ハンナは空の目の下 (十九)

ハンナは空の目の下(第20話)

尾見怜

小説

11,791文字

在宅勤務は本当に快適です。この幸せが永遠に続いてほしい

フィルはイベントについて各メディアに拡散を依頼していた。PRとは質ではなく数がキモである。大衆に浸透させるのには小難しい理屈は必要なく、手数に勝れば中身はなんだっていいのだ。なぜなら大衆は事の良し悪しなんて高級な概念を理解することができないのだから。

米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は、蒔岡エリク行政システムメインプログラマ(23)が記者会見で民主主義者の過激なデモへの対応に関し、「非暴力、非干渉を貫く」などの姿勢に一定の評価を与えたうえで、現代的民主国家に戻し蒔岡氏の独裁政権及び権力集中の仕組みに関して批判した。主に故蒔岡リュウゾウ氏から息子であるエリク氏にそのままシステム管理権限が委譲されたことについて、「中世への回帰だ。まるで古代中国王朝の禅譲システムのよう。他アジア諸国への悪影響も考えられる」と権威主義的な社会的価値観を輸出する懸念を述べた。日本政府のメディア対応をめぐり、アメリカ合衆国をはじめとする欧米諸国の視線は厳しい。

・あるライターのブログより抜粋
「『民主主義、とりもどしちゃおうぜデモ』前日イベに参戦してきましたぁ! 場所は代々木公園です。なにより広いから迷っちゃいそう! 屋台も種類豊富だし、アーティストのライブがいろんなところで観れるのでSNSは常にCHECKしておきましょう。疲れたらすぐ休める休憩所が多いのもGOOD◎ テントガチ勢はかなりの多さ。中ではBBQをしたり、ビールを飲んだり各々楽しそうに過ごしています。私の感想としては、このイベントは大成功するとおもいます。人類が蓄積させた真の民主主義への憧れが最高の音楽と相まって化学反応を起こします! 誰もが参加できる、輝ける世界はここ代々木から始まる、いや再開するのかもしれないですネ。主催のフィルさん、マルテさん、幸せな時間をありがとう! スタッフに感謝! 頑張れデモクラシー!」文・はるかわみずほ 二〇四五年生まれ。ライター兼翻訳家。幼少期から十四年間をドイツ、フランスで過ごす。主に女性の恋愛、ライフスタイルの分野で執筆。旅行と食べること、音楽とファッションが大好き。SNS気軽にフォローしてね。

右の二記事のような感じで、ライター、インフルエンサーたちがこぞってこのイベントの良さ、イケてる感じをネットに拡散した。

代々木公園中央広場には地方からやってきた若者たちのテントが大量にたてられていた。
その中でも一際目立つ大きなテントの中にエーコは居た。体に力が入らないので、ずっと寝たふりをしていた。何もかもハンナにばれた。二人が住んでいた教室で3Pなんてどうしようもない変態だとおもわれたに違いない。しかも間抜けなことに自分はセーラー服など着て。もう死んでしまいたい。もはや二度とハンナとは会えぬだろう。大好きでした。うううううーううう、とうなった。エーコは抜け殻のようになって自暴自棄になりつつあった。
毒ガスか何かでこの公園にいる連中を皆殺しにする想像をした。あるいはギターから怪電波を発して、全員を狂死させてしまう想像。とにかくここに居るやつらが大きらいだったし、その筆頭がフィルとマルテのニヤケ野郎二人組であった。
スカートなど二度と履くか、と心に誓い、オーバーサイズのジーンズとだぼだぼの黒Tシャツにこれまただぼだぼの着古したカーディガン姿であった。自らの体のラインを見せたくなかった。
そんな生気が全く無い虚無的な表情になったエーコをみて、ハンナを追い返したことと大量の雑用をひととおりこなして若干疲れたマルテは、エーコに過去最高レベルの性的興奮をおぼえた。この前の痴態、主にエーコの尻やら胸やらがフラッシュバックした。苦しくなるほどに今のやさぐれたエーコは彼の性癖ど真ん中であった。またやりまくりてぇな、とおもった。やりてぇ。やりてぇ。乳触りてぇ。ううう。日本人の女の笑顔はガキっぽくて嫌いだが、無表情でいるとそれなりにうつくしい。だがフィルの許しが無ければエーコとはセックス出来ない。かなしい。
一度やった女を見ると、またやらせてもらえるか否かしか考えられない。マルテに限らず男などそんなもんである。
「おいすー、げんきぃー?」とマルテは桃色の脳内とは裏腹、スピッツのアルバムを聴いた後の人のような爽やかな笑顔でエーコに話しかけた。昨日酔いと性欲に任せて強姦したことへのフォローをするつもりであった。
「……」エーコは無視した。顔も見たくはない。女性にそう無下にされると男はさらにちょっかいを出してくるのでこういった場合無視は悪手であることが多い。
「カート・コバーンみたいな格好してるね。かっこいいじゃん」マルテは軽薄かつ粘着的な感じでさらに話しかけた。エーコはめんどい、とおもった。むかつくのでわけのわからない返答をしてやろうとした。
「メアリー・エドワーズ・ウォーカーを意識してるの」
「誰それ?」
「南北戦争の北軍に居たお医者さん。ずっと男装してたんだって」
「南北戦争? なにそれ?」とマルテは言った。
エーコは、ん? とおもった。
マジで?
「いや……アメリカの。え? しらない?」
「え、南北戦争? 有名なやつなの?」とマルテは答えた。
ん? 有名なやつ? エーコはマルテの返答に疑問を抱いた。その疑問はすぐに氷解し、マルテの無知に戦慄した。
軽蔑の匂いを敏感に察したマルテは、まずい、とおもって、
「ちょっと待って、ググるから。うん。えーとなに? 南北戦争だっけ? えーと」と言った。知らないことはすぐに調べる、という柔軟さを示そうとしたのである。
エーコは考えた。マルテがメアリー・エドワーズ・ウォーカーを知らないのはいい。あまり有名な人じゃない。知っている人間の方がすくない。そこは問題ではない。南北戦争を知らないというのは人としてまずいだろ。すぐ調べるというのはある意味正しい態度ではあるが、それは専門用語などの常識範囲外の語句の場合のみ有効なのであり、歴史における一般常識である南北戦争を全く知らないのでググる、というのはマジでやばい。南北戦争だけを都合よく知らない、というわけでは無いだろう。一事が万事である。彼は歴史全般を自分の人生と無関係であるとみなし、興味を持つことが無いのである。歴史に興味ない人、というのは往々にして存在する。自分の売っているソリューションについて全く知識が無く、エンジニアに丸投げのIT営業、というのは非常に多い。しかしマルテは民主主義者として活動している。いわば思想的背景をもって活動しているわけで、それの裏付けとして最低限の人文学的教養があるはず。その癖にアメリカ南北戦争を知らなかった。このレベルはググればいいじゃん、ということではない。バカを自認しているエーコでもさすがに知っている。二十代後半の男が。アメリカ南北戦争を知らぬ。この事実。この衝撃。エーコは昨日無理矢理犯されたこととは別に、なにか決定的な軽蔑をマルテに感じた。エーコはその理由をとっさに言語化できなかったが、それはおそらく知的好奇心の欠如という言葉に集約されるだろう。
「あー初めて知ったー。アメリカってそうだったんだー。もともとアメリカってイギリスなんだ。へー」とウィキペディアらしきページの概要だけ読んだマルテは言った。ちげえよそれ見てる記事ちげえよ。たぶん独立戦争のページだよ。それはそれでまた別にあんだよ。そうだったんだー、とか適当な一言ですますなよ、とエーコは呆れておもわず笑ってしまった。
引き続き軽蔑の匂いを嗅いだマルテはこれ以上無知をさらすとまずいとおもったのか、しれっとテントから撤退した。
なにが民主化デモだ。なにがロックだよ。なにも歴史の前後関係を知らず、ただその場のニュアンスだけで音楽や政治を捉え、理解することを放棄するような態度であった。フランス革命も権利の章典も知らないに違いない。巷に情報が増えすぎた結果、自身の住む世界の成り立ち、自分がやっていることのバックボーンさえおろそかになり、複雑なようで実は内容がスカスカの世界でこの男は感覚的な生活を送り続けるのだ。こんなペラい男にわたしは昨晩好き放題やられたのか。エーコは途方に暮れた。
もうすぐ雨がふりそうだ。頭痛い。なんか人生やんなっちゃった。とエーコはおもった。こんなしょうもない人間たちに囲まれて一生このテントから出られないのかな、と悲しい気持ちを抱えてダラダラしていた。

一方代々木公園から走って逃げたハンナはNHKのほうへとぼとぼ歩いていた。全速力で走った結果酸素が足りていない頭の中は、マルテへの怨嗟の念のみであった。中国では子供を産まないメスのパンダは殺されるらしい。ハンナもそんくらいカジュアルな感じで国家に殺されてしまいたかった。わたしはもういいのだ。ファックフォーエッエ-―――バ―――、イフユードンマイン。酒飲んでやけくそな気分になりベイビーシャンブルズをうたっていると、依然ダウナーな方向であるけども世界中の社会学者を並べて順番に絞殺していくような気持ちになりたのしくなった。町で意味不明なことをわめきながら笑ったり顔をしかめたりしている人をみかけたことがあったが、今ならその人を理解できる。きっとその人は絶望していて今のあたしのような気分だったに違いない、と確信した。ついにハンナは本物のニヒリズムの中に足を踏み入れた。もうなにもかもがどうでもよくなった。突如襲ってくる恥ずかしさやら情けなさを発散するために売店でことごとく酒を購め、ちょっと飲んでその辺に捨てたりした。一〇分後蒔岡に到着した。途中警備員に止められたが、あたしは蒔岡の娘だ、おかげさまでメンヘラだよ、舐めんじゃねぇよてめぇ、とからんだりした。
ハンナが厳戒態勢の楼門をくぐると、美しかった蒔岡の庭は見るも無残な状態となっていた。壁の外側からゴミやら汚物やら火炎瓶などが投げ込まれ、壁の近くは非常に危険な状態で下人たちも掃除するのを諦めていた。溜池は一部吹っ飛んでおり、循環系を破壊された為水は緑に変色していた。素っ裸のバービー人形を乗せた人をバカにするためのドローンが複数我が物顔で飛び回っており、それを不気味がって爆撃を生き延びた猫たちはあちこち逃げ回り混乱状態にあった。
ハンナはたっだいまぁ、と小声でつぶやいて応接間のソファに寝転んだ。何もする気が起きない。リストカットの方法について考えていると、ジョルジがお嬢、お帰りなさい、と言ってハンナが大好きだった醤油の具合が絶妙なおせんべいと牛乳の配分が完璧なアイスカフェオレを持って出迎えてくれた。ハンナはうれしくて泣きそうになった。食べて飲んだ。粗悪な酒よりうまかった。精神が若干慰安された。
「エリク様と奥様は会いたくないと。とくに奥様は旦那様が亡くなられてからずっとお具合がすぐれません。ありゃ精神的なもんっすね。まじで奥様もそろそろかもしれないです」
「あっそ。しらんがな。まあそりゃそうだよね。あたしも少し休むわ。あたしも精神的にアレだから」
「すいません、休むのは後にしてください。ハンナさん、こちらへ」
そういってジョルジは、だるい、だるいんじゃ、といって抵抗するハンナをなんとか懐柔して蒔岡の地下に案内した。また爆弾でも落ちてくるのか、と勘繰ったが今回は違った。シェルターとはちがう区画、何重ものセキュリティドアを抜けて、広いサーバルームへと出た。さむっ。エアコン効き過ぎ。とハンナはおもった。大量のラック予備の保守部材、電源装置に何かの作業をしているエンジニアたちがなんとなくハンナたちに目礼した。会ったことのない下男であった。ハンナは物理サーバを見るのは初めてだった。へぇー、とおもっていると、
「かつて、財務省とよばれたものです」
とジョルジは一つのブレードサーバを指差していった。初代プレイステーションくらいの大きさの電子機器がLEDを明滅させて、冷却ファンがさぁあああっという小気味よい音を立てて、稼働していた。「金融庁や国税庁等、下にぶら下がってる外郭団体もコンテナ型の仮想化をして格納されています」ジョルジはラックに入っているサーバを次々と指差して紹介していった。
「これが経産省。農水省。総務省。昔は何千の人間で運営していたんですよ。責任も分散されていてどこに問題があるのかあやふやでした。亡くなったあなたのお義父様が削減したのです。機械なら省益とか言い出さないし、コストもバカ安です。おまけに冗長性に優れます。何ペタバイト、ゼタバイトだろうと保存可能なガラスディスクがたくさん入っています。管轄内のデータを集積し、数秒に一回のペースで自らのソフトウェアをアップデートさせます。情報収集、検討、研究、開発指揮、必要な政策立案が、煩雑な根回し無し、超高速に、これ一台でクローズします。私たちが話しているうちにもシステムは日々現れる行政のバグと言うべき問題を最適化しつづけるのです」
「ふーん」
「ハンナさんの脳が一生で処理する情報を一秒とかからずに処理するスペックです」
「……」ハンナはジョルジに初めて嫌味を言われた気がしてちょっとむかついた。
「これらの筐体群は国の心臓であり脳です。これだけはバカ達に奪われてはいけないんです」
「あたしにそれを言って何になるのよ。あ、そうですか、すごいですねーで終わりよ。そのすごさも正直ピンとこないし。せっかく教えていただいてもバカだから理解できませんよ」
「亡くなったお父様に命じられていたんです。そしてこの部屋に案内しろと」
ハンナは義父の名前を出されるとずきりと胸が罪悪感で痛んだ。この先一生付き合っていかなければならない痛みであった。
ジョルジが案内してくれた、サーバの林を抜けた奥の奥、ハンナの知らない部屋だった。
「私も入れない、お父様の執務室です」
だからなんなの? とハンナはおもったが、ジョルジは中に入らずに扉を閉めた。ハンナは見知らぬ部屋に一人取り残された。
そこは小ぎれいな英国貴族風の書斎で、大量の本とディスプレイが置かれていた。
他人の家の中でひとりにされたようで激烈におちつかない。疲れたし眠いし頭痛いしお腹すいてる。
すると室内の照明が薄暗くなり、中央にスポットライトが当たって巨大なホログラムモニターが顕われた。
「こんにちは!」
豚足くらいのサイズの妖精がハンナの目の前に現れた。ハンナはいよいよ頭が完全にバグったか、と悲しくなったが、それはホログラム映像であった。萌え系アニメ調の美少女風妖精で、幼い体つきなのに乳首がギリ見えないくらいの露出度の高い服を着ているのがなんとも悪趣味である。
「……」
「こんにちは!」
「……なに」
ハンナはこんな時にこんなバカげたものと会話をしたくなかった。
「私は蒔岡リュウゾウのバックアップAIです。よろしくね!」
「……なにそれ」
「私には蒔岡リュウゾウの頭脳を落とし込んだAIと、蒔岡家のリソース使用権限が付与されています。蒔岡ハンナさん、あなたは故蒔岡氏の遺言により私の使用権を譲渡されました。あなたの通信端末にアプリケーションをインストールさせていただきます」
「は?」
そのあと呑み込みが悪くしかも酔っぱらっているハンナと妖精の不毛な会話は続いた。
妖精が言うには、蒔岡リュウゾウは自身の思考アルゴリズムをAIへと完全コピーし、蒔岡家の支援用AIとして遺したのだという。使用権限は第一位にエリク、第二位がハンナで登録されているらしい。だからなんだというのだ。
「蒔岡家の行政AIがもつリソースと各種アプリをすべて使うことができます!」
「うん。それで?」
「え? だからぁ、蒔岡家のリソースってすごいから、ほぼ日本で出来ないことは無いってことなんですけど。魔法みたいに電子機器をクラックできますよ。都市OSに直結しているので、信号とかも操作できますよ。あらゆる個人端末にも侵入できます。おもしろいですよ」
「のび太くんじゃないんだからそんなことして遊ばないよ。ほんとどうでもいいよ……このために呼んだの?」
「予想してたリアクションと違いますね。なんかあったんですか?」
「なんかありまくりだよ。もうひどいのよ。死にたいのよ。でもお義父さんに相談してもしょうがないし。そもそもAIだし」
「そうですか。しょうがないですね。じゃあ要件だけ済ましてしまいましょう。これをご覧ください」
妖精は別の巨大な立体動画をハンナのやや前方に投影した。さらに部屋の中が暗くなった。
「……?」
ハンナは目を疑った。眼前には嫌悪感を一気にマックスまで引き上げる光景が広がっていた。
等身大のハンナが陽性と同じ立体動画によって再現されていた。
初めて蒔岡に来た時に来ていた中学生の時の制服を着て、金髪で十三歳当時の体つきであった。あ、なつかしいなこの制服、とハンナはおもい、なんでこんなんあんのー? なんて訊こうとおもった矢先、
その立体動画上のハンナがするすると服を脱ぎ始めた。奇妙なのはまず手を引っこ抜く脱ぎ方の癖まで自分そのものである点。なんじゃこりゃ。
「ちょちょちょちょちょ、これ昔のあたしじゃん、なんで脱いでんの、やめてよ、とめてとめて」
「無理です。最後まで見てください。力作ですから」
目の前の十三歳のハンナはすっぱだかになった。丸出しになった。
いまと比べると痩せていて貧相である。そして局部をちょろちょろいじって自慰行為したり、カメラに対して淫靡な視線をむけて誘惑したり、謎のダンスをしたり全裸でばかばかしいムーブをしている。そのダンスは時々ハンナが部屋の中で酒飲んでテンションが高いときにしていたものであり、声もハンナにそっくりだった。
ハンナはあっけにとられていた。なにこれぇ。
「故蒔岡リュウゾウ氏は貴方の部屋を約五年間ずっとこの部屋で監視していました。この映像は部屋や風呂場などを盗撮した十三歳のころのあなたの裸をデータ化して、観賞用にモデリングしたものです。いわゆる同人作品ですね」
「は……?」
目の前のハンナは様々な卑猥なポーズをとったり、騎乗位セックスをしているような挙動をしたり、せわしなく動き続けた。セリフもおとうさん、やめて、気持ちいいわ、みたいなAVっぽいものである。ハンナはぎゃああああ、とさけびホログラムを手で消そうと宙をもがいた。
「なにこれ! あたしこんなことしてないよ! これをお義父さんが作ったの?」
「そうです!」義父のAIは若干強めに言った。
「あああああ、やめて、もう止めてよ!」
「あと二時間で終わるのでお待ちを、別の衣装のバージョンもあるので」
「も、ももも、わかった、いいよ、別の衣装にしてもどうせ脱ぐんでしょ。おわりおわり、おわりにして」
ハンナは恥ずかしいやら情けないやらでもうわけがわからなくなった。何だったんだあの親父は。立派な人間なんじゃないのか。日本一の賢者ではないのか。あんな難しい事ばかり考えていて、正直尊敬していたのに。
「もういい、なんなの。帰るわ。キモいんだよ」
「ちょっとまってください、まだ終わってません」
「なんでこれを今、あたしに見せる必要があんのよ」
「蒔岡氏はこれを最終的にあなたに見せるのを想定して作りました。死んだあなたのお義父さんはこれをみて恥ずかしがるあなたを想像してまた興奮していたのです。趣味人ですね。だから、蒔岡リュウゾウ氏を殺したことを悔やむ必要はないのです。見てのとおり生前の彼は一般的な感性からすると、義理の娘を盗撮して自慰にふける鬼畜の変態ですから。あなたには彼を殺す資格があるのです」
そういわれてもハンナは理解が追い付かなかった。強豪に相対する中東のサッカーチームがごとくドン引きした。端的に言えばあのじじいはロリコンか。それって犯罪なんじゃないんですか? 確かに、こんな映像を作ることは気持ち悪い。はっきり言って最低の人間である。ハンナの無意識下にある人間の格付けのなかで、蒔岡リュウゾウは最高ランクから最低におちた。こんなクズなら殺してもよいのでは、とすこし罪悪感が消え、救われたような気持ちになった。しかし待てよ、とハンナはおもった。
この卑猥な映像は最近作られたものなのでは。
十三歳のハンナを義父が盗撮していたということには変わりないが、ここ最近ハンナが義父を殺そうと夜の散歩を繰り返していた時、義父はお互いの罪悪感を解消するために、このホログラムを作り、死後ハンナに見せた。義父はずっと盗撮をして慰み者にしていた罪悪感を、ハンナは義父を追い詰めて殺した罪悪感を、相殺させるのが目的だったのかもしれぬ。これくらいのことは蒔岡リュウゾウならやりかねない。ハンナに殺される、ということを感じ取った義父は、後にハンナが罪悪感で苦しむということを予期、その解消のために自分を変態クソジジイとして演出したのではないか? とハンナは考えた。
いいようにかんがえすぎか。やっぱり義父はただのロリコンアニメオタクだ。
真偽は永遠に不明である。わからない。彼が何を考えていたのか。ってかもう考えたくない。
「ああもう、ほんとみんなキモいなぁああああああ、死ねよ」
ハンナは頭を抱えた。
「もう死んでますよ」
「うっさいバカ」
ハンナは過去を探った。たしかに巧妙に隠していたが、そんな気もする。十三歳の夏、あたしが薄着で応接間にいるとよく義父と目が合った。ああ。なんてことだ。
「お義父さんはあたしに殺されるって気づいてたの? お義父さんはお母さんと再興した時からロリコンだったの? お母さんのことは好きじゃなかったの?」
「今話している私は蒔岡氏の思考プロセスからうまれたAIであるため、プログラムした蒔岡氏の想定外の質問には一切答えられません。また蒔岡リュウゾウ氏の人格データを一度デジタルに落としているのでどうしたって情緒に関する面は抜け落ちていますが、おおむね思考の道筋や癖などはコピーされています。ちなみにこの私のグラフィックや声は蒔岡氏の嗜好が顕われた結果です。視聴履歴から察するに彼は若いころから女児向けのアニメ、プリキュアシリーズなどを好んで観ていたようですね。それは確かです」
「ああそうですか。質問に答えて欲しかった。プリキュア云々はほんと知りたくなかったよ」
「蒔岡氏はエリクさんとハンナさんにメッセージを残しています。そこに質問の答えがあるかもです。読みますか?」
「はあ、もうなんかどうでもいいですけど。はい」
ハンナがそういうと、前方のホログラムにソファに足を組んで座った蒔岡リュウゾウの姿が投影された。ハンナは生理的嫌悪感を抱いた。公務員は極まるとプリキュアを観るのか。それとも公務員の対義語はプリキュアなのか。そんな滅裂なことを考えていた。
「エリク、ハンナ、私はもう長くないのでこのメッセージを遺言の代わりとさせていただきます。まずエリク、君には行政システムのメインプログラマを継いでもらいます。すべてを教えたつもりです。日本のために私が残した課題を解決し、少しでもこの国を改善させていただければとおもいます。なかなかキツい仕事ですが。君ならできると確信しています。頑張ってください」
「次に民主主義者について。ハンナは彼らの内実を理解しているとおもいますが、私が死ぬことによって活動が活発になるでしょう。エリク、彼らを決して弾圧してはいけません。どんな過激な行動をしたとしても甘んじて受け止めなさい。行政が人民の弾圧をする度に、国家は後退します。大衆の力を甘く見ないでください。ル・ボンは群集心理を強く批判しながら晩年はその群集心理に流されファシスト党を支持してしまいます。ファシズム批判で有名でめたくそ頭がよかった丸山真男も安保闘争という一種のファシズム運動を支持してしまいます。群集心理とは批判者さえ魅了する力があるのです。エリク、私に似て超優秀なあなたでさえ、民主主義思想にのみこまれる可能性があります。気を付けてください。わかりやすいものにはかならず罠があります」
ハンナは自分に対する言及がないことにイライラし始めた。
それより盗撮してたことを謝れよクソジジイ。また殺すぞ。
「君のような知的な人間は他人との交流が増えると幸福感が下がります。思考型の人間は自分の精神に刺激を与えられるので退屈ということをしないのです。個人的な熱狂を手にいれられない人間は集団を作るしかない。彼らは弱さゆえかグループを作るのです。そのグループは同質性に支えられている。他のグループの異質性を攻撃することによって無力感は昇華される。安保闘争という民主主義を否定した運動自体が、民衆の判断能力の欠如を証明しているのです。別にエリートは間違えないとは言わない。でもここまで高度になった国家のシステムを、バカに任せるのだけはダメです。オーギュスト・コントが言うように社会現象の主要な方向を本質的に決めるのは、知の発展なのです。大衆に知の発展はありません。知の発展が無いところに舵を任せてはいけない。ディティールを積み重ねる以外に議論というものは成立しない。その努力さえ怠る人間には、AIが発展した今、なにも為すことができないのです」
「最後にハンナ。君にはいろいろとすまないことをしました。お母さんと仲良く、エリクを支えてやってほしいです。それじゃあばいばーい。よろしくー」
メッセージが終わり沈黙。
ふざけるな。差別的な言動だ。いろいろとおかしいだろ。バカには個人的な熱狂を得ることができないだと? エーコはバカでひきこもりだけどギターの音がすごいんだぞ、ちくしょう。バカだって何かできるはずなんだ、クソ野郎。変態じじい。もう一回殺してやりたい。
なにいってるかまったく理解できなかったが、何年も部屋をのぞかれていたショックがひどく、恥ずかしい行為を頭の中に並べ、悶絶していた。だが、見られていた当人はすでにこの世にはおらず、しかも自分が間接的とはいえ殺した、という事実がまた別のベクトルと濃度で混ざりあい、ガキがドリンクバーではしゃいで飲み物全部混ぜてみました、みたいな複雑な味わいの感情がハンナを襲った。う、うーーーん、みたいな何とも言えない感じを全身にみなぎらせながらうめいた。もう男は誰も信用できない。一人残らず死んでほしい。
「以上でーす。どうでした?」妖精は甘ったるい声でハンナに話しかけた。
「不愉快だった」
「ざんねんですー」
「マジでお義父さんは変態の差別主義者のクソ人間だったんだね。はっきりわかったわ」
「陳腐な感想ですね。頭悪そう。罪悪感は消えましたか?」
「……」
ぜんぜん消えてない。いくらロリコン差別主義者だとしても、殺していい人間など居ていいはずがない。と学校で教わってる。でもそれは間違いなのかもしれない。今の気分では、世の中に居る人間の中で、殺したほうがいい人間のほうが多い気がしてならない。マルテとか。自分とか。
「民主化運動が間違っているとおもいますか?」
「もうわからない」
「そのわからないことを放置していていいのですか? 一冊でも本を読んだりして考えを深めたりしないのですか? あなたは自分のことしか興味ないんですか?」
「……そんな本ばかり読みたくないのよ。みんな。もっと楽しいことがあるんだし。ネトフリとかSNSとかさ」
「一日に一ページも本を読まないひとは、けだものですよ」
「あんだと」
ハンナはむかついた。最近本を読んだ記憶がないからである。なんというか長い文章を頭が拒否しているかんじ。小さいころはよく読んだのだけれど。
「一日に一ページも本を読まないひとは、けだものですよ」
「ちゃんと二回言うな。わかってるよ」
「そんなけだものだらけになったから、蒔岡氏は大衆から参政権をとりあげたんですよ」
「……」
「大半の人々は情報が正しいかどうかを論理的に検証したいのではなく、他人がどう考えているかを知りたいのです。SNSユーザーにそれは顕著です。あるいは手軽に使えるノウハウを知りたいのですよ」
十三歳のポルノビデオを作るジジイの方がよほどけだものではないか、と文句を言いたかったが、AIにそんな文句を言ってもしょうがない。
「ともあれ蒔岡氏が残したものは終わりです。おつかれさまでした。ハンナさん、一刻も早く蒔岡から出てください。ここは十時間後、十万人規模のデモ隊に囲まれます。一部過激な団体も交じっているので、蒔岡邸は非常に危険です」
「マジか」
正直ハンナは思想も政治も男もこりごりだった。最初からそんなんどうでもいいのだ。勝手にやっていればいい、と考えていた。あいつらの性欲にももううんざりだ。もう関係ない。関係したくないのだ。南の島でアイスとか食べていたいよエーコと。ああ、エーコ。エーコのことをおもうと胸が痛む。あの子はなにも悪くない。ひどい態度をとってしまった。謝ったら許してくれるだろうか。初めての友達だったのに。合わす顔が無いよ。
そんなことを考えながらハンナは蒔岡邸を出た。
出たものの、どこにも行くところが無いのに気づいた。
途方に暮れた。
渋谷にも茅ヶ崎にももう自分の居場所は無い。
渋谷パルコから飛び降り自殺するにしても、パルコの屋上に上る力が無い。
酒とかを買うにしても金がない。
雨が降ってきた。

2021年6月29日公開

作品集『ハンナは空の目の下』第20話 (全24話)

© 2021 尾見怜

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