李牧

宮水楓

小説

13,799文字

古代中国、春秋禅国時代。その戦乱から外れ、中華の中でも北端に位置する、代では、遊牧民族、「匈奴」によって人々の生活は脅かされていた。その代の地の長官として、後に戦国四大名将と謳われることとなる、李牧が任じられる。
様々な人々の思惑が交差する中、「真の勝利」について、今、若き美文で綴られる。

 

古代中華、春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代末、ちょう李牧りぼくは、度重なる匈奴きょうどとの戦闘によって、荒れ果てていた北方の地、だいの長官に任ぜられた。

その年の秋、李牧は、自らの近臣と共に、騎馬に乗って代へと向かった。邯鄲かんたん近郊では、穏やかであった自然は、代に着く頃には、秋であるのも相まってか、その自然は、殆ど姿を見せなくなっていた。その一面には、唯淋しい、乾いた砂色が広がっているだけである。代の町に辿り着いた李牧だが、その姿を待っていた者は、一人としていなかった。その民の顔と云えば、まるで生者とは思えぬほど、酷く憂鬱とした顔で、生きていると云うよりかは、唯そこに存在しているだけである。李牧が自らの屋敷に辿り着いた時、一人の者が姿を見せ、李牧に話しかけた。

「貴殿が李牧様でございますか。」

「如何にも。私が邯鄲より派遣された新たな長官、李牧である。」

「左様でございますか。私は泉有せんゆう。代の自治を務める者でございます。この地、代は、度重なる匈奴との戦いに敗れ、民は意気消沈としています。だから、どうかこの地に、脚気を取り戻し、彼の匈奴を討ち破っては頂けませぬか。」

泉有は李牧に頭を垂れた。李牧は、

「分かりました。ですが、まだ匈奴とは戦いません。まずは私に万事を任せてはくれませぬか。」

「承知致しました。」

まず李牧は、現在の代に、どれだけの民が存在して、どれだけの民が匈奴との戦いや、飢えなどで死亡したのかを調べるため、代内で正確な戸籍を製作した。代の民の完全な情報を集めんと、人の住まえる処には、李牧の臣下や、泉有率いる代の自治を務める者を派遣した。その結果、李牧が参ったときに渡された情報では、代民は、男四万、女三万五千とされていて、その中で、子供老人は一万存在しているとされ、更に代兵として匈奴と戦えるものは男の中から、二万程であるとされていたが、事実は、男、二万八千、女、二万五千、子供老人はその中より八千とされ、代の兵士と云えば、まともに動ける者は、既に一万人を切らんとしている程であった。

泉有はこの真実に驚いた。だが李牧は至って冷静であった。このような危機的な状況では、長官である李牧に、驚いている暇などはないのである。

李牧は民が匈奴との連戦によって、疲弊し、意気消沈としていることを理解し、まず、避難用の固い砦を築き、全ての住民に避難訓練を行わせた。泉有は猛反対をした。そんなことをしては鼻から匈奴から逃げるようではないか、それでは代の恥ではないか、と。だが、疲弊している住民には既に、匈奴に立ち向かおうとする者はおらず、皆は顔色一つ変えずして避難訓練を行った。

そして李牧は自給自足のために、代で行われている家畜の放牧の他に、麦作の技術を教えた。この辺境の代の土地で効率よく麦作を行う方法を李牧は書物で学び、自らで考えていたのである。

そうして李牧着任より数か月が流れ、代は少しずつ計画的な復興を行う流れへと向かっていた時、李牧の下へ、匈奴襲来の狼煙が上がった。

李牧は、一刻も早くそれを民に知らせ、指示通りの避難を終わらせた。男手は、李牧が築いた、騎馬の足止め用の柵を用いて優位な位置より、威嚇及び射撃を行い、人民、家畜、重要物資の避難が完了した後に退却した。この中華でこれに勝るものなしと呼ばれる程の、天下最強の騎兵隊として恐れられる匈奴は、李牧によって築かれた何重もの防衛柵や障子堀によって大いに進行を阻害され、代の民家などに到達したのは、随分と後の話となった。が、李牧達は、堅固な砦に避難していたため、民家は空であり、匈奴が奪えるものなど存在しなかった。匈奴は民家を焼くなどして李牧を挑発したが、李牧は決して動かず、遂に匈奴は代より撤退していった。

砦の中で一晩過ごした後、少しずつ人間的な表情をするようになった代の民が、徐々に外へ出始めた。

李牧の築こうとしていた町は、匈奴によって、荒らされた後であった。李牧は大きくため息を吐いた。

「また振出からだな。」

と李牧が呟いた時、それをかき消すかのように、一人の男が荒れた土地や街を見て、

「また一から作り直すか!」

と笑い始めた。砦より出てきた民も続々とそれにつられ、笑みを零した。

永き夜が終わり、薄暗い暁闇は、山間より出ずる朝日から注ぎ込まれる光の筋によって、消滅し、瞑色の空は、忽ち天青に染まった。流れ込んできた光によって、靡く雲の端は金箔のような金色となり、路傍の桔梗に付いている朝露は真珠となった。風によって流れ込んできた、朝の瑞々しい空気を、李牧は全身に浴びて、身を翻し、政務をするために屋敷へと戻っていった。逆光によって、その様子を詳しく知ることは出来ないが、確かにその時、代の民や李牧の顔は、明るく、透き通って見える程美しかったことだけは鮮明であった。

 

 

それから数年の時が過ぎた。匈奴の襲来に対して、李牧は戦闘することを許さず、避難をさせ続けた。代では徐々に麦が取れるようになり始め、李牧はその度に、もっと品質のいいものを作らんと試行錯誤を繰り返した。

民は既に、李牧が参った時に見せた、あの薄暗い顔を忘れたかのように、一人も見せることはなくなった。すると、民よりこのような声が上がった。

「匈奴と戦うべきである。」

と。匈奴に逃げ腰の李牧は、臆病者として、民より反感を買った。だが、泉有はそれを否定した。泉有などが持つ資料には確かに、李牧によって大きく被害が減り、今の代の地は絶好調であると云うことが分っていた。匈奴は李牧によって大いに苦しめられていた。物資を代から取ることができないからだ。よって匈奴は代に攻め込むことを止め、対象を秦とした。

そのような、代が再出発を遂げようとしている時に、その話が趙王の耳元に入った。趙王は、

「そんな腰抜けが、もし、趙の将軍だとばれたら、趙の恥である!」

として、若き猛将、岳鄭がくていを代の長官とし、李牧の任を解いた。

その話はすぐに代へと伝わった。李牧はその少ない荷をまとめ、近臣と共に代を去ろうとしていた。代の門から去る時、泉有が慌てて参った。

「どうか、戻ってきてくださりますよう、お願い致します。」

李牧は、

「それは分からない。だが、来るべき時が来たというのなら、私はそれに従い、ここへ戻ってくる。」

そうして李牧とその近臣は吹き荒れる砂嵐の中に消えていた。

 

 

李牧が去り、岳鄭が代へ来てから、初めての夏。代では李牧の試行錯誤の結果、初めて良質な作物の大量生産に成功した。その報は邯鄲にも行き届いた。その年の趙は不作で、良質で、尚且つ大量の作物の生産に成功した土地は、僅かであり、代の豊作は趙王や民は大いに喜んだ。趙王はこれを岳鄭の功績として大量の褒美を与えたのだが、この功績の殆どが李牧のものであったのは、代に住まう僅かな賢人や、泉有には明らかであった。それから又時が経過した。匈奴はまだ将が李牧であると思っているため、暫く、代の地は平和であった。岳鄭はその時には、匈奴が攻めてこないのは自分が代に来たからだ、と勘違いをしており、李牧が設置した大量の防衛の櫓や柵などの防衛線や、急報用の狼煙などを撤廃し、それに費やしていた兵力や軍事費の税なども撤廃し、民は無駄を削った岳鄭を敬った。

泉有や賢人はそれを止めようと岳鄭を諫めたが、慢心を重ねていた岳鄭には届かず、肥沃の土地に成りつつある代の土地は、大幅に防衛力を低下させることとなった。

 

 

或時、匈奴に報告が入った。それは、匈奴の生活に多大な影響を与えた、代の将軍李牧が何故か解任され、若手の将軍岳鄭が新たな将となったという報告だった。匈奴の王、単于ぜんうはこの報告を聞き、隠密行動を得意とする者一人を代に調査へ向かわせた。単于はその者によく言い聞かせた。李牧は北方への警戒が異常であり、侵入しようとするものはたとえ鹿一匹であれ見逃さぬ程の徹底した警戒を可能にする防衛線などを張り巡らせている。よって大いに警戒してこの任務を務めよ、と。

少しの月日が経過した後に、その者が帰ってきた。その者によると、代の将軍は李牧ではなく、戦略より、力を重視する猛将であるとのこと。それに追加し、李牧の築いてきた厄介な防衛線は、全て撤廃され、今や代は隙だらけであり、そして代の土地は近年豊作で大量の蓄えもあるとのことであった。単于はこの報に驚き、同時に喜んだ。そして匈奴は、速やかに代への攻撃準備を始めた。

明くる日の夜明け、匈奴の全軍は密かに代へと進行を始めた。匈奴は、李牧によって物資が途絶え、それより攻撃対象を秦や燕に移行するまでに、大量の者が飢え、息絶えた。その怨念を今晴らさんと、匈奴の騎兵は鬼のような形相で代へと迫っていたのである。

岳鄭に匈奴侵入の報が入ったのは、かなりの時が経過した後であった。代の北部の集落は、既に壊滅し、代の中心地に匈奴は迫らんとしていた。代の民はこの奇襲に慌て、取り敢えず避難を行おうとしたが、岳鄭は、今こそと、代の全ての兵力を率いて、匈奴と戦うことにした。だが軍事訓練すら行わない代は、この大規模な徴兵を速やかに行うことは不可能であり、徴兵し、いざ開戦となった時には、匈奴は喉元にまで迫っていた。

代兵は、長年匈奴と戦っていないため、その殆どが本当の戦闘を知らず、代の士気は今にも消えそうであった。そのような兵と、最強の騎兵がぶつかればどうなるのかは、現場にいた全ての者は分かり切っていることであった。

代軍は瞬く間に総崩れとなり、匈奴は更に奥に進み、代の蓄えの殆どと、大量の家畜に、捕虜を連れて、更に、街並みなどを撤退的に破壊し、本営へと戻っていった。

既に上っている陽光は、この無様な代の土地を無情にも余すことなく晒していた。

この報は趙王にも迅速に伝わった。だが趙王は戦果を全く気にせず、これでこそ趙将だ。と褒め称えた。又、敗北は仕方のなかったものとして処理され、代に援助の物資を送った。だが、匈奴はそれも奪い取らんと又攻めてきた。勿論、防衛力も士気も皆無な代が、連勝で意気揚々としている匈奴に敵うはずもなく、又しても惨敗で終わった。

その後も幾度も戦いが続いた。岳鄭は李牧の用いた防衛柵や櫓、狼煙台を再び築こうとしたが、李牧の築いた無数の防衛を容易くするものは、かなり緻密に地形、敵の速度、代兵の砦への通りなどを考えられて、意外に大掛かり築かれたもので、今や民は全て疲弊しきっている代では、既に再建は不可能であった。

荒廃した代では、無論、作物などの生産は停滞し、増え続けていた人口は、まず男が、次に女子供老人が急激に減り始めた。だが、現状を趙王が知ったのは、後の話であり、それまで代は、放置されるのである。

次の夏、趙王は各地の麦の生産の状況を聞いた。すると、去年辺りまで上質な麦を生産していた代からの作物が、今年は壊滅的であった。これに趙王は驚き、代の現状を調べさせた。すると、溢れ出るように、代で起きている絶望的な悪循環の話が出てきた。趙王はそれを臣下に相談した。すると臣下は、大量の情報を集め、趙王に、趙王が与えた今までの褒美は、本来李牧に与えるべきであったと説明し、趙王に強く、

「岳鄭様を解任し、もう一度李牧様を長官に任じてください。」

と言い聞かせた。だが趙王は自らの手で更迭した李牧を又長官に任じることを躊躇った。すると臣下は趙王に、

「王の面子というものは、一発で正しい判断が出来るかではありません。寧ろ、有能な臣下の話をよく聞き、良い人材を雇用し、国を良くするためには自らの面子も捨てられるような柔軟性こそが、王の資質であり、面子となるのです。」

と、趙王の姿勢を諫め、

「私が李牧様に説得を行いますので、ご許可をお願いします。」

と言った。王は自らの過ちを認め、臣下に許可を出した。

 

 

趙の都、邯鄲にて李牧は、小さな屋敷に隠居していた。王の臣下がその屋敷を訪ねた時、李牧は悠々と、庭で酒を呑んでいた。

「こんにちは、李牧様。お酒を呑んでいられたのですね。ところで、そのお酒、あまり見かけませぬが、どこの酒でございましょうか。」

王の臣下が訪ねた。

「代で頂いたものです。私が代から去る時に、近くの酒屋の店主から、その店が仕入れた中で最高の酒を、この代で作られたしゃくとともに頂いたのですよ。『もし邯鄲で暇を持て余しているなら、これを呑んでくれ。』と。」

李牧は振り返って、王の臣下と顔を合わせることなく、その爵を持ち上げて見せ、付け足すかのように、

「貴方も一杯どうですか。」

と尋ねた。

「ではお言葉に甘えて。」

と王の臣下は応えた。李牧は自らの近臣に客人用の酒器を持ってこさせ、その爵に李牧が酒を注いだ。李牧が注ぎ終わった爵を渡す時、その顔が見えた。屋敷に尋ねる前は、随分とやつれているのかもしれないと思っていたが、李牧の顔は、老い、弱ったようには一つも見えず、爽やかであった。注がれたお酒を呑んでみると、

「これは、果物ですか。」

「はい。醸造の際に基本よりも色々な果実を加えているらしいです。」

「へぇ……」

王の臣下は、又酒を呑んだ。酒は甘かった。すると李牧は、

「そう云えば、何用で貴殿は此処に入らしたのでしょうか。」

王の臣下は呑む手を止めた。そして、爵を机に置いて、

「そういえば、まだ話しておりませんでした。」

と笑い、すっと真剣な顔に戻って李牧にこう告げた。

「代では今、岳鄭様が匈奴に敗れ続け、土地は荒れ、人民は疲弊しています。どうか、又代に戻っては下さりませぬか。」

すると李牧は、何の躊躇いもなしに、

「お断り致します。」

と一瞬のうちに言葉を返した。

「なぜでしょうか。趙王は既に貴殿の手腕をお認めになっております。」

「ですが私は、もう引退しております。しかも、私が又代に戻っても、逃げ続けるだけでございます。」

と李牧は言った。李牧の顔つきは一つも変わっていなかった。

王の臣下は諦め、王宮へ戻っていった。

そして、王の臣下は幾度も李牧の下にやってきた。そして、その度に諦めて帰っていった。

そして、その時も又、李牧は、

「私が将では、代も趙も恥でございます。」

と李牧は言った。すると、いつもはそこで王城に戻っていった王の臣下は、今回は返答した。

「そんなことは、ありません。今趙王は貴殿を更迭したことを後悔しています。代の地は、趙国の一部でございます。今、代は危険に脅かされている。そのような事態を防ぐためであれば、もう李牧将軍の策を咎めることなど絶対にしないと、王も申しています。どうか、戻っては下さりませぬか。」

その時、小さな秋風が、庭の木の葉を少し揺らした。李牧は、小さく息を吸って、

「分かりました。代へ戻りましょう。」

とはっきりと告げた。

 

 

「久しぶりですね。」

李牧は一面の砂色を前にして、自らの近臣に告げた。相変わらず吹き荒れる砂嵐によって、眼前ですら、まともに見えることはない。

そうして李牧一行は代の門に辿り着いた。門の前には、数多の李牧を待っていた人々が群がっており、その先頭の者が李牧に近づき、静かに、

「お帰りなさいませ。李牧様。」

李牧はこの声を聴いて、少し笑みを零し、

「お久しぶりですね。泉有さん。」

と拱手を返した。

李牧は早速、

「では、まず戸籍や、防衛用の砦などを新たに築きましょう。」

と笑って言った。

代の街は、李牧が去った時とは、比べ物にならない程、荒れ果てていた。道端の陰で壁に寄り掛かって座っている、弱った子供に、李牧は、自らの懐から干し肉のような携帯食を取り出して、それを与えた。そして、

「もうこんなひもじい思いをすることは、二度と訪れることはないですよ。」

と告げ、大きな声で、

「復興を急ぎましょう!」

と民を鼓舞した。

それから又時が過ぎ、復興が完了しようとしていた。匈奴の攻撃には避難を行い、徹底して戦いを避けた。匈奴は、

「李牧が戻ってきた。」

と、代へ攻め込むことを止めた。その代の単于は、そうした無念の中で死亡し、匈奴は更に代どころの話ではなくなってしまった。

李牧は、更に、もし自らが再び去ることとなり、長官が変わったとしても代の平和が保たれるようにと、要塞の増築、法令の設定を行い、代の平和を永続的なものとし、自らが長官として存在する間確実に匈奴は攻めてこないと分かっていたため、要塞の中より、一部の倉庫を外へと移転した。

こうして代には完全な平和が訪れた。

人々はその平和を完全に謳歌した。代は豊かな土地となり、代の四季に色が訪れた。

春は、紅梅色や桃色に満たされ、夏は、天色と鮮緑に溢れ、秋は、韓紅と、淡黄蘖に包まれ、冬には、銀灰色と、白群が現れた。人々はその季節の移り変わりを楽しむことを、永き混沌の時代の終結と、新たに開かれた太平の世の祝福のように、目一杯楽しんだ。

 

 

月日が経つにつれ、代は豊となっていった。時間や力を余らせた民は、李牧に提案をした。

「代の軍事力は余りにも酷い。もし我々が匈奴と一戦を交わすことがあったとしても、匈奴と十分に渡り合えるよう、軍事訓練を行いたい。」

と。その意見を聞いた李牧は、少し悩み、屋敷へと持ち帰ることにした。

現在の李牧の目標とは、代を自立させることである。それには確かに、匈奴とも戦える軍事力が必要になる。だが、李牧が永続的に調査をしている近年の匈奴は、事前準備を行って、中華の北方の地へ攻撃に出ることもあるが、状況に応じて、少数部隊で奇襲を仕掛けることもある。軍事訓練を行い、注意が別支店に移っている状況では、確実に奇襲を仕掛けてくるだろう。

「いや、でも……」

と李牧は、思考を巡らせていたが、何かに納得し、眠りに着いた。

朝、李牧は泉有を呼び出した。

「失礼致します。」

泉有が李牧の部屋の戸を開いた音を聞いて、本を読んでいた李牧は振り返り、泉有に、

「実は、代で大掛かりな軍事訓練を行おうと思っている。」

と告げた。

「まさか、匈奴との戦闘の可能性が発生したことですか。」

「いや、そういう訳ではない。」

そうして、李牧は、この作戦の全容を泉有に伝えた。泉有はそれを詳しく聞き取り、その策を進めることにした。

李牧は代の全ての兵を率いて、大々的に軍事訓練を行った。代兵は予め、其々部隊の配属を決められており、その隊を率いる者は、代の中での最精鋭となる者たちであった。軍事訓練は、代の全ての男手を用いて行ったのもあって、その景色と云えば、それは壮大であった。その数、車千三百乗、騎馬一万三千匹、百金の勇士五万人、弓の名手十万人となる程であった。民は家畜を放牧して、原野は人に満ちた。そして李牧とその部下は、高台の上でそれを見守っていた。

その時、李牧の下へ急報が届いた。匈奴侵入の報であった。李牧は完全に油断していた。軍事訓練に全てを割こうと、対匈奴の守備兵を大いに減らしていたのである。するとその報に驚き、声を上げた家臣の話を聞いた部隊長が李牧に、

「絶好の機会ではないですか。我々は武装を整え、更にここには李牧将軍もいられる。この上ない最高の体制でございます。今こそ、敵匈奴を討ち破るべく、出陣の許可をお願い致します。」

と進言した。それに兵も続いた。士気は大いに上がっている。中からは自然と鬨の声が上がり始めた。

だが李牧は、

「なりません。まだその時ではありません。避難を行います。」

と、淡々と告げた。兵は避難した。

「敵兵は僅かに過ぎません。今こそ出陣の時でございます。」

「李牧様、ご賢明な判断を今一度。」

と兵は李牧を諫めた。だが、李牧の指示は依然として、「避難」であった。

後に、匈奴が到着した。幸いにも、女子供、老人などの、非戦闘員は無事に避難に成功したが、兵では、特に北側で演習を行っていた部隊はその殆どが捕虜として捕らえられ、放牧していた家畜は全て奪われてしまった。更に、代の中でも、更に北にあった倉庫ではおの殆どの倉庫で、物資が大量に奪われた。そして、まるで大勝利をしたかのように、持っていた槍を大きく李牧のいる砦に掲げたかと思えば、身を翻し、悠々と本営へと引き返していった。死者こそは出なかったが、代は甚大な被害を出した。

翌日、李牧の邸宅は群衆に囲まれていた。中には、武器を持っている者までいる。民は怒り狂っていた。その中、邸宅の扉は開いた。中から李牧が出てきた。民は一斉に罵倒を浴びせた。

「どうして戦の用意が出来ているのに戦わなかった!」

「友が奪われたのだぞ!連れ戻そうとは思わないのか!この腰抜けが!」

李牧の顔はいつも通り澄んでいた。迷いや悪びれる様子など微塵もない。その顔は更に民の怒りを爆発させた。群衆の中から人をかき分けて一人の男が出てきた。名は凱迂がいう、代一の腕前を持つ男である。凱迂はそのまま直線で李牧へ向かい、胸倉を掴んでこう言った。

「てめぇ、なんのためにここに来たんだ?」

李牧は応答をしなかった。

「てめぇは、俺たちを助けるために来たんじゃねぇのか!それが、なんで仲間を見捨てて砦にみんなで逃げましょうになるんだよ!」

すると李牧は、

「では、その時戦えば、だれ一人とせず死せる者はなく、完全に匈奴を打ちのめすことができたと?」

「んなこと言ってねえよ!俺は……」

李牧は間髪を入れずに、

「今回、死者は出ませんでした。ですが、戦っていては死者が出てかもしれません。捕虜と違って死者は帰ってこない。」

更に李牧は続ける。

「そんな無責任な戦いは、私はしない。」

群衆は粛然とした。

「代には、邯鄲から定期的に物資が届きます。次の物資を届くのは八月十四日。その翌日に又匈奴は来ます。もう分かっていますよね。今度は、本番です。この永きに渡った、この戦に、今度こそ完全な終止符を打ちましょう。」

先程まで怒り狂っていた民は、何故か安堵した。それは、対匈奴の将が李牧だからでも、李牧の行動に意味を感じたからでもない。唯、この代を率いる者が李牧でよかったと、何の根拠もなしに、そう感じたからである。

一方、匈奴本営では、大きな宴が行われていた。単于は匈奴の部隊を率いた隊長の酒を注がせ、大いに褒め称えた。

「いや、やはり李牧も所詮は、腰抜けよ!あんなもの、恐れるに足らずよ!」

と大きく笑い始めた。そして、

「そうだな。次は儂が自ら率いて、攻め込むこととするか!」

再度、民は笑った。匈奴は、久しぶりの酒に、暫く酔いしれることとした。匈奴本営の明かりは、いつまでも消えることはなかった。

代は匈奴との戦いに向けて、入念に準備を始めた。八月十五日を祭りとして、代には又油断ができると思い込ませようとしたのだ。

李牧は代内を隈なく周った。一見、匈奴による被害を調べているようにも見えたが、決してそんなことはなかった。李牧は、自ら地形をみて策を練っていたのである。酒屋は祭りのためにと大量の紹興酒しょうこうしゅを仕入れ、菓子屋は月餅げっぺいを大量に作った。代の職人は手伝えることがあればと、祭りのために尽力を尽くした。だが、裏では大量の軍需品の整備が行われ、代は全ての民がこの戦のための準備を全力で行っていた。

そして、遂に、定期的な物資が届き、仕上げとして、それを郊外の倉庫に入れるような動作をして、物資自体は、砦内の安全な倉庫に保管することとした。全ての用意が整ったことを確認して、兵は、武器を手にし、装備を纏い、各々配置へ着き、非戦闘員は砦の中へ入っていった。そして、日が暮れ、月が昇り、又沈もうとした明け方、遂に匈奴侵入の報が李牧の下へ届いた。

李牧は赤く染まる空を仰ぎ、いよいよ作戦を開始した。

 

 

単于が率いる匈奴全軍は、李牧が防衛線として、通過時には狼煙が上がり少々足止めを行うような地点を易々と通過して、代の都市部へと向かおうとしていた。

「やはり、李牧達は今、明日に迫っている祭りに浮かれているのだろう。兵隊の一人も配置していないとは、無防備にも程があるだろう。」

単于は、近くに構えている配下に語り掛けた。李牧の代に攻め、失敗した経験のある男は、

「単于様、敵の策かもしれません。いくら李牧が腰抜けであれ、ここまで無防備なのはおかしすぎます。少々行軍を遅らせ、疑り深く攻めるべきかと思います。」

と、単于に奨めた。だが単于は、

「いくら何でも策ではなかろう。我々よりかなり前に、索敵なども目的として出発した別動隊から何か連絡が来たわけでもなければ、その隊と代軍が争ったような痕跡はおろか、人が通った足跡の一つすらないのだぞ?」

と、別動隊の様子を以て、この状況を疑うことなく、奥地へと突き進んでいった。

今回の匈奴は、主に二つの隊に分けて進軍を行っている。一つ目は、単于率いる匈奴の本隊、代の壊滅を目標として、代の都市部、及び避難用砦を陥落させようと匈奴の主戦力を率いている。そして、二つ目に別動隊である。これは少数精鋭、匈奴の中で最も腕の立つ百騎を以て代の主要倉庫の物資を奪おうとして、索敵も兼ねて、隠密に行動するために、主力よりも先に本営を発している。

そして、後者の隊が、今、一つ目の主要倉庫に辿り着いた。より早く作戦を遂行するためにも、精鋭百騎は、更に分裂し、この場にいるのは約十五騎である。入念に辺りに敵がいないか探りたいところだが、動き過ぎれば敵に発見されかねない。別動隊は一刻も早くこの倉庫から立ち去るためにも、倉庫の錠前の破壊を試みた。本来非常に硬いはずの錠前だが、訓練をしてあった匈奴にとって、これ程度の破壊は容易いものであった。一気に扉を開き、内部に潜んでいる敵がいないかを確認した後、十五人のうち十人は騎馬から降りて、足早に内部の物資を取り出し始めた。この瞬間、付近の叢から、勢いよく数人の代兵が躍り出た。驚いた護衛の騎兵は何もできず、瞬時に斬り伏せられた。外でその声や、兵の落馬した音を聞きつけた内部の兵は、直ちに外に出ようとしたが同じく、叢から出て来た盾を持った兵によって外に出ることを阻まれた。その時、倉庫の天井近くに樽を吊るしていた一本の縄が解かれ、樽は一斉にひっくり返り、中の液体を倉庫内に落とした。

「これは……油……なのか?」

酒樽と思っていたものの中身が油だったことに兵は混乱していた。その隙に、倉庫の梁で縄を握っていた一人の兵は、小さな窓から脱出に成功した。それを見た、盾を持った兵の奥に潜んでいた弓兵らしき者は、今かと、火矢を倉庫に向かって放った。火矢は大きな盾と扉の小さな隙間に、まるで針の穴を通すかのように通った。倉庫の中にあった、一見稲や麦の束に見える、内側に油をしみこませた雑草の束を、火矢は見事に突き刺し、その瞬間、油まみれの倉庫は勢いよく燃え上がった。もう戦意などなく、唯、生存本能で外に脱出したい十人の兵を、大きな一枚の盾は逃がさなかった。倉庫の中で大火に包まれたものは、油を被っていた匈奴の兵も例外ではなかった。扉からの脱出を諦め、天井近くの小窓を目指して、匈奴兵が燃え上がる雑草の束を這い上り始めた時、盾の兵は、すぐに下がり、倉庫の扉を急いで閉め、天井近くの小窓は、長い矛を持っていた兵が器用に閉めた。本来は、密閉された空間では炎は燃え続けないが、それを知っていた李牧は、事前に倉庫の壁によく目を凝らさないと分からないような穴を付けさせていたため、この閉鎖された倉庫の中でも炎はよく燃え続けた。地獄と化した倉庫から脱する術など匈奴の兵は持っておらず、唯、この紅蓮の炎に、身を委ねることしか出来なかった。

どうして代兵はここまで完璧に匈奴の動きを先読みし、配置につくことができたのか。これは、今回李牧がとったある作戦が理由となっている。まず匈奴が本営地としている北方の地は、非常に険しい山岳地帯で、見通しはもちろん悪かった。そんな中で匈奴が出発したことを知らせられるのは、狼煙を除いてほかにはなかった。だが、狼煙は敵にも、発見のことを伝えてしまうため、今回、狼煙は使わずに、匈奴の本営が見える色々な地点に、騎兵を設置し、匈奴の出発を確認した場合、確認した者は、直ちに李牧の方向へ走り始め、それを発見した者は、又李牧の下へ走り始め、と、このように観測者を何重にも設置することによって、見通しが悪い地形でも、山々ごとに観測者を置くことで敵に発見されず、尚且つ素早く李牧に的確な情報を伝えることに成功した。匈奴の出発した方向から匈奴の進行方向を予測し、自らの兵に敵が来る時刻を伝えた。

この倉庫での奇襲作戦は他の倉庫でも成功を収め、匈奴の別動隊は直ちに壊滅した。その報告を受けた匈奴本隊は、忽ち撤退しようと、今来た道を引き返し、より早く本営に戻れるように、山間へと入っていったが、李牧がこの機会を逃すはずもなく、暫くした後、叢から幾数の弓兵と共に姿を現した。

「全軍、放て!」

李牧の号令によって弓兵は一気に匈奴兵に矢の雨を降らせた。この場所から離れようと又引き返そうとするが、それを見事に、いつの間にか追ってきていた代の騎馬隊によって阻まれ、仕方なく前進をするしかなかった。屋の雨は途中から大きな岩を含み始め、この岩石によって匈奴本隊は遂に致命的な被害を出した。それでも単于たちは前に走ることしか許されなかった。

匈奴が別動隊を用いたように李牧も又別動隊を用意していた。それは、匈奴の出発を見守っていた観測者達である。李牧は観測者に、或一定の時間が過ぎた場合、匈奴本営に接近し、戦力が出発したのを確認してから、捕らえられている捕虜や家畜、あった場合は取られていた物資などを取り戻せと指示を出していた。その命令により、観測者は速やかに捕虜や家畜、物資を開放し、代へと連れ帰ることに成功した。

そうして、暫くの間猛攻を食らった単于たちは、この矢の雨を何とかしなければと、急に叢の中に飛び込んでいった。生い茂る木々の中では弓を放つことは出来ないが、最強の騎馬隊と云え、木々の中では全速力を出せる訳もなく、伏兵によって匈奴の兵は徐々に狩り取られていった。

遂に山地を抜け、開けた地に出た頃には、万といた匈奴の騎兵は、今や百騎と僅かしかいない。それを予測していたかのように、李牧と代の騎兵は匈奴兵を包囲した。後ろにも代兵は構えている。匈奴の騎兵は、直ちに単于を囲った。李牧は、自らの傍にいた代兵の剣を持つ手が震えているのを見て、抜刀した。その真っ直ぐで洗練された刀身は、差し込んでくる陽光を受け、輝いている。すると、一気に李牧が先頭の匈奴兵に向かって突撃した。匈奴兵は突撃してくる李牧に矛を向け、突き刺そうと前へ押し出した。李牧は刀を矛先に当て、滑り込むようにして間合いに入り、その刀を一気に振り下ろした。大量の鮮血が辺りに舞い散り、匈奴兵はちに伏せた。その横の兵を李牧は睨みつけた。李牧は一気にその兵に接近した。その兵は矛を持ち替えようとしたが、その隙に、李牧はその首を勢いよく刎ねた。この一瞬の出来事に動揺していた匈奴の兵は、少し下がり、李牧に矛先を向けるようにして構えた。李牧は鮮血の滴る剣を地面に振ってその血を払い、代兵を鼓舞した。

「今目の前にしているのは、我々の策によって疲弊している騎馬と重い剣を抱えた図体のでかい男です!何も恐れることはありません!今ここで、決着をつけましょう!」

代兵は一気に声を上げた。そして李牧の近臣の一人、陵礼りょうれいが、

「李牧様に続け!」

と声を上げた。これと同時に、代兵は一気に匈奴兵に突撃をしていった。最強の騎兵隊も、体力、士気、ともに潰えているなかで、この代兵と戦える者など、誰一人としていなかった。

この戦いによって、匈奴は後十余年、代の地に足を踏み入れることはなく、北方に封じ込められることとなったのである。

 

 

この戦は、代の勝利として終結した。匈奴の殆どが、李牧の策によって壊滅させられたのである。勝利した戦士たちは、代の都市部へと戻っていった。既に日は沈もうとしていた。そして、取り敢えず武器を戻そうと砦の倉庫に向かった際、非戦闘員であった女性たちが、戦士たちにお盆に大量に乗せた盃と酒を皆に配り、武器、装備を回収した。砦の中では、中にいた人々で用意していた、宴会の準備が完成していた。女性の一人が、

「李牧様、元々今宵は祭りでございます。用意もしてあるので、今宵は皆で酒を呑みませんか?」

と李牧に盃を渡した。李牧は盃を受け取り、

「そうだな……今宵は宴だ!男女、老人子供、皆に酒を配れ!今夜は呑むぞ!」

疲れ切っていた兵士たちは、急に声を上げた。そして、女性たちに、手伝えることがないかと尋ねていった。

日は暮れ果て、広場は、大きな松明や、無数の灯篭によって光で満たされ、様々なところに植えられていた、紅葉の根元に置かれた灯篭の、温かな橙色の光によって、艶やかな韓紅が一面に展開された。その隙間からは、底に幽かな光が溜まっている、留紺の夜空が広がっており、淡き光を放つ望月や、鮮やかに輝いている満天の星が、所々からその姿を覗かせていた。

その広場の中央には李牧の専用席が設けてあった。その机には、様々な温かな料理と李牧が普段使っている爵が並べられていた。李牧は振り返り、民が騒ぎながらこの祭りを楽しんでいるのを見て、微笑み、自らの席に座って酒を呑んだ。酒はいつもより旨く感じた。

すると泉有や、陵礼などの李牧の臣下が李牧の下に爵や盃をもって集まった。陵礼が、

「すっかり、李牧様のお陰で代も平和になりましたね。」

と笑った。

「本当に、落ちぶれていた我々をここまで、幸せにして下さり、李牧様には感謝しかありません。」

と、泉有が告げた。

「これからも、末永く宜しくお願い致します。」

と、泉有は続け、頭を下げた。

「止して下さい。宴なんですから。」

李牧は笑いながら、それを止めた。

民が騒いでいるところでは、一人の男が興に乗じて一発芸を始め、民は思わず料理が並べられた机を叩きながら笑い、野次を飛ばした。李牧は、民が満足に酒を呑んで、満足に笑い、自らの近くには、信頼できる仲間がいる、この風景を見て、顏を綻ばせ、一気に酒を呑み、ふと月を仰いだ。いつもより月は澄んで見えた。

2022年12月3日公開

© 2022 宮水楓

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