薔薇と乙女

澁澤青蓮

小説

18,119文字

――美しい人の躰には美しいものがつまっている。

【あらすじ】
孤独な少女緑子は父親の顔も知らず、母親からも虐げられ、学校でも孤立していた。ある日、隣の家に美しい少女・小夜が引っ越してきた。自分とはまるで真逆な境遇にある小夜。緑子は小夜に心奪われ、次第に奇妙な妄想に取り憑かれてゆく……。一部、流血表現があります。苦手な方はご注意ください。

――美しい人の躰には美しいものがつまっている。

 

 

緑子は鏡の前に立って自分の顔を覗き込みました。顔を近づけると息で鏡が白く曇って、緑子は指先を濁った表面に滑らせて十字架を描きました。子供の頃、繰り返し読んだおとぎ話の一節を頭の中で暗唱しながら。

 

――鏡よ、鏡、世界でいちばん美しいのはだあれ?

 

じっと己の瞳を見詰めて問いかけます。当然、鏡は答えてはくれません。それどころか、誰も彼女に『美しい』とは言ってくれないのでした。緑子自身も充分に解っていました。己の容姿の醜さを。

緑子は母親がいない時や深夜、目が醒めた時に、こっそり洗面所の鏡の前に立って自分の顔をつぶさに点検するのがひとつの癖でした。その癖は顔立ちの醜さ故にまとわりつく自身への不快感、嫌悪感、不安感から生じたものでしたが、確認しながら「ひょっとしたら私はそんなに醜い顔ではないのかしら」「私にだって少しは美しいところがある」といった密やかな期待と願望、優越感に浸るためでもありました。また自分を慰めるためにも必要な行為でした。

緑子は人前ではいつも自信がなさそうに俯き加減で、長く伸ばした黒髪を遮光カーテンにして他者からの視線を遮断し、神秘のヴェールを被っていました。唯一の家族である母親の前であっても同じようにしていました。彼女を取り巻く人々が、自分の容姿を嘲笑と好奇の目で見ているのを知っているからでした。

そんなふうでありましたから、緑子は学校でも孤立していました。友達らしい友達もなく、家においても母親から蔑まれていました。「器量の悪さは一体誰に似たのかしらねえ」母親は鏡台の前で白粉をはたきながら良くそう言いました。緑子は何も言わずにおりましたが、内心で「ママに似たのよ。目や鼻の形なんてそっくりじゃないの」と毒づいていました。

母親はちらりと緑子を莫迦にするような目つきで一瞥すると真っ赤な口紅を引きながら「アンタを見ているとイライラするわ」吐き捨てるように言うのが常でした。母親が毎日のように苛立っているのは自分を捨てたかつての夫に緑子が似ているからでした。自分を置いて、ある日突然、いなくなってしまった男への憎しみといまだに断ち切れない思慕とが胸の中で渦巻き、荒々しく逆巻いて、抑えきれない激情に駆り立てられて、緑子につらく当たるのでした。母親はそんな自分の心理を良く理解しないまま、生活苦に深く刻まれた皺を埋めるように化粧を厚くして夜の仕事へと出ていくのでした。

緑子は生まれてこの方、父親の顔を知らないのでした。写真一枚くらい残っていても良さそうなのに、家の中どこを探しても見つからないのでした。それというのも母親が全部、燃やしてしまったからです。華々しい結婚式の写真も、夫と肩を並べて幸せそうに微笑んでいる写真も……。残っている写真といえば、緑子自身の幼少期のものが数枚、学校の行事で撮ったものが幾つかあるだけでした。緑子の家は経済的にも困窮していましたが『思い出』というものに対しても酷く貧しい家庭なのでした。母子ふたり――温かみの欠けた家族でした。

母親から軽蔑され莫迦にされ嫌悪され、父親にも捨てられてしまった醜い私――あんまりにも惨めすぎると思いました。だから緑子はせめての慰めとして、父親は仕事のために遠い異国へ行っているのだと幼い空想で真っ黒に口を開けている空虚感を少しでも埋めようとしているのでした。

空想の中の父親は銀幕のスターのように見目麗しく、学者のように理知的で娘にはとびきり優しい――そんな都合の良い、何かのモンタージュのような父親を心に棲まわせて、布団に入って目を瞑り、緑子は幼子になって心ゆくまで彼と対話し、おやすみなさいと頭を撫でてもらいながら優しい気持ちになって、ひとりきりで眠りにつくのでした。彼女にとって眠りはいちばん優しいものでした。

さて、緑子はこのような境遇の少女でしたが、実際の彼女の容貌――客観的に見た場合、それほど醜いというわけではありませんでした。寧ろ、これといって特徴があるわけでもなく、ごくごく平凡な顔立ちなのでした。緑子は歪んだ鏡を通してでしか自分を見ることができない不幸な瞳しか持っていなかったのです。学校での嘲笑も好奇の目も、すべては彼女の過剰な自意識が作り出した被害妄想なのでした。本当は誰も緑子に関心を持っていなかったのです。道端に転がる忘れられた小石の如く。しかしそれも致し方ないのです。先に関係を断絶したのは、壁を築いたのは、緑子の方なのですから。また緑子は意識のどこかで『孤独』であることが『大人の証』である、と思い込んでいる節がありました。そう、彼女は自分は周りとは違う、自分は特別である、と傍から見たらあまりにも滑稽な自意識を持っていました。そうすることでクラスメイト達を見下していたのです。なんと鼻持ちならない少女でしょう!

結局、緑子は自己認識とは違った理由で周囲から距離を置かれ、孤立していたのです。だけれども、緑子は気がつきませんでした。

 

――私の孤独は私が選び取ったものであり、私が世界を拒絶し、孤独であることが真の大人であり、終始群れてつるんでいるお子様なお前らとは違う。

 

肥大する自尊心、膨れ上がる自己愛。

嫌われ者の長い黒髪の少女、緑子。

そんな緑子でしたが、ある日――薔薇が綻び始めた美しい季節に彼女は心奪われるものと出逢いました。

それは隣の家に引っ越してきた同じ年頃の少女、小夜でした。

小夜は夢のように美しい少女でした。

桜のように儚く、薔薇のように気高い、白雪のように清らかで端正な容姿は、緑子がいつもそうありたいと夢想し続けた姿でした。

緑子は彼女を一目見て、何かに深く胸を貫かれた気がしました。今まで拒絶していた世界が緑子に迫り、分厚く築いていた壁が一挙に突き崩され、視界を遮断していた長い黒髪が皐月の風に吹き流され、眩しい光が緑子の瞳の底を灼くように射抜く――彼女が堅く守ってきた世界は崩れ去り、壊れ果て、新しい世界が到来したのでした。それは一言で言えば、戀でした。

緑子は生まれて初めて戀をしました。

それはそれは美しい少女、小夜に。

薔薇のかぐわしい香気に誘われる羽虫のように、決して逃れられない万有引力の如く。

しかし残念なことに小夜とは学校が別でした。どうやら小夜は私立の名門校へ通っているようでした。緑子は公立の学校へ通っていたので、小夜と口を利くどころか顔を合わせることすら稀でした。

彼女と言葉を交わしたのは小夜が両親と共に引っ越しの挨拶に来た時が最初で、それ以降は朝の通学時に、たまに家の前で顔を合わせるくらいでした。小夜は緑子と逢うと朗らかに微笑しながら「緑子さん、おはようございます」と言ってくれるのに対して、緑子は戀するが故に恥ずかしいやら緊張するやらで、まともに挨拶もできずに、ひとり顔を赤らめて周章狼狽しながら、ぺこりと頭を軽く下げて逃げ出すようにしてその場から立ち去るのが常でした。そうして後になってから小夜に失礼な態度をとってしまったことを悔いて、嫌われてしまったのではないかと気に病みながら、彼女の優しい微笑みを思い出して、どうしたら普通に接することができるのか、小夜に近づきたい、せめて友達になりたいと考えるのでした。

小夜を知ってから緑子は鏡を覗く機会が増え、またその時間も長くなりました。醜いと思っている己の顔を様々な角度で映して見ながら、じっくりと点検して、小夜の整ったかんばせを思い浮かべました。

肩の上で切り揃えられた艶やかな黒髪、涼やかな三日月の眉、やや憂いを含んだような潤った漆黒の瞳、縁取る長い睫毛、すっきりとした鼻筋、シャープな輪郭、ふっくらと瑞々しい薔薇色の唇……。

緑子は自分の顔の中に小夜の面影を探し求めました。しかし似ている部分はひとつもありません。

せめて髪の毛を同じ長さに切ってしまえば――世界を断絶する長い髪の毛はもう必要ないから。

 

――あなたに、なれる?

 

緑子は鏡に問いかけながら、少しだけ笑ってみせるのでした。ここにはいない、小夜に向かって。

 

**********

 

麗らかに晴れたある日曜日の午後。

緑子は図書館で借りた本を返却するために家を出ると、緑子さん――柔らかな声音に呼び止められました。俯き加減の顔を上げて声のした方へ目を向けると、小夜が家の庭の柵越しに立っていました。

緑子は驚きながらその場に立ち止まりました。小夜は土に汚れた軍手を脱ぎながら手招きをします。一体何の用だろうかと高鳴る胸を抑えながら緑子は彼女に近づくと、

「どちらにお出かけ?」

「別に出かけるってほどでもないけれど……」

ぶっきらぼうに返事をしながら緑子は不愛想な自分を呪いました。ああ、本当はもっと楽しくお話したいのに!

悲しいかな、これも戀するが故の反応なのでした。恥ずかしさが先に立って素直に振舞えないのです。

しかし緑子の胸中など全く知らない小夜は親しげな笑みを絶やさずに頷きながら、

「緑子さん、薔薇はお好き?」

「……ええ、まあ」

曖昧に答えながら、その実、花に興味を持ったことなど一度もないのでした。

小夜は白い歯を零して告げます。

「そう、良かった。私の家で薔薇を育てているのだけれど、花が咲いたらお近づきのしるしに差し上げようと思っていましたの。丁度、今が花盛りでいちばん綺麗な頃なのよ。宜しかったら私のお家へ遊びに来ない?」

願ってもないお誘いに緑子は目を丸くして、

「今?」

「ええ。緑子さんが宜しければ、ぜひ」

「……ありがとう。それなら、お邪魔させていただくわ」

すると小夜もどこかほっとしたように美しい顔いっぱいに喜色を咲かせて、緑子に玄関の方へ回るように言って鉄柵の門を開いて彼女を迎え入れました。

緑子は嬉しさと緊張とで心臓がどうにかなりそうでした。今にも口から心臓が飛び出しそうなほどに鼓動が鳴っていました。口の中がカラカラに渇いてゆきます。変な汗が手に滲みます。緑子は小夜に気がつかれないようにスカートの裾で掌の汗を拭って、本が入った手提げ鞄を胸に抱えて激しくなる動悸を抑えようとしました。しかし心臓は一向に収まる気配はありませんでした。

小夜は緑子のそんな様子にはまるで気がつかないまま、彼女を庭へと案内しました。その間、小夜は何やら緑子に話しかけていましたが、極度の緊張と小夜の細い背中を瞳に焼きつけるのに必死で、緑子は彼女の言葉をまるで聞いていないのでした。

「緑子さん?」

不審に思った小夜が振り返ります。一瞬、漆黒の瞳と出逢いました。緑子は咄嗟に目を逸らします。本当はいつまででも見詰め合っていたいのに。

「お加減でも悪いの?」

柳眉を曇らせて問うのを、緑子は首を横に勢い良く振って「いいえ。違うの。少し暑くって……」わざとらしく掌で戀にのぼせた顔を扇ぎます。実際、今日は初夏の陽気で長袖のブラウス一枚でも暑いくらいなのでした。

雲一片すらない空はまばゆいばかりの蒼さ、天高く鎮座する太陽はいよいよ白く輝いて、五月晴れの上々天気。

小夜は「今日は好いお天気ですものね」独白して目を細めて蒼穹を仰ぐと、先にお茶にしましょうと言いました。緑子も喉がはりつくまでに渇いていたので彼女の言葉に嬉々として賛同したのでした。

 

緑子は小夜の自室に通されました。

「お茶をれてきますわ。少しお待ちになって」

そう言い残して小夜が部屋を出ていくと、緑子は物珍しげに室内を見回しました。

小夜の部屋は自分のそれとは全く違っていました。整理整頓された机、小さな本棚、白いレースをあしらった天蓋付きのベッド、窓にかけられた淡い桜色のレースのカーテン、小振りのドレッサーまであります。今は閉じられていますが、鏡は三面鏡なのでしょう。ドレッサーにはヘアブラシと薔薇色の小壜、青色の小壜、黄金色の液体が入った壜が並んでいます。

緑子はじっくりと部屋を観察しながら、本棚に近づきました。お行儀良く並んでいる文庫本達はどれも海外の文学作品ばかりで緑子が一度も手に取ったことのない本でした。緑子が好んで読む本といえば国文学が主だったので。

緑子は指先で背表紙をなぞりながら、一冊の本を抜き取りました。

――リルケ詩集。

全く知らない詩人でしたが、何となく語感に惹きつけられて選んでみたのでした。パラパラと適当にページを開いてみます。

 

『薔薇よ……

 

薔薇よ、おお、この上もなく完全なものよ、

限りもなくみずからをうちに含み、

限りもなくみずからに答えるもの、

あまりの美しさに、そこにあるとも

思えぬからだからい出た頭部。

 

おまえに比べられるものは何もない、おお、おまえ、

そよぎやまぬ滞在の至高の精よ、

ひとの行きなやむ愛の空間を

おまえの香気は行きめぐる。』

 

緑子には良く理解ができませんでしたが、薔薇を賛美した詩であることは解かりました。

美しい薔薇。

完全無欠の美。

それは緑子にとって小夜でした。

小夜はどこをとっても美しい少女でした。容姿も、声音も、その心根も。

ドレッサーに並べられた三つの小壜はあたかも小夜の美貌をつくる錬金術師の道具のように思えました。天蓋付きのベッドは幼蟲が美しき蝶へと変容を遂げるための繭のようです。彼女は毎晩、三つの小壜を用いて、眞白きベッドで眠り、その美しさを絶えず新しく生まれ変わらせているのだと思いました。

 

――私も美しく生まれ変わることができたなら。小夜のように。

 

リルケの詩集を手にしたままぼんやりしていると不意に部屋のドアが開いてお待たせと小夜が戻ってきました。彼女が手にしている白いトレイには透き通った薔薇色の液体に氷が浮かんだ洋杯コップが二つと小皿に盛られた数枚のクッキー達がちょこんと載っておりました。

緑子は促されて毛足の長い絨毯の上に座るとトレイを挟んで小夜も向かいに座りました。

どうぞ――洋杯を僅かに差し出されて「いただきます」緑子は薔薇色のそれに口をつけました。キンと冷えた飲み物は強い酸味がありました。飲み慣れない薔薇色は緑子の舌を縮こませます。思わずいかめた顔を慌てて取り澄まして、再度洋杯に口をつけました。あまりにも喉が渇いていたために、ほとんど一息に飲み干してしまいました。冷たいものを飲んだせいか、落ち着かなかった心臓もようやく静かになりました。人心地ついて緑子がほうと息を吐くと小夜は満足げに微笑しました。

「おかわりは要りまして?」

「いいえ。大丈夫よ。ありがとう。――初めて飲んだけれど、何だか不思議な味ね」

「ああ、これ。ローズヒップとハイビスカスのお茶よ。酸っぱいけれど今日みたいに暑い日には冷やして飲むとさっぱりするでしょう。お肌にも良いのよ」

言いながら小夜も薔薇色のお茶を一口飲みました。それから「良かったわ」心底ほっとしたように呟きました。緑子が首を傾げていると、小夜は微苦笑して言いました。

「私、てっきり緑子さんに嫌われていると思っていましたの。たまに朝にお会いするでしょう? 緑子さん、何だかそわそわして困ったようなお顔をされていたから……私、緑子さんに何か悪いことをしてしまったのかしらってずっと気になっていたの。でもこれといって思い当たる節もなくって……せっかくお家が隣同士ですし、年齢も同じでしょう。前からお友達になれたら良いなって思っていたの」

思い切ってお声をかけて本当に良かった――屈託なく嬉しそうに小夜は笑うのでした。

緑子は彼女の言葉を聞いて驚くと共に天にも昇る気持ちになりました。小夜が、憧れ戀する美しい小夜が、醜い自分なんかと友達になりたいだなんて!

思ってもみなかった彼女の告白に緑子は少し耳が熱くなるのを覚えながら胸中に広がる甘い痺れ、とろりと滴る甘露に酔いしれました。

それから緑子は堰を切ったように喋りました。

登校時、顔を合わせた時の礼を失した態度を詫びながら、自分も小夜と友達になりたいと思っていたこと、趣味の読書のこと、学校でのことを――ひとり孤独に過ごしているとは明かさずに多くの友達がいて楽しく学校生活を送っていると嘘を吐きました――心弾ませて打ち明けました。こんなに沢山一度に人と喋ったのは初めてでした。

家族のことは敢えて話ませんでした。小夜と比べて惨めになってしまうからです。小夜が経済的に恵まれているのは彼女の小奇麗な自室を見れば明らかでした。

小夜は相槌を打ちながら緑子の話に耳を傾けていました。時折、小さく笑みを零しながら。

「緑子さん、リルケもお読みになるの?」

ふと彼女の傍らにあった文庫本を見て小夜は訊ねました。

「あ、ううん。ごめんなさい、勝手に小夜さんの本棚から抜き取ったの。少し気になって……薔薇の詩が素敵ね」

「そう。私のお気に入りの本よ。リルケは薔薇の棘に傷ついて、それで病気になって死んでしまったのですって」

「まあ、そうなの。こんな言い方も何だけれど、随分ロマンチックねえ」

緑子はまるで知らない詩人の顔を好き勝手に思い描いてて言いました。きっと小夜のように美しい容姿をした詩人であったのだろうと。

「詩人は悲劇的にロマンチックでなければ、詩人にはなれないものなのよ」

小夜は長い睫毛を垂れて呟きました。睫毛に翳る瞳が一層、潤んで見えたのは気のせいでしょうか。

 

他愛もないお喋りをしながらクッキーを摘まんだ後、少女達は庭へと降り立ちました。

小夜が育てていると言った薔薇は、薄紫の少し珍しい品種でした。小夜は「夜来香イエライシャンよ」と薔薇の名前を口にして剪定鋏で一輪、摘み取りました。茎の切り口から瑞々しい青い香りが漂います。

その横で緑子は神秘的な色合いの花群れに顔を寄せて匂い立つ爽やかな香気を胸いっぱいに吸い込みました。そうしながら青みのある花弁はなびらの色が小夜の白皙のはだに良く映えるだろうと思いました。

 

――薔薇の名前にも、戀する彼女にも『夜』がある。

 

夜は小夜の双眸にもありました。白目が薄青く見えるほどの漆黒。朔月の暗夜を思わせる底なしの黒。

緑子の中で夜は小夜であり、藤色の薔薇であり、一等美しいものになりました。頭上で白熱する太陽を急に疎ましく思いました。

 

――早く夜になれば良い。今が夜であったなら。薔薇よ、その名において今、夜を連れて来い。その香気と共に。

 

小夜はもう一輪、また一輪と剪定鋏で花開いた薔薇を切り取ると小脇に抱えていた新聞紙で保護するように三輪の薔薇を器用に包んで微笑みながら緑子に差し出しました。

「お友達のしるしに」

「……ありがとう、小夜さん」

緑子は不器用に笑って夜の薔薇を受け取りました。

 

**********

 

それから緑子は時間が赦す限り小夜から貰った薔薇を眺めて暮らしました。

花瓶なんて洒落たものは家になかったので曹達ソーダ水の空き瓶に薔薇を活けました。薔薇の美しい豪奢な姿と見すぼらしい曹達水の空き瓶の不釣り合いな姿が滑稽で悲しいですが、仕方ありません。緑子はお小遣いを貯めて――学校で必要な物を買うために僅かながらお小遣いは貰っていたのです――素敵な花瓶を買おうと思いました。けれども、きっと花瓶を買う頃には薔薇は枯れてしまっていることでしょう。母親に花瓶を買って欲しいと素直に言うことができたなら良かったのですが、如何せん、緑子と母親の関係は良好とはとても言えません。何より、経済的に苦しいのは緑子自身も身に染みております。花瓶を買ってくれなどと母親に言おうものなら素気無く「莫迦くさい」と却下されるのがおちです。そもそも母親は、毎日飽きもせず、呆けたように薔薇を眺めている緑子を半ば気味悪く思いながら、蔑視していました。

 

――あの子は頭がどうかしている。花なんていくら眺めたって食べられやしないのに。

 

緑子は毎日、甲斐甲斐しく水を取り替えながら一日でも長く花が咲いていますようにと神様に祈るような思いで薔薇を愛でました。青みがかかった紫色の夜来香イエライシャンは戀してやまない小夜そのものでした。

後から知ったことですが、三輪の薔薇を贈ることは「愛している」という意味があるそうです。勿論、小夜はそのようなことは全く意図していなかったでしょう。単なる偶然であることは緑子も理解していました。けれども小夜が好きなあまり、密かに都合良く考えて己を慰めているのでした。

 

――小夜は薔薇を贈るほどに、私を愛している。

 

緑子は小夜に恋情を抱いたその日から、夜眠る時におこなっていた空想の父親との対話を辞めてしまいました。父親の代わりに小夜を心裡に棲まわせました。目を閉じて深い夜闇に身を委ねて小夜と会話しました。時には彼女の白い手を握って。実際に一度も触れたことのない小夜の手は頼りなく、体温も不確かでした。それでも緑子は理想を小夜に重ね、想いを託して、空想の世界で彼女と恋人ごっこをしました。

手を繋ぎ、肩を寄せ、頬を寄せ、眼差しを交わし合い、薔薇色の唇まであと数センチ……空想の中でも決して触れ合うことのない唇でした。それは緑子に実体験がないために、上手く想像ができないからでした。けれどもそれで構わないと思いました。寧ろ、喜ばしく思いました。小夜を求める気持ちに肉慾があってはならないと考えたからでした。彼女の唇に迫る空想は鮮明な像を結ばないまま、意識の外へと押し遣られました。

緑子の裡では肉慾は母親へと繋がっていました。醜悪なものの象徴として。

小夜は夢のように美しい少女なのです。

桜のように儚く、薔薇のように気高い、白雪のように清らかな少女なのです。そんな聖女のような彼女に肉慾があるとは認めたくなかったのです。小夜が自分の母親のように真っ赤な口紅を引くような人間だとは思いたくなかったのです。その思念の中には「まるで想像がつかない」という、緑子の性に対する幼く未熟な、憶病とも言える感情が多分に含まれていました。

緑子は小夜に対して酷くプラトニックな愛を抱いているのでした。その本質を理解しないままに。ねじ曲がった純愛とでも言いましょうか。端的に言ってしまえば、緑子の小夜に対する感情はとても独り善がりの、思い込みの激しい、エゴイスティックな、戀とも呼べぬ代物なのでした。しかし緑子は『私は小夜に戀して愛しているのだ』と寸毫も疑わないのでした。

 

夜来香は日に日に生命力を喪い、萎れていきました。重たく頭を項垂れて花弁はなびらが乾涸びていく様を見るのは緑子にとって身を切られるように辛いことでした。小夜が醜く年老いて死んでゆくのを目の当たりにしているのと同じだからです。小夜は永遠の美しさを約束された少女でなければいけないのです。

彼女は緑子の願望であり、理想であり、永遠であり、そして愛しい恋人でありました。それら全てが無惨に裏切られるのは胸が張り裂けるほどの痛みを緑子に齎しました。

緑子は痛みに耐え兼ねて心の中で叫びます。

 

――ああ、小夜!

 

そっと触れた薔薇は花弁をはらはらと散らしました。緑子は零れ落ちた乾いた小夜の欠片を指先で摘まんで口に含みました。

僅かに残っていた爽やかな香気が口の中に広がります。花弁を咀嚼して飲み込むと躰がぽっと温かくなったような気がしました。まるで小夜の体温がそこにあるように。

緑子は散った花弁を全て口の中に詰め込み、食べました。そうしてから、まだ健気に咲き残っている薔薇を毟り取って食べました。無我夢中で薔薇を貪り食いました。薄紫の花は細かく噛み砕かれて、緑子の食道を滑り落ち、胃の中へと入っていきます。緑子は胃の辺りを擦りながら不思議な充足感を覚えました。

充たされているという恍惚。

小夜が躰の中にいるという悦び。

腹部を中心に躰が熱を帯びて、緑子はうっとりと目を閉じました。

そうしてふと何かで見たレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』と題された宗教画が脳裏に閃きました。

 

――そうだ。私が小夜をもう一度、産むのだわ。

 

緑子はすうと目を開いて、見る影もなく毟り取られた薔薇の残骸を、虚ろな瞳でいつまでも見詰めているのでした。

 

**********

 

緑子は学校が休みの日曜日に度々小夜と逢い、彼女の自室で薔薇色のお茶を飲みながら楽しく過ごしました。

 

六月のある日曜日、小夜は遊びに来た緑子を見て目を丸くしました。長かった彼女の髪が短くなっていたからです。

丁度、小夜と同じくらいの髪の長さで、肩の上で切り揃えられていました。

「これから暑くなるでしょう。鬱陶しいから切ったの。変かしら?」

緑子は羞恥に頬を染めながら言いました。小夜がどのような反応を示すのか、期待と不安が綯い交ぜになりました。最も恐れていたのは「似合わない」「どうして私と同じ髪型にしたの?」と言われることでした。前者はショックですし、後者にいたっては、小夜が好きだから少しでも近づきたいのだとは絶対に言えません。

緑子は俯き加減で鼓動を緊張に高まらせて小夜の言葉を待ちました。まるで神罰を受け待つ罪人の如く。しかし頭上から降ってきた声は思っていたよりもずっと優しいものでした。

「そんなことはないわ。とても素敵よ。私達、お揃いね」

緑子が顔を上げると小夜はにこりと微笑みました。緑子もぎこちなく白い歯を零して見せました。

そうは言ったものの、小夜は内心では彼女の変わりように驚きを禁じ得ませんでした。髪型もそうですが、近頃の緑子は顔色があまり良くありません。元々痩せていましたが、更に躰が細くなり、面窶おもやつれしているように見えました。緑子は無理な減量をしているのではないか、もしくはどこか躰の具合が悪いのではないかと小夜は密かに心配しているのでした。

 

いつものように小夜は緑子を自室に通して薔薇色の冷たいお茶と切り分けた水蜜桃をおやつに出しました。緑子はお茶には手をつけましたが、水蜜桃は口にしませんでした。

「緑子さん、水蜜桃はお嫌い?」

小夜は細い銀色のフォークに柔く熟れた実を刺して一口、食べました。

「いいえ。嫌いではないの。ただ、最近あんまり食べる気持ちが起こらなくって……ごめんなさいね」

緑子は力なく笑ってお茶を飲み干しました。小夜は少しの間、言いあぐねてフォークを無為に弄んでいましたが、思い切って訊ねました。

「緑子さん。どこかお加減が悪いのではなくって? 近頃、随分、お痩せになったようだし……顔色も悪いわ。私、あなたが心配で……」

眉根を寄せて痛ましげに友人を見詰めました。憂いを孕んだ澄明な漆黒の瞳は心底から彼女を労わり、真剣に心配するものでした。

すると緑子はかぶりを緩く振って「そんなことはないわ」ものういく微笑します。その微笑みは翳のある謎めいた笑い方なのでした。まるでモナ・リザのような……ただ、瞳だけが爛々と輝いていました。緑子の異様な輝きに溢れた双眸は何かに飢えている人のそれでした。実際、緑子は飢えていました。そうです、彼女は薔薇に飢えていたのです。あの日から――初めて薔薇を食したあの日から。

 

緑子はあの日を境に、水や小夜に振舞われる薔薇色のお茶以外に食べ物を口にしなくなりました。食べるのは美しい薔薇の花だけでした。

何とかお小遣いを遣り繰りして花屋で薔薇を一輪、二輪と買い求めました。それまで緑子は知りませんでしたが、なかなか薔薇の花は高価なのでした。買う時はまさか食べるためとも言えないので、贈り物用だと見栄をはって簡単にラッピングして貰いました。そのラッピングの費用もばかになりません。そのうちお小遣いだけでは足りなくなってきました。学校で使うノートや筆記具などにもお金は要ります。母親に一度、お小遣いの前借を頼み込んだこともありましたが、素気無く断られて終わりました。

それにもうひとつ、問題がありました。

花屋で買った薔薇を幾ら食べても、初めて夜来香を食した時のような充足感と恍惚感が得られないのです。売り物の薔薇を食べれば食べるほど、緑子の飢餓感は強まりました。また残念なことに花屋には夜来香は並んでいないのでした。

小夜と友達になったとはいえ、そう何度も薔薇を分けて欲しいとも言えず――図々しいと思われて嫌われるのが怖かったのです――薔薇の季節も盛りを過ぎて、小夜の家の庭は早くも次の季節の花を咲かせようとしていました。あの神秘的な色彩の花はなく、ただ茎が青々と残っているばかりでした。

緑子は灼けつく飢餓感に苛まれて普通の食事を摂ろうとしたこともありましたが、既に躰が受けつけなくなっていました。食べても吐き戻してしまうのです。

彼女を襲う渇望は激しいものでしたが、しかし緑子はどこかで満足感も味わっていたのでした。

飢えは肉体の浄化作用であり、飢えれば飢えるほど、穢れが肉体から出てゆき、高次元にまで清められ、次に食す薔薇がどんなに美味なことだろう……たとえまた激しく飢えるとしても……。そんなふうに彼女は考えていたのでした。

 

学校では孤立している緑子でしたからクラスメイト達は彼女の変化に対しても無関心でした。

ただ、担任の教師は訝しがって一度、どうしたのかと訊ねましたが、勿論、緑子は本当のことなど言うはずがありません。ただ一言「暑気あたりかもしれません」と告げただけでした。教師も面倒ごとには関わりたくない本心から、それ以上追及しませんでした。

母親はというと緑子の著しい変化にそれとなく気がついていました。食べ物を吐き戻すところを見て、邪推しました。

もしや何かの間違いを犯して子を宿しているのではないか、と。しかし器量の悪い娘に限ってそんなことは……年齢を考えてもまさかそんな……と何度も思いましたが、やはり真偽を確かめられずにはいられませんでした。それは娘の過ちを咎めるというよりは、同じ女としての情からくるものでした。唯一、母親らしい感情と言っても良いかもしれません。

母親は緑子を詰問しました。しかし緑子は頑なでした。こんな女と口を利いたらせっかく浄化した肉体が濁ってしまうと沈黙を守っていました。すると業を煮やした母親は無理やり、病院へ連れて行こうとしました。処置は早い方が良いと考えたのです。完全に母親は誤解していたのでした。緑子が黙り込んで真実を告げない棘のある態度に、母親はすっかり自分の妄念を事実だと思い込んでしまったのです。

緑子は激しく抵抗しました。母子は揉めに揉めました。掴み合いの喧嘩です。髪を振り乱し、腕を振り回し、相手を引き倒し、頬を打ち、悲憤に涙を流しながら、感情に任せて吐き出される暴言、怒号……。

そうしてとうとう緑子は叫ぶように言ってしまったのです。

 

「私はそんな穢らわしいことは一切、していないわ! ママが考えるような汚いものなんてありもしないのよ! ママと私は違うの! 私は……、私は、いつか死んでしまう小夜のためにもう一度美しい小夜を産むのよ! 沢山の夜来香を食べてね! それが私に課せられた運命さだめなのよ! だから私は自分の肉体を汚すことなんてできないし、私の躰はママみたいに穢れてなんかいないのよ!」

 

母親は唖然として娘の言葉を聞きました。

 

――この子は狂ってる。別の医者が必要だわ。

 

**********

 

季節は移ろい、しとしとと長雨が続く梅雨時期も残すところあと半分という頃。

緑子はすっかり痩せ衰えて、寝ついていました。学校は半月以上も休んでいました。

 

母親と派手な喧嘩をしてから緑子は不承不承に一度、病院へ連れて行かれました。しかし緑子は医師の問診を全て拒絶しました。何とか緑子の口を割らせようと医師はさり気なく雑談もしましたけれど、緑子は一切、応じませんでした。医師は緑子を診察室から出して、次に母親を呼びました。

母親は医師に問われるまま、生育環境やこれまでの娘の様子、そして狂乱のあの日……事のあらましを述べました。

医師はカルテに母親の言葉を書き留めながら、食事の拒否が続いているのは危険であるとして、入院治療を提案しました。しかし母親は経済的な理由を思って躊躇いました。医師は助成金の制度など丁寧に説明しましたが、母親は煮え切らない態度でいました。母親も混乱していたのです。また、娘がおかしくなったのは自分のせいだと、白衣の精神科医に責められているような気持になっていたのでした。母親にとって耐えがたい苦痛でした。自分の母親としての価値や能力をまるごと否定されたように感じていたのですから。

 

――母親失格。

 

そんな言葉が胸を鋭利に抉ります。

それにあの強情な娘がおとなしく入院するとも思えません。医師すら沈黙で拒絶する娘を、母親失格である自分が――決して娘から好かれていない自分がどうして説得できましょう。

母親は憂欝を重たく肩に乗せてひとまず何でも良いから薬を処方して欲しい旨を告げて、医師も了承しました。向精神薬と液体タイプの栄養剤を処方箋に書き、また一週間後に来院するように言って母親を診察室から出しました。

 

しかし、もう二度と緑子と母親が病院を訪れることはありませんでした。

 

緑子は一日中布団の中で過ごしました。ぼんやりと天井を眺めながら、空想をしているのでした。

 

――もうすぐ。きっと、もうすぐ。私は美しい小夜を産むのだわ。

 

そうして時折、小夜の部屋で読んだリルケの詩を思い出していました。

 

『薔薇よ……

 

薔薇よ、おお、この上もなく完全なものよ、

限りもなくみずからをうちに含み、

限りもなくみずからに答えるもの、

あまりの美しさに、そこにあるとも

思えぬからだからい出た頭部。

 

おまえに比べられるものは何もない、おお、おまえ、

そよぎやまぬ滞在の至高の精よ、

ひとの行きなやむ愛の空間を

おまえの香気は行きめぐる。』

 

美しい薔薇。

完全無欠の美。

小夜。

 

長く学校を休んでいる緑子のために数人のクラスメイトがお見舞いに来たことがありましたが、緑子はそれすらも拒絶しました。どうせ担任の教師に言われて、渋々来たのに違いないと思っていたからです。そしてそれは正しい認識でした。

クラスメイトからは授業で使ったプリントや学校行事の告知プリントが絶えず届けられましたが、それらは緑子に直接手渡されず、全てポストに投函されるだけでした。しかし緑子は溜まっていくプリントには見向きもしませんでした。既に不要であったからです。

母親は以前と比べて、少しだけ緑子に優しくなりました。が、その態度は腫れ物に触るようなもので、緑子を無性に苛立たせました。緑子は飢えに爛々と輝く鋭い目で母親を睨みつけて遠ざけました。

母親は遣る瀬無い気持ちのまま、花屋へ行って薔薇を買い求めました。赤や白、黄色の薔薇達を。それらをバケツに挿してそっと緑子の枕元に置いて、何も言わず部屋を出てゆきます。緑子はそんな母親の背中を強く見据えて、心裡で呪いの言葉を吐くのでした。

 

――死んでしまえ。

 

どす黒い呪詛は己にも向けられていました。

日がな一日、床に臥せって、何もできないまま、母親に買い与えられた薔薇を食するだけの生活……特に我慢ならないのは、大嫌いな母親から薔薇を餌のように与えられているという屈辱でした。

薔薇はこの上なく神聖なものであります。醜悪な母親が手にしたそれは伝染病のように薔薇を穢し、夥しく重なり合う花弁の内部から目に見えぬまま、腐らせてしまうのです。

それだから己を充たす糧は自分自身で獲得するか、愛する小夜から与えられたものでなければならないのでした。夜の名を持つ神秘な薔薇を。

しかし悲しいかな、薔薇を貪り食いたいという欲求には勝てません。激しい嫌悪を覚えながら、緑子は母親が置いていった薔薇達を口に詰め込むのでした。

心を枯らし、餓えて、小夜に戀焦がれ、愛しながら……。

 

小夜は時々、緑子を見舞いにやって来ました。

緑子としてはあまり自分の姿や、見すぼらしい部屋などを見られたくなかったのですが、けれどもやはり彼女がお見舞いに来てくれるのが嬉しくて、小夜を歓迎しました。

緑子は布団の上に起きて座って、見た目ほど病は酷くはないのだと暗に示しました。そんな彼女を小夜は痛ましく思いながら、励ますつもりで明るい表情を作って、他愛のないお喋りをしました。

「緑子さん、夏休みになったら私と一緒にK市の別荘に来ない? 毎年両親と別荘に行くのだけど、数日もすると近くに親しいお友達がいないものだから、数日もするととても退屈してしまって……でも緑子さんが一緒に来てくださると、きっととても楽しいと思うの。涼しくて、自然がたくさんある良いところよ。だから……」

緑子は薄く微笑みました。

「小夜さん、ありがとう。そうね、そうできたらとても嬉しいけれど、でも私は」

そこで緑子は不自然に口を噤みました。喉の奥から何か熱いものが迫り上がってきます。緑子は苦しげに息を詰まらせ、半身を前のめりに傾けて喉を掻き毟りました。

「緑子さん⁉」

小夜は驚き慌てながら、哀れに痩せた緑子の背を擦りました。

「……ぐ……う……っ」

ごぼり、と喉の奥で鳴ると蒼褪めた唇から真っ赤なものが吐き零れました。それはひとひらの薔薇の花弁はなびらでした。緑子は咳込みながら幾つもの真紅の花弁を吐きます。布団の上に夥しく散るそれらは鮮血のようでした。

小夜は信じられない思いで驚愕に漆黒の瞳を大きく見開いて緑子が吐いた薔薇の花弁を見詰めました。異常な光景に叫び出しそうになりながら、恐々とふるえる指先で血に見えるそれに触れてみました。しっとりと水気を含んだ、仄かに温かいそれは間違いなく薔薇の欠片でした。微かにこの花特有の甘い香りがします。

小夜はすっかり気が動転してしまって、誰か人を呼ぶことに思い至りませんでした。今や彼女の顔も色を喪って紙のように真っ白でした。

緑子は額に滲む汗に前髪を貼りつかせながら、喘鳴して苦しさに顔を歪めながら呆然としている小夜を一瞥しました。そうして告解するように胸の奥に大事に仕舞っていた秘密を打ち明けました。小夜の様子には最早構っていられませんでした。緑子も必死なのでした。

「……小夜さん、きっともうすぐ私は死ぬわ。そんな気がするの。いいえ、気がするのではなく、本当にもうすぐそこまで、それ・・が来ているのが解るの」

突然の告白に小夜は戸惑いを隠せず、困惑に眉根を寄せながら、痩せて骨ばった緑子の手を握りました。彼女の手は酷く冷えていました。そうしながら、努めて冷静に振舞って言いました。

「緑子さん、そんなことを仰らないで。大丈夫よ、きっと大丈夫。ねえ、お薬はあって?」

緑子はかぶりを緩く振って、聞いてちょうだい――小夜の手をぎゅっと強く握り返しました。

「小夜さん、私には課せられた運命さだめがあるの。それはいつか死んでしまうあなたをもう一度、美しいあなたを産むことよ。それには沢山の薔薇が……あなたから貰った夜来香イエライシャンの薔薇が必要だったの。でも私が食べていたのは違う薔薇ばかりだった。だから、もしかしたら……上手くあなたを産んであげられないかもしれないわ……。そうしたら、ごめんなさいね。あなたは嗤うかもしれないけれど、私は本気よ。本当にあなたを産むつもりなの。だって、あなたは永遠だから。永遠の美を約束された人だから。……初めて夜来香を食べた時、予感があったの。レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』という宗教画があるでしょう? ふっとその絵が頭の中に閃いたの。神様からの啓示だと思ったわ」

緑子はうっとりとした瞳で――ここではないどこか遠い世界を夢見る目つきで語ります。

話を聞いている小夜は混乱しました。緑子の言っていることがさっぱり理解できなかったからです。

 

――私を産むですって? 『受胎告知』? マリア様にでもなったつもりでいるのかしら……? なんて畏れ多いことを。やっぱりご病気で気が変になっているのかしら? 尋常ではないわ。それに緑子さんが吐いたあれ・・も……。

 

緑子の独白は続きます。薄く目蓋を伏せて。

「……ずっと言わないでおこうと思っていたのだけれど、もう最後だから、打ち明けるわ。……私ね、あなたが好きなの。戀しているのよ。一目見た時から、ずっと……愛しているの」

緑子は小夜に微笑みかけました。その微笑はぞっとするような、変に凄惨な笑みでした。小夜はかけるべき言葉を見失って、そっと握っていた手を離しました。それが小夜の、緑子に対する戀の返事でありました。

しかし緑子は小夜が自分のことをどう思っていようが構いませんでした。戀の成就よりも、無事に小夜を産むことの方が重大であったからです。それに小夜を産みさえすれば、この初戀も実るのだと奇妙な思念に支配されていました。もう支離滅裂です。緑子の頭は確実に壊れていました。抱いた狂える妄想は今にも破裂しそうなまでに膨らんで緑子を蝕んでいました。

「……緑子さん、今日はこの辺で失礼するわ。お体、お大事になさって」

小夜は冷めた口調で告げて、そそくさと部屋を出てゆきました。

この日以来、小夜は緑子を見舞うことはありませんでした。

 

**********

 

月のない夜でした。

ふと緑子は真夜中に目を醒ましました。

 

――躰がざわざわする。

 

これは予兆であると緑子は感じ取りました。

そうです、とうとうその時がやってきたのです。

 

――今夜に、今に、小夜が私から産まれてくる。

 

暗い暗い夜の底にいる自分は遂に準備が整い、神聖な闇の産屋に入ったのだと悟りました。小夜を産むには朔月の晩が最も相応しい――澄明に潤んだ漆黒の瞳は新月の夜をこごめたものであるから。

 

緑子は布団の中で躰を丸めました。

お腹の辺りがだんだん熱くなってきます。それに合わせて鼓動が早くなり、じんわりと膚が汗ばんできます。はあはあと苦しげに息を乱して、ざわつく躰を、ふるえる躰を抑えるように自分自身で己を抱きしめました。

 

――今に来る。きっと来る。もうすぐそこまで……。

 

ドキン、と一際強く心臓が鳴ったその刹那。

 

――小夜!

 

心の中で叫ぶのと同時に、痩せて肉の薄かった腹部がごぼりと不自然に大きく膨らみ、次の瞬間には腹を突き破って薔薇の蔓が幾つも飛び出しました。

 

――え?

 

緑子は眼球が零れ落ちそうなほど目を剥いて自分の躰を見ました。瞬時には己に起こった事態を理解できませんでした。

「……かは……ッ」

口の端から一筋の紅が垂れ、激痛が躰を貫きました。

裂けた腹から内臓がごぷりと溢れ出し、大量の血が撒き散らされ、辺りは血の海です。生臭い臓腑と血溜まりの中で、幾つもの薔薇の花が咲き乱れました。群れ咲く薔薇は緑子が愛してやまなかった神秘の夜の花、薄紫の薔薇――夜来香イエライシャンでした。

生温かい血の匂いと混じって爽やかな夜来香の香りが何時までも漂っているのでした。

 

**********

 

小夜は自室の窓から遠くに小さく聳える煙突を眺めていました。そこからは微かに細い煙が立ち上っています。

 

――人が焼かれているのだわ。今日は誰かしら。

 

ぼんやりと思いながら、視軸を眼下に広がる庭へと移します。そこには向日葵の花が背高く伸びて、健やかに咲いていました。薔薇は死んだように眠って蕾すらつけていませんでした。

小夜は窓辺から離れて机の抽斗を開けると、小さな箱を取り出して部屋から出、庭へと降りて行きました。

物置から園芸用の小さなスコップを持ち出すと、丁度薔薇の根が張っている辺りを掘り返しました。少し深めに穴を掘ると、傍らに置いた小さな箱の蓋を開けました。箱を傾けて白い欠片を掌の上にのせました。とても軽いそれは先月、亡くなった緑子の骨の欠片でした。どの部分の骨かは小夜も知りません。葬儀に参列し、骨上げの際に掠めるように持ち出したので気に留める暇もなかったのです。

小夜は緑子の骨を少しの間見詰めてから、そっと穴の中へ落としました。別れを告げるように、土を被せていきます。ものの数分で穴は元通り塞がれました。ここに緑子の一部が眠っているなど、誰も思わないでしょう。小夜ただひとり知っていれば良いことなのでした。

 

「緑子さん、また来年」

 

小夜は優しく微笑みました。

どのような形であれ、自分を愛してくれた友人へのせめてもの餞でありました。

 

――緑子のために夜来香が美しく咲くようにと願いながら。

 

(了)

2022年5月30日公開

© 2022 澁澤青蓮

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