ハンナは空の目の下 (十八)

ハンナは空の目の下(第20話)

尾見怜

小説

6,840文字

腰が痛い。ストレッチのやりすぎで腰痛持ちになった。腰痛持ちになりたくなくてストレッチやってたのに

蒔岡邸から東北方に歩いて数分の距離に代々木公園がある。公園として都内五位の広さを誇り、花壇や噴水広場、バスケットやフットサルのコート、野外ライブステージなどの施設も充実している。中央広場には大量のテントやタープが設置され、ステージなどが設置されさながらロックフェスのような様相を呈していた。フィルはデモイベントの地方からの参加者に無償でテントを開放し、金の無い若者でも大丈夫だよ感を演出していた。アメリカからの支援を得た広告戦略と各種SNSを利用した激烈なPRはネット上を席巻し、このイベントのアイコンである河合マルテはインターネット上で様々なコラボ、動画出演、ちょっとした炎上などをして盛り上げた。
代々木公園に大量の若者が集結しつつあった。オシャレで楽しくて若くて多様で文化的なデモイベントが胎動していた。
その数既に二万。マルテは当日は十万人以上の若者が集まるだろう、とおもった。集まってなくてもそういうことにしとこう。
マルテ達の影響力は本物で、基本働いていない暇人たちはなにやらおもしろそうだとおもって代々木公園に足を向けた。
風船で飾り付けられたアーチを抜けて、政治運動と言うよりかカラフルでフリーな精神を前面に押し出した、ピースフルでユーモアに満ちた個性豊かっぽい感じである。
中でも小説家、映画監督、音楽家、各種評論家などの文化人たちは自身のフォロワーに対して参加するよう呼びかけたし、蒔岡リュウゾウに用無しとされた元官僚や元政治家たち、一部の浮かれた純粋右翼から極左活動家までも自身の影響力を最大限に発揮して参加者を全国から募ったのである。すべては民主主義の復活というお題目へ向けて思想やら価値観やらが全て集約されてここ代々木に集まっていた。特に元政治家の連中はこれを機に自身の影響力を増そうと目ぇバッキバキでがんばっていた。お金と権力が心から大好きで、それに向かって一直線に努力していたのに、蒔岡リュウゾウによって全部パーにされた。またあの青春の日々を取り戻そうとしていた。それぞれがこれからは激動の時代だとか、変化に適応せよとか、世の中はガラッと変わる、とか派手なことを言って回って信者たちと気持ちよくなっていた。
屋台も中央広場を囲むようにしてたくさんあった。ホワイトシチュー、富山ブラック、ザンギ、讃岐うどん、カレー、焼きトウモロコシ、牛ステーキ串など、絶対にうまい、常に食べていたいようなものを出す屋台が軒を連ねていた。
ハンナはマルテへの怒りで我を忘れていたつもりでいたが、実際は全然忘れておらず、後でなにか食べよ、とおもった。特にトウモロコシの焼けた醤油の匂いすっげぇ。食べたくて狂いそうである。
大量のテントとその辺でギターを弾き語りして人を集めるもの、サッカーボールでアクロバットなリフティングを披露する者、ジャグリングをする者、コスプレをする者、とにかくおもろくていけてるやつがたくさん集まって楽しくて気持ちよい、正しい感じの雰囲気を加速させた。

一際大きい、運営責任者用のタープがあったのでハンナはそこにエロそうな姉ちゃんと話しているご機嫌なマルテの姿を見つけた。デモ用に作ったTシャツを姉ちゃんとおそろいで着ていて、むかついた。
「ちょっと!」
ハンナは怒っていた。マルテはハンナの怒っている表情を一見し、表情が曇った。もうわかりやすいくらいに超不機嫌になった。マルテはめんどくさっ、とおもった。関わると長そうだな、ともおもった。自分はこのイケてるイベントの責任者でいろいろやっつけなきゃいけないことがあるので、ひとりにはかかわってられませんのよ。
「終わったんだけど」
ハンナはこわい感じの低い声でマルテに言った。
「何が」
そう答えるマルテはあいかわらずめっちゃカッコいいが、めっちゃカッコいいとおもっている、と悟られぬためにハンナは眉をひそめた。
「お義父さんのこと」
「あーあーあーあーあー。そっか。やってくれたんだっけ。まだお礼言ってなかったか。マジありがとう。はい。そうだね。おつかれ。おつかれさんでーす。なんか食べる? 富山ブラックって最初どうなの? っておもってたけどマジうまいよ。しょっぱいから疲れてる時にいいよ。うまいんよ」
とマルテは目も合わせずに言った。
ハンナはそんだけ? と言う気持ちになった。うまいんよじゃないよ。
もっとこう、謝罪的な、感情の爆発的なものがあってもよいのではないか。
「あなたが言うからお義父さん殺したんですけど。ってかこの前のなに? 昨日。教室の中でアンタたちふたりでやってんの見たよ。エーコと。まじで信じらんない。なんなんあれ。最悪だよ。ほんとあんたらキモい。マジ無理なんですけど。っていうかなにこのイベント。だっさ。死ねよ」
そこからハンナはマルテへの呪詛を開始した。喧々した感じで文句を言いだすと興がのってくるのか止まらない。
それをきいてマルテは心の底からハンナの相手がいやになった。こういうたのしいイベント中にナイーヴな話をいきなりする女という生き物がいやになった。いやになったとはいえ、すぐやりたくなっちゃうんだけどね。わはは。もともとこんな女どうでもよかったのだ。そもそもこの状態をごまかせる言葉を彼の頭では紡ぐことができない。よって諦めて開き直ることにした。
一方ハンナは自身の今の気持ちをマルテにぶつけたかった。義父を殺してすっごいいやな気持ちになったこと。流産して心身ともにつらいこと。母親をなじってしまったこと。エーコがフーコだったこと。何もかも仕組まれていた事。そして生まれて初めて頑張ったこと。さまざまな未分化な感情が自身でも抱えきれないので整理するためにも会話がしたかった。しかし怒りがまだ収まらない。ある程度文句を言い終わったら、自分の気持ちを話して謝らせて、二度と3pとかしません、愛してるよ、と言わせようと考えていた。
「あかちゃんが……」
そう言ってハンナは涙が出そうになった。なんかもう会話になりそうもない。もうコイツに言ってもしょうがない。ただ、傷ついたことだけは思い知らせたい。朝ドラのヒロインみたいな感じで自分の気持ちを叫びあって傷つき、のちにマルテと分かり合いたかった。恋という電流は今もハンナのからだのなかに残りしびれさせていた。
「悪いけど、イベントの準備に集中したいんだよね。だから当分会えないから」
そんなイベサーの大学生みたいなことをマルテは言った。
「エーコでもフーコでもどっちでもいいけど、彼女の仕事に含まれるの。あれは。気にしないでいいよ」
「気にするよ。最悪だよ」
「あんなのふつうだって」
「エーコはいやがってたじゃん! 泣いてたわ。辛そうに。なんであたしがいるのにエーコとやんのよ」
「そういうもんだよ」
ハンナはマジでなんだこいつ、と怒りを通り越して呆れた。
なにがそういうもんだよだ。とハンナはおもった。
マルテは、わては誰の男でもあらへん。男はきまぐれ風見鶏、自明的に自由なんじゃ。とおもった。
「あんた、ほんとに無いです。マジでダメ人間。人類最愚民」
ほんとにほんとに好きだったけど。とおもったけど悔しくて声に出さなかった。
「別に利用しようなんておもっていないよ。君が勝手に俺を好きになっただけでしょうに」
「うそですよ、フィルに言われてあたしにちょっかいかけたんでしょう、上司の言いなりで」
「自分で考えたんだよ、お前を利用できるって。俺は日本を民主化するためならなんだってやる」
「うそだよ」ハンナは恨みのこもった眼でマルテをにらんだ。徹底的に弾劾してやるつもりだった。
「君には僕たちの覚悟なんて理解できないよ。人権や民主主義について考えたことも無いだろう。色ボケの元ギャルのお嬢さんなんだから」
あたしを色ボケだと。なんてひどい。確かにそうだけどそんなはっきり言わなくても。とハンナはおもった。
「君の色ボケと僕の覚悟が日本の政治をいい方向に戻すんだよ。だからいいじゃん」
「あんたはあたしのDNAを解析して顔と声と匂いを変えたんです。逆らえなかったんです」ハンナは今もマルテに魅力を感じてしまう自分が悔しかった。目の前の男を無条件に肯定したい自分がいる。恋は盲目どころではなく、この男に耳も鼻も支配されているのだ。
「違うな。変えたのは認めるが、それはお前が僕に惚れた理由の一つにすぎないよ。今も僕をひきずってるんだろ? 抱きしめて嘘ついてやろうか。愛してるよ、ハンナって。この声で言ってやろうか。泣くのか? また悔しくて泣くのか?」
「あんたなんかだいきらい」
そう言ったもののハンナの心は既にバキバキに折れていた。いろいろと経験を積んだ四十のおばはんだったのなら口喧嘩で泣き出す、なんてことはなかっただろうが、ハンナは常人よりナイーヴなハイティーンの女子であった。逃げ出したかったが、この男の前から逃げ出したくなかった。この言葉を絞り出すので精いっぱいであった。泣いてしまう。泣いちゃうか。もう。あな悔し。
「無理するな。正直になれよ。おかしいだろう。考えてみろ。きらいならなんで俺に会いに来たんだ。まだ未練があんじゃないの」
マルテは徹底的に追い込むつもりだった。なぜなら感情的な女がきらいだから。怒鳴るのは暴力です。女はこの類の暴力をなぜか自明の権利としてふるいます。ボクはそれを糾弾していきたい。自分の感情を他人に伝えてもいい結果を産むわけがないではないか。自分のことを嫌いなら黙って去ればいい。なぜ女というのはわざわざ文句をつけて自分が怒っていることをアピールするのか。意味が分からない。怒ったり騒いだり泣いたりする人間は皆彼の敵であった。要は、みんな映画やドラマの真似なのだ。現実では冷静に、ゆるく楽しくいこうよ人生は。
「エーコのことが気になったの! エーコどこやった! 教えろよ!」
ハンナは父親譲りの大声で怒鳴った。
先般よりレベルの違う声量で怒鳴ったことにより、遠巻きに気にしていた周囲がざわざわしはじめた。
その大声によりちょっとびっくりしてしまったマルテはさらにむかついた。おれは今の怒鳴り声によって非常に傷ついた。ショックを受けた。身体がビクってなった。その報復をしなければならない。マルテは以前より考えていた、怒鳴った女への対抗措置をしたいなと考えた。1、まず右手で女の左耳をつかむ。それにより逃げられるのを封じる。2、押し倒してマウントポジションをとる。左手で口をふさぐ。この時つかんだ耳は絶対にはなさないように気を付ける。3、右手の親指をたてて、女の左目に突っ込み、押し込む。女の目玉が割れる。もう片方の目も同様に潰す。できれば喉も潰せるとなお良し。
以上の3ステップはマルテが寝る前などに妄想するお決まりのパターンであった。生意気な女がいたら是非やってみたいな、と考えていた。目を潰して口もなんらかの外科措置できけなくする。そうすれば目と口さえつかえなければ女と言う生き物の欠点が解消される。そうすればこの女を心から愛することができるかもしれない。なんてね、うそうそ。無理無理。
もちろんマルテは人目があるのでハンナにそんなえぐい暴力を振るうことはできなかった。だがハンナがぎゃあぎゃあわめいているのでそうしたい気持ちを抑えるのが大変だった。マジこいつうるせえ。声のボリュームイコール説得力だとおもってんじゃねぇの。怒鳴るのだって暴力だろ。男女同権だぞ。
「エーコなんてファッキンビッチもう知らねぇよ。かっこつけて。おまえも正直になれ。あいつみたいに股開いてチンポ入れて下さいって言えよ。今度は避妊してやるからさ」マルテは目の前の感情的な娘を完全に下に見ていた。
「うっわ最悪。死ねよ。あんた、本当に死ねばいい。こんなクソダサいデモなんて潰してやるから」
「たかだか小娘に何ができんのよ。この人数を見てみいよ。この盛り上がりっぷりよ。どうやってつぶすっつうのよ。この公園に一万人はいるよ。明日は五万人くらい来るし。もう蒔岡は終わりだよ。お前のせいだけどね」
「あんたになにがわかるんですか。あの家は……」
「俺が下男として蒔岡に居たとき、あんたの母さん、キレイだったな。あの女、欲求不満だった」
「嘘つかないで」
「いやあ、一目でわかった。男にはわかんだよ。最初ババアだとバカにしてたけどさ、すれ違いざまにほんの少し耳元を触っただけなのに、あんたの母ちゃんはすぐ発情したよ。ははは。そのあとはまあ、あっちゅうま。動物みてぇなセックスだったよ。あの屋敷は広いし暗がりが多いから、やりほうだいだったな。すげえ感度で驚いたもんだ。うるせぇから指突っ込んで口塞がないといけなかった。くっそエロかった。まっったく熟女っていうのも侮れないよねぇ」
「うそだ、お母さんはそんな人じゃないよ! うそだよ!」
「うるさっ。でも本当なんだよなぁ。ジョルジに訊いてみな。あの不細工オヤジも知ってる。熟れた欲求不満の人妻。頭は空っぽだったが逆にそれがよかったなぁ。俺も若かったしやりまくった。他の下男ともやってんじゃないかな。もちろんエリクとも。美術商ともやってたな。あの調子じゃあ誰に迫られても断らないだろうし。とにかく顔と体は最高だったよ。あんたの母ちゃん。喋らせるとすげえバカだけど。はは、ははは」
ハンナは嗚咽とも怒号とも取れない威嚇する動物のような声をあげた。この年代の娘は身内の性について言われるのが一番精神に来る。それをマルテはわかっていた。事実ハンナの目からは頑張ってこらえているにもかかわらずぼろぼろ涙がこぼれた。ぜったいにこの男は間違っている、と殺意が湧いたが、それを言葉に出来ようはずも無かった。虚勢を張って口論を続けていたが、精神的にはコテンパンで、いつ虚勢がはげるかは時間の問題であった。
「そんなに泣かないでくれよ。悪かったよ」
そういってマルテはハンナの頭を優しくなでた。途端に優しくなった魅力的な声色と伴って条件反射的にリラックスする自分が悔しかった。感情は混乱の極みであった。触れられたことによって、マルテの部屋で過ごした時間をおもいだしてしまった。すばらしい時間だった。だが今となっては……
「でもねハンナちゃん。今までいったことは全部本当なんだ。お前の母親はひでぇ淫乱だし、実の父親は家族を捨てたろくでなしなんだよ。お前はそんなどうしようもない両親から生まれてきた子供、バカで他人に利用されるだけの存在ってことなんだ!」そう言って頭から手をはなしハンナの肩口あたりをかなり強く突き飛ばした。バランスを崩したハンナは雨に濡れた芝生に尻もちをついてへたり込んでしまった。宴席での愛のあるからかい方とはわけが違った。純粋な悪意から来る暴言であった。
ハンナは数秒間頭が真っ白になった。心のかけらがそこらに吹っ飛んで散らばったような気がして、おもわず辺りを見渡した。たくさんの人がハンナをみていた。
力を失った肉体とは裏腹に、次第に混乱していたハンナの感情は統合され一方向に発火した。こいつを殺す。
マルテにとびかかり首を絞めてやろうと体に力を入れなおした刹那である。それを分かっていたように周りにいるヒッピー集団がハンナを押さえつけた。さっきまで仲間がライオンに食われているのを見つめるキリンのような顔してたのに、急に元気になって、「こいつ蒔岡の娘だ!」とひとりが叫んだ。周囲が怒気で満ち、さらに注目がハンナに集まった。ひそひそ「独裁者の娘」「ファシスト」「ファッションメンヘラ」などという単語が聞こえて来た。
「どうしますか?」ヒッピーの内の一人が言った。この娘にむりやりエロいことしていいですか、という言外の期待があった。乱れたハンナの着物の裾脇から見える白い腿に欲情した。
「目立つからどっかのテント入って縛っといて。暴れたらおもっきし殴っちゃっていいから。ハンナちゃん、今までマジでサンキューな」とマルテがぼそっと言った。その言葉と声の冷たさに、おもわずハンナはまた体のバランスを崩すほど恐怖した。ヒッピーはすこし残念だった。殴るんじゃなくてその前にエロいことしたいよなぁ、せっかく顔がきれいなのに、とおもった。
ヒッピーどもは女性を殴ることに慣れていないせいか躊躇した。女性を殴ったことのあるヒッピーも中にはいたが、殴ったことがあるのは大体の男性にとってはどうでもよい醜女であり、ハンナのような目力の強い美人は殴ったことが無かった為、劣等感によって殴るのを刹那の間ためらった。
その力が緩んだ瞬間を狙ってハンナは振り払い、NHK方に不格好ながら短距離の選手をイメージした全速力で逃げ出した。着物は乱れ、帯は半分ほどけていた。基本的に運動神経が無いのでたいして走るのは速くないのだけども、ヒッピーもマルテも全然体力が無いので追いかけなかった。それよりも音楽とかお薬とかおセックスとかもっと楽しいことしようよって感じだった。

2021年6月17日公開

作品集『ハンナは空の目の下』第20話 (全23話)

© 2021 尾見怜

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