荊軻

宮水楓

小説

12,284文字

時は古代中華の春秋戦国時代。七つの大国が中華を取り合っていた時代は終わり、西の国、秦の一強となっていた。その情勢の中、荊軻は、中華最後の希望として秦に刺客として出陣する。

春秋戦国しゅんじゅうせんごく時代に於ける、中原ちゅうげんの小国にも及ばぬ、えいの出である荊軻けいかは、文武両道。博学にして諸侯を巡り、酒、読書、剣術を好み、若くして遊説術を学びて、国々の賢者に名を知らしめた。後に荊軻は、官僚を目指し、えい元君げんくんに遊説を行ったが、元君は既に国の発展や、からの独立について、思索しておらず、荊軻の話に耳を傾けなかった。後に衛は戦国の世から姿を消した。荊軻はこれにて挫折し、これ以上遊説を行わなかったと云う。

後に荊軻は野王やおうへ赴き、地方にて著名な剣術家である智蓋聶ちこうじょうの邸宅に向かい、自らの力を示した後に智蓋聶と剣術について語り始めた。剣術の話は、盛り上がりを見せたが、荊軻と智蓋聶の剣術論が噛み合わず、遂に喧嘩沙汰にまで発展せんと過激さを増して行ったが、智蓋聶が荊軻を強く睨むと、荊軻は邸宅を去った。

ちょう国の王都、邯鄲かんたんにて、荊軻は魯句践ろこうせん六博りくはくを楽しんでいたのだが、六博の規定にてこれも又喧嘩沙汰にならんとしたが、魯句践が強く威嚇すると、荊軻はその場から姿を消した。

荊軻は臆病者と笑われたが、決して下手に危険を冒す様な男ではなかった。

後に荊軻はえんへ向かい、今晩泊まらせて貰えるかと聞き周った。数軒回った後、荊軻に応える者が現れた。その家主は、高漸離こうぜんりと云う男であった。二人は、共に呑屋へ向かいて、戦国の世の無常さについて語り、意気投合をした。呑屋から出た彼等は、道途にて、高漸離は筑を鳴らし、荊軻は歌い、後に二人で、狂うかの如く泣いたと云う。

それ以降、彼等は竹馬の友と云える関係となり、会えぬ時は書簡を交わした。後に荊軻は燕の賢者を巡る旅へ出発し、以降荊軻の居場所を知る者は少なかったと云う。

燕の太子たんは、幼少の頃、趙の邯鄲へ人質としてしん嬴政えいせい(後の秦王政しんおうせい始皇帝しこうてい。)と共に滞在していた。その後に燕へ帰還し、又人質として秦の咸陽かんようへ向かった。共に人質として過ごし、更に邯鄲籠城戦の地獄を共に乗り越えた竹馬の友とも云える嬴政が秦王となり遂せ、嘸かし高待遇を受けるであろう、若しくは、私が赴き、人質でありながら秦と不可侵条約でも結ばんかと期待を胸に抱きながら秦へ赴いた。

秦の咸陽へ着いた頃、邯鄲では家の門に迎えに来たのだが、咸陽の門では、使いの者が数人程しか姿が見えなかった。太子丹は、秦王として燕の太子のみを分かり易く厚遇するのは、不満が出るのではと察しての事だろうと思考を巡らせていたのだが、咸陽の正殿、秦の玉座の前にて、軽い自己紹介や、邯鄲での日々、嬴政が秦王となった事への祝いの言葉を、笑みを浮かべながら、まるで親しい友人へ敬語を使う様な形にて、秦王政へ語り掛けた。だが、秦王政は、

「儂は今にでも中華を治めんとする秦の国王。貴殿は、今にも儂等の国土とならん燕の太子であり人質。北の野蛮な国である燕の太子は後のていへの言葉遣いも儘ならんのか?」

と淡々と冷遇した。そう、秦王政は、燕が弱国であるが故に礼を用いなかったのだ。太子丹はそれを悔しく思い、深く恨んだと云う。後に太子丹は燕へ帰国した。それ以降も、一時もあの恨みを忘れる事は無かったと云う。

当時の秦は、山陽さんようを奪取し、合従軍がっしょうぐん函谷関かんこくかんにて破り、統一へ向けて確実に勢力を増していった。その様な或日、太子丹は、太傅たいふ鞠武きくぶに問い掛ける。

「どうしたら秦の猛勢を食い止め、燕と両立できるか?」

鞠武は、難題の故、時間を頂戴したいと告げその場を後にした。

暫くした後、秦より樊於期はんおきと呼ぶ将軍が亡命して来た。何でも、一回の敗北にて、秦王政が激怒し、血族を皆殺しにされ、家を焼かれ、秦に居場所が無いのだと慈悲深い太子丹の屋敷へ泣きながら訪れたのである。太子丹はそれを受け入れた。翌日には、鞠武が太子丹を諌めた。曰く、秦の敵である樊於期を受け入れる事は、燕に取って秦の恨みを買う様なものである、と。続いて鞠武は、

「私にはこの様な事となれば、私の手に負える事では無い。」

すると太子丹は、ではどうすれば良いかと問い詰める。すると鞠武は、

「地方にて、田光でんこうと云う賢人が御座います。その者は、才智に富み、勇敢であります。田光では若しくは解決策が思い当たるかも知らないと存じ上げます。」

すると太子丹は、

「貴殿から、その田光先生に話をして来れまいか。」

と。そして鞠武を田光の元へ向かわせた。

来たる日にて、鞠武は田光先生の下に訪れ、王宮へと向かい入れた。その日は、春の日溜りや、春風が季節を感じさせるような、暖かい日であった。太子丹は、田光を跪いて向かい入れ、客席に塵があれば、自らは跪いて塵を払う等、最大限の礼を田光へ尽くし、人を腹いて対談を始めた。だが、田光は、

「太子様が存じ上げるのは、若き頃の田光。今の田光は、もう頭も真面に回らぬ老爺で御座います。ですが、私の親しき友人である荊軻は、むかしの私を凌駕する程の才智と勇猛さを兼ね備えた賢人で御座います。これをお使い下さいませ。」

と告げるだけだった。すると太子丹は、

「では荊軻殿に話を合わせて来れぬか?」

すると田光は大いに頷いた。そうして、田光が去る寸前、太子丹は念を押し、

「此処での話は全てに於いて国の大事で御座います。くれぐれも他言なさらぬ様に」

と。田光は急ぎその場を立ち去った。

田光が荊軻の住まいに到着し、扉を叩いた時は、その日の夕暮れであった。田光の服は急ぎで向かった為か、泥が沢山付着して、過呼吸になっていた。扉を開けた荊軻に対して、

「太子様に呼び出された。秦の猛勢を食い止めたいらしい。だが、今の田光では到底敵わぬ。だがら貴殿を推して来た。直ちに向かうと良い。」

田光は間髪を開けずに告げる。

「私はこの情報を守秘する為に自害する。貴殿の為に死ぬのだ。だからこそ、必ず全うして来るのだ。」

とだけ告げ荊軻の肩を叩き、消えゆく斜陽と共に何処かへ消えていった。後に人目のつかぬ所で自害し果てたと云う。荊軻はその晩の内に準備と決意を済ませ、次日の明朝、暁の中、家を発した。その時荊軻は住まいと共にその中にある全ての物を同じ集落に住まう者に一切の所有権を委ねた。荊軻は住まいに戻る事、又思い返す事は終ぞ無かった。

荊軻はその日の夕暮れに王都、けいに辿り着いた。その晩は薊の宿に泊まり、翌日にて太子丹の邸宅を訪れた。空は最もの快晴。時刻はまだ朝五つであったにも関わらず、しっかりとした正装で、荊軻を門から迎え入れた。太子丹と顔を合わせた際、最初に発した言葉は、

「太子様、田光殿は、貴方様との約束を全うする為に自刃致しました。」

その瞳は若干の涙を含んでいた。太子丹は驚愕したが、直ちにその旨を察し、共に涙を流した。だが、彼等は素早くそれを拭い対談を始めた。涙を流せる程の猶予は彼等には無いのである。太子丹は、

「私は秦と正面衝突して勝てる見込みも無ければ、秦の王翦おうせん以上に軍略に長けた者も見た事が無い。だが、その指導者である秦王政を討つ事が出来れば、それは秦の力を大いに削ぎ、その隙を狙いて合従軍を起し秦から領土を取り返さんと存じ上げます。」

すると荊軻が、真顔で、

「刺客……か……」

とだけ告げ、器に入れられた茶を啜った。茶は苦く、まだ暖かかった。

「どうかお願い頂けないでしょうか。」

太子丹は跪いた。荊軻は、

「勿論です。」

と告げ太子丹へ手を差し伸べた。太子丹は大いに喜び、顔を上げ、荊軻の手に漸く気づき、その手を取った。荊軻は腕を引き上げた後、太子丹に語り掛けた。

「太子様、これ以上跪くのはお辞め下さい。秦王を討つ為に必死になり、跪くのは燕の弱さを示している様なもので御座います。」

そして太子丹を席に着かせた。

漸く荊軻と太子丹は策を練り始めた。まず荊軻は、

「秦王政は、非常に慎重であります。燕が朝貢を行うと云えど秦王政は太子様に彼のような無礼を行っている為信用性には欠けるでしょう。その為、燕の特産物以外に、督亢とくこうの地図、つまり燕の最も肥沃な土地を捧げる事と、秦の追放者である樊将軍の首を捧げれば対面してくれるかと存じ上げます。」

だが太子丹は、

「督亢くらいは呉れてやりましょう。だが、天下に居場所が無く、仕方なく私の所へ来た樊将軍は、どうか殺さないでほしい。」

として頭を下げた。だが荊軻は、

「それでは失敗するかと存じ上げます。この計画は一度きりで御座います。我旧友、田光も死して、私も今更帰る所等ありません。この計画は必ずしも成功させねばなりません。無論私も命など惜しみませぬ。ですが、無駄な作戦の為に命を捨てるのは、真平御免で御座います。」

太子丹は、

「それでもなりませぬ。樊将軍を殺した事には出来ぬのでしょうか?」

荊軻は負けじと語勢を強める。

「それでは首を寄越せと云われるだけで御座います。」

太子丹は、

「分かりました。その話は後にしましょう。」

と告げ、又続けた。

「計画に連れて行く者として、秦舞陽しんぶようと云う者がおります。彼は、幼少の頃から殺人を経験おり、常人は目も合わせるのも恐ろしいと云われております。彼であれば、秦王政の暗殺も遂行出来るのでは無いかと存じ上げてます。」

「有り難く連れて行きましょう。ですが、その方だけでは少々不安な為、我友も呼んで良いでしょうか?彼等はその秦舞陽よりも武力こそは劣りますが、勇気は彼に劣らぬと存じます。」

その後も、この一日を使いて話を進めた。次に荊軻が茶を啜った時は、既に茶は冷めていた。このまま幾日も話を続けるかと云う勢いで話は展開を続けた。それ程まで、この計画は、重要で、綿密に練られた、国家の大事なのである。だが、陽も沈み切った頃、遂に対談も終結を迎えた。この一日にて、計画の殆どが決定した。太子丹は、荊軻に大臣の位を与え、薊の市街に於ける、一等地の太子丹の邸宅にも勝るような、豪華な邸宅も共に与えた。邸宅には、燕国に於ける、王の後宮にも勝るような絶世の美女や、明暮にて荊軻の命に従う従者等が姿を見せた。荊軻が召す食べ物は、燕国内に留まらず、中華に於けるこれまた一級の食材をふんだんに使われた物であった。これでもかと入念に検査を行われて、週に一度は、太子丹が荊軻の邸宅を訪れ、杯を交わした。荊軻が馬に乗りたいと云えばその為だけに北方の駿馬とその馬を使う者を呼び出し、荊軻が月を見たいと云えば、部屋の灯りを消して、筑の名手に月夜に似合う曲を奏でさせた。荊軻の意に叶わぬものは中華に於いて何一つ無かった。

後はその時を待つのみである。

そこから約一年の時が過ぎた。戦国せんごく七雄しちゆうの情勢としては、かんは秦の圧倒的戦力の前に滅亡し、趙ではその昨年、武安君ぶあんくんが誅殺され、遂に、秦や斉と云った大国どもにも勝利を納めるほど圧倒的な力を誇った趙軍や、秦の王齕おうこつに攻められど落とされなかった、不落と称されたその王都邯鄲も、秦の常勝将軍、王翦により敗れてしまった。中原の雄、魏は、辛うじて存命しているものの、いつ滅ぼされるのかと、只滅亡の日を待っていた。遂に、秦と燕は国境を接し、何時秦が国境を侵さんと易水えきすいを渡れど可笑しくない状況となってしまい、遂に太子丹は、荊軻の元へ向かった。

「荊軻殿、私共は、貴殿が秦へ向かって下さる事に誠に感謝しておりますが、いかんせん、その策の前に燕が滅ぼされては元も子もないのです。私的には直に頃合いかと存じますが。」

「大丈夫です。太子様、秦から見ても、危機に瀕した国から使者が来たとなれば、従属の同盟と思うかと存じ、今まで時を待ったのでございます。そろそろ準備を行い、如月辺りに策略を実行致しましょう。それまでに、太子様には、秦王を殺すに相応しい匕首を探して於いて下さい。」

すると、太子丹は静かに頷き、その場を去った。

次日、遂に荊軻は、樊於期の元へ発した。その道途、荊軻はふと天を仰いだ。満天の快晴、道途の上には、白く光の失った残月が、ただ孤独に浮かんでいるばかりである。路傍に生きる青草にしがみ付く、小さな朝露が陽に照らされ、煌めいている。朝の澄んだ空気は、荊軻を乗せる牛車を僅かに早めた。

荊軻は、その後、約一刻に渡て牛車を進めた後、樊於期の邸宅へ辿り着いた。荊軻は二、三度扉を叩いた後、三歩程下がり、樊於期を待った。数分が経った後、樊於期が現れた。彼は、白き正装で髭、髪は整い、無駄な飾り付けは無い、白い百合の様な、瀟洒な身形をして荊軻を迎えた。荊軻はそれの身形に驚いた。荊軻は以前の亡命時の彼を知っていた為だ。当時の彼は髭や髪は整えられておらず、常に乱れ、服には塵や埃が付着しており、服の色はやや変色し、狂った眼光を発する眼の下には、酷い隈が垂れる様に染み付いていた。そんな樊於期が何時の間にか、白百合を連想されるような純潔にて、瀟洒とも云える姿になっているその様に驚いたのである。だが、それと同時に、荊軻は、この不可解な変化の理由についても思考を巡らせていた。この変化の正体は、太子丹であろう。

太子丹は人情の深い人物としてでも著名である。それ故に何の関係もない樊於期を匿い、厚遇したのであろう。その考えに辿り着いた荊軻は、大きく溜息を吐いたが、その溜息を取り繕う様に、二、三度咳払いを行った。樊於期は、その溜息と咳払いを邸宅に向かう為に歩いた荊軻の疲れでは無いのかと考えた為、

「お疲れになられたでしょう荊軻殿、我邸宅は広くはありませんが、茶くらいはあります。どうか入りませぬか?」

とだけ聞き、扉を開けた。樊於期の邸宅には、その屋敷の周りに造られた、潺潺と流れる流水や、青々しい低木などの、澄んだ空気を漂わせる、静寂な庭園からの木洩れ日が格子から差し込み、金銀の箔が使われていないにも関わらず、格子から伸びる、細い光の柱と床が接する位置は、箔の光の輝度等とは違う、別の光の度合いにて凌駕する、閑雅な、まるで光の絨毯の様なものが、床を覆っていた。樊於期は、客間に着くと、それも又、光の差し込む窓に向かい、その窓を開けた。そこからは清涼な風が流れ込んできた。樊於期は、席に着き、

「さあ、始めましょうか。」

と爽やかな声で告げた。荊軻は、

「既にご存知かもしりませぬが、私は、準備を整い次第、秦王の刺客に参ります。」

「既に存じ上げております。秦王とあれば、我が妻子や友を誅殺として殺した、私の、全ての憎悪の塊でございます!」

樊於期は更に、語勢を強める。

「荊軻殿が誠に奴を捩じ伏せてくれるのであれば、私は何でも行ってくれましょう!」

だが、荊軻は冷静に、

「私には唯一、秦王を殺し、貴殿の仇を晴らす方法が思い浮かんでいます。正しく、その方法が完璧に実行されれば、この計画が崩れる事は無いと云える、自信のある策が御座います。」

樊於期は、左右の対の手を力強く机に叩きつけ、半身を荊軻に乗り出し、荊軻へ顔を近づけた。

「その策を教えてはくださぬか?その為になら何でも致そうぞ!」

「秦王政は慎重でございます。まだ敵が味方かも分からぬ輩に、自らの首を見せぬでしょう。その為、肥沃の地である督亢の地図と、その、申し上げにくいのですが……」

不自然に茶を啜った後、敢然と放った。

「秦の裏切り者である、樊将軍の首を秦王に捧げる。そうすれば、私は秦王政を打ち取り、貴殿の因縁は晴らされると存じ上げます。」

樊於期はそれを聞いた後、少しばかり唸った後、ガハハと大声で笑い出した。

「そうか、そうか、その手があったのか!荊軻殿、貴殿は信用できる人間だ!我が家族や友の因縁を晴らせるのであれば、喜んで首を渡そう!」

と云い、席を立ち、荊軻を抱きしめた。

「貴殿になら我が首を任せよう。どうか秦王政の生首を取れば、真っ先に宮殿から脱し、天へ見せつける様に掲げてください。すると我は大層に貴殿とその首を笑おう!」

すると樊於期は思い立った様に戸へ向かい、

「では、失敬仕る。」

と告げ部屋から出て行った。すると妻子や友を祀る祭壇の前にて、

「今まで待たせたな。」

と笑った後に自らの首を刎ねた。

太子丹は誰よりも早く、樊於期自刃の報を訊き、駆けつけたが、一目、無情にも倒れ込む樊於期を見た途端、太子丹は男泣きに泣き、荊軻を叱責しようとしたが、自らが動かぬばかり荊軻が動いたと云う事を悟り、自らの不甲斐なさにも泣いたと云う。

遂に、である。太子丹は、邯鄲随一の鍛冶屋が太子丹の為、樊於期の為、燕の未来の為に鍛えた中華唯一の匕首に、少し肌に触れるだけでも関わらず、即死してしまうと訊く毒を染みるまで塗り込んだのである。その匕首の殺傷力と訊けば、中華にて劣るものは無いほどだ。

荊軻は、自らの信用できる者に秦王暗殺計画にて同行するよう、懇願の書簡を全中華の友の下へ発した。

だが、その書簡の中に、高漸離への書簡は無かった。

如月の或日。太子丹は、いつまでも友を待つ荊軻に痺れを切らし、遂に出発を命じた。荊軻の友は、その当時、中華を襲った嵐による川の氾濫の為、燕国に入れなかったのである。だが、そんな事を太子丹が知る由もあらず、遂に荊軻は、太子丹より授かった特注の匕首と、美しき正装や、馬車、刺客の一人である秦舞陽に、督亢の地図と、樊於期の首が入った棺桶を持ち、秦国王都咸陽への旅路の出発点である、燕国の国境である、易水の滸へと向かったのである。

牛車の車輪は、砂利等に踏み込む様に、音を立てながら遂に易水の滸に辿り着いた。荊軻の頭の中は、良き親友である、高漸離の事しか無かった。高漸離へ何も伝えずに此処まで来た事や、高漸離であれば、この旅に同行してくれるのでは無いかと云うものだった。そうして、特に意味もなく月を仰ごうと窓から顔を出した。その時である。

易水の滸には、純白の白装束が、滸を囲む様に列を成しており、その装束は、青白く、冷たい月明かりに照らされ、延々と続く天壇青へ誘う様に、金碧珠の様な色を薄々と漂わせる白百合が並ぶ様だった。牛車はゆっくりと速度を緩め、遂に静止した。荊軻の牛車の戸は開かれた。荊軻はこの状況に驚きながらも牛車から降りたのだが、驚くべき事は他にもあった。その白装束の中に、彼の太子丹が顔を見せていたのだ。その横には、太傅の鞠武の姿もあった。易水の冷き水面は、一度も揺れる事無く、その数分はまるで時が止まったかの様に、一枚の画の様にも見えた。だが、その画を砕いたのは、思いもよらぬ一言だった。

「荊軻!」

それは、荊軻の佇む滸の対となる位置より、澄んだ空気の為か、正しく爆ぜる様に大きな音で、だが、鮮明に聞こえた。

「何故、貴様と云う漢は何処までも隠すか!何故、私以外の友には書簡を送り、私には送らんのだ!なあ!荊軻!」

その主は大きく息を吸った後に続ける。

「私も今すぐそこへ向かおうぞ!」

すると、対より馬に跨った白装束の男が音を立てながら水の中を此方へと向かってきた。寒風が唐突に荒びだし、白波は立ち始めた。

「もう止めろ!今宵の易水の波は荒い。先程まで静かだったのは偶然だ!貴様、沈むぞ!」

荊軻は必死に止める。

もう良い、この距離ではどの様な風体でいるのか分からぬが私には分かるのだ。いや、私にしか分からぬ。この声、この阿呆な程の威勢の良さ、此奴は、此奴は……

「荒波など良い!俺はお前のいる場所まで向かうまでだ!」

徐々に奴は近づいている、急いで調達した馬なのだろう、ひ弱で、今にも波に飲まれそうだ。そう、奴は……

「高漸離!来るなあ!」

我が最後の竹馬の友、高漸離である。

「断る!馬も!正装も!剣も邯鄲辺りで買えば良い!」

「だが!お前の所に向かうのは!今しかできぬのだ!向かわせてくれ!俺を連れて行ってくれ!荊軻!」

高漸離の、馬は、ひ弱だが、力強く此方に向かって来ている。

「高漸離!貴様は、私が貴様に書簡を送らなかった意味が何故分からんのだ!高漸離!」

その場に居る全ての者の目には涙が溢れんとしている。だが、荊軻と高漸離の涙は、既に溢れるのを防げる涙の量を等に超えていた。すると、高漸離の馬が静止したのである。対岸からは小さな声で次の様に聞こえた。

「そうか、もうお前は、私では届かぬ場所に辿り着いてしまったのだな……」

すると馬はその身を翻し、対岸へと戻って行った。高漸離は何かを取りに戻る様に夜闇に溶け込もうとしているが、ふと此方に振り向き、次の様に告げる。

「誰か、筑を持っている者は居らぬか。」

するとそれに呼応する者と共に、高漸離は夜闇に消えて行った。かと思えば、直ぐに或酒の注器と杯を持って戻り、易水を挟みて荊軻と対した。高漸離は、胡座を懸いて座り、自らの前に筑を置き、注器を掲げて告げた。

「荊軻。お前は覚えているか?この酒は、最初にお前と呑んだ酒だ。そして、この杯もまた、お前と呑んだ杯だ。今度はいつ呑めるのかと思っていたが、まさか、こんな事になっていたとはな……」

高漸離は、杯に酒を注ぎ、

「お前も酒を持っているか?」

と問うた。荊軻は、牛車の中へと戻り、酒と盃を持ってきた。そして、荊軻は笑いながら告げる。

「どうやら、お前と考えている事は同じらしい。」

再び荊軻は微笑し、酒を注いだ後に、それを掲げ、

「乾杯。」

と告げ、少しだけ相手の方へと杯を傾けた。そして、手繰り寄せる様に、自らの口に酒を運ぶ。徐々に喉を伝っていくのを感じた。それを数度繰り返す。あっと云う間に杯は空になった。すると彼等は、冷え切った大地へ杯を離した。

荊軻は立ち上がり、高漸離は筑を構えた。高漸離の筑の演奏が始まったのである。明媚な滸のなか、目一杯に高漸離の美麗ながら、流麗な筑に合わせ、荊軻は歌った。

筑は静かに儚く滸に響く。荊軻はそれに合わせて、音を奏でる。ふと荊軻は、月の出る秦の方を見た。月は山に近づき、山月の景を為していた。すると荊軻は、月に被る崖の端に、早咲きの桜が空へ迫り出しているのを見た。桜は月の逆光により、漆黒に染まっているが、その枝の先端が月明かりを通し、桃の色が透けているのを見逃さなかった。その花は、冷き夜風により、散らされている。これを静かに眺めている白装束は、唯々魅了されていた。月は桜へと向かってゆく。

もう時間はない。

筑は音を外し始め、荊軻の歌も強弱や、発声ですら許させなくなっていた。上手く絡まっていた二本の糸も解け始めた。

だが、その様な音は、先程とは打って変わり、音程や、強弱、歌詞を捨てた代わりに、奥に潜んでいた僅かな悲哀を全面的に露呈する様に鳴っていた。そんな、音の外れた情熱的な音に、白装束は涙した。

すると、その場の音は荊軻の歌のみとなった。高漸離の筑が消えたのである。だが、荊軻は、対の滸に、手で顔を覆い、唯、水面に映る月を見る者が見えていた。高漸離である。荊軻は、杯を拾い、易水の冷えた水を汲みて、それを飲んだ。荊軻の歌も暫し静止した。その場には易水のせせらぎのみが一定の動きや、音を滸に響かせていた。荊軻は杯を易水へ放った。軽い杯は、易水に僅かな波紋を描き、沈むかと思えば、杯は浮遊した。杯の中には水が入っている、その水は僅かに月から離れているが、光は荊軻へと確かに届けていた。荊軻は大きく息を吸った後、次のように歌った。

 

風蕭蕭兮易水寒

壮士一去兮不二復還

 

(訳 風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去りてた還らず。)

遂に時は来た。月光は遂に崖に完全に重なってしまった。荊軻は、大量に牛車に積んでいた大袋を家臣に易水へ投げさせるように告げた。荊軻は、帰らぬのではない。帰れぬ状況を作ったのだ。大袋は飛沫を上げて沈んでいく。僅かな月の光も届かぬ底へ向けて。

荊軻は牛車へ乗り込み、僅かな月明かり咸陽へ発した。

荊軻は終ぞ振り返らなかった。

荊軻一団は、咸陽宮へ辿り着いた。咸陽の宮殿の豪華絢爛と云えば、薊とは比べ物にならなかった。朱色に金をふんだんに散らした色となっており、その中でも大きな円柱と玉座は、その大量の金に陽光が反射おり、咸陽の煌びやかさを更に増していた。咸陽の美は、その圧倒的な国力、文明の総合芸術にもなっており、その美と云えば、正しく自然の明媚を圧倒し、陽光ですら支配するものとなっていた。

我々が玉座から少し離れた位置に鎮座していると、その静寂を或足音が破壊した。その足音は不思議な威厳と貫禄を備えており、その大きな足音は、瞬く間に宮殿に居る者の感覚的視線を完全に支配した。その足音は徐々に近づき、玉座の側から姿を現した。

秦王、政。その大柄な体と云えば、大いなる虎を連想させた。決して鍛えられている訳ではない。だが、よく見られる屈強な男よりも圧倒的であり、紺の着物の上には、大きな龍が腹に聳えている。腰に備わっている長き剣は、更にその圧倒を加速させた。顔は冕冠により姿は見せぬが、見せてしまえば、我々と同じ人間である事を露呈してしまう為、見せぬと云うのであろう。そうであるとするならば、少しばかり荊軻は安堵した。圧倒的な王も、我々と同じ人間であると知り、更にそれを恥じて冕冠をつける事でそれを隠しているとするなら、何か秘密を握ったようで、荊軻は独りでに得意げになった。

秦王政は、その間に玉座に腰を下ろしていた。

「燕の使者なる方々、本日は如何なされた。」

秦王の声は、宮殿に響いた。荊軻は、

「燕はこれより、大秦国に従属関係を結びたいと考えています。」

荊軻は声を大きくさせ、続けた。

「その為、肥沃の地、督亢の地図と、裏切り者である、樊於期の首を持参致しました。これより、それを、秦舞陽に持たせ、王陛下に確認いただきたいのですが、宜しいでしょうか。」

「そうか、宜しい。その二つを持って来い。」

「秦舞陽、参れ。」

荊軻は息を呑んだ。彼の秦王の喉元はそこに在る。袖に隠してある匕首を再度握り締めた。

だが、背からの返事は無かった。荊軻は振り返った、頬には冷や汗、体を震わせ、縮こまる秦舞陽の姿がそこにはあった。荊軻と顔を合わせた秦舞陽は、ヒッと声を出した後、磨かれ、滑らず、光は、一つも漏らす事なく反射する床を見つめ出した。床に、秦舞陽の冷や汗が一滴、二滴と零れ落ちる。秦の宮殿の床は、その僅かな違和感を見落とす事なく照らし晒した。

秦の文官武官は、眉間に皺を寄せて秦舞陽へ視線を送った。秦舞陽は何もできなかった。荊軻は、微笑を浮かべ、

「すみません。秦舞陽は、田舎の燕の小屋の様な宮殿しか経験していなかった為、この様な豪華絢爛な宮殿や、絶対的な天子様に緊張しているのでございます。斯く言う私も、笑って誤魔化して居るのですが、どうか許して下され。」

「代わって、私が秦王殿の処まで督亢の地図と樊於期の首を持て参じましょう。」

荊軻は、ゆっくり、ゆっくりと秦王へ向かって行く。そして、玉座の前にて、督亢の地図、樊於期の棺桶を丁寧に置いて、半歩下がりて平伏した。

「督亢の地図は破れやすい為、御注意を。」

と言葉を添えた。秦王は、玉座から降り、先ずは樊於期の首を確認した後に、ゆっくりと両手で督亢の地図を取り玉座へ向かって行く。

その刹那である。

「秦王!覚悟!!」

荊軻は袖から匕首を取り出し、玉座へ躍り出た。

やはり秦舞陽等は出て来ない。

――独りでやらねばならぬ――

荊軻は、秦王の袖を勢いよく掴み、匕首を突き付けたが、間一髪にて袖が破れ、秦王は、少しでも時間を作り、剣を抜かんとし、大きな円柱へ向かったが、荊軻は怒髪を天に衝かせ、一心不乱に追ってきた。秦王の長剣は、この間合いでは抜刀するのは難しかった。

秦の大臣は法令により壇上に登れず、燕の使者は、依然平伏したままである。

――今しかない――

荊軻は勢いよく、秦王の懐へ飛び込んだ。その時である。侍医の夏無且かむしょの薬箱が荊軻の背後から飛翔した。その薬箱は上昇しながら荊軻に向かい、遂にはその角は荊軻の後頭部と接触した。鈍い音が響く。秦王へ全ての意識の矛先を向けていた荊軻は、突然の刺客に錯乱し、転倒してしまった。

「王よ!剣を背に!」

秦王は剣を背に持ち替え、背負う様に抜刀した。地に尻をつけた荊軻は、匕首を構えて秦王を見上げた。秦王は、荊軻へ迫っている。荊軻は、手を使いて、立ち上がらずに後ろへ向かって滑る様に下がった。秦王の剣は荊軻の命を奪わなかったものの、足に致命的な痛手を負い、荊軻は立ち上がると云う事を失った。

――もはや、これまでか――

荊軻は、上半身と腕の全力を尽くし、前から倒れる様にして、その匕首を投げつけた。匕首は、秦王の遥かの上を行き、大きな円柱へと突き刺さった。荊軻はその近くの柱へ凭れ掛かりて、微笑を浮かべて次の様に嘆いた。

「嗚呼、太子様、樊於期、願いは叶いませんでした。」

「出発の寸前、久しぶりに君の涙を見たよ。天に行けど、我に又あの筑を聞かせてくれよ。高漸離……」

秦王の怒りは凄まじく、荊軻の死体を死しても尚、その原型が人間であると分からぬ程まで切り刻んだ。宮殿には秦王の怒号以外の何も聞こえなかった。

秦舞陽は終ぞ天を仰がなかった。

それから数日が経過し、太子丹の元へ一報が届いた。荊軻が敗れ、秦王は討ち果たせなかった、と云うものだった。太子丹はそれを高漸離に伝えようか迷ったが、それを辞めておき、樊於期の墓へは、

「万事は片付いた。」

とだけ告げられた。だが、高漸離はその情報を早くから知っていた。そう、荊軻の使いである。

荊軻はその使節の中で最年少の者に、或消息を持たせ、燕へ帰国させていた。消息を渡す時に使いは高漸離へ、

「『宜しく頼む。』と荊軻殿が……」

高漸離はその途切れた声に対し、俯き、

「そうか、ご苦労であった。」

と返した。使いは、

「ご苦労様です。」

と告げ、去って行った。高漸離はその消息を開いた。その消息には、荊軻の達筆にて次の漢詩が綴られていた。

 

為於刺客向秦国

来所不可動於汝

月下唱汝玩筑良

窓看月那月比虚

 

(訳 刺客と為り秦国へ向かう。

ここまで来れば君はもう何もできない。

月の下で我が唱い、君が筑を弾いたあの時が懐かしい。

窓から看える月はあの月と比べて虚しいのである。)

心なしか高漸離は荊軻の字がいつもよりも乱れている気がした。そして、虚の辺りに付着する乾いた水滴の跡を視認した後、高漸離は消息を閉じた。

秦王政の怒りは凄まじく、秦将王翦が攻め込み、王都薊城が落とされた。燕王は、和平の為に、太子丹を斬首し、その首を渡したが、後に王諸共滅びた。

高漸離は始皇帝に筑の名手にて呼び出され、当時盲目であった高漸離は声の位置を以て始皇帝に鉛を入れた筑を投げつけたが、大きな円柱に直撃しただけで、始皇帝は殺せず、後に誅殺された。その円柱とは、荊軻の匕首の刺さった円柱であった。

 

2022年11月23日公開

© 2022 宮水楓

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