――桜に憑かれたように狂って。
(序)
冥暗は底なしに深かった。深更の穹窿には月も星もなく陰々として戦慄するほどに漆黒に満たされていた。眼が利かぬ夜にとろりと漂う幽かな花の香気。何処からともなく風が起こって木々の梢を揺らし、静寂を打ち破る。闇の底でざわめくのは満開の染井吉野。爛漫と咲き誇り、あらん限りの生命を燃やしている桜は花自体が淡く発光しているかのように仄めいて凄惨な夜を和らげていた。桜は夜風に吹かれ、可憐な花を慄わせてさざめく。儚い香りは誰にも届かずに闇夜に溶けて消えてゆく。夥しく咲いた桜花の群れの中にゆらめく影。その黒い影は風にゆらゆらと不安定に揺れていた――履物が脱げた脚。その下に転がる木箱と下駄。
桜の樹には絶命した肉体が吊り下がっていた。
屍体は薄紅色に埋まるようにしてあった。恰も桜の樹そのものが棺のように。
嫋々と春風が吹き渡る。闇の中を、夜の底を。咲き乱れた桜花と吊り下がった屍体を揺らして。
夜は更に静まって深くなってゆく。その漆黒を濃くしてゆく。もう夜明けが望まれないくらいに……。
春の暗夜は何処までも暗く、尚昏く――。
(壱)
……こんにちは。今日も好いお天気ですね。少し暑いくらい。……初めてお見掛けしますね。新しく入院してきた方ですか? え? ……ああ、そうですか。それは失礼しました。医師から近々、同室の方が増えると聞いていたので、てっきり。あなたはご友人のお見舞いにいらしたのですか。……三〇三号室の……Nさん? ああ、Nさん。Nさんは随分と元気になられて。退院も近いんじゃないかしら。Nさん、とても親切な方ですね。彼は他の患者さんからも慕われていますよ。はい、此処での生活は実にのんびりしたものです。食事や入浴の他にやることといったら何もないでしょう。医師の診察と定期的な運動の他には。まあ、当然ですよね。躰と精神……心を休ませるために入院しているんですからね。ええ、自由な時間は患者同士、食堂に集まって娯楽に興じたりしていますよ。トランプや将棋などをね。私はあまり興味がありませんから、大抵食堂に置いてある文庫本などを読んでいますが……誰が置いていったのか、今はカフカの『変身』を読んでいます。そう、ある日突然蟲になってしまった男の話です。読むのは何度目かしら。特段カフカが好きだというわけではないのですけれど。ただ……、この作品は突拍子もない話に思えますが、でも解る気がするのです。グレーゴル・ザムザが蟲になってしまったことが。まあ、それは良いとして……そう、私が食堂の隅で本を読んでいるでしょう。そうするとふらっとNさんがやって来て、さり気なく話しかけてくるのです。気分はどうだとか、その本はどんなふうで面白いのかとか。私がいつも独りで過ごしているものですから、彼なりに気遣ってくださっているようです。私だけでなくて、他の方にもそんなふうだからNさんは入院患者の間でも人望が篤いですよ。……ああ、なるほど。元々世話好きな方なのですね。こう云ってはなんですけれど、Nさんがここに来た理由が解る気がします。彼が退院してしまうと少し寂しいですね。他の患者さん達も寂しがるでしょう。……ええ、ここの病院は比較的――否、かなり良い病院だと思いますよ。医師も看護師さんたちも皆さん、親切にしてくださるから。食事も思っていたよりも美味しいですしね。こういう病院だと、ほら、ありますでしょう。U病院みたいな悪徳病院が。……そうそう、あのU市のU病院です。あれは悪徳を通り越していますね。酷い病院もあったものです。監獄よりまだ悪い。地獄そのものでしょう。患者に無理やり医療行為をさせたり、病院側の人間が患者に凄惨な暴力を振るって……何人も死人が出たという話じゃありませんか。怖いですね、本当に。……ええ、そうでしょうね。今時ここまでの酷い病院は恐らくないでしょうが……でも解りませんよ。現にここだって……あまり大きな声では云えませんけれどね、……そう……、医師の云うことを聞かなかったり、規則に従わない者は罰として身を拘束されて保護室に入れられてしまうのです。え? 保護室ですか? 隔離室とも云って、患者自身や周囲に危険が及ぶ可能性が高い場合などに一時的に患者を保護しておく個室の部屋です。私も昔、拘束衣を無理やり着せられて保護室へ入れられたことがあります。医師も看護師も私の話を信じてくれなくて……あなたは病気だからの一点張りで。私、そんなに病人に見えますか? 私は至って普通だし、頭もずっと真面ですよ。でも、皆取り合ってくれないのです。……私ですか? ええ、長くここにいます。私が一番古い患者です。私はこの病院ができた時からの患者で、その前は別の病院にいたのです。もう本当に長く……気が遠くなるほど。――私、本当は病気でも何でもないのです。ありのままに話をしたら病気だと云われて、その度に否定したら精神病院に入れられてしまったのです。本当です。私はどこも病んではいないのです。……桜が……桜があすこに咲いていますね。染井吉野が。あの桜の樹の下に屍体が埋まっているとしたら、どうします? いえいえ、創作ではありません。本当の話です。本当です。俄かに信じられない? ええ、そうでしょうね。医者も同じことを云いました。病気の症状にされてしまいました。私は真実しか語っていないのに。虚言でも妄言でもございません。本当に私が体験したことなのです。それを今からお話いたしましょう――。
(弐)
T精神病院で偶然に知り合ったK氏の話は誠に奇妙なものであった。
K氏は見たところ、三十路に届くか届かぬくらいかの、青年といっていい若い容貌で、瓜実顔の、目許の涼しい、一種近付き難いまでに整った顔立ちをしていた。一言で云って女好きのする顔である。青白い白眼を縁取る睫毛が濃い故に妙に目力があった。白眼と黒眼の対比が強いせいもあったろう。ほんの僅かな間でも眼を向けられれば、蛇に睨まれた蛙の如く、或いはメデューサに魅入られた如く、縛され、呼吸ごと縫い留められてしまう引力があった。実際、私はK氏と一瞬、眼が合っただけで呆けたように彼の顔に見入ってしまった。K氏は一度見たら忘れられない印象を残した。網膜の奥に灼きつく陰画のように。
春の日は穏やかで静謐だった。
天から降り注ぐ澄んだ陽光に彼の白い耳殻が透けて仄かに紅が差す。切り揃えられた髪の下で複雑な形をした花が咲いているように見えた。
K氏は正面を向いて徐に口を開いた。
「先ほども云いましたが、あの桜の下には屍体が埋まっている」
嘘だと思うなら掘り返して見せましょうか――挑むような視線を向けられて私はたじろいだ。彼の眼はどうも苦手だ。眼が、美しすぎる。妖しい魔力が漆黒に燃えている。眸の底に。
私が押し黙ってしまったのを、気分を害してしまったと気拙く思ったのか、ふっと彼は淡く微笑んで「嘘と云えたら良かったんですけれど」小さく呟くと再び正面に視線を投げた。眼から解放されて、ほうと脱力した。私も桜を見遣った。
染井吉野は満開だった。麗らかな陽射しの中で爛漫と花を綻ばせて、時折吹くそよ風に小さな花弁を慄わせる。春陽を透かして桜は地面に濃淡のある影を描いていた。本当にあの桜の下に屍体が埋まっているのだろうか? 凄惨な屍体と美しい染井吉野。確かにあの有名な文学作品は桜の凄艶さを生き物の屍体に求めていた。
――あまりにも美しいものには皆、毒がある。薔薇に棘があるように。K氏も、同じく。
桜の前の歩道を病衣を纏った初老の患者と付き添いの看護師がゆったり歩いてゆく。私はぼんやりと二人を目で追う。呑気な風景にK氏と私だけが別の世界にいる錯覚をした。向こうが此岸なら此方は彼岸。軟風にK氏の声音がのって鼓膜を搏つ。それは開いてはいけない扉をノックする音に思われた。適当に口実を作ってその場から立ち去ることもできたのに、私はそうしなかった。彼の話に好奇心を覚えたのもあるが、それ以上に美貌の青年に惹きつけられていたのだ。美しいその裡側に巣食う暗黒を見極めたかった。またそれとは別に意識のどこかで心を患ったK氏を哀れんで卑しい優越感に浸ってもいたのだった。
「……私は桜の下で鱗のある男と三日三晩交わりました。肉の契りを結んだのです」
「鱗のある男……?」
「左の腰骨と右の首筋にそれはありました。それから右脚の脹脛と背中にも所々鱗がありました。月光を受けた鱗たちは真珠色の光沢に輝いていました。触れると爪のような硬さでひんやりとしていました。戯れに鱗を一枚、剝がし取ってみると彼は少し厭そうな表情をしました。もしかしたら痛かったのかもしれません。僅かに肉が裂けたような皮膚が覗いていましたから。彼は私が剥がした鱗を私に与えました。私は頭がぼんやりしたまま……躊躇わずに鱗を口に含んで飲み下しました。すると急に躰が熱くなって気が付くと男に抱かれていました。でもそれも霞がかったように、不思議な心地でした。それからどれくらい時間が経ったのか、意識が明瞭になると私は自宅の玄関の前に立っていました。靴をどうしたのか、足は裸足で土塗れでした」
「そんなことがあと二晩も続いたのですか?」
「ええ、そうです。私は気が付くと桜の下に立っているのです。桜の花群れを透かして月光が蒼く差して……そしてそこには鱗がある男がいる……」
K氏は僅かに白い頬を引き攣らせた。何か忌まわしいものを見たかのように。
「その男というのは、あなたの知った顔ではなく?」
「どこかで見たことがあるような気もしましたが、違うかもしれません。今では上手く思い出せません。何せ、百年近く前のことなので……」
「え?」
目を瞬いてK氏を見遣ると彼は片頬に謎めいた微笑を浮べて朱唇の端を吊り上げる。笑っているのに表情が読み取れない――それは彼の漆黒の双眸が少しも笑っていないせいだった。挑むような強さを孕みながらどこか冷めていた。生を諦めているかのような無表情。
「鱗がある男と三日三晩交わった後、躰が急に気怠くなって酷く重たく感じられるようになりました。熱っぽいような日々が続いたかと思うと今度は腹部が膨らみ始めたのです。私は自分の躰の変化に戸惑いました。何かの間違いだと思いながら、あの男の子が私の中で育っているのを知りました。日に日に腹は大きくなっていきます。堪らなくなって、家の者に実情を明かしましたが、全く取り合ってくれませんでした。逆に私の頭がどうかしていると云われる始末です」
「病院には行かなかったのですか? その、婦人科などには……?」
彼の話を聞きながら、私が勘違いしているだけで、実はK氏は彼女なのかとふと思った。が、幾ら端麗な容姿とはいえやはりK氏は男性である。手の形や尖った喉仏、声の音域や質感は疑いようがない。
K氏は緩く首を振って言葉を続ける。
「或る夜、私は声に呼ばれて――あの男の声です――ふらふらと外へ出ました。真っ黒な夜でした。どこをどう歩いたのか、あの桜の下に私は立っていました。当時はまだ病院は建っていません。ここら一帯は何もなくて、あったのは染井吉野と寺だけです。今も病院の裏側にあるでしょう。流石に墓地は病院が建つ頃に他所に移したようですが。――そう、それで。不意に激しい腹痛に襲われてその場に屈み込むと脚の間から水が流れました。そうです、私は俄かに産気づいたのです。どうすることもできずに私はひとりきりで子を産みました。男児でした。息も絶え絶えに生まれたばかりの赤ん坊を抱いて見ると、左腕にびっしり――」
「――鱗があったのですか?」
彼は静かに頷くと濃い睫毛を伏せて、
「私は悍ましくなって――産声を上げる赤ん坊の口を塞いで殺しました」
感情のない声音で、何でもないふうに告げた。
鶯の囀りが場違いのように聞こえた。柔い春風が頬を撫でてゆく。――沈黙。
「……それで、あの桜の下に埋めたのですか?」
K氏は開いた睛眸を染井吉野に向けた。彼は何も云わなかった。
彼の語る話は夢と妄想が混じり合っている気がした。どう考えても現実には起こり得ない。一体どういう理由があってこのような妄想を裡に抱えて育むに至ったのか。
そこで私は去年の春、不幸な――というよりは不可解な亡くなり方をした知人Sを思い出した。彼もまた現実と妄想の狭間を彷徨いながら彼岸へ逝ってしまったのだ。同性の愛人と肉体の一部を交換する遊戯に耽った挙句、自らの心臓を抉り取り出そうとして誤って死んでしまったのだ。初めのうちは玩具を使って躰の一部として見立てたごっこ遊びだったらしい。が、やがて遊びは行き過ぎて――現実を乗り越えて――本当に躰を切り裂いて己の心臓を愛する人に捧げようとした。彼らがどうして越えてはいけない一線を越えてしまったのか。相手を愛するあまり、それと知らず狂気に近付いてしまったのだろうか。
物思いに沈んでいると彼は出し抜けに左袖を捲り上げて、ご覧なさい――私の方に華奢な腕を差し出す。
「これが全ての証拠です」
気味が悪いでしょう――晒された白皙には無数の傷痕が刻まれていた。鋭利なもので自ら切り付けたらしいその傷は痛ましく膚を無惨にしていた。みみず腫れのように皮膚が盛り上がり、縫合した傷もあるのか、表面が引き攣れた部分も散見された。火傷のように赤く痕になっているものもある。どうやらK氏には自傷の傷痕は鱗として見えているらしい。否、そう認識している、と云った方がより正確だろう。
私は返事に窮して、ただ「はあ」と間抜けな相槌しか打てなかった。
「以来、私はもうずっと、百年近く生きているのです」
風が吹き渡り、染井吉野の梢を揺らしていく。薄紅色の花群れは風にざわめいて僅かに花弁を零した。宙を舞い散る花びらは白い陽射しの中で裏表翻りながら、きらきらと煌めくようにゆっくりと降下してゆく。
私は狂ってなどいない――小さくも、はっきりとした意思が宿った呟きが隣から聞こえた。
**********
私はK氏から聞いた話を頭の中で反芻していた。彼の話はどう考えても常軌を逸している。しかし知人のSのことを思うと、K氏の突飛な話も幾分か現実に即した事実が含まれているような気もした。奇妙な想念、妄想に囚われるにも、それなりに何らかの根拠があるはずだ。
K氏が百年近く生きているというのは恐らく人魚伝説に因るものだろう。人魚の肉を喰らうと不老長寿になるという伝承である。彼の場合、肉を喰らったわけではないが、鱗を食し、交接によって肉体を受け入れたという点では類似の行為かもしれない。鱗があると云っていたのは疥癬などの皮膚病が考えられる。また妊娠、出産という話も、その場で聞いた時にはかなり奇異に思えたが、東南アジアの国で同性愛の行為により男性が想像妊娠をしたという事例があり、もしかしたら彼も何らかの理由で想像妊娠をしたのではないかと推測された。
――理由。
得てして、人が病的な妄想を抱くのは現実との折り合いをつけるためだ。己が認識する現実と実際にある現実がズレてしまった場合に、どうにか辻褄を合わせようとして精神的な病が生じる。それは或る種の防衛本能である。生きていくための。
彼の腕に刻まれた無数の傷痕はその苦悩であろう。本気で死ぬことも考えたかもしれない。だから彼は保護の意味も兼ねて病院にいるのだろう。
そこまで彼を追い詰めたのは何であったか。
一通り考えて私はある可能性に辿り着いた。が、それ以上、推測することは憚れた。邪推とも取れるそれに激しい嫌悪感を覚えた。恐らくもう二度と会うこともない相手であったが、私の勝手な想像の中でさえ、彼の過去を無理やりに暴くことは良心が咎めた。想像が事実であったならば、尚更。
K氏の謎めいた微笑みが一瞬、脳裏に浮かんで、消えた。
(参)
……聲が聞こえる。低く呟くような聲は読経のそれに聞こえたが、次第に声音の輪郭が明瞭になり、不思議な音程を伴って耳へ届き出す。聞いたこともない旋律と言葉に引き寄せられるようにして私は暗闇の中を歩いた。
辺りは酷く暗く、空気はひんやりとしている。目線を歌声が聞こえる方へと転じると仄白く、ぼんやりと浮かび上がるものがあった。――染井吉野。
酣の桜は風に吹かれて夥しい花びらを散らし、暗闇を白く染め抜いた。花吹雪に歌声が千切れ、遠くなり、風が過ぎ去り静まると闇が本来の姿を取り戻し、誰のものと知れぬ歌声がまた近くなる。と、桜の下に人影が認められた。白い着物を着ている。どうやら歌声はその人物のものらしい。私は目を凝らして人物を見定めようとした。しかし妙なレンズを覗いているかの如く、上手く像が結ばない。凝視すればするほど霞んでぼやけてしまう。幾度か目を両手で擦ってみても結果は変わらない。白き影ははっきりしているのに輪郭の裡側はとろんと曖昧に溶けている。私は歩みを速めて桜の下へ急いだ。
気紛れに吹く風は生暖かく、なぜか海の香りがした。海はおろか、波の音すら聞こえやしないのに。見渡す限りの闇のどこに生命の海があるというのか。
不意に歌声が止んだ。その時には桜の下に立っている人物が誰だか解かった。K氏だった。
彼の目の前に立つと、K氏はにっこり莞爾して自らの着物の帯に指をかけて、するりと解いた。合わせ目を開く。真っ白な裸体が現れた。私は瞠目した。彼の左の腰骨と右の首筋辺りに真珠色に輝く鱗が群生していたのだ。K氏は驚いている私を他所に白い貌を寄せると朱唇を重ねてきた。口の中に何かが押し込まれ、確かめる術もなく嚥下する。私は抗うことを忘れて立ち尽くしていた。すると今度は私の着物が脱がされる。然も当然とばかりに彼は私の帯を解き、肩から着物を剥ぎ取った。視線を下方に向けると胸が隆起していた。豊かに息づくその下を更にくだってゆくと下腹部にはあるべき男の徴がなかった。私の肉体は女性に変じていた。そうしてこれから始まることを全て悟った。――私は知っている。
彼は私を腕に抱き、手で、唇で、舌で、時に謎めいた眼眸しで私の躰をなぞり愛撫する。彼の躰は今しがた水に浸かっていたかのように冷たく、しかし触れ合う膚はやけに熱い。そっと首筋にある鱗に指先を滑らせると滑らかな、やや硬質な手応えがあり、擽ったそうにK氏が吐息を洩らした。目の前で輝く鱗は真珠を薄く切って膚に貼り付けたよう。戯れに舌先で触れてみると微かに海の味がした。先ほど感じた海の香りは彼だったのか。
K氏は私の躰を地面に横たえると脚を割り開き、身を滑らせて入り込む。見上げる白い顔は涙に滲み、影に暗く、表情が窺えない。執拗に触れてくる手は優しかった。不思議と嫌悪感はなかった。肉体を貫かれ、腰を番う。押し寄せては引き、また押し寄せる熱と悦楽の感覚の律動は海そのものだった。溺れそうになるのを骨ばった肩に縋り、壮絶な快楽の坩堝に呑み込まれまいと白い首に腕を絡める。彼も悩まし気に眉根を寄せ、目許を上気させながら秀でた額に珠の汗を滲ませる。徐々に高まり、張り詰めてゆく感覚が躰じゅうに漲り、飽和しそうになる。落ちてゆくのが恐ろしくて脚を彼の腰に絡めて、全身でしがみついた。
事の終わりは唐突だった。熱情が体内で弾けたのが解った。ふっと躰から力が抜けて急激に意識が遠ざかってゆく。K氏は深く息を吐くと満足そうに目を閉じて私の上へと崩れ落ちた。夢現に彼を抱きとめると海を孕んだ風が吹き渡り、桜の花を攫いながら慾が滾った膚を冷ましていった。
**********
腹部がはち切れんばかりに膨らんでいる。とても重たい。私は異様に大きくなったお腹を抱えて宵闇が迫る中、えっちらおっちら長い坂を上ってゆく。早く、早く、一刻も早くあの桜の下に行かなくては。気ばかり急いて脚が縺れそうになる。重心を取るのが変に難しい。少し歩いただけでも息が上がってしまう。しかし、早くあの場所へ行かなくてはならない。何故だか解らないけれども。でも私の中の何者かがそう急かすのだ。あの桜の下へゆけと。もう時間がないのだと。時間? どうして? だが、それにも構ってはいられない。とにかく行かなければならないのだ。
見慣れた景色。暗くなり始めた坂道に人気はない。皆、家に帰ってこれから家族と夕食の団欒を囲むのだろう。どこからともなく犬の遠吠えが響いてくる。何か不吉な予感を伴って。胸がざわつく。息が苦しい。坂道は一向に終わりが見えない。こんなに長い坂だっただろうか。そんなことはどうでも良い。早く行かなければ。躰が重い。お腹が重い。この中に何が入っているのだろう? 自分の躰なのに借り物みたいだ。
様々なイメージが脳裏を過る。大きな金魚鉢、西瓜、風船、巨大な水晶玉、岩、胎児。
――胎児?
そう思った途端、腹部が張って小さく痛み始めた。
私は痛みに耐えながらのろのろと坂道を上った。徐々に強くなる痛みに冷や汗が噴き出す。あまりにも痛くて歩調が緩み、歩けなくなる。ここで休んでしまってはいけない。坂を上りきれなくなってしまう。躰を引き摺るようにして歩く。刺すような痛み。激痛。眼から火が出そうだ。坂の頂点まであと少し――脚の間から少量の水が流れ出た。腹痛は陣痛だった。今この場所で子どもが生まれてしまう。それは駄目だ。ここでは。あの桜が咲く場所まで行かなくては。ゆっくりと歩いて何とか坂道を上り切った時、血が混じった羊水が多量に出た。もう駄目だと思った。誰もいない。私ひとり。夜闇。静寂。蹲る。地面を流れていく。水。血。海の匂い。
躰の内部から押し出されたものを両手に受けた。恐る恐る胸へと赤ん坊を抱きかかえた。血と胎内組織に塗れた赤ん坊は泣かなかった。臍の緒が付いたままの赤ん坊は目を固く閉じていた。赤く鬱血した小さな塊を見て私は短く悲鳴を上げ、取り落とした。ごつっと鈍い音がした。慌てて赤ん坊を拾い上げた。息をしていなかった。頭を打ち付けて死んでしまったのか、それとも死産だったのか――私は腕にくったりした温いそれを抱きかかえて歩き出した。ここでは駄目だ。やはり桜の下でなければ。
目指していた桜の下に辿り着いた時にはすっかり夜になっていた。
桜は仄白く群れて咲いていた。私は体温が喪われたそれを地面に置くと桜の樹の根元を両手で掘り出した。土は湿り気を帯びて硬く、私の手を拒んだ。全ての爪が剝がれても、成し遂げなければならなかった。時間をかけて土を深く掘り返すと、その穴の中に赤ん坊を横たえた。罪の意識よりも悍ましさが勝った。産み落とした赤ん坊の――それは男の子であった――左腕にびっしりと鱗が生えていたので。
人ならざる者、禁忌の子。厭わしく、呪わしい赤子。
これで良い。こうするしかない――永遠に目を開けることない赤ん坊の上に掘り返した土をそっと被せた。
頭上で桜の梢が風に揺られて、ざわめいていた。
**********
私は真夜中を走っていた。そんなことはありえないと思いながら、緩やかで長い坂道を駆け上ってゆく。目指しているのは坂の上にあるT病院である。正確に云えばT病院にある染井吉野である。
ここ数日、私は奇妙な夢に魘されていた。自分が女になってK氏と交わる夢、子を孕み、産んで死んだその男児を桜の樹の下に埋める夢――日によって細部はまちまちであったが、大筋は同じである。夢の内容はK氏が語った内容そのものでもあった。夢に魘されるのは妙に彼の話が印象に残っているせいだろうと思っていた。そのうちに話の内容も忘れ、夢も見なくなるだろうとも。特に気にはしていなかった。だが、私の思いとは裏腹に事態は更に奇妙な展開を見せた。私の左腕の上部――二の腕の辺りに真珠色に輝く鱗が生えてきたのだ!
初めは何かにかぶれたか、虫刺されかと思って放っておいた。が、それは日に日に範囲を広げ、気が付いた時には夢で見た鱗とそっくり同じものが密生していたのだ。今でも鱗の範囲は成長していて、恐らく数日後には肘から上は凡て鱗に覆われてしまうだろう。
――病院へいくべきか。
咄嗟にそう思ったのも束の間、もっと別なことが気になりだした。私が産み、殺した――と思われる――赤子のことである。桜の樹の下に本当に埋めたのだろうか? そもそも本当に私が産んだのだろうか?
深夜、寝静まった道を駆けながら、夢は夢であって決して現実ではない、私があんなことをするわけがないと思いつつ、しかし腕の鱗はどう説明する? K氏も云っていたではないか。左腕を見せながらこれが全ての証拠であると。私は目を開けながら夢を見ているのだろうか? 頭がおかしくなってしまったのだろうか? K氏の白い貌と迫る赫い唇、散りゆく桜、躰を貫く激痛、腕に抱いた赤ん坊の重み、その温み、血と海の匂い、手を拒絶する冷たい土の感触……それらはありありとこの躰に刻み込まれている。私にはもうわけが解らなくなっていた。鱗が膚を、躰を侵蝕するように夢が私の現実を侵食しようとしていた。
坂を上り切ると深更の闇の中に佇立するT病院が見えてきた。私は何かに追われるように走って敷地の中へ足を踏み入れた。息せき切って迷わずにあの桜の樹へと向う。
果たして染井吉野はまだ咲き残っていた。息を整える暇もなく私は地面を素手で掘り返した。心の中で「ありませんようにありませんようにありませんように」と一心に念じながら。爪の中に苔むした土が入り込む。湿った土は硬く、なかなか思うように掘り進まない。小石に爪が引っ掛かって一部が剥げた。構うものか。
「ありませんようにありませんようにありませんように」
どくどくと蟀谷が脈打つ。緊張が高まり心臓が激しくなった。息が苦しい。頭の中で白い影が翻る。K氏の顔、顔、顔、顔、顔。いつしかそれが目を堅く閉じた赤子の死に顔にすり替わる。
「ありませんようにありませんようにありませんように……」
念仏のように唱えながら土を掻き分けると白いものが覗いた。更に掘り進めていく。
ありませんようにありませんようにありませんようにありませんように――ああ!
黒い土の中から虚ろになった眼窩が私を見上げていた。
(肆)
朝食を終えた楠本は宛がわれた病室には戻らずに食堂の窓辺に立って窓の外を眺めていた。彼の目の先にあるのはひっきりなしに花を散らす染井吉野である。桜の樹の周りには数人の警察関係者らが忙しなく立ち働いていた。周囲には立ち入り禁止のテープが張られている。ここからは見えないが、病院の敷地外では報道機関の人間が押しかけてカメラを向けながら事の成り行きを見守っていた。
朝からT病院は蜂の巣を突いたような大騒ぎであった。未明に桜の樹で首を括った屍体が発見されたからである。口さがない病院の清掃員の話では第一発見者は夜勤の看護師と当直医であったらしい。夜、院内の見回りをしていた看護師がふと見た窓の外に何か変なものを見たので、念のために医師に報告した後、二人で確かめに行った末に発覚したという。また地面には穴が掘られており、その中には小さな白骨があったとも。おまけにその白骨の一部には鱗のようなものがあったとか――。
入院患者たちは病院を揺るがしたこの事件に酷く動揺して体調を崩す者が大半だった。食事の後は皆、食堂に残って他愛のないお喋りに興じたり、トランプで遊んだりと呑気に過ごすのだが、今日ばかりはそれぞれ病室に引き払ってしまい、食堂に居残っているのは楠本だけだった。
体調が悪化した患者らの対応や事件に関する細々とした用事などに追われているのか、看護師や助手は普段よりも慌ただしい様子で、院内も殺気立ったような気配がそこここに漂っていた。
つけっ放しのテレビから笑い声が虚しく流れたかと思うとふっつりと音声が途絶えた。視軸を転じると看護師がテレビのリモコンを所定の場所に戻していた。
「楠本さん、お部屋に戻りましょう」
事件を気にしてか、看護師は何時も以上に気遣わし気な目をして近付いてきた。自殺者が精神病院の敷地内で見つかるなど、ショッキングな事件である。心身に影響してはいけないと病院のスタッフは気を配ってはいたが、人の口には戸を立てられないし、個々の好奇心を御することは難しい。
「亡くなった方の身元は解かったのですか?」
「さあ、わたしたちは何も聞いていないから」
「もしかしたら、私の知り合いかもしれないのです」
「え?」
看護師は目を瞬かせて楠本を凝視した。と、院内放送が流れた。楠本を呼び出すものだった。
「これから診察なのね。何とも云えないけれど、先生が何か知っているかもしれないわ」
少し困ったふうに眉尻を下げて患者を送り出した。
担当医に呼ばれて楠本は診察室へ入った。丸椅子に腰掛ける。左斜めに白衣を着た医師が座り、多田と書かれた名札をつけていた。いつもと同じ部屋の明るさ、白さ。見慣れた、取り立てて特徴のない壮年の医師の顔。
「調子はどうですか? 今の薬の処方で眠れていますか?」
多田はカルテを広げながら愛想良く問う。これも、いつもと同じ。
「ええ、問題ありません」
「そうですか。何か困っていることや不安なことはありませんか?」
「あの亡くなった方は?」
単刀直入に訊ねると多田医師は少し面を喰らったような顔をして、僅かに目を逸らした。楠本は漆黒の眸でじっと医師を見詰める。
「もしかしたら私の知り合いかもしれないのです。数日前に彼と話をしました。彼は友人のお見舞いに来たのだと云っていました」
「その人の名前は?」
「名前は聞いていません。でも警察の方で照会がもう済んでいるでしょう。あの日は確か、見舞客はその彼と、三〇一号室の渡辺さんのご家族だけだったように記憶しています」
「それで?」
「ただ知りたいだけです。いけませんか?」
「そう云われてもね、事件に関しては私もまだそう多くは知らされてないんですよ」
「他の患者さんも気になっているようです。下手に隠すと悪影響ではないですか?」
「それはそうだけれどね。でも、新聞に載る程度の情報しか警察の方からも話がまわってこないでしょうね。保証はし兼ねます」
「それでも構いません」
平素と違った様子を見せる楠本を、内心珍しく思いながら多田は物分かりが良いような体で頷いて何やらカルテにペンを走らせた。
「先生、それからもうひとつ」
「何ですか?」
「あの桜の樹は、どうするのですか?」
問われて多田は少しだけ目を細めてカルテに桜、と書き込む。
「ああ、あの樹。見事な桜だけどね、患者さんの一部では伐って欲しいという意見があがっています。お気持ちは解りますが。楠本さんも?」
「ええ、そうして頂けると」
頷きながら、あの桜の樹が焔に包まれ、黒く焼け落ちてゆくのを夢想して自分の中から何かがすうと抜け出ていくのを感じた。ゆっくりと桜が散るように、膚から鱗がぽろぽろと落ちてゆく。
楠本は多田の前で初めて朗らかに笑った。
「先生。何だか長い夢から目が醒めた気分です」
(了)
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