ハンナは空の目の下 (二十)

ハンナは空の目の下(第22話)

尾見怜

小説

17,816文字

夏なので「月と六ペンス」再読した 再読したといっても二十年ぶり

ハンナは新宿辺りをあるっていた。
小雨が降っていることに気付かぬほど疲れ切っていた。
なのに居場所がない。茅ヶ崎にも渋谷にもない。
かといってどこか知らない場所に行く活力も無い。
もう人と関わり合うのは金輪際終わりにしようとおもった。徹夜明けのような重い身体を抱えて仲間とはぐれた兵隊のように歩んだ。考えることは散漫なイメージのみで、庭でみた巨大な空の眼、裸の自分、マルテの部屋に差し込む朝日、「あれ」でみた歪んだ世界、そして海に沈んでいく赤いロッキード・ベガ。度重なるストレスに殴られ続けハンナは酩酊状態にあった。意味なく笑ったり、ぶつぶつ独り言を言って歩いた。雨が降っているせいか新宿は人が少なく、知ってる人なんているはずもない街をふらふらした。つい五秒前に考えていたことを忘れ続け、雨がつめたい、つかれた、という言葉だけが頭にのこった。
風がえげつなくなってきたので、さすがの酩酊ハンナも雨宿りせんといけん、ということで往生した。
新宿大ガード下は雨風を避けるのに好都合だった。豪雨であった。五月とはいえ全身濡れて冷えてしまったハンナは、心細くなりつつも、自嘲的に事態の改善を模索した。とにかく適当な店で新しい服と傘を買おう。そうおもいつつもガードの外に出るのは滝行に向かうようなもので、さあて行こうかな、なんて何度もおもっているのだけども腰が引けてなかなか一歩目が踏み出せないでいた。もうこれ以上濡れるのがだるいししんどい。少しのストレスでさえ受け止められないほど精神が疲弊していた。雨を見つめながらハンナは、ずっとこの雨が続けばいいのに、なんてつまんない少女漫画みたいなこともおもったりした。マルテたちデモ隊は代々木公園でこの雨に苦しんでいるだろう。ざまあ。流されて逝ねや。前髪から水がポタポタと顔に落ちてきて非常に腹立たしいので、髪をかきあげ、持っていたゴム紐を使って全部後ろで縛った。ポニーテールというよりか雑な佐々木小次郎みたいな感じになってしまったが緊急時なのでよしである。
黙りこくって突っ立って目をつぶった。エリクと雨宿りをした十三歳の夏をおもいだしていた。今もアホだが、あの時はもっとアホだったな。
ハンナはここ最近起きたことでまいっていた。繰り返し同じことばかり考えていた。それはハンナの中でネガティブなフィードバックループを為し、やけくそ感は加速していった。
マルテに利用され義父を殺してしまったこと。
「あれ」と空の眼のせいで流産したこと。
マルテがエーコとフィルと3Pしてたこと。
義父がロリコンで自分が十三の時のAVをオリジナルで作っていたこと。
ひとつとっても死にたくなるほどしんどいのに4つですよ。ほとんど下半身がらみなのがまた情けない。何だこの人生は。頭とお腹とあそことヒッピーどもに押さえつけられた首が痛い。
ハンナは、ああもおおおおおお、と大声で叫びながらくしゃくしゃして悶えた。
もう頑張れない。

叫んだ後に気付いたが、ガード下にはいかにも最下層でございって雰囲気の男がひとり段ボールを敷いて座っていた。この国でホームレスは珍しい。どんな人間でも住むとこぐらいは申請すれば行政システムが用意してくれる。つまりなにがしかの目的に基づいてここに座っていることになる。今まで目的意識のかけらも無く場当たり的に生きてきたハンナにとって不思議であった。
「なんでこんな都会のど真ん中に一人で座ってるんですかー?」
ハンナが恥ずかしさをごまかすためにそう訊くとホームレスは警戒しているのか無視した。
無視するとは何事か。
ハンナは腹が立った。
「ちょっと。なんでこんな一人で座ってんのってば」
「なんかクリス・マッカンドレスと似た悲しみというか。逆ソローというか」
ホームレスはめんどくさそうに言った。意外と声が青い。ハンナと同年代だろうか。
「は? 何言ってんの? ぜんぜんわかんない」ハンナは年下かもしれないと感じ、無意識的にマウントを取ろうとわざと強めに言った。
「そんなコミュニケーション不全な所に希望を見出してもいるんだけどね」
「なにそれ」
「いわゆるニヒリズム」
「あたしをバカにすんのがはやってんのか? 言ってる事わかんねんだよ。言ってることわかんない男はみんなきらいなんだよ。理屈に酔ってる感じキモいんだよ。わかるように言えよ。あたしは既に人殺しなんだよ。理性とか忍耐力がとっくに消滅してんのよ。気を使わないとあんたも殺すよ。そこらへん考慮してちゃんとわかるようにしゃべって。マジで。なんでこんなとこにひとりで座ってんだよ」
「はい。すみませんでした。調子に乗っていました。調子に乗るって、グルーヴがあるって言いなおすとかっこいいですよね。音楽をやっている人全員が調子に乗っているともとれますよね。わたしは要はひとりじゃないと調子に乗れないんですよね。ずっと。みんなで大騒ぎするのが苦手なひとっているじゃないですかぁ。オレはそれの極端な例で、いつも一人でいたいと願いながら生きてきました。人嫌いって訳じゃないけど、集団の力学とか論理というものに対して激烈な生理的嫌悪感抱いちゃうんです。それで一人で居続けたらだんだんお金が無くなってホームレスになったのです。行政が用意した施設もなんかいやなので。だからここに座っています。新宿区は炊き出しが多いので素敵です。でもいつも行ってる代々木公園はなんかイベント始まっちゃったし、NGOの炊き出しが当分中止になってここで絶望してるんだよね。ひとりでいたいだけなのにね」
「そうなんだ。あたしもわけあって絶望してんの。いっしょだね。ひとりでいたいってのは同感ですわ。もういいっすわなにもかもが」
「じゃあなんでぼくに話しかけてきたんですか。こんなやばそうなやつに。あんたみたいな若い娘が」
「さあ。ひとりでいたい人同士は気が合うんじゃない」
雨は全然降り止む気配はない。ハンナは濡れるのがだるくて外に行けない。
「あたしハンナといいます。名前は?」
「オレの名前はユニバーサルジョイント」
「なめてんの?」
「名前はあったけど捨てて自分でつけた。気に入ってる」
「あそう。ユニバーサル、ジョイント?」
「そう。ユニバーサルジョイント」
こいつ頭やべえ、とハンナはおもった。だがこの未知の雰囲気を醸すこの感じは義父やエリクにちょっと似ていた。
ハンナは結局こいつの隣に座り込んで話すことにした。ユニバーサルジョイントは慣れてくると結構饒舌で、特に話すことのないハンナは聞き役に回った。ほとんど何をいっているかわからなかったが、ハンナはNHKのアナウンサーのようにうんうん、といい感じで相槌を打って聞いた。
「なんかもうすべてがだるいよね。人生なにもかもうまくいかないし。そもそも人生が始まった時点で負け戦なんだよね。ずっと金無いし。あと両親がクソ野郎だった。それがでかいわ。どこに居るかわかったら今すぐにでも殺してやりたい。あとオレずっと体調不良。なんでだよ。まじだりい。自律神経が生まれたタイミングからぐちゃぐちゃなんよオレ。体のプログラムが狂ってる。ぜったい俺の自律神経よりAIの方が優秀。バナナ食ってマグネシウムとらんといかんわ。バナナ苦手だけど。それで働くとか前提が無理でしょ。動悸とか雨降るとやばい。しんどい常に。こんなん無理だろ、人生ちゃんとやるの」
「わかるわー。わかる。あたしもそんな感じ。ぜったい頭に不具合あるわ。お母さんも異常なくらいバカだし」
クソみたいに卑屈な会話をしつつ底辺二人は盛り上がった。最近起きたいやなこと、悪口、「あれ」などの持病、人生におけるモチベーションがゼロで、少しでもプラスになったタイミングで誰かに叩き潰された経験。ユニバーサルジョイントはハンナに気に入られる気が無いのか、マルテやエリクのようにかっこつける要素が全く無く、自分のダメな部分を率先して開示し、それをエンタメとしておもしろおかしく話してくれるある種のやけくそな爽やかさがあった。ハンナも感化されて自分の身の上話を面白おかしく話した。それは深刻なハンナの人生をバカ話に変換する行為であった。お互いにわかる、わかる、と言いまくった。

「あたしなんか最近人殺したからね。流産もした」
「マジか。やべえな。だれ?」
「義理のおとうさん。ずっと盗撮されてたのよ。こどものころの裸を」
「うわ。えっぐ。だから殺したのか」
「いや、そういうわけではないんだけど」
「理由それだけじゃないんだ。ひでえ親父だね。なんかほんとすげぇな」
「あとさあ、彼氏が親友とやってた。しかも上司と3P」
「あらら。笑える。若いのにどんだけひどい人生やってんだよ。もうやめちゃえよ」
「ほんとだよ。すぐやめたいわ。やめよっかな」
「オレも一度人殺したいよ。むかつくやつらばっかりだし。国保はらえないから医者いけないし。ハンナはすげぇな」
「ひと殺すと罪悪感しんどいよ。今一番それがきつい」
「そうなんだ。じゃあやめようかな」
「でもちょっとすっきりするよ」
「そうなんだ。じゃあやろうかな。ははは」
ハンナはこういう自虐的かつ非倫理的な会話を久しぶりに楽しんだ。エーコと仲違いしてからずっとしていなかった。いわゆる傷の舐め合いである。こういったコミニュケーションは楽しいものだが、お互いに影響を受け合ってダメな人がさらにダメになる場合が多い。この場合このユニバーサルジョイントという男は、ハンナに気に入られたいがばかりに、必要以上に希死念慮を刺激したり、退廃的なものいいをした。今のハンナを全肯定した。それはハンナにとっての心理的な堰を破壊した。やけくそであることがなにかいい事のような気がしてきたのである。
「ユニはさ、これからどうすんの?」
「わかんない。どうでもいい。死ぬんじゃない? 金無いし。強盗とかするかも」
「なんでここに座ってんの?」
「オレはさ、ここ新宿大ガード下の中途半端なところになんか知らんけどフィット感を感じたんだよね。だから座ってるの。ここしかないって感覚があったのよ。なんでかはしらんけど。ハンナさんは行くとこ無いっていってたけどどっかに必ずフィットする場所があるとおもうよ。マジで。あ、説教みたいなの嫌だったら言ってね? 大丈夫? それを一生かけて探すんだよ。それでなんで好きなのか理解するために考えるんだよ。感情を因数分解していって、各要素を検討するわけ。好きなものを理解することを諦めてはいけないんだよね。それだけは絶対ダメ。人は殺しても好きなものを諦めてはダメなんだよね。というか、人生ってそれしかやることないと思うんだよ。好きなものは好き、じゃ動物と変わんないでしょう。それでもわかんない場合も多いんだけどね。自分が何言ってんのかもわかんなくなってきた。オレあんま人と喋んないから。世間とうまくやっていけんのよ。喋ったらなんか知らないけど嫌われて怒られるんだよねオレって。大丈夫? 話通じてるかな? まあ通じてなくてもいいけど。話す練習になるわ。マジありがとう。名前のユニバーサルジョイントっていうのはつながる力があるけどつながらない部品って意味。一つの個体として独立しているの。それは可能性と能力の保持なわけ。つながってしまったら最後、それはある機械の一部分となってしまうだろ? そんなのいやだよ、役に立たなくてもオレはオレでいたいんだよね。つながりありきの人間でありたくないんよ。彼女出来ても多分殴っちゃうし。俺メンヘラだから。はじめてしゃべった。こんなこと。大丈夫?」
「大丈夫だよ」
ただのろくでなしやんけ、という気持ちと、ちょっとうらやましいなぁ、という気持ちがハンナの中で手押し相撲をしながらわちゃわちゃしているイメージが浮かんだ。人間とは筋の通らないわけのわからないことをするものだ。新宿に座ってて何が楽しいの。もうなんもわからんわ。
だがハンナは自分の好きな場所、と訊かれてかんがえた。
まず平塚の海が浮かんだがそれは嫌いな所だ。蒔岡邸は義父のせいで大嫌いになった。エーコと住んだ教室も、マルテのせいで最悪な場所になった。
無い。
好きな場所無い。
周りの世界はいっつもへんで、しっくりこなくて、なじまなくて、ぎすぎすしていて、それにたいしていっつもあわあわしていて。基本逃げてきた。ハンナはわが身の寄る辺なさがいよいよ極まってきたと感じていた。

一方ユニバーサルジョイントの方はというと、暇そうな美人と話ができてかなりしあわあわせな気分だった。自分がかなり己の核に迫った話をしていることに驚いていた。俺はこの娘を利用して、日々考えている事の整理をしているのだ、と気付いた。
ユニバーサルジョイントはすっきりした面持ちでトークに一息ついた。
あーあ! とハンナはクソデカいため息をついた。
「なんでこうなってしまったのかしら」
ハンナはここ最近頭の中でずっと考えていたことを口に出した。それくらいユニバーサルジョイントに対して気を許している自分にすこしおどろいた。とにかく疲れた。
「なんでこうなっただって」
ユニバーサルジョイントは聞き手に回る感じを出した。
「そうよ、なんでこんなひどいことになったのかわからないの」
「なんで止めなかったのか、だろ」
ハンナは説教されるのはいやだったので、話を変えたかったが、ユニバーサルジョイントは許さなかった。
「なぜハンナさんの周りがこうなってしまったか、理由は一つだけだよ。ハンナさんが止めなかったからだ」
「だって日本の政治とあたしはかんけいないよ。あたし頭悪いもん」ハンナはへらへらして言った。自分はあの両親から生まれた純正のアホである。そんな無力感と劣等感がハンナを支配していた。大好きなマルテの顔から発された声と匂いを感じながら、すさまじい侮辱を受け止めてしまい、彼女の精神はダウン寸前のグロッキー状態であった。
「あるよ、あんたはじぶんのちからを過小評価しているよ。今見ているものが気に入らないなら、止めればいい。あんたはいつも見てるだけで怒ったり泣いてるだけ。なにも行動に移さない」
「どうやって」
「あんたにできることはたくさんあるだろ、正直会ったばっかだからたいして良く知らないけど。あるけるし、日本語も喋れる。ネットすることもできるし、顔がかわいいし聞き上手だからオレの機嫌を良くしたりもできる。きっと他の調子にのっているやつらより、更に調子に乗る権利があるよ。オレなんかとちがってハンナさんはすごいとおもうよ。着物も激烈に似合ってるし。たぶんだけど」
ユニバーサルジョイントはちょっとハンナを褒めることによってさらに自分の印象を良くしようとした。だがハンナにとっては、久しぶりに褒められてちょっと気分がよくなったのと、自分がなんとなく考えていた自殺方法の背中を押したという役割を果たした。
あたしにできることってなにかしら。マジで何にもないとおもうのだけど。それはエーコみたいにすべてを吹っ飛ばすことかもしれない。何かを頑張ることは無理。でもエーコのようにテロを起こすことならできるかも。

もっと話したい、と考えていたが、それは彼の性欲も関係していた。当初彼の目論見としては、このびしょ濡れの美人を目に焼き付けて、今夜予定している自慰行為のクオリティを上げようとも思っていたのである。そのアイデアを思いつくと、ハンナの胸のふくらみあたりを凝視しまくろう、という方針を定めた。
しかし話し始めて数分後、彼は自分の下衆さに嫌気がさした。ハンナはこんな自分に対してあけっぴろげに自己開示してくれる、今まであったことのないほど素直な娘だと感じていた。それはハンナの精神状態が限界を迎えており、いつものように気取った態度をとることさえ忘れていることに起因する。ホームレスであるとはいえ、心は紳士でありたい、みたいな今更手遅れな倫理観が彼を縛った。男には往々にしてそういう時がある。彼はエロい視線を送ることを禁止した。あわよくば彼はハンナと恋人同士になって、ボニーとクライドみたいになりたかった。
大ガードから見える新宿の街はようやく小雨になってきたせいか、人が出始めた。信号待ちをしてる何十人かの人たちが、赤から青に変わるのをそれぞれ待っている。
「ハンナ、あのなかにはさ、中年のおじさんがいっぱいいるじゃない」
「そうだね。いるね」
「あの中のどれくらいの人がさ、家族がいるんだろうね」
「大体いるんじゃないかなー。でも最近結婚しない人もおおいしなー」
「じゃあさ、家族がいて、家族を殺したいとおもっている人はどれくらいいるんだろうね」
「さあ。居てもひとりじゃない?」
「俺はさ、全員だとおもうよ」
ハンナはユニバーサルジョイントの眼を見た。顔は汚らしいけど眼だけきれいだった。
「心からおもっている人はそうはいないとおもうよ。でもさ、人間絶対に一か〇で割り切れないとおもうんだよ。めちゃめちゃ殺したくても殺さない人もいるし、ぜんぜん思ってないのに衝動で殺しちゃう人もいるし、大多数はそんなこと考えたことないけど、無意識ではちょっと望んでる人なんじゃないかな。みんなポジティブなことばっか考えてる感じにしてるけど」
「あ、そういうことね」
「だからさ、ハンナだけがおかしいわけじゃないとおもうよ」
あ、この人やさしい、とハンナはおもった。やだー好きになっちゃうよ。
「おれもちょっと働いたことがあってさ。けっこう上手くいってたんだよ。でも自分で仕事を回してておもったんだよね。これは自分の能力を全部使っていないって。なんか3割くらいで自分でもセーブしちゃうんだよ。だって3割で十分なんだから。でもなんか死んでいく感じがしてさ。辞めたのよ。なんで3割でいいかというとさ、仕事自体を無意味だと感じていたんだよ。俺の仕事はさ、売上高を株主にコミットした数字まであげるためにごまかすような処理をやってたんだよ。でもさ、株価なんてさ、ほとんど意味ないとおもうんだよ。意味っていうのは抽象的なんだけど、結局人間にとって大事なものではないとおもうんよ。だから俺の仕事大変で死にそうになってたけどどっか虚しいんだよね。ぶっ殺したい奴がコンスタントに増えていくし。なんかいやんなりましたっつって言ったらさ、めちゃめちゃ怒られてさ。めちゃめちゃ心配されてさ。でもなんか生き返った気がして。だからさ、ハンナもなにもかもやめちゃえばいいんじゃないかな。しらんけど」
そういい加減なことを語りつつユニバーサルジョイントはハンナと暮らす逃避行の日々を心に描いていた。俺はどんなにダメになってもこの娘がそばにいてくれたら平気だ。永遠に、こんなことをふたりで話していようよ。

「大体の人は一か〇か決めずに生きてるんだよ。それか決める能力が無いか。決める能力もピンキリで、おれみたいに人との距離感も決められない無能から、人たらしで優秀な公務員までいるとおもうんだよ。決められる奴って決められない奴の事を本当に見下していいと思うんだよ」
「決められない奴はしょうがないから集団でいるんだよ。それが会社だったり、学校だったり、SNSだと思うんだよ」
「ハンナはさ、一か〇かどっちがあってるかわからなくても、何かを選択できる人だと思うんだよね」
「オレさ、人間って脳とか神経系を定期的にこれ以上ないくらい興奮させたり集中させたりしなきゃ死体に近づいていくんだとおもうんだよ。それを他人に任せているのってどうなんだろうね。スポーツとか映画とか? あれを見るってことは、私は奴隷でいいですって宣言な気がしてならないんだよ。俺だけ? これ俺だけかな? フィットしている場所が無いとこんなこと考えるんだ、っておもうよ」
「AIってこの世のものを全部一か〇で判断してるんだろ? ぜったいはっきりさせるんだろ?」
「そうだね」
「じゃあ空の眼ってどう認識してるんだろうね。あれ、わけわかんないじゃん。急に現れてさ。重力とかどうなってんのあれ」
「さあ。頭いい人もわかんないんでしょ」
「そうだよ。人間には永遠にわかんないんだとおもう。オレたちが高等数学わからないようにさ。オレはあれ人間が認識できるもので唯一、一と〇でくくれないものだとおもうんだよ。逆に言えば、それ以外はぜんぶデジタルに還元できるんじゃないかとおもうんだよ。人との関係とか、感情とか、国民年金とか、地球にあるもの全部」
ハンナはおもった。エーコのギターの音も、マルテへの恋心も、「あれ」のしんどさも全部デジタルに還元できる。そうなのかなぁ。
ハンナが難しい顔をしているので、ユニバーサルジョイントは笑った顔がみたいな、とおもった。わけわかんない話をしてしまった。ここはなんか共感できるような話題に変えよう。
「ハンナは好きなものないの」ユニバーサルジョイントは質問をした。女性に質問することによって、会話を盛り上げたいという目論見があった。あと一方的に自分が話しすぎていると感じ、バランスを取らなくては、とおもったからだ。
ハンナは、特にない、とまず考えたことにまた絶望した。
そういえばあれだけ好きだった仮面ライダーもジュディアンドマリーも最近手を付けていない。マルテと人殺しのことばかりだった。すきなもの、すきなもの、すきなもの……
浮かんできたのは赤い飛行機だった。
それはエーコの好きなものやんけ。嘘ついてどうすんのよ。ほんとに主体性のないやっちゃな。エーコで思い出したけど、エーコのギターも好きだった。ジュディマリのTAKUYAのギターより好き。
「友達の弾くギターの音が好きかな」
「へぇ、友達いるんだ。すごいね。さっき言ってた3Pの子?」
「そう。3Pの子。だからもう友達じゃないかも。ギターうまいんだ」
「女の子がギター弾くのかっこいいよね。どんなの」
「なんか工場みたいな。ノイズっていうのかな」
「なにそれ、よくわかんねぇな」
「どんなのって言われてもね、マジ説明しにくいなぁ。でもね、うるさくてぼやっとしててきもちいいんすよ」
「ふうん、聴いてみたいな」
あたしもまた聴きたいな、とハンナはおもっていた。ものまねによって笑ったエーコの弛緩しきった表情のことをおもうと、なんだか急激にのんびりしたきもちになり、自然でふにゃっとした笑みがこぼれた。あの子にまた会いたいな。
それを見たユニバーサルジョイントは、ハンナの笑顔が自分の胸の奥に思いのほか深く刺さったことにおどろいた。超かわいいな、超かわいいな、と二回おもった。予想以上に美しかったし、ハッピーな気持ちになった。こういう笑顔をする女の子を独占している今の瞬間がうれしかった。そして自分が只の下衆でないことがちょっぴり誇らしかった。性欲を抑えてよかったなあ、と内心ピュアな気持ちでいたが、今夜の自慰はたぶん妄想上のハンナを使ってしまうだろうということもわかっていた。彼は自分が性欲や食欲くらいしか無いシンプルな人間に堕してしまうのを恐れた。その恐れが、彼にとって過剰なほどに文化的な会話をせしめていた。だが、それは時間の問題であり、こんなところに居る限りは避けられないこともわかっていた。
「あたしそろそろ行くわ」ハンナは言った。興味が完全に目の前の男から別の何かに移った顔をしていた。ユニバーサルジョイントはとても残念な気持ちになった。ずっと夜までそばにいて欲しい。夜とは言わず死ぬまで。君の好きそうな会話をし続けるから頼む。そう願った。そう言おうかとおもった。が、今まで生きてきたうえで培った負け負けの精神的な癖が作用して、結局やめた。

「ハンナ!」
ユニバーサルジョイントはなにも考えが無くハンナに声をかけた。
また笑顔がみたいだけだった。
どうしよう。
まだもっと話したい。
「なぁに?」
ユニバーサルジョイントは濡れて水がしたるハンナの腰までのびた長い髪に気付いた。
「髪切ったら?」
「なんで?」
「長いよ。重たいでしょ」
ハンナはちょっとかんがえた。
んんー。まあ切ってみるか。
「そうするー!」と言ってハンナはへへへ、とわらった。
ハンナがまたかわいかったのでユニバーサルジョイントは幸せな気持ちになった。
「じゃあな」
「じゃあね!」

二人は手を振って別れた。さわやかな別れ。しかし、ユニバーサルジョイントの精神にはわだかまりが残った。こんなことならむりやりやっちまえばよかった。紳士ぶるんじゃなかった。
その後ユニバーサルジョイントはなんでもないような女を暴行して捕まった。だがハンナのことは一生忘れられない美化された思い出になった。

ハンナはその足で美容院へと向かった。
美容院の姉ちゃんは着物姿でざんばらのハンナを見て、日本髪でも結うのかしら、と予想していたのだろうが、「エイリアン3のリプリーみたいにしたい」と注文されビビりまくっていた。坊主じゃねぇか。結局は腰まで伸びた髪をおでこ丸出しのシンプルなショートカットに切った。ネットでみたアメリア・イアハートに似せた。エーコに謝るために。マルテへの想いを断ち切るために。あるいはただのノリ。ハンナはかつてないくらい頭が軽くなったので気分があがった。雨による頭痛も少しずつ緩和してきた。
これはちょっとした変身だわ、とおもった。昔ジョルジとよく遊んでいた仮面ライダーごっこ。初期の仮面ライダーギルスは正義のヒーローではない。衝動のままに暴れまわる化け物。
「変身」
仮面ライダーギルスの物まねを久しぶりにやってみた。
なんとなく愉快になり笑った。
美容院の出口近くで、ぎゃああああおおおおお、とキモいおたけびをあげた。
その後そしてケンタッキー言って、オリジナルチキンを四つ食べた。新記録だった。ポテトのでかいのもいった。腹がパンパンになって帯がきつくなった。
そしてコンビニに行って店内で一番アルコール度数が強いとみられる低級ウイスキーをストレートで飲んだ。チキンの油と相まって激しく気持ち悪くなったがそれは無視して、全身に火が付いたような感覚を楽しんだ。

エーコは代々木公園のテント村につれてこられていた。土砂降りの中、皆明日のデモに備えて準備をしていた。そこかしこにあるスピーカが雨音に負けず様々な音楽を宙にはなっており、それはぶつかり合って聴くに堪えない雑音となっていた。エーコはこんなもの聴いているやつは死んだ方がいい、と思うようなだせぇ音楽ばかり流れているのにうんざりしていた。外国の音楽に醤油を数滴混ぜて台無しにした感じのものばかり。
ハンナは今頃どうしているだろうか、とおもった。雨だから頭が痛い、と言って寝ているかもしれない。そんな想像をしてちょっと泣きそうになった。聞こえてくるポジティブなメッセージのポップソングが耳障りだった。僕たちには何でもできる、自由なんだ的なメッセージを込めたそれっぽい歌が流れまくっていた。共に生きましょう。共に生きましょう。共に生きましょう。共に生きましょう。共に生きましょう。共に生きましょう。エーコは生理的反応に近い速度で、いやだよ。とおもった。きっしょ、ダッサ、ふっる、ともおもった。お前らみたいな結局性欲しか無い男共なんて一秒だって一緒に居たくない。無能で他の方法で生きられないからしかたなく一緒に居てやるんだ。でもいやなもんはいやだし、ダサいと感じるのはしょうがない。これを聴いているやつみんな互いの糞食って死にやがれ。
近くでマーク・ザッカ―バーグの写真とケーキを囲んで乾杯して動画撮ってるみたいな奴らもいた。今日が彼の百歳の誕生日らしい。彼らはフェイスブックとかが好きなんだろうか。みんな世界と繋がってハッピーってか。キモいな、みんなまとめて死ねよ。
SNSなんてばからしい。二十歳であるエーコは百歳どころか明日を生きる気力さえ無い、と感じていた。このテントの中は落ち着かない。
フィルがテントの中に入ってきて、
「フーコちゃん、悪い、お礼やってくんないかな、すげぇ人数集めてくれた人がいてさ」
というとエーコは、
「フーコとエーコ、どっちでやればいい?」
「どっちでもいいよ」
はいはい、いわゆる慰安婦ね。どうせわたしは工事現場の仮設便所ですよ。オッケーオッケー。もうどうでもいい。でもこの人たちは戦って死ぬわけでもないし、デモが成功しようと失敗しようとのうのうと生きていくわけで、そうなるとわたしが今あなたたちを慰安せしめる必要ってあるのかしら? ま、もうどうでもいいんだけど。
エーコはフィルにそう命令されるとどんな男でもフェラチオをしなければならなかった。結局エーコに求められていることは絵でもギターでもなくピンクサロンで培った技術だけなのだ。長期間のデモである。男なら溜まるものは溜まるし、解消するなら気持ちよく解消したい。昔からそう決まっていた。それをすればエーコの借金がちょっと減る。昨日やった醜い外見の男は、常にぶるぶる震えていて、常に下半身を出してテントに寝ていた。俺は昔学者だったんだ、といきなり叫んだ。学部長だぞ、国立大学の学部長だったんだ。おれのゼミ生はまだおれが一声かければすぐ集まってくれるんだ。公務員がなんぼのもんじゃ。アカデミズムなめんな。
フィルが連れてきたぞ、乱暴するなよ、と言うと、男は起きて、ようやくマンコできるな、と醜い表情で言った。酔っている。エーコは精神をフーコと入れ替えて、本番はしないわよ、としなを作りながら蓮っ葉な感じで言った。
酷い土砂降りで、誰もが憂鬱な気分になる日だった。エーコはこの男を、常連に技の冴えこれまさに玄妙である、とまで評価された手コキテクニックで元学部長を手早く射精させると、はい終わりー、と言って胸をしつこく揉み続ける元学部長の手を振り払った。自尊心が傷ついた男は「昔は教授だったんだよ」とつぶやいた。すっぱだかのだらしない肉体で、過去の栄光を語るその男は、へなへなになった自身の竿同様酷く情けない姿であった。それをみると前職のピンクサロンで何度も見た光景がフラッシュバックした。狭い個室。ミラーボール。爆音のダサいユーロビート。おれをもっと慰めてくれ、という合図だった。社会の変化にスポイルされプライドを失った、風俗の客に多いタイプである。そういう男は、なんというかただただかわいそうだった。「ろくな研究してなさそうだね」とエーコが言うと期待を裏切られてイラついた男は、エーコの顔に唾を吐いた。キモいのですぐ拭った。おれはこれが一番興奮するんだ、でも俺は悪くない、こういうふうに俺を歪ませた何かが悪い。あるがままの心で生きるのは権利なんだよ。人権なんだよ。人権って知ってるか。と言って笑った。
エーコはフィルたちを呼んで、この元学部長を足腰が立たなくなるまで殴ってもらった。ただ、その後殴ってもらった男たちを全員相手しなければならなかった。皆暴力と酒や薬物に酔っぱらっていてまともに会話できるような知性を持つ男は居なかった。ほぼ全員がスター・ウォーズやアメコミやアニメなどのエーコ的に興味ない話をするので、エーコはうんざりしていた。エーコはその日、生きてる意味全然無いじゃん、って気持ちになり衝動的に首を吊ろうとした。中央広場のさらに中央にあるクスの木で。リストカットでは無く目立つところで首を吊ろうとしたのは、このイベントに対する純然たるイヤミである。
結局、エーコの自殺はすんでのところでフィルに止められた。この男は変なところで人の感情に勘が効く。涙ながらに説得された。悪かった、とも謝られた。既にそういう謝るとかのレベル感では無いだろ、考えろよ、とエーコは突っぱねた。その夜は、自分にあてがわれたちょっといいテントの中でギターをアンプにつながずに弾いた。相手をした中にやたら噛んでくるやつがいたので乳首がひりひりする。ジュディアンドマリーの「クラシック」を弾く。ちょっと救われたような気持ちになったがその音は周囲のどの騒音より小さかった。ハンナのことだけを考えていた。無理に迫ったことを後悔していた。自分がやられて嫌なことを、ハンナにしてしまった。自分はここに居る連中とたいして変わりは無いのではないか。そのことについて考えるのがいちばんいやだった。シンプルに死にたくなった。過去も未来もろくでもなかった。
代々木公園の空にはバカたちがその辺に捨てたゴミをねらうカラスたちがぐるぐる回っていた。もう朝か。また始まるんか一日が。始まるんじゃないよ。いい加減にしてほしい。

フィルは準備の最終段階に入りつつあった。
「この人数なら、蒔岡邸の敷地がいかに広くても、何重にも取り囲める」
「交代で歌い続けようぜ、自由の歌を」
なんてスローガンを掲げつつ本部ではフィルが様々な配下どもに下知していた。トイレは清潔につかえよ。ゴミ箱も満タンになったらすぐ替えること。当日のデモ隊の動線はどうなってるのかしら。うんうんうんうん。うんそれでいいよ。蒔岡邸を囲む感じでね。2万人くらい居ればいいんじゃないかな。声のデカい奴を率先して配備して。なんや準備完璧やな。もっと音楽のボリュームあげて、アゲアゲで行きまっしょう。なんて言っていた。
フィルはまだ若い蒔岡エリクの心を折ることを目的としていた。こんな大量の悪意を長時間受け止めることは、いくら優秀な人間だろうと不可能である、と踏んでいたのである。
もし蒔岡エリクがこのデモを弾圧すれば、途端に国際社会からの非難を浴びることとなる。経済制裁が始まれば今の日本などひとたまりもない。革命政権を発足させ、行政システムを奪い取る。この運動の影のリーダーはわたくし。いいね。

ジョルジは蒔岡邸を離れ、デモの警備に出張っていた。
これから、渋谷スクランブル交差点を中心に何万人ものデモが起きる。
民主主義者に絶対に暴力を働いてはいけない、拘束も鎮圧もしてはいけない、と厳命されていたが、デモ首謀者を誰にも見られることなく暗殺できれば、と考えていた。ここ最近の蒔岡家への被害は目に余る。自分が逮捕されても、いまなんとかしなくては若いエリクの精神が先にやられてしまう。蒔岡家の礎の一部となれれば本望である、と考えていた。ジョルジは、三国志やら時代小説愛好家であり、君主のために忠臣が死ぬ、みたいなこの手の美学に無意識で憧れていた。毎晩吉川栄治などを読みふけり、御恩と奉公の封建世界に酔っぱらっていた。

ハンナは新宿から調布に向かうべく、タクシーを探していた。するとエリクから電話が。
「ハンナ、今どこにいるんだ? おかあさんの具合がかなりまずい。親父のことや連日の騒音で眠れなくって相当参ってるんだ」
「うん」
「うん、じゃないよ。そばに居てやれよ。聞いてんのか。お前の親だろ、勝手すんのもいい加減にしろよ」
久しぶりにエリクにおこられたな、と懐かしい気持ちになった。
「大丈夫だよお兄ちゃん。あたしがなんとかするから」
そう言ってハンナは電話を切った。そしてそのまま、端末内の蒔岡AIのアプリを起動した。
「お義父さん。じゃああれ、おねがい」と言ってハンナは無人タクシーを指差した。
「承知しましたぁ」
画面上で媚びた感じに尻をプリンとさせるアクションで、自分に相対する妖精が腹だたしかった。これの中身は日本一賢いジジイなんだよなぁとおもうと、なんだか人間存在の悲しさを感じた。
ちょっとするとハンナの目の前でそのタクシーが止まった。あっというまに全システムがクラックされている。
「お金払わなくていいんだ?」
「うん。クラックしてますから」
「あんたやっぱ便利だねー。じゃあ調布飛行場までおねがいできるかしら」
「りょうかーい」
端末内の妖精はグーグルマップとトヨタの自動運転アプリと連携し、最短の道を最適なスピードで走り続けた。

一時間ほどで調布飛行場についた。
「じゃあ例のあれ、よろしく」とハンナは端末に話しかけた。
「調布飛行場周辺半径2キロ、ドミネーションを開始しますねぇ」
「うん。それおねがい」
ハンナはFXに全財産つぎ込んでしまった人のような晴れやかな顔をして調布飛行場内を練り歩いた。蒔岡AIはハンナの近くにある全端末、つながっているアクセスポイント、WI-FI、衛星通信をすべてクラックした。周囲の人が続々と電波と端末の不調に気づき、あれ? みたいな顔をした。
後に多くの目撃者が大声で会話しながら飛行場を練り歩く短髪で長身の和服女性を何人も目撃している。目撃はしていたが、目を合わせる人はいなかった。確実に気が違っていると判断したからである。監視カメラの映像はハンナが歩いた時間だけ記録メディアにのこっていなかった。
「管制システムへの侵入……クリア。ロッキード・ベガ、半固体電池への急速充電開始。……クリア。離陸準備開始。機体を滑走路へ、タキシング開始しまぁす」
「……うん。それおねがい」
警備AIも全てクラックされ、指令が無いと動けない現場の人たちは、給料も安いし面倒はゴメンだ、とばかりに悠々と滑走路に向かって歩くハンナをことごとくスルーした。
ハンナは外の滑走路を眺めると、赤い機体が勝手にゴロゴロと動いていた。管制塔の職員はマニュアルの想定に無い異常事態に状況を報告するのみで何も対処ができなかった。
ハンナは若干まだ苦しい腹を抱えて、のそのそとロッキード・ベガに乗り込んで風防を閉めた。ごろごろごろ、と音を立ててハンナを乗せたロッキード・ベガは牽引車に連れられて滑走路の定位置へ着いた。牽引車が離れていく。
そしてゆっくりとプロペラが回転し始めた。
「V1……」
加速。ハンナの横の風景が吹っ飛んでいく。モーター音とプロペラの音が一つに合さり、小気味よい金属的な音へと変わる。どんどん速度は増していく。
「VR……」
ぐん、と体中が斜め後方に押しつけられて、まっすぐ前を向いていた視界がやや斜め上方に向けられた。機首が上を向いたのだ。ハンナは息を止めた。
「テイクオフ。自動制御系正常」
一気にロッキード・ベガは雲の上まで舞い上がった。
上昇をやめて安定飛行に移行した。
「飛んだ!」
後方を見ると飛行場がゆっくりと小さく遠くなっていった。
操縦桿、スロットル・レバー、ラダーペダルをぐにぐに動かしてはしゃいでいたが、すべてのコントロールはAIによってなされていた。
「飛んだ飛んだ飛んだ! 飛んだぞお! みたか!」
ハンナはやけくそであった。あたしはアメリア。どこにいるかわかんないけど見よエーコ。この雄姿を。君の美しい飛行機は飛んだぞ。広告だらけだけど。
「ヘルメットを着けてください」
「うるさい。あたしはこの青空を楽しむんじゃ。でも太陽眩しっ。やっぱつけよ」
「どこに向かうんですか?」
「渋谷駅上空!」
「了解」
ぐん、と右斜めに機体が傾いだ。ハンナは座席に押しつけられるように感じた。
「うお」
「もうちょい優しく操縦してくれる?」
ジョルジとは違って気遣いに欠けるな、とハンナはおもった。
しかし素晴らしい、とハンナはおもった。
青と赤の間、夕方の空に独りぼっちというのは圧倒的に爽快だった。
「お義父さん、宙返りしてみて」とハンナが言うと、機首は大きく重力に逆らい、ぐん、と上昇したかとおもうと世界が一回転した。ハンナは楽しくなり狭いコクピット内で手を叩いて爆笑した。なにこのおもろい感覚。最高最高。すげぇ楽しい。ハンナは自分の思考が物理的に俗世から離れることでシンプルになっていくのを感じていた。
空はハンナが求めていたものであった。なにもかもがすっきりしている。空こそが自分のいるべき場所だと感じた。ここにたった独りでずっと居られたら。下界を見下ろして居られたらどんなにいいか。ユニの言う自分がもっともフィットする場所だ。ここだったのだ。最終地点。逃げに逃げたあたしの最後の場所だ。爽快なり。
宙返りを何べんもやるとハンナは徐々に気持ち悪くなってきた。そういえば自分は車酔いするタイプだった。お母さんがいれば酔い止めのくすりをいつものダサいウエストポーチから出してくれるのに。もうあのウエストポーチすてちゃったのかな。やっぱりデモに突っ込むのはやめにしようかな、と決心がゆらいだ。地面に戻るにしてもどこに着陸すればいいのだろうか? 調布にもどったら多分捕まるだろうし。お義父さんAIを使えば大丈夫かな。考えるのめんどくせぇなぁ。
ハンナはこのまま無限に直線を描いて飛行したい気分になった。下は海でも陸でもどうでもいい。この青空をまっすぐ、飛行機の電池が尽きるまで飛び続けたい。もう地上には降りたくない。赤く美しかった夕景は徐々に暗くなってきた。町に灯が灯る。下を眺めると渋谷の街が見えた。人がうじゃうじゃいる。代々木公園から渋谷の交差点まで、浮かれたパレードも上空から眺めるとなんてことない、蟻の大群みたいで皆殺しにできそうだ。
マルテはどこかな、とハンナはおもった。きゅん、ってなってる心は無視して。
あいつは目立ちたがりだから、絶対に交差点近くのステージに居る。
ハンナはエーコに、「交差点のまんなかにはぜったいにいないでね」とだけ送った。
するとエリクやジョルジからもメッセージが来ていた。
「ハンナ、おかあさんの容体がかなりまずい。戻って来い、もうすぐ死んじゃうぞ、どこにいるんだ!」
「ハンナさん、デモを止めましょう。あなたのおかあさんが危ないです。あの歌と振動を止めましょう」
「んんんー……うん」
ハンナはせっかく空に一人で気持ちがよかったのになんでまた、というざんねんな気持ちになった。もう人と関わりたくない。思い出はいつも悲しい。もうそういうのほんとにいいよ。もう結構だよ。
西の地平線上に青白い光と共に巨大な惑星が徐々に顔を出し始めた。ハンナはさっきまで気持ちがよかったのに、死ぬほど不愉快になった。空中に居るといつもより空の眼は大きく見える気がした。何だこの星、意味わからんしほんとうに気持ちが悪い。そしてマルテのこと、赤ちゃんが流れたこと、そして母が毎日暴力を振るわれていたことをおもいだした。なんであたしもおかあさんも普通に生きているだけなのにこんな目に遭うのか。バカだからいけないのか。もっと本を読めば幸せになるのか。じゃあこの下でデモやってるバカ達はなんだ。マルテたちはエーコに何をしてもいいのか。なんでこんなことになるのだ。空を飛びたかったのはエーコだ。あの教室から脱出したかっただけなのに、なんであたしが飛んでるんだ。わけがわからないじゃないか。
ハンナは空が暗くなっていくと同時にずぶずぶと落ち込んでいった。
落ち込んでいくにつれ、「あれ」が始まった。
コクピットの中がとろけてつるつるになって、なまあたたかい炎がハンナを包んでいった。ハンナは目をつぶって考えた。
そもそもなんだあのデモは。みんな怒っているふりしてるけどそんなに蒔岡が憎いか。なぜエリクの母は爆殺されんといけなかったのか。あいつらはなぜあんなにも運動を欲しているのか。マルテのファンの気持ち悪い女共。なぜあないに頭を振るのか。許せんのは母やエーコやユニバーサルジョイントみたいな、繊細で無能だけども非常に感じのいいひとたちが社会から排除され、蔑まれ、きらきらした目を斜め下にしてはじっこを歩かなければならないのだ。あたしの認知していない、いい感じのにいちゃんねえちゃんたちはこの東京に何万人もいて、デモに参加するような精神の鈍い厚顔無恥の精子糞袋人間に毎日無体な沙汰を受けている。これってどういうことですか? おかしいですよね? おかしくありませんか? 民主主義ってあの頭振ってロックンロールとか言ってるバカ達がこの世を仕切るってことですか? そんなのだめですよね? お義父さん、エリク、そうだよね? まちがってますかね? 自身に言い聞かせるようにしてハンナはこれからやることに関する精神的な準備を進めていた。
結局あたしみたいな脳に不備があってコツコツと努力が出来ない人間は、結局命ごと浴びせかけるようにして一瞬に賭けるしかないのだ。それが唯一、社会に貢献できる道。あたしの場合は、デモのやつらと吹き飛ぶこと。きっと、エリクやエーコならわかってくれるだろう。
ハンナは昨晩書きためておいたエリクへのメッセージを送った。

2021年7月11日公開

作品集『ハンナは空の目の下』第22話 (全23話)

© 2021 尾見怜

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