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江戸時代の後期、各地で多くの博徒侠客の集団が発生しました。特に治安が脆弱だった関八州(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)、甲州、駿河、などには博徒の大親分が生まれました。大前田英五郎、国定忠治、笹川繁蔵、飯岡助五郎、黒駒勝蔵などです。清水次郎長もその一人でした。
次郎長は、文政3年(1820)1月1日、船持船頭、雲不見(くもみず)三右衛門こと高木三右衛門の次男として生まれました。生まれてまもなく、実子がなかった叔父の山本次郎八の養子となります。次郎八は米屋を営んでいました。次郎長は、長ずるまで自分が養子であることを知りませんでした。
次郎長の本名は長五郎といいました。次郎長という名前は、「次郎八の子供の長五郎」なので、略して「次郎長」であり、清水に住み、縄張りにしている次郎長だから「清水の次郎長」なのですね。同様に大前田の英五郎は大前田村(現、群馬県前橋市)、国定の忠治は国定村(現、群馬県伊勢崎市国定町)、笹川の茂蔵は笹川(現、千葉県香取郡東庄町)、飯岡の助五郎は飯岡(現、千葉県旭市飯岡町)なのです。彼らの○○の…という呼び名は苗字ではなくて地名なのです。
次郎長は子供の頃から手が付けられない暴れん坊で、親類縁者の間をたらい回しにされて育ちました。次郎長が16歳になった天保6年(1835)に養父の次郎八が病死しますが、この時に自分が次郎八の養子になったことを初めて知ることになります。本当の父親ではないのに馬鹿な自分を育ててくれたことを恩に感じたのか、そこでそれまでの行いを反省して、以来、行いを謹んで妻帯(*)して家業の米屋に精励しました。
しかし、さすが侠客。それも長くは続きませんでした。次郎長が20歳の時、旅の僧から「25歳以上は生きられないだろう」と言われ、たったそれだけで自暴自棄になった次郎長の生活は博打や喧嘩に明け暮れることになります。結局、姉夫婦に家業を譲り、任侠の道を歩む事になるのです。
(*)次郎長最初の結婚は天保8年(1837)のことで、次郎長は18歳でした。天保13年(1842)にはこの妻と別れて侠客の道に入ります。弘化4年(1847)にはお蝶(初代)という女性と結婚しますが、安政5年(1858)、逃亡の旅で病んだお蝶は名古屋の侠客長兵衛宅で死亡してしまいます。清水の次郎長の妻、お蝶というのは有名ですが、実は3人いるのです。2代目のお蝶はいつ結婚したのかは不明で、このお蝶も明治2年(1869)に、久能番組の隊士・小暮半次郎に斬り殺されてしまいます。3代目のお蝶(本名は”けん”)は三州西尾藩篠原藤吾の娘で、2代目お蝶が死んだ翌年に結婚しています。この人はなかなかのやり手な女性で、次郎長を最も愛して、最もうまく操った女性です。彼女は口述筆記の「侠客寡婦物語」を発刊しています。
"大地に組みした男たち-10年間に富士の裾野76町3反歩(約75万㎡)を開墾した大侠客—清水の次郎長"へのコメント 0件