。

「はあ?何だそりゃ。あんたみてえな細えのが、人を殺して魂を導くなんて、できなさそうだけどなあ」

「俺は、爺さんの戯言に付き合ってる暇はねえんだ。すまねえな。先を急がしてもらうよ。」

男は、老爺の横を通り、妻と共に、旅路を進み始めます。すぐの角を男が、曲がったとき、そこには又老爺がいたのでございます。うわあと驚く男を無視して、老爺は話を続けます。

「何もお前さんたちに悪いことをしようとしてるわけじゃねえんだ。」

「あんたの親父さん、俺の手違いで間違って殺しちまったんだよ。だからよお、それで不幸になってるあんたが気の毒でならねえんだ」

死神は男に一歩近づき、

「あんた、医者になりな」

と男に向けて言いました。

「医者?俺は薬の一つすら作り方知らねえぞ」

「心配はいらん。病人って奴には、死神の印が、首か、足元についてやがる。それが病の正体みたいなもんさ。だけど、病人が全員死ぬわけじゃねえだろ?死神の印って言っても、足元に印がある場合は、死ぬわけじゃねえ、死への慣らしみたいなもんだ。」

「あんたに、死神の指をやる、それで丁度今頃、丑三つ時にその指で右から左へ印を擦ってやるんだ。そうすると、足元の場合は印は消え、病人は元気になるってことだ」

死神の話を聞いた男は、

「たったそれだけでいいのかい?」

と死神に尋ねます。

「ああ、たったそれだけでいいんだ。だがな、約束もある。印を消すときに、間違えても、左から右に擦っちゃならねえ。そうすると、新しい印が付いちまう。それも、その印は消すことができねえ。つまり死ぬべきじゃねえ奴に死ぬ印ができちまうってことだ。だから、絶対に、右から左で消すんだぞ。」

男がわかったと頷くと、死神は男の右の手を取って、自らの手で強く包み、こう言いました。

「今、お前の右の手の親指が、死神の指になった。約束は忘れるなよ。」

死神は男から離れると同時に、すぅっと消えてしまいました。

翌日、空き家を見つけた夫婦は、そこに住むことにして、早速、医者の看板を掲げました。すると早々に、「御免ください」と客人が来るではありませんか。開けてみると、一人の女中がおりました。話を聞くに、大きな和菓子屋を持つ、この町で一二を争うほどの大商人の方の女中でであったらしく、早速男は、屋敷まで向かうことになりました。

屋敷に辿り着き、立派な玄関から、大きな廊下を進んでいくと、

「ここでございます」

男が襖をゆっくりと開けてみると、痩せ細った男がゴホゴホと咳き込みながら、病床に伏せっておりました。入ってきた男を見た病人は、ゆっくりと起き上がり、

「お医者様でしょうか。」

ゆっくりと話し始めました。

「私にはまだ五歳と三歳の二人の子供とがいるのです。私はあの子たちのためにも、まだ死ぬわけには行かないのです」

容態の悪いため、言葉すら満足に話せない病人ですが、途切れ途切れの言葉を紡いで、男に言葉を伝えます。

「あの子たちに、不安のある人生は送らせない、これが私の、責務なのです」

かなり限界に近いように思える病人ですが、よく見てみると、足元に墨汁が乾いた後のような色をした印がついているではないですか。男は、これは占めたと喜んで、

「何をおっしゃりますか。まだまだ生きられますよ。」

と病人に嬉しそうに伝えました。これまでこの大商人を診て、そのような希望の言葉を口にした医者は山ほどおりましたが、本当に彼を治せたものは、砂の一粒ほどもおりませんでした。だからこそ、最初は男に対しても、諦めのようなものを抱いていたのでございますが、

「今晩が山場でございます。泊まり込みで看病致しますので、泊まらせて頂いてもよろしいでしょうか。」

これまで聞いてきた苦しそうな医者の希望の言葉に対し、この男のまるで責任感の感じぬ、強気な言葉に、病人は驚きながらも、男を信じてみることにしたのです。

そして、時は丑三つ時。障子の向こうには、底知れぬ闇が、どこまでも広がっております。すると突然に病人の息が急に苦しくなり始めるではないですか。額から汗が吹き出し、頬は赤くなり、肌は触って見ると、まるで焼け石かと思うほどに熱くなっております。男は今だと、病人の足元を見ました。印は死神の持っていた蝋燭の火のような、強い緋色の光を放っておりました。男はその印に、ゆっくりと親指を当てました。すると、その緋色の光は徐々に大きくなっていき、まるで燃え盛る炎のように、男のことを包み込みました。驚きながらも男は力強く右から左へと指を動かし始めます。印は炎のように熱く、少しの黒い煙を出しながら、消えていきます。男は、自らの指の火傷を理解しながらも、残りの少しを、一気に擦り切りました。印があったところには、黒い煤のような汚れが付いているだけで、以前の墨のような印は消えておりました。男は自らの指の腹を見ました。指の腹には赤黒い火傷の後がついており、少しの痛みが残るだけでございました。

翌朝、目を覚ました男がゆっくりと襖を開くと、何やら女中が慌ただしくしておりました。起きた男に気づいた女中は、男に、旦那様が起きられたことを祝っての宴に誘われていることを伝えたのですが、男は、妻を待たせているからと、その席を断ってしまいました。

「本当にありがとうございます。貴方様には、何とお礼を申し上げればよいのか。数々の江戸中の名医が診ても治らなかった難病であるというのに、たった一晩で治してしまわれた」

宴を断った男は、大商人の様子を見るために、部屋に入ったのですが、そこには、ざっと百両程に見える大量の小判と、元武家であった男ですら、あまり食べたことがないような、砂糖をふんだんに使った、上菓子の数々が置かれておりました。

「こんなにいただいてもよろしいのでしょうか?」

見たこともないほどの大量の小判に、見たこともないような高級菓子の数々を前にして、困惑してしまう男でございますが、旦那は、

「命の恩人ですぞ。これでもまだ足りないくらいでございます。是非とも受け取っていただきたい」

「では、ありがたく頂戴します。」

「それで、ご体調の程はかなり良好のようで、何よりでございます。ここから悪化することはありませんので、安心していただいて問題はありません」

淡々と報告する男に旦那は、落ち着いた声で言います。

「子供に不安のない人生を歩ませるのが責務と言いましたが、責務を果たせるのは、本当に素晴らしいことなのですね」

「そうかもしれませんね」

巳の刻、男は屋敷を発し、我が家への帰路に着きました。底なしにどこまでも続く天藍の空や、鮮緑に輝く青葉は、まるで男を歓迎しているかのようでございます。男の足取りは、羽がついているかのように軽く、気づいたときには、男は家の前に辿り着いていました。家の戸を引くと、そこには、昼ご飯の用意をしていた妻がおりました。以前はたくさんの女中を雇い、立派な屋敷を構えていた男でございましたが、新たしい家は、質素で、小さな戸を引くと、すぐに反対の壁が見える、一部屋の家でございます。勿論女中などはいません。ですが、家に入ると、そこには自分と愛すべき妻だけの場所があることに、男は何故だが、とてつもない満足感を得たのです。

江戸の名医ですら治せなかった大商人の難病を男が治してみせたことは、確かな情報として広がり、「一晩で難病を治す名医」として有名になった男に診察を求める者は、後を絶たなくなったのでございます。

数年もすると、男には二人の男の子が生まれ、男の家も、名医の家として、徐々に大きくなっていきました。ですが、女中を雇うことなどはせず、あくまでも一商人として、細々と暮らしておりました。その日、男たちは子供の七五三として、近隣の大きな神社に参拝に向かっておりました。この頃の子供というのは元気なものでして、兄弟二人は親を置いて、先へ先へと進んでいきます。それを後ろから、微笑みながら、男と妻は並んで歩いております。

「こうやって並んで歩くのは久しぶりですね」

妻はふと男に言葉を手渡しました。

「そういえば、この町に来た時も、二人で並んで来ましたね」

「ああ、そうだな。あの時の胡散臭い死神が、俺たちの生活をここまで幸せなものにしてくれたのだからな。今日はあの死神にも感謝をしなくてはいけないのかもな」

男はふと笑みをこぼしました。ですが妻は、優しく、

「いいえ、死神様なんていなくったって、私たちは幸せのはずですよ。お侍さまのときは出来ませんでしたけど、今はこうやって、一緒に隣を歩くことができるのですから」

妻は男に顔を向けて、少しはにかみました。その笑顔を見た男は、初めて診た大商人の「守る責務」の話をふと思い出しておりました。男が昔のことを思い出していると、その肩を、誰かが後ろから、とんとんと叩きました。振り向いた男の視線の先にいたのは、一人の若い男でございました。羽織と袴を着ていて、腰帯には、太刀を佩ております。きっとどこかの若党なのでしょう。その若い侍の額は汗ばみ、息は少し荒れております。ですが若い侍は、声を振り絞って、

「貴方様が、『一晩で難病を治す名医』様でしょうか」

と声をかけました。どうやら、七百石をもの石高の旗本様が、難病に伏せられたらしく、江戸中の名医が診ても、口を揃えてこれは駄目だと言うほどには酷い様子でおられるようです。そのため、若い侍は、藁にもすがる思いで、男の元へ駆け寄ったのでございます。子供と妻との、貴重な時間でございましたが、人の命が掛かっているのであれば、致し方ないと、男はその旗本のお屋敷に向かいました。

改易のときに江戸を追われて以来の江戸でございます。小さな町に慣れてしまった男は、久しく見た江戸の大きさに驚きすらも感じました。それは江戸が大きくなったのではありません、男の見ていた景色が小さくなったからでございます。

若い侍に案内されるが儘に男はついて行くのですが、若い侍の通る道は、どれも見覚えのある道ばかりでございました。男の悪い予感が的中いたしました。若い侍が案内した先にあった屋敷は、男を謀った、かの因縁のある一族の屋敷であったのです。門を潜ると、左右には美しく整った庭園が広がっていて、池には木の太鼓場が架かっておりました。門より続く飛び石の道の先には立派な屋敷が構えておりました。

どうぞ、と若い侍が屋敷の中へ入るように勧めたので、流されるかのように男は屋敷に入り、病人の元へと案内されました。廊下を歩いていると、何人もの忙しい使用人とすれ違い、外を見ると、従者の侍が木刀で稽古をしておりました。それを見ていた男は、数年前、旗本として暮らしていたときを思い出しておりました。懐かしい過去を思い返していると、すぐに病人が寝ている部屋に辿り着きました。見覚えのある、男の一族を謀った張本人は、随分と醜く痩せて、肌は白くなり、まるで木乃伊のような風体で、布団の上で眠っておりました。若い侍は医者が来たことを病人に伝えますが、病人は起き上がる力すら既に無く、ゆっくりと目を開いて、男のほうへと顔を倒しました。諦めに近い、哀しい顔をしているのを、男は確認しました。病人はまだ、男の正体に気づいておりません。男がじっと病人を見つめていると、病人は静かに、

「私は、直に死ぬのでしょうか」

と男に訊きました。すっかり診察を忘れていた男は、我を取り戻したかのように、病人の首元を見ました。男は、病人の首元に印があるのだと思っていたのですが、どこを見ても、首元に印はありません。男は、病人の裾の方に視線を写したのですが、そこにはくっきりと死神の印がついておりました。男は病人に「貴方は助かる」と言おうかと思ったのですが、そのとき男の頭に一つの考えが思い浮かびました。

それは今晩、この病人の首元に死神の印をつけて、病人を殺してしまおうかと云うものでございました。ついに男は安堵の声を掛けることが出来ませんでした。それは、病人を殺すと云う選択肢に対して、心のどこかでその選択を肯定している自分がいたからでございます。

すると、襖が勢いよく開き、小さな子供が姿を現しました。顔や服を見るに、病人の息子なのでしょう。来るやいきなり頭を下げた息子は、

「お医者様、どうか、どうかお父さんを治してください!」

と大きな、少し涙を含んだような声で、男に懇願しました。ですが男はそれに対して返答することができませんでした。

押し黙る男の返答の前に、病人が小さな声で、

「やめなさい、お前がどれだけ願おうが、何も変わらない」

と言いました。俯いた息子が出て行った後、病人は男に、

「この調子です。治らなくても構いません。ですから、頑張って治療したようにしてくれませんか。お医者様にお断りされて一番堪えてるのは、あいつらなんです」

幸か不幸か、男は自然にこの屋敷に泊まることができたのでございます。

そして、丑三つ時となりました。男の目の前には、二つの選択肢、二つの未来が広がっております。一つ目は、医者としてこの患者を治療すること。二つ目は、この者を殺すこと。男は迷いました。医者としてであれば、一つ目を選ぶことでしょうが、それはつまり、自らを謀った宿敵を、みすみす見逃し、寧ろ手助けまでするということでもございます。自分は一体、何なのか。男は思い出しました、侍として立派に生きた父のことを。

「お前は、侍だ。侍とは、腰に刀がついてる奴のことじゃねえ。自分の中の一本の太刀を握り締め続けることができる奴のことだ。」

父の言葉が男の頭の中を強く反響します。そのとき、男はついに一つの結論を得たのです。

——士分を失っても、俺は侍だ。この目の前の、宿敵を、ここで見逃すわけにはいかない。

侍としての矜持を取り戻した男は、その夜初めて、病人と、その妻、そしてその子供に死神の印をつけ、深い暗闇の中、屋敷を後にしたのです。

夜明けとともに帰宅した男は、治せなかったと妻に説明をして、再び元の生活に戻ったのでございますが、妻は、そのときに男に感じた違和感を、決して忘れることはありませんでした。

かの一族を殺してから、少しの時が経つと、と或る怪談の噂が、この町にまで届いてきました。それは、一家で不可解な死を遂げた旗本の一族の怨念が、江戸の町で夜な夜な歩く人々をどこかへ連れて行っているというものです。怪談噺は、金の要らない数少ない娯楽と云うこともあって、瞬く間に人々に広がることとなり、男の妻がそれを聞くのも、遠い話ではありませんでした。その怪談を聞いて、まさかと思った妻は、その夜に男を問い詰めたのでございます。

「ああ、そうだ。俺はあの時、あいつらを殺した。」

「俺は身分を失っても、矜持まで捨てたつもりはない。あいつらは、俺たちの身分も!金も!家も!未来も!全てを奪ったんだ!侍として、奴らに報復するのは当然だろう!」

男は強い口調で妻に詰め寄ります。ですが妻は、

「それでも、私がいたではないですか。それで今は、息子たちがいて、幸せだったじゃないですか。貴方は医者です。その妻が私で、私たちには子供が二人います。それで幸せだったじゃないですか。」

妻の言葉は徐々に震えていきますが、それでも語り続けます。

「貴方が、医者ではなく侍だというのであれば、もういいです。私たちは出て行きます。」

妻はゆっくりと襖を開けました。男は、その一言に驚きながらも、妻を止めようと声をかけました。ですが妻は強く、

「貴方がしたことは、あの人たちがしたことと同じです!そんな人が、私たちの主人な筈ありません!」

と男を一喝して、子供に素早く言い聞かせた後に、用意を整え始めました。そして、不思議な顔をした子供を連れた妻は、哀しい目を男に見せてから、この家の戸を引いて、夜の闇に消えて行ってしまいました。妻たちが出て行くのを止める言葉が、男の口から出てくることは、終ぞありませんでした。

それからの男は、魂が抜けたような暮らしを送っておりました。患者が来ても、断り、隣人の挨拶にすら、返すことが出来なくなっていたのです。ぼんやりと何も考えることが出来なかった男ですが、一つだけ、分かったことがありました。それは、妻や子供に謝って、また共に暮らしたいと云うことでございました。ですが男は、ただぼんやりと、いる筈のない妻や息子の影を探す日々を送ることしかできなかったのです。

或る夜のことでございます。静寂と孤独に包まれた男の家に、突然客が訪れてきたのでございます。男は、妻が戻ってきたと云う、あり得ない未来を期待しながら、その戸を引きました。するとそこには、あの日の死神が佇んでおりました。牛蒡のように細い腕の先には、今日も蝋燭を挿した燭台がございました。

「ああ、あんたかい。」

妻ではないことを分かった男は、つまらなそうに、死神に言葉を吐きます。すると死神は、

「お前、人を殺したんだってな。」

と男に静かに訊きました。男は、

「ああ、あんたとの約束、破っちまったな。すまねえな」

と雑に謝りました。これは、男が何も罪の意識を持っていないからでもありますが、罪の意識を持てるほど、男には今余裕がないと云うことでもございます。死神は、

「ちょっと、ついてこい」

と不気味な声で言うと、男に背を向けて歩き出しました。男は、何も考えずに、死神についていくのですが、歩いている最中、死神は男に語りかけます。

「死神の印ってのはなあ、人を殺す。それはあんたにも言ったよなあ。でもなあ、実際死神の印で死んだ奴なんてそう多くねえ。」

「死神の印を頼りに来た死神が、そいつの命を取るからだ。そうしねえと、そいつの魂が、あの世に行けなくて、この現世に留まっちまう。」

ぶつぶつと死神が話しているのを聞いていた男は、知らぬ間に、石畳の階段を降りていることに気がつきました。

「あんたが殺した奴らはなあ、死神が殺せなかったんだよ。つまり分かるか、あいつら全員、みーんな、悪霊になって今、江戸の人々を殺して回ってるんだよ」

死神が降りて行く先には、灯りによると思われる、金色の光が溜まっておりました。男がその階段を降り切ると、そこは少し広い空間となっていて、無数の蝋燭がひな壇のような階段状の壇を埋め尽くすかのように並んでおりました。その蝋燭は、短いものもあれば、長いものもあり、今にも消えそうなものもあれば、盛んに燃えているものもあります。

「この蝋燭はなあ、人の命だ。これが消えれば、そいつは死ぬし、そいつが死ねば、これは消える」

すると目の前にあった一つの蝋燭が、風もなければ、まだ蝋もあると云うのに、ふっと煙となってしまいました。

「ほら、あいつらが今、誰かを殺した」

「勿論、悪霊が殺した人間も、死神の導きがねえから、現世を彷徨うことになる。中には新たに悪霊になるやつも出てくるさ」

死神は続けて、

「今なあ、あの不可解な悪霊が何であんなに生まれたのかって、閻魔様だのが調査しておられるんだよ。それでもし、俺がお前に指を与えたことが原因だったんだって分かったら、俺の首が飛ぶだろ?」

「これを見ろ」

死神は、一つの蝋燭を指しました。それは小指ほどの、今すぐにでも消えてしまいそうな、小さい蝋燭でございます。

「これはなあ、お前の蝋燭だよ。わかるか?この蝋燭が消えれば、お前は死ぬんだよ。」

ですが、男は慌てるわけでもなく、ゆっくりと、

「ああ、でも、もう俺には何もねえからな。死んだ方が楽なのかも知んねえな」

男の声色は、この蝋燭のように、小さく、勢いがありません。すると死神が、

「お前、自分の嫁さんと子供がどうなっているのか、わからねえのか?」

「お前の稼ぎがなくなったんだよ。今頃、嫁がそこら辺で夜鷹でもしてるか、三人揃って物乞いでもしてるか、もしかしたらもうくたばってるかも知れねえなあ」

死神は楽しそうに笑いながら言います。

「それでもあんたは、嫁や子供を追いかけずに、死んだ方がいいとか、無責任なことを言うのかい?」

「違う、行かないと」

今の自分が置かれている現状を理解した男は、急ぎながら、

「あんた、頼む!死神なんだろ?俺の寿命を、少しでいいから、伸ばしてやくれねえか!あいつらは、俺が守らねえといけねえんだよ!」

男は、死神に飛びついて叫びます。すると死神は、にたにたと不気味な笑みをこぼしながら、ほらよ、と男に、新しい、まだ火のついてない蝋燭と、男の寿命である、短い蝋燭を渡しました。

「それで、自分で蝋燭に火を移しな。もし移すことが出来たら、新しい方があんたの寿命だ」

「それで、いいのかい?」

「ああ、だがわかっているだろうけど、もし火を消してしまったら、お前は死ぬんだぞ」

男は、両方の蝋燭を受け取って、それぞれの芯を合わせ始めました。失敗は許されません。男の指の先が、突然に震え出しました。男の呼吸が荒くなり始めます。男を、目を大きくさせて覗き込んでいる死神の瞳には、その蝋燭が映って、まるで目に灯が燈ったようでございます。死神など気にせず、男は必死に芯を合わせます。つけ、つけ、と呟く男に、死神は、

「ああ、消える、消えるぞ、ああ消える!」

と大変楽しそうに囃し立てます。つきそうで、つかなくて。つきそうで、つかなくて。死神は不気味に笑みをこぼしながら男を見つめております。蝋燭の火は、つくどころかどんどん小さくなっていくではないですか。それでも男は必死に芯を合わせます。つきそうで、つかなくて。つきそうで、つかなくて。それを数回繰り返していたのですが、その時でございます。ついに、緋色の灯が長い蝋燭に燈ったのでございます。

男は歓喜に満ちた顔で死神を見上げたのでございますが、死神は燈った火をじっと見つめ続けております。すると死神は、ゆっくりと口を窄め、ふうっと、男の蝋燭を吹き消してしまったのです。

2023年11月29日公開

© 2023 宮水楓

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